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流浪の女神  作者: 廻 石輔
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エピローグ



 中はひんやりとして薄暗い。

 そこは山をくりぬいたままの洞窟だった。

 天井は岩肌がむき出しになっていたが、よく見ると床には赤と黒のマーブルのタイルが敷き詰められていた。よく磨かれていて光沢がある。今にも滑りそうで、それがまた不安感を助長する。

 照明なのか、天井から床までガラスの円柱が何本も伸びていて、青白い光を放っていた。

 近づいてみると、円柱は水槽になっていた。その中に浮かんでいるのはユーモラスな海洋動物などではなく、女性だった。銀のチェーンで縛られた全裸の女性が逆さに漂っている。口にくわえさせられたボールギャグ(口枷)から酸素が供給されているのだろうか。

 円柱のような水槽は全部で六つあり、それぞれ特徴のある女性が違った形で縛られ展示されている。ブルネットの女性は麻縄で日本風の凝った縛り方をされていた。赤毛の女性は全身にキリスト教の宗教画のようなカラフルな入れ墨があり、黒いベルトで拘束されている……。

「いかがです?」

 案内役の女主人は日本語を話した。客とおぼしき恰幅のよい年配の男性に妖しく微笑みかける。

 彼女はセミロングの黒髪をポニーテールに纏めていて濃い化粧をしていた。六インチのハイヒールのサンダルに、ピッタリとした袖のない、メタリックブルーのワンピースを着ている。そのワンピースの生地は完全に右と左の部分に分かれていて、その両方を靴紐のように編まれた黒い紐で繋いでいた。この紐が食い込んだ白い肉の地帯が体の中央を縦方向に走っている。そのため、男は視線の行き場を制限されるような不自由さを感じてしまうのだった。

「ヨーロッパで同じようなものは見たことがある」

 男は、やや不満げなそぶりをみせながら答えた。

「それなら、こちらはいかがです?」

 そう言うと女主人は先へ進む。高いヒールのサンダルで、硬い床を突き刺すような歩き方だ。しばらく行って立ち止まると、右手の黒いリモコンのボタンを押す。右前方の一画のカーテンがゆっくりと開いていく。

 ガラスのショーケースのような部屋が現れ、黒、赤、白の艶やかなラテックスの衣装に身を包んだ女性がなまめかしいポーズをとっていた。女性たちはそれぞれの色で統一された長いグローブと長いブーツを身につけ、コルセットを嵌めていたがボトムには何もつけていない。定番のスタイルだが、着ている女性たちが信じられないほど若い。

「なるほど、『無法特区』とはよく言ったものだ。だが生憎こういう趣味はないんでね」

「あーら、残念ですわ」

 女主人は笑い、さらに奥へと案内する。

「こちらの注文はちゃんと出していたんだが……」

「ご心配なく。もちろん、用意させていだいていますわ。でも、こちらとしてはここがどんなところかをよく知っていただきたいものですから」

「なるほど、そういうことか。なかなかユニークなところだとはわかったよ」

「突貫工事でしたのよ。実現には苦労しましたわ」

 女主人は男の方を振り返りながら話しを続けた。

「何しろこちらは官僚主義ですから。世界からつまはじきにされていることを生かさない手はないと言ってやったんです。あらゆる国際機関の査察を受け入れないのなら、何をやるのも自由じゃないかと。これはほかの国では絶対にマネのできないことだって。それで、このようなサイロっていうんですか、ミサイル基地の跡地を利用してありとあらゆる行為が可能になる施設を立ち上げることにしたんです。ようやく区画の利用権の販売を始めたところです。いかがです、先生も何かプロデュースなさってみては?」

