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流浪の女神  作者: 廻 石輔
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ターンオーバー

第八章 流通する主婦


                 一


 美津子と別れた由美は、しばらくそこに佇んでいた。

 庸子たちのところに戻るには距離がありすぎた。美津子とともにどんどんと北に進んでしまっていたからだ。

 迷ったあげく、由美は美津子の進んだ方角に歩み出すことにした。

 美津子は由美とは一緒にいたがらないだろう。だったらあまり近づかなければいいのだ。遠くにでも彼女の姿が見えてさえいれば自分は安心できるのだから、と由美は思った。

 別れてから、かなりの時間が経っていた。どこを探しても美津子の姿は見つからない。そこで土手に沿って歩くのをやめ、西の集落の方に入ってみる。美津子もどこかで角を曲がったかもしれないのだ。

 家の影に隠れながら、そっと身を乗り出すと、いきなり高句麗兵が正面に現れ、両肩をつかまれてしまった。由美は悲鳴も上げられなかった。

 男は身長こそ由美より小さかったが、体はがっしりとしていた。無精ひげを生やした顔は少し歪んでいて、どこかカシューナッツのような印象があった。男はその顔に歓喜の表情を浮かべ、前歯の抜けた口から涎を垂らしていた。

 カシューナッツが背後に回る。由美は目を固く閉じるしかなかった。

 このまま乱暴をされると思ったが、カシューナッツは由美の両腕を後ろから掴むと、由美の体を前に押し出そうとする。どうやら、そのまま歩くように命令しているようだった。

 まるで白い耕運機を動かしているようだった。カシューナッツは周囲を窺いながら、物陰に隠れるようにして由美を進んで行かせた。角を何度か曲がり、一時間ほどかかって小さなマンションに辿り着いた。その場でカシューナッツが大きな声で叫ぶ。しばらくすると、中から、二十代半ばの痩せた高句麗兵が出てくる。その男は、しげしげと由美の体を眺めまわし、由美の顎を掴んで顔を覗きこむ。思わず由美は目を閉じてしまう。

 痩せた男は一度マンションに戻っていき、ふたたび現れたときには、スーパーの白いビニール袋を下げていた。カシューナッツが中身を点検すると、キムチの二〇〇グラムが一パック、三五〇ミリのビール一缶、サバの水煮一缶、さんまの蒲焼一缶、魚肉ソーセージ四本、二十本入りマルボロライト二箱が入っていた。

 カシューナッツは不満そうにしていたが、痩せた男が自分のポケットからマルボロライトをもう一箱足すと、急に笑顔に変わる。それで由美の所有権は痩せた男に移った。つまり、白いビニール袋の内容物とマルボロ一箱が由美の下取り価格だったのである。

 由美は、なぜカシューナッツが自分を襲おうとしなかったのだろうかと考えてみた。

 恐らくあの男は路上生活者で自分のアジトを持っていなかったのだ。もし、あのまま路上で何らかの行為に及んでいたら、あちこちから高句麗兵たちが群がってきただろう。そうなると、もう由美はだれの持ち物かわからなくなってしまう。だからそんな危険を冒すよりもてっとりばやくモノに換えたかったのに違いない。

 痩せた男は由美をマンションに連れて入ると、地下駐車場へと降りて行った。

 薄暗いそこに由美を乱暴に投げ出すと、ドアを閉めて出ていった。ドアは逃げられないよう反対側からイスとテーブルで塞がれてしまった。階上に四、五人の高句麗兵がいるらしいことがドアを通して聞こえる声でわかる。今度こそ逃げられる可能性はなくなってしまったんだなと由美は沈んだ。

 そこは酸っぱいような、汗臭い匂いが充満していて息苦しかった。

 目が慣れてくると駐車場の中には由美のほかに二人の女性がいるとわかった。少しツッパッた感じのえらが張り、細い目をした若い娘と、筋肉質でバレリーナのような体つきの目の窪んだ年配の女性だった。二人とも疲れた様子で、由美も自己紹介はしなかった。せっかく知り合えた美津子とも離ればなれになってしまったこともあり、深入りすることに臆病になっていたのかもしれない。二人の名を知らない由美は心の中で若い方をエラ娘と呼び、年配の女性をプリマと呼んでいた。プリマとはプリマドンナという意味だった。由美はエラ娘の方には最後まで好感が持てなかったが、何かと助けてくれたプリマには感謝していた。本当はもう一人いたのだが、いつも階上に連れて行かれていて、由美はほとんど顔を合わせなかった。

 食事は、夜に一度だけ、いつも痩せた男が持ってきた。調理用のプラスチックボウルに入れた水と、ラーメン丼に入れたスープが出された。水は飲んだが、スープはとても飲む気にはなれなかった。

 ほとんど一日中途切れることなく女性の悲鳴が聞こえていた。そのたび、今度は自分の番ではないかと、由美は生きた心地がしなかった。

 そんな女性の悲鳴が聞こえているときのことだった。

「あのババア、いい歳してギャアギャアうるせぇな! 静かにしろよ、まったく」と、エラ娘が吐き捨てるように言った。ババアというのはこの娘の感覚だ。一歳でも年上ならそう呼びそうだった。そんなに歳がいっているはずはない。恐らく由美より若いだろう。

 すると、離れて座っていたプリマが「めったなことを言うもんじゃないよ」とたしなめた。

「こうして休めるのは誰のおかげだと思っているんだい? あの子がああやって大きな悲鳴を上げるから、男たちは面白がってあの子に集まってるんじゃないか!」

「それじゃあ、何かえ。アンタはバアさんがわざと悲鳴をあげているとでも言いてぇのかい?」

「バカだね。それだったらどんな間抜けだって気づくだろうが。正真正銘、本当に泣きわめいているから、男どもはあの子から離れられないんだよ」

 由美はそういうものなのかと思いながら聞いてた。

 その後も由美はずっと怯えていたが、ついに声はかからなかった。

 時間の経過があまりよくわからなかったが、二日ほどたったと感じたころだった。

 痩せた男が降りてきて、三人を階上へ連れ出した。

 一階に出ると、由美は思わず深呼吸をした。少し生き返った気がした。ロビーから見える景色と光の加減から、晴れた日の午前中なのだろうと由美は思った。

 三人はそのまま、軽乗用車のワンボックスカーに乗せられた。白いスズキのキャリーだったが、窓は内側から目張りがされていた。女性を乗せているのを見られるとほかの高句麗兵が集まってきてしまうからだろう。

 由美はどこに連れて行かれるのか不安で、何か情報を得たかったが、同乗の二人の女性は押し黙ったまま車に揺られている。仕方なく由美も口をつぐんでいるしかなかった。

 車は乱暴な運転で進んでいき、町外れの運送業者の事業所にとまった。大きなトラックが何台も止まっていて、そのトラックが事業所の内部を隠していた。

 キャリーは敷地の北側にある事務所の脇に横付けする。

 そこに、頭にタオルを巻いた、やや太った髭面の男が待っていた。細面の男は運転席から顔を出し、その男と何やら話をする。やがて細面の男が降り立つと、キャリーのスライディングドアを開け、由美たち三人を降ろした。由美はすぐに周囲の様子をうかがってみる。事務所正面にトラックで囲まれたスペースができていて、コンクリートの地べたに三十人近くの高句麗兵が腰を下ろし、タバコを吸いながら談笑している。

「イテェだろが!」

 突然、エラ娘が声を荒げた。

 髭面の男は、消し炭のようなものでエラ娘の背中に何やら記号を書いていたのだった。抗議にも男はまったく動じず、事務的にプリマ、由美の背中にも書いていく。確かに痛くて悲鳴を上げそうになる。

 エラ娘の背中に書かれたものを見ると、ハングル文字と数字を組み合わせたもののようだった。ハングル文字が細面の男の苗字かもしれなかった。髭面の男は、女性たち三人に、勝手口から事務所に入るよう指示した。

 ドアを開けると、すぐそこが給湯室のようになっていて、その奥に応接セットが置かれていた。そこにはすでに五人の女性たちが疲れ切った様子で腰をかけていた。そのソファーの隣には衝立が置かれており、その先が本当の事務スペースになっていた。

 事務スペースの右側は全面がガラス戸になっていて、そのすぐ外は高句麗兵たちがたむろしている場所になるのだが、今そこには灰色のカーテンが引かれ、外からは見えないようになっていた。蛍光灯はともっていないが、三方の壁にはそれぞれ摺りガラスの窓があり、カーテンも遮光性ではなかったので室内は結構明るい。

 ガラス戸から少し離れて、受付台を兼ねた腰ぐらいの高さのスチール製キャビネットが一列に並んでいる。その左に、事務机が八脚、向かい合わせに並べられていた。そこに十四、五人ほどの女性たちが座っていた。イスは全員が座る分はないため机の上に腰かけている女性も多い。女性たちは話をしているが、よく見ると、四、五人ずつがひと塊となり、三つのグループになっているのがわかる。女性たちはそれぞれ別の高句麗兵のグループから集められてきたのだろう。グループはそのアジトごとになっているのかもしれない。

 一番手前のグループには、骨格標本のような痩せた女性がいた。頬がこけ、目が落ち窪んでいて、長い二本の前歯が唇の間から覗いていた。油っ気のない髪は、前髪を極端に短く切り揃えていて、項も高く刈り上げている。まるで茸の傘が開き切ったような髪型で、なぜそんなふうにしているのか、由美は不思議でならなかった。

 彼女は前かがみになって膝に肘をついたままの姿勢でしきりに体を動かしている。まず両手をこめかみに当ててマッサージをすると、額の間で両手を合わせ、今度は両の親指で眉間をしばらくぐっと押さえる。それが済むと両手を拝むように合わせたまま前後に四回動かした。その一連の動作を際限なく繰り返している。それをやっていれば落ち着くことができる常同行動というものなのだろう。由美には彼女が高度な思考作業をしている哲学者のように見えた。

 その次のグループは、机の上に長く足を延ばして座ったモデルのような女性が中心になっている。カールした茶色の髪を長く伸ばしたその女性は、周囲の仲間と話しながらコンパクトを覗き込み、念入りに化粧をしていた。

 ピーナッツの粒のような小さな顔していて、目はそれほど大きくはないものの、尖った鼻とぷっくりと厚い下唇が印象的だった。褐色の体にはどこにも水着の跡が見当たらず、どうやって焼いたのか由美には想像もつかなかった。肌はとても張りがあって、油がにじんだような光沢を放っていた。腰の辺りは信じられないほど括れている。

 その奥のグループには、驚くほど若い娘がいた。百五十センチを少し超えるぐらいの小柄で、丸く広い額の下に、黒目がちの瞳が輝いている。肉付きの良い短い鼻がアクセントになっていて、その下の口と顎は赤ん坊のように小さかった。実際の年齢はわからないが、大学生の紀美香よりも随分若く、どうみても十代にしか見えない。こんな若い子まで選ばれていたのかと由美は思わず同情してしまう。彼女は落ち着かなさそうに回転椅子を左右に動かしていたが、そんなわずかな動作でも、茶色味を帯びた長い髪の毛が靡いた。それほど滑らかな髪だった。

 部屋の一番奥に一つのイスが開いていた。エラ娘はそれを見つけると、もうそれは自分のものと勝手に決めてかかり、どんどんと進んでいく。仕方なくプリマが後をついていき、由美もそれに続いた。

「いったい何が始まるのかしら」

 由美が不安を隠せず、つい口走ってしまう。

「あんたってババアは本当に察しが悪いねぇ。いったいどれだけ無駄に歳食ってんだ!」

 エラ娘が噛み付いてくる。どちらかといえば、プリマに向けて話したつもりだったのだが、エラ娘はいつになく攻撃的になっていた。

 高い声を上げたので、周囲の女性たちの注目が集まる。

「何をそんなにイラついているのさ。みんなが見てるだろ。こっちが恥ずかしいじゃないか」

 プリマが厳しくたしなめてから、由美の方に向き直った。

「今から女たちのセリのようなことが始まるんだよ」

「えっ」

 由美が絶句する。

「高句麗兵はみな最初、できるだけ多くの女たちを捕まえたがったんだよ。でも捕まえたはいいが、ずっといたぶりつづけているだけでは済まないだろ。たまには飯もくわさなきゃあいけないからね。それがだんだん重荷になってくるんだよ。だったら女を逃がせばいいんだが、欲がつっぱってるもんだからそれができないのさ。で、金を持っているヤツに高く売ろうってんで、こういうことを始めたのさ」

 それでは女性は家畜と同じということか。とうとうそこまで落ちてしまったのか、私は。由美は眩暈めまいがしそうだった。

「心配しなくても、あんたみたいな年増を買うような物好きはいないよ」

 エラ娘が、体を投げ出すように乱暴にイスに腰を預ける。

「ちょっとぉ!」

 声を荒げたのはモデルだった。

 アイラインを入れる微妙な作業をしていたのに、エラ娘の乱暴な動作で机が揺れ、手元が狂ったようだ。

「バッカじゃねーの。そんなに高く買われてぇのかよ、テメェはよぉ。プライドってものがねぇのか、プライドってものがよぉ。せいぜいめかしこんでいたぶられるこったな」

「残念ね。そんなにトロくはないよ」

「フン!」

 恐らくこのモデルは美津子のようなタイプの人間だろう。高句麗兵に対する恐怖心というものがまったくない。全裸でいても、男たちの間を無傷で泳ぎまわれるほど、人あしらいがうまいのだろう。言葉が通じなくてもそれができるというのなら本当に敬服するほかにない。

「アンタがなんで、そんなにイラついてるか察しはついてるよ。フフフフ。あー言いたくて堪んない!」

「黙れ! このバイタが!」

「それ、意味わかんねぇし。アンタ、いつの時代の人間?」

 感情をむき出しにしたエラ娘とは対照的にモデルは余裕たっぷりだ。

 由美は会話を聞かされていて、エラ娘の言い分は筋が通っているようにみえて何か違和感があった。確かに自分に値がつくことに期待するのはプライドがない行為ではある。しかし、そう言うエラ娘はずっと公正に振る舞ってきたわけではない。どちらかといえば自分勝手に自分の利益だけを追求してきた方だろう。

 先ほども、イスが一つしか空いてないとみるや、年長のプリマや由美に譲ろうともせず、まっさきに自分のものにしてしまう。そんな人間が、こんな無法な環境で人に値段を付けることだけに、ことさら抵抗するのは少し筋が通らないように感じてしまうのだ。

「アンタ、本当は、羨ましいんじゃないの?」

 モデルがエラ娘の微妙な部分を突こうとする。

「何だと、テメェ」

「アタシはさぁ、ここに来るのは初めてなんだけど、アンタは経験者じゃなあい? そっちのでっかいおばさんは知らないけど、筋肉おばさん共ども買い手がつかなかったってとこでしょ、違う?」

 なるほど、そういうことかと由美はようやく合点がいった。それでプリマは、ここがどんな場所かよく知っていたのだ。プライドをひどく傷つけられたエラ娘はそれでイラついていたのか……。

 その考えが表情に出てしまったらしく、エラ娘がすぐ由美にくってかかってくる。

「何を見てやがるんだ。このババア!」

「およし!」

 プリマがエラ娘を諌める。

「そういうテメェもお払い箱になったから、ここに送られてきているんだろーが!」

 エラ娘がようやくモデルへの反撃の糸口を見つけた。

「あんまり食うもんに困ってたから、こっちから提案してやったんだよ。みんなアタシと離れるってんで泣きの涙さ」

 説得力の乏しい反論だったが、即座に切り返せるのがモデルの強みだ。

「いいかげんなことをほざくな!」

「もう、およしったら」

 プリマが大きな声で二人を制止する。

 そのとき、ドアの開く音がした。由美たちからは見えないが勝手口から、あの髭面が入ってきたようだった。どうも給湯室横の応接セットに座っていたグループを連れ出しているらしい。いまではそこにどんな女性がいたのかも記憶にない。

 突然、カーテンの向こうから高句麗兵たちの歓声のような声が沸き起こる。

 司会者と思しき低い男の声で短い話があった後、次の瞬間、会場のあちこちからかけ声のようなさまざまな質の声が響く。恐らく入札をしているのだろう。カーテンを少し開ければ様子を窺えるのだが、あえてその様子を確かめようとする女性はいなかった。

 セリは順調に進んでいるのだろう、ついにさっきの髭面が衝立のこちら側にやってきた。哲学者らのグループを連れ出そうとする。恐らく進行が遅れないように舞台そでに待機させておくのだろう。その時、衝立が傾いてチラッと応接セットの辺りが見えた。全員がいなくなったと思っていたのに、たった一人座っている女性がいた。肩を落としうなだれている。

 それを目ざとく見つけたモデルは、意味ありげな笑顔を浮かべながらエラ娘の反応を窺おうとする。エラ娘は顔をそむけ気づかない振りをした。

 そこに部屋を出て行ったばかりの哲学者がたった一人戻ってくる。彼女は、元の席に座るなり、またさっきと同じような常同行動を始めた。哲学者のグループのセリはまだ始まってもいない。彼女の容姿を見た司会者が値がつかないと即座に判断し、戻されたとしか考えられなかった。

 哲学者を見たモデルは、さすがに申し訳ないと思ったのか、両手で顔を覆った。括れた腹筋が痙攣している。

「気にすることはないよ」

 プリマが哲学者に声をかける。彼女に悪気はなく、自身も以前に値がつかなかった体験を味わっていたために慰めようとしたのだが、その瞬間、モデルの我慢が限界に達した。モデルは爆笑してしまう。

「ちょっとぉ、もう、やめてよぉ」

 そう言いながらモデルは両目の涙を長い指で拭っている。もう一度、化粧をやり直すしかなかった。

 そうしているうちに、ついにモデルのグループの順番が来た。彼女のグループは四人だったが、三人を先に行かせ自分は最後の位置につく。

 やがてカーテンの向こうからセリの様子が聞こえてくる。モデルがいよいよ登場したらしく会場のテンションが一気にあがる。それまで聞いたことのなかった口笛や、歓声が聞こえてくる。ただ体を晒すだけで、こんなに場を盛り上げることができる人間がいることに由美は驚いた。

