勿忘草の女神の章 第29節
『前回までのあらすじ』
大陸全土を巻き込んだ大戦が終わりを迎えて三年。四方を自然に囲まれたアナハイト領地では、傷や病を自らの血で癒す女神の伝説があった。
行方不明のソフィアを探すライファとアルゴンの二人は、領主クラウディアのもとへ辿り着くが、その正体は侍女のガラテアだった。更なる真実を求める最中、自警団の乱入により二人は教会砦を脱出する。その後サリーナに匿われるが、ザイテスは住人達を操りアナハイトを封鎖するでのあった……。
29
私が最期に観た光景は、唯一信頼を寄せていた者に裏切られ、倒れた末に見上げた燃え盛る天井だった……。
物心付いた時から全てに関心を寄せず、それでいて全てをくだらないと考え、全てを憎んでいたような気がする。
そんな私を変えたあの人はもういない。
今はただ、無力に行く末を深淵の底から覗いている……。
暁が訪れ、東の山頂から朝日が顔を覗かせ始める時刻。アナハイトに激震が走った一夜が静かに明けようとしていた。
領主クラウディアを女神と崇め狂信し、自警団のザイテスによって駆り立てられたアナハイトの住人達は、夜通し村中を捜索した。森の向こうの町への道は封鎖され、教会砦には肉の盾と化すように、農具を武器にした若い男達が守りを固めた。
しかし本来の目的であるライファ達は、その苦労も甲斐なく見付け出す事ができなかった。
有益な情報は無く、加えて睡魔と寒さに耐えながらの捜索であった。やがて焚き付けられるように燃え上がった忠義心も、時が過ぎると共に燈へと変わり果て、朝を迎えようとするアナハイトは、まるでそんな住人達の行末を暗示するかのように深い深い濃霧に包まれていた。
一方その頃、サリーナの家の裏手にて、三人は別れの言葉を交わしていた。
「うちの子も眠ったし、私は疑われないように外でアンタ達二人を探すフリでもするよ」
これ以上関わりを深めてはいけないと互いに理解していた。言ってしまえば互いに恩も義理も無い赤の他人である。サリーナが何故ライファ達を手助けしたのか、その理由をアルゴンだけが知らなかった。
ただ真相を語る程、彼等の距離は近しくもなかった。ただ察して沈黙する事が互いにとって正解だったのだ。
「じゃ、これで」
「うん……。別れ際の言葉には疎くてね。なんて声掛けたらいいか分からないよ」
店を切り盛りしている時とは別人のように、サリーナは歯切れの悪そうに言葉を詰まらせた。まるで過去にも同じような場面に出会い、取り返しの付かない失敗をしたかのように、そしてその失敗を繰り返さないように、彼女は持ち得る知恵を振り絞っているようにも見えた。だがそう簡単に粋な言葉は出て来てはくれなかった。
「熱りが冷めたら、また食事しに来るよ。それじゃ、また」
思うように言葉が出ないサリーナに、ライファはそう告げるとその場を静かに立ち去った。彼女はその背中へ小さく手を振る事しかできなかった。
その様子に複雑な面持ちを向けるアルゴンだったが、沈黙を貫き深く頭を下げるとライファのあとを追おうとした。
「ちょっと待って」
すると今度はアルゴンに対し、サリーナは声を掛けた。呼び止められたアルゴンは振り向かず歩みだけを止めた。
何故かこの時、彼女に返答に困るような事を言い出されるとアルゴンは悟っていた。
「奴等との関係、あの旦那は知ってるのかい?」
そう質問するサリーナの声は先程とは変わり、少し冷淡に聞こえた気がした。そして彼女のその質問に、アルゴンは咄嗟にライファの方を確認した。彼は二人のやり取りに気付いていないのか、足を止めずこのままでは濃霧で見失う程に段々とその場から離れていった。
「まあいいさ。理由がどうであれ、アンタや奴等がどうしようとあの旦那は強いだろうから心配はしてないよ。足止めして悪かったね。さぁ行きな」
自分の発した言葉に沈黙してしまったアルゴンと、去り行くライファを確認して察したのか、サリーナは自ら答えを出すかのように、そう告げると言葉の呪縛からアルゴンを解放した。
「……どうなるかなんて分からないけど、オレには待ってる人がいるから。だから、……最期まで行くよ」
それは絞り出すかのような、震えながらも精一杯の宣言であった。背中を向けながらそれだけを告げると、アルゴンはその場から走り去った。その頼りない背中をサリーナは黙って見送る事しかできなかった。
それが覚悟の現れか、ただの自暴自棄か。結末が訪れたその時まで分からない。ただ己に課した約束を守る為に、少年は一縷の望みを賭けて魔剣士のあとを追うのだった。
「遅かったな。何かあったのか?」
「……別に」
遅れて合流してきたアルゴンに、ライファは何も知らない素振りで問いかけた。だがそれに対しアルゴンは素っ気ない返事をした。
その瞳には昨日までの希望に縋り付くような純粋さは無かった。人の世の常を垣間見たかのように、差し出された希望に妄信する事を辞めた少年の心には、救いを求めそれに応じてくれたはずの魔剣士に対し疑いの念が渦を巻くように広がっていた……。
その後、住人達の捜索を掻い潜る為、ライファは魔剣の能力を駆使して周囲の気配を感じ取り、時には身を潜め、時には大胆に、二人はアナハイトを走り抜けた。目的地はフォクスとの合流場所である村外れの廃墟であった。
濃霧の中を影のように走り抜ける最中、湿った空気が全身を包んだ。頬を濡らす水滴に仄かな心地良ささえ覚えた。
その道すがら、濃霧の向こうに蠢く人影が何度も視界を掠めた。それは自分達を探している住人達のそれであった。
ある者は近付き、ある者は遠去かり、またある者は茫然と立ち尽くしていた。
まるで濃霧の面紗によってゆらゆらと曖昧な影をちらつかせ、探しているのか彷徨っているのか、まるで徘徊する亡者の如く、見えぬ明日を求めて迷走する彼等の影は、アルゴンの目には不気味でありながら哀れにも映るのだった……。
村外れへ近付くにつれ、草木の陰から奏でられる虫の音が耳鳴りのように大きくなり、同時に人の気配が遠退いていった。
ライファは足を止め、後ろに手を翳しアルゴンに止まるよう促した。その合図にアルゴンも足を止め、咄嗟に周囲に警戒の視線を向けながら、ライファが向ける視線の先に目をやり、知らずのうちに目的地に辿り着いていた事に気が付いた。
やはりと言うべきか、廃墟の周辺一帯も当然かのように深い濃霧に包まれていた。
視線の先で濃霧に包まれながらその輪郭を覗かせる朽ち欠けた貴族の屋敷は、陽が昇り始めた早朝だというのに御伽話の舞台の如く、以前訪れた時にも増して薄気味悪い不気味な佇まいをしていた。
ライファの瞳から見た廃墟は、行き場を失った亡者達の吹き溜まりと化していた。彼は人知れず廃墟を覆う空気が騒めいているのを感じ取っていた。
屋敷の最上階の一室、その部屋がある場所の外壁は不自然に焼け焦げ、天井は焼け落ちていた。その部屋の窓辺には昨日もそうしていたように、外の様子を伺う人影があった。彼女は人ならざる者に成り果ててもこの地に縛られ、しかし縛られながらもこの地を見守り続けていた。
人ならざる彼女はその気配を瘴気に変えて、ライファに警告を促していた。しかしそれに対してライファは身構える素振りは見せなかった。何故ならその警告が敵意によるものではない事を彼は理解していたからだ。
昨日の朝、廃墟を離れる際にもそうしたように、ライファは窓辺からこちらを見ている彼女に敬意を表する会釈をした。
「よし、行こう」
廃墟の主に挨拶をしたライファは、アルゴンを促すようにそう言うと、二人は再び廃墟の屋敷へと足を踏み入れた……。
無理矢理にできた風穴を、家具を引きずり無理矢理に塞ぐ。そんな光景をガラテアは沈黙し、人知れず心の中を掻き乱されながら見ていた。
耳障りな音を奏でながら引きずられる家具の一つ一つに持ち主であったクラウディアとの思い出があった。これらの家具は全て、彼女が嫁いで来た時に共にやってきた嫁入り道具だった。
「クソが、重過ぎなんだよ!」
家具を引きずる自警団員は文句を言うと、恨みを晴らすかのように家具を蹴った。
「中のもん出しちまえば軽くなるんじゃねぇか?」
すると酒を飲みながらそれを見ていた別の自警団員が助言した。すると家具を引きずっていた自警団員は、成る程と分かりやすく顔をニヤつかせ、家具の中身を楽しそうに辺り一面に投げ始めた。
何が一体そんなに楽しいのか、ヘラヘラと笑いながら部屋を散らかし、思い出を穢し破壊する自警団員の様子を、ガラテアは冷静を装い沈黙を貫きながら見ていた。
しかしその視線が引き攣り、更にその瞳の奥に怒りを隠しているのを、酒を飲む自警団員は見逃さなかった。もしくは彼女に因縁を吹っ掛ける要因を探していただけなのかも知れない。だがどちらにせよ自警団員はガラテアの目付きが気に入らなかったのだ。
「おい、なんだよその目。文句でもあんのかよ領主様よぉ」
そう啖呵を切ると、自警団員は酒を口に含みながら怯えるガラテアに近付いた。逃げる術のないガラテアは、ただ俯いて視線を逸らすが、そんな彼女を自警団員は自分の方に顔を無理矢理向かせると、強引にその唇を奪い口内に含んでいた酒を彼女の口内へと流し込んだ。
生暖かく粘ついた唾液を含んだ度数の強い酒が喉の奥にぶち当たり、ガラテアは激しい吐き気に襲われた。そうなると分かっていた自警団員は即座に彼女を突き飛ばした。
地面に投げ出され這い蹲るガラテアは腹を抑えながら嘔吐する。その様子を二人の自警団員は高らかに笑いながら互いの拳を突き交わしていた。
「穴も塞いだし、自分の部屋だし片付けは自分でしとけよ? 分かったか領主様」
いつの間にか家具で壁の風穴を塞いだ自警団員は笑いながらガラテアに言った。部屋は奴等がぶち撒けた思い出の残骸と、彼女の吐いた吐瀉物で散乱していた。
自警団の二人が愉快に笑いながら出て行き、階段の下で重々しく鍵が閉まる音が響くと、部屋には啜り泣く音と、それを隠すように隙間風の音が静かに響いていた……。
屋敷の中の様子は、まるでこの場所が住人達にとって決して足を踏み入れてはならない禁足地のように、奇妙だと思える程に以前来た時と何も変わっていなかった。
「待ち伏せとかされてないよね?」
長い廊下を進みながら、アルゴンはその不自然さが気になって、ライファに住人達が隠れていないか聞いた。
「彼等も領主の旧居を荒らす真似はしないさ。流石の信仰心と言ったところか」
それは何気ない冗談混じりの返答だった。少なくともライファはそう思っていた。しかしその言葉を耳にしたアルゴンはぴたりと足を止めた。
「あのさ……。どうしても引っ掛かる事があるんだけど」
「なんだ?」
「ここが領主の家だったとか、昨日聞き込みした時には誰も話してなかったよね? それとさ、あのクラウディアの偽物の……」
「ガラテアの事か?」
「そう、それだよ。なんで名前知ってるのさ? 昨日会ったのが始めてみたいな口振りだったのに、辻褄が合わないよね?」
「……何が言いたいんだ?」
「オレが何か隠してるみたいにしつこく聞いたり、二人で協力しようとか言いながら、聞き込みなんてしなくてもライファはオレが知らない事を最初から知ってるみたいだし、一体どういう事だよ!」
「……落ち着け」
「落ち着いてられないよ! 意味分かんないよ! 隠し事してるのはライファの方じゃないか! 本当はオレの事も何もかも全部知ってるんだろ? そうなんだろ!?」
アルゴンは疑心暗鬼に陥ったように、行き場を失った怒りや不安を吐き出すように、語気を強めて捲し立てた。その瞳には敵意と、今にも溢れ落ちそうな涙を滲ませていた。
「疑問に回答する。全部は知らない。知り得た情報は彼女から教えてもらった……」
「……彼女? 誰の事だよ?」
怒りに身を任せ、今にも掴み掛かって来そうなアルゴンを宥める素振りを見せながらライファは答えた。その答えにアルゴンは訝しそうに聞き返す。するとライファはゆっくりと人差し指をアルゴンの背後へ向けた。
今この廃墟の館には自分達しかいないはずである。自分の背後には埃だらけの廊下が真っ直ぐと伸びているだけで、そこには誰もいないはずだった。
ライファの意味不明な行動に、アルゴンは一瞬肝を冷やしたが、彼は臆さず背後へと振り向いた。
だが、やはりそこには埃だらけの廊下が真っ直ぐと伸びているだけで、背後には誰もいなかった。
ほんの少し安堵するも、次の瞬間には騙されたという事実に、心臓にずしりと重々しく伸し掛かる負荷と、体中の血液が脳天へ沸々と熱せられながら湧き上がっていく痛みにも似た感覚に、アルゴンはゆっくりと熱風のような溜め息を吐きながらその身を震わせた。
この状況でふざけた事を言うライファに、今まで抱いた事のない、怒りと呼ぶに余りあるこの激しい感情がアルゴンを支配した。
ライファはアルゴンから放たれる激しい気配に、過去その身に数え切れない程受けたのと同じ強力な意志を感知した。それは嘘偽りのない暴力的な殺意だった。
その殺意がアルゴンの心を突き破り、姿を現そうとした刹那、ライファはそれよりも遥かに早く動いた。一度その激情を体の外へ解放すれば、自他共に取り返しの付かない不幸と後悔が降り掛かる事を彼は知っていたからだ。
ライファは音も無くアルゴンの真後ろへ忍び寄り、その肩にそっと手を触れた。
肩に置かれた手をアルゴンは穢らわしいとばかりに振り払おうとした。だがそうしようとした時には、既に体は凍て付いたように自由を奪われていた。
「嘘も冗談も言っていない。彼女に聞いたんだ。お前の目の前にいる、彼女にな……」
まるでそう囁くライファの命じるままに、アルゴンは目の前を直視する事しかできなかった。
すると次の瞬間、視界の片隅から靄が現れ、その靄はまるで自らの意思を宿しているかのように、徐々に人の輪郭を写し始めた。時と共にそれは存在感を確かなものへと変化させ、虹色とも言い難く、それでいて何色もの色彩が織り混ざった形容し難い淡い輝きを放ちながら人間の女を出現させた。
突如出現したその女は、背が高く、高価であると一目で分かる純白のドレスを身に纏い、美しい黒髪を腰まで伸ばし、気品と言う名の香りをその身から醸し出しながら、それでいて陰のある美しくも妖しい姿をしていた。
そしてその瞼をゆっくりと開眼し、肉食の獣のような、切れ長で少し釣り上がった目付きでアルゴンを見下ろした。
女と目を合わせたアルゴンは、その瞳の奥に底無しの闇を見た。そして女がこの世の者ではないという事実を本能的に理解させられた。
「彼女こそ、本物のアナハイト領主、クラウディア・バートリア・アナムスカ夫人。この事件の最初の犠牲者だ」
アルゴンの背後でそう語るライファの声は、一切偽り無く真実を語りながら、まるで真実味を欠いた幻聴のように、少年の耳に木霊するのであった……。
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