「いやいや、私にはそんな才能はないよ」

「そんな、ご謙遜なさらないで。さあ、こちらです」

 女主人はそう言いながら、左手前方の区画へと男を案内した。

 そこは鶯色の襖が閉じられた日本間になっている。

 女主人が襖をあけると、料亭の座敷のような佇まいになっていた。

 奥の障子は開け放たれ、そこから見える石庭のようなつくりの庭が露天風呂になっていた。白い煙の向こうに三人の女性が湯に身を委ねている。

「これだよ。これ。ぐふふふふふ。いいじゃないか」

 男は待ちきれないといった様子で、案内もされないうちに靴を脱ぎ捨てると、足早に座敷にあがっていく。

 その様子に、女主人は思わず笑みを漏らし口元に手をやる。

「アンタのような人たちからすれば、ずいぶん温い趣味だと笑われてしまうんだろうけどね。子どもじみていて恥ずかしいかぎりなんだが、六十年も生きてきて、この性分だけはどうして変えられないんだ」

 男は座椅子にもたれながら頭を掻く。

「そんな気になさることではありませんわ。誰にだって恥ずかしい性分はあるものですよ。でもどうしてなんでしょうねぇ。何かきっかけがありましたの?」

 そう尋ねながら女主人は、男の右側に、庭を背にするように正座する。

「恥かきついでに打ち明けるとね、実は中学三年の東京への修学旅行のときだったんだ……。クラスの悪ガキ連中に素っ裸にされて、簀巻きにされたんだよ。そのまま入浴前の女子用の風呂の中に転がされてね。そこに女子たちが入ってきたもんだから、大きな悲鳴さ。そこには僕のあこがれの子もいたんだ。そのとき以来、まるまる一ヵ月間の記憶がない。担任の先生も含めて当時の連中とはそれっきり、だれとも口をきいていないので、本当に何があったのかは今だにナゾのままだよ」

「それはそれは。大変な経験をなさったんですね。でも、それならトラウマになってお風呂には近寄りたくもないということになるんじゃあ?」

「そうなんだ。それが人間の不思議なところなんだよ。痛む歯の周りをついつい舌で触ってみたくなる、というのとも少し違うんだろうが……。何か、こう、気が遠くなるというか、幽体離脱でもしているような感覚というか……」

 男はいつになく饒舌になっていた。

「あらあら、大変。途中で気絶なんてしないでくださいよ」

 女主人が笑う。

 テーブルにはすでに酒と肴の準備がされていた。

「どうぞご遠慮なく」

 美しい器に盛られていたのは、高級料理などではなく、マコガレイの煮つけ、小鯵の南蛮漬けといった庶民的な料理だった。堅さの残るダイコンと薄っすら色づいた玉子が盛られたおでんの隣にはたっぷりとした生姜醤油のつけ汁も置かれている。

「それじゃあ、お言葉に甘えて……」

 男は、箸でカレイの身を掬うと口に運んだ。

 ほんのり甘辛い身が男の口の中で溶けると、それと同時に見知らぬ女主人への警戒心も溶けていくようだった。

「どうぞおひとつ」

 女主人は、銚子の首を右手でつまみ、底に左手を添えると、男の方へと身を寄せた。

「すまないね」

 男は右手を返して猪口を差し出しながら、真下にある女主人の膝を目の端に捉えた。

 青いワンピースの窓の下には、丸みのある大理石がピッタリと寄せ合っていて、その隙間に縺れた黒いテグス糸が絡まっている。

「いやですわ。メインは向こうですよ」

 女主人は左手で男の左頬に優しく触れると庭の方へと首を向けさせた。

「いやあ、いい眺めだね。実にいい」

 女性たちは長い黒髪が濡れないようにアップに纏めていた。もうずいぶん長く浸かっているためなのか、汗の浮いた肌はピンクに染まっている。

「先生、私、こちらにいたものですから、春の例の事件が最終的にどうなったのかよく知らないんですよ。なにしろ、こちらはどんな出来事もまともに報道されることのない国ですから。よろしかったら教えてくださいません? 女性たちはどうなったんです?」

「まぁ、僕も当事者じゃないから詳しいことは知らないんだよ。まぁ、国会議員だから一般の人に比べれば知っているといえなくもないが……」

「そんな、もったいぶらないでくださいな」

 男は笑いながらなおも焦らすようにしていた。女主人がピッタリと男の腕に身を寄せてきたのを機に、ようやく語り始めた。

「現地に派遣された八千五百人の女性のうち、六千人近くはすぐに迎えのバスで脱出したよ。ずっと一か所に固まっていたらしいからね。残る二千五百人のうち、二千人ぐらいはどうやら高句麗人の闇組織から日本に戻されたらしい」