 競り合いが延々と続き、落札まで長い時間がかかった。

 その様子を聞いていたプリマが驚きを隠せないといった表情する。彼女は少し高句麗語がわかるらしい。

「四五〇だって」と告げる。

「ちくしょう」

 エラ娘が露骨に悔しがる。

 由美にはまったく彼女らのやりとりが理解できなかった。

 今度はアイドルのグループの番だった。

 彼女はしきりに唇をなめたり、顔の表情を整えたりしている。まるでオーディションを待つ少女といった感じだった。

 彼女は、自分に値段がつけられるということに抵抗を感じないのだろうか。

 そんな由美の視線から、考えを察したように、プリマが口を開く。

「みんな、私たちのいるところと似たり寄ったりの汚いところに押し込められているんだろうよ。どうせ囚われるんだったら、少しでもマシなところに行きたいと思うのが人情さ」

 彼女は決して自分の尊厳を捨ててしまっているわけではないのだろう。できることなら解放されたいと願っている。でも、それが当面かなわないのなら、少しでも良い環境に行くための努力をしようとしているのか。

 もう残されいているのは由美のグループしかなかった。

 刻一刻と自分たちの出番が近づいていくる。何かを期待しているわけでもないのに、なぜか緊張してくる。

 自分が家畜のように扱われ、値がつけられるということには抵抗があった。しかし、あの悪臭のする監禁場所にはもう戻りたくはない。これから先、あんな場所に閉じ込められていては病気になってしまうだろう。本音を言えば、もう少しましな場所に移りたいという気持ちも確かにある。

 だが、恐らく……。自分には値がつかない。ほかの女性に比べてあまりにも歳をとりすぎている。あの輸送機の中で味わったような惨めな気分に苛まれてしまう。それにしても、そもそも、なぜ、自分のような年齢のもの選抜するのか、作戦の担当者が腹立たしく思えてきた。

 髭面が迎えに来て、いよいよ由美たちのグループも舞台そでに向かうことになった。

 エラ娘、プリマ、由美の順に進む。

 そこでたった一人、事務所に戻ってくるアイドルとすれ違う。

 泣きはらした真っ赤な目をして俯いていた。

 何と、彼女には買い手がつかなかったのだ。

 これが日本なら、アイドルはモデルとも十分に張り合えただろう。渋谷あたりの繁華街を歩いていたなら、五メートルと進まないうちに男に声をかけられるはずだった。しかし、高句麗にはまだアイドルを受け入れるような素地はできていなかった。ただの発育遅れの女の子というふうにしか映らなかったのだろう。

 アイドルは、一人寂しく勝手口から事務所に入っていく。そこにはソファーに座った一人と、あとは哲学者しかいない。由美はアイドルの気持ちを考えると、とてもいたたまれなくなったが、他人を心配している場合ではなかった。

 エラ娘が舞台に出ていく。

「タウ(次)! タウ(次)!」

 その瞬間、会場から声を合わせた大きな掛け声がかかる。

 やむなく、すぐにプリマが舞台に送り出される。

「タウ(次)! タウ(次)!」

 プリマが舞台に出た瞬間、さらに怒りが加わったような声がかかる。

 案の定、エラ娘もプリマも買い手がつかなかった。本当に心配しなければならないのは彼女たちかもしれなかった。食料の負担を逃れるため、手間をかけて二度も市場に持ち込んだのに、それでも買い手がつかないとすれば、今後、持ち主はどんな対応をするのだろうか……。

 いよいよ由美の番となった。

 髭面の男に、コの字型に三方を囲まれた段ボールの後ろに立つように指示された。段ボールは建材か何かを包装していたものらしく、一七五センチの由美がすっかり隠れてしまうほど大きかった。その段ボールの後ろに隠れて中央まで進み、そこで姿を披露するという段取りになっているようだった。先入観を持たせないためか、演出上の理由なのだろう。

 段ボールを持つ髭面の男の歩調に合わせて、由美は歩いていく。すぐ近くにいる男たちの息遣いが感じ取れ、緊張してくる。

「チャ、 オルマイニ(さあ、いくらだ)?」

 司会者の合図とともに、髭面が段ボールを取り去る。

 由美の前に大勢の男が座っていた。

 ほとんどの男が浅黒く日焼けし無精ひげを生やしている。体つきはさまざまでがっしりした男もいれば、異常に痩せ細った男もいる。顔を歪めて煙草を銜えた男やスナック菓子を頬張っている男もいた。

 驚いたことに男たちが手にしている紙幣はグリーンやピンク、黄色というとても鮮やかな色をしていた。それは由美もイタリア旅行で手にしたことのあるユーロ紙幣だった。しかも一人ひとりが相当な額を持っている。なぜ、彼らがユーロ紙幣を持っているのか、由美には想像もつかない。さっきのモデルの四五〇という入札額は四五〇ユーロ、日本円にして四万四〇〇〇円ほどだったということになる。

 その男たちは今、由美の姿を前に、どう反応をすればいいのかわからないとでもいうような複雑な表情を浮かべている。

 恐らく、これまでの女性に比べ年齢が高いことに驚いているのだろう、と由美は受け取った。早くこの瞬間が過ぎ去ってほしいと思いながら、顔を伏せた。

「五〇〇(オペグ)!」

 会場の中央後方から声がかかった。

 男たちが驚いて振り返る。

 すると、そこには小柄で浅黒い男が立っていた。

 ほかに争う者はいなかった。それは破格の値段だった。さっきのモデルでさえ四五〇ユーロだったのだ。

 司会者は「オペグ」と復唱し、その男を指差した。

 小柄な男はそのまま舞台中央まで歩いてくると、その場でグリーンの一〇〇ユーロ札五枚を差し出す。司会者は右手で受け取りながら、由美の背中に左手を当て、小柄な男の方に押し出す。

 小柄な男は由美の手を握り、そのまま、後方へと連れて行く。男は由美より十五センチ近く低い、一六〇センチに届くかどうかという身長だったが、がっしりとした体をしていた。堅そうな髪が頭から突き出るように伸びていて、顔は上下に圧縮されたような逆三角形をしていた。年齢は二十代半ばといったところだが、額には深い皺が一本刻まれていた。

 トラックの間を抜けていくと、白いワンボックスカーが止まっていて、その前に身長一八〇センチを超える屈強な男が二人立っていた。ワンボックスカーはエルグランドだった。男の一人は運転席に乗り込み、もう一人がスライディングドアを開けた。

 小柄な男は右手を差し出し、由美に、その車に乗るように指示した。

 由美がステップを上がり、気をきかせて三列目のシートに向かおうとすると、小柄な男は何やら甲高い声をあげてそれを制止し、運転席後ろの二列目に座るよう勧めた。

 エルグランドは、由美が足を踏み入れたこともない東の山側へと進んでいく。

 窓から見える景色を見ながら由美は思った。

「これじゃ、だれも私を見つけられないだろうな……」


                 二


 翌日、庸子と京子の二人は、まだ日が高いうちに行動を始めた。

 問題のストーカー男を見つけるためには何より男たちの顔を確認しなければならないので、その作業は日があるうちでなければできないのだ。

 まずは温泉街の方に向かおうと、岩船漁港から石船神社を通る道を進んでいく。が、その先の温泉街の辺りは絶えず高句麗兵の人通りがあってあまり近づけない。庸子は遠くから、その高句麗兵たちを眺めていたが、問題の男は見当たらないようだった。

 ふたたび水田が広がる一帯に戻り、今度は瀬波温泉トンネルの方を窺ってみる。トンネルの中は、高句麗兵たちのねぐらとなっていることが遠くからでも確認できた。あまり近づけばこちらの姿を晒すことになってしまう。二人は離れたところに身を隠した。庸子がリュックから小型で緑色をした双眼鏡を取り出し、しばらくそれで眺めていたが、入口付近の見える範囲に姿は見当たらないようだった。トンネルの中は暗く、ほんとど顔を見分けることさえできなかった。

 その場を諦めた二人は水田の方へと戻り、雑草の生い茂った畦道を身を低くして進む。遮るものがないため、遠くの方に女性たちが固まっているのが見えた。そのまま市中心部の南側を目指した。

 道には出ず、建物の裏側などを進み、ようやく羽越本線の踏切を越える。

 大きな交差点があり、その角にはガソリンスタンドがあった。

 「ハイオク一六一 レギュラー一五〇 軽油一三〇」と営業していたときのままの看板が立てられている。

 そこに男たちの笑い声が聴こえてくる。

 市内中心部の方から数人の高句麗兵が歩いてきていた。二人は慌てて物陰に隠れる。

 高句麗兵が頻繁に通行していて、とても探し回れるような状態ではない。

 身動きがとれなくなってしまい、薄汚れた作業小屋へと逃げ込む。

 裏の勝手口のドアを壊して、中に入ってみると中は埃っぽく、藁のような匂い立ち込めていた。

 コンクリートの土間の中央に、五十センチくらいの高さのベッドのような機械が置いてある。もとは緑色だったその機械は埃をかぶっていてもう随分長く使われていないようだった。イグサの切れ端が散乱しているところから考えると、畳屋の作業場だったようだ。

 玄関のアルミの戸は半分が窓で、そこ摺りガラスが嵌めれていた。二人は外から姿を見られないよう、機械の後ろに身を隠した。京子がコンクリートの土間にそのまま腰を落ろすと、そこはひんやりとしていた。

「これから先はダメね」

 庸子が言う。

「兵士たちが何だかきちんとしていて、秩序だっているように見える。恐らく、高句麗軍の司令部が近くにあるんだわ。こんなところじゃ、女性を探してうろついているヤツなんかいそうもないわ」

 庸子のアイディアに望みをかけたが、どこを歩き回ってもストーカーとやらの姿は見当たらなかった。もちろんその存在を知るのは庸子だけだったので、京子は何もできずに後をついて歩くしかなかった。そのため余計に疲れたような気がした。

 結局、何の成果もないまま、また夕暮れを迎えようとしている。

 もともと大勢の中からたった一人を見つけようというのだ、そんなに簡単なことではない。

 なんとか気持ちが切れないようにしなければと京子は思った。

「あー、落ち込みそう。でも、落ち込んじゃダメ」

 京子が頭で考えていることをそのまま声に出すので、庸子もついつい笑ってしまう。

 庸子はリュックからペットボトルを取り出して水を飲む。

「それがアンタの気分転換の方法なの? そうだっけ、昨日は確か……」

 そう言いかけた庸子の顔から、突然、表情がなくなってしまう。

「どうしたの? 庸子さん」

 心配になった京子が庸子の肩に両手をかけて揺する。

「大丈夫? 庸子さん」

 揺すられるままになっていた庸子の目に光が蘇り、それが京子に焦点を結ぶ。

「ねぇ、海に行ってみましょうよ」と庸子。

「これから?」

「ええ。それが彼らの原点じゃないかしら」

「どういうこと?」

「アンタ、昨日言ってたじゃない。何かうまく行かないことがあって、こらからどうするか迷ったら、海を見に行くって。きっと彼らも同じよ!」

 根拠はないが、京子もそれは正しいような気がした。

 周囲に目を配ると、二人は海を目指した。一度もそこに足を踏み入れたことはなかったが、山の反対側が海だということは容易に想像がつく。

 やがて河口に無数の船が係留された漁港に出る。辺りに人影はない。防風フェンスが長く続いていて、海水浴場の案内板が出ている。もうそのときには二人とも走っていた。コンクリートの堤防に上り、フェンスの隙間を抜ける。砂浜が広がり、海が見えてきた。

 太陽は沈んでしまっていたが明るさは残っている。海の色は深くなり、空は灰色がかった水色から黄色に変わり、最後は赤紫になって海に落ちていた。穏やかで波もあまりたっていない。

 砂浜はずっと遠くの山の方まで続いていて、遠くに温泉街のビルがいくつも立っている。

 走り出た庸子がその場で回転しながら、辺りを見回す。

 海の中にはテトラポッドの列があり、そのあたりに無数の漁船が漂っている。砂浜は何万人もの人間が歩いた跡でデコボコになっていた。上陸作戦の痕跡が生々しく残っている。

 だが人影はない。

「あれは!」

 京子が声を上げ指を差す。

 砂浜の向こう、フェンスで隔てられた丘の上に人が一人座っていた。

 庸子が目を凝らす。

 それはまぎれもなくあの男だった。


                 三


 薬で朦朧としていた高江は、肌寒さを感じ始めて、ようやくその状態を抜け出した。

 ヘリから降ろされたとき、まだ日は高かったのに辺りは真っ暗だった。

 一面に草が生い茂っていて、その後ろに樹木があることは見てとれる。

 人工的に整備されたもので公園か何かのようだった。

 石畳が続く先には、宇宙船のような丸い銀色の建物が鈍い光を放っていた。自分がまるで別世界へ瞬間移動でもしたような錯覚に陥りそうだ。

 しかし、よく見るとその後ろには大きな体育館も見え、普通の日本の都市だとわかる。多目的施設を集めた場所のようだった。

 高江は知らなかったが、そこはパルパーク神林という総合運動公園だった。体育館、グラウンド、交通公園、屋外プール、野球場などが設置されていた。すぐ西には女性たちの固まっている場所があるのだが、何の知識も与えられずヘリで連れてこられた高江にはわかるはずもなかった。

 辺りに人影はなかったが、男達には侵攻地帯だと聞かされていたので、高江には住居や施設にはすべて高句麗兵が潜んでいるように思えてくる。

 一瞬、ここに留まって何が起こっているか、しっかり自分の目で確かめるべきか、とも思もってみたがとてもそんな気力が続きそうにない。まずは身の安全が第一だ、生きて脱出することを優先しようと考えた。

 目が慣れてくると民家の後ろには水田が広がっていて、遠くに山が見える。奥の方の山の谷筋にはまだ雪が残っているようだ。

 改めて自分が遠くに運ばれてきたことを実感する。

 周辺の大まかな様子が頭に入ると、侵攻地帯の外に出るには民家の間を抜けていくより、人のいなさそうな山の麓に沿って南下していく方が安全なのではないかという気がしてくる。

 そこでいったん、東の山の方へ進むことにする。

 自分の腹に触れてみると恐ろしく冷たくなっていた。こんなときに体調を崩すわけにはいかない。手のひらでしばらく摩擦して温めておく。両方の腕をピッタリと密着させて腹を覆うと、少し前かがみの姿勢をとり、歩き始めた。

 時間にして三十分。身を低くし、水田の間を一・五キロほど歩くと、ようやく木々の茂る山の麓に出た。

 そこから今度は南を目指していく。道は土を踏み固めたもので舗装もされていない。

 南への一歩を踏み出した瞬間、左手の山の方から枝の折れるような乾いた音が響いた。

 高江は飛び上りそうになるほど驚き、その場に身をすくめる。

 あきれるほど長い時間、その場にじっとしていた。

 やがて、こんなに自然が豊富なら野生の動物がいても不思議はない。恐らくキツネやタヌキが通ったのだろう、と思い直す。

 深呼吸をしてから、歩み出す。

 すると、一メートルほど前の木々の間から汚れた高句麗兵が滑るように転がり出てきた。その兵士は赤黒く日焼けした四角い顔に無精ひげを生やし、背中にはたくさんの木の枝を背負っていた。

 日本に来ても高句麗にいたころの生活スタイルが変えられず、山に枯れ木を拾いに来ていたのだ。電気の通じていない侵攻地帯では、燃料や灯りの元となる薪を集めることは理にかなった行為でもあった。

「ぎゃぁああああ」

 高江は大声で悲鳴を上げると、一目散に駆け出した。

 もともと身長もあり、運動神経もあるほうだった。

 枯れ枝を背負った高句麗兵に追いつけるはずもなかった。

 だが、高江に後ろを振り返る余裕はない。

 息の続く限り、走り続ける。

 そのときだった。右足のつま先が何か丸い縁に当たり、バランスを失う。とっさに体を支えようと左足を伸ばす。だがその先には地面がなかった。


                 四


 その家は、小高い丘の麓にある一軒家であった。広い庭がある典型的な農家とも言えたが、家屋は新築したばかりのようで、小さな石を積み上げたようなデザインの白い外装ボードで覆われている。

 落ちつたベージュのドアには右と左に縦長の窓がついていて、幅広い右側の窓には格子状の覆いがついていた。男は、薄い板が弧を描くアルミ製ハンドルを持ってドアを開ける。大理石のようなタイルを敷き詰めた土間の上に、低く幅広い式台があり、さらに少し段差があって落ち着いた深い色の床となっていた。それは幅広い廊下となって家の奥へと続いている。

 浅黒い小柄の男は土間で、靴を脱ぐと、廊下を進んでいく。裸足のままの由美は汚れた足できれいな廊下に上がるのは気が引けたが、足を拭うものも見当たらず、そのまま上がっていくしかなかった。

 廊下の右手は二十畳ほどの広さのリビングルームになっていて、今そこでは胡坐をかいた四人の男たちがカードゲームに興じている。彼らはみながっしりとした筋肉質でよく日焼けしていた。由美の姿を認めると、四人とも驚いた様な表情を浮かべ、ずっと由美の姿に見入っている。

 そのリビングルームの先にダイニングルームとキッチンを兼ねた十六畳ほどの部屋が繋がっていて、小柄な男はそこへ由美を連れて行く。背後からは四人の男たちがまだ視線を投げかけていた。

 小柄な男は、テーブルの脇のクーラーボックスの白い蓋を開ける。水色のボックス本体には五〇〇ミリリットルのペットボトルのミネラルウォーターが四ダースほど並んでいた。

 小柄な男は由美の方に顔を向けると、手で飲むようなしぐさをした。いつでも自由に飲んでいいということなのか。

 男はその部屋を出てて、ふたたび廊下へと戻る。行きどまりとなったところにトイレの扉があった。男はドアを開け、由美に中を見せる。この四日ほどは高句麗兵がずっと使っているようだが、なかは住人がいたころのまま清潔に保たれていた。男はタンクの脇についたレバーを動かし、水を流して見せた。男は、水洗トイレの水を常に補給していることを教えたかったのだろうが、由美は、このような農村地域でありながら下水道が完備していることの方に驚いた。

 男は廊下に戻ると、今度はまた玄関の方へと向かう。

 そのとき、玄関扉が開き、エルグランドを車庫に収めていた大柄な二人の男が戻ってくる。二人はそのままリビングルームの方へと向かい、何か言葉を交わしながら、四人の車座に加わった。

 廊下のなかほどで、小柄な男は二階へとつながる階段へ由美を案内する。

 階段を上ると二階にも廊下があり、左右に二部屋ずつ、四部屋が設けられていた。

 男は日当たりのよい南西の部屋に進み、そのドアを開ける。

 部屋には、中央に大きな木製のベッドが置かれ、周囲には衣装ダンスのほか、ローチェストや鏡台も置かれている。どうやら元は女性の部屋だったようだ。

 男はドアのノブに手をかけたまま由美の方を向くと、顎を動かし、中へ入るように促した。ここが当面の由美の部屋であるらしい。由美が中へ入ると、男は外側からドアを閉めかけたが、少し隙間を残したままにした。

