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流浪の女神  作者: 廻 石輔
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彷徨える女神

第四章 予期せぬ訪問者


                 一


「かつてのアレキサンドロス大王もきっと遠征先ではこんな生活を送っていたに違いない」

 そんなことを思いながら、南方方面遠征統合軍の最高司令官、金東勲キム・ドンフン陸軍少将は板張りの縁側に置かれた安楽椅子に座り、朝の日差しを浴びていた。

 膝の間では、金髪のイリーナ・ホーシェンコが黙々と奉仕を続けている。

 東勲少将が居所としたのは、村上市内でもっとも大きく豪華な構えを持つ料亭だった。

 村上市は近年、隣接する町村との合併により市域を拡大し、面積一一七四平方キロメートルと新潟県内最大の市となっていたが、もともとの中心街はほんの狭い範囲にある。北部を流れる三面みおもて川と臥牛山がぎゅうさんという小高い山に囲まれ、南北一・五キロメートル、東西二キロメートルほどのやや歪な扇形のなかに主要な公共施設や民家が肩を寄せ合うように密集していた。

 標高一三五メートルの臥牛山は市のシンボル的存在で、その頂には舞鶴城まいづるじょうとも呼ばれた城跡がある。江戸時代初期、堀直寄によって建てられた天守閣は一六六七年に火災で炎上したまま再興されなかったが、今も石垣が残る。市内が一望できるため、ここへ登ることを日課としている市民も少なくない。近年、城下町としての整備が進んでいて、いくつかの通りでは電柱が撤去され、格子戸の町屋が続く街並みが復元されている。

 東勲少将は自分をいにしえの英雄になぞらえていたが、彼はそれほど優秀な人間ではなかった。優秀な人間であれば、ほとんど成功の見込みのなかった、この遠征に派遣されるはずはなかったのである。

 東勲少将が現在の地位まで登りつめたのは、家柄によるもので本人の能力は関係なかった。彼の父は、高句麗人民共和国の建国期に最高指導者が政敵を排除するうえで功績があった。そのため、その子である彼もずっと優遇されてきたのだった。

 東勲少将がその人生で何かをなしとげたことがあるとすれば、第一副首相の愛人をお払い箱になったイリーナの争奪戦に加わったことしかない。夜討ち朝駆けで第一副首相のもとに馳せ参じ、下男のように奉仕し、陸軍中将や政府高官などなみいる強敵を退けたのだった。今年二十七歳になるイリーナは彼にとって人生初の金髪女性だった。彼女はウクライナの貧しい農村出身で、友達ととも豊かな生活を求めて西に向かったのだが、気がつくとなぜか極東に辿り着いていた。

 東勲少将の派遣はあからさまな口減らし策にほかならなかったが、暢気な彼は一向に気にしていなかった。しかし、そんな彼もさすがに船上では不安になっていた。そこで上陸直後には国際情勢を頭に入れておこうと、部下に発電機を調達させ、衛星放送を視聴できるように準備させたのだが、いざ放送が観られるようになると、ついつい韓流ドラマにチャンネルを合わせてしまうのだった。こんな彼でも最高司令官が務まるのは、彼がまったくの名目的な存在だからであった。彼が何かを決定することはなく、重要な連絡事項が彼を経由することもなかった。

 高句麗南方方面遠征統合軍の前線本部は、東勲少将の居所から目と鼻の先の新潟県立村上中央高校に置かれていた。周囲には、市役所や警察署もあったがこの場所に本部が置かれたのは、堅牢な校舎があり、広いグラウンドのおかげで周囲を見通せるからだった。

 南方方面遠征統合軍という名称は聞こえが良いが、実態は陸軍であった。現代の戦争では、陸軍、海軍、空軍がそれぞれ単独で戦うことはなくなっている。陸海空の部隊を組み合わせ統合軍として作戦行動をするようになってきているのだ。高句麗軍も、一見、このような流れに沿ったもののように見えるが、実は名前だけだった。統合すべき空軍も、海軍も存在しないからである。上陸用に用いられた船舶はもともと民間の漁船や貨物船で、海軍の所有するものではない。ではなぜ統合軍と名乗っているのかといえば、敵を惑わすためという理由しか考えられなかった。

 参謀本部となっている職員室では、部屋全体を見渡せる机の前に、目が窪み、頬のこけた細身の男がたった一人、顎をこすりながらイスに体を預けていた。頭髪は薄くすだれの様になっていた。遠征軍の実質的責任者で、参謀長を務める朴光植パク・グァンシク陸軍大佐である。机の上の高校地図帳は中部日本のページが開かれている。

 光植大佐は昨夜からの日本側の作戦の意図を考えているところだった。

 夕刻に爆音がとどろいたとき、すでに光植大佐たちはこの場所を接収し本部を構えていた。距離にして僅か三キロほど南に多数の飛行機が飛来しているのが窓から確認できた。そこはまさに高句麗の兵士が進軍しているところだ。てっきり日本側の爆撃だと思った彼は、司令部の要員とともに机の下に潜り込み、しばらくそのまま身を伏せていた。ところがいくら待っても爆発音が聞こえない。恐る恐る顔をあげ、爆音のしていた方に目をやると、いくつものパラシュートが舞っていた。

 光植大佐はその光景に違和感を感じた。

 普通、空挺作戦というのは十分な空爆をしかけてから降下させるか、それとも隠密で降下させるかが常識だったからである。敵の標的になりやすいパラシュート部隊を日中、高高度から降下させるのはどう考えてもおかしい。無謀な上陸作戦を敢行した光植大佐が、そう考えるのは矛盾するかもしれないが、日本はもっと常識的な対応をするはずだと考えていたのだ。

 案の定、その後、降下してきたのは特殊部隊ではなく女性だったと知らされた。

 女性を降下させて、いったい何になるのか。

 高句麗軍は火力に乏しい。近代兵器を装備する日本側は正面から正々堂々と戦えばいいのである。策を弄する必要はない。戦いの火ぶたが切って落とされたというのに、女性を前面に出せばこちらの戦闘態勢が緩むとでも考えているのか。正気の沙汰とは思えない。たけり狂った兵士たちに蹂躙され、悲惨な結果になるのは目に見えているではないか。

 そして、それでは光植大佐たちの思う壺である。なぜなら彼の立てた戦術は、正面からの戦闘を避けつつ、いかに混乱を長引かせるかということに主眼があったからだ。

 光植大佐は当初、遠征軍の参謀長に任命されたとき、自分の軍の将校としてのキャリアどころか、人間としての生涯も終わったと思った。最高指導者の決定はいつも正しいと固く信じてきた彼でさえ、この無謀な作戦が成功するとはとても思えなかったのだ。日本に辿りつくことなく、きっと航路の半分も行かないうちに、自分は海の藻屑となって消えるだろう。そう覚悟していた。こんな任務を与えられるとは、自分のどこが拙かったのかとあれこれ考えたりもした。ところが思いがけなく上陸を果たすことができた。光植大佐が把握しているところでは十二万五〇〇〇人の全部隊のうち、これまでに失った兵は僅かに十六名に過ぎない。不注意の事故やケンカによるものだった。

 光植大佐は運が向いてきたと思った。十二万五〇〇〇人もの兵力があれば、このままこの戦争を勝敗のつけられないドロ沼状態に持ち込むことはそれほど難しくない。そして無事に帰国を果たすことさえできれば、より重要な地位が待っているだろう。

 問題は武器が少なく、兵士の大半が急遽召集された者ばかりで十分な訓練や教育を受けていないことだった。せっかっく上陸したのにぐずぐずとその場に留まっていては、いずれ一網打尽にされてしまう。できるだけ素早く広範囲に展開する必要があるのだ。

 いま光植大佐が集中して考えなければならないのは、この自軍の状態だった。兵がどんどん滞留し、混乱を極めている。補給本部の金東健キム・ドンゴン上佐から穀物倉庫の確保のために部隊を派遣してほしいとの要請が来ているが、それにも応えられずにいる。

 あまりに大量の兵が一箇所に留まっているのは得策ではないばかりか、新たな火種を生むことになりかねないのだ。

 その火種とは兵士の反乱だった。ここには高句麗本国のような厳しい監視網もなければ、住民同士を相互に監視させるシステムもない。そんなところに自分たちと高級士官とのあまりに大きい待遇の違いを見せつけられれば、兵士たちはどんどんと不満を募らせていくに違いない。今でこそ何とか食料を調達できているが、時間が経つにつれ確保できる量は限られてくる。満足に食料が得られなくなれば、その不満が爆発しかねない。その不満は進軍さえすれば、そのまま敵に向けられるが、滞留していると間違いなく自軍司令部に向かってくる。時間が経てば経つほど、その危険性が高まってくるのだ。

 光植大佐は状況を把握しようと、前方の部隊に向け、すでに三人の伝令を送っていた。しかし、その伝令が三人とも帰ってこない。

「中尉!」と光植大佐は声をあげた。

「食事の配給の時間なのですが、なんでしょうか?」と、徐明吉ソ・ミョンギル陸軍中尉が駆け寄ってきた。身長一六五センチほどの小柄で、ほっそりとしていて、額の広い電球のような顔をしていた。

 まるで上官の命令が二の次であるとでも言わんばかりの口ぶりだった。光植大佐は、一瞬、唖然としてしまう。こいつもタガが外れかかっているのか――。

「中尉、銃殺刑になりたくなければ、そういう口のきき方はやめるんだな」

「申し訳ありませんでした」

 明吉中尉はもともと東勲少将付きの連絡員だったが、彼は軍の仕事はほとんど何もしないので、自然と軍を実質的にきりまわしている光植大佐を補佐するようになっていた。

「日本も相当、焼きが回っているようだな」と光植大佐は言った。

 女性たちを使った作戦のことを指していた。

「しかし、国連平和維持軍の派遣を要請していると聞きますが……」

「そんなものは来ない!」と光植大佐は断言した。

「血も流さず逃げ回っているようなヤツらを守るために命をはるモノ好きがどこにいる? 国連はもっと優先すべき問題を抱えている。抵抗もしないで後ずさるということは、その地域を相手に譲り渡したも同然だ。侵略とさえ認められない可能性がある」

 そこまで言うと光植大佐は机の上に開いた高校地図帳を叩いた。

「問題は、わが軍の状況だ。伝令からは?」と光植大佐。

「何の連絡もありません」と明吉中尉。

 しばらく左手に顎を乗せ、右手の鉛筆の背で、机を叩いていた光植大佐がいった。

「特務上士を三名、八十八式歩兵銃を持たせて寄こしてくれ。命令は直接、私から伝える」


                 二


 瀬波温泉街を抜ける県道三号線には市街地へと向かう兵士達の列が続いていた。その脇を、軽快なエンジン音を響かせながら、全賢秀チョン・ヒョンス少佐を乗せた白いスズキのスカイウェイブが走り抜けていく。二五〇タイプSという排気量二五〇シーシーのスクーターで、彼の部下が調達したものだった。

