勿忘草の女神の章 第24節
前回までのあらすじ
大陸全土を巻き込んだ大戦が終わりを迎えて三年。四方を自然に囲まれたアナハイト領地では、病や傷を自らの血で癒す女神の伝説があった。
行方不明のソフィアを探す旅の傭兵ライファは、同じく彼女を探している少年アルゴンと共に、自警団に殺人の容疑を掛けられ捕まってしまうのだった。
ライファは脱出を開始した時を同じくしてアルゴンも夢から目覚めるのだった……。
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彼の言葉が嬉しくて、約束の場所に向かった。
今はどんな夢を見ているの?
そこに私はいるのだろうか?
どんなに問い掛け続けても、彼は答えない。
私の言葉は、彼にはもう届かない……。
夢の中の自分が、夢の中の彼女に呟く。
……一緒に逃げないか?
あの言葉を告げた後、雨に濡れて乱れた髪に隠された彼女の顔は、一体どんな表情を浮かべていたのだろう。
現実でも、夢の中でも、アルゴンがその真実を知る事はなかった。
夢というのは唐突に終わる。後に残るのは、時と共に薄れていく情景と、微か余韻だけだ。
しかし、ここ最近アルゴンが見る夢は違った。それはまるで過去の出来事の追想であり、ソフィアとの思い出が断片的に描かれ、思い出せと言わんばかりに見せ付けられる。彼女が自分の存在を片時も忘れるな。と記憶に杭を打ち付けてくる。その度にアルゴンは脳裏に衝撃が走る思いだった。
そして今回の夢もぶつ切りにされたように唐突に終わりを告げた。視界が霞むと同時に五感が奪われ、意識がはっきりしなくなる。
此処は何処だ?
最初に聞こえてきたのは雫が水面に落ちる音だった。
とても微かな音で、それでいて妙に響いて聞こえた。まるでゆっくりと鼓動する自分の心臓に同調するかのように、その雫の調べは時に心地良く、それでいて止め処ない不安を掻き立てられた。
うつらうつらと意識が現実に呼び戻されるにつれ、全身が凍えるような冷気と、相対するように煮えたぎる体の熱に襲われて、アルゴンはここ最近で最悪の寝覚めを経験する事になった。
寒さと熱に悶えて反射的に身体が震え出す。すると鈍い鎖の音と、手首に鋭い痛みが走る。その痛みたるや朦朧とする意識をはっきりさせるには、あまりにも十分過ぎた。
「うっ!」
一体何の痛みだというのか。表情を苦悶に歪ませ、アルゴンは歯を食いしばりながらくぐもった声をあげ、痛みに狼狽えながらゆっくり目を開けた。起きたばかりの目は酷く霞んでいて視界はぼやけていた。それでも目の前にある入口の隙間から漏れる隣の部屋の灯りに助けられ、今自分が何処にいるかはすぐに理解できた。
粗悪な剥き出しの石壁と、染み付いて消えない血反吐の臭い。ここは自警団の兵舎の地下尋問室であった。
アルゴンはすぐさま霞む目を手で擦って治そうとした。だがそれができない事に気付き、酷く動揺しながら自分の置かれた状況を思い出すのだった。
本来手首というものは頭より下にあるはずだ。しかし今は頭上にある。アルゴンの身体は天井から伸びる錆びた鎖に手首を繋がれ、無様に吊し上げられ人知れず醜態を晒していた。
そして醜態を晒す自身の姿と身体の酷い痛みが、目覚めたばかりのアルゴンにとって残酷にも気を失う以前の記憶を蘇らせる。その記憶を呼び起こさぬよう、拒絶すればする程に、頭の中は悪夢一色に塗り潰されていくのだ。
動悸が早まり全身から汗が噴き出す。まるで決して暴かれてはならない秘密を世界中の人々に晒されたかのように息が苦しくなった。
ライファと無理矢理引き離された後に何をされたのか。頭の中から永遠に消し去りたい悪夢を、アルゴンの記憶は鮮明に覚えていて、それを否応無しに想起させるのだった……。
……自警団の大半はアナハイトに身を寄せた者達から半ば強制的に参加させられている男達で構成され、彼等は日替わりで集落や畑や森を警備していた。
しかし領主クラウディアが住まう教会砦の警備はザイテス率いる限られた者達だけがその任務に就いていた。聞いた話によると大戦時からザイテスと行動を共にしていた奴等だ。そんな奴等がまともなはずがない。
アルゴンの絶望的な予想は的中した。彼はいきなり殴られ、羽交い締めにされ、瞬く間に鎖に繋がれ吊るされた。
一応尋問としてライファの事や色々を尋ねられたような気がする。だがアルゴンが答えようが答えまいが関係なかった。奴等はヘラヘラと笑いながら、酒を飲んで順番にアルゴンを痛め付けた。まるで痛め付ける度に吊るされた無力な少年が、鈍い悲鳴を上げ、その身体をより大きく揺らせた者が勝利する狂気の遊戯のように、奴等はそれを楽しんでいた。
