勿忘草の女神の章 第30節
『前回までのあらすじ』
大陸全土を巻き込んだ大戦が終わりを迎えて三年。
四方を自然に囲まれたアナハイト領地では、傷や病を自らの血で癒す女神の伝説があった……。
行方不明のソフィアを探すライファとアルゴンの二人。黒幕だと思われた領主クラウディアは偽物であり、本物は既に亡くなっていると聞かされる。
隠されていた真実が浮き彫りになる最中、ザイテスは住人達を焚き付け、アナハイトを封鎖するのであった。
二人はフォクスと再び合流する為廃墟へと戻るが、少しずつライファへの不信感を募らせていたアルゴンは怒りを露わにする。そんな彼の前に亡霊となったクラウディアが姿を現すのであった……。
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出会ってしまった。それこそが間違いだったのか……。
人として、持ち合わせた感情を完全に殺す事がどうしても出来なかった……。
それは人ならざる者となった今も、まだ人の心を持ち合わせていると自身に言い聞かせる為の行為だったのかもしれない。
助けを求められた。断る理由は特に無かった……。
これは夢か、幻か……。
突如現れた女を、ライファは死んだと聞かされたクラウディアと呼んだ。
確かにこの女はこの世の者ではない。
アルゴンにそう悟らせてしまう程に、女の現れ方は異常であった。
「現世と常世の狭間。俺は死人ではないが生きているとも言えない。お前の眼に映る俺の姿も、お前が思い描いた幻かもしれないし、そうではないかもしれない。人の数だけ答えがあり、見えている世界は無限に存在する」
背後にいたはずのライファは、虚を突くようにぬっとアルゴンの視界の片隅から顔を覗かせると彼にそう告げた。
得てして、人は理解不能な存在を恐れるものだ。
アルゴンは自己の理解の範疇を遥かに超えるライファの言動に底知れない恐ろしさを感じた。
思い返してみれば、この男と出会ったその瞬間から、アルゴンにとって常軌を逸した出来事が身に降り掛かってばかりであった。
度重なる命の危機。壮絶な拷問。致命的な負傷からの生還。極め付けに今目の前には死んだはずの者がその身を極光を帯びながら悠然と姿を現している。
しかしなにより常軌を逸していたのは、他でもない魔剣士という存在。即ちライファそのものだった事にアルゴンは今更になって気付かされた。
そんな事を考えていると、ライファの顔が今まで見ていた彼の顔のようでありながら、別人のように見える気がした。またその表情は一見すると一切の感情を持たないようにも見えながら、狂気にほくそ笑んでいるようにも、怒りに悶えているようにも見える気がした。
だがしかし、それはあくまでアルゴンから見たライファであり、他者から見ればまた違う見え方をするのかもしれない。つまりはライファが説いたように、人の目を通す限り無数の答えがそこにはあり、人の数だけ違う見え方をする世界があるのかもしれない。
そう自分を納得させるも、心はざわつき激しく掻き乱された。現実と虚構の境界線が曖昧ならば、一体何を信じればいいのか。それが分からなくなったからだ。
「クラウディア殿。先日に引き続き感謝する」
混迷を極めるアルゴンの心情を尻目に、ライファは至極当然のように女に近付き挨拶をし、それに女は軽い会釈を返した。その様子は彼等が初対面ではない事を物語っていた。
「先日この屋敷に身を隠した時、アルゴンは気を失っていただろ? その時彼女と出会ったんだ。そして彼女から、今アナハイトの領主をしているクラウディアが偽物であり、その正体がかつて彼女に仕えていた侍女のガラテアである事を教えられたんだ。それが俺が真実を知っていた理由さ。彼女に会わなければ信じてもらえないと思って伏せていたが、誤解を招いてしまったようだ。すまない」