 三十八歳になる賢秀少佐は身長一七五センチと高句麗人としては背の高い方だった。少し暗い肌で細長い顔をしていた。彼の軍服は他の将校たちが着ている開襟式で薄茶色の制服とは異なっていて、見るからに堅苦しい印象を与える。オリーブドラブ色の詰襟式で赤い肩章がついていて、右肩から左の腰へと斜革がついていた。七三に分けた頭の上の制帽が風で飛ばされないよう、顎紐をかけている。

 兵士の列が続く道の両側には、丸い生垣のような緑の筋が幾筋も続いていた。江戸時代初期に導入されたといわれる村上茶である。茶を栽培するのには年平均気温が十四度以上なければならないとされるが、村上市は年平均十二度しかなく、経済的栽培の北限とされている。単位面積あたりの生葉の生産量は静岡県の四分の一から五分の一に満たないという。

 行軍する兵士たちからは白い歯がこぼれ、緊張感がまったく見られない。しかし、年配の兵士たちは賢秀少佐の姿を認めると、身を隠した。それは、高句麗軍にかろうじてまだ秩序が残っている証拠だった。

 果たして軍の秩序がいつまで保たれるだろうか。彼は、どんなささいな兆候も見逃さず、自分の身の回りで起こっている事態を正確に把握しておこうと思うのだった。

 賢秀少佐は保衛軍官で、遠征軍に同行している保衛司令部観察部の責任者だった。人民武力部直属の独立した機関で、軍内部の監視任務を担当し、捜査、逮捕の権限を持っている。兵力を持つ軍団長などが、その力を使って指導部に対して反旗を翻さないよう、日常的にその動向を探るのが彼の任務だった。だが今回の作戦にかぎっては、そのような反乱の可能性はほとんどなかった。急造の部隊のために集められた軍団長には、みずからの軍団をまともに動かす力さえなかったのだ。

 スカイウェイブを走らせながら、賢秀少佐は作戦の今後と自分の将来について考えざるを得なかった。

 それにしても何という運命のいたずらなのだろうか。

 賢秀少佐はこれまでに上層部の誰かの怒り買ったということはない。それどころか着実に成果をあげ、そのことにより正当な評価も受けていた。今回の遠征軍に派遣されることになったのはまったくの偶然だった。軍の行くところには必ず保衛司令部が同行しなければならず、誰かがその役割を担わなければならない。たまたまその役が彼に回ってきただけだ。誰を恨むこともできなかった。

 生き残ることだけを考えたなら、韓国に亡命するという方法もありえないことではない。だが賢秀少佐にその選択肢はなかった。母国で何不自由なく生活できている。何より美しい妻と二人の可愛い娘という、かけがえのない家族がいる。その家族を捨てて自分だけが亡命すことなどできるわけがない。そんなことをすれば残された家族にどんな災厄が襲いかかるか、十分承知していた。

 問題はこの作戦だ。今後、高句麗軍が支配地域をどんなに広げていったところで、その支配地域を維持し経営していくことなどできるはずもない。わずか十二万人程度の兵力しかなく、しかも経験も教育もない兵ばかりだった。いずれ略奪できる食料物資が底をつく。そうなれば、一部は山間部に潜んでゲリラ活動を続けることができるかもしれないが、大半は降伏するしかなくなってしまう。兵士にとってはそれでも帰国できるなら満足かもしれないが、賢秀少佐の場合はそうはいかない。保衛司令部の人間が捕虜になってしまっては帰国後の生活を失ってしまう。

 今回の作戦で、望みうる最高の結末は、日本を混乱に陥れて動揺を誘い、交渉の場に引きずりだし、彼らにこちらの安全を保証させて本国に帰還することだ。

 問題は、遠征軍を指導する司令官にそれをやりとげるだけの能力があるかどうか。すべては、そこにかかっている。

 賢秀少佐は遠征軍司令部の指揮下にはなかったが、結局、彼の運命も司令官に握られているのも同然だった。

 では、今回の遠征軍の指揮をとる朴光植・陸軍大佐の能力はどうだろうか。光植大佐のこれまでの実績を冷静に分析したところでは、とてもそれやりきる力はないように思える。無事に上陸できたのは彼の功績によるものではなく、日本側の失態が重なったからだ。これから彼が指揮を取り始めると、今度はそれが裏目に出ることになるだろう。戦争とはそういうものだ。それが賢秀少佐の結論だった。つまり、それは彼が生き残るためには、彼自ら何らかの策を講じなければならないということを意味した。

 しかも、それは、自らに与えられた任務を全うしながら、同時に自分が無事に帰国を果せるというものでなければならない。針の穴を通すようなミスの許されない作業を慎重にやりとげなければならないのだ。

 道路は温泉の出口で国道三四五線へと合流し、羽越本線を跨いで市街地へと通じていた。賢秀少佐はスカイウェイブを快調に飛ばしながら羽越本線にかかる陸橋を下っていく。

 工場や駐車場、学校など少しでも開けたスペースがある施設はほとんどが高句麗兵のたちの溜まり場となっていた。無理もない。人口七万人の市に突如として十二万人もの人間が押しかけてきたのだ。

 ちょうど食料の配給が始まる時刻なのだろう。どこからともなく食欲をそそるような唐辛子の匂いが運ばれていくる。

 戦闘もせず、行軍もしない軍隊のすべき活動は自らを生かすことである。

 このとき市の中心街に展開していた三〇一から三〇四までの四つの軍団では、それぞれの展開地域の地形に応じたグループに分かれ、食料の調達、運搬、調理の仕事をこなしていた。これらは軍の指導によるものではなく、自然発生的に生まれた分業のようなものだった。

 遠征軍には補給本部があり、張智勲チャン・ジフン少佐が孤軍奮闘しているのだが、彼らは二、三の重要な食料貯蔵施設の管理と司令部への食料供給で手一杯の状態だった。もともと彼らは各軍団の隅々まで物資を行き渡らせるような人員も組織も持っていなかった。軍団に対してはせいぜい助言する程度のアドバイザー的な役割しかなかったのである。

 各軍団のなかに生まれた自然発生的な組織は、それが生きるために欠かせないものであるため柔軟に機能していた。食料の運搬作業中に、めざとく物資を見つけるような人間はすぐに調達係へと回され、調理の部署にいながら、器用さがないものはすぐに運搬係に回された。司令部が直接指導していたならこうはいかなったかもしれない。高句麗社会の上意下達のシステムは、そのシステムがあるために混乱が深まるという場合がほとんどだった。ただ、こうした自然発生的な組織がスムーズに機能していたのは、侵攻直後のほんの短い期間だけに過ぎない。調達できる物資が欠乏するにつれ、組織はしだいに機能不全に陥っていく運命にあった。

 ふと、通りの裏手の方から甲高い叫び声のようのものが聞こえてくる。賢秀少佐は気にかかり、声の聞こえた方へと角を曲がると、金網に囲まれた中に、グラウンドがあり、その向こうに三階建てのコンクリート製の建物が二列に並んでいた。どうやら学校のようだ。そのグラウンドの中央に兵士たちの輪ができていて、その真ん中から土煙のようなものが立ち上っている。兵士たちの間で揉め事が起こっているようだった。

 賢秀少佐はスカイウェイブを走らせて、開け放たれた鉄の扉からグラウンド内へ進入していき、群衆のすぐ近くまで進んだ。エンジン音に気づき、取り巻いていた群衆が道を開ける。さらに少し進んでエンジンを止めると、賢秀少佐は右腰のホルスターからピストルを引き抜き、その輪の中へと進んでいった。手にしたピストルはFN社のブローニングM1910に非常によく似た外見の高句麗製七十式と呼ばれるものだった。

「何ごとだ?」

 集まっていた兵士の中には彼の姿を認めると、すぐその場を去っていく気の弱い者もいた。

 輪の中心には二人の兵士がいて、片方の男が顔を赤らめるほど激昂していて、もう一人の男がそれをなだめているという風だった。

「保衛司令部の全賢秀少佐だ。何があった?」

 保衛司令部という言葉を耳にし、二人とも少し怯えたような表情を見せた。

 二人とも口をつぐんでしまう。

「安心しろ。事情を聴くだけだ。お前たち、どこの所属だ?」

「だ、第三〇四軍団です」

 なだめていた方の兵士が小さな声で言う。

「ふん。臨屯イムドゥン郡の出身か。で、揉め事の原因は何だ?」

「何も揉めてません。ちょっと、ふざけてただけです」

 さっきまで顔を赤らめ騒いでいた男がごまかそうとする。

「揉め事なら穏便に済ませてやろうと思ったのだが、この戦時下にふざけていたというのなら見過ごせないな」

 賢秀少佐が言葉尻をとらえた。

「えっ、いや、その……」

 なだめていた方が重い口を開いた。

「コイツ、いえ、すみません。この人が昨日より飯が少ないと騒ぎ出したんです」

 なだめていた男は、どうやら炊事係らしい。

「申し訳ありませんでした」

 騒いでいた男が賢秀少佐に頭を下げる。

「事実はどうなんだ?」

 賢秀少佐が炊事係に尋ねる。

「えっ?」

「だから食事の量だ」

「一割ほど減らしています」

「誰の指示だ?」

「でも、それは……」

「いいから、聞かれたことに応えろ。誰の指示だ?」

「炊事長です。車成民チャ・ソンミン炊事長です。この先、食料物資が確保できるかどうかわからないからでして……」

「よろしい」

 賢秀少佐は満足そうな表情を浮かべその場を離れた。

 賢秀少佐が去っても、兵士たちの中に彼の言動を非難するものはだれ一人としていなかった。保衛司令部の人間が理不尽にふるまうのは高句麗では当たり前のことだった。

 ただ炊事係だけが、自分の発言で、炊事長が不利益を蒙ることになるのではないかと不安げに立ち尽くしていた。


                 三


1 鼠(兵庫県)201X/05/13(木) 13:07:34 ID:8q0SUJYO

 例の協力者、全部女だって知ってた?