アルゴンが気を失いそうになれば、すぐさま頭から水を浴びせられた。でもその殆どが水ではない事をアルゴンは知っていた。尋問室の隅で尋問の順番待ちをしていた奴等が、地面に置かれたバケツに唾や小便を入れているのを見ていたからだ。
痛みと悪臭と恐怖の末に、まるで睡魔に襲われたように少しずつ感覚を失っていき、何をされても反応できなくなっていった。
薄ゆく意識の中でアルゴンが最後に見た光景は、意識を失う程に暴力を受けた自分を見上げながら、酒を呑み、高揚した表情でズボンの上からでもはっきりと分かる程に熱り立たせた己の陰茎を愛おしそうに弄ぶザイテスの狂気の姿だった……。
悪夢の尋問を想起したアルゴンは無言のまま身を震わせる事しかできなかった。あの時、引き摺られていく自分を前に、ライファは何もせずただ見ているだけだった。
何故助けてくれなかったのか。そもそも助ける気が無かったのか。何故最後に目を背けたのか。虫のいい話かも知れないが、心の底ではライファがいるから大丈夫である。奴等を倒してくれると高を括っていた。つまりはライファの事を信頼していたのだ。
信頼とは都合の良い言葉だ。相手に擦り付けたり、自分に言い聞かせたり。だがそんな信頼が打ち砕かれた今、その後に残るのは虚無感だけだった……。
痛みと悪夢と虚無感を前に、アルゴンはたたぼんやりと足元を見つめ、宙に浮く自身の足元を見下ろした。
足先からはぽたりぽたりと血が滴り落ちていて、最初に聞こえた雫の音が自身から流れ出る血の雫であった事を今更になって知り、アルゴンは自分に猶予が残されていない現実を知った。
更に足先の下には滴り落ちた血と、奴等に浴びせられた唾と痰と小便が混じり合った大きな汚物溜りができていた。
暗がりの中で映る汚物溜まりはまるで底無し沼ように見え、まるでそこから死神の手がゆっくりと伸びてくる歪んだ妄想が頭を過った。
そんなアルゴンが全てを諦めかけていると、入り口の向こうから見張り番をしている自警団員達の話し声が聞こえてきた。
あるいは最初から聞こえていたが気にも留めなかっただけかもしれない。改めて話に耳を傾けようとは思わないが、一度聞こえてしまうと静まり返った尋問室では否応無しに聞こえてくる。声の張り方からして酒を呑んでいるのだろう。酒の肴に下世話な話で盛り上がっていた。
すると廊下側の扉が開く音がした。どうやら誰かが入って来たのだ。見張りの交代か、それとも尋問の再開か。いずれにしてもアルゴンにとって良くない事が起きるのは明らかだった。
「……畜生」
もはや虫の息であるアルゴンの前に鎖の拘束という現実が立ち塞がる。出せる力全てで精一杯身体を揺らしても鎖が千切れる事は無かった。それどころか手首の傷を刺激して叫びたくなるような激痛が走った。だが声を上げるわけにはいかない。奴等に自分が意識を取り戻した事を知られたら、それこそ尋問が再開されてしまう。もうあの尋問に耐えられる体力も気力も無い。もう後が無いのだ。
必死の形相で鎖を千切ろうと足掻くアルゴンだったが、やがて異変に気が付いた。隣の部屋がやけに静かになっているのだ。
最初アルゴンは、上で何かしらあって全員いなくなってしまったと思った。それ自体はアルゴンにとって好都合な事だった。
だが違う。聞き耳を立てると何やら部屋の中を物色するような物音が聞こえた。まだ誰かいる。その何者かは何かをした後、尋問室の入り口の方へと向かって来た。入り口の下から漏れる光に二本の足の影が映り込み、それを目の当たりにしたアルゴンは息を殺して命運を神に委ねる事しかできなかった。
そんなアルゴンを余所に、何者かは扉のノブを回し始めた。案の定鍵が掛かっているようだった。だがアルゴンが安心する事も何者かが諦める事も無かった。
次の瞬間木のへし折れる音が尋問室に響き渡った。入り口にはノブの部分だけが毟り取られたかのように穴が開いた。そこからおよそ怪力を持ち合わせているとは思えないしなやかな指先が伸び、ゆっくりと入り口を開けた。
「アルゴン! 無事か!」
息を呑むアルゴンの前に現れたのは、隣の部屋の灯りを背に燃え盛るような長髪を輝かせるライファの姿だった……。
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