勿忘草の女神の章 第18節
前回までのあらすじ
大陸全土を巻き込んだ大戦が終わりを迎えて三年。四方を自然に囲まれたアナハイト領地では、病や傷を自らの血で癒す女神の伝説があった。
行方不明のソフィアを探す旅の傭兵ライファと、彼女を探すのを持ち掛けた少年アルゴンと、ライファの仲間フォクスは、闇夜に紛らて襲撃してきた自警団達を返り討ちにする。
翌日、フォクスは情報を得る為別行動を開始。ライファとアルゴンはアナハイトに残って調査を始めるのだった。
夕方になり夕食を取る為立ち寄った店で亭主のサリーナと親しくなったライファ達は彼女の施しでワインをご馳走になる。
しかし、優雅なひと時を過ごす三人の前に突如自警団が押し寄せるのだった……。
18
穢れを知らぬ童の如く。
純粋で潔白な悪意を彼は抱く。
いつからか異形こそが自身の姿だと悟る。
弱く哀れな半生を闇より暗い漆黒で塗り替えるように、
狂気が解放した悪意が今日も餌食を欲していた……。
極度の緊張は、時として人を無感に陥らせるものだ。
目まぐるしく思考が駆け巡り過ぎて、逆に何も考えられなくなる。考えられなくなる事へ逃避、または考える事を放棄して楽になろうとするように、まるで目眩がして意識が遠退きそうになる。ただただ目の前を見つめ、早く時間が過ぎて今起きている危機的状況を嵐が去るのを待つが如くやり過ごしたくなるのだ。
アルゴンの今の心境がまさにそれだった。
ほんの一分前まで夕食を食べ、ワインまでご馳走になり、この数日間の中で一番満たされた瞬間だった気がした。だがその楽しいひと時はドアを蹴破る音で打ち砕かれた。まるで手に取って優雅に眺めていた高級で芸術品を、いきなり現れた不審者にぶん取られた挙句に叩き落とされたような気分だった。
地面に叩き落とされ砕けた芸術品を愕然とした表情で見下ろすように、アルゴンはすっかり冷めてしまったステーキの切れ端を、虚な眼差しで見つめまま、顔を上げる事が出来ずにいた。
数多の視線が自分の後頭部に集中しているのを肌で感じる。ライファの持つ魔剣の力なんてなくてもそれだけは分かった。
突き刺さる視線の誰一人にも目を合わせられないアルゴンの右手に持ったグラスは、彼が感じている極度の緊張を物語るように、中のワインを小刻みに波打たせていた。
「ザイテス、なんでアンタが……」
不敵な笑みを浮かべる大男に対し、そう呟いたのはサリーナだった。ザイテスと呼んだその大男を見上げる彼女の表情は困惑と苛立ちに満ちていた。
しかし、自身の名を呼ばれても尚、ザイテスはまるで彼女の言葉など耳に届いていないのか、不敵な笑みを浮かべたまま、まるで何も無い空間を覗き込んでいるかのような、虚ろでありながら据わった目付きは、異様であり奇怪であった。
「何か用かな?」
張り詰めた空気が支配するその場で、その張り詰めた糸を指で鳴らすかのように沈黙を破ったのはやはりライファだった。その声は一切の緊張も不安も感じない程落ち着き払っていた。
しかし、アルゴンにはその態度が逆に恐ろしかった。その平然とした態度があの男の逆鱗に触れてしまうのではないかと不安を募らせた。そしてその不安は、彼の心の内までは見透かせないまでも、自身が発した言葉を耳にして、彼の意識に明らかな動揺が走ったのをライファに悟られた。
「不味そうな肉だなぁ……」
不安と緊張で意識を朦朧とさせるアルゴンと、彼の意識の行方を心配するライファを前に、ザイテスの放った第一声は、ライファの質問とは全く噛み合わないものだった。ザイテスは悪意に満ちた笑顔のままそう呟くと、アルゴンの横にドカッとでかい図体を下ろした。彼の肩がアルゴンの肩にぶつかり、彼の身体は大きく揺さぶられ押し退けられた。しかし、アルゴンは俯いたまま無言を貫く事しかできなかった。しかし内心は身体以上に揺さぶられていた。まるで蚤のように萎縮したか弱い心臓を、巨人の指先で弄ばれながら、生殺与奪を支配されるかのようであった。