2 ウシ(香川県)201X/05/13(木) 13:14:24 ID:nY0S86VX

 ウソつくんじゃねーよ


3 タイガー(神奈川県)201X/05/13(木) 13:18:03 ID:DqiiBGAO

 敵をかく乱する戦術じゃねーの


4 ラビット(東京都)201X/05/13(木) 13:19:04 ID:3d9SXBRP

 味方かく乱してんじゃん


5 ドラゴン(静岡県)201X/05/13(木) 13:19:54 ID:7ylSG6KR

 女が行って何すんだー


6 ミー(埼玉県)201X/05/13(木) 13:20:17 ID:q0fSakYZ

 頭悪ー


7 ダークホース(栃木県)201X/05/13(木) 13:20:49 ID:g1HYUskE

 嫁にきてくれ


8 ストレイシープ(大阪府)201X/05/13(木) 13:22:06 ID:r3UVz6KM

 そういえば情報入ってこない


9 サルトル(和歌山県)201X/05/13(木) 13:22:39 ID:EF5RZ9jO

 あたりめーだ。戦争やってんだろーが


10 タイガー(神奈川県)201X/05/13(木) 13:23:03 ID:DqiiBGAO

 ウチのネーチャン連れて行かれた


11 ニーチェ(福岡県)201X/05/13(木) 13:24:34 ID:mOGESi7PL

 そりゃどっかに売られてんだ


12 ドラゴン(静岡県)201X/05/13(木) 13:24:34 ID:7ylSG6KR

VVV6

 ぶっ殺す


13 イヌイ(愛知県)201X/05/13(木) 13:25:22 ID:GQ6uXCVT

 ウチのネーチャン、どーせ連れてかれんならってコクったら、そいつカガミ見ろだって。ワロタwww


14 ソレダレ(広島県)201X/05/13(木) 13:26:18 ID:Sq0iUJ7O

 それネタだろ


15 ライオン(兵庫県)201X/05/13(木) 13:27:11 ID:Kq0SU9YZ

 防衛省のサーバー割られたらエライことになる


16 ブタノソクラテス(東京都)201X/05/13(木) 13:27:44 ID:k0iLUEQZ

 割るってどういう意味?


17 アリストテレス(埼玉県)201X/05/13(木) 13:29:08 ID:4sGK9XEq

 子どもは帰って寝ろ


18 アリスと手でする(京都府)201X/05/13(木) 13:30:24 ID:h4kMRTDF

 違法にダウンロードすること。Warenzからきている


19 カレシトスグスル(山梨県)201X/05/13(木) 13:31:36 ID:pLD7TRiS

 それチョー見てえ


20 カレシトスグスム(神奈川県)201X/05/13(木) 13:32:06 ID:RiSpLD7T

 誰かが出すんじゃねーか。海保みたいに


「マジかよ」

 画面を見入っていた男はそうつぶやくと、もうそれでこの問題への関心は失せてしまったのか、マウスボタンを押すと、ほかのサイトに飛んで行った。


                 四


 川は激しい音をたて、めまぐるしく逆巻き、あちこちで泡立ちながら流れていく。見るからに冷たそうな水は青い空と周囲の景色を映していて、影になった部分では、激しく揺れながらも礫で覆われた川底の姿を覗かせている。その速い流れに翻弄されながら、王冠のような薄い桃色の花が回転しながら流れていき、すぐに見えなくなってしまう。

 あれは蓮の花だったのだろうか。あの尖った花弁はそうとしか考えられない。

 淀みに咲く花が、なぜこんな急流を流れていくのだろうか……。

 そこまで考えたところで目が覚めた。

 目の前には第二秘書である畑山信行の頭を乗せたヘッドレストがあった。

 黒野須を乗せたフーガは市ヶ谷から官邸へと向かっているところだった。

 目が覚めたというのに、取り返しのつかないものを失ったという喪失感がなかなか去らない。

 冷房は効いていたが、背中にはじっとりと汗がにじんだような嫌な感触がある。

 夢のイメージが意味するところはわからなかったが、引き金となったのは中央指揮所で見たあの画像だろうと黒野須は思った。

 それは「羽衣作戦」の第一陣降下時の画像だった。C―1輸送機の編隊に随伴していたU―125A救難捜索機から撮影したものだった。降下する機体からはかなり離れた空域からの撮影だったが、C―1の後部横のドアが開き、黒いパラシュートを背負った女性たちが次々と空中に飛び出していくのがはっきり確認できた。

 黒野須の意識の片隅で、まるで開きっぱなしになった小さなウインドウ画面のように、絶えずあの画像がループしている。

 フーガは官邸前のアプローチに進入していく。両サイドの定められた位置に、大勢のテレビのクルーや新聞・雑誌のカメラマンがスタンバイしていた。

 フーガから降りる黒野須の姿を認めると、たちまち記者たちが駆けつけてくる。

 黒野須の周りにはすぐに人だかりができてしまう。

「高句麗軍の進軍は止まったんですか?」

「国連大使から何か連絡はありましたか?」

 記者たちは矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。

「わかるだろ。質問には答えられないんだ。平時じゃないんだよ」

 中央指揮所に留まっていた方が正解だったかな、などと思いながら、黒みかげ石のエントランスホールを急ぎ、執務室へ通じる中央階段へと向う。

 官房長官執務室は首相執務室と同じ最上階の五階にあった。

 それにしても、あれはマズい……。

 黒野須の意識は、さきほど中央指揮所で見たビデオ映像へと戻っていく。

 ライブ映像ではなく、八時間ほど前に撮影されたもので、録画したもののごく一部だった。

 それを見た瞬間、黒野須はドキリとした。

 女性たちがパラシュートのほかは何も身につけていなかったからだ。

 滞留促進要員が何をするのかは知っていた。しかし、対応策をすっかり久留遠に委ねてしまっていた黒野須は少し距離をおいて眺めていた。そのため実際の要員の扱い方や投入方法までは知らなかったのだ。

 問題の映像に衝撃を受けた黒野須は、そこに居合わせた防衛大臣の井草、国土交通大臣の重原たちの反応を窺った。

 しかし、彼らの表情にとりたてて変化はなかった。

 どうしてだ?

 あの映像を見て何も感じないのか。それとも気づかない振りをしているのか。

 あの映像は、いずれ公になる。いやもっとすごい映像が飛び出すかもしれない。そしてそれは間違いなく世界中に公開される。こんなネットの時代に隠しおおせるものなど何もないのだ。そうなれば高句麗を非難するどころではなくなる。収拾のつかない事態に発展するだろう。

 これなら、戦闘になってた方がよっぽどましだったんじゃないのか。

 そんなことを考えている間に、官房長官執務室のドアの前に着いてしまった。

 黒野須はドアを開けた。

 そこはまるで、大会派の控え室と見間違うような広々とした部屋だった。

 部屋の右側三分の二が秘書官たちの事務スペースとなっていて、事務机が六脚、向かい合わせに並べられ、周辺にはコピー機などの事務機器が据え付けられていた。各省庁から出向してきた五人の秘書官事務取扱いが机に向かい、事務仕事をこなしている。部屋の奥には扉があり、その向こうが、黒野須の個人の執務室になっていた。

「大丈夫ですか? 随分、お疲れのようですが……」

 歩み寄ってきたのは、秘書官の村崎福美むらさき・ふくみだった。

 黒野須の議員秘書から任用されている人物で、年齢はまだ三十代前半であった。

 ショートカットの髪で、コケシのような顔は、目も鼻も口もみんな小さかった。この日は白い無地のシャツに濃紺のパンツスーツという姿だった。

 黒野須は自分の秘書官は、気兼ねのいらない男性にしたかったが、いろんな条件を加えて絞っていくと福美しか残らなかった。

「ああ、しょうがない」

 黒野須が奥の自室に向おうとすると、「あのぉ……お客様が」と福美が申し訳なさそうに左側に目を向ける。

 そこは簡単な応接セットがある一画だ。

「お邪魔しております」

 白いソファーの一つから女性が立ち上がった。

 官房長官はそう簡単に面会にできる人間ではない。

 黒野須が怪訝な表情を浮かべていると、福美が近づいてきて「幹事長の紹介だったものですから」と小声で耳打ちした。

 女性は身長一七〇センチほどのすらりとした体形で、頭髪はショートカットだったが、前髪だけを長く伸ばし少年のように左に流している。黒い瞳のすぐ上に細く長い眉が伸びていた。なかなかの美人である。高いヒールを履き、裾が広がった真っ白なパンツに深い緑のジャケットという姿だった。

竜淵りゅうぶち議員です」

 福美が何事もなかったように装い、紹介する。

「竜淵高江と申します」

 高江は一礼した。

 竜淵……。黒野須が記憶をたどる。ああ前回の総選挙で初当選した一年生議員か。まだ二十九だとかいってたな。

「ああ、君か。確かアメリカの大学に留学後、下院議員のスタッフとして働いた実績があるんだったよね?」

「はい。一年ほどですが」

 なんだよ、それは。そんなの経歴のうちに入らないだろ。

 だが笑顔を浮かべたまま、黒野須は、高江に右手でソファーを示し、自らも腰を落とす。

「私、昔からずっと先生を尊敬していたんですよ。この人は保守党を背負って立つ人だって」

 そう言って席に着くなり、高江はニッコリと笑顔を浮かべた。

「それはありがたいね。で、今日は?」

「実は、高句麗軍の侵攻に関しまして協力を求められた人の家族から相談がありまして……」

 黒野須は意表を突かれ、うっかり驚きの表情を浮かべてしまう。そこから気取られないように、ゆっくりともとのポーカーフェースに戻していこうとした。

「ほう。それで?」

「話を聞いてみると、その協力を求められた人たちというのが全部女性だったんです。おかしくないですか。女性だなんて。後方支援か何かの仕事でしょうか? まさか侵攻地域に行っているということはないですよね?」

「悪いが、それは答えられないことになっているんだよ。これは君が一年生議員だから言っているんじゃないよ。すまないね」

 そう言うと黒野須は口をつぐんだ。

 その黒野須の目を、高江は真正面から見つめてくる。

 何か言葉を補えば、そこに高江は食いついてくるだろう。黒野須はじっと耐える。

 頃合いを見計らい、「じゃあ、これで」と席を立つ。

 高江は、少し心残りな様子でしばらくその場に佇んでいたが、やがて一礼すると部屋を出て行った。


「井草先生!」

 防衛大臣の井草は、秘書の佐々木雅夫とともに中央階段を下りているところを呼び止められた。首相と面談を終え、また市ヶ谷の中央指揮所に戻ろうとしていた。

 井草が振り返ると、高江が白いパンツの裾を翻しながら降りてくる。まるでどこかのスターのように見える。

「君か」

 思わず井草の顔が緩む。

 高江はわずかに首を左に傾けるようにして笑顔を浮かべ、井草の目の奥を覗き込む。

 そして黒野須に話したのとまったく同じことを語り始める。

「もし侵攻地域に民間女性が入っていたら、国際的なスキャンダルになるのじゃないかと……」

「うっ」

 井草が思わず返答につまる。

 下を見ると、ロビーには記者たちがたむろしていた。井草は階段を降りる足を止め、高江をそこに留まらせる。

 声を一段落とした。

「それで?」

「それを払しょくするには、本当の戦争をすればいいんです」

「えっ」

「私、危険の出所を叩くのが本当の防衛だと思うんです。そうすればきっと、日本経済もV字回復していくと思うんです」

 井草は一瞬、唖然としてしまうが、すぐに明るい表情をつくった。

「面白いことを言うねぇ、君は。じゃあ、少し考えてみるかな……。悪いが、仕事があるのでこれで失礼するよ」

 そう言って笑うと、井草は記者の集団の中へと入っていた。

「すまんね。ノーコメントだよ」などと言いながら、普段では考えられないような愛想の良さで、井草はそこを抜ける。玄関に止められた黒い日産ティアナの後部座席に腰を滑り込ませると、井草は隣に座った秘書官の佐々木に問いかけた。

