勿忘草の女神の章 第8節
今回はライファ達は出てきません。
領主クラウディアと、アナハイトの医師ディヴァの話てす。
良かったら読んで下さい。
8
私は一体何者なのか……。
あるいは、何者になってしまったのか……。
全ては三年前、何もかも変わってしまった。
あれは嵐のような一日だった。
あの忌々しい男が屋敷に居座り始めて二週間が経ったある日、あの御方はおかしくなってしまった。あの男に唆されてしまったのだ。私は必死で止めようとした。そして、気が付けば私は嵐の中心に立たされていた。
全てが終わり全てが始める直前、あの男は私の耳元で背筋が凍るほどに冷酷な声で囁いた。
「女神の祝福があらん事を……」
典礼を終えたクラウディアは、自室でひとり身に纏っていた純白の礼服を脱ぐと、それを傍にあるベッドの上に放り投げた。
下着姿となかった自身を鏡の前に立たせると、鏡の中の自分と目を合わせる。
クラウディアは誰もが羨む程の美しい容姿をしていた。とても齢四十を超えているとは、言われたとしてもとても信じられないほどの若々しさと美貌を持っていた。それでいて領主という絶対的な地位と、女神が与えた鮮血の力。今アナハイトの領地で彼女に逆らえる者は存在しないだろう。
しかし、クラウディア本人はそんな絶対的な権力に酔い痴れ、優越感に浸っているような様子は微塵も無かった。鏡に映る自分を見る彼女の顔は、むしろ自分の置かれた状況に絶望しているように虚なそれだった。
いつまでこの悪夢は続くのか……。
頭の中でそう問い掛ける。
自分の吐く息で表面が曇るくらいの距離まで鏡に近付き、鏡の中の自分と目を合わせ、更に問い掛ける。
自分は一体何者だ……。
そっと顔に手を添え、頬から顎に掛けてのラインをゆっくりと撫で下ろす。女性なら誰しもが羨む白い肌。男性なら永遠に愛撫していたくなるような美しい顔。それを何度も、何度も繰り返し撫で続け、手の動きはまるで何かを拭い取るかのように徐々に速まり、更に指先に力が加わる。クラウディアは美しい自分の顔を、まるで粘土でも捏ねるように動かした。まるでふざけているように変顔を作っても、彼女の顔は崩れたりはしなかった。やがて疲れたように手を下ろすと、顔は再び端正な美しさを取り戻す。それを憎しみの込められた瞳で睨み続けるクラウディアは、突如己の顔に爪を立て、それが頬に食い込んだその時だった。
「失礼します。食堂でディヴァ様がお待ちしいております」
ドアをノックする音の後、その向こうから侍女の声がした。
「分かった。今行く」
そう答えるクラウディアの顔は、傷一つ無く美しいままだった。
気が進まない。このまま引き返して部屋に籠りたい。あの男と顔を合わせなくて済むならば、喜んで領主の座を差し出してしまうだろう。そもそも私は領主が務まるような人間ではない。
礼服からドレスに着替え、そんな事を考えながら食堂へ向かうクラウディアの足取りは重かった。
「領主様、御気分でも悪いのですか?」
軽やかさに欠けるクラウディアの足取りを察知したのか、彼女の後に連れ立って歩いていた侍女が心配そうに声を掛けた。
「気のせいです。ところで貴女初めて見ますね。御名前は?」
足を止める事も、声を掛けた侍女の方に顔を向ける事もせず、クラウディアは侍女の名前を聞いた。
「はい。前任の方が御辞めになったので、新しく領主様に御仕えする事になりました。名前は……」
「やっぱり言わなくて結構。貴女もすぐいなくなるでしょうから……」
ハキハキと自己紹介をする侍女に対し、クラウディアはそれを冷たく遮った。遮られた侍女は足を止め困惑するしかなかった。そんな彼女を気遣う事もせず、クラウディアは食堂へ向かった。
食堂の入り口まで到着したクラウディアは、未だ困惑した面持ちの侍女に扉を開けさせた。
食堂は長細い作りになっており、真ん中に長方形というにはあまりに長いダイニングテーブルが設置されていた。だがそんな長く巨大なダイニングテーブルでありながら、席は両先端に置かれた二席のみ。それは普段この食堂で食事するのはクラウディアとディヴァだけであると物語っているようだった。
そして、テーブルの向こう端の窓際にあの男は立って外を眺めていた。
ディヴァはクラウディアが来た事に気付くと、彼女の方へゆっくりと振り返った。外からの日差しに照らされたディヴァの顔は、半分が照らされ、また眼帯をした方の半分は影になっていた。眼帯をした方の半面は、大戦時に負ったと思われる火傷の跡が、眼帯を付けた右目の縁から広がっていた。一体眼帯を外した素顔はどんな醜い顔をしているのか、想像すらしたくない。
