勿忘草の女神の章 第28節
前回までのあらすじ。
大陸全土を巻き込んだ大戦が終わりを迎えて三年。四方を自然に囲まれたアナハイト領地では、傷や病を自らの血で癒す女神の伝説があった。
行方不明のソフィアを探すライファとアルゴンの二人は、ザイテス率いる自警団に捕まってしまうが難を逃れる。その後二人はアナハイトの領主クラウディアの元に辿り着くが、その正体は侍女のガラテアで、本物は既に亡くなっていると知らされる。更なる真実を知ろうとするなか、ザイテス率いる自警団の乱入により、二人は教会砦を脱出するのであった……。
28
ああ、君の指先は細く、まるで研ぎ澄まされた鋭利な刃のように美しい……。
君の膝枕に身を委ね、きめ細やかな膝と脛を愛撫するだけでは、もう心は満たされない……。
私が朝と夜に欠かさずそうしているように、再びその尊き声で、君が名を呼んでくれる日を、私は待ち続けている……。
その轟音がアナハイトに響き渡ったのは、月明かりが闇夜を照らし、住人達が寝静まる真夜中の事だった。
男は病床に伏す妻を看病し、自身も眠りに就くまで窓の外を眺めながら、酒を片手にゆったりとしたひと時を過ごしていた。
大戦終結後の混沌から逃れる為に、男は女神の鮮血の噂を信じて妻と共にアナハイトに来た。もし噂を信じていなければ、男は妻を永遠に失っていた。それを救ったのは紛れもない領主クラウディアであり、男は領主に崇拝にも似た畏敬の念を抱いていた。男にとって、領主は恩人であり女神そのものだった。
そんな男の家の窓からは、丘の上に聳える教会砦を眺める事ができた。闇夜に輝く月に照らされた教会砦は、領主を女神と敬う男の瞳には、厳かで神々しく映っていた。
女神の住まう居城を肴に酒を呑み眠りに就く。男にとって、それはささやかな安らぎのひとときと言うよりも、むしろ決して欠かす事のできない儀式と呼ぶべきものだった。
そんな安らぎと感謝の儀式を、突如鳴り響いた轟音が台無しにした。
突然の出来事に男は驚き、その拍子に手にしていた葡萄酒のボトルを落としてしまった。悲鳴にも似た音を響かせ、男の足元をまるで惨劇の舞台のように真紅に染めた。
しかし男の視線はそんな陳腐な惨劇には目もくれず、窓の外に釘付けのままだった。何故なら今まで眺めていた神々しき女神の居城が、一瞬にして穢されてしまったからである。
教会砦の上階に聳える一本の塔。その頂上の外壁の一部が、突如内側から吹き飛んだ。男にとって、それこそが真の惨劇に他ならなかった……。
同時刻、アナハイトの住人達は各々が恐れと不安に困惑していた。
突如として鳴り響いた轟音に、住人達の大半が目を覚ましていた。
驚きのあまり跳ね起きた者。大戦時に負った心の傷を抉られた者。様々な思いを抱き、彼等は恐怖し困惑した。
やがて住人達が恐れと不安を払い除け、轟音の正体を知ろうと家の外に出ようとした矢先、各々の家の戸を破らんばかりに叩く音が集落中に響いた。
「おい開けろ! 自警団だ! 今すぐ開けろ!」
自警団の来訪はまさに夜襲の如く、集落の家という家の中へと雪崩れ込み、問答無用の家捜しを繰り広げた。
自警団は家の中に探し求めるものが無いと分かると、次に住人達を真夜中だというのに広場に集まるよう命令した。
住人達はのちに語る。それはまさに平穏な日々の終焉を知らせる青天の霹靂だったと……。
真夜中のアナハイトに、松明やランタンの灯火が点々と列を成していた。
戦火を逃れ、故郷を追われ、そんな辛い過去を追想するように、自警団に先導されながら広場に向かう住人達の足取りは、まるで足枷をされた奴隷のように重かった。
やがて全ての生ける住人達が広場に集められると、雑談を許さぬ殺伐とした冷たい空気が辺りを支配した。
手を擦り合わせながら寒さを凌ぐ住人達は、まだ自分達が集められた理由を告げられてはいなかった。しかし闇夜に響き渡った轟音と、自警団の血相を変えた形相から、何かただならぬ事が起きたのだと彼等は覚悟していた。
それから間も無くして、教会砦へと続く丘の上からザイテスが降りてきた。その手には酒の瓶が握られていた。
自警団の中核。もといザイテスを筆頭にその取り巻き達の奇行は目に余るものがあった。奴等は領主の庇護のもと、傍若無人な振る舞いを行っているのは周知の事実だった。
