勿忘草の女神の章 第6節
良かったら読んで下さい。
2019/4/29 プロット改変により内容を大幅に改変し、結局長くなりました。
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「私達が心の底から笑顔になれるその時まで、子供達が飢えや寒さに苦しまなくなるまで、私達の中で大戦が終わりを迎える事は決して無いのです。私は大戦で夫のグラディオを失いました。大戦でアナハイトの近隣を統治する領主達をまとめ上げ、大戦時には七英雄の一人と称えられました。でも、グラディオが亡くなり大戦が終結すると、国は称賛と冥福を祈る短い手紙とお金を私に渡してそれっきりです。私は手にしたお金でこの教会砦を建てました。生前グラディオが大切に守っていた女神ピプリスの教会を守る為に。そして、今も大戦の悪夢に苦しむ全ての人々の為、私はグラディオから受け継いだ領主の責任を果たす事を誓いました。それを女神ピプリスは見ておられたのでしょう。私の血は人々の傷や病を癒す力を得ました。この奇跡を、女神ピプリスに感謝します……」
ライファが誰にも気付かれないようひっそりと礼拝堂の扉を開くと、女性の声が聞こえて来た。中に入ると砦内と同じく赤い絨毯が引かれ、その正面奥に巨大な女神像が天を仰ぎながら永遠に続く祈りを捧げていた。女神が見上げる先には、円形のステンドグラスがただの天井を神々しいものへと昇華させ、そこから差す陽の光が女神像の身体を優しく照らしていた。その女神像の足元には金色に縁取られた豪華な造りの教壇があり、聞こえてくる声の主はまさにその場所から前にする集まった人々に語りかけていた。
「あの女が領主で、グラディオの……」
入り口の前から物陰へと隠れ、様子を窺いながらふとライファは呟いた。それから礼拝堂の様子を見渡し、二階から下の様子を眺める少女の姿を確認すると、ライファは音も立てずに入り口横の階段を駆け上がった。
二階はテラスになっていて、長細いステンドグラスの窓が一定の距離を置いて並んでいるのがライファの立っている場所から見えた。テラスの先は女神像の背後へと道が続き、それを確認してからもう一度女神像に目を向ける。女神像の背後には金色に輝く巨大なパイプオルガンが存在していた。正面から見上げると音階的に並ぶ音管が、女神像の背中から生える巨大な翼のようにも見え、神々しくも映り、見方を変えれば横に突き出たオルガンの音管は砲筒を想像させ、まるで迫り来るような不安感を掻き立てられた。
また、二階から一階を見下ろした時、ライファは妙な違和感を覚えた。気のせいだろうか、教壇から最前列の長椅子まで妙に距離がある。違和感の正体はこれだった。
ふと教壇と最前列の長椅子の間を凝視する。ライファが常人離れした視力で床を調べるとそこにはかつて長椅子があった事を物語る跡が微か残されていた。つまりこの距離は、後から意図的に離されたのだ。
一体、何のために……。
一見神聖で厳粛な空気が漂う空間だが、一度疑惑の念を覚えると、綻びを紐解くように不穏な空気がライファの体を包み込んだ。
普通ではないライファにとって、普通の場所という場所は存在しなかった。絶えず視界の片隅に違和感を覚え、静寂が支配する無人の空間であろうと、彼の耳には耳鳴りのように不快な何か聞こえてくる。普通の人間には見えないものが見え、聞こえないものが聞こえてくる。それは決して得をする事ではないのだ。
そして、ここも同じく至る所からひしひしと伝わってくる。突き刺すような視線にも似た気配の数々。意味の無い事と知っている為、周囲を見渡す事はしない。もし仮に普通の人間が周囲を見渡したとしても、そこには眼に映るありのままの風景しかないのだから……。
疑惑の念を感じながら、それを一旦心の奥にしまい、ライファは少女の元へと向かった。少女は紺色のドレスにエプロンを身に付けている事から、教会砦で働く侍女だと分かった。少女は近付いてくるライファに気が付くと丁寧に会釈をして、視線を再び一階に戻そうとした。対するライファも少女に会釈を返した。すると少女はギョッとして驚いた表情を浮かべた。