「まあ……。そうなんですか」

「あの当時、侵攻地域の高句麗軍は、指揮系統もない混乱にした状態だったんだが、人間の集団っていうのは混乱したままの状態で留まっていはいないものなんだよ。まったくのカオスなんて、私に言わせりゃ、机上の考えだね。実際は混乱した状態にも必ず秩序が生まれていく。そういうと何か思い出さないか。同じような混沌とした時期が日本にもあっただろう?」

 そこで男は間を置き、女主人に考える時間を与えた。

 しばらくすると、ああ、というふうに彼女の顔に笑みが輝いた。

「そう。その通り。終戦直後の混乱期だ。何もかも不足していたあの時代、混乱を秩序づけたものは何か。闇の経済だ。どんなに混乱期であっても人間に必要になるものがある。それを握るものが力を持ち支配する。それはあそこでも同じだった。『豊葦原の奔流』という例の作戦では当初から高句麗軍の侵攻地域に相当な金額の紙幣をばら撒いていたらしい。高句麗人がもっとも信頼を置くユーロ紙幣をね」

「それは初耳ですわ」

「だろ。僕も国会の秘密報告で初めて知ったよ。それで闇の経済が生まれたんだ。略奪物資にすべて闇の値段がついていった。もちろん女性にもだ。最初のうち、もっとも人気を集めた商品は言うまでもなく女性だった。いい女性をたくさん抱えている者のもとへ、紙幣が集まった。しかし、それが続くのはほんの最初のうちだけだ。人間が生きていくうえでは女性よりももっと切実なものがある。食料さ。人間はまず何かをする前に食べていかなければならないからね。最初のうちこそ、女性を抱える者のもとへ何でもかんでも集まっていたが、しだいに食料が減ってくると、人々はこんどは食料を持つ者の周りへ集まりだす。ついには女性を手放して金に換え、それで食料を得ようとし始める」

「それじゃあ食料を持つ者が、そのまま居座り続けるんじゃありませんの?」

「ところが食料はかなり早い段階で底をついていたんだよ。鮮度も落ち、略奪できるものはどこにも残っていなかった。闇組織が提供していたのは新たに仕入れてきたものだったんだよ。日本側からね」

「まあっ、そうなんですか」

「高句麗出身で日本に帰化した人物を使って接触していたらしい。彼らに食料を提供しながら、食料との交換で女性たちを回収していったのさ。そして、その後は安定して食料が提供されるからと彼らを徐々に収容所へと導いていった」

「紙幣はどうなりましたの?」

「半分は回収したらしい」

「どうやって?」

「知っているかい、貧しい人間の金の使い道はたった一つしかないんだよ」

「えっ、そうなんですか。いったい何かしら……」

「家族への仕送りだよ。侵攻地域でいくらカネを持っていたとしても、使い道はない。捕虜となればすべて取り上げられてしまう可能性がある。せっかくの金を無駄にしないためには捕虜となる前に、地下銀行を通して故郷に送金するしかない。その地下銀行がどんなに怪しくてもそこを利用する以外にない。そしてそれがニセモノだったということさ」

「そうだったんですか。高句麗兵たちに同情してしまいそうですわ」

「最後に女性を抱えて潜んでいるほんの一握りの者が残った。これを欧米の民間軍事会社が虱潰しに探していき、女性たちを回収して終了さ。もっとも最後の方は相当荒っぽかったようだけど」

「なるほど、そういう結末だったんですね」

「でも本当に大変だったのはその後でね。女性たちはカウンセリングを受けてから戻されたんだけれど、ああいう経験をしたもんだから、もと通りの暮らしを続けるというわけにいかなかったんだ。世間の目もあったしね。そこで結局、政府は滞留促進要員の経験者だけが暮らせる村を建設し、そこでひっそりと生活しているという話さ。場所は今も公表されてないよ」

