勿忘草の女神の章 第31節
『前回までのあらすじ』
大陸全土を巻き込んだ大戦が終わりを迎えて三年。
四方を自然に囲まれたアナハイト領地では、傷や病を自らの血で癒す女神の伝説があった……。
行方不明のソフィアを探すライファとアルゴンの二人。黒幕だと思われた領主クラウディアは偽物であり、本物は既に亡くなっていると聞かされる。
二人はフォクスと再び合流する為、廃墟へと戻りそこで亡霊となったクラウディアと対面する。
しかし、ライファへの不信感とクラウディアの貴族然とした態度に、アルゴンは自暴自棄になり、遂にはライファをも拒絶してしまうのであった……。
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優しさを優しさだと思えなくなっていた……。
向けられる全ての手を振り払い、心を閉ざす事だけが唯一の救いだと思い込んでいた……。
でもそうではないと彼女が教えてくれた……。
だから不幸に見舞われた彼女を放っておく事ができなかった。
それが悪夢に向かう事になるとしても、あの時泣きながら去って行く彼女を追わずにはいられなかった……。
アルゴンは、自ら招いた結果に後悔する余裕さえ無かった。
ただ、今は崩れるように地面に座り込み、蹲って何も考えたくなかった。
目を閉じ、頭を抱え、耳を塞ぎ、五感全てを遮断して無心になりたかった。
しかし、そんなささやかな望みでさえ、現実は叶えてはくれなかった。
無心を望むアルゴンの身体は、まるで巨大な氷塊が近くに存在するかのように凍える冷気に晒された。その不自然な寒さに思わず身震いしながら顔を上げると、生気を宿さぬ瞳で自分を見下ろすクラウディアの姿がそこにはあった。
「……内輪揉めは済んだか?」
現実を拒絶したいアルゴンに対し、それを妨害するのが今まで虚構の存在だと思っていた亡霊だとは、なんという皮肉だろうか。
クラウディアの言葉は、孤独の世界への陶酔を望むアルゴンにとって、極光を帯びた肉体なき身体から放つ冷気と等しく、鋭利な刃の如く冷淡に彼の心を追い詰めた。
「……なんだよ。まだいたのかよ」
アルゴンは再び顔を落とし、不貞腐れながら気怠そうに吐き捨てた。
自分はこんな亡霊にとっても憐憫と嫌悪の対象なのか。つくづく救いようがない。そう思った。
「ここは私の屋敷だ。居て当然であろう」
そんなアルゴンに、クラウディアは隙も与えず正論で更に追い詰める。
心を追い詰められ、その心に残された僅かな正気も削られていく。
「……もう、放っておいてくれよ」
僅かな沈黙を挟み、アルゴンの口から出てきた言葉は、あまりにも弱々しく生気を欠いていた。
もう沢山だった。この会話に意味なんてない。ただただ早く終わらせたかった。
生気を欠いた言葉を最後に、アルゴンは目を閉じ、耳を塞ぎ、クラウディアを拒絶した。
だがしかし、クラウディアはそれからもアルゴンに何かを語り続けた。それが説教なのか、慰めなのかは分からない。分からないが何かを語り掛け続けている事だけは癇に障る程に分かった。耳を塞ぐ手を擦り抜けて、微かに響く言葉達は虚しく彼方へ掠れ消え、少年の心まで響く事はない。今のアルゴンにとって、彼女の言葉は曇った雑音でしかなかった。
しかし、言葉達はまるで意志を持つかのように、アルゴンの耳の奥へと次々に侵入してきた。意味を聞き解けぬ雑音のまま、徐々に自己主張だけを大きくして、頭痛すら錯覚させる耳鳴りへと存在を変えていった。
「ああ! うるさい! もうあっち行けよ! ほっといてくれって言ってるだろ!」
限界は突然やってきた。雑音を己の叫びで掻き消すように、アルゴンは怒声をあげた。
その怒声が理性を一瞬吹き飛ばし、突発的で自身すら予想しない行動を引き起こした。