そんな事を考えなら、クラウディアは無言のまま、目の前にあるテーブルの席に腰を下ろした。それと同時にディヴァも、後ひとつしかない彼女と逆側の席に座った。
「典礼の後で疲れているのに申し訳ない領主殿」
「いいえ、それより何か御用ですか?」
ディヴァはテーブルに両肘を突くと指を組んだ。若干前のめりなって手で口元を隠すようにする仕草。それを見たクラウディアはディヴァに聞こえないように極小さい舌打ちをした。
あの仕草で話す時は、決まって面倒な話を持ってくる。そもそも、何かない限り普段この男は砦内にある自室で妻と年甲斐もなく淫らな行いに耽っているか、あるいは……。
「領主殿、人払いをして頂いてもよろしいかな?」
クラウディアの頭の中で行われる彼に対する悪評を打ち消すように、ディヴァは部屋の隅に待機している侍女と数名の使用人を人払いしてほしいと願い出た。その声は思いの外大きかった。と言うよりも、今二人が座っているテーブルの形と、座っている場所が原因で、嫌でも声を大にしなければ相手に声が届かないのだ。だがこの作りのお陰でクラウディアのディヴァを見る嫌悪に満ちた顔も、彼に対す舌打ちもバレないのだから仕方がない。
「……わかりました」
そういうとクラウディアは侍女と使用人に目配せをして彼等を食堂から退出させた。
侍女と使用人達が出て行った後、僅かな沈黙を挟み、ディヴァはとても深い溜め息を吐いた。
「一体どうなっているんだ? あの男はお前の言う事しか聞かないだろう。だったら問題を起こさないように言い聞かせるのもお前の仕事ではないのか?」
溜め息を吐いた後、ディヴァの口から放たれた言葉は、まるで領主に対してとは思えない程に豹変した態度を見せた。
しかし、そんな態度を取られたにも関わらず、領主であるクラウディアは沈黙を続けた。
「素材集めは奴に任せていた。選ぶ基準もきちんと教えていた。だが何故だ。何故よりにもよって……」
言葉を口に出す程に堪え切れない怒りを露わにするディヴァは、突然言葉を中断すると歯を食い縛りながらテーブルを手の平で一発叩いて見せた。その様子をクラウディアは黙って見ているしか出来ないでいた。その姿は先程まで頭の中で悪口を言っていたとは思えない程怯えていた。既に彼女の顔はディヴァの方に向いておらず、何もない足元を見つめて、事が治るのを待っている状態だった。
「何か言いたい事はあるかね?」
足元を見つめ沈黙するクラウディアに気が付いたディヴァが、不意に彼女に問い掛ける。それに対し、クラウディアはゆっくりと顔を上げた。
「一体、いつまでこんな事を続けるのですか?」
その声は震え、か細く、辛うじてテーブルの向こうのディヴァに届いた程に弱々しい声だった。だが、それが彼女の一番知りたい事に他ならなかった。
クラウディアの言葉を聞いたディヴァは、ひとつしかない目玉をカッと見開いて彼女を見た。遠目からでもそれが睨んでいるのが分かったクラウディアは再び顔を俯かせ足元を見た。そんな彼女の耳に、ディヴァが席を立ち、早歩きでこちらに近付いてくる音が聞こえてきた。やがて足音が自分の背後で止まると、クラウディアは目を瞑って震えを必死で我慢した。
それからどれ程の時間が経過したのか、恐らく本当は数秒程度に過ぎない時間しか経っていないのだろうが、クラウディアにとってそれは一時以上にも感じられた。背後から伝わる人の気配。そして、それを裏付ける微かに聞こえる荒々しさを隠した鼻息の音。
俯いている自分の背後で、あの男はどんな顔で自分を見下ろしているのか、クラウディアはそれを考えると恐ろしくて動く事も出来なかった。
しかし、そんな恐怖で氷のように硬直するクラウディアを、まるで優しく溶かすように、彼女の両肩にそっとディヴァの腕が触れた。ビクッと震わせる彼女の肩を、その腕は押え付けるように掴んだ。そして、徐々に耳元へ鼻息が近付いてくる。
「……決まっているだろう。私の女神が目覚めるまでだ……」
ディヴァはクラウディアの耳元でそう囁くと、失神寸前に追い詰められた彼女の肩を、今度は横からまるで起こすように強めに叩き、何も無かったかのように食堂を出て行った。
ひとりになったクラウディアは、その後しばらく放心状態が続いたが、やがて心が落ち着いてくると、頭を抱えながらとても深い溜め息を吐いた。
私の悪夢は、まだ終わらない……。
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