「あれをどう思う?」

「さぁ、自分の考えをひけらかしたいだけじゃないですか」

 佐々木は関心なさそうにした。

「突飛すぎるだろ。芝居だということはないか? こちらに何かを言わせるための……」

 その言葉に佐々木の表情が変わる。

「とにかくあの調子であちこちで吹聴されてはかなわん」

「了解しました」


                 五


 新潟市の東に隣接した北蒲原郡聖籠町せいろまちにある新潟サンセットゴルフコースが日本側の前線基地となった。中日本石油と中日鉱ホールディングスの経営統合によって生まれたTXグループが所有するもので一五〇ヘクタールちかくの広大な敷地がある。

 ここが選ばれたのは新潟空港から直線距離にして十キロ程度と近いうえ、新潟港とほとんど接していたからだ。つまり空と海の両方から物資を集積することができた。近くには石油会社の製油所や備蓄基地が立地していて、燃料の調達にも都合が良かった。

 ここに陸上自衛隊三万五〇〇〇人、海上自衛隊七〇〇〇人、航空自衛隊八〇〇〇人の合わせて五万人規模の部隊がおかれた。

 敷地内に設けられた、仮設のヘリポートにはUH―60J、CH―49Jなどのヘリコプターがひっきりなしに離着陸を繰り返し、大きな騒音が響いていた。あたりは舞い上げられた土埃で視界が悪くなるほどだった。

 海上からは物資を積んだLCAC(エルキャック=Landing Craft Air Cushion)が轟音を立てながら、かなりの速度で上陸してくる。

 海上自衛隊ではエアクッション艇と呼ばれている水陸両用のホーバークラフトだ。アメリカのテキストロン・マリン・アンド・ランドシステムズで建造されているもので、全長二十六・四メートル、全幅十四・三メートルの船体に、ガスタービンエンジン四基を備えている。船体の中央が貫通式の荷物スペースになっていて、ここに各種の車両やコンテナモジュールが搭載できる。積載能力は約七〇トンだ。揚陸艦に搭載されて、海上から発進し、そのまま陸上へと物資を運ぶことができた。

 仮設収容所の建設に向けて、資材の搬入が続けられていた。

 何張りもの黒い業務用天幕が並んでいた。その間を迷彩服姿の自衛隊員が慌ただしく動いている。

 中央の一つの天幕には、大蛇の群れ様に太い電源ケーブルが何本も潜り込んでいる。天幕の中には縦型のコンピュータが五十台並べられていた。四方には、冷却用の大きな氷柱が立てられていて、スタンド型の扇風機がコンピュータの列に風を送っている。

 その隣の天幕では大きなモニターに向かい、薄い灰色の作業着の男がタブレットとキーボードを操作していた。男は建設会社の技術者のようだ。モニターには建物の三次元画像が表示されていて、それを何人もの迷彩服姿の自衛隊員が覗き込んでいる。仮設収容所の設計図を見ながら、建設のための作業手順を検討しているようだった。

 喧騒からはなれた片隅のテント裏には、八人ほどの自衛隊員が輪になって座り、周囲を窺いながら、声を潜めて話し合っている。やがて何らかの結論が出たのか、彼らは右の拳を軽くぶつけるように突き合わせたかと思うと、四方に散って行った。


                 六


 カンブリア紀の生物のような外観をした大きな車が民家の間を音を立てずにゆっくりと進んでいく。

 緑と茶色の迷彩が施されたこの車は、前面のグリルが大きく後ろへ傾斜し、側面はウエストラインを境に折れ曲がったように傾斜している。これは避弾経始という考え方によるもので、装甲厚や重量が同じなら、装甲を傾斜させ方が垂直の場合よりも防御力が高まるのだ。

 軽装甲機動車といい、部隊ではライトアーマーやラブとも呼ばれている。二〇〇三年十二月から二〇〇九年二月までの自衛隊イラク派遣で使用された車として有名だ。形状はフランスのパナール社製VBL装甲車と非常によく似ていることから、イラク派遣では他国軍兵士たちはみんなVBLだと思いこんでいた。実際は小松製作所が納入しているものだ。全長四・四メートル、全幅二・〇四メートル、全高一・八五メートルで重量は四・五トンもある。

 外径九五八ミリという大きなタイヤを装着しているため、四十センチ近い地上高があり、少々の障害物なら難なく乗り越えられる。しかもランフラットと呼ばれる仕組みにより、小銃弾が貫通しても一定時間走行できるようになっている。

 どこから弾が飛んでくるかわからない地域でのパトロール任務、偵察任務などに使用される車両である。

 ステアリングを握っているのは飛鳥京子・一等陸曹だった。

 交差点に差し掛かるたび、京子は停車して、息を殺しながら、異変がないかどうか、道路の左右に注意をはらう。

 助手席に座る高林静香・二等陸尉とともに滞留促進要員である女性たちに医療品や食料を届けるためのルートを確保しようとこの地に入っていた。二人とも女性なのは、男性隊員だと女性たちが接触しにくいだろうと考えてのことである。

 日本海側の国道一一三号線を北上すると胎内川の手前で、県道三一四号線に出て東へ約五キロほど迂回し、胎内市役所を過ぎた辺りから国道七号線に乗り村上市方面に向けて北上する。このような経路をたどるのは高句麗軍に見つかることを恐れたためである。

 今回の作戦では、自衛隊員は高句麗兵とは直接、接触してはならないことになっていた。高句麗兵と接触できるのは政府が特別に指定した人間、つまり滞留促進要員だけであったのだ。そのため、運転席の二人も前線基地を出発する際、高句麗兵に絶対に見つかってはならないと厳命されていた。自衛隊員の姿を見て恐れた高句麗兵が発砲し、そのとばっちりを女性たちが受けるという事態を防ぐためである。

 辺りは人っ子ひとりいない、ゴーストタウンだった。動くものといえば、時折、舞い降りてくるカラスやセキレイぐらいしかいない。

 一万人もの女性達は確かにこの地に舞い降りたはずだった。それがどこにも見当たらない。一人残らず高句麗兵に連れ去られてしまったのだろうか。

「止まって」

 静香が言った。

 京子はブレーキを踏んだ。

 静香は双眼鏡を持って車を降りる。京子もそれにならった。

 民家のすぐ北側で家並みが途絶え、小高い丘の麓まで平らな水田が広がっていた。丘には薄く靄がかかっている。水田一枚一枚が静香たちが知っている関東のものよりかなり大きい。目の前を横切るように東西方向に草の茂った畦道が走っている。草がひと際高くなっているところは水路や川だろう。

 ボンネットに肘をつき、静香が双眼鏡をのぞきこむ。ゆっくりと旋回するようにあたりを見ていたが、やがて双眼鏡から目を離して言った。

「ほら、あそこ水田の中を通る道路の辺り」

 京子が静香が指を差し示す辺りに双眼鏡を向ける。車が止まった地点から一キロほど離れたところだった。まるで包み紙を開いた砂糖菓子のように、グレーのパラシュートをむしろ代わりに白い肌をした女性たちが並んで座っていた。

 水田を一つ隔てた東側には高句麗兵らしい、黒っぽい人影がたむろしているのも確認できた。こちらは菓子にたかるアリといったところか。

「あんなに近くに高句麗兵がいるんじゃあ、近づけませんね」

 京子がため息をついた。

「どうやって食料を届けますか?」

「そうねぇ……。こっちも女性たちと同じ格好になって、リアカーにでも乗せて、こっそり近づくしかないわね」

 双眼鏡をのぞいたまま静香が言う。

「それしかないですよね……」

 二人は車に戻った。

 ゆっくり方向転換すると、二人を乗せたラブは元来た道をまたゆっくりと戻っていく。

 静香はドアの窓枠に左肘を置き、折り曲げた腕に顎を預けている。その姿勢のままじっと動かない。

 その姿を目にした京子が声をかける。

「どうしたんです? 浮かない顔をして」

「本当に全員を無事に救出できるかなって。まだ救出の方法も聞かされてないんだもの……」

「女性達のICタグ。あれが役立つんじゃないんですか?」

 京子が尋ねる。

「役に立たないわよ、あんなもの。女性たちにつけたタグはパッシブ型なんだから」

 静香が少しいらだった様子で言った。

 ICタグに疎い京子はそれが何を意味するのかがわからず、ステアリングを握ったままきょとんとした表情を浮かべている。

「どういうことですか?」

 静香が補足する。

「あのね。電子タグには、タグ自体が電波を発信して情報を送るアクティブ型と、こちらからの電波に反応して情報を送り返すパッシブ型があるのよ。今回女性たちに付けたのはパッシブ型だったの」

「なぜ、アクティブ型にしなかったんです?」と京子。

「アクティブ型は自分で電波を発信しているから、非常に大きな電力を必要とするのよ。携帯電話を考えればよくわかると思うけど、すぐに充電しなくちゃいけなくなるでしょ。構造も複雑になるから自然とタグ自体も大きくなって、使い勝手が悪いのよ。それに比べてパッシブ型は、問いかけてくる電波をエネルギー源として、信号を送り返す仕組みだから充電の必要がなく、長期間にわたって使えるの。構造も簡単で、タグ自体を非常に小さくできる」

「なるほど」

「ただし、パッシブ型は、電波に反応する距離に制約があるから、こちらの方からタグの方へと近づいてやらなくてはいけない。今回使用したタグの場合、約六十センチぐらいじゃないかな。人が専用の読取装置を持って、女性のタグの近くにいかなくちゃいけないのよ。それなら人が出向いて確認すると変わらないじゃない。送り返してくる情報もあらかじめ入力しておいたものだけだから、信号を受信したからって、その人が無事だという証拠にはならないし……」

「だったら、なんのメリットがあるんです、あのタグは」

「有効に使うためには、あらかじめたくさんのポイントに読取装置を設置しておくの。そうすれば、だれがいつどのポイントを通ったかがわかるようになる。でもそんな設備を短期間で用意できないからね。今回の作戦ではそれが間に合わなかったというわけ。いまのままだと、メリットは、作戦が終了した後、書類をつくるときに少し労力を省いてくれるって程度かな」