明確な悪意も持たぬまま、偶然視界を掠めた瓦礫を掴み取り、定かではない標的に目も向けず、瞬発的な憤怒に身を任せ、勢いのままそれを投げ付けた。
その極めて愚かな行為を物語るように、アルゴンは瓦礫を投げ付けた反動で前のめりに地面へ無様に倒れ込んだ。
アルゴンが地面に倒れ込んだとほぼ同時に、瓦礫は地面に落下し、長い廊下に鈍く重々しい音を響かせた。
額をぶつけた。打ち所を摩りながら舌打ちをした。そして残り香のように薄まった苛立ちに身体を痺れさせながら、アルゴンは顔を上げた。
するとそこにクラウディアの姿は無かった。まるで最初から存在していなかったかのように、彼女の姿は音もなく忽然と消えていた。
アルゴンが咄嗟に立ち上がり、自分が犯した過ちと後悔にようやく気付いた時、ライファとクラウディアのどちらも自分の前から消え去っていたのであった。
また取り返しの付かない過ちを犯してしまった。そう思った。
「……ごめん、……なさい」
静まり返った廊下の真ん中で、アルゴンは立ち尽くし、そして絞り出すように掠れた声で呟いた。
「……やっと、言えたではないか」
すると背後から声がした。その声は優しげで、虚を衝いていながら悪意を持たず温もりさえ感じた。
アルゴンがその声に導かれるように振り向くと、そこには優しげな微笑みを浮かべるクラウディアの姿があった。
アルゴンはその姿に記憶の彼方に置き去りにした母の面影を重ね、そして静かに視界を滲ませのだった……。
眼前に広がる霧深い森に、フォクスは警戒の視線を向けていた。
幾多の死線を潜り抜けてきたフォクスは、危機を未然に防ぐ事は、時として戦う事よりも重要であると考えていた。
一瞬視界を掠める動く影。風音に混じる不自然な雑音。直感で不快に感じる匂い。
それ等に疑問を感じ、即座に判断できる経験。例えるならば、獣の嗅覚のように辺りに立ち込める違和感を察知する能力。それが命運を分ける。少なくともフォクスにとってはそうであり、それが自分を自分たらしめる生き方であった。
昨晩の事。弓使いの小男を退けたフォクスは、一晩を路地裏で過ごし、早朝になると人目を避けて町を出た。そして再びアナハイトへと向かう為に馬を走らせ、今まさに森へと立ち入ろうとしていた。
「はぁ……」
一昨日の夜から続く厄介事に、フォクスは飽々しながら煙草を燻らし、何度目かの深いため息を吐いた。
「森の空気がすっかり変わっちまったぜ。またあの人が何かやらかしたな、こりゃ」
フォクスは一夜にして表情を変えた森のざわめきに、アナハイトに異変が起きた事を察し、それをまるで毎度の事のようにライファによるものだと悟ると、呆れ顔を隠せなかった。
しかしその表情は、次第に殺気を宿した不敵な笑みへと変わっていった。
なぜなら、この森に立ち込める危険なざわめきに胸を高鳴らせている自分がいるからである。不道徳と言われようと、危険を娯楽に変換してしまう自分が心の中にいるのだ。
森のざわめきが、この先に死を予感させる危険が待ち構えている事を告げているようであった。自分を死に至らしめるかもしれない者と対峙し、その者の脳天に矢を射止めた瞬間の高揚を想像する。標的を射止めたあの瞬間だけは何度経験しても飽き果てる事はない。それは神など信じぬ無神教者のフォクスにとって唯一信じている言わば真理のようなものであった。
……あの野郎はオレの獲物だ。絶対逃さねぇぞ……。
人知れず胸を高鳴らせながら、フォクスは自ら危険に飛び込むが如く颯爽と馬を走らせた。その輝く瞳は、まるで見果てぬ夢と浪漫を追い求める冒険者のようであった。
だがしかしである。見果てぬ夢と浪漫を追い求めて颯爽と馬を走らせたとしても、この世にそんな眩しいものなんてありはしないのだと現実が嘲笑う。夢は語れば絵空事となり、希望を望めば打ちのめされるのだ。