 そこで男はしんみりとした調子で、猪口をすすった。

「それにしてもよくこれだけのものを作ったね。ちょっとした一代記が書けるんじゃないか」

 男は部屋をぐるりと見渡しながら、気分を変えようとでもしたのか、少し作為の感じられる明るい調子で言った。

「私一人の力なんかじゃとても無理でしたわ。ここができたのは二つの要因があったからですよ」

「というと?」

「一つは何といっても、高句麗指導部にとってもここが有益だということです。ここは彼らにとってもセーフティーバルブとしての役割があるんです」

「安全弁ということか。どういう意味だね?」

「それはおいおいわかっていただけると思いますわ」

「じゃあ、もう一つの要因というのは?」

「それをご説明するには、まずはこの人を見ていただかないと……」

 そういうと女主人は背後の襖の方へ体を捻り、手を打った。

「こちらへ」

「はい」

 襖の向こうから女性の声がする。

 やがて襖が開けられると、白地に藍色の鶴が描かれた浴衣姿の女性が正座していた。女性は大柄で、長い髪を高く纏めていた。

 三つ指をつき、丁寧にお辞儀をした女性がゆっくりと顔を上げる。

 その女性の顔に、男が目を丸くする。

「こ、この人はまさか……」

「由美と申します。どうぞ、お見知りおきを……」

「由美さん、先生にお酌をして差し上げて」と女主人。

 由美は正座をしたまま男の左側ににじり寄ると、テーブルの上の銚子の首をつまんだ。

「どうぞ」

 男が左の方へと猪口を差し出すが、言葉は失ったままだ。

「よく似てるでしょ?」

「ああ、そっくりだ」

「この施設はこの由美さんがいなくては実現しなかったでしょう」

「そうなのか。それにしても韓玉彬ハン・オクピンさんに生き写しだねぇ」

 韓玉彬とはこの国の初代最高指導者の二番目の夫人だった。美しい容姿に加え、誰にも分け隔てなく接する優しい人柄が国民に受け、いつしかその存在は神格化されていった。彼女がもっとも国民の前に露出していたのは彼女が四十代から五十代に差しかかかる一九六五年から一九七五年にかけての十年間だった。チマチョゴリに身を包んだその姿は幼年学校の教科書にも掲載されていた。いま高句麗を支えている中堅幹部たちが多感な少年時代を送っていたころだ。東欧の社会主義諸国がまだ健在で、その援助のおかげで高句麗は韓国に対して優位性を誇示することができた。街には真新しいビルが白く輝き、近くの山も青々としていた。眩しいほど輝いていた時代。その象徴が韓玉彬だった。彼女こそがこの国の女神だった。

「学生時代、僕は政治的にはまったく反対の立場だったんだが、よく左翼の連中がアイドルのように慕っていたのを昨日のことのように覚えているよ」

 男は四十年近く前のことを懐かしみ、猪口を口へと運んだ。

「こちらの殿方は彼女を『鴨緑江アムノックカンの白いフィンヨン』って呼ぶんですよ。なぜだかご存知?」

「蓮といえば沈清シムチョンだろう。それしか思い浮かばないよ」

「よくご存知ですわ」

 女主人に褒められ気をよくしたのか、男は沈清のあらすじを語って聞かせた。

「盲目の父親の目を治すため、人身御供となり身を投げた沈清が、竜王に助けられ蓮の花に乗って漂っていた。それを漁師が拾い、王に捧げたのをきっかけに、王と結婚して中宮となった沈清が今度は父を見つけ出して救うという話だったと思うが……。恐らく親孝行の沈清のイメージを、何かにつけ夫をよく助けた韓玉彬さんに重ねたんじゃないのかな」