 二人乗せたラブは前線基地へと戻って行った。


第五章 彷徨える女神


                 一


 由美は気づいては、また気を失うという状態を何度も繰り返していた。

 最初に襲われて気を失い、ふたたび気づいた時には、何人もの男に体を掴まれ、前後左右に激しく揺すられていた。目を固く閉じて耐え忍んでいたが、やがて胸の内側が焼かれるように熱くなってきて息ができなくなり、眩しい光が広がってきたかと思うと、また気を失ってしまった。

 しばらくすると、ぼんやりとした意識が戻ってきて、早く目を覚まさなければと焦ったが、なかなか朦朧とした状態を抜け出せない。周囲をたくさんの人間が駆け巡っている気配があった。だが、それを確かめることもできないまま、また意識が遠のいてしまう。

 三度目に気づいたとき、周囲は喧騒に包まれていた。さまざまな声が重なり合ってノイズのような音が充満している。そして、そこにはそれまでのような恐怖の色が感じられなかった。

 こんな喧騒は、確か以前にも味わったことがある……。

 肌が痛いような、強い日差しの感覚が蘇る。

 ああ、なつかしい……。

 あのとき私は……。

 急に胸が締めつけられるように熱くなってくる。

 だが、その思い出の扉を開こうとしたとたん、だれかに体を揺すられるのを感じた。

「……大丈夫?」

 目をひらくと、眩しい光に一瞬、目がくらみそうになる。

 よく見ると、逆光の中、見知らぬ顔が自分を覗き込んでいる。

 色白で、目は白目の部分が大きく、肉付きのよい鼻が印象的な派手な感じの女性だった。セミロングの髪をポニーテールにまとめている。

「さぁ、飲んで」

 その女性はにっこり笑うと、手に持っていた透明の五〇〇ミリリットルのペットボトルの蓋をあけ、口に注ごうとする。されるがままに、由美はそれを受け入れていたが、寝たままの姿勢だったため、水が気管に入り、せき込んだ。

「大丈夫?」

「ええ」

 ポニーテールの女性に支えられながら、由美が上体を起こす。

「ありがとう」

 そこでようやく、由美は感謝を表すことができた。

「私、毬野庸子まりの・ようこって言うの。よろしく」

 庸子は右手を差し出しす。まるで小学生のような自己紹介を、照れずにできる女性だった。

 由美の目の前に、薄茶色の急須の蓋のような突起が二つ、揺れている。申し訳ないと思うのだが、もともと視線を引き寄せるように出来ているのだから仕方がない。肌の感じから、自分より十歳は若いだろうと由美は感じた。しかし、この落着きぶりからすると三十代ということはないはずだ、などと考えていて、ふと我に返る。

「あらっ、ごめんなさい。こっちから名乗らないといけなかったのに……。由美です。北熊由美と言います」

 周囲には女性たちが何人もいて、座り込んで話をしている。あの喧騒はこの女性たちの話し声だったのか。彼女たちはパラシュートを敷物代わりにしていた。

「ここは?」

「知らない」

 庸子は笑った。

 そうだった。みんな見知らぬ土地に上空からばら撒かれたのだ。ここがどこだなんてわかるはずはない。

 由美は、辺りを見渡す。

 すでに日は相当高くまで昇っていて、澄み切った青空が広がっている。

 田植えを終えたばかりの水田が遠くまで続いている。青々とした草の畦道に縁どられた田は、その一つひとつが、由美の住む東京・多摩地区のものよりはるかに大きい。水の中に植えられたばかりの細い稲が揺れていた。由美たちは、その水田地帯の中を走る道路の歩道にいた。道路は幅八メートルほどのアスファルト舗装で、片側にコンクリートの歩道が設けられていた。緑に覆われた小高い山の方に続いていて、先はトンネルになっている。数軒の民家も小さく見える。由美にはあまり馴染みのない農村の風景だった。

 そんな自然の風景の中に数えきれないほどたくさんの女性の姿がある。大規模な野外コンサートが今にも始まりそうな錯覚を覚えてしまう。ただその女性たちが何も身につけていないのは、少し違和感があった。

 周囲を眺めていた由美の体が突然、こわばる。

 わずか十数メートルという距離に高句麗兵の一団が車座になって座り込んでいた。

 由美の右肩を抱くように軽くたたいて庸子は笑う。

「大丈夫よ、アイツら何もできないから」

 その根拠がどこにあるのか、由美には想像がつかなかったが、彼女の表情には余裕が感じられる。

 高句麗兵たちは煙草を吸いながら談笑していた。

 そのジェスチャーから会話の内容は、昨夜のお互いの武勇伝を披露しあったり、巡り合った女性たちの情報を交換したりしているのだろうと想像できた。どの男も嬉々としていた。昨夜のような出来事が、これからも続くと思っているようだった。

 だが現実はそんなに甘くない。

 いくら一糸纏わない姿であっても、女性たちがすべて男たちの支配下に入ってしまうほど単純ではない。そうであれば人間の歴史はとっくに終わっていたかもしれない。

 裸の女性が空から舞い降りてくるという想像もできない状況で異常な興奮状態にあったからこそ、その力を借りて高句麗の男たちは見境なく女性たちに襲いかかることができた。その状態が過ぎ去ると本来の人間関係に戻ってしまう。つまり、洗練された都会の女性と、うぶな田舎の男性とにである。しかも両者の間には意思を通じ合わせる共通の言語もなかった。

 このハードルを乗り越え、ふたたび男女が混じり合うのは容易なことではない。男の力がいくら強くても、女性の集団にはかなわない。男も集団になればよさそうなものだが、一人ひとりに温度差があって、なかなかそうはいかない。徒党を組めたとしてもせいぜい七、八人が限度だ。それではどうにもならない。そこでこの先、高句麗の男たちが自由にできるのは、集団からはぐれた少数の女性だけということになっていくのである。

「立てそう?」

「ええ」

 立ち上がろうとした由美は、腰に激痛が走りよろめいた。

 瞬時に、昨夜の記憶がよみがえる。

 あのとき……。まるで腰の中で何かが爆発し、その衝撃が頭蓋骨の裏側へと駆け抜けていった。それで由美は失神してしまったのだ。

 少し前まで気づかなかった痺れを、今そこに感じる。その痺れた部分が、まるで直径十センチほどのドーナツ状に広がっているように思えてならない。

 まさか、あのとき!

 由美の背筋に冷たいものが走る。

 あわてて後ろに手を回す。そこはいつもと変わらない形状をしていた。

 由美はほっと溜息をつく。

「どうしたの?」

「何でもない」

 由美は顔を赤らめた。

 顔を隠そうと俯きかけたとき、それまで見えていなかった人影が、視界の端に飛び込んでくる。

 その瞬間、由美の心臓が止まりそうになる。

(……まさか)

 恐る恐る高句麗兵の方を窺ってみると、車座になった男たちの背後に、こちらの方を見つめて立っている男がいた。

 それは、紛れもなく、降下してきた由美を最初に襲ったあの若い男だった。

 あの男がここにいる!

 ずっとここにいたのか。

 そして、ずっとつけ狙っているんだわ。

 この私を……。

「どうしたの?」

「私、狙われている」

 由美は体を翻すと、右の親指を自分の背中の方へ向けた。

 庸子がそちらに目をやる。

 座った男たちの背後に、立った男が一人いるのを確認したようだ。

「でしょうね。男ってのは女を狙うものよ」

 由美の不安をよそに、庸子は何を当たり前のことを言っているのよ、とでも言う様子で笑った。

 庸子にそう言われると、さすがに年上の自分がいつまでも怯えているのはみっともないように思えてくる。

「あっ、そうだった。私、班長のところへ行かなくちゃ」

 由美が思い出したように言う。

「そんなルール、降りた瞬間になくなっちゃったわよ」

「えっ、そうなの」

「じゃあ、私たちはこれから何をすればいいのかしら」

「そんなこと私たちの考えることじゃないわよ。私たちは、ただ自分を守ることだけを考えてりゃいいのよ」

 やがて庸子は、歩き出す。トンネルがあるのとは反対の方向だ。

 由美は慌てて、後を追う。

「どこへ行くの?」

「ちょっと水をあるところ探してみようかなって。これじゃあ、体は洗えないでしょ」と、庸子は右手のペットボトルを振って見せた。

「危ないんじゃない?」

「ごらんなさい。こんなにたくさん女の人がいるのよ。この列に沿っていけば、きっと大丈夫よ」

 それもそうだと思い、由美は庸子の後をついていくことにした。由美も体を洗いたいという気はしていたのだ。皮膚のあちこちに何かが貼りつき乾いたような、肌がひきつる感覚があった。

 何気ない由美の視線が前を歩く庸子の後ろ姿を辿っていく。

 高い位置に結ばれたポニーテールが左右に休みなく揺れている。

 首からなだらかなスロープを描いて落ちてきたラインが両肩の辺りで高く上昇していた。鎖骨の突端が肩甲骨の上に乗っかっているのだ。複雑な起伏を描く肩甲骨はまるで二枚の鎧のよう。その間を二本の尾根に挟まれた深い地溝帯のような背骨のラインが下っていく。

 筋肉質ではないものの、均整の取れた体だと由美は思った。自分の体だとあばら骨の終わる辺りで、皮下脂肪の弛んだ皺ができてしまうが、彼女にはそれがない。

 背骨のラインは大きく前方へと湾曲している。それを目で追っていて、ドキリとする。その腰には鷲の翼を描いたような青黒い刺青があった。ずっとそこにあったのに意識に上っていなかったのだ。本人の落ち着きぶりや年齢とはまったくそぐわない。デザインもちょっと古く、色褪せて見える。『若気の至り』というヤツなのだろうか……。

 行く手に、座り込んだ二人の女の子がいて、笑いながら、MREの袋開けようとしていた。いずれも二十代に見える。若さのせいなのか、まるでピクニック気分だ。

 由美は彼女らの余裕に満ちた態度が不思議でならなかった。

 由美は気づかなったが、実は女性たちの境遇にはずいぶんと差があったのだ。第一陣で降下してきた女性たちには何人もの高句麗兵が群がっていたが、そのうちどんどんと降下していくる女性が増えるに連れ、女性の数が高句麗兵を上回るようになり、最後の方ではまったく高句麗兵に触れられることもなかったという女性も少なくなかったのだ。