 由美は、ベッドの方へとぼとぼと歩いていくと、そこに腰を降ろした。

 部屋にはさまざまな調度品が揃っていたが何も目に入らなかった。

 膝に腕を置くと外側へと転がし、ピンクに染まった自分の掌をしばらく眺めていた。

 この数日間、あまりに多くのことがありすぎた。あれはすべて本当に起きたことなのだろうか……。

 買い物に出かけたところ、そこに突然、市の職員と自衛隊員がやってきた。

 人生で初めてヘリコプターに搭乗させられたかと思うと、驚く暇もなく全裸のままパラシュートを背負わされ、輸送機に乗せられた。そのまま上空まで連れて行かれ、そこから突き落とされた。心臓が飛び出しそうなくらいの恐怖を味わいながらパラシュートで降りたのも束の間、多くの高句麗兵が襲いかかってきて気を失ってしまう。ようやく庸子という頼りがいのある女性と知り合えたと思ったら、高句麗兵たちに捕まってしまった。アジトに連れ込まれ、もう逃げられないと諦めかけたとき、高句麗兵同士の混乱に乗じて何とか逃げ出すことができた。そこで美津子という心強い味方に出会えた。それで安心できると思ったのに、彼女は由美を残して去ってしまう。そしてまたも高句麗兵につかまったかと思うと、今度はあろうことか家畜のようにセリにかけられ、売り飛ばされてしまう。そして、やってきたのがここだった。

 階下には屈強な男が六人もいる。もうどこへも逃げられない。ここが行き止まりだ。

 由美は眺めていた手から、白い腕を走る青い静脈をたどっていった。そして左胸に手を当てててみる。かすかに鼓動の振動が感じられた。

 確かなのはこの肉体しかない。本当に存在していると実感できるのはこの肉体しかないと由美は思った。五十年生きてきて、さまざまなものを手に入れてきはずなのに、それらすべては手から零れ落ちてしまった。自分に残されたのはもうこの肉体しかなかった。

 どうしてこうなってしまったのか。

 由美は自分の身に起こったことを振り返っていると、自分をずっと支配し続けてきた、ひとつの考えにどうしても行きついてしまうのだ。

 それは、『自分はずっと流され続けている』という思いだった。

 ずっと流されていたからこそ、今にここにいるという気がしてならなかった。流され続けたからこそ、ついに見知らぬ男たちの巣窟に、身一つで囚われるという結果になってしまったのだ。

 人生のどこかで、自分の意思で何かを選択していたなら、ここにはいなかったのではないかという気がしている。

 この数日間、とても現実とは思えない夢のようなできごとが次々と自分の身の上に起こった。

 だが、よくよく考えてみると、自分の今までの人生そのものが夢のように過ぎてきたような気がする。

 記憶の中に『これだけは』というような心に深く刻まれた出来事がないのだ。

 人生があらかじめ決められたスケジュール通りに淡々と過ぎてきたように思える。

 大学も、就職先もいわゆる一流のところだったが、それは自分が積極的に選択したものではなかった。自分の成績でいける大学がトップクラスであっただけで、どうしてもそこに行きたかったわけではなかった。就職も同じだった。自分の成績で入れる企業がトップクラスであっただけで、どうしてもそこで働きたかったわけではなかった。つまりは流された結果ということだ。いつの間にか結婚していたが、自分がはっきりと意思表示をした記憶がない。長男浩一の出産でさえとくに苦痛もなく夢のように過ぎ去った。子育てでもとりたてて苦労をしなかった。

 そういえば結婚退職した後、後輩たちが次々と由美の元を訪ねてきたが、みんなどこかガッカリしたような様子で帰っていった。あれはみんな、流され続けている自分の姿に幻滅したからではないだろうか。

 ずっと流されてきた。流されなかった瞬間が、果たしてこの自分にあっただろうか。

 そう思いながら、由美は目を閉じてみる。

 強い日差しが肌を刺す。そんな初秋の日の記憶が蘇ってくる。

 腕も膝もピンクに染まっている。

 まるで水浴びをしたような汗まみれの下級生たちが泣きながら抱きついてくる。

 ああ、これですべてが終わったんだという思いが湧き上がり、胸が熱くなる。

 優勝には届かなかったけれど、みんなよく頑張った。

 あれは、そう……高校三年の秋の体育祭だった。

 由美たちの東京都立白蓮高校の体育祭では、一年から三年までの各学年のひと組ずつが集まってチームをつくり、競技、演舞、デコレーションなどで競い合い、総合点を争うのが慣わしだった。

 周囲の生徒に比べ成長が早く、身長もあった由美は自然と目立つ存在だった。チームの女子の団長に選ばれ、チームを率いていた。ささいなことで一年と二年が揉めたが、由美が出ていき、話に耳を傾けてやるだけでほとんどのトラブルが解決した。由美はリーダーとして人望を集めていた。

 男子の団長をつとめるクラスメートはスポーツ万能で成績もよく、下級生に人気があった。彼もリーダーシップを発揮していた。下級生たちは勝手に二人を理想のカップルとして描いて騒いでいて、当の本人たちも次第に乗せられかけていた。

 惜しくも準優勝で幕を閉じた体育祭の後、三学年の実行委員が集まり、ジュースやコーラで打ち上げの会を開いていた。そのとき、なにを思ったか団長だった男子が由美のもとにやってきて、みんなの前で「ちょっと話があるんだけど」と言う。

「ヤッターッ!」

 その瞬間、会場の教室は悲鳴のような黄色い歓声に包まれた。

 由美の顔は、あまりの恥ずかしさで真っ赤になる。

 教室から首を出して見守る下級生たちを残し、廊下に出ると、彼が待つ音楽室前に向かう。慣れ親しんだ校舎にはなぜか霞がかかり、どこか知らない別の場所のように感じた。心臓が高鳴り、ついつい足早になってしまう。

 そこに彼が待っていた。

 彼は真正面から由美の目を見たまま口を開こうとする。

 待って。まだ心の準備ができてない……。

「同じクラスに、石田というメガネのヤツがいるだろう」

 その瞬間、彼が何を言っているのか、言葉が理解できなくなる。

「アイツが君のことを好きだといってるんだけど……」

 次の瞬間、由美は男子生徒にきつく抱き着いていて彼は身動きできなくなっていた……。

 彼はもう何も言うことができなかった。

 そのまま二人は付き合うことになった。

 いま思い出しても恥ずかしい。あんな子どもっぽい……。

 だが、あのとき以来、自分が何かを選択したことはないのだ。


 小柄で浅黒い男は李泰圭イ・テギュと言った。

 彼は、ドアの隙間から、呆然としてベッドに座っている女性の姿を見ながら、自分がどうしてこんなことをしてしまったんだろうと思った。

 たまたま女性たちのセリが行われると小耳にはさみ、例の運送会社を覗いてみた。セリにかかった女性はみな美人だったが、女性を買い取るつもりはなかった。この侵攻地帯で進んでいる事態を頭に入れておこうというくらいの気持ちで会場の後方から眺めていた。

 それなのに、一番最後に舞台に現れた女性を見た瞬間、自分のこの口から、その日一番の入札額が飛び出していた。

 何が、自分にそうさせたのか。それは自分でも説明できなかった。

 自分の深いところにある何かとしか言えなかった。

 あの女性の顔と姿を見たとき、一瞬、見てはいけないものを見たような罪悪感が走った。同時に何か懐かしいような感じもしていて、とても居た堪れなくなってしまったのだ。

 泰圭はもともと日本生まれだった。

 今から十七年前、八歳ごろまで大阪市生野区で暮らしていた。

 実家は金物屋を営んでいた。

 店は忙しく、祖父の石圭ソッキュが泰圭のお守り役だった。当時、すでに七十歳を超えていた石圭は高句麗に帰りたがっていて、「故郷で死にたい」が口癖だった。いつも高句麗のことが特集された古い写真グラフを持ち出しては泰圭に話して聞かせていた。泰圭の父、尚賢サンヒョンは古いタイプの高句麗人で親の望みはかなえてやらなくてはならないと考えていた。繁盛していた金物屋を弟の晶恩ジョンウンに譲ると、石圭と泰圭と父母の四人で高句麗に移り住むことにした。一九九五年のことだった。「苦難の行軍」と呼ばれる食料飢饉のもっとも深刻なときで、尚賢はその年のうちに栄養失調で亡くなってしまった。「わしのせいですまんのう」というのが石圭の口癖だったが、大好きだった父を失った泰圭はそれを聞くたび腹がたって仕方がなかった。石圭が高句麗に帰りたいとわがままさえ言い出さなければ、父は元気でいられたのだ。その石圭もいまはもういない。

 何の学歴もなく、ただの高句麗の炭鉱夫として働く泰圭が日本の地を踏める可能性はほとんどないはずだった。それが思いもかけず、遠征軍の選ばれ日本に来てしまった。

 しかし、こんな形で、日本に帰ってきたくはなかった。

 そう思うのは幼馴染の呉正化オ・ジョンファのことがあるからだ。

 この作戦により、日本で真面目に暮らす正化たちが迷惑を蒙るであろうことは容易に想像がついた。

 二歳年上の彼女は、子どものころ、イジメられっぱなしだった泰圭をただ一人かばってくれた。七歳ごろのことだった。どぶ川に落とされヘドロだらけになり、泣いている泰圭を見つけると、正化はすぐに駆けつけてきた。泰圭を公園の水道のある場所まで連れて行き、服と体を洗ってくれた。正化は恥ずかしがることもなく、泰圭の体中の泥を丁寧に取り除いてくれたのだ。たった二歳しか違わないのに泰圭をまるで自分の子どもの様に大切に扱ってくれた。それを思い出すたび胸が熱くなる。

 あの懐かしい正化にもう一度会いたかった。

 だが、泰圭には正化にとても合わせる顔がない。日本ではいじめられっぱなしで、戻った高句麗でも家族そろって落ちぶれはて、まともな職にもつけなかった。

 正化にはもう二度と会えないだろう。

 泰圭は軍の統制を離れ、決して褒められないようなことをしている。だが、それがどんなに道を踏み外していようとも、それを止めるつもりはなかった。自分のやろうとしていることは、結果として彼女のためになると考えていたからだ。


第九章 ターンオーバー


                 一


 ストーカーだと聞いていたので、京子は醜い男を想像していたが、近づいてみると、男は普通の青年だった。眉が太く男前といっても差し支えない容姿だった。

 他の高句麗兵の男性と同じように身長は一七〇センチそこそこといったところだ。おそらく食料事情も影響しているのだろう、高句麗兵の中に一八〇センチを超える者は滅多に見かけなかった。

 男は、薄汚れた女性が二人も自分に近づいてくるのに気づき、腰を浮かしかけたが、さすがに女相手に逃げ出したのでは恰好がつかないと思ったのか、そのままの姿勢で止まっていた。

 庸子が男に近づいていく。

「高句麗語は話せるの?」と京子。

「話せるわけないじゃない」

「じゃあ、どうすんの?」

 京子の問いかけに庸子は答えない。

 そのまま、男に向かい合うようにしゃがみ込んだ。

 庸子は、自分のリュックから固形食のアルミパックを破り、中から黄色いブロックを取り出すと口に含んだ。それから残りの入ったパックを男に差し出す。それが、庸子流の頼みごとをするときの礼儀らしい。

 男は不審そうな表情を浮かべていたが、やがてそれを受け取った。

 庸子は右手の人差し指で自分の顔を指差して言う。

「ヨーコ」

 男は意味が分からず、きょとんとした顔をしていた。

 庸子は今度は、自分の背後に立つ京子の方を指差して言う。

「キョーコ」

 そして庸子はもう一度自分の方を指差した後、掌を差し出して男に譲るようなしぐさをする。

 そのしぐさで、ようやくあれは名前だったのかと気づき、男は眉間に皺を寄せ記憶をたどる。自信なさそうに小声で言った。

「ヨウゴ」

 庸子は笑顔で何度も頷きながら発音を修正していく。

「ヨーコ」

「ヨーゴ」

 男の表情も少し硬さが和らいでくる。

 もう一度、京子を指差す。

「キョーコ」

 男が意外に正確に発音したので、あまり乗り気でなかった京子もついつい笑顔を浮かべてしまう。

 庸子は、今度は男の顔を指差し、その後に耳に右手をかざすようなしぐさをする。

「ミンチョル(明哲)」と男は言う。

「ミンチョル」とすぐに庸子が復唱すると、明哲もうっすらと笑顔を浮かべて頷いた。

 ようやく双方の自己紹介が終わる。

 庸子は手のひらを水平にすると、その手で自分の頭の上、十センチぐらいの中空を示す。

 明哲はよくわからないといった様子で、首を横に向け目をそらそうとする。

 庸子は素早く手招きするような仕草を繰り返し、何とか明哲の注意を引き戻した。

 次に両手を耳の高さに持っていくと、そこから波のような仕草で降ろしていく。

 今度も明哲は怪訝な表情を浮かべている。

 さらに庸子は、両手を胸の高さに持っていくと手のひらを下に向けた。そして、両手を前方に動かしていき、横倒しにしたUの字ようなカーブを描いた。それを二、三度繰り返す。

 その瞬間、明哲の表情が変わる。与えられた情報がすべて繋がったのだろう。庸子は身長、髪型、胸を示していたのだ。庸子のジェスチャーが誰のことを示しているのか、明哲は十分に理解した。

 京子は、くすっと笑ってしまう。結局、男に通じたのは最後の胸のジェスチャーだったことがおかしかったのだ。

「ユミ」

 すかさず庸子は問題の女性の名前を教える。

「ユミ」

 明哲も頷きながら復唱した。

 庸子は手のひらを額にかざしながら左右に首を振り、探していることを示すと、次に両手の手のひらを外に向けて困ったような顔した。探しているが見つからないという意味だった。

 そして庸子は間を置くと明哲の顔を指差した。

 だが、明哲は力なく俯くと、首を左右に振った。

 それはそうだろう、と京子は思った。

 もし明哲が由美を見つけていたのなら、こんなところで海を見つめたりはしていないだろう。

 だが庸子は諦めない。

「あの無線機を貸して」と京子の方を向く。

「ボタンを押せば、その場所の座標が本部に送られるんだったわよね」

「でも、あれをどうするの?」

「彼に渡すの」

「えっ。何をバカなことを言ってんの。あれは一つしかないのよ」

 京子がむきになって言う。

「よく考えてみなさいよ。私たちは高句麗兵の目を気にして、コソコソしなくちゃならないけど、この人なら真昼間から堂々と街中を探して回れるのよ。いいから早く。私たちのことなら、何とでもかなるから」

 京子は渋々、CSELを取り出すと、装置の操作の仕方を庸子に伝える。

 庸子は、それをまたジェスチャーで明哲に伝えた。

 庸子は目の横辺りに拳を持っていくと、それをパッと開く。それが見つけたという意味らしい。そのうえでCSELを見せ、押すべきボタンを示す。

 明哲は何度も頷いた。CSELを受け取ると、しばらく珍しそうにそれを眺めていた。

「見つけてもボタンを押してくれる? ストーカーなんでしょ。どっかに連れってっちゃうんじゃないの?」

 京子が納得いかない様子で尋ねる。

「五分五分かな。それでもやらないよりはマシよ」

 庸子はそう答えた。


                 二


 玄関の方からドアが開く大きな音が聞こえた。

 何事か、とリビングルームのソファーに腰を落としていた李泰圭イ・テギュが不審に思った。二十畳のその部屋では、白いいソファーセットの向こうで、彼の仲間六人が灰色のカーペットの上に車座になり、缶ビールを開け酒盛りをしていた。

 何人もの足音が聞こえ、ほどなく、泰圭の前に保衛司令部の全賢秀チョン・ヒョンス少佐が現れた。部下の三人を引き連れていた。その三人は八十八式歩兵銃を腰だめに構えていた。

 酒盛りをしていた六人がすぐ動きかけたが、間に合わない。腰を浮かしかけた姿勢のまま、ピッタリと動きをとめ、それぞれが賢秀少佐たちを睨みつけている。誰も動かず、一触即発の緊張した空気がじわじわと密度を高めていく。

「君だったとはねぇ」

 賢秀少佐が泰圭の目を見つめたまま笑う。

「まさか、しょっ引くというんじゃないでしょうね?」

 そう言いながら、泰圭は賢秀少佐と部下たちの値踏みをしていた。

 いずれも鍛えあげられた軍人だった。特別な格闘術の訓練も受けているだろう。泰圭の仲間は六人いたが全部素人だ。とても太刀打ちできそうにない。

「ずいぶん、余裕があるじゃないか。まるで私がそうしないと思っているみたいだね」

 そう言いながら、賢秀少佐は部屋の様子を眺め回す。

「泣く子も黙る保衛司令部が乗り出して、捕まえた相手が戦士だというんじゃあ、サマにならないんじゃないかと思いまして」

「はっはっはっ。そうだね。いい笑いものだよ」

 賢秀少佐は泰圭の向かいのソファーに腰を落とした。乱暴な座り方だったので、彼の体が二、三度弾んだ。

 部下たちはそれぞれが同士討ちにならないようなポジションをとり、泰圭の仲間の様子に目を配っている。

「調達した物資を懐に入れてたんだろ?」

「これまでは」

「これまで? それはどういう意味だ」

「この地域で略奪できるものには限りがあります。それに鮮度も落ちています。いずれ先細りになります」

「確かにそうだね。それは君の言う通りだ」

「これからは物資を入れていきますよ」

「どこから仕入れるというんだね?」

「もちろん、この国からです」

「ほう」

「もともと日本生まれなもんですから……」

 そのときだった。階上から物音が聞こえてきた。

 反射的に賢秀少佐の部下たちが音のする方へと体を向ける。

 二階から降りてきたのは由美だった。身には何も纏っていない。

 由美は緊張感に包まれたそのリビングルームを何食わぬ顔で横切ると、部屋が繋がったダイニングルームへと向かう。

 それを賢秀少佐の目が追っていく。

 由美は、クーラーボックスからミネラルウォーターのペットボトルを取り出すと蓋をとって口に含む。

「だから見逃せと?」

 ずいぶん間を置いてから、ようやく賢秀少佐が返答した。

「これからつくるシステムはみんなのために必要だと思います」

 由美がダイニングルームからリビングルームに戻ってくる。

 やはり賢秀少佐はその動きを目で追っている。

 そのまま自分の部屋へと戻ろうとする由美に、そこにとどまるよう、泰圭は右手を広げて合図を送った。

 由美が不思議そうな顔で立ち止まる。

 賢秀少佐の目は由美と泰圭の間を行ったり来たりしていたが、やがて降参だという風に笑い出した。

「あれは?」

「例の、日本の……」

「へぇ……」

 賢秀少佐はそう言ったまま女性の方を見つめている。心ここにあらずといった様子だ。

「あの女性がどうかしましたか?」

「君には少し不釣り合いじゃないかな……」

 そう言った賢秀少佐は、泰圭に察して欲しいというような意味ありげな表情を浮かべている。部下の前で理由は口にしたくないのだろう。

 ここが正念場だった。

 泰圭はもう少し、あの女性といれば、自分が、なぜあの女性に魅かれたのか、あの女性の中に何を見たのかが分かると思っていた。泰圭はそれをぜひとも知りたかった。自分の深い部分にかかわっているような気がしたからだ。