「フフフフ」

 女主人は意味ありげに笑う。

「なんだね?」

「まぁ、表向きはそういうことなんでしょうけど……」

「違うというのかい?」

「だって、それじゃあ、おかしなことになりますわよ。大の男たちが単なる寓話を信じているってことになるじゃありませんか」

「じゃあ、どういうことだというんだね?」

「先生、私、さっき、この国では何が事実か本当のところが非常にわかりにくいということを申し上げましたよね。そこをよく考えていただきたいですわ。政府の発表であってもそれが事実のすべてではないことは国民もうすうす勘付いている。そんな社会では、逆に事実ではないことが事実のように信じられるということもあるんですよ。しかも、それは一般庶民に限らず、政権を支えるような中堅幹部の間にも言えることなんです」

「言わんとすることはわかるような気がするが……」

「単に似ているという女性のためにこんなにりっぱな施設を作るほど骨を折るのには、それ相応の理由があるということですよ。それが彼らのルーツ、建国の歴史とかかわっているからですわ」

 そういうと今度は女主人が焦らすように一息入れる。空の銚子二本をつまんで丸盆に乗せると、そのまま部屋を出て行ってしまう。

 正座したまま残された由美は、自分が先に気づいてやるべきだったと少し後悔している様子だった。

 しばらくして、女主人が丸盆に銚子二本と小鉢とともに白いダスタークロスを載せて戻ってくる。

「庸子さん、私が……」

 由美が迎えに行き、丸盆を受け取る。

 由美がダスタークロスでテーブルを拭く。男の前に小鉢を置くと、銚子の首をつまんで男の猪口に酒を注いだ。

 女主人がもとの右側の席に腰を落とすと、待ちかねたように男が言う。

「先を聞かせてくれよ」

「いいですとも。高句麗軍の中堅幹部の間で、真偽はわからないものの、まことしやかに語り継がれている話があるんですよ」

 きついワンピースが突っ張るのか、女主人は正座したまま体を捻り、腰の辺りの布をしきりに直していた。

「それは高句麗人民共和国の建国に功績があったとされる英雄の一人、全正明チョン・ジョンミョン大尉にまつわる話なんです。彼は一九三〇年代に抗日パルチザンの赤い稲妻パルガンポンゲと恐れられていました。その後もしばらく半島北部に留まり抗日闘争を続けていたんですが、一九四一年春ごろまでには物資も底をつき、彼の組織もほとんど壊滅状態になっていました。そこで一時ソ連に逃れ、もう一度、組織を立て直そうと考えたのですが、その矢先に、鴨緑江の上流で日本軍に捕まってしまったんです。日本軍の小船に乗せられ下流に向かって連行されていると、ふとそこに下流の方から白いチマチョゴリを着た若い女性が一人、小船でやってくるじゃありませんか。きっと物売りにでも見えたんでしょう。日本兵たちが、からかおうと船を寄せたところ、その女性は、日本兵たちを次々となぎ倒し、正明大尉を救い出したというんです。それから大尉は高句麗人民共和国の建国へとめざましい活躍をしていくんです。でも結局、高句麗人民共和国の成立直後の一九四八年九月に、正明大尉はスパイ容疑をかけられ処刑されてしまうんですがね。正明大尉を救った美しい女性の名は、張麗媛チャン・リョウォンというんですが、もちろん、それは日本軍を欺くための偽名。この女性こそ、誰あろう、あの韓玉彬さんその人だったんです。つまり、鴨緑江の白い蓮とはチマチョゴリを着た韓玉彬さんの姿を示す表現だったんです」

「なるほど、そういことだったのか」

「慌てないでくださいな。話にはまだまだ続きがあるんですよ」

「というと?」

「ご存知の通り、韓玉彬さんは第二代最高指導者の実母なわけですよ。そこで、彼の父親は、第一代の最高指導者でなく、実は正明大尉だったのではないかという噂がまことしやかに囁かれているんです。社会主義ではありえないはずの世襲による政権移譲に、第一代最高指導者自身が反対していたにもかかわらず、周囲の者がこれを強く推進したというのはこういう事情によるものじゃなかったかというんです」