「お嬢さん方、ここで開けちゃうと、高句麗兵に種明かしすることになっちゃうよ」

 庸子がやさしく諭す。

「そ、そうですよね」

 女の子たちはバツが悪そうに笑い、袋を持って移動する。

 由美は素直に感心した。それと同時に、庸子は年下の女の子と一緒にいるより、自分なんかのような年配の者といる方が面倒がなくてよいと思ってるのかな、と考えた。

「庸子さんって、よく気が回るのね。キャリアウーマンってところかしら?」

「前はね」

 そのまま会話は途切れた。きっと庸子は自分の身の上をあまり話したくないのだ。馴れ馴れしく人の心の中に踏み込んでていくのはよそう、と由美は思った。

 二人は先へ進んでいく。

「いま気づいたんだけれど、信号がみんな縦になってる」

 珍しいものを見つけたように由美が言う。

「雪国だからじゃない」

 庸子がそっけなく答える。

 その信号は今、電源が落とされ灯っていなかった。

 やがて長く続いていた女性たちの群れが途切れてしまう。

 先にはもう無人の道が続くだけだ。

 由美は急に不安になる。それを察したのか庸子が口を開く。

「由美さん、お子さんはいるの?」

「一人。息子がね。今は中央区の方で……」

 そう言いかけた時、庸子が姿勢を低くした。

 由美は庸子に倣って腰を屈めた。

「何?」

「何かが動いた」

「戻ろ!」

 庸子は耳を貸さず、確かめようと先へ進む。由美もその場で留まっているわけにいかず、後に続く。

 草の間から何か白っぽいものが見えた。

 それは、若い女性だった。

 足をくじいて動けないようだった。体のあちこちが赤く変色していた。

 彼女は怯えていたが、同じ女性だと気づくと涙を浮かべた。

「あなたは!」

 由美が思わず声を上げた。


                 二


 鉄骨フレームで組み立てたもので、屋根も軽いのだろう。そこには柱のない広々とした空間が広がっていた。

 JA北越の岩船低温倉庫はJR羽越本線岩船町駅からすこし南に下った位置にあった。

 張智勲チャン・ジフン少佐たちは、山辺里大橋近くのスーパー「MUSCO」で食料搬出作業が始まると、そちらを離れ、国道七号線を南に下り、この倉庫までやってきていたのだ。金東健キム・ドンゴン上佐に倉庫を確保する部隊の派遣を頼んでいたのだが、まだしばらく時間がかかるとみて、自ら様子を見に来たのだった。七号線は降下地点から東に遠く離れていたため、日本側の降下女性とは接触することはなかった。

 倉庫には三十キロ入りの袋詰めの玄米がうず高く積み上げられている。

 木製のパレットの上に八袋を五段に積み上げたブロックが、上に三つあり、その列が何列も続いている。

 玄米は常温で保存すると、呼吸作用でしだいに老化していき品質が低下する。害虫や病菌も繁殖してしまう。そのため保管は摂氏十五度前後にしておくのが最適だと言われている。電源が失われて二日が経つが、中はまだひんやりとしていた。断熱材のおかげなのだろう。

 智勲少佐は袋の口の結び目を丁寧に解き、中から玄米をそっと取り出す。

 やや黄色味を帯びた透き通った粒だった。

「おおう」

 周りにいた五人の部下たちから低い感嘆の声が上がる。

 岩船産コシヒカリは魚沼産と並んで特Aの評価を受ける日本国内でも最高級とされる米である。

 高句麗では、決して目にすることはないものだった。高句麗の米は刈り取った後、稲を干すための材木不足のため、十分に乾燥させることができず蒸れてしまっていて品質は悪い。このような透き通った状態には決してならなかった。

「急がなければ」と智勲少佐は思った。

 そのときだった。

「これなら冬も越せるんじゃないですか」

 暢気な声が倉庫内に響いた。他人事のような無責任さを感じさせる。

 部下たちが一斉に振り返る。

 きちんと制服を着こなした将校が歩いてくる。

 保衛司令部の全賢秀チェ・ヒョンス少佐だった。

「これは、これは賢秀少佐殿。今日また何か?」

 智勲少佐が尋ねる。

「少佐殿はよしてください。階級は同じじゃないですか」

「いえいえ、こちらは一般将校ですから」

「少しお聞きたいことがありまして」

「ほう。それは?」

 智勲少佐は顔だけは賢秀少佐に向けていたが、袋を点検する手を休める気はないようだった。

「各部隊での食事の配給が少なくなっておりましてね。兵たちがもめているんですよ。そこで、炊事係に質したところ、上からの指示だと。そこで、その指示をたどっていると、智勲少佐の名前が出まして……」

「ええ。この先どうなるかわかりませんからね。食料は大事にしておかなければ」

 智勲少佐は、そんな話をする意図がわからず、作業の手を止め賢秀少佐の方を見る。

 賢秀少佐は背を向けたまま、倉庫に積み上げられた玄米の袋を見上げていた。

 彼はしばらく黙っていた。そして、じっくりと間をはかったかのように口を開いた。

「その根拠はなんでしょうか?」

「根拠? そう言われても、経験……、いや勘とでもいうほかありませんね」

「経験と勘……ですか」

 また賢秀少佐が間を取る。

「でも、このような遠征に参加するのは初めてだと思いますが……」

 智勲少佐の部下たちが敵意の籠った目で賢秀少佐を睨み付ける。しかし彼はいっこうに動じない。

「将来を考え蓄えを残しておくのは十分筋が通っていると思いますが……」

「これは失礼しました。気分を害されたのなら謝ります。これは私たちの悪いクセかもしれませんねぇ。が、私たちの間では、説明の筋の通っているときこそ気をつけろ、ということがありましてね。筋が通っているからといって、問題がないということにはなりません。全体としては筋が通っているが、細かいところでは問題があるということがよくあります」

「どういう問題でしょうか?」

「さあ、それはわかりません。問題があるかどうかも……。ただ、十万人を超える分の食料ですのでね。いざというときのための備蓄量が一パーセント違っただけでも、相当な量になります」

「私が横流ししているとでも?」

「いや、そうは言ってません」

「言ってるも同じじゃないか!」

 声を荒げたのは部下だった。

「よさないか!」

 賢秀少佐につかみかかろうとした部下を智勲少佐が制止する。

 賢秀少佐はその様子を見ながら冷ややかな微笑みを浮かべた。

「お仕事中、失礼しました。ではこれで」

 一礼すると、賢秀少佐は背負を向けた。

 その背中に、今度は智勲少佐が声をかける。

「先ほど冬も越せるのではとおっしゃいましたが、この量ではせいぜい一週間分といったところですよ」

 賢秀少佐はほんの一瞬、歩みを止めかけたが、振り返らずにそのまま立ち去った。

 彼の姿が見えなくなると、智勲少佐の部下が口を開く。

「まったくいけ好かない野郎だぜ」

「火のないところに煙を立てるのが奴らのやり方だ」

 もう一人が応じる。

「そのぐらいにしておけ」

 そうたしなめた智勲少佐も気がかりがないわけではなかった。

 保衛司令部にいる以上、優秀であるに違いない。不正を暴くならこっそりやればいいことだ。疑いをかける相手に会う必要はない。彼は、賢秀少佐の意図をはかりかねた。


                 三


 日本橋の入り組んだ界隈の雑居ビルにある、「セザンヌ」というその喫茶店は出版社や広告代理店の人間と思しき客たちで込み合っていた。

 店内のレイアウトにはほとんど工夫がなく、茶色いソファー・セットがただ並べてあるといった感じだった。どの席でも、それぞれがたくさんの資料をテーブルに広げ話し込んでいた。

 その席の間を、サングラスをかけ、白いシャツの袖口をロールアップにしたブルージーンズの女性が歩いていく。一直線上をクロスするように足を投げ出し、高いヒールで着地する。赤いサンダルの先端はやや外側に開いていた。

 その姿に、男たちの話し声がやむ。

 竜淵高江は少し情けない気分になっていた。変装したつもりが、周囲の注目を集める結果になってしまったからだ。店内の中ほどの狭いテーブルに空きを見つけて座る。


 三時間ほど前のことだった。

 第二衆院議員会館にある自分の控え室に戻ったところ電話が鳴った。

「防衛大臣秘書官の佐々木さんです」と秘書の井上幸一が畏まった態度で言った。

 高江が電話を取る。

「先生、オペラは好きですか?」

 開口一番、佐々木が言った。

「えっ」

「コスモポリタン歌劇団のチケットが二枚、手に入ったんです。演目はドニゼッティの『ラメルモールのルチア』なんですけど。いかがです? 六月二十二日です」

「きっと中止になるでしょう」

「そのときはお食事だけということではいかがです?」

 何なんだ、この男は。防衛大臣の威を借りてナンパをするつもりなのか。

「まだそのころだと難しいんじゃないかしら」

 高江はやんわりと断った。

「そうですか。それは残念だな」

 電話の向こうの佐々木の声はなおも心残りな様子だった。

 それじゃあ、と高江が電話を置こうとしたときだった。

「ところで例の協力者の消息の件、まだ興味がありますか?」

 スナップを利かせて投じたトランプのように、佐々木は鋭いカードを差し入れてくる。

 何? 何か情報でもくれるの?

 高江は電話が置けない。

「立場上、話せないんじゃなかったかしら?」

「それはそうです。なので、少し遠回りの、間接的な情報でもいいのならと思いまして」

「あなたが言ったと大臣に知れたらマズいんじゃないの?」

「そりゃあ、知れたらマズいですよ。でも先生が、話すんですか?」

「話さないわ」

「それなら僕も安心だ。大泉俊英。元テレビ関係の人間で、政界の事情通ですよ。彼はよく調べてますよ」

 佐々木は大泉の連絡先を言い、電話を切った。

 高江は、大泉の電話番号をメモした黄色いポストイットをしばらく指で弄っていた。大泉に連絡を取るかどうか、なかなか決心がつかなかったのだ。

 いかがわしい人物の偽情報に踊らされ、議員を辞職せざるを得なくなった人間が過去に何人もいた。自分はまだまだこれからの人間だ。そんな目に遭うのはまっぴらだ。

 だが待てよ。紹介してくれたのは井草の秘書官、佐々木だ。電話の様子から考えて佐々木が自分に好意を抱いていることは間違いない。しかも佐々木は、防衛大臣の秘書官というれっきとした地位のある人間だ。そんな人間がみずから手を汚すはずがない。他人から好意を寄せられる――そんなことはこれまでの人生ではいやというほど経験してきたことではないか。

 とにかく情報は仕入れておくべきだ。その上でそれを利用するかどうかは、慎重に吟味してから決めればいい。

 高江は、大泉に連絡を取った。

 大泉は声の様子からかなりの年配のようだったが、面倒な男だった。

「情報を与えたところで、政治家というのはその情報を自分の立場を有利にするために使うだけで、本気で真相を暴こうとする者はない」という持論を何度も繰り返した。

 これではラチがあかないと高江が電話を切ろうとした瞬間、「本当に真相を暴いてくれるんだったら」と言い出し、トーンが変わる。高江は自分の説得が功を奏したのかもしれない、と思った。