しかしそれが抑止力となり、住人達の中で悪事に手を染める者は皆無であり、女神の噂を聞いてアナハイトにやって来る横暴なよそ者に対しても、睨みを利かせて黙らせていたのもまた事実であった。
かくして、酔っ払いの荒くれ者を絵に描いたようなザイテスの姿を目の当たりにした住人達は、不安と困惑を心に抱きながらも、歪な一種の安心感を感じていた。
そんな不安と困惑と歪な安心感を抱く住人達を前に、ザイテスは人知れず感情を昂らせていた。その昂りを更に促進させる為に、喉の渇きに取り憑かれた亡者の如く、奴は手にする酒を一気に飲み干すと、酒気を帯びた深い息を吐いた。
「皆の衆! 昨晩ロイドとその子供を殺害した容疑で身柄を拘束したよそ者を覚えているか? 我々が奴を捕らえた現場に居合わせた者達も大勢いた筈だ。そのよそ者が団員数名を殺害し兵舎を脱走した!」
大勢の人間が集まっているとは思えぬ静寂が広場を包み込む中、ザイテスは声高々に開口した。その言葉を聞き、その意味を理解した住人達は騒めきを見せ始める。その様子を窺いながら、ザイテスは畳み掛けるように続けた。
「そしてあろう事か教会砦に侵入し、我等が領主様に刃を向けた! クラウディア様が襲撃され命を狙われたのだ!」
領主クラウディアが襲撃され命を狙われた。それは彼女を女神として崇拝する住人達にとって、身を斬られるのも同じであった。
「あれを見よ! 領主様の寝室がある塔の壁を! 奴が爆弾で領主様を殺害しようとした時にできた穴だ! だが安心しろ。我々が間一髪で駆け付け領主様は御無事だ!」
鬼気迫るような身振り手振りを見せながら語るザイテスの姿は、さしずめ演技に没頭する役者のようであり、その芝居掛かった様子は、真実を知る者からしたら滑稽に写ったに違いない。しかし真実を知らぬ住人達は、ザイテスの言葉に、内なる信仰心を知らず知らずのうちに触発されていった。
今のささやかな幸せがあるのは誰のお陰か……。
傷や病から家族を救ったのは誰のお陰か……。
行き場を失った自分達に居場所をくれたのは誰か……。
「憎きよそ者は逃げたが、再び領主様の命を狙うと宣言した! だがそんな事はさせない! 領主様をお守りするのは我々だけではない!」
そう叫ぶザイテスは、目の前の住人達にぎょろりと血走った熱い視線を向けた。
「アナハイトの住人達よ立ち上がってくれ! 今こそ! 今こそ領主様から受けた恩義に報いる時だぁ!」
まるで演劇の決め台詞を叫び、自身の演技に酔い痴れるかのように、ザイテスは言い放った。
一瞬の沈黙が広場を支配する最中、住人達の心の内に領主クラウディアへの恩義と、彼女の身を案じ平和を脅かす存在への対抗心がふつふつと燃え広がるのを、ザイテスは自信に満ち溢れた形相で確信した。
それを証明するように、その直後住人達の中から、そうだそうだ。と次第に頷き声を上げる者達が現れ始めた。その声は徐々に勢いを増していき、やがては地鳴りのように気迫を纏った掛け声へと変貌を遂げた。
人は大切な誰かを傷付けられた時、憤慨し怒りの炎を心に灯す。その炎の灯し方を熟知していたザイテスは、人知れず笑みを浮かべていた。それはまるで、人の心理を弄び暴徒へと変貌していくさまを楽しんでいるかのようであった。
「これより捜査網を張る! アナハイトを封鎖しろぉ! よそ者は狡猾で卑怯な悪しき罪人だぁ! 一切容赦するなぁ! 見つけ次第袋叩きにして殺してしまえ! 自分の行いが如何に下劣な事か脳天に痛みで叩き込んでやれぇ!」
滲み出る笑みを怒号と言う名の仮面で隠し、ザイテスはまるで軍隊を指揮する猛将の如き振る舞いを見せ、住人達の心情を巧みに誘引し、猟犬のように駆り立てた。
「平和を脅かす悪しき者には女神の鉄槌を!」
住人達の一人がそう叫んだ。それに端を発し全員が復唱を始める。狂信的思想に取り憑かれたかのように、住人達は復讐に燃える暴徒の如く眼光を血走らせると、灯りを掲げ、農具を武器とし、アナハイトを封鎖せんとしていた……。