そして浪漫を追い求める事も例外ではない。フォクスの前には、薄汚れ色褪せた風景が目の前に広がっていた。
夢も浪漫の欠片もなく、それでいて血生臭く悪意を吐き散らす悪党達などでもなく、お揃いの殺伐とした表情を並べたアナハイトの住人達が立ちはだかった。
彼等はフォクスを見るなりぎょっとして驚くと、慌てながら血相を変えて手にする農具を構えた。その慣れない動きの一つ一つが、無理やりやらされているように見えた。だが彼を睨むその無数の目は、敵意を露わにして酷く血走っていた。住人達の敵意は本物であった。
「なんだお前さん等。そんなもん人に向けてよう」
フォクスは馬上から茶化すように言い放ち牽制するが、その顔に余裕の笑みはない。手綱を握っていた右腕はゆっくりと腰の剣へと向かった。それに気付いた住人の一人が、恐怖に駆られ、奇声を上げながらフォクスへと襲い掛かった。
槍のように突き立て迫り来る農具、畑を耕す鍬と呼ばれるものだった。その鍬は四つ又の刃とも呼べない突起が下を向いている為、槍として使うのは間違っているとフォクスは思いながら、素早く剣を引き抜き一刀のもとに鍬の先端を柄から切断すると、驚き狼狽える住人の胸に蹴りを放ち転倒させ、そそくさと馬を走らせた。
「慣れねぇ事するんじゃねぇよ! 畑でも耕してろ!」
突破口をこじ開け、その場を脱したフォクスであったが、心は晴れなかった。
標的を見事に射抜く実力を持つ狩人としての性が敵を欲していた。昨夜仕留め損ねた弓使いの小男の幻影が脳裏の片隅で何度もちらついてフォクスを挑発してくる。二度も対峙し二度も取り逃したのだ。己の矜持に反する失態に苛立ち、同時に好敵手と出会えた事への仄かな期待に胸は再び高鳴りを感じていた。
だがこの森に蔓延る不穏なざわめきの正体は農具で武装したアナハイトの住人達だった。その中に奴は恐らくいないのだろう……。
フォクスは手にする剣を鞘に収めると、鬱蒼と茂る獣道へと逸れ、誰からも見られていない事を確認しながら馬から降りた。彼は馬の頬を撫でて静まるよう宥めた。
「こりゃ、廃墟までは徒歩になりそうだな」
これからの苦労を想像して天を仰いでため息を吐きながら、フォクスは馬の手綱を引いて自らの足で廃墟へと急いだ。
その顔は新たな旅に向かう冒険者のように凛々しく前だけを見据えていた……。
それはまるで独白のように、聞き手を必要とせず茫然と身の上話を淡々と吐き出す行為であった。
弱音であり、泣き言であり、今まで犯してきた罪の羅列であり、なにより少年が今まで歩んできた半生の追憶であった。
自らの口で語られる少年の追憶に耳を傾けるクラウディアは、心を閉ざしていた少年を開口させた者の勤めを全うするように、傍に寄り添い彼の肩にそっと手を添えながら語られる追憶が終わりを告げるまで沈黙を守り続けるのであった。
まるで全てを吐き出すように語り終えたアルゴンは、泣き腫らした顔を拭うと、肺の中を空にするくらいの深いため息を吐いた。そのため息と共に心と身体を蝕んでいた痞が吐き出せたのか、その顔は年相応の溌剌さをほんの少しではあるが取り戻したかのように見えた。
「其方はまだ生きている。贖罪の機会はきっとある。だから絶望などしなくてもよい」
クラウディアは、アルゴンに励ましの言葉を掛ける。自分の弱さに泣き、生きる為に罪を犯してきたアルゴンにとって、彼女の言葉は胸の空く思いだった。なにより、かつて母がそうしてくれたように、クラウディアの姿が我が子を心配し、可能な限りの助言をしようと努める母の姿と重なって見えたのだ。自分を心配し、肯定の言葉を掛けてくれた事がこれ程までに有り難く、心強く、疑心と拒絶のしがらみに縛られていたアルゴンの心を軽くしたのであった。