アルゴンが疑問を感じているだろうと察したライファは、アルゴンの方に顔を向け、彼が聞いてくるよりも早く真相を答え、今まで不審を感じさせていた事について謝罪した。
それを目の当たりにしても尚、アルゴンのライファに対する不信感が払拭される事はなく、彼は返事を返さなかった。
その理由を強いて言えば、謝罪に躊躇が無かった事が妙にこなれているように思えて真剣味を欠いている気がしたからであった。
「クラウディア殿、あの時彼は気を失っていた。改めて紹介させて欲しい。彼は……」
アルゴンの心情を気にしつつも、ライファは場を納めようと話を切り替え、女にアルゴンを紹介しようとした。
だが女はライファに手を翳してそれを遮った。女の視線が既にアルゴンを見据えている事を察したライファは口を噤み、女が起こす行動を傍観する事にした。
クラウディアと思しき女。いや、彼女は紛れもなくクラウディア本人なのだろう。
面識がなくとも、その佇まいは上流貴族のそれであり、威圧感とでも呼ぶべき異彩を放っていた。
そんなクラウディアの視線が自分に向けられた事に気付いたアルゴンは、その瞳に引き寄せられるように視線を重ねた。
その生気を宿さぬ瞳は、奥底に深淵の闇が広がっていた。更には覗き込む程に瞳孔が広がり、やがてその闇の中へと吸い込まれていくような錯覚に苛まれ、アルゴンはその身に悪寒を走らせた。抑えようのない手の震えを無理矢理止めようと、ズボンを必死に掴んでいるが一向に収まらなかった。
しかし、視線を逸らそうとしても、刃のような眼力がそれを許さなかった。アルゴンが逸らす事の叶わぬ視線に心の奥底を覗かれているような居心地の悪さを感じていると、クラウディアは彼に対し問い掛けた。
「……若人よ、其方は何者だ? 何が目的だ? 答えよ」
クラウディアから唐突に問われた最初の言葉は、アルゴンにはまるで尋問のように聞こえた。
まるで心の内を無理矢理こじ開け、覗き込もうとしてくる鋭く突き刺すような視線。拒否権を与えず強引に要求してくる高圧的な姿勢。
どいつもこいつも、なんで権力者って奴等は自分の都合を然も当然のように押し付けてくるのか。
何が貴族だ。何が上流階級だ。散々搾取し続けておきながら、大戦で皆が死に物狂いの時には何も差し伸べてはくれなかったじゃないか。
十七年の短い人生の中でさえ、数え切れない理不尽をその身に受けてきた。その殆どが権力を持つ者によるものだった。クラウディアの強烈なまでの印象が、アルゴンの脳裏に焼き付いた過去の残像を呼び起こし、悪虐と傍若を繰り返していた貴族達の姿と重なった。
力を誇示して我儘な意志を突き付ける害悪さ、とりわけ貴族と呼ばれる自分達を高貴な存在だと信じて疑わない奴等にアルゴンは反吐が出る程に嫌悪していた。
だからこそ自分の中の貴族像を変えてくれたソフィアが眩しくて、一層輝いて見えた。そんな彼女を救ってあげたかった……。
だがやはり貴族と呼ばれる奴等は救いようがない。
過去に体験した貴族達の醜態とクラウディアとを同一視したアルゴンは、沸々と憎悪を募らせ、それはもう歯止めを知らぬ程に瞬く間に少年の心を侵食していった。
だがそれは、現世と常世の狭間において、あまりにも命取りな行為である事を彼は知らなかった。
それは、まるで張り詰めた緊張の糸が途切れるのと真逆のようであった。
言うなれば、その糸は今この場の均衡を保つ唯一の防衛線であった。少年はそれを意図せず解いてしまったのだ。