混沌と化したアルゴンの意識を感知し、なにより彼の精神が掻き乱されると知りながら横に座りわざと肩をぶつけたザイテスに、ライファは耐え難い嫌悪感を抱いたのは言うまでもない。
「この店は客に冷めた肉を出すのか? 相変わらず終わってんなぁ……」
ザイテスはライファ達を無視したまま、テーブルを見下ろし続け様にそう言い放つと、アルゴンの残りのステーキをまるで不潔な物でも触るかのように指で摘み、鋭い刃のようなギラつく犬歯を覗かせながら一口で頬張った。
難癖を付けながら食べるという矛盾を躊躇なくやってのけ、ザイテスはグチャグチャとわざと口を開けて音が出るように肉を噛み始めた。店内にはザイテスの肉を咀嚼する不快な音だけがまるで両耳に纏まり付くように蝟集していた。口の中の肉はもう飲み込める程噛み砕かれているはずである。味も唾液に紛れて消えているかもしれない。それにも関わらずザイテスは憎たらしい笑みを浮かべながら口の中の肉を弄ぶと、なんとそれをサリーナの目の前へ唾を飛ばすかのように吐き出した。
顔を嫌悪で引き攣られ、目の前に吐き出された自身が調理したステーキの成れの果てを目の当たりにしたサリーナの感情が沸騰し、怒りに染まっていくのをライファは隣で感知した。
「いい加減にして!」
サリーナは金切り声を上げながら、手にしていたワインをザイテスに浴びせようとした。
しかし、サリーナの行動を予期していたライファは、咄嗟に彼女の手首を抑え付けて止めた。その一部始終を見ていたザイテスは彼女の怒りを逆撫でするようにフッと鼻で笑って見せた。それを見た彼女の腕に再び力が込められる。それをライファは再び押さえ付け、自分の顔を覗く彼女に対し首を横に振った。
「余興はその辺にして、自警団がいきなり押し掛けて俺達を囲ったのにはそれなりの理由があるのだろ? まずはその理由を話してくれないか?」
テーブルの上で怒りに震えるサリーナの腕を抑えながら、ライファはザイテスに言った。
「旦那の言う通りだよ! 用がないならさっさと出てっておくれ! 営業妨害だよ!」
ライファの言葉に重ね合わせ、畳み掛けるようにサリーナも続いた。
「うるせぇんだよアバズレがぁ! テメェに用なんてねぇんだよ! 客の席に座ってねぇで厨房に引っ込んで安物のクソ肉をくたばった旦那のナニに見立ててしゃぶってやがれ!」
それはあまりに卑劣極まりない暴言だった。ライファの言葉には対して眉ひとつ動かさなかったザイテスが急に豹変し、鼓膜を破るかの如く大声で怒鳴り、人の頭で考え付く限りの下劣で不適切で聞いた者に不快感した与えない愚言をサリーナに浴びせた。
誰しも触れて欲しくない心の傷があるものだ。それをザイテスは容赦無く土足で踏みにじってきた。奴の口から放たれた卑劣な誹謗は、サリーナの理性の限度をいとも容易く突破させ、それはライファの反射速度を一瞬だけ超えていた。自身に浴びせられた暴言を吹き飛ばすかのように、サリーナはライファの腕を払い除け、ザイテスに掴み掛かろうとした。
次にどうなるか、それは二の次だった。自身の一瞬の油断で彼女が危険な目に遭うのなら、もう方法はこれくらいしかない。
殺意に満ちた彼女の指先が、ザイテスの喉元に掴み掛かるまでのその刹那、まるで店内で落雷の如き炸裂音が響き渡る。その場にいた全ての者達の心臓が一旦止まったかのような錯覚を覚え、皆落雷の正体に釘付けにされた。
焼け焦げたような匂いと粉塵が宙を舞い、固く握られた拳と、どう見ても人の力で叩き割ったとは思えない砕かれた箇所が出現した分厚いテーブル。そこから稲妻のように引き裂かれた亀裂は、拳の持ち主の今抱く感情を体現しているかのようであった。