 だが保衛司令部に目をつけられては、これから何もすることができなくなってしまう。それでは生きていけない。あの女性には申し訳ないが、ここは賢秀少佐の要求は飲むほかはない。少佐ほどの地位のある人間なら、女性を乱暴に扱ったりはしないだろう。苦渋の選択ではあったが、それは表情には出さなかった。

「ではお譲りします」

 泰圭は何事もなかったように笑顔で言った。

 賢秀少佐は満足そうに頷いた。

 そして、膝に手を置き腰を浮かせながら言う。

「今、手持ちの金を半分だけ出してくれ。それでこの件は終わりだ」

 賢秀少佐の部下たちが少し驚いたような表情を浮かべる。

 清廉潔白な賢秀が女性を要求し、その上、金銭までを要求するなど、以前には考えられないことだったからだ。


                 三


 徐明吉ソ・ミョンギル中尉は村上中央高校の校舎屋上で夜風に当たっていた。

 ここ数日、粗末な食事しかしていなかった明吉中尉の腹は、グー、グーとうるさかった。

 空腹のあまり明中尉吉は、ついさきほど高校を出て、兵士たちがたむろしている辺りを徘徊し、自分より階級が下の兵の情けにすがり、ネズミと訳のわからぬ草が入ったチゲ風の汁を一杯めぐんでもらったところだった。それでもまだ空腹は収まらなかった。

 補給がなく物資のすべてを現地調達する侵攻作戦など、作戦とは呼べないと明吉中尉は思うのだった。

 紀元前のローマ軍でさえ、比べものにならないほど洗練されていた。補給がないのは、それよりはるか以前、人類がまだ農耕も知らなかった時代だ。計画もなく単に飢餓を逃れるためにさすらっていた時代と変わらない。いや人類でさえない。草食動物が季節の移り変わりに従って草を求めて移動するのと変わりがないかもしれない。

 そこまで考えて、明吉中尉ははっとなった。日本側の対応も文明的でない点では、共通しているのではないかと気づいたからだ。全裸の女性を降下させて混乱を招くなどという作戦は常識では考えられない。二十一世紀の出来事とは、とても思えなかった。人類の歴史ですらない、まるで神話の時代のような出来事だった。

 その時だった。後ろの鉄の扉が大きな音を立てた。

 明吉中尉が振り返ると、扉から裸の女性たちがぞくぞくと屋上に出てくる。八十八式歩兵銃を持った兵士二人が後ろから追い立てていたのだ。女性たちは屋上の手すりを背にして一列に座らされていく。女性は全部で十二人いた。

 なるほど、こういうことだったのかと明吉中尉は思った。

 これが何を意味するか、説明の必要はなかった。人間の盾だった。日本側が高句麗司令部を攻撃しないよう女性たちを盾にするつもりなのだ。

 滞留している兵士を全部追い払ってしまっては司令部の守りが手薄になるのではという明吉中尉の疑問に対して朴光植パク・グァンシク大佐が考えている策というのはこれだったのだ。ということは兵士を追い立てる、あの作戦の実施が近いということをも意味する。

 兵士たちは女性を乱暴に扱っていた。銃を持っている以上、彼らは党籍のある特務上士に違いなかった。

 たまらず明吉中尉が叫ぶ。

「いくら命令だからといって酷いことをすると、後で取り返しのつかないことになるぞ!」

 明吉中尉は一応上官に当たるはずだった。しかし、彼らは中尉に党籍がないことを知っていて、あからさまに見下したような視線を投げ返すだけだった。二人とも返事もしない。

 明吉中尉は知識がないというのは本当に恐ろしいと思った。人間の盾という戦法は犯罪行為であるにもかかわらず、彼らはその知識がないため何の疑問も抱かず、ただ命令されるままその行為に手を染めていくのだ。


                 四


 高江は何度も吐いていた。そして今は大声を上げ泣いていた。

 もう泣き始めてから十分以上が経過していた。

 あのとき、足が一瞬、柔らかいものを捉えたと思った次の瞬間、頭のてっぺんまで一気にペースト状の液体の中に沈んでしまった。液体は生温かった。

 皮膚の裏側からくすぐられるような感覚が全身を襲いパニックになりかける。右手を伸ばしてコンクリートの縁をつかむと慌てて体を引き上げ、液体が滴り、飴のような光沢を帯びたその体を地面に横たえたのだった。

 都会育ちの高江にも、それが何であるかは容易に理解できた。どこかのバカが有機農法のため、人糞を貯めて発酵させていたのだ。高江はその坪に落ちてしまったのだ。

 つい先日まで、この社会の階段を異例の速さで駆け上がり、最高レベルまであと少しというところにいた。まるでダンジョンゲームで必要レベルにも達していないのにどんどんとショートカットしていき、最終ステージに辿り着いたようなものだった。同じ世代の人間が十年後、二十年後にならなければ到達できないような場所に高江は立っていた。それなのに、今のこの姿はどうだ。全裸のうえに糞尿まみれで横たわっている。最後の一歩を躓いたため、まるで社会そのものの底を突き破って落ちてしまったような気分だ。

 十分近く泣いていたせいか、体についた液体が乾燥して皮膚が突っ張るような感覚がしてきた。それでようやく冷静になってきた。

 どこかで体を洗おう。まずはそれが先決だ。

 そう思って上体を起こす。体を分厚くコーティングしていた物体は、光沢を失い、乾燥してひび割れている。なんとう汚さなの。なんという臭さ。まるでついさっき地獄から逃れてきた流刑人のようだ。

 そのとき、はっと気がついた。

 こんなに汚かったら……。そうだ、こんなに汚かったら、高句麗兵も追ってこない。こんな醜く、悪臭のする女をだれが襲おうとするだろうか。

 このままにしておこう。このままにしておけくのが安全。汚れを落とすのは確実に助かるとわかってからでも遅くはない。

 高江は起き上がると、南をめざして走り出した。


                 五


 村上中央高校の三つ並んだ校舎の中央の建物の一階に遠征軍補給本部があった。

 張智勲チャン・ジフン少佐は食料調達のために出向いていて、そこには金東健キム・ドンゴン上佐しかいなかった。

 そこは普通教室で、一つだけの教師用の机の前に東健上佐は座っていた。紙にペンを走らせると、この先どれほどの物資が必要になるかを大まかに計算していた。

 岩船低温倉庫の備蓄米が約一〇〇トンと少なかったことに智勲少佐は少なからぬショックを受けていた。

 それが東健上佐には理解できない。智勲は恐らく米を一般兵にも食べさせようと考えているからだろう。虎の子の備蓄米をそんな無駄に使うことなど上佐は考えてもいない。米が一〇〇トンしかないとすれば、この一〇〇トンで約一〇〇日生き残れる人数に絞ればいいだけの話である。一日に換算して一トン。それだけの米があれば約六千人が生きていける。とすれば今いる十二万五〇〇〇人のうち、十一万九〇〇〇人が余剰だということだ。何の能力もなく、飯を食うだけの人間を後生大事に抱えておく必要はない。さっさと敵に投降させてしまえばいいのである。そうすれば向こうが飯の世話をしてくれる。今、ただちにやらなければないことは一刻も早く備蓄米を補給本部の管理下に置き、一粒たりとも無駄にしないことである。

「失礼します」

 教室に入ってきたのは連絡員の金因英キム・イニョン中尉だった。

「何だ?」

「保衛司令部の方がおいでになっています」と因英中尉。

 保衛司令部と聞き、先日の全賢秀チョン・ヒョンス少佐とのやりとりの記憶が蘇り、たちまち東健上佐の機嫌が悪くなる。

「通せ!」

 顔も上げずに乱暴に言った。

 その東健上佐の剣幕に驚き、因英中尉が小さな声で言う。

「お出向き願いたいとのことで車の前で待っておられます」

 何だと、賢秀のヤツめ、俺を呼びつけ、どこかに連れ出し尋問しようとでもいうのか。

 恐らくは拳銃を引き抜いたことを問題にしたいのだろう。臆病なヤツめ。あれぐらいでビビるとは。

 東健上佐は怒鳴りつけて、追い払ってやろうと決意した。

「どこだ?」

「裏門で待っておられます」と因英中尉。

 東健上佐は制服をただすと制帽を被り、急ぎ足で廊下を裏門へと向かった。

 裏門へと向かう廊下の窓から白い箱型の車が見えてきた。

 東健上佐はその車が何かは知る由もなかったが、それは日産セレナだった。スモークガラスになっていて室内の様子は窺えない。

 車の前には賢秀少佐の部下が姿勢を正したまま立っていて、尋問の呼び出しのような雰囲気ではなかった。東健上佐に敬意を表しているようにも見えなくもない。

 そこで殺気立った東健上佐の態度も幾分和らいだが、油断はしていなかった。

 立っていたのは賢秀の部下、車仙珍チャ・ソジン中尉だった。

「先日は大変失礼な態度をとりまして申し訳ありませんでしたと少佐が申しております」

 敬礼ののち、仙珍中尉はそう述べた。

「わが軍になくてはならない上佐のお仕事に迷惑をおかけし申し訳ないと申しております。つきましては是非とも上佐との関係を修復したいと申しまして、席を設けております。おいでいただきたいのですが」

 ふん。どうせ心から謝罪するつもりなどないくせに。大方、自分のところの食料配給分だけは確保したいとでも思っているのだろう。あんなやつと一緒に酒を飲んだところで何が楽しいものか。

「わかったと伝えおいてくれ。今はそういう気分じゃない」

 東健上佐は拒んだ。

「そう、おっしゃらずに」

 どうぞと言わんばかりに、仙珍中尉がスライディングドアを開ける。

 室内には女性が乗っていた。

 その女性は衣服を纏っていず、東健上佐はドキリとなって目をそらす。

 趣味が悪いな、賢秀は。

 しかし、賢秀の好みの女とはどんなのだろうと気になる。知っておいて無駄ではない。

 そのとき女性がドアの方を向いたので、東健上佐は正面から女性の顔を拝むことになる。

 女性はもちろん由美だった。

 しかし、東健上佐の方はその場で動けなくなってしまう。

「あ、鴨緑江アムノックカンの白いフィンヨン……」


                 六


 黒野須を乗せた黒い日産フーガ・ハイブリッドが敷き詰められた砂利を鳴らしながら、港区赤坂の料亭「標野しめの」へと入ってきた。

「標野」は都心のあるのが信じられないほど、ゆったりとした佇まいだった。周囲には瓦塀がめぐらされ、さらにその内側を竹林が覆い、容易に中の様子が窺えない造りとなっている。中央に広々とした日本庭園が造られ、それをコの字型に囲む平屋に、いくつもの座敷が設けてあった。「標野」とは通常、宮廷行事や狩猟が行われる皇室専用の原野を指すが、もちろん、この料亭は皇室とは何のかかわりもない。示し合わせた約束の場所という意味でこの名を使っていた。

 黒野須がここを訪れたのは、保守党幹事長・大森太志の主催する秘密の会合に出席するためだった。この日午前、大森の秘書である須藤聡が黒野須のもとに、「緊急に話し合いたいが、首相には知られたくない。党会議を設定するので、それを口実に席をはずし、『標野』に来て欲しい」との大森の伝言を伝えてきていた。

 車寄せにはすでに保守党の大物たちの車が停車していた。黒野須と同じフーガ・ハイブリッドのほか、ティアナ、エルグランドが見える。マツダのCX―5の姿があるのはだれか広島出身者がいるせいだろう。型の古いシーマやプレジデントなどもあったが、一台のベントレーはおろか、一台のメルセデスも停まっていなかった。日頃は日本の将来を憂うような言動をしておきながら、性能がいいからと外国の車を使うようでは「売国奴」のそしりを免れないからである。

 黒野須がフーガのドアを開けると、すでに女将の藤島須磨子が深い紫の着物姿で迎えに来ていた。

「みなさまがお待ち兼ねでございます」

 須磨子が丁寧にお辞儀をする。

 そのとき、獅子脅しが甲高く響き渡り、その余韻がしばらく残った。

 黒野須は須磨子の案内に従い、磨き抜かれた廊下を進んでいき、奥まった座敷にたどりついた。

「黒野須先生がお見えになりました」

 須磨子は膝をつき、そう言うと、会合の間の襖を開ける。

 そこには錚々たるメンバーが列席していた。

 まず上座に大森が座っていて、その右に元財務大臣の近藤石介がいる。その向かいに前の文部科学大臣の権藤慶四郎が座っていて、近藤の右隣には前の参議院議員会長の柴崎兵庫が座っていた。

 権藤の左隣には無派閥の犬丸厳がいた。

 大森以外は党の役職もなく、また所属する派閥も違ったが、逆にそのことが彼らの影響力を物語っていた。ほとんどの場合、党の方針は、このメンバーによる会合の結論に落ち着くようになっていたのであった。党規約に基づく正式手続きは、結局、それを追認するものに過ぎなかった。

 黒野須が用意された末席に座ると、それを見て大森が口を開いた。

「こうして集まっていただいたのはほかでもない。高句麗軍の侵攻という国家の一大事に際し、このまま武立首相に任せておいてよいか、それとも人心を一新して新たな体制で臨むのがいいのか、率直な意見を聞かせていただきたいと思ったからなんだよ」

 そう言うと大森は手元の猪口を取り、「今にして思えば、首相の所属が保守党でなくて本当によかったよ」と日本酒を煽った。それを合図に、列席者が次々と自分の器に手を伸ばす。

「ちょっと待ってください」とすぐに黒野須が手をあげる。

「私は、政権を支える身ですから。質問には答えられる範囲で答えますが、個人的な意見は差し控えさせていただきます」と予防線を張った。

 しばらく座は沈黙していたが、やがて近藤が眉間に皺を寄せ、「国連平和維持軍の派遣も難しいそうじゃないか……」と、猪口の酒を口に運んだ。

「そりゃそうだろう」と、権藤が吐き捨てるように応じる。

「犠牲を出したくないと、当事者が侵略に際して戦わず、後退ばかりして、代わりに女性を送り込んでいるのだからな。恥さらしにもほどがある。世界のもの笑いもいいところだ」

「いや。むしろ、そうやっていままで世界の目を気にしすぎたことが問題じゃないのかね」と柴崎が口を挟んだ。

「応分の負担といいながら多額の戦費を拠出し、さらには燃料の提供や人員の派遣まで行ってきたが、それで、その負担に応じた評価が得られたかね。とても得られたとは思えん。異常ともいえるほどに人命尊重にこだわり、世界から特殊な国だと思われた方が、むしろ国際社会の中で存在価値を示すことができるのじゃないのかね」

「あんな作戦をやる意味はまったくなかった。高句麗のヤツらはもともと満足な武器を携行していなかった。あのまま進軍させても大した事態には至らなかったはずだ。バリケード封鎖だけで十分だったんだ」と権藤は言う。日本酒を口に運ぶピッチが速い。

「それは事実と違う。あの時点ではまだバリケードは築けていなかったのだ。時間をかせぐ必要があり、そのためにはどうしても敵の進軍を遅らせなければならなかった。女性たちに多大の負担を強いることにはなったが、その意味はあったよ。特に指揮系統を混乱させた意義は大きい。急造部隊といえど、召集地域などのつながりがあり軍団単位の動きはできていたからね。軍団ごとに任務を決め、連携した動きをされるとかなりやっかいだったが、あの作戦で部隊ごとの指揮系統はなくなり、単に兵隊と司令部というだけの状態になった。複雑な動きをさせなくしたという点で意味があったよ」と柴崎が自分の前の小鉢を箸でつついた。

 今夜の柴崎は、武立首相の擁護に徹している。もともと柴崎は穏健派で知られているので不自然なところはない。もし、作戦を考え実行しているのが別人で、武立はほとんど関与していないと知ったらどう思うだろうと黒野須は思った。

「いまの状況をよく考えて欲しい。紛争地帯に停戦監視団が入る上で、一番の困難は何かというと、敵対する双方の勢力の区別がなかなかつかないという点だ。これまでのアフリカの紛争を振り返ればよくわかる。今回の場合、武立首相は紛争地帯に男性を一人も入れず、投入したのはすべて女性という非常に大胆な策をとった。その結果、女性はすべて日本側で、男性はすべて高句麗側という一目瞭然のわかりやすい構図ができた。停戦監視団が、アジアでなくヨーロッパから来た場合にも容易に判断ができる状況をつくったといえる」と柴崎は言った。

 柴崎の発言に、大森は苦り切ったような表情を浮かべ、猪口を煽っていた。

 黒野須は、ここまでくると、柴崎の『武立贔屓びいき』は異常だなと思った。もし柴崎が武立を擁護することで、主流派の黒野須に恩を売っているつもりなのだとしたらお門違いもいいところだ。黒野須が官房長官として武立の傍にいるのは、彼女の行動を主流派の容認できる範囲内に収めるためであって、何も武立のやることを支持するためではないのだ。

「ふん。だが、その停戦監視団が派遣されないじゃないか」と権藤が吐き捨てるように言った。

「停戦監視団で思い出したが、ロシアが治安部隊を派遣してもよいと言ってきていると聞いたが……」と近藤が口を開く。

「そんな誘いに乗ってみろ、北方領土の二の舞になるのがオチだ。治安部隊は引き揚げず、そのまま駐留してロシアの領土にされてしまうぞ」と権藤がすぐに言い放った。

「危機に直面するとどうしても視野が狭くなりがちなんだが、もっと広い視点で考えてみてはどうだろう」

 そう言ったのは犬丸だった。派閥に属さない一匹狼で、閣僚や党役員人事にあまり縁はないが、その発言には一目置かれていた。

 どういう意味だと、座敷にいた一堂の注意が犬丸に集まる。

「なぜ国際的な支援が来ないのかとヒステリックに考えるよりも、まず、この事態が世界の人々の目にいったいどのように映っているかということを冷静に考えてみるべきだろう。そこに解決のためのヒントがあるんじゃないか」