緊迫した意識の合間を擦り抜けるように、何処かで何かが落ち、砕ける音が響いた。アルゴンはそれを言い訳にして、クラウディアから視線を逸らすと、瞬時に音のした方に視線を移した。
だが何も無い。アルゴンが困惑していると、不意に屋敷の至る所から不快な家鳴りが響き渡った。それはまるで何者かが騒ぎ回っているかのように乱暴で、徐々にその荒々しさを増していった。
家鳴りがする方向を頻りに目で追っていると、今度は頭痛すら伴う酷い耳鳴りに襲われた。アルゴンは眉間に皺を寄せながら目を瞑り、歯を食い縛り堪えようとした。
そうしていると、やがて耳鳴りは聞き慣れない呪文のような何かへと変貌し、遠くから響いてくる木霊のようでありながら、耳元の囁きのようにまるで距離感が掴めなくなっていった。ただ得体の知れないそれは、耳にした者に本能的な不安を掻き立てさせる恐ろしさを秘め、アルゴンの五感に多大な障害を及ぼし始めた。
ライファがアルゴンの異変に気が付いたのは、辺りに立ち籠める瘴気に禍々しい淀みが混じるのを感知した矢先の事であった。
ライファが気付いた頃には、アルゴンから放たれる気配は、急激に負の感情に満たされ、クラウディアに対する憎悪に染まり、ライファの眼にはそれが黒い靄となってア彼の身体に纏わり付いているように視認出来てしまう程であった。
「おい、よせアルゴン!」
この空間で邪心を持ち続ける事がどれだけ危険な事か、それを知るライファは、今から起こるであろう出来事を予見し、咄嗟にアルゴンへ呼び掛け、感情の波乱を静止しようとした。だが間に合わなかった。
常軌を逸した光景、人物、出来事の連鎖。神経を擦り減らし、摩耗させ、自ら崩壊へ導くには十分な状況だった。
アルゴンの心身は翻弄され、やがて意識は微睡みを帯びた。
その刹那、視界は霞み目に映る物の色彩が突如として不安定に歪み始めた。まるで世界から拒絶され突き放され、鏡の世界に迷い込んだとでも言うのか、似て非なる場所にいるような違和感がアルゴンを襲った。
周囲の違和感に対し、まるで視界の中に蠢く何かを目で追うかのように、アルゴンが忙しなく頻りに辺りを見回していると、不意に壁に掛けられている絵画の中でソファーに横たわる半裸の美女と目が合った。
美女は自らの美貌に陶酔しているような艶やかな瞳でアルゴンを捕えると、艶かしくそれでいて怪しげな手招きで誘惑してきた。
絵画の美女に魅入られたアルゴンは、不可思議な現状に狼狽え、その表情を嫌悪に歪ませた。
その嫌悪に満ちた表情を見た絵画の美女は、それを誘惑の拒絶と取るや瞬く間に姿を悍ましい怪異へと変貌させ、ソファーからこぼれ落ちるように倒れ込むと、蜘蛛のように地面に四つん這いになった。
それを目にした途端、アルゴンは身の毛がよだち戦慄した。
絵画から這い出てくる。そう思ったからだ。
怪異は裂けた大きな口を開いて醜い乱杭歯を突き出しながら、じりじりと擦り寄るように、しかし確実に絵画の外にいるはずのアルゴンの方へ向かってきた。
迫り来る怪異にアルゴンは恐れ慄き、身を引こうとした。だが足が動かなかった。
腰が抜けたわけではない。何かに脚を引っ張られる違和感に、アルゴンは恐る恐る足下を見た。するとそこには彼を更なる悪夢に引き摺り込もうとする闇が広がっていた。
その闇は、蛇のような病的なまでに細い腕を無数に伸ばし、アルゴンの脚を締め付けていた。
「うわぁぁぁ!」
それを目にしたアルゴンは、心臓が口から飛び出してしまいそうな程の悲鳴を上げて無我夢中で踠き狂乱した。
闇から抜け出そうと踠く度、ずるずると芋蔓のように細い腕が伸び、やがて根本が見えてくる。そこには、引き裂かれたずたぼろの衣服を纏い、脳天から全身を血みどろに染めた歳若い少女と思しき無数の亡霊達が纏わり付き、憎悪と恨み悲しみが入り混じる苦悶の顔でアルゴンを睨んでいた。