俯いていたアルゴンも驚いて顔を上げ、砕かれたテーブルを作り出した存在の顔を恐る恐る覗き見た。
ライファは静かに瞼を閉じていた。そしてその場の空気を吹き飛ばすかのように軽く息を吐くとゆっくりと瞳を開いた。
「随分と品の無い言葉を使うんだな。俺は自警団の厄介になるような事をしたつもりは無いし、君の仕事の邪魔をするつもりも無い。だからこの仕事は部下達に任せて、君は店の外で一服でもしていてくれないか?」
その言葉を言い放った本人は、出来る限り感情を表に出さぬよう、冷静を装っているつもりだった。だがその眼光は鋭く、決して隠し切れない殺意に満ちていた。
それを察したのだろう。ザイテスが返答を返し、会話が再開したのは幾らかの沈黙を跨いだ後だった。
「何もしてないだぁ? まぁそう言うならそうなんだろうなぁ。……お前の中では」
「はっきりしてくれ。何が言いたい」
「昨日うちのロイドって奴とその倅が自宅で殺されていたのが見つかった。様子を見に行った部下達まで帰ってこない。しかもその場から立ち去るお前の姿を多数の者が目撃している。今から教会砦までツラ貸してもらおう」
「……要件は分かった。これまでの発言の中で一番建設的だな。いいとも。連行してくれ」
そういうとライファはゆっくりと立ち上がった。先程の出来事もあり、彼が動くと自警団員達は身を引いて道を開けた。その様子にザイテスは軽く舌打ちをしつつ立ち上がり、ライファを連れて店を出ようとした。
「何を他人事にみてぇに座ってんだぁ? テメェも来るに決まってんだろうがぁ」
振り向く事なくザイテスは席に座ったまま呆然としているアルゴンにドスを利かせた。その言葉を聞いてハッとしたアルゴンは観念しながら渋々とテーブルを支えにしながら立ち上がり、まるで足を引きずるようにライファを追って店を後にするのだった。
ライファ達が店の外に出ると、アナハイトの住人達が野次馬の如く店の前を囲んでいた。手した灯火は夜風に吹かれて怪しく揺らめき、それに照らされた住人達の表情は蔑みの感情に歪んでいるように見えた。
まるで異端者の処刑風景だな……。
と過去の記憶を呼び起こしながらライファはふと思った。
「邪魔だ! 道を開けろ!」
自警団の一人が住人達に対して注意を促し、彼等が道を開けるとその道を更に広げる為に他の自警団員達が住人達の前に立ちはだかった。
ふとライファがアルゴンの方に眼を向けると、横にいる彼の気配がまた著しく乱れているのを感知した。彼の体は異様な程小刻みに震えていた。俯いているため表情は見えないが、真下の地面にぽたぽたと夥しい量の汗が滴り落ちていた。
「大丈夫か?」
ライファはアルゴンにだけ聞こえるように小声で尋ねた。がアルゴンは震えるばかりで反応が無い。彼の出で立ちはまるで処刑の時を待つ罪人のように、人生の終末を間近に控えた者のそれだった。
ライファがアルゴンの異様な様子を心配している最中、前方から狂気を思わせる気配が突如出現する。咄嗟の事に警戒したライファは、すぐさま気配のする方へ眼を向けた。そこには先程と変わらないザイテスの巨大な後ろ姿があった。が背中からは吹き上がる湯気のように徐々に強さを増す殺気が滲み出ていた。
まさか……。
そのまさかだった。突如振り向いたザイテスは殺伐とした表情を浮かべ、その腕には既に剣が握られていた。
一瞬の出来事だった。野次馬の持つ灯火に照らされて鈍い輝きを放つザイテスの剣が、一切の躊躇無くアルゴンに向けて襲い掛かった。迫り来る凶刃から逃れようとした彼の顔は、瞳が飛び出そうな程に見開き、顎が外れそうな程に口を開けて恐怖に狂った危機迫る表情をしていた。
「うわぁぁ!」
喉から絞り出した会心の悲鳴が響き渡る。ザイテスの凶刃がアルゴンへ振り下ろされる。が耳を裂く金属音が響いた。