「俺の話だけだと確証がないだろう。ブライアン荒川という人間がいる。そいつに会ってみろ。セッティングをしてやる」

 そう言って一旦、大泉の電話が切れた。一時間後、大泉が指定してきたのがこの「セザンヌ」だったのだ。目印として競馬の予想新聞を持つように指示された。

 高江は長い脚を投げ出したままの姿勢から、尻のポケットの折りたたんだ新聞を取りだし、赤い題字を上に向けると、白く丸いテーブルの上に置いた。

 苦くてまずいコーヒーをすすっていると、どこからともなく男がやってきて、無言のまま向かいの席に腰を落とす。ブライアン荒川だった。四十歳代ぐらいの小太りの男だった。四角い顔に大きな鼻が目立ち、髪の毛は一本もなくきれいに禿げ上がっていた。ブライアンという名前だったが、どう見てもコーカシアンの血が流れているようには見えない。ずいぶん暖かくなったというのに分厚い灰色のジャンパーを着込み、安っぽい茶色のズボンのあちこちにシミを付けていた。

「それで情報というのは?」

「進行中の作戦」と、荒川は一段と声を落として言った。

「何を知ってるの?」

 高江の声が少し高くなったのか、「シッ」と荒川は厳しい顔になった。

「どんな話?」

「完全に行き詰まっている」

「行き詰まっているって?」

 高江の体が少し熱くなってきた。意識ではまだそれほど重要な情報だとは思わないのに、体の方はすでに金鉱を掘り当てたような反応を始めている。

「女性たちの投入により、高句麗兵の進軍が止まったのは事実だ」

「やっぱり、女性たちは侵攻地域に連れて行かれたのね」

「ああ、そうだ。女性たちを投入した結果、もともと急造の部隊だった向こうの指揮系統が完全にマヒしてしまったんだ。だが、それによって事態が好転したかというとそうでもない。新たな問題を背負いこんでしまったと言ってもいい」

「どういうこと?」

「投入された女性は、高句麗兵によって捕らえられ、慰み者にされただけではない。一部の女性たちは逃げ出すことができたが、大半の女性は、彼らによって自由を奪われ囚われの身だ。いわば人質という状態だ。その数は恐らく五千人を下らないだろう。その女性たちを救い出す手立てがまったくない」

「まさか! そんなことは作戦を実施する前に当然予測できることでしょう?」

「その役目を国連平和維持軍に期待していた。ところが国連平和維持軍が組織されるかどうかが怪しくなってしまった。国連安全保障理事会ではいまだ、この事態が正式議題として取り上げられずにいるんだからな」

「自衛隊は? 自衛隊を投入するつもりじゃないの?」

「フン。これだから」と荒川は鼻で笑った。

「何よ?」

「自衛隊員をオールマイティーの人間のように思うのが素人の悪いクセだ。屈強な体と武器があれば何でもできると思っている。ペルーの大使館占拠事件を思い出してみろ。軍隊だって同じ条件にした環境で何度も訓練を重ねて初めて目的が達成できるんだ。まったく新しい状況で、ぶっつけ本番で何かをやろうとしても決してうまくはいかない。それにだ。今回の場合は完全に能力の限界を超えている。考えてみろ、ペルーの大使館占拠事件のような規模の事態が同時に百件以上起こっているようなものなんだぞ。もともと自衛隊は人質救出訓練などしていないだろう。せっかく自衛隊と高句麗軍の双方に人的被害を出さないよう、接触を避けてきたのに、無理をして人質救出作戦を実行すれば、そのときに多大な犠牲者が出てしまうかもしれない」

「じゃあ、手をこまぬいて見ているしかないというわけなのね?」

「いいや。そうでもない」

「えっ」

 高江はまるでジェットコースターに乗っているような気分だった。荒川に新しい事実を次々と聞かされ、知恵を尽くして次の展開をあれこれと予想するのに、ことごとく否定される。

「イラクやアフガニスタンと同じ手法を取り入れようとしている」

「どいうこと?」

「民間の軍事会社だよ」

「何ですって!」

 荒川は驚く高江に気をとめず、時計を見た。

「今ならまだ間に合うだろう」

「なにが?」

「彼に会える」

「彼って、誰?」

「ビリオン・バーバー」

 肝心なところが省略され、話の展開がどんどんと速くなり、高江にはつながりがよく理解できなくなっていた。恥を忍んで、荒川に問いただせばよかったのだが、それができなかった。優れた学歴と国会議員の肩書きが邪魔をしていたのだ。察しが悪いと思われること――それは高江が何にもまして耐え難い屈辱だった。全体像が理解できていないため、発することのできる質問はおのずと少なくなってしまう。

「俺が車で、連れて行ってやろう」

 高江は話の全体像が理解できていないという負い目もあって、荒川の申し出を断ることができなかった。こんな風采のあがらない男に度胸がないと思われるのもしゃくだった。

 高江が荒川の後について歩くと、彼は、「セザンヌ」を出て、すぐ脇の路地を入って行った。少し離れたところにあるコインパークへと進んでいく。四台の駐車スペースはすべて埋まっていたが、大泉が近づいたのは、その中でももっとも小さな車、スズキのワゴンRだった。MH22S型という二〇〇三年から二〇〇八年まで販売された三代目で、荒川のものは二〇〇五年にマイナーチェンジをする前の前期型だった。もとはシルバーだったのだろう。十年ちかくも紫外線にさらされ、エンジンの熱で炙られたボンネットの辺りは、すっかりツヤがなくなり、ただの灰色になっていた。

 こんなにくたびれた車がレンタカーであるはずはなく、荒川個人の車である可能性が高い。ナンバープレートを確認する余裕さえあれば、後日、荒川の素性を簡単に知ることができただろう。だが高江は、聞かされた話を解釈することに神経が集中していて、そこまで気が回らない。

 ビリオン・バーバー――それが民間軍事会社の人間なのか。この件に民間軍事会社がかかわっているという話は今まで聞いたことがない。恐らく保守党の誰も知らないだろう。首相が独断で秘密裡に何かをしようとしているかもしれない。そのことに、バーバーが疑問を持ち、その内情を語ろうというのか。

 ワゴンRの室内はゴミが散乱していた。大方、禁煙にでも苦しんでいたのだろう、ガムや飴の包み紙が散乱していた。さすがに荒川の隣に座るほどの神経の図太さは高江にはなく、後部座席に座った。

 荒川が車を発進させたので、高江は慌ててシートベルトを探したが、シートの隙間にでもはまり込んでいるのか一方の側しか見当たらず、諦めるよりほかにない。高江にとってはこれが初めての軽への乗車体験だった。不安を顔に出さないようにしながら口を開く。

「な、中は案外、広いのね」

「動けばいいんだよ」

 高江は、全体像を理解するために欠けた部分を補おうといろいろと水を向けたが、荒川は、「俺が不確かなことをいうよりアンタが直接、確かめてみたらいいだろう」と言うばかりで、一向に話に乗ってこない。

 荒川の運転するワゴンRは幹線道路を一切通らず、住宅街の裏道を縫うように進んでいく。そのため高江には自分がどこに向かっているのかが、わからなかった。

 寺の裏のような林の横を抜け、しばらく進むと運動場のような開けた場所に出た。

 そこは調布飛行場だった。

 駐車場にワゴンRを止めると、荒川は飛行場の中へ入っていく。高江も遅れまいとついていった。

 荒川の向かう先には深い緑色のヘリコプターが駐機していた。その傍に、一人の男性がこちらに背を向けて立っている。

 男は大柄で太っていて紺色のアロハシャツに白いゆったりとしたズボンを履いていた。頭は先端がとがった栗のような形をしていて髪の毛を一ミリほどに刈りこんでいる。肌は赤銅色をして、首のところに二本、深い皺が刻まれていた。

「あの……、バーバーさん? ビリオン・バーバーさんですか?」

 高江の問いかけにも返事がない。

 振り返った男には、眉がなく、どっからどうみても東洋人だった。左手に金の腕時計が光り、太い指には何個も指輪を嵌めている。蛇皮の薄っぺらいサンダルを履いた足を真横に投げ出しながら近づいてくる。

「私は、竜淵高江。保守党の衆議院議員よ。あなたに聞きたいことがあって……」

 高江の質問の声が徐々に小さくなっていく。

 男は、それにも答えず、荒川の方だけを見ている。

「いいの? いいの?」

 男の声は異常に甲高くかすれている。

 高江は、自分の腰の付け根の辺りから冷たい何かが体中に放出されているような感覚があった。それを言葉で表現するとすれば『恐怖』という以外にないだろう。

 男は満面の笑みを浮かべていた。そして素早く動いた。

 高江がその動きを追うより先に、意識は遠のいてしまった。


                 四


 草むらにいた若い女性は杉森紀美香と名乗った。

 東京都出身で、国際プロテスタント大学の二年生でまだ二十歳だった。

 短い髪を少年のよう右から左へと流している。細く長い眉毛の下に黒く大きな瞳が輝いている。鼻は尖がってやや上を向いていた。肌は驚くほど白く、目の下の辺りに薄いソバカスがあった。

「足を捻挫してしまって、とても痛くて……。ずっと隠れていたんです」と俯いていた。

 アスリートのような体をつきをしていて、ふだんは活発なのだろうが、このときはすっかり自信をなくしてしまった様子だった。

 詳しくは話さなかったが、昨晩、降下してきた直後、二、三人の高句麗兵に襲われたらしい。隙をみつけて逃げ出したときに、水田と道路の段差ででも右足を挫いたようだ。動けなくなってしまい、草むらに身を隠していたのだという。

「冷やした方がいいかもね」

 紀美香の赤く腫れた右足首を触っていた庸子が言った。

 畔道のすぐ下を水路が流れていた。そこでしばらく紀美香の足を冷やした。

「少し、痛みが引いたみたい」と紀美香が言う。

 よく見ると三人とも体中のあちこちが泥で汚れている。紀美香も少し動けそうになったので当初の目的どおり、水場に向かうことにする。あたりは一面水田で、どこかにもっと大量の水が流れているのは間違いない。