 犬丸は何を言おうとしているのか、一堂は続きを待った。

「世界の人々、なかでも指導者と呼ばれる人々の多くは、この事態を、世界情勢に影響を与えるようなレベルのものとは受け止めていない。いわば世界の片隅、極東の端っこでおきた些細な出来事という程度のものと考えている。紛争とは受け取られておらず、誤まって領土を侵犯してしまった、単なる行き違いといった程度の出来事ととらえている。とすれば、だ。われわれ自身もそういうとらえ方をして差支えないだろう。もちろん非は相手方にある。非はあるのだが、行き違いとして対処する。そうすれば相手も乗りやすい」

「それは、アンタも武立首相と同じ立場ということか?」と権藤が尋ねる。

「いいや。武立首相たちの対応も、紛争として対処しようとしている点では変わりがない。実際は違うとしても、行き違いとして対処するなら、行き違いとして振る舞わなければならない。いきなりこちらから相手に手をかけるという不躾な真似をしてはいけない」

「じゃあ、どうするというのだ?」

 権藤は不機嫌そうに尋ねる。

 犬丸は、座敷の一堂の注目が自分に集まるのを待つように、猪口を顔の前に構えて動きを止めた。そしてそのまま、全員が痺れを切らしそうになるギリギリまで引っ張る。

 そして口を開いた。

「向こうに迎えに来てもらう」

 意表をつかれ、権藤が絶句する。

 ひと呼吸おいて座敷中がどよめいた。出席者同士の小声の話し合いが始まり、なかなか静まらない。

 十分に間を置いたところで犬丸が続ける。

「もし相手にその費用がないというなら、お金を出してやればいい。それで中国やロシアの船をチャーターできるだろう。ザッツイット。それで解決。後には何の問題も残らない」

 しばらく座敷は沈黙に包まれていた。犬丸の意見に対して表だって自分の態度を示す者はいなかった。しかし、確かに心を動かされた者がいるのではないかと黒野須は思った。

 会合はいっそう混迷の度を深めていった。


                 七


 官邸の屋上ヘリポートへ陸上自衛隊のUH―60Jが轟音とともに降下してきた。

 スライディングドアはすでに開けられていて、まだ着地していないうちに、次々と荷物が落とされていく。続いて完全武装の空挺隊員が降りてくる。荷物は重そうで二人で一つを抱えるとヘリポート用出入り口へと駆けつけてくる。全員がヘルメットを被り、ゴーグルをしている。

 UH―60Jが着陸してくるのをモニターで見ていたのだろう、ドアを開け、SPが出てくる。

 ブレードが送る風に黒い背広を煽られながら、轟音にかき消されまいとSPが叫ぶ。

「何ごとですか?」

「首相のところへ誘導願います! 緊急事態です」

 先頭の隊員はきびきびとした態度で敬礼しながら言った。顔は汗びっしょりで、ゴーグルの奥にのぞく目は血走っている。

 とても切迫している様子で、「聞いていませんが」などと言えるはずもなかった。

「こちらへ」

 SPは隊員たちを招き入れた。


                 八


 手洗いから戻った久留遠は、中央指揮所の扉を開こうとして、左手首のG―SHOCKがないことに気がついた。

 ひょっとしたらと踵を返し、またトイレに向かおうとしたときだった。誰かが命令でも受けたのか、「はっ」と答える声が室内から聞こえてきた。

 そのまま気にも留めず廊下を戻っていた久留遠だったが、ふと声の主が萩島統合幕僚長であったような気がしてくる。

 だとするとおかしなことになる。萩島統合幕僚長が命令を受ける相手と言えば首相か防衛大臣しかいない。だが首相はこと細かく指示を出すタイプではない。だとすると防衛大臣ということになる。だが、閣僚たちは一切を久留遠に一任した格好になっていて実際には何もかかわっていなかった。

 久留遠はドアを押すと、トイレの洗面台に向かう。案の定、鏡の前にG―SHOCKがあった。それを腕にはめると、静かに息を吐いて身構えた。

 トイレのドアが音もなくゆっくりと開ていく。誰かが中の様子が確認できるよう、視界を確保しようとしているのだ。久留遠の勘は的中した。やがてドアの間から黒い警備棒の先が伸びてくる。

 防衛省内の警備は普通の民間警備会社が請け負っていた。入館は入口で厳しくチェックされるので、それで十分足りるという考え方なのだ。

 久留遠はその警備棒を両手でつかむと力いっぱい引き寄せた。相手は奪われまいと、力を入れて引き戻そうとする。その力を利用して今度は押す。相手の手首が力を入れられない角度になるように棒を回転させ、警備棒の後ろが上を向くようにしたところで全体重をかけて押し込む。相手の警備員は、警備棒の柄の部分が首に深く押し当てられたまま廊下の壁に押しつけられ、気絶した。トイレを出てみると、倒れていた警備員は身長一八〇センチはありそうながっしりした男だった。

 何か重大な事態が進行していることは間違いない。久留遠を快く思っていない萩島がこの機に乗じて、久留遠を排除しようとしている。

 階段を素早く駆け上がり、ロビーへと出る。

 すでに連絡を受けているようで六人の警備員がそこにいた。久留遠の姿を見つけ、すぐに駆けつけてくる。

「緊急事態だ! 応援を頼む」

 久留遠のその言葉で、警備員は混乱する。飛び出してきたコイツが問題の男ではないのか? 経験上、緊急連絡は不正確なことが多い。警備員の注意が久留遠の背後へと向い、階下を確認しようと非常階段の方へ行こうとする。

 すきをついて警備員とうまくすれ違うことができた久留遠は、そのままロビーを走り抜ける。

 正面入り口を突っ切ると靖国通り出た。右に折れ東へと向かう。すぐに地下鉄の市ヶ谷駅にたどりつけるだろう。だが、その前に確認しておかなければならないことがある。

 走りながら、ポケットから携帯電話を取りだし、電話をかける。


                 九


 黒いグラマラスなフェンダーの上を、赤や青の光が泳いでいく。

 まるで深海魚のようだ……。

 磨き抜かれ、ビルの照明や街灯が映りこんだ車体を、黒野須は後部座席から眺めていた。

 彼を乗せた日産フーガ・ハイブリッドは赤坂の料亭を出て、官邸へと戻るところだった。

 プルプルと内ポケットの中の携帯電話が小さな音をたてる。

 黒い携帯電話を取り出す。

 小さな窓に表示された青い数字は見知らぬ番号だった。

 眉間に皺を寄せながら通話ボタンを押す。

「官房長官、官邸には戻らないでください」

 久留遠の声だった。

「中央指揮所に行けということか?」

「いいえ。それもいけません。私はそこから出てきたところです。あまりよくないことが進んでいます。どうやら統合幕僚長も同調しているようです。恐らくは自衛隊による実力排除を実行に移そうとしているのではないかと……」

「なんだと!」

 やはり久留遠と萩島の間には何か遺恨があったのだ。だが、今はそんなことを詮索しているときではない。

「党本部へ行かれてみてはどうでしょう。そこにできるだけ多く閣僚のみなさんを集めてください。それに内閣法制局長官も」

「よし、何とか考えてみる」

 どっちつかずの返事をして電話を切った黒野須は、すぐに運転手の畑山に車を止めるように指示をする。

 フーガはハザードランプを点滅させ減速しながら左に寄っていく。

 黒野須は久留遠を全面的に信頼しているわけではなかった。

 顎に手をやり、考え込む。

 さて、どうするべきか?

 そのとき、また電話が鳴った。

 携帯の小窓が井草防衛大臣からだと告げている。

「今どこにいる!」と黒野須。

「官邸だ……。大丈夫だ、任せろ!……」

 井草は黒野須と通話しながら、周囲のだれかと話しているようだ。

「何? よく聞こえないぞ」

 黒野須が尋ねるが、返事がない。

「どうなっている。何があった? 首相は無事か?」

「無事だ。若い隊員たちが直訴に来た」

 井草が答え、ようやく会話が成り立つ。

「なんだと?」

「それでだ。考えてみたんだが、これは好都合なのじゃないかと思うんだ。あんなバカげた作戦を止めさせるチャンスかもしれないぞ」

「何を言っている。もう始めてしまっているじゃないか。これから方針を変えても混乱するだけだ。第一、そんな何も知らない連中に任せて何ができるというんだ」

「だからこそ、こちらでコントロールできるんじゃないか。このままでは人道に対する罪で告発されかねないんだぞ」

 なんだ、そういうことか。意外に気の小さいやつだな。井草をそんな風に思ったのはこれが初めてだった。

 黒野須もつい先日まで同じように怯えていたも拘わらず、他人の怯える姿を見せられることで、その問題との距離をおき、あらためて見つめ直すことができた。

 われわれはすでに手を汚してしまったのだ。今更やめたところで責任は免れない。

「どうするつもりだ?」

 黒野須は尋ねた。

「今、萩島に作戦計画を作らせている。敵の本丸を精密誘導で爆撃し、それを合図に封鎖地点からいっせいに進撃を開始する」

「向こうには女性を入れてしまってるんだぞ!」

「精密誘導だ。女性のいるところは攻撃しない!」

「被害がでるぞ」

「多少はな」

「少し、考えさせてくれ」

 そう言って黒野須は電話を切った。

 すぐに官邸にいる福美と連絡を取ろうとするがつながらない。

 車を止めたまま、畑山と手分けして閣僚たちに連絡をする。

 しかし、大半が連絡がとれない。つながったところもほとんどが井草たちに先を越されていた。黒野須側が先に捕まえられたのは文部科学大臣と環境大臣の二人にすぎない。いずれその二人にも井草側から連絡が入る。そうすれば井草側に対抗し動いていることが知られてしまう。どうせ二人を守ったところで勝負にならない。ならば向こう側に渡して、向こうの中で動揺させておいた方がいい。黒野須は真相を話し、自分は判断に迷っていると告げた。

 ただ、先に連絡がついた蝦瀬美夫えびせ・よしお内閣法制局長官に限っては「アドバイスが欲しい」と話し、自分の側に取り込んだ。

 電話が鳴る。

「どうだ覚悟は決まったか?」

 井草だった。

「どうしてもいやだというのなら、罷免することになるんだが……」

「どこまですすんでいる?」

「作戦計画はできた。E―767はすでに舞い上がった。百里基地の第三〇五飛行隊のF―15Jが換装を終えたところだ。JDAM(ジェイダム=Joint Direct Attack Munition)という精密誘導装置を取り付けたMark82という五〇〇ポンド爆弾を使う」

「手が速いな。わかったよ。ただし、一つだけ条件がある」

「なんだ?」

「けじめをつけてほしい」

「というと?」

「攻撃を始める前に国民に向けて声明を出してほしいんだ」

「それを君が読むというのか?」

「いいや。首相だ。そうでないと筋が通らない」

「もう時間がない……」

「頼む、そこだけはちゃんとしてくれ。短くていい」

「声明は、だれがつくる?」

「俺は事情がわからん。君が書け」

 黒野須は電話を切り、大きく息を吐いた。

 すぐに、また電話が鳴る。

 今度は久留遠だった。

「だめだ。向こうの方が速い。確保できたのは内閣法制局長官ぐらいだ。ちょうど自宅に戻っていたところをつかまえた。このままだと向こうに乗らざるを得ない。どうせ、君の計画も行き詰まっていたのだし……」

 黒野須は自分が有効な手立てを取れなかった負い目もあって、それを覆い隠すように一気にまくしたてた。

「計画は何ひとつくるっていませんよ」

 この期に及んでも久留遠は余裕たっぷりだった。

「しかし、女性たちを救出する手立てはないんだろ?」

「いいえ、いつでも救出は始められます。高句麗兵の武装解除と拘束もです」

「ではななぜ始めなかったんだ!」

 それをやっていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのだ。

「タイミングというものがありますから」

 そこで少しの沈黙があった。

 やがて口を開いた久留遠の声は少し改まったような感じがした。

「官房長官……」

「なんだ?」

「なぜ、井草大臣の申し出に即座に乗らなかったのですか?」

「いまさらなんでそんなことを聞く。正直に言うと、迷ったよ。だが、井草が人道に対する罪で告発されるかもしれないと恐れているのを知って、ちょっと考えが変わった」

「なるほど。自分の名誉を守るためだけに、他人を死なせるわけにはいきませんからね……」

 そうなのだ。そのとおりなのだ。自分が感じていた違和感はそこだったのだ。

 自分が潔白ならばそう主張すればいい。だが罪があるのなら償うほかはない。


第十章 キャトルドライブ


                 一


 朴光植パク・グァンシク大佐は村上中央高校職員室の窓から、夜の街並みを眺めていた。

 外に発電機が置かれていて、部屋には灯りがついていた。

 一階にあるその部屋からでは学校の塀や付近の建物が邪魔になり、街を見通すことができないが、作戦が始まれば、兵士のあげる声などから順調に進行しているかどうかは確認できるはずだった。

「大佐、失礼します」

 声のする方を振り返ると、職員室の戸口に立っていたのは、いつもの徐明吉ソ・ミョンギル中尉ではなく、張智勲チャン・ジフン少佐だった。

「あ、君か。珍しいね。何の用だね」

 光植大佐の口調は、明吉を相手にしているときに比べ、ずいぶんと丁寧になっている。金東健キム・ドンゴン上佐の部下である智勲少佐はいつも東健と行動を共にしていて、大佐が直接話すのはこれが初めてだった。

「少しお尋ねしたいことがありまして……」

「ま、座りたまえ」

 光植大佐は近くの回転椅子を勧めた。

「あ、はい」

 智勲少佐は落ち着かない様子で、浅く腰を落とす。

 光植大佐もすぐ隣の椅子に腰を落とした。

「で、何だね。尋ねたいことというのは?」

「はい。実は備蓄米の扱い方について金東健上佐と相談をすることになっていたのですが、いらっしゃらないのです」

「私も東健のお守りをしているわけではないからね。上佐付きの中尉は何と?」

「はあ、彼によりますと、なんでも保衛司令部の迎えの車で外出したまま戻らないとのことでして」

「保衛司令部……」

「それで大佐なら、保衛司令部の件が何かご存じではないかと思いまして……」

 そう言えば、この間、明吉中尉が保衛司令部のことを言っていた。確か保衛司令部の連中が、目の前にいる智勲少佐のまわりを嗅ぎまわっていて、それに東健上佐が苦情を言っているという話だった。とすれば、上佐は保衛司令部に抗議に乗り込んでいったということか。

「こちらには心当たりはないね。大方、君の件で話し合いに行ったんじゃないのかね」

「いえ、その件はもうカタがついたと上佐は仰られていました」

「カタがついた? 彼らが諦めたというのか」

 果たして保衛司令部が獲物を簡単に諦めるようなことがあるだろうか。光植大佐は不思議に思った。

「それはわかりませんが……」

 待てよ。何かがおかしい。

 東健上佐の苦情に光植大佐が取り合わなかったのは、保衛司令部と揉め事をおこしたくないということがあった。もちろん、それが一番の理由だった。しかし、たとえ保衛司令部が、智勲少佐の不正を摘発したとしても、穏便に済ます方法はいくらでもあると思ったのも事実であった。

 あのとき、自分はなぜそんな見通しを持っていたのか――。

 智勲は位こそ少佐だったが、それは本人にすぐれた食品管理技能を発揮させるための、いわば方便のようなものに過ぎない。実際には、少佐らしい扱いはあまりされてはいないだろう。しかも彼には党籍もない。それは上層部の人間からみればゴミも同然ということだ。たとえ彼が何らかの不正に加担していたとしても、それを摘発したところでゴミを片づけただけのこと。成果にもならない。保衛司令部の連中が彼の身柄を確保しても、それを『土産』に本国に帰ることはできない。だから救えると思ったのだ。

 だが。あのときは気づかなかったが、今、考えてみると、それではおかしなことになる。

 保衛司令部は『土産』にもならない智勲を追いかけている。上層部の意向に忠実な保衛司令部の連中にそれがわからないはずがない。

 単なる正義のために彼らは行動しているとでも言うのか――。

「大佐、どうかなさいましたか。何か心当たりでも……」

 急に考えこんでしまった光植を、智勲が気遣う。

「いや……」

 いや。待てよ。

 なぜ、今までそれに気づかなかったんだ!。

 智勲の周りを嗅ぎまわっていたからといって彼が獲物だとは限らないではないか。もともと嗅ぎまわるのは補給本部しかない。何もない遠征軍のなかにあって唯一、物資にかかわる部署なのだ。保衛司令部が何か不正があったとして摘発するとすれば、舞台は必ずあの部署になる。

 人は往々にして被害をなるべく少なくしたいがために、最悪の事態を想定しがちだ。

 目の前のこの智勲の働きがあまりに大きく、大きな期待をかけすぎていたため、失うとやっかいなことになるということばかりに意識が働いていた。それで彼が獲物であると思い込んでしまったのだ。

 光植大佐には嫌な予感がしてきた。

 光植大佐は急に席を立つと、部屋を飛び出し、廊下を走り出す。

 智勲少佐は驚き、すぐに後を追う。

「どうしたんです! 大佐」

 だが、智勲少佐の声は光植大佐の耳には聞こえない。

 光植大佐は自分が思いついたことを整理しなければならなかったからだ。

 保衛司令部には格好の標的があった。

 彼らの狙いは東健だったのだ。彼なら獲物として申し分ない。遠征軍の実質ナンバー2だ。そして党籍もある……。

 保衛司令部のやつらは、東健に対する何らかの罪をデッチ上げ彼の身柄を『土産』にして本国に戻ろうとしているのか。

 光植大佐は校舎の端まで来ていた。そこから保衛司令部が事務所として使っている用務員室が見える。

 光植大佐は窓ガラスに顔を押し付ける。誰かそこにがいるのなら、電灯かろうそくの明かりが漏れているはずだ。

 しかし、光植の視線の先の建物は真っ暗だった。


                 二


「あれは何かしら」

 京子がふとつぶやいた。

 うとうとしていた庸子が目をこすりながら顔をあげる。

 庸子と京子は、ミンチョルと別れた後、すぐ近くの廃業した旅館に身を潜めていた。鉄筋コンクリート五階建てのその旅館は瀬波温泉街からはずれた南端にあった。入口には大きな木の板が打ちつけられ、赤茶けた鉄の非常階段の入口は扉が閉められ太い鎖が巻かれていた。二人はその非常階段の一階と二階の中間にある踊り場から侵入し、今、建物の四階にいた。その階が一番見晴らしがよく、ミンチョルがボタンを押した場合、信号の発信地を目指して飛ぶヘリを発見するのに好都合だった。