「やめろぉ! 勘弁してくれぇ! 仕方がなかったんだぁ! 知らなかったんだ! 騙されただけなんだ! 許してくれぇ!」
アルゴンは情けなく声を裏返しながら、地面をのた打ち回り助けを求める事しか出来なかった。
「退けよ!」
その時、邪悪な世界を引き裂くように、勇ましき掛け声が響き渡った。
アルゴンがその声の持ち主の方へ必死に顔を向けると、そこには後光を背にしたクラウディアが立っていた。すると次の瞬間、家鳴りと共に極光を帯びた突風が彼女の身体から放たれ廊下を吹き抜けた。その威力は凄まじく、窓硝子を振るわせ、絵画を振り落とし、散乱する埃を一蹴した。
その刹那、アルゴンは突風の威力に圧倒されながらも、自身の足に纏わり付いていた少女の亡霊達が、悲痛な断末魔を残して塵滓となって何処へと飛び去るのを目撃するのだった。
気が付くと、そこはただの廃墟の屋敷に戻っていた。埃に塗れた長い廊下の真ん中で、アルゴンは我が身に起きた悪夢に気を動転させながら大の字になって天井を見上げていた。
「大丈夫か?」
アルゴンがよろめきながら上体を起こすと、ライファがそう言いながら手を差し伸べてきた。
しかし、不意に視界へ入って来たライファに、アルゴンはぎょっと顔を引き攣らせると、その手を払い退け、恥じらいも捨て転げ回りライファから距離を置いた。
「今のはなんだよ! あれも魔剣の力なのか? オレに幻を見せて脅かして何が楽しんだ!」
アルゴンは頭を抱えながらライファを怒鳴り散らした。
しかし、怒鳴り声とは裏腹にその縮み上がった体から放たれる気配は恐怖に支配されていた。
「あれは幻ではない。だが現実でもない」
「はぁ? 意味分かんないよ!」
「さっきも言っただろ? 見え方は人の数だけ存在すると。お前には何が見えた? 相当恐ろしい何かが見えていた様子だったが……」
怒りに喚くアルゴンに、ライファは彼をこれ以上刺激しないよう冷静に答えた。
しかし、それさえも逆効果だった。今のアルゴンには、その言葉が冷淡で無感情に聞こえた。まるで自分が恐怖に苦しんでいる現状に、ライファが全く関心を持っていないように思えたのだ。
事実がどうであれ、アルゴンの目と耳を通した真実はそうなのだから誰にも否定する事など不可能だった。
怒りと恐怖の土壺に陥り、更には尋問紛いの含みのある問い掛けをされ、アルゴンは遂に対話すらも拒絶してしまった。
「……どうしても、どうしても言いたくないんだな……」
差し伸べた手を振り払われるよりも強烈な、そんな拒絶を前にして、ライファも遂に口を閉ざしてしまった。
アルゴンにとって、自分はもう救いを齎せる存在ではなくなっていたのだ。
それを痛感したライファの瞳は落胆し悲しげであった。
それを目にせずとも、その沈黙はアルゴンの心に重く伸し掛かった。それを罪悪感と呼ぶには随分と都合が良過ぎると知りながら、少年は拒絶と沈黙以外の逃げ道を知らなかった。
「この場に俺は相応しくないようだ。……外の様子を見てくる」
肩を下ろし諦めたようにそう言い残すと、ライファはその場から消えるように静かに立ち去っていった。
拒絶と引き換えに追求を逃れた少年は、その哀しき背中に後悔の眼差しを向ける事さえ出来ずにいるのであった……。
前回の投稿から一年近く間が空いてしまい、この物語の登場人物達、そして何よりこの物語を読んで頂いている方々に大変申し訳無いと思っています。
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