 少し先に、草の生い茂った一段高い土手のようなものが見えている。その向こうに川がありそうだった。

 庸子と由美が紀美香に肩を貸し、歩いていく。

 まず庸子が先に行き、土手に上って辺りの安全を確かめる。庸子の合図で由美と紀美香が土手を登る。

 上から見下ろすとその川はかなり水量があった。

 庸子と由美が土手を降りていく。紀美香は座るような姿勢で二人の後をついてきていた。

 雪解け水なのだろう、驚くほど冷たかった。

 真っ先に水に入った庸子が思わず体を震わせた。水深は膝の辺りまであったが、中央部ではもっと深くなっているようだ。

「きゃっ」

 庸子に続いて右足を水につけた由美が思わず声を上げる。

 その声がまるで少女のようだったので、紀美香と庸子がこっそり顔を見合わせて笑う。

 紀美香も、恐る恐る足をのばして水に浸かろうとする。

 それを見ていた庸子が手を差し伸べる。

 紀美香が手を差し出すと、その手を握った庸子が思いっきり引っ張った。

「ぎゃあああ」という悲鳴とともに紀美香は水しぶきあげ、頭から水に突っこんでしまった。

「もう! 酷い!」

 ずぶ濡れになった紀美香は水を拭おうと両手で顔を覆った。水がしたたり落ち、白い体に冬枯れの蔦のような模様がくっきりと浮かぶ。

 紀美香はわざとらしく怒って見せ、庸子に水をかけた。庸子も甲高い悲鳴を上げて逃げる。紀美香はそれだけでは飽き足らず、由美にも水をかけてくる。

 いつか三人とも笑顔になっていた。

 由美は紀美香の姿をほほえましく眺めていた。娘がいたらこんな日々があったのだろうか……。

 楽しそうにはしゃいでいた紀美香が、急に塞ぎこんでしまう。

 昨夜自分の身に起こったことがフラッシュバックしているようだった。

「息をすることだけを考えていたの……」と紀美香はポツリと言った。

「でも、良かったじゃない。今はこうして生きているんだもの」

 庸子が紀美香を優しく抱き寄せた。

 三人は土手に上がって冷え切った体をかわす。暖かい日差しが心地よい。

「由美さん、お勤めは?」

 庸子が由美に尋ねてきた。

「浜松町の電機メーカーに少し」

「スゴい。大手じゃない」

「女性初の総合職なんていわれたんだけど、すぐに同僚だった夫と結婚して辞めちゃったわ」

 由美は話さなくてもいいことまで話した。そうすることで自分が庸子に心を開いているのだということをわかってもらいたかった。

「聞いてもいい?」

 由美がそう言うだけで十分だった。

 庸子が自分の身の上を語りだした。

「私は商社に勤めていたの。大きなプロジェクトを任せてもらったりしていたんだけど、尊敬していて、いつかは追いつこうと思っていた先輩が亡くなってしまってね。働きすぎだったの。それでなんだかバカらしくなっちゃって。一度しかない自分の人生を、縁もゆかりもない会社に捧げるのがね。かといってボランティアをするような人間でもないし、だから結局、アルバイトのようなことをやっているわ」

 話を聞いていた由美の瞳がわずかに動く。それに気づいた庸子が不思議そうな顔をした。

「何?」

「ううん、何でもない」

 由美は慌てたように言う。思い切って彼女に腰の刺青のことを尋ねようかと思ったが、その決心はつかなかったのだ。

「何よ、何かあるなら言ってよ。気持ち悪い」と庸子が真正面から見つめ返す。

 聞けば当然、庸子は答えるだろう。それを聞くのが由美は少し怖かった。

 二人が笑い合っているのがつまらないのか、紀美香が由美に尋ねる。

「ねぇ、あの花なんて言うの?」

「さぁ、なんていうのかしらねぇ」と由美は応じて、庸子の追及から逃れる。

 運ばれてきた女性の中では一番年齢を重ねていて、由美はそのことでずっと申し訳ない気分でいっぱいだった。だが、こうして紀美香と過ごしていると、若い人を助けるためだけにでも自分がここにいる意味があるかもしれないと思った。

 青い空に白い雲が浮かんでいた。

 遠い昔、その形をいろんな動物やモノに見立てて遊んだかすかな記憶が頭をよぎる。

 とても高句麗軍の侵攻地域とは思えない長閑さだった。


第六章 それぞれの躓き


                 一


「由美さん!」

 庸子が突然、由美の肩を揺すった。

 その声で、紀美香もゆっくりと上半身を起こす。

 土手の斜面に寝そべったまま、いつしか三人ともまどろんでいた。

 その間に、土手の裏側をつたって高句麗兵が近づいてきたことに気づかなかったのだ。

 姿を現したのは三人だった。一人は痩せた出っ歯で、もう一人は小太りの丸顔、残る一人は四角い顔で細い目をしていた。いずれも四十代後半から五十代くらいの年配で体が小さかった。三人とも手には棒きれを持っている。一対一でまともに戦えば女性にさえも勝てるかどうかという男たちは、徒党を組み、なるべく力の弱そうな女性に的を絞っているのだろう。

 三人の中央、先頭に立つ出っ歯の男は高句麗語で何かを叫ぶと、棒きれで地面を叩いた。由美たちに意思を伝えようとしているようだった。男は紀美香の方を指さし、その指を何度も地面の方へと動かした。紀美香を置いて行けと言っているようだった。

 由美は庸子と顔を見合わせた。力を振り絞れば、由美と庸子で二人は倒せるだろう。しかし、足を挫いた紀美香までは守りきれないかもしれない。二人が戦っている間に紀美香は連れ去られてしまう恐れがある。どうすればいいのだろう。決断ができないうちに男たちがじりじりと距離を詰めてくる。

 由美と庸子は紀美香を間にはさみ、二人の男と対峙した。

 出っ歯の振り下ろした棒を、由美は何とか両手で受け止めた。由美はそれを握りしめたまま、庸子の方を見る。

 庸子は棒を振り下ろしてきた丸顔の右手首を両手で掴むと、体全体で抱え込むようにして捻りを上げた。

 小さな乾いた音が聞こえた瞬間、丸顔がまるで少女のような甲高い悲鳴をあげた。

(あれは合気道? 庸子さんは合気道ができるんだわ!)

 庸子の戦いぶりは由美にも勇気を与えた。

 庸子は、右手を押さえて痛がる丸顔の背中を蹴って土手から落とすと、紀美香の方へと動いた。四角い細い目が彼女の左手を取り、連れ去ろうとしていた。紀美香は腰を落として必死に耐えている。

 由美の相手である出っ歯は棒を押したり、引いたりしながら振りほどこうとするが、なかなかできずにいる。焦りの表情が見て取れた。

(このまま棒を離さなければ相手も何もできないはず。そうすればそのうち庸子さんが加勢に来てくれる)

 由美は、必死で棒を握っていた。出っ歯の男が突然、思いついたように、両手首をくるりと返した。すると、由美もまた回転してしまう。そのまま土手を転がり落ちていく。出っ歯がすぐに土手を降りてきて、倒れた由美の上に馬乗りになると、両手で棒を由美の首に押し当てた。こうなってしまっては、もう抵抗することはできない。由美は諦めたというように目を伏せ、降伏の意思を示した。

 由美は、出っ歯に背中を押されながら、土手を登っていった。体中泥まみれになり、あちこちに擦り傷ができている。土手の上では、庸子も羽交い絞めにされ自由を奪われていた。足元には紀美香が力なく倒れこんでいる。

 それまではいなかった大柄な若い男四人がいつの間にか加勢に来ていたのだった。手首に痛手を負わされた丸顔が、自由を奪われた庸子を蹴りつけようとする。色黒の細面の若い男がそれを静止した。

「由美さん、大丈夫?」

 泥に汚れた由美の姿に、庸子は申し訳なさそうにしていた。自分が水浴びをしようと言い出さなければ、こんな目に遭わなかったとでも思っているのだろうか。

「ごめんなさい。私のせいで」と紀美香が泣く。

「気にしないで」

 由美は歳上の自分が何とか勇気付けなければと思ったが、そう言うのが精一杯だった。

 出っ歯と四角い細い目は、荒い息を立てながらもようやく訪れた人生最良の時に酔いしれていた。互いの肩を叩き、奮闘をたたえ合いながら満面の笑みを浮かべている。

 由美、庸子、紀美香の三人は、それぞれ背後から若い男に羽交い絞めにされ、そのまま歩かされた。

 色黒の細面の若い男が先導していて、土手の上を一行は一列になって進んだ。西の方に見える集落へ向かっていくようだった。出っ歯、丸顔、四角のひ弱な年配三人組は、これから始まる出来事が待ちきれないといった様子で、年甲斐もなくはしゃぎながら、最後尾をついてくる。それとは対照的に若い男たちは無駄話はしなかった。

 先頭を歩かされている由美に庸子が背後から声をかけてきた。

「由美さん、聞いてる? こいつら、何も私たちの命が欲しいわけじゃないのよ、いい? それを考えてね。助かるだけなら、方法はいくらでもあるから」

 由美はそれを聞ききながら、庸子は本当にしっかり者だと思った。

 集落の入り口に架かる橋まで来ると先導の細面はそこで立ち止まり、女性連れを先に行かせた。彼らを見送ると、そこで道を塞いだ。そして最後尾についてきていた年配三人組たちをそこに留めると、背後を指差した。どうやら三人に元いた場所に帰るよう指示しているようだった。

 事態が飲み込めず三人は目を白黒させていた。

 やがて丸顔は痛めた右手首を示して泣き始めた。出っ歯は女性たちに対する所有権を証明するかように、両手の指を人形のように使って三人の女性を見つけたいきさつを説明している。四角い細い目はうなずくことでその主張を補強しているかのようだった。

 細面は、仲間が十分遠くまですすんだと判断すると、急に頑な態度を改めたようになり、道をあけた。年配三人組が喜び勇んで通り過ぎようとしたところを、すばやくその背中をどんと押し、三人を次々と川の中に落としていく。川は先ほどの地点より少し深くなっているようだった。呼吸をしようと三人組が顔を水面に出した時にはもうずいぶん橋から離れていた。三人組は口々に大きな声で嘆きごとを叫んでいたが、結局、そのままどんどんと下流へと流されていった。

 由美たちが連れて行かれたのは、橋の袂からほど近い真新しい二階建ての住宅だった。青い外装ボードで覆われ、暗い灰色の屋根を乗せていた。ドアと窓枠は黒いサッシで統一され、それがアクセントになっている。

 庸子と紀美香は二階に連れて行かれ、由美はただ一人で一階の奥の間に残された。

 階段を追い立てられながら、庸子が叫んだ。

「由美さん、紀美香ちゃんのことは心配しなくていいから……」

 そこまで言ったところで庸子たちは上の部屋に連れて行かれてしまった。

 由美が連れ込まれた部屋は、八畳ほどの広さで、庭に面した側が全面ガラス戸になっている。部屋の真ん中に広いスペースがあった。そこにのっぺりとした顔の男が別の部屋から持ってきたマットレスを敷く。細面が部屋の入り口に立ちその様子を見守っている。

 それを見た瞬間、由美の鼓動が速くなり、息苦しくなってくる。胸が熱くなり、内側から針で突かれるような痛みが走る。

 庸子と紀美香を拘束してしまったのか、先ほど二階に上がった二人の男たちが階段の音をたてながら降りてくる。赤ら顔の馬面と四角いニキビ面だった。まずは全員で由美を弄