「に、二王朝交代説か……」

「真偽のほどはわかりませんよ。現指導部が不満の矛先をかわし、支配を維持するためにこの噂を利用しているってことだって考えられます。ただ、どんな過酷な状況の下でも現体制を守ろうと中堅幹部たちが必死に頑張ろうとするのには、女性の身でありながら国家の英雄を救った韓玉彬さんへの強い崇拝の念があることだけは間違いないでしょう」

「なるほどねぇ……」

 それから、男はとりとめもない話をしながら三杯ほど猪口を煽った。

 やがて思い出したかのように口を開いた。

「だが、さっき、君がこの施設が高句麗にとって安全弁だ、と言った意味がイマイチ理解できないんだが……」

「そうですか。だったらこうしましょうよ。こちらからも是非、先生に伺いたいことがありますの。それを伺ってから、お答えするのでも構いませんかしら」

「いいとも、いいとも。何だね、言ってごらん」

「囲碁ってありますよね。私はよくルールを知りませんが……。白と黒というたった二種類の石を並べていくものだとか。ただそれだけのことでも、そこにはその人の隠れた意図、性格といったものが現れるというじゃないですか」

「ああ、そうだね」

「それと同じようなことを私もあのときに感じたんですよ」

「あのときって、いつのことだい?」

「いやですわ。高句麗の侵攻が始まったときですわ。あのとき私は日本にいたんですよ」

「えっ、でも君は確か、こっちにいて結末は知らなかったと……」

「ええ。その通りですわ。でも、始まったときには日本にいましたの。これがどういう意味か、説明はいらないんじゃないかしら。とにかく私はあのとき、少し違和感のようなものを感じたんですよ。それからこっちに来てみて、はっきりそれを確信できたんです。さっきの囲碁と同じように、軍隊の作戦といったものにも、それを考えた人の素性、立場といったものが表れると」

「どういうことだね?」

「あの作戦は、こっちの岸から見ていては到底、思いつかないものだってことです。あれはあっちの岸、日本の方から見て初めて思いつく作戦だったということです」

「日本の方?」

「そう。私は、専門家じゃありませんから、あまり詳しくはわかりませんが、日本の防衛体制というのは、冷戦が終わって二十年が経つというのに、まだずいぶんと冷戦時代を引きずったものになっていたんじゃないかと思うんです。でも、実際に戦争があるわけじゃないので、特に問題にはなったりはしませんでした。そこをあの作戦はついていたんですよ」

「でも、あれは全滅してもいいからと始めたのが、たまたま成功したというだけだよ」

「いいえ。いくら、全滅してもいいとしても可能性もないことをわざわざ始めたりはしませんわ。私は日本が初動で正しく対応していたとしても同じ結果になったと思いますわ」

「どういうことだね」

「対潜能力ばかりに偏った海上防衛網、効果的な集中ができない陸上兵力……。作戦はそんな欠点をついていたんです。そんな欠点はこっちの岸からは決して見えてこない。それどころかこっちの岸からは鉄壁に見えますわ。攻めていこうという気さえ起らない」

「何が言いたいんだね」

 男は少し真顔になっていた。

「もう何も気にすることはないじゃありませんか。本当のところを聞かせてくださいな」

「何のことだね」

「いやですよ。あれは先生が提案した作戦だったんでしょ、犬丸厳先生。あなただったんですよねぇ、高句麗に日本に侵攻するようにけしかけたのは」

「ううっ」

「先生、ここは高句麗ですよ。しかも、高句麗指導部はこの施設には何も口出ししないんですよ。もういいじゃありませんの」

「先生、こう見えて私もこの由美さんも人質だったんですよ」

「えっ」

「聞く権利はあると思いますわよ」

 女主人は、まるで少女のようにふくれっ面をする。

「よかろう。そのかわり、くれぐれもここだけの話にしておいてくれよ」

 そう言うと犬丸は、腹をくくるように猪口を一口煽った。

「君の言うとおりだよ。実はあのとき日本、韓国、アメリカ、中国、ロシアの五カ国の連携した働きかけで、そのままではこの国の指導部は政権が維持できなくなりかねないという危機的な状況に追い込まれていたんだ。そんなときなんとかしてほしいと、高句麗の昔の友人から相談を持ちかけられてね。政権が崩壊したらそれこそ大混乱になる。争っていてもしょうがない。この国は資源が豊富なんだからね。もし、日本政府が撤退費用を負担すれば、その一割をもらうことになっていたんだが、さすがにそこまでうまくはいかなかったよ」