 そのフロアは展望レストランだったようだ。厨房のある東側を除いた三方がガラス張りになっている。厨房を東側に置くのは、西側が海になっているからだった。営業していたころは西の海に沈む夕日を見ながら食事ができたはずだ。今はテーブルやイスが厨房側の壁際に寄せられ、天井からはコードに繋がった蛍光灯の残骸が垂れ下がっていて、当時の姿はない。

 京子はカバンから双眼鏡を取り出す。

 街の北側に向ける。気のせいか、そこに土煙が上がっているように見えたのだ。

 かすかに、乾いた破裂音のようなものが断続的に聞こえてくる。

「今の聞こえた? あれ銃声、じゃない?」

 京子の問いかけに、庸子は身を起こし、耳を澄ませる。

 またかすかに聞こえた。

「ほら! また」

「……そうみたいね」

 庸子も足下に置いた自分のリュックから双眼鏡を取り出す。

「反乱かしら?」

 双眼鏡をのぞいたまま京子が尋ねる。

 あれがもし反乱だった場合、女性たちにとってプラスになるのだろうか、それともマイナスになるだろうか。京子にはわからなかった。

 そのまましばらく二人は双眼鏡を眺めていた。

「あれは反乱じゃないわね。兵士が兵士を追い立てているのよ」

「えっ。どうしてそんなことをするの? 味方同士じゃないの。命令すれば済むじゃないの」

「知らないわよ。なんか事情があるんでしょ」

 そういうと庸子はもう興味はないという調子で北側の窓に背を向け、そのままへたり込んだ。窓の下側の壁に背中をあずけ、南側の窓の方を見る。

 もしヘリが飛ぶとすれば北側より南側の可能性が高い。由美がいるとすればきっと南側だ。北側の地域は高句麗兵ばかりで女性はいない。

 庸子は立ち上がると、反対の南側の窓まで歩いて行った。

 そこから見える範囲を見渡していた。地図を手に、随分歩き回っていたが、まだ庸子の頭には街の配置図がよく描けていない。そこで念のため、地図を取りだし、さっきの発砲が起きていた場所を確かめようとした。

 庸子は何度も地図を翻していた。

 その姿を見ながら、しっかりしているようでいて地図を見るのは不得意なんだわと京子は思った。

「あっ、大変!」

 突然、庸子が声を上げた。

 地図を手に京子の方へと駆けてくる。

「さっきの高句麗兵はどこまで来てる?」

「まだ随分向こうの方よ。だって歩きだもの。それがどうかしたの?」

 庸子は、眉間にしわ寄せ、心配そうな表情で今度は北側の街の様子を見渡している。

「何なの? 何が気になってるの? もったいぶらずに教えてよ」

「こっちは大丈夫みたいだけど、問題はあっち」

 そう言うと由美は温泉街への入口付近を指差した。

「何?」

「あそこにはトンネルがある。もし、あのまま高句麗兵が追い立てられて行ったら、ほかのところは逃げ場があるけど、トンネルのところはどうにもならない。事故が起こる。圧死しちゃうかも……。ほら、知ってるでしょ、昔、歩道橋で花火客が大勢亡くなった事故を」

「女性たちが巻き込まれるってこと?」

「そうじゃない。高句麗兵よ」

「えっ」

 京子はまだ庸子の言っている意味が理解できなかった。

「わからない? 女性たちは犠牲者を出さないためにここに送られてきたのよ。この事態を後腐れなく終結させるためにね。だから犠牲者は出してはいけないの。いくら高句麗側の落ち度であっても、事故が起きて犠牲者が出れば、女性がここに来たことの意味がなくなってしまうのよ」

 それでも京子は理解できない。

「あなたは、いったい……」

 庸子はいったい『だれ目線』でものを言っているのか。庸子がなぜそんなことを考える必要があるのか。

 京子は彼女がいったいどういう立場の人間なのか、わからなくなってきた。

 庸子は右手を顎に当て、その腕を左手で抱きかかえ考え込んでいる。

「銃を持っているヤツらの後ろから注意を引けば?」

 京子が適当に言った。

「無理。どうやって後ろに回り込むの? それにそんなことをすれば銃で狙い撃ちされて終わりよ」

 庸子に即座に否定され、京子は面白くなかった。

 庸子はその場にしゃがみ込むと、埃の積もった床に指で何やら図を描き始めた。高句麗兵の行進を止める手立てを考えているようだった。

 そのときだった。ヘリの爆音が聞こえてきた。

 京子が南側の窓にはりつく。

 しゃがんでいた庸子も顔をあげた。

「見えた! あそこっ」

 京子は自分の中に抑えようのない喜びの感情が沸き起こってくるのが不思議だった。つい今しがたまで期待もしていなかったというのに。

「ミンチョルだわ。あの人、ボタンを押してくれたんだ!」

 二人は急いでリュックを担ぐと、ビルの非常階段に飛び出し、それを駆け下りていく。

 庸子が先を走り、京子が後を追う。

「周囲に高句麗兵はいないかしら?」と京子が心配する。

「いても大丈夫。ヘリの音がしたら怖がって出てこないから!」と庸子。

 二人は非常階段の踊り場から飛び降り、旅館の外に出る。

 庸子は走りながら、リュックの中から発煙筒を取り出す。キャップを回して外し、キャップの先端に付いた擦り付け薬をこすって発煙筒に火をつける。花火のような赤い炎が勢いよく飛び出し、ピンクの煙がもくもくと湧き立つ。

 庸子は、その発煙筒を左右に大きく振りながら駆けていく。

 ヘリには全方位を監視している搭乗員がいるのだろうか。二人の位置はヘリから見れば後方の死角にあたる方向だったのに、大きく旋回を始める。

 ヘリは、二人をめざして降下してくる。

 真っ黒い卵形だった。

 京子は、急にその場に立ち止まり、庸子に叫ぶ。

「待って! あれ自衛隊のヘリじゃない!」

 庸子は走り続けながら、京子の方に首をひねる。

「当り前じゃない! ここは侵攻地域なのよ。自衛隊は敵とは接触しちゃあダメなんだからヘリも飛ばせないわよ。あれはウチのヘリ」

「えっ! それはどういこと?」

 京子は庸子に真相を質そうと、後を追って駆け出す。

「あなたは何者なの?」

 庸子は笑いながら走っていく。

「黙っていてごめんなさいね。私、パープル・ウォーターの臨時社員なの。あの民間軍事会社の」

「なんですって。じゃあ、私たちは、あなたたちの手の上で踊らされてたってわけ?」

 そう言った京子の声は明らかに怒りを含んでいた。

「その反対よ。あんたたちはゼネコンで、私たちが下請け。あんたたちの作った枠組みのなかで、危険で汚い仕事するのが私たちなの」

 京子は納得しなかったが、どう言ってよいかわからず、口をつぐむ。

 そのまま庸子の後に続きヘリの方へと近づいていくほかはなかった。

 着陸してきたのは、MD500ディフェンダーと呼ばれるもので、ベトナム戦争に投入された軽量ヘリOH―6の派生型だった。似たタイプのものは陸上自衛隊も保有しているが色と装備が全く違う。このヘリはまるで蟹が鋏を突き出すかのように、両サイドにGAU―19/Aという口径十二・七ミリで三銃身のガトリング式重機関銃を装備していた。

 大きな音を立てドアが開く。ヘルメットを被ったフライトスーツの男は姿を見せるなり、胸から自分のスマートフォンを取りだし、庸子に向かってフラッシュを浴びせる。コックピットに並んで座った二人も庸子の方を振り返り、親指を上に立てて笑っている。搭乗員は全部で三人だ。

「姉さん、いい格好だぜ」

 そう言って笑ったロードマスターと思しき搭乗員はどう見ても日本人だった。

「おぼえてな」

 庸子は苦々しい表情を浮かべている。

 庸子が京子に搭乗員を紹介した。ロードマスターはマット布袋ほていと言い、少し間延びした長い顔をしている。機長はジョナサン馬比野ばびのと言い、丸顔で細い目をしていた。副操縦士のアリアン星田はぽっちゃりして顎鬚を生やしているので顔が上下逆さまになったような印象がある。三人ともコーカシアンの血が流れているような顔つきではなかった。欧米人と一緒に仕事をする便宜上、相手が覚えやすいニックネームをつけているのだろう。

 布袋は自分の後ろに置いた黒い大きなバッグを取りだし庸子に渡す。

 庸子は、そのバッグを地面に置くと、ファスナーを開け、中から銃身が太いパイプのようになった黒の短機関銃を取り出す。

 それが何であるかは京子にもわかった。

 英国陸軍特殊部隊SASが使用しているのと同じ、ヘッケラー&コッホ社のMP5SD3だった。発射音と閃光を軽減するための筒状の装置サプレッサーを標準装備している。庸子は、粘着テープで三個を連結したジャングルスタイルのマガジンを差し込む。

 庸子が準備に追われているのをいいことに、布袋が京子に話しかける。

「陸上自衛隊だってね」

「……ええ」

「どこ?」

「……朝霞」

 ぐいぐいと迫ってくる布袋に京子は少し戸惑った。

 布袋は京子が気に入ったらしく、「いつもどんな音楽聴いてんの?」などとしつこい。

 そこで京子は朝霞駐屯地で年配の上司に聴かされている鼻歌を思い出した。

「え、江差追分」

 布袋が絶句する。

「よかったねぇ、趣味が合いそうじゃないか」と庸子が笑う。

「へいへい、わかりましたよ」と言いながら布袋が仕事に戻る。

「ヨッコラショ」

 布袋が掛け声を上げながら、機内後方のスペースに搭載していた次の荷物を降ろし始めている。

「あら、珍しく備えがいいのね」

 その作業を助けるために、庸子は後ずさる。

 それは四輪バギーで、日本国内では販売されていないカワサキのKFX450Rというモデルだった。ATV(All Terrain Vehicle=全地形対応車)ともいい、低圧タイヤを装着しているため、不整地を含む様々な地形を進むことができる。目的の場所に直接アプローチできない場合に備えて用意していたのだろう。用心に越したことはないのだ。重ければ帰投時に放置していけば済むだけのことだ。

「ポイントは?」

「この先の岩船漁港の辺りだ」

「船に積み込もうとしているのね」

「で、俺たちは?」

 布袋はMD500の床に勢いをつけて腰掛け、両足をぶらつかせた。

「あんたたちはこの子を乗せてって」

 庸子は銃を持っていない方の左手で京子の背中を押し出す。

「いやよ。何もせずに帰れないわ」

 京子が抗議の声を上げる。

「バカね、だれが帰れって言った?」

 庸子が悪戯っぽく笑う。

「みんなも聞いて。あんたたちにはやってもらいたいことがあるの。アイスコーヒー作戦よ。さっき走ってて、思いついたの」

「なんだそりゃ」

 布袋が笑う。

 馬比野と星田もぞれぞれ自分の席から体を捻り、庸子の方に顔を向ける。

「いいから。高句麗兵たちが銃で脅して味方の兵を追い立てているの。ちょうど牛を追うみたいにね。このままだと、この先のトンネルに差しかかるところで大勢が圧死する危険がある。そこでこの子をぶら下げて兵たちの間を飛んで欲しいのよ」

「なんでそんなことを?」と布袋。

「奴らの銃を使えなくするためよ」

「どうしてそれで使えなくなるのよ」と京子。

「わからない? アイスコーヒーを想像してみて。最初は黒いコーヒーの上に白いクリームが乗っているでしょ。完全に分離した状態よ。その状態のコーヒーにストローを中ほどぐらいの深さまで差し込んでいって、コーヒーを吸ったらどうなる? 圧力が下がって、上に乗っかってたクリームがコーヒーのなかに吸い込まれていくでしょ」

 布袋や京子もなんとなくイメージを描くことができた。

「それと同じ。京子がエサになって兵士たちの上にぶら下がっていけば、当然、兵士が群がってくるわね。全裸の女が空中にぶらさがってんだから。ヘリのスピードをあげてやれば、追いかけくる男たちのスピードも上がる」

「でも、それじゃあ群衆のスピードが上がるだけだろ。よけいに悲惨な結果になるんじゃないか」

 布袋が疑問を投げかける。

「ううん。群衆も液体と同じ動き方をするの。スピードが上がるのは群衆の真ん中だけ。両端は家や電柱、自動販売機みたいな障害物がいろいろあってスピードは上がらない。だから群衆の真ん中だけがどんどん抜けていく。すると後ろの銃を持った連中の列も乱れて真ん中が部分が前に突出するようになる。先の尖った逆V字形にね。その尖った先端の角度がどんどん小さくなっていき、やがて銃を持ったやつらは完全に群衆の中に取り込まれてしまう。コーヒーにクリームが混ざるってわけ。こうなるともう銃を持っていても役に立たないわ。追われていた人たちの前進も止まるってわけ。どう、わかった?」

「そんなにうまくいくかな」

 布袋は考え込む。

「で、問題なのは、通りには電線が横にも何本も走っているということ。そのままだとぶら下がった京子がひっかかってしまう。そこであんたちの出番ってわけ。そこにブラ下がったあんたたちのナニみたいなデカいガトリング銃で、邪魔な電線を吹き飛ばしていくの」

「無茶苦茶だな」

「京子、やってくれるわね」

「無理、無理、無理。そんなの絶対無理」

 庸子は笑うだけで聞くつもりはないようだ。京子の目を見つめながら、左手で頬をやさしく撫でた。

「じゃあ、頼んだわよ。私は漁港に行くから」

 庸子はKFX450Rに跨ると腰を浮かせたまま発進させた。


                 三


「上佐の様子はどうだ?」

 甲板で出港準備を見守っていた全賢秀チョン・ヒョンス少佐は、下部の船室から出てきた車仙珍チャ・ソンジン中尉の姿を見つけて声をかけた。

「まだ眠ってますよ。あれだけ飲んだんですから」

「目が覚めたときには本国だな」

「でも、うまくいきますかね」と仙珍。

 金東健キム・ドンゴン上佐の身柄を拘束して高句麗本国へ戻ろうという賢秀の作戦の成否を心配しているのだ。

「心配するな。何も嘘をつくわけではない。一方には戦場にはないはずの五〇〇〇ユーロという大金があり、もう一方には補給本部の東健上佐がいる。われわれはそれを発見しただけだ。これはどういうことだと聞くのは本国の取調官だ。上佐が知らないのなら、知らないと言えばいい」

「じゃあ、あの金は証拠だったんですね」

「賄賂だとでも思ったのか」と賢秀が笑う。

「すみません」と仙珍がバツの悪そうな顔をした。

「ところで、連れて行くんですか?」と仙珍は、デッキの方に目をやった。

 そこでは由美が夜風に当たっていた。

「あの女性には申し訳ないんだが……」

 賢秀がそう言いかけたとき、爆音が轟いた。上空をヘリが飛んでいく。

 そこにいた全員が、思わず身をかがめる。由美だけがきょとんしたまま立っている。

「どっちに行った?」と賢秀が尋ねる。

「温泉街の方です」と船尾でエンジンの調整を行っていた崔承哲チェ・スンチョル少尉が答える。

「近いな。作業を急げ!」

「ハッ」

 全員の緊張が一気に高まった。


                 四


「大臣、百里の第三〇五飛行隊が離陸しました」

 受話器を手に井草の秘書官、佐々木が叫んだ。

「よしっ」

 八十九式小銃を持った空挺隊員たちが、互いの手を合わせ喜んでる。

 井草は左腕のグランドセイコーSBGX083にチラッと目をやる。

「あと十分といったところだな」

 閣僚と秘書のうち、井草とその秘書の佐々木だけが自由を許されていた。

 空挺部隊の隊員たちは五階を占拠し、そこにいた全員を拘束し、一堂を首相執務室に集めていた。他の閣僚たちは拘束はされていないが、監視付きで椅子に座らされている。

 秘書たちは後ろ手に縛られて壁際に座らされていた。

 もっともひどいのは、SPたちだった。彼らは武装解除されたうえで、猿轡をされ、固く縛られ床に転がされている。

 途中からだれが首謀者かわからなくなっていた。

 ここぞとばかりに空挺隊員たちに助け船を出した防衛大臣の井草が主導権を奪い、空挺隊員たちは、それをただ見守っているというありさまだった。

「もう満足だろう。君たちも原隊に戻ったらどうだ?」

 井草がクーデターの首謀者である工藤穣太郎・二等陸曹に言う。

「いえ。実際に攻撃が始まるところまで、見守らせていただきます」

「そうか。好きにしろ」


 二時間ほど前のことだった。首相執務室のドアが開くと、空挺隊員が武立首相のもとに殺到した。間近で彼女を警護していたSPたちを八十九式小銃の銃床でなぎ倒した。首相の身柄を確保すると、彼女に銃を押し当て、残りのSPたちの抵抗をあきらめさせ、武装解除した。

 そのとき、執務室には井草大蔵防衛大臣、重原武雄国土交通大臣、鳥井志摩雄国家公安委員長と、彼らの秘書官の合わせて六人の男が同席していたが、誰一人まともに抵抗もできないまま次々と拘束されてしまった。