「すまない。驚かせてしまったね」
ライファが少女にそう言うと、少女は少し考えた後、納得した様子だった。
「私こそごめんなさい。驚いたりして。挨拶を返されるとは思ってなくて。あの、本当に私に話し掛けているんですよね?」
そう言うと少女は挙動不審に辺りを見回した。その言動は異質としか言い表せないものだった。
「勿論。君以外他には誰もいないだろ?」
そんな少女の不自然な言動の後でも、ライファは顔色一つ変えず当然な顔をしながら言った。その言葉に、少女は涙の膜の張った潤んだ瞳でライファを見上げていた。
「で、訪ねたい事があるんだ。いいかな?」
「ええ、勿論です。どうぞ」
返事を返すと少女は涙を軽く拭き、ライファに気付かれまいと必死で笑顔を作った。
「じゃあ、下のアレは何をやっているんだい?」
ライファは自然な流れで少女の横に並んで立つと、同じように一階を見下ろしながら訪ねた。
「アレは典礼です。週に一度、村の人々やクラウディア様の奇跡を聞いた旅人が『女神の鮮血』を求めてやってくるのです。今教壇の前で話をされているのが、アナハイトの領主クラウディア・バートリア・アナムスカ様です。見下ろしているのが恥と思うくらい素晴らしい御方です」
そう言いながら領主を見つめる少女の瞳は、まるで女神そのものを見つめるように潤み輝いていた。彼女は心の底から領主を尊敬、いやそれを超える崇拝に近い感情を抱いているのだと感じながら、ライファも少女と同じく領主を眺めた。
領主クラウディアは美しかった。外見だけでは年齢が定まらない怪しげな美貌からは、魔性とも思える独特の雰囲気を醸し出し、淫美な程に潤んだ青い瞳を輝かせ、その全てがまるで人工的に造形された創作物のような不自然な程の美しさを放っていた。
ライファは目を凝らしてクラウディアの瞳の奥を凝視した。
凝視した彼女の瞳の奥は、薄暗く澱んでいた……。
「女神の鮮血って?」
クラウディアに漂う異質な気配を感じながらも、そんな事など微塵も顔に出さず、次にライファは少女の言葉の中に出てきた女神の鮮血について尋ねた。
「女神の鮮血は、クラウディア様の血の事で、その血は傷や病を癒す事が出来るのです。ほら、クラウディアの脇に立ってらっしゃる方がいますよね?」
そう言うと少女は教壇に立つクラウディアから少し離れた所に立っている初老と思われる男を指差した。白髪で右目に眼帯をした全身黒服の男。その男を目の当たりにしたライファの眼には、その男の内から放たれる気配に心当たりがあった。
「あの方はアナハイトの村唯一の医師をなさっているディヴァ様です。クラウディア様の鮮血を万能薬へと調合出来るただ一人の御医者様です」
「さすがに人の血を直接飲んだり傷口に塗ったりはしないよな」
ライファが笑みを浮かべてながら冗談を言った。
「ふふ、ですね」
少女がそう言うと、二人はお互い顔を合わせて吹き出すようにクスクスと笑い合った。
「あ、そうだ。あと変な事聞くようだけど、教壇から長椅子が少し離れ過ぎているように見えるんだけど、アレはなぜ?」
「なぜでしょう? それは私も分からないんです。距離があるせいでクラウディア様の御顔が良く見えなくて残念と言う人々の声を聞いた事がありましたね」
「そうか、色々ありがとう」
少女はライファの疑問を優しい声で丁寧に教えてくれた。答えを知ったライファは、彼女に感謝するとそのまま礼拝堂を出るつもりでいた。
「あの……」
しかし、少女はライファを呼び止めた。
「他にまだ聞きたい事は無いですか? 私の知っている事であれば教えられますが……」
少女はまたも不自然な行動を取った。まるでまだライファと話していたいと言わんばかりに彼女はライファを呼び止めたのだ。振り向き際のライファは少女の表情を横目で見た。彼女の瞳にはまた涙の膜が張っていて、あと僅かで雫が滴りそうな程に膨らんでいた。
彼女はまだ、気付いていないのか……?