「狙いは何だったんです? 危機を演出することで主流派指導部を一掃すること? それとも再度政権交代を実現するため? あなたはもしかして民本党のエージェントだったの?」

「いいや。僕は、エージェントなんかじゃない。しいていうなら、主流派の一掃だ。おかげで念願の幹事長にも就けそうだし。もう少し辛抱すれば総裁までいけるかな……」

「そうですか」

「今度はこっちの番だ。君のいう安全弁という意味を聞かせてくれよ」

「いいですとも。ところで、犬丸先生、この国の行動パターンというものをご存知?」

「行動パターン?」

「ええ。ときどき世界が驚くような暴挙に出るでしょ。ウランの濃縮だとか、ミサイルの発射実験とか……」

「ああ」

 質問と関係のない方向に話が進んでいるように感じ、犬丸の声にはかすかな苛立ちがこもっていた。

「でも、暴挙に出てもやりっ放しということはないでしょう。施設の一部を公開したり、交渉のテーブルについたり……。暴挙に出たら、次のタイミングでは必ずその混乱を修復するように行動するんです。それが軍事介入を招いてしまう他の国とは決定的に違うところ」

「何が言いたいのかね?」

「あら、気づきませんか? 先生の質問に答えているんですよ。この国がなぜ安全弁を必要としているかってことを……」

 犬丸は眉間に皺を寄せ、女主人の顔を見つめたが、何も言わなかった。頭の中で与えられたパーツを、あれこれとつなぎ合わせていたのだ。

「紛争とは呼ばないらしいですけど、とにかくああいうことがありましたからね。暴挙に出たことには変わりないでしょ。だから次のタイミングでは混乱の修復……。だから安全弁」

 女主人は、顎を上げ薄っすらと微笑みを浮かべる。斜めになった顔から犬丸の反応を窺う。

「あらゆる法律が通用しないここは一見、ブラックホールのように見えるでしょう?」

「まあ、そうだね」

 相槌を打つ犬丸の言葉には力がこもっていない。まだ話が見えていないのだ。

「でもそれは正しくはないんです。実はホワイトホールなの」

「ホワイトホール? それはどういう意味だね」

「ここの特色は区画を誰が買っても自由だってこと。誰が買っても高句麗当局は干渉しないの。それはつまり西側諸国が買ってもいいということですよ。だからホワイトホールなの。確か隣はFBIの区画だったんじゃないかしら……。で、問題は、ここから。ここが肝心……」

 犬丸の目が大きく見開かれ、みるみる血の気が引いていく。犬丸はもうどんな言葉も発することができなくなってしまう。

 そんな犬丸の耳に、女主人の声が届く。

「今、私たちがいるこの区画が、果たしてどこの所有する区画かってこと……」

 それはとても遠く、しかも反響していて、まるで、暗くて深い落とし穴の底で聞いているようだった。

 女主人が最後の言葉を言い終えた瞬間、大きな音とともに背後の襖が勢いよく開く。

 そこには黒い背広姿の屈強な男が二人、立っていた。

 男たちは無言のまま犬丸の両腕を乱暴に掴んで立ち上がらせると、引きずるようにしながら連行していく。


「本当に帰れるのか、今だに信じられないわ」

 由美は落ち着かない様子でそう言った。

 明るい日差しを避けるため、つばの広い白い帽子を被り、白いシャツにブルージーンズという姿だった。

「何を言っているの。この四カ月、由美さんがよく頑張ったからじゃないの。毎日のように宴席に出て、来る日も来る日もお酒を注いできたから、こっちの人たちも由美さんの望みをかなえようとしてくれたのよ」