 同じ五階にある官房長官執務室も占拠され、そこにいた官房長官秘書官の村崎福美をはじめ、五人の事務取扱も拘束された。

 首相も含めた全員が首相執務室に集められた。

 隊員のリーダー格の男が武立に近づくと、ゴーグルを下しながら言った。

「高句麗兵との戦闘開始命令を出してもらおう」

 それが工藤二曹だった。

「お断りします」

 武立に動じる様子はない。

 工藤は右腰のソフトタイプのホルスターから九ミリ拳銃を引き抜いた。それは自衛隊の制式拳銃でドイツのシグ・ザウエルP220を、国内でライセンス生産したものだった。

 工藤が顎で仲間に合図を送ると、隊員の一人が官房長官秘書官の村崎福美を連れて武立のもとに来る。

 福美は樹脂製の簡易拘束具で腕を後ろ手にされていた。彼女は武立の椅子の前まで連れてこられると、乱暴に膝まづかされた。

 工藤は福美の側頭部に拳銃を押し当て、無言のまま武立を窺う。

「どうぞご自由に。ここで何人殺そうが、私は屈しない。ここでの死者の意味とあそこでの死者の意味が決定的に違うのよ」

「なんだと!」

「ごめんね、福美さん。でも、決して無駄死にではないわ」

 武立は決然として言った。

 福美は目を固く閉じていたが、その目からはぼろぼろと涙が零れ落ちる。

 武立の態度に怒りをかきたてられたのか、工藤は銃把で武立を額を殴りつけた。

 武立の頭が後ろにのけぞる。そこに工藤は銃口を向ける。

「やめろ! 殺すな。お前たちがやってきたことのすべてが無駄になるぞ」

 そう叫んだのは防衛大臣の井草だった。

 工藤は、その発言のニュアンスに自分たちと通じるものがあるように感じ、井草を注視する。

 井草も凄まじい形相で見つめ返している。

 やがて井草はかすかに左へ顔を動かした。内密に話し合うために自分を隣の応接室に連れて行けと言っているのだ。

「ここを頼む」

 工藤は仲間にそういうと、井草を連れて応接室に入り、ドアを閉める。

「まったく、稚拙きわまりないな」

 井草は開口一番そう言った。

「なんだと!」

「まあ、落ち着け。俺も君たちと考えはそう変わらん」

 その言葉で、工藤の怒りが少し和らぐ。

「確かに首相の権限は絶大だが、それも生きていてこそのものだ。それだけではない、自由意思を行使できていないと知られただけでも代理を立てられてしまう可能性があるんだ。そうなればすべての権限は外にいる者の手に移り、ここを占拠していることの意味は完全になくなってしまうんだぞ」

 井草は工藤が理解する間合いをはかったうえで続ける。

「君たちの目的は高句麗兵を実力で排除することだろう。だったら、それを行えるように手を打てばいい」

「しかし、首相のあの様子では、従わせるのは……」

「なーに。首相の意思を代弁できる者がいる。そして、そいつは赤子を操るようなものさ。それより急がなければならないのは権力が外に移らないように閣僚を集めることだ」

 井草の眼中にはすでに空挺隊員たちはいないも同然だった。彼らは単なる英雄気取りのヒヨコに過ぎない。いま井草が神経を集中しなければならない相手は、官房長官である黒野須の存在だった。

 工藤は完全には納得しなかったが、ここは井草を利用するのが得策と判断したようだった。

 井草は自由を与えられると執務室へと戻り、秘書官の佐々木を解放させ、彼とともに閣僚たちを確保するために素早く行動した。

 黒野須が官邸へ戻る車中で受けたのはそのときの連絡であった。

 黒野須は井草たちに従うための条件として、首相による声明の発表を要求した。

 井草にはその狙いが何であるか、すぐにわかった。

 自由を拘束して方針転換を強要しているという状態では、首相を単独で公の場に出すことはできないと考えたのだろう。

 だが、それはあくまでも事態の主導権を知恵の浅い連中が握っている場合だ。いまは違う。

 主導権は閣僚の一人である井草が握っている。井草の望み通りに首相を振る舞わせることはいくらでもできる。

 武立は確かに芯が強く、少々のことでは屈しないだろう。だが、それがわかるのは今この場にいる者だけだ。外からはわからない。首相の意思だと谷口補佐官に言わせれば誰もがそうと信じる。そして高句麗軍の掃討という結果が出てしまえば、もう首相の意思がどうだったかなど問題にもならない。


 佐々木が執務室内を見渡している。

「何だ?」

 井草が尋ねる。

「内閣法制局長官の姿が見当たりません」

「ということは黒野須が……」

「そう考えるべきでしょう」

 井草はその先の話がデリケートになると考え、佐々木に近くに呼びよせた。この先は、空挺隊員にも、閣僚たちにも聞かれてはまずい。

「だとすると、考えられることは?」

「恐らく、狙いは内閣総理大臣の臨時代理。彼は継承順位第二位ですから。彼は首相が自由に意思を行使できない状態にあることを証明して、臨時代理の座につこうとするでしょう」

 井草は空挺隊員の方をチラッと見る。

「彼らがネックになってくるということか……。彼らの姿を見られたらクーデターが実行されたとバレてしまうからな」

「攻撃が開始されたら、彼らも満足するでしょう。そこで彼らを説得するのです。気持ちはわかるが、シビリアンコントロールを乱した罪は重いと。そしてSPに彼らを拘束させてクーデターは未然に防止したと宣言する。SPも自らの失態は隠しておきたいでしょうから同意すると思います」

「いや、それはどうかな。SPまで巻き込むのは作りすぎだろ。あまり作りすぎると綻びがでる。空挺隊員を自首させるだけで十分だ。首謀者が自首してしまった後で、首相は自由意思を行使できていないとは言えない。攻撃理由さえ説明しておけば、どういう経過でその命令が出されたのかなど、問題にはならない」


 官房長官秘書官の村崎福美は先ほど流した涙が渇き、頬が突っ張るような感覚がしていたが、後ろ手を縛られたままではどうすることもできなかった。両の手首には細い樹脂製の拘束具が食い込んでいた。

 一度、首相の前に連れて行かれた福美は、元いた場所に戻され、壁を背に座らされていた。

 しばらく前から福美は、武立の顔をまともに見ることができなくなってしまった。

 犠牲者を出さないためと言って、この作戦を実行しておきながら、空挺隊員が福美の頭に銃を突きつけ、その命を盾に戦闘命令の発令を迫ったとき、武立は即座に「どうぞ」といって拒否をした。迷いもしなかった。私の命ならば犠牲にしてもよいというのか。私の命はそれほど軽いのか。

 それとも、首相は彼らが絶対に撃たないという確信があったから、ああ言ったのだろうか。そんな確証はどこにあったのだろうか……。

 もう止めよう。これ以上、この問題を考えるのはよそう。いくら考えても気持ちが後ろ向きになり、どんどんと落ち込んでいくだけだ。

 もっと表面的なことを考えよう。具体的なことを。

 目の前に空挺隊員が立っていた。

 この空挺隊員の姿から何かわかることはないだろうか。

 装備を身につけた空挺隊員の姿を見るのはこれが初めてだ。だから二時間ほど前、福美がいた官房長官執務室で空挺隊員に銃口を向けられたとき、絶対に撃つはずがないとわかっていたのに、ぶるぶると震え体が制御できなくなってしまったのだ。今はその恐怖も少し薄れてきているが……。

 待てよ。ひょっとして、あれは同じなのか。

 空挺隊員だからといって特別な銃を持つわけでないとしたら、あれは八十九式小銃なのかしら?

 だったら、朝霞の陸上自衛隊広報センターを視察したとき……、名前は忘れたがメガネをかけた長身のガイコツのような広報担当者に説明をしてもらったことがある。

 確かガイコツは「ア、タ、レ」と言っていた。でもそれは隊員が縁起をかついで言っているだけで実際には違うと……。あれは何だっけ。銃などに興味がないから福美は聞き流していた。

 思い出せない……。

 だったら「アタレ」でもいい。「アタレ」で考えてみよう。

 アタレのアは……確か安全装置だったはず。タは何だっけ……タ、タ、タ。弾? 違う。タ、ター、タン、単、単発? 単射? どっちでもいい。とすればレは連射だ。

 だが問題は、それが何を意味するか。それがわからない。

 実際の銃を見れば、ヒントが見つかるのではと思い、福美は空挺隊員の持つ銃をそれとなく眺めてみる。空挺隊員は福美の近くには三人ほどいたが、どの男の銃にもそれらしい文字は見当たらない。が、一人だけ机に軽く腰を向け右を向いている隊員がいた。

 その隊員の銃の右側グリップ上に文字が見える。銃床に近い左上から円周上、反時計周りに「ア、レ、3、タ」と文字が並んでいる。

 そうだった。その瞬間、ガイコツの説明が蘇る。アは安全装置、レは連射、3は三発制限点射、タは単射といった。真ん中のレバーでそれを操作するんだった。普通はそれを「ア」の位置、つまり安全装置の位置にしておくと聞いた。そうすると引き金を絞っても弾は出ないのだと。発射するためにはレバーを動かして「ア」以外の位置にしなければならない。ということは一秒か一秒半ほどだろうが、それでも何らかの行動を起こす時間的余裕があるということになる。

 問題はレーバーを見て、今、確かに「ア」の位置にあることを確認できるかどうか。福美は首を伸ばしさっきの隊員のセレクターレバーを見る。レバーには白い線がついていた。

 これなら何が選ばれているかがわかる!

 福美の鼓動が速くなる。

 白い線の先だ、白い線の先!

 その隊員の白い線は安全装置の意味を示す「ア」の位置ではなく、三発制限点射を意味する「3」の位置にあった。

(あいつら、あんな引き金に指をかけていたのか……)

 福美は隊員たちの決意のほどを改めて知ったような気がした。


                 五


 庸子と別れるとMD500はそこから離陸して反転する。

 布袋は京子に金具のついた救助用ベストを着せ、それにロープの金具を装着する。

 念のために航空ヘルメット被らせる。

「すっごく重いんだけど」

 京子は顔しかめてヘルメットを指差す。

「我慢しろ」

 京子のヘルメットにはコードが繋がれていないので、エンジンの騒音で布袋の声が届かない。

 布袋が肩を叩いて京子に合図をすると、ドアを開けた。

 風が吹き込んできたが、速度はあまり出ていないのでそれほど強くはない。

 見下ろすと、二、三人の高句麗兵がのんびりとこちらのヘリの方を見上げている。

 村上市は南北に走るJR羽越本線によって東側の市中心街と、西側の瀬波温泉街が区切られた格好になっている。そのため羽越本線を越えるための跨線橋が二カ所にあるが、京子たちが向かっているのはその南側の方だった。その道が西の瀬波温泉街の方へと続き、民間病院を過ぎた辺りでさらに西と南の二方向に分かれている。道の周囲は水田や茶畑が多く、広々としたオープンスペースがあるのだが、南に向かうトンネルだけにはそれがない。庸子の言うようにそこに大勢が押しかければ事故になる危険性がある。

 市中心街から追われてきた群衆がぞくぞくと跨線橋の方へと差しかかろうとしている。

 その様子を見た、布袋が準備を始める。MD500に取り付けてある小型ホイストを操作し、京子を下す作業に取り掛かる。

 覚悟のできていない京子は、足をランディング・スキッドにおいたままにしていたが、固く握っていたロープがどんどんと下へと伸びていくので、体が逆ぞりしてしまう。堪えきれなくなり足がスキッドを離れる。完全に宙吊りになると、体が少し回転する。京子は下腹の奥の辺りに痛痒感のようなものが湧き出してきてなかなか力が入らない。

 京子をぶら下げたまま、MD500は通りを群衆の方へと進んでいく。電線に引っかからないように飛行していくため、かなりの高度がある。

 ヘリの立てる騒音で、高句麗兵たちには早々と気づかれてしまっている。ヘリを見上げながらやってくる高句麗兵の数は多く、密度が高い。大きな繁華街の交差点のような状態になっている。後ろの方には、銃を持ち彼らを追い立ている者たちが整然とした列を作っていた。その彼らもヘリの方を見上げている。

 機長の馬比野は電線に引っかからない場所を見つけると、その地点から始めようと考えたのか、MD500を回転させ、機首を群衆たちと同じ進行方向に向ける。そこから徐々に高度を下げていく。

 布袋が目の前を横切る電線の電柱側支持金具に狙いをつけ、ガトリングガンを約三秒ほど作動させる。凄まじい轟音とともに、その間だけでも十二・七ミリの弾丸が約五十発放出された。

 コンクリート製の電柱から破片が飛び散り砕けたコンクリートが煙のように舞い上がった。やがて電線が垂れ下がるが、それほど低くくはならなかった。

「命中したけど、垂れ下がったのは一メートルほどだぜ」と布袋。

「そら、そうなるわな。その両側はしっかり支えられてんだから」と星田。

 そのときだった。

 背後からヘリに向かって銃弾が飛んできて、何発かが金属音を立てる。

 京子を吊り下げているためドアは開いたままだ。布袋が身を小さくする。

 電柱への射撃を自分たちへの攻撃と勘違いした高句麗兵が撃ってきているのだ。

「ちくしょう。最初からくるってやがるぜ、ババアの計画はよぉ!」

 星田が叫ぶ。

「上昇だ。上昇する!」

 たまらず馬比野がコレクティブレバーに手をかけようとする。

「だめだ! あの子が蜂の巣にされるぞ」

 布袋が大声を上げ、馬比野を制止する。

 今、京子は群衆の頭の高さぐらいにぶら下がっていて、体を掴もうとする男たちを足で蹴って牽制していた。この高さでは、銃を持った連中には群衆が邪魔になり、京子を狙うのは容易ではないが、ヘリが上昇して遮るものがなくなると、狙い放題になってしまう。

 そのとき、MD500が挙動を乱し、前に進み出す。庸子を吊り下げたロープが電線に接触した。

「まずい。失敗だ!」

 馬比野が叫ぶ。

 電線と接触したところを支点としてロープが上に向かって巻き上がり、京子の体が持ち上げられる。京子の体が一瞬、中空で止まり、次の瞬間、そのまま群衆の中へと落下する。

 ヘリへの銃撃は続いていた。

「布袋、ロープを切れ。切るんだ! 上昇する」

 馬比野が今度は妥協のない調子で命令した。

 やむなく布袋がロープを切る。それ同時にMD500が急上昇する。

「マイクを!」

 布袋が叫ぶ。

 星田はマイクを布袋に渡すと、手元のコンソールを操作し音量を上げる。

 京子は群衆の上をバウンドし、倒れた高句麗兵たちの上に転がった。高句麗兵たちは折り重なって倒れていて、まだ京子に手を出すどころではなかった。

「ベストを脱げ、急げ! ロープの端を掴まれたら身動きがとれなくなってしまうぞ」

 布袋が叫ぶ。

 京子はヘリに頷くと、高句麗兵の上に倒れままの姿勢でベストのファスナーを下ろす。

「走れ!」

 京子がようやく起き上がり、走り出す。倒れていた高句麗兵が起き始め、後ろからきた群衆もすぐそこに迫っている。

「よーし。足を使いすぎるなよ。四分の三だ。四分の三の力で走るんだ」

 布袋が叫ぶ。

「いけそうか?」

 星田が心配そうに布袋の方をうかがう。星田の座席からは京子の様子が確認できないのだ。布袋が無言で頷く。その間も銃撃は続いている。

 ヘリは通りを右上から見下ろす位置へと逃げ、銃撃からのがれる。

 京子の前方にもわずかながら高句麗兵がいた。全裸の女性が駆けてくるのを見つけ、期待を膨らませているのがヘリの上からもはっきりわかる。

 それに気づき京子がスピードを緩めかける。そのため追ってくる後ろの群衆との距離がさらに詰まる。

「そのままだ。そのまま、まっすぐ突っこめ。ぶつかる直前、最後の右足を左足の前に踏み出せ! クロスオーバー・ステップだ」

 人は自分の前を斜めに横切る者に対してはスピードをあげて対抗できるが、真正面から向かってくる相手には身構えてしまうものだ。

 正面の男が、京子を受け止めようと姿勢を低くした瞬間だった。京子が右足を自分の左足の前に踏み出したために、疾走する速度に加え、左への回転で加速された右肩が男の右肩に激突。男は右肩を弾かれたようになって回転しながら跳ね飛ばされていった。その転がる男の体が邪魔になり、京子を背後から追走してきた男の足がもつれる。倒れそうになって前にいっぱいに伸ばした右手が、たまたま京子の右の腰骨にかかる。とらえどころのない裸体でこれをほど確実なグリップはない。

 男が渾身の力を込めて引き寄せようとした瞬間、それを上空から見ていた布袋が叫ぶ。

「スピン・ムーブ!」

 その声に反射的に京子が反応し、京子の体が右に回転する。

 男は引き寄せようとした相手の方が自分の方へ近づいてくるので力が入らない。

 京子は回転しながら、右手を振りおろし、男の手を払う。その場で一回転するとまた前方へと走り出す。

 もうすぐそこがトンネルだった。

 だがトンネル内はそこをねぐらにしている高句麗兵でいっぱいだった。そこを避けて周囲の畑に向かえば、たちまち速度が落ち、後続の高句麗兵たちに捕まってしまう。京子はトンネルの中へ突っこんで行くしかなかった。

 トンネル内はヘリもサポートできない。馬比野は増速して出口へと向かう。

 トンネル内の高句麗兵は腰を掛けたり、寝そべったりしていた。

 その姿勢からでは、すぐそばを通られても反応ができない。通り過ぎてから裸の女性だった気づき、立ち上がって追いかけだす。そうやって京子は二〇〇メートル近くを進むことができた。しかし、トンネルは八〇〇メートル近くある。京子は息が苦しく、視野が暗くなっていく。ただでも暗いトンネル内ではほとんど前が見えない。

 トンネルの中ほどの高句麗兵たちが騒ぎに気づいて、何事かと腰を浮かせ始める。

 正面から来る相手に、京子はまともにヘルメットをぶつけてなぎ倒す。そのたびに衝撃を受け、体力を消耗してしまう。

 高句麗兵の伸ばした手がつぎつぎと京子の体にかかり始める。それを払って進むが、スピードが落ちる。ただ全身が汗だくになったことが捕まえにくくさせていて、かろうじてすり抜けることができた。

 京子はもう、ふらふらとなっていてトンネルが何キロもあるように感じる。

 あと三〇〇メートルほどだった。

 トンネルを抜ければ女性たちのたまり場はすぐそこだ。そこに飛び込めば高句麗兵たちは追って来れない。

 だが前方は人垣で出口が見えなくなっている。

 朦朧としながら歩く京子の腰に一人の男が飛びつく。七十キロ近い体重をまともに浴びせかけられ、京子は地面に叩きつけられた。アスファルトにぶつかった航空ヘルメットが甲高い音を立て、かろうじて京子の頭部を守る。その男だけにいい思いをさせてなるものかと、反対側からも男たちが殺到する。

 そのときだった轟音とともに、凄まじい風が吹き付けてきた。

 ようやく反対側出口に到着したヘリが高度を下げてきたのだ。

 出口付近にいた男たちは慌てて、両脇へと逃れる。それによって風の通り道が開かれ、京子に覆い被さった男たちにも巻き上げられた小石や砂がかなりの速度で飛んでくる。たまらず男たちは目や口を覆う。地面に転がり、動きを止めていたため、ほんの少しだけ京子の体力は回復していた。ふらふらと起き上がると、風の方へと向かう。朦朧としていてバイザーを下す知恵も回らない。目の前に手をかざし、進んでいく。手の届くところに数えきれないほどの高句麗兵がいたが、風とほこりを逃れようとしていて京子どころではない。