少女の涙の訳、加えて彼女の不可解な言動。その全てをライファは理解していた。だが敢えて触れる事はしなかった。そして、自分が少女の事を憐れみの眼差しで見ている事に気が付いたライファは、眉を細めそんな自分に嫌気を感じながら少女からそっと目を逸らした。
「どうしました? 気分でも悪いんですか?」
眉を細めて顔を背けたライファを見て、体調が優れないと思った少女は、ライファの背中に手を添えようとした。すると反射的にライファは身を躱して距離を取った。
「大丈夫。気にしなくていい」
「ごめんなさい。私……」
「本当に気にしなくていい」
突然冷たい態度を取られ、少女は困惑した表情を見せた。いや、それは困惑というよりも、不安や、あるいは自分がライファを怒らせてしまった。罪の意識から来る緊張と怯えを表情一つでライファに伝えてしまう、そんな表情をしていた。
彼女は何も悪くない。ただ俺がこれ以上彼女を憐れみの目で見たくないだけなのだ……。
後悔と謝罪の念に駆られていたのはむしろライファの方だった。自分の持つ力は余計なものまで見聞きしてしまう。だから難解で、人との関わりは極力避けるべきなのだ。他人を憐れむ事が出来る程、自分は決して立派な人間ではないのだから。
そうライファが思い詰めたその時、不意に自分達の方へ向けられようとしている視線の気配を感じ、ライファは瞬時に身を翻し視線の死角へと移動した。
「え、急にどうかしたんですか?」
咄嗟のライファの行動に少女は驚いた。そんな少女を余所に、ライファは死角から一階を覗き込み、自分達の方へ視線を向けた者の正体を探った。突き刺すような気配を辿った先には、ギョロっと見開いた鋭い眼光の大男が、一階の隅から腕を組んで立っていた。
「あの人は……」
何が起きたのか分からずにいる少女は、ライファが様子を窺う先にいる大男を見ながら、そう言いかけた途端、突如として頭痛に襲われたかのように頭を押さえ足元をふらつかせた。ライファは咄嗟に少女を抱き抱えた。
「大丈夫か?」
「あれ、私どうしたんだろう……」
少女自身も自分に何が起きたのか理解出来ない様子で、もたれ掛かるようにバルコニーの手すりを掴んだ彼女の手は小刻みに震えていた。
丁度その時、クラウディアの話が終わりを迎え、長椅子に座っていた人々が次々と席を立って礼拝堂を出て行き始めた。気が付くとクラウディアもディヴァも、大男も礼拝堂から退出しようとしていた。
「あの、ごめんなさい。私……」
「いいんだ。そろそろ行くよ。ありがとう」
そう言うと、これ以上少女を見る自分の目が許せなかったライファは、そそくさとその場を立ち去ろうとした。
「あの……」
立ち去ろうとするライファを、少女は咄嗟に呼び止めた。少女の声にライファは振り向かずに立ち止まった。
「名前を教えてもらっていいですか? 私はエリーって言います」
「俺は……、ライファだ」
「ライファさん。貴方の瞳、女神様と同じ翠玉色なんですね」
「へぇ、女神様もそんな瞳の色をしているんだ」
「貴方なら、私達の事、助けてくれますか……?」
背後から聞こえた少女の言葉を聞いたライファは、咄嗟に振り向こうとした。その時、教会砦の鐘の音が辺りの邪気を打ち払うように響き渡った。
一瞬鐘の音に気を取られたライファは、再び少女の方へ顔を向けた。
しかし、そこには今さっきまでいたはずの少女の姿が忽然と消えていた。
「やっぱり、気が付いていたのか……」
そう呟いたライファの表情は、口元だけ笑みを浮かべながら哀しみに満ちていた。
「エリー、約束しよう。必ず君を、いや君達を救ってみせるよ……」
次にそう呟いた時、その瞳からは憐れみは消え去り、強い意志を宿した翠玉色の瞳を輝かせ、ライファは教会砦を後にした……。
急に登場人物が増えて、人物紹介みたいなエピソードになってしまいました。