寸でのところでライファが二人の間に飛び込み左腕の鎧で防いだのだ。刃が振り下ろされた瞬間、アルゴンは目を瞑ってしまった。再び目を開けると頭上僅かの場所に殺意に満ちた刃が小刻みに揺れていた。それを見たアルゴンは驚き急いで身を引いた。
「待て、貴様!」
その場から脱しようとするアルゴンに、ザイテスが怒声を上げ再び彼へ刃を向ける。がそれをまたライファが素早い身のこなしでまた防いだ。
「何をするつもりだ」
ザイテスの剣圧を押さえながら、ライファが聞いた。
「何をするって? 罪人を裁くんだよぉ」
「裁くだと? 何を裁くと言うんだ!?」
「領主様及び女神ピプリスへの暴言だ」
「いつだ。いつ言った。証拠はあるのか?」
「証拠? ならば自分自身に聞いてみろ。あの小僧が領主様や女神様に対し疑うような発言をした所をお前は聞いたのでないか?」
ザイテスの言葉にライファは眉を細め全てを悟った。
「やはり最初から俺達を見張っていたか」
「物騒な世の中だからな。お前等のようなよそ者は揉め事しか運んでこない。そしてこのザマだ。もう生きてアナハイトからは出られないぞ」
「賞金稼ぎ達を殺したのも貴様等だな?」
「さて、なんの事だかなぁ……。一つ言える事は、お前の仲間の弓使いも今頃生きているかどうかぁ……」
「……貴様」
ザイテスの憎たらしい言葉にライファは怒りを覚え、押し負かそうと剣を防いでいる左腕に力を込めた。魔剣士であるライファの怪力に、ただの人間であるザイテスが勝てる筈はなく、徐々に体勢を崩し、手にする剣の刃に亀裂が生じ始めた。
「いいのか? オレに何かあればあの小僧は確実に死ぬぞ」
額に汗を滲ませながらザイテスが言った。だが奴の表情から憎たらしい笑みは消えていない。
「それをこの俺が阻止出来ないとでも思うのか?」
「出来ないさ。お前はぁ……」
勝利を確信するかのように、ザイテスは言い放った。
そうだ。出来ない。ここで魔剣の力を使えば皆死ぬ。サリーナや住人達も巻き込む事になる。そして奴は、俺がそんな事をしない男だと見抜いていた。
「さぁ、そうする?」
ザイテスの言葉に、ライファは徐々に左腕に込めていた力を弱めた。
「そうだな。部下も周りも引いているしな」
怒りを逆撫でするつもりだったが、実際ザイテスの部下も住人達も、奴の行動に緊迫し脅えていたのも事実だった。ライファの言葉を聞いてザイテスは、剣圧を弱めぬまま周囲に目をやった。奴の目にも周囲の緊迫し脅えた視線が見えた。それによってザイテスの殺気が弱まっていくのをライファは感じ取った。しかしそれとは裏腹に、奴の口元は僅かにほくそ笑んでいるのをライファは見逃さなかった。
周りの状況を見て冷静になったのではない。この男は、自分を恐れ、引いている者達を見て満足しただけだ。
そうライファは確信した。しかし今それを言及するよりも、この場を収めるのが最優先だった。
その後、ライファは抵抗の意図が無い意図を示す為手を上げた。それを確認した自警団員達は、身構えながらゆっくりとライファに近付き鉄鞄を奪い取った。ライファとアルゴンはされるがまま手首を縄で縛られ、背中を小突かれながら教会砦へと向かわされようとしていた。
「さっさと歩け!」
アナハイトの住人達が道を開ける。彼等の視線は皆穢れた汚物を見るような、そんな冷たい眼差しをしていた。
そんなライファ達の後ろ姿をサリーナは心配そうに見つめていた。背中で受けるその視線を気配で感じ取ったライファは歩みを止め振り返った。
「ステーキとワイン美味しかった。代金は後でちゃんと払うからツケにしておいてくれ」
サリーナに対し笑顔で礼を告げると、急かされながら彼は再び歩き始めた。その姿に向けられたサリーナの眼差しには、深い後悔と罪悪感が入り混じっていた……。
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