 土埃が舞う中を京子が、今にも倒れそうに、左右によたつきながら進んでくる。

「いたぞ! 捕まっていない」

 京子の姿を見つけた布袋が叫ぶ。

 女性たちのたまり場はもうすぐだ。そこに留まっていては京子の行き場がなくなると思ったのか、馬比野がMD500を上昇させる。

 京子がトンネルを抜け出ようとしたとき、後ろから手をかざして目を覆いながらしぶとく追ってくる男がいた。だがまだその時点では距離があり、京子は逃げきれそうに見える。何という冒険心なのだろう。男は追いかけてきた速度のまま、固い地面に飛び込むように体を前方に投げ出す。倒れながら、大きく伸ばした右腕が京子の右足首を掴む。その手は汗でずるずると滑っていくが、執念で足の指を三本掴んで堪える。京子の動きが完全に止まる。

「足を止めるな!」

 布袋が叫ぶ。

 だが京子は動けない。右足を掴まれたため左右の膝が開いてしまい、力が入らないのだ。

 倒れたままの男がありったけの力で右腕を引き寄せる。

 京子は左の片足立ちのままバランスを崩し、ピョンピョンと飛びながら男の方へ手繰り寄せられてしまう。だが、それにより京子もまた最大筋力を発揮できる位置を確保した。

「ニーアップ!」

 布袋の掛け声に合わせ、京子は渾身の力で右膝を高く引き上げる。一瞬にして、京子の足の指が男の手からすり抜ける。

 突然、解放された大きな力の余勢を借り、京子はふらふらと進んでいき、女性たちのもとへ倒れ込んだ。

 それを上空から眺めていた布袋はコックピットに背を向けたまま右腕を差し上げ親指を上に向けた。

 馬比野はチラッと横目でそれを確認すると、高度を上げ、MD500の機首をふたたびトンネルの入口の方へと向けた。

 大勢の群衆がぞろぞろと歩いているが、パニックになるほどの密度ではない。銃を持った連中はその群衆の中に紛れてしまっていて、どうすることできず銃を下に向けている。

「まあ、いいんじゃねぇの」と布袋が言う。

 京子は目を開けられないまま荒い呼吸を続いていた。

「京子さん、無事でよかったわ」

 彼女を受け止めたのは病院を抜け出してきた紀美香だった。


                 六


 高句麗兵のその男は二日ほど、口にする食料もなく、空腹で朦朧としてた。じっと下を向き、膝を抱えたたま動かなかった。

 どこからともなく、あの匂いが漂ってくる。それは消えかかったこの男の生命に再び火をともすような、DNAそのものに直接働きかける匂いだった。その強力な一撃で男の目が開く。

 男の脳裏に記憶が蘇る。

 焼けつくような暑い夏だった。来る日も来る日も、この匂いのする液体を桶いっぱいに入れ、その桶が二つもぶらさがった竿を担ぎ何キロも歩いた。慎重に進んで行かなければならない。雫が一滴、ズボンにかかっただけでもその匂いが何日も取れないのだ。堅い樫の竿がギリギリと肩に食い込んだ。バランスを失いかけ、腰がねじ切られそうになった。桶もろとも谷底に落ちそうになったこともある。これは故郷だ。故郷の匂いだ。

 男は立ち上がる。周囲ではまるで、土葬にされた人間がふたたび起き上がるかのように、何人もの兵士が強烈な匂いに誘われ起き上がっていく。

 匂いのする方へと目を向けると、山の麓の道を泥人形のような女性が駆けてくる。


 高江はゆっくりと歩いていた。少し前までは、軽快に疾走していたのが、足の付け根の後ろの側、常に密着しいるあたりが痛み出してきたのだ。摩擦で熱を持ったために、汗が染み出し、それかぶれたようになっているのだろうと想像がついたが、実際にどうなっているのか恐ろしくて確かめられない。そこで少しでも摩擦を減らす歩き方を選択したのだ。

 足の付け根が、痒くて痺れたようになっていて力が入らない。何か冷たいような感覚もある。

 呼吸が浅く、ときおり意識が朦朧となってしまう。

 だが、それもあと少しの辛抱だ。もう少しで侵攻地域を抜けられるはずだ。

 まただ。またやってしまう。

 高江は自分の手の匂いを嗅ぎながら忌々しく思った。

 どんな匂いがするのか、もういやというほどわかっているのについついその匂いを確認しようとしてしまう。これでまるでジャンキーじゃないか。

 ふと、気づくと高江の行く手に何人もの高句麗が立っていた。

 だが高江に恐れはない。

 どう参った? あまりの汚さに。あまりの臭さに。

 これこそ逆転の発想だ。

 得意げになった高江は、悪戯っぽい笑みさえ浮かべたい気分になってくる。

 高江はそのまま高句麗兵の群れの中に突っこんでいこうとした。

 だが様子がおかしい。

 えっ!

 本当に歓喜の表情を浮かべていたのは高句麗兵の方だった。

 男たちは満面の笑みを浮かべ、涎をたらしながら、高江を迎え入れようとしている。

 ある種の男にとって高江の姿は、プレーンのパンケーキに生クリームのトッピングをして差し出すようなものだということを、高江はそのとき初めて理解した。

「ぎゃあああああ」

 たまらず悲鳴を上げた高江は、南へ向かうのをやめ、右に折れて西へとコースをとる。

 高江の後を高句麗兵がぞろぞろと追いかけてくる。


 原田は、遠くで女性の悲鳴がするのを聞いた。

 そちらを見ると、水田の間を高句麗兵に追われ、土くれのようなものが山側から逃げてくる。

 それは恐ろしいほど汚れていて、泥を浴びた程度とは様子が違う。助けるのかどうかさえ迷うほどだ。

 追ってくる高句麗兵は五人。いくらも距離がない。

 八十九式小銃を使うのは今しかない。

 原田はセレクターを連射の位置にセットすると、空に向かって発砲した。

 大きな銃声に、男たちの足が止まる。武器は持っていないようだ。原始の力を呼び覚まされた男たちもさすがに命までは投げ出さなかった。

 原田は、女性の方へと駆けつける。すごい悪臭だ。随分距離があるのに息がしにくい。

 少し距離を取ろうとして立ち止まると、その女性の方から胸に飛び込んできた。

 その顔を見たとたん、原田は電撃に撃ち抜かれた。強烈な電流が脳幹を流れ、白熱しているように感じる。

「たっ、高江さん!」

 拍子のはずれたソプラノのような声になってしまう。

 その声に、女性が我に返り、不思議そうに見上げる。

「えっ、だれ?」

「原田です。原田秀人です。ほら、小学校と中学校で一緒だった……」

「原田……。そんな子いたかな」

 こんなに汚れているのに高飛車で、人を見下げたような態度が戻ってきそうになる。

 竜淵高江こそ原田の思い出の彼女そのもの。原田のトイレット・ペーパーをティッシュとして使ってくれた、地上でただ一人の女性だった。

 レプリカを探しに来た原田は本物を見つけてしまったのだ。

 高江の姿を見ながら、生涯消えない記憶が今この瞬間に刻み込まれていくのを感じていた。

「通信機があるの」

 高江はずっと左手に固く握っていたピンクの丸い物体を差し出す。

「それは通信機じゃないです」


                 七


 岩船港は瀬波海岸の南端にある。東の低山から日本海へと注ぐ石川の河口に設けられた港だ。東から南へと大きくカーブするように海に開いた港には両岸に大小さまざまな漁船が係留されている。南西方向の海上に向かって長い堤防が庇のように突き出していた。

 江戸時代には荒天による船の難破や潮の逆流によって悩まされてきたが、明治時代から港湾施設の整備や浚渫工事が進められ、現在では漁港の南はフェリーや高速船が就航する商港ともなっている。

 庸子は、KFX450Rを飛ばし、瀬波海岸沿いの道路からこの港へ北側からアプローチしていた。

 途中、港の出口付近の南岸に向かう道と北岸を迂回する道に分かれるが、より広く港を見渡せる北岸方面を選択。かなりの速度で進入したため、内側の二本のタイヤが浮き上がる。庸子は腰を浮かせたまま体を内側に投げ出すようにしてその力に対抗する。KFX450Rは外側にスライドしながらコーナー出口へと向かう。やがて港の中ほどを横切る大きな橋へと出た。その橋のアーチ状になった頂点でジャンプ。何度もバウンドしながら南岸道路に出る。

「ミンチョール!」

 エンジン音にかき消されないよう、声を張りあげる。

 ヘリの横でのやりとりに時間がかかってしまった。ミンチョルはCSELのボタンを押したのに、だれも来ないため、すでに行動を起こしまったのだろうか。

「ミンチョール!」

 ただ名前を呼ぶほかに情報を伝える手段はない。

 どこにいるのミンチョル。由美さんを乗せた船はどれ? いたら教えて。

 そのとき、漁船の一団の中から小さな爆発のようなエンジンの始動音が上がった。KFX450Rのエンジン音に妨げられながらも、庸子はその音をはっきり聞き取った。

 だが、数が多すぎてそれがどの船なのかはわからない。付近に係留された船はすべて同じような白だった。

 庸子は少し減速する。

 一隻だけ灯りが点いていた。

 三〇〇メートルほど先だ。

 それは二十トン近くの真新しい漁船だった。

 何人もの人影が動いている。

 もやいのロープを解き、船に乗り込もうとしているのだろう。

 その手前を黒い人影が動いた。

 あれはミンチョルか?

 誰かが漁船に向かって走っていく。

 その男が漁船へ飛び移る。

 その動きを追っていて、由美の姿を見つけた。オレンジがかった灯りの下、二人の高句麗兵とともに船の中にいる。庸子の場所からは二五〇メートルほどの距離がある。

「由美さーん」

 聞こえた様子はない。

 ミンチョルは兵士ともみ合っているが分が悪そうだ。さらにそこへ、もう一人の兵士が加勢にくる。残る一人は由美を押さえている。

 漁船の後部の海水が激しく泡立ち動き始めている。

 とても狙える距離ではない。サプレッサー付では注意を引くことも難しい。

 庸子はMP5を構えると、手前に並んだ漁船の窓ガラスを次々と連射していく。

 その断続的なガラスの割れる音、金属音に漁船にいた兵士たちが反応する。

 兵士たちはバギーが接近してくるのを発見する。加勢に向かいかけた男は肩の八十八式歩兵銃を素早く連射モードにすると腰だめの姿勢でバギーの方向へ掃射する。

 庸子はその場で三六〇度ターン。エンジンをふかして漁船の方へと向かう。間に合うか。漁船のところまでは、まだ十秒ほどはかかるだろう。

 船は岸壁を離れていく。

 乾いた銃の連射音が断続的に響く。岸壁が右にカーブしているため、停泊した何隻もの漁船が障害物となって庸子を防いでくれている。

 このまま漁船に突っこむか……。

 身を低くし、KFX450Rを走らせる庸子にそんな考えが浮かぶ。

 あと漁船へ五十メートルほどに迫ったとき、漁船からミンチョルと兵士一人が海へと転落する。

 漁船はその先へ。

 浮かび上がったミンチョルは背後から銃で首を押さえつけられている。息ができず苦しいのだろう、バシャバシャと水しぶきが上がる。銃と首との間に両手を差し入れ、何とか気道を確保しようともがいていた。

 由美か。ミンチョルか。

 その選択がつかないままスロットルをふかすと、庸子はKFX450Rのハンドルをわずかに右に切る。

 車体は、岸壁を離れ空中へと舞うが、すぐに勢いを失い海には届かない。手前の漁船を飛び越えられずブリッジ上方に激突する。

 空中でKFX450Rを離れた庸子は海中へ。一瞬にして静寂に包まれたかと思うと耳の奥でゴロゴロと音がする。真っ暗な冷たい水の中をそのまま進んでいく。ミンチョルと兵士の足が白い気泡を立ち上らせている。その下を潜り兵士の後ろに回る。

 水上に浮かび上がる勢いを利用して兵士の首を左腕と右腕で固くロックした。

 ようやく束縛をとかれたミンチョルが咳き込みながらその場を離れる。

 すると、沖に向かったはずの漁船がまだそこにいた。

(この上官は部下を見殺しにしないんだ……)

「庸子さーん」

 声のする方を見上げると、船上の由美は兵士の構えた銃を必死に掴んで撃たせないようにしていた。

 その姿に、さすがの庸子にも鼻腔を針で突かれたような感覚が走る。

 庸子が投降の意思を示すと、兵士とともに漁船に引き上げられた。

 後にはポツンとミンチョルだけが海面に首を漂わせている。

 港を出ていく漁船に向かってミンチョルが叫んだ。

「ユミーっ」


                 八


「大臣、第七航空団司令の茨木達彦・空将補より緊急連絡です」

 首相の机に尻を乗せ、卓上の電話をとった佐々木が言う。

 この時点では、あらゆる連絡はすべて井草に集中するようになっていた。それはやむを得ないことであった。一介の空挺隊員にすぎない工藤たちが連絡を受けたところで、即座にその意味を理解し、必要な手続きを指示することはできなかったのだ。

「やったか?」

 井草の顔に笑顔が浮かぶ。

 空挺隊員たちも一斉に佐々木の方に振り向く。

「ちょっと、違うようです」

 事情を説明するのが面倒だと感じたのか、佐々木が電話のボタンをスピーカーフォンにする。

 井草が床を見つめるようにしながら、大声で尋ねる。

「どうした? とっくに作戦が実行されているはずだろ」

「それが……は」

 スピーカーフォンの音質が悪く、そこにいた全員が顔をしかめるようにして自分の耳に集中している。

「何だと? 何といったんだ? よく聞こえない。もう一度、言ってみろ」

 井草は右手を耳に添え、よく聞こうとする。目を瞑り全神経を耳に集中させる。

「RF―4EJが撮影した写真では、目標の村上中央高校の校舎屋上に、白い人影のようなものが映っておりまして……」

「誰がそんなものを飛ばせと言った?」

 井草が怒鳴る。

「はあ、正確を期すのは当然かと判断をしまして……」

 電話の向こうの茨木の声が聞き取れないほど小さくなる。

「それで何なんだ、どうしたというんだ?」

 井草は苛立つ。

「分析官はそれがわが方の女性ではないかと言うんです。いわゆる人間の盾のようなものじゃないかと……」

「ゴーだ。ゴー。灰にしろ! 今すぐだ!」

「しかし……」

 その瞬間、執務室の灯りが消える。

「何だ! どうした!」

「悪りぃ、悪りぃ。背中で電気のスイッチを押しちまった!」

 あまりに緊張していたためか、その間の抜けた発言に失笑が起こる。

 その会話を聞いていて福美はちょっと不思議に思った。そんな位置にスイッチなんてあったからしら……。

「バカか! 早く点けろ」

「すまん、すまん」

 何を手間取っているのか、なかなか電灯が点かない。

「まだか。早くしろよ」と痺れを切らしたように声を上げたのは井草だった。

 ようやく電灯が点滅しながら、点灯し始める。

 灯りの戻った部屋を見渡して、井草が絶句する。

 黒い戦闘服を着た警視庁特殊部隊の隊員たちが空挺隊員を拘束していた。

 空挺隊員は八名しかいなかった。一方の特殊部隊は百名以上いた。一人の空挺隊員に対して三方向から複数の特殊部隊員が殺到し、無力化していたのだ。

「灰にしろというのは、あんまりでしょう」

 その声のする方へ井草が振り返ると、久留遠が笑いながら執務室に入ってくるところだった。遅れて黒野須も入ってくる。

 茨木空将補からの連絡自体がフェイクだったのだ。あの時点ですでに執務室の周囲は包囲されていたのだ。

「井草先生、こちらは、特にこれといった対抗策はなかったんですよ。それでもこういう結果になったのは、あなた方が体裁を整えることばかりに気をとられすぎたからですよ。先生、主要閣僚を手中に収めてもそれで終わりじゃないんです。せっかく手中に収めたなら、それを使わなきゃあ。各省庁はトップだけで成り立っているのではないんですよ。ナンバー1が動かなければ当然、それを補完するようにナンバー2、ナンバー3が動き出してしまいますよ」

 久留遠が種明かしをする。

 永田町の党本部会議室には各省庁の幹部が集まり、蝦瀬美夫内閣法制局長官のアドバイスのもと、対策を実行していたのだ。

 井草は、プライドが許さないのか、一瞬、浮かべた悔しそうな表情を消し、無表情を装った。

 連行されていく去り際、井草は黒野須と目が合ったが何も言わなかった。

 黒野須は首を左右にふり、武立の姿を探す。部屋の中は特殊部隊隊員たちでごった返していた。

 空挺隊員がすべて連行され、佐々木も連行されていく。その喧騒の中、中央指揮所から陸奥三郎運用部長も駆けつけてくる。

 どうやら萩島統合幕僚長の暴走も止まったようだ。

 武立がいた。特殊部隊員に助け起こされているところだった。白いブラウスが汗で透け、下の下着がぼんやりと見えている。ボブカットの髪が垂れ下がり顔は見えない。

 近づこうとすると、目の前に陸奥が現れる。

 そうだった。黒野須は気になっていたことを尋ねた。

「萩島統合幕僚長はどうしてあれほど久留遠君を嫌っていたんだ?」

「ずっと以前のことなんですが、とある国の領海侵犯に対して、萩島さんがそれを牽制するための緻密な作戦計画を立てて、いざ実行しようとしたところ、パッタリ止んでしまいまして。後で久留遠が電話一本でやめさせたんじゃないかと噂がたちまして。以来、ずっと……」

「なんだ。そういうことだったのか。くだらん」

 特殊部隊隊員がぞろぞろとは部屋を退出していき、今度は白衣に身を包んだ医療スタッフが次々とやってくる。そのスタッフが武立の元に駆けつけていく。

 黒野須もそこに駆け寄ろうとして、その手前の福美の姿が目に入る。

 黒野須の姿を認めると安心したのか、福美は泣き出した。

「よく頑張ったな」

 黒野須は福美を抱き寄せ、背中をさすりながら、武立の方を見る。

 今、彼女は上半身を起こした姿勢で、ストレッチャーに乗せられようとしている。ボブカットの前髪が汗で濡れて、額に張り付いている。彼女もようやく黒野須に気づき、顔を綻ばせた。さすがに疲れた様子だった。いつにない穏やかな表情を浮かべている。なぜかそれがとても印象に残る。

 今、ここで彼女に確かめよう、と黒野須は思った。どうしてこんなとんでもない作戦を実行したのか、その真意を……。




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