「貴女は、一体……」
「改めて名乗らせてもらうか。私は生前アナハイトの前領主グラディオの妻だった女。そしてクラウディア・バートリア・アナムスカだった者だ」
クラウディアは自ら自己紹介をした。自身を語る彼女の出立ちは気品を纏っていた。
しかし、その語りし事柄は全て過去形であり、自らそう語った時に見せた彼女の瞳は、アルゴンにはまるで、過ぎ去りし記憶を思い出し愁を帯びているように朧げに写った。
「其方の名前はアルゴンであったな? もう一度尋ねよう。アルゴン、其方は何者だ? 何が目的だ? 答えよ」
不思議な事に全く同じ事を言われたにも関わらず、まるで感じ方が違った。
「……オレは、アルゴンと言います。オレは彼女と約束したんです。彼女を、ソフィアを何があろうと救い出すって。だからオレは何があろうと彼女を救い出したいんです!」
真っ直ぐだった。ただただ真っ直ぐだった。
その眼差しが、その声が、震えた拳と唇が、ただひたすら真っ直ぐであった。
幼さと愚かさと無知と無謀さが混在しながらも、その瞳は一切の嘘偽りを語ってはいなかった。それは心を剥き出しにした本心そのものであった。
「そうか」
本心を曝け出したアルゴンに、クラウディアは呟くと、アルゴンの顔に手を伸ばし頬をそっと触れた。それはまるで人の手に触れられた感触がなく、冷たい風に頬を撫でられたような不思議な感覚に似ていた。
すると心に渦巻いていた負の感情が洗い流されるように身体から抜けていくような気がした。そしてそれと置き替わるように別の感情が流れ込み、脳裏に自身のものでは無い記憶と風景が過った。
血に染まる死体。
美しい花嫁衣装。
封の切られていない手紙の山。
棺の中で眠る美女。
そして、苦痛と後悔と燃え盛る屋敷。
これは全部、クラウディアの過去の記憶?
アルゴンの意識が現実に引き戻されると、脳裏に過った記憶がクラウディアの過去であると理解するのに時間は掛からなかった。
「……一体、貴女の過去に何があったんですか?」
気付けばアルゴンはクラウディアに対する言葉遣いを改め、敬意を示していた。
「始まりが貴女なら教えて下さい。真実が知りたいんです。なんで今こんな事になってしまったのか」
彼女に一体何があり、命を失い、亡霊と成り果てた今も現世に縛られるのか。ただの興味本位ではない。脳裏に流れ込んできたクラウディアの過去は断面的でありながら壮絶なものだったのだと想像できた。そして如何にして今に至ったのか、アルゴンは心の底からその真実を知りたいと望んだ。
その瞬間、底無しの闇が広がっていたはずのクラウディアの瞳に、小さな光が灯るのを垣間見た気がした。たとえそれが願望から来る幻だったとしても、今のアルゴンにはその小さな光に希望を見出す事ができた。
「……ならば語らせてもらおうか。きっとこれが最初で最後になるだろう。良き機会だ。アルゴン、其方には私が何処で生まれどう生きたか。何を行い、如何なる罪を犯し死んだのか、その全てを聞いてもらおう。少し長くなるぞ。覚悟は良いか?」
まるで、真実を知る事に後悔は無いかと念を押すかのように、クラウディアは真剣な眼差しをアルゴンに向けた。それに答えるように、アルゴンは力強く頷いて見せた。
アルゴンの覚悟を信じたクラウディアは、内に秘め続けた想いを今まさに解き放てる事を嬉しく思いながら、それを恥じるように表情には微塵も出さなかった。
そして自らの心境を整えると、彼女はアルゴンにそっと触れながら静かに語り始めた。
自分の生き様を、犯した罪を、まるで聞く者の記憶に自らの生きた証を刻むかのように……。
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