 庸子はキャスター付きの黒いスーツケースに腰掛け、コンパクトを覗きながら口紅を塗っていた。クリーム色のサブリナパンツに鮮やかな水色のTシャツを着ている。

 二人は玄菟郡の漁港にいた。コンクリートの桟橋の上でこれから乗り込む八トンほどの漁船の出港準備を見守っていた。屈強な体格の黒いスーツ二人と高句麗の兵士四人が、船に水や簡単な食料などの荷物を積み込んでいく。由美と庸子のスーツケースも積み込まれ、最後に大きな黒いバッグが積み込まれた。作業を終えると、由美と庸子を中央に全員が漁船の前に並び、黒いスーツの男一方が少し離れて立ち、デジカメで撮影した。最後に握手を交わすと、高句麗兵たちを残して、一堂は船に乗り込んだ。エンジンが始動し、高句麗兵がもやいを解いて船に投げ込む。ゆっくりと漁船が桟橋を離れていく。

「ようやく日本に帰れるわね、四カ月ぶりだわね」

 岸壁の高句麗兵たちに手を振りながら、庸子が由美に語りかける。

「本当にありがとう。みんなあなたのお陰よ、庸子さん」

「ところで、由美さん」

 庸子が真正面から由美の瞳を覗きこむ。

「何?」

 由美はすこしまごついてしまう。

「由美さんっていくつなの?」

「何よ。いきなり。言いたくないわ、そんなこと」

 由美は少し、おどけたように怒って見せる。

「ねえ、いいから教えて」

「五十よ。五十。もう、すっかりおばあさんよ」

「出身は?」

「東京都世田谷区……。それが何か?」

「やっぱり」

「何?」

「由美さん、面白い話を教えてあげる」

 そう言うと庸子はいたずらっぽく笑った。

「どんな?」

「屈折した男の話よ」

「屈折した男?」

「その男にはねえ、小学校のころから気になる女の子がいたんだけど、一言も口を聞いたことがない。口を聞かないまま、別々の高校、大学へ進み、社会人となったの。男はそれでも女の子のことは忘れなかった。そんなあるとき、男にチャンスが巡ってきた。重大な仕事だったけど、その代わり、仕事をさせる人をある程度自由に選ぶことができる」

「どこが屈折しているの?」

「問題はここからよ。その男が屈折しているのはここからなの。聞いて。その男は、自分では選ばないの。条件をつけるだけ。でもその条件をつければ、必ずその女の子がひっかかると確信している。本当に選ばれたかどうかを確かめもしない。男にとっては自分が条件をつけるたったそれだけのことで、どこにいるかもわからない遠い昔の思い出の女の子が選ばれ、その人生が大きく変わっていく。そのことだけで満足だったのよ」

「それって私に関係ある?」

「さぁ、どうかしら」

 庸子は笑うばかりでそれ以上は説明しなかった。

「私はずっと流されてばかりだわ……」

 目の前に広がる日本海を眺めながら由美がぽつりと言う。

「いいじゃない。そうやって由美さんはやっと大海に辿り着いたのよ。これからはどこに行くのも自由なのよ。その向こうにはいろんな可能性が広がっているわ」

 そのとき海が波立ち、漁船が大きく揺すられた。

 海面が盛り上がり、白い飛沫とともに葉巻型の潜水艦が姿を現す。司令塔の周りには黒くつやのない吸音タイルが張られ、後ろの舵はX字型になっていた。第一潜水艦隊に所属する最新鋭潜水艦「ぬれしお」(艦番号SS―六九六)が迎えに来たのだった。

                     ◇ 

 羽衣作戦を巡る一連の出来事は政界を揺るがす大きなスキャンダルとなり、当時閣僚であった人間は防衛大臣の井草を除いて罪には問われなかったものの、一人の例外もなくすべて政界引退を余儀なくされ、政治生命を失った。

 犬丸厳は事件後から精力的に動き始め、今後、保守党内で絶大な影響力を行使していくものと目されていたが、その年の九月に極東への外遊に出たのを最後に、ぱったりと姿を消し、それ以降、その姿を見たものはいない。



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