住人達による捜索が開始される中、その鬼気迫る光景を、ライファは広場から少し離れた物陰から窺っていた。彼の眼に映るのは、発言も、行動も、その姿さえも嘘で塗り固め、行動原理の全てに悪意を込める事でしか生きていけない哀しき怪物と、その怪物に唆された暴れ狂う亡者達の狂気乱舞の光景だった。
憐れみを滲ませながら、その光景を眺めているライファのすぐ後ろには、教会砦から飛翔して脱出した後遺症により、湧き上がってくる吐き気と一人格闘しているアルゴンの姿もあった。なんとかして吐き気を治めた彼は、涙を溜めた目でライファの背中を恨めしそうに睨んでいた。
「ここも直に見つかる。行こう」
自分に向けられた恨みの籠った視線を知ってか知らずか、ライファはアルゴンに移動を促した。
「こんな状況で何処に行こうって言うのさ」
視界を遮っていたライファが横を通り過ぎ、アルゴンも広場の光景を見た。そこには己に向けられているであろう殺意と、自身の力量を遥かに超えた混沌が広がっていた。そんな状況下で、ライファは迷いもせず何処かに移動しようしている。自力では何の解決策も思い付かない無力な少年は、黙ってその大人の後ろに付いていく他なかった。
集落の中に点在する住人達の気配を感知し、完璧に把握しているライファにとって、教会砦の時と同じく隠密移動は容易であった。アルゴンもそれを理解しているのか、物音を立てず後に続いていた。
「ねぇ、今どこに向かってんの? 廃墟は反対方向じゃなかったっけ?」
しばらく移動していると、行き先の分からない危険な移動に痺れを切らしたのか、アルゴンがライファに尋ねた。
「サリーナの店だ。夕食のツケを払いに行く」
足を止める事はしないまま、ライファから返ってきた返答は、あまりにも今の状況を考慮していると思えない意外過ぎるものだった。アルゴンはその返答を耳にするや否や、反論しようとした。
しかしそれよりも遥かに素早く、ライファは彼の口を手で塞いで止めていた。
「言いたい事は分かっている。だが彼女に約束した。俺は約束を守りたいだけだ。……勿論、お前との約束もな」
そう言うと、ライファはゆっくりとアルゴンの口から手を離した。アルゴンは何か言いたげな顔をしていたが、それをぐっと飲み込み、自身を納得させるかのように軽く頷いて見せた。と言うのも、二人が今いる場所が、既にサリーナの店の裏手近くだったからだ。
「彼女は間も無くここに戻ってくる」
ライファがそう自信げに断言できるのは、勿論魔剣の能力であり、広場にいたサリーナの気配を感知して居場所を特定していたからに他ならない。読み通りなら時を待たずして彼女はやってくる。そのはずだった……。
「……ねぇ。全然来ないじゃん。見つかったらまずいし、早くここから離れようよ」
少し待っても姿を現さないサリーナに、アルゴンはライファを煽りながらも、その挙動は焦りを隠せずにいた。だがそれとは対照的に、ライファは飄々しながら夜空に光る星を眺め、少し考える素振りを見せた。
「……そうだな。夕食のツケを払いに来たと言っても、きっと彼女は信じないし、また密告されでもしたら大変だからな」
急に考えを改めたのか、ライファは少しばかり声を大きく、まるで誰かに聞こえるようにそう言った。その不可解な行動にアルゴンは肩を竦めた。
だがそんなアルゴンの背後へ、身を忍ばせ近付いてくる者がいた。勿論その者の気配をライファは先程から感知していた。
その者は店の裏手にいるライファ達の存在に気付くと、少し離れた場所から様子を伺っていた。
だがライファの言葉を耳にして、ようやく近付く決心したようであった。だがその者の身のこなしは、特殊な訓練を積んでいない素人のそれだった。それ故にある程度近付けば足音が響く。それはライファに呆れて油断していたアルゴンでさえ気付く程だった。
アルゴンは背後から聞こえた物音に気付くと、一瞬恐怖で硬直しながらも、咄嗟に振り向いて懐から短剣を抜き、そして振り上げた。
突如その身に迫る凶刃を前に、小さく短い喫驚の悲鳴が店裏に響いた。だが悲鳴が断末魔に変わる事はなかった。既の所でライファが間に入り、振り下ろされた刃を止めたのである。意識の範疇を超えたライファの反射神経と身のこなしに、彼を間に挟んだ双方が、その身に受けた突風に身を引いた。
「驚かせてすまないサリーナ。夕食のツケを払いに来たんだ」
ライファは近づいてきた者にそう告げた。その正体はサリーナであった。
サリーナは武器になるような物は手にせず、その代わりに灯りの消えたランタンと、毛布に包まれた何かを庇うように大事そうに胸に抱えていた。それを見たアルゴンは、自身が一歩間違えれば取り返しの付かない事を犯していたと気付き、内心たじろいだ。だがそうだとしても、アナハイトの住人であるサリーナに自分達が見付かったと我に返り、アルゴンは手にしたままの短剣を納めたものの、張り詰めた気配からは警戒心が解かれる事はなかった。
「こ、こっちこそゴメンよ。不意打ちみたいな真似して。アンタ達を売る気は無いよ。信じて……」
サリーナの瞳は不安で泳ぎ、その口ぶりは以前の彼女とは別人のように歯切れが悪かった。
「……信じるよ。良かったら少しばかり中で休ませてくれないか? ただそれだけでいい。もし万が一見つかったとしても、その時は俺に脅されたと言ってくれて構わない」
そんなサリーナに対し、ライファは彼女の目をしっかりと見据え、敵意の無い笑みを浮かべながらそう伝えた。その物言いに、サリーナは安堵したように静かに頷き、家の裏口を開けると、二人を招き入れるのだった……。
同時刻、教会砦の一室の窓辺にて。
砦から見下ろす丘の下では、数多の灯が揺らめいていた。それはまるで夜の闇を彷徨う亡者の魂のように、行き先も分からず慌てふためいているかのようであり、そんな光景を、ディヴァは冷淡な表情で眺めていた。
「観てごらん。住人達の手にする灯りが、まるで地上に輝く星屑の様だよ」
ディヴァは今見た光景を、本心とは掛け離れた美しく幻想的な例えで表現した。自らの言葉選びに酔いしれているのか、または語り掛けた者への愛しさ故か、そう語る彼の隻眼の瞳は潤んでいた。
ディヴァが語り掛けた方へ顔を向けると、そこには部屋の奥でソファーに座りながら、彼の妻が虚ろな表情で床を見ていた。と思っていると急に髪を引かれたかのように天を仰ぎ、また少しの間を置いて再び床に顔を落とした。
その意味の無い振り子のような不気味な動作を繰り返す妻の瞳に、夫であるディヴァの姿は映ってはいなかった。それでもディヴァは妻を愛していた。それを物語るように、彼は妻の隣に座ると、妻の力無くだらりとした細い手を優しく握り、鼈甲のように光沢のある美しい爪と、小枝のように細い指先を恋焦がれるように眺めた。
やがてもっと間近で眺めたいとばかりに、ディヴァは妻の腕を掴んで自身の顔まで近付け、手の甲に口付けをすると、甘噛みするように妻の手を自身の顔に貼り付け、呼吸を強く荒立てた。
荒々しい呼吸が妻の指と指の間から吹き抜け、歪な音色を部屋中に響かせる。やがて酸欠気味になると、ディヴァは息切れを起こしながらも、必死の形相で妻の指を自らの口に咥え込み、卑猥な音を立てながら唾液で濡らした。自身の顔が唾液塗れになろうとも、自身の唾液がソファーを汚そうとも、彼は取り憑かれたかのようにその行為を続けた。
他者から見れば、それは狂気に満ちた行為に映るのだろう。だが本人にとってそれは、欲望のままに、本能のままに、愛する妻を求め、貪り、己の心を充たす崇高な行為だった。その行為に他者の思考が介入する余地など皆無だった。
ただひたすらに愛する者を欲する卑猥な音色を部屋の中に響かせながら、彼は二人だけの崇高な愛の営みを続けるのだった……。
「奴等のせいで散らかってるけど気にしないで。後で片付けるから」
裏口から中に入ると、サリーナは二人にそう言いながら、乱雑に退けられた形跡のあるテーブルを元に戻し、その上にランタンを置いて片手で器用に灯すと、そそくさと隣の部屋へと向かった。
サリーナの言葉通り、自警団による家探しのせいで、部屋の中はまるで嵐でも通り過ぎたかのように荒らされていた。
アルゴンがただ黙って部屋の荒れように茫然としているなかで、ライファはすぐさま散らかった足元を縫うように歩き窓際に向かうと、肩に背負っていた鉄鞄を立て掛けて、カーテンの隙間から外の様子を確認した。外では慌ただしく自分達を探し回る住人達の姿がちらほらと見えた。
そうこうしているうちに、隣の部屋から上着を脱いだサリーナが毛布を持って戻ってきた。
「気を使わせてすまない。休ませてもらうついでに片付けを手伝うよ」
足の踏み場も無い有り様を見ながら、ライファは申し訳なさそうに言った。
「いいよ別に、多分ザイテスの野郎に歯向かう真似した私が悪いんだから……」
まるで日常茶飯事。そんな気さくさを漂わせながら語るサリーナであったが、その声にはアナハイトの狂った常識に憂い、また諦めている自分にも嫌気がしている。そんな後ろ暗い想いが籠っていた。
「……そうだ。忘れないうちに、ツケにしていた夕食代だ。受け取ってくれ」
気を落としているサリーナを元気付けるかのように、ライファは話題を変え、彼女に払い損ねていた夕食代を手渡した。彼女はそれを受け取ると、随分と色が付けられている事に気付き、肩をすくめて申し訳なさそうに苦笑いをした。
「匿ったついでに教えておくれよ。領主様を襲ったのも奴等のでっちあげなんでしょ?」
「ああ、無礼にも会いに行った事は事実だ。でも命を奪うつもりで会いに行ったわけじゃない。ただ、真実を知りたかった」
「……その真実っていうのは? 知れたのかい?」
「聞きそびれた。だからまた会いに行く」
「……そうなんだ。会い行こうと思って無理矢理会いに行けちゃうなんて、ちょっと信じられない話だけど、奴等のあの慌てようじゃあ、本当にやってのけてしまうんだろうね」
サリーナは、ただ起きた出来事を淡々と話すライファに驚く素振りも見せず、その真実味の無い出来事にただただ呆れ笑いを浮かべ、その視線は自然とライファから外れ、窓際に立て掛けられた鉄鞄に注がれた。ランタンの薄明かりに照らされた鉄鞄の表面には、八翼の黒竜を模ったガンダバルの紋章が鈍い輝きを放っていた。
「でもまぁ、旦那が何の目的でここに来たかは訪ねたところで教えてくれないんだろうし、知らない方いいと思ってるよ。でも悪い事は言わない。すぐにでもここから逃げた方がいいよ。私は大戦の時、あんな状態になった人達を何度か見た事がある。普段は大人しい人だろうと、ああいう状態になると途端に凶暴になる。正しい判断ができなくなって、と言うか自分達のしている事が正しいと盲信しちまって、限度も分からず平気で人を袋叩きにして殺しちまうんだ。それが大勢ならもう止められない。旦那は恐ろしく腕が立つのは素人目にも分かるけど、そんな踊らされて巻き込まれた人達には手を上げたくないんだろ? だったら分が悪いよ。奴は、ザイテスはそれを知りながら関係無い人達を巻き込んで肉の盾にするような外道だから……」
「心配してくれて感謝する。だが俺達にはやらねばならない事がある。ここを出るのはそれからだ」
「……そうかい、ならもう止めないよ。でも、旦那みたいな人は死んでほしくないね。あの大戦で生き残ったのなら尚更だよ。あの大戦は、皆から色々なもの奪っていったから……」
「……そうだな」
ライファがそう呟くと、二人は互いに黙ってしまった。
「あ、ごめんよ。うちの子が泣いてる。自警団の馬鹿共に叩き起こされたもんだから、なかなか寝てくれないんだよ。ちょっとあやしてくるから、二人は構わず休んで頂戴よ」
悲壮感漂うその場の空気を破るよう、サリーナは隣の部屋へと向かった。
隣の部屋に向かうサリーナを目で追いながら、彼女が扉の向こうに姿を消し、扉が閉まるのを確認すると、それまで口を挟まず黙っていたアルゴンがポツリと妙な事を呟いた。
「ねぇ、赤ん坊の泣き声なんかした?」
「さぁな。そんな事より少し横になっておけ。ここに長居はできないからな」
アルゴンの質問をまるではぐらかすように、ライファは彼に背を向けて、再び外の様子を監視し始めた。
アルゴンはそのぶっきらぼうな態度が腑に落ちなかったが、流石に疲れが勝り、それ以上食い下がって聞く事はせず、黙って毛布に包まり横になると目を瞑った。
瞼を閉じた闇の中では、余計に近くの音が耳に入ってくる。隣の部屋からは壁越しに少しくぐもったサリーナの声が漏れ聞こえてきた。だがやはり、隣の部屋からは我が子をあやす優しげな母親の声しか聞こえてこなかった……。
前回からかなり間が空いてしまいましたが、宜しかったら、感想、評価、ブックマークを宜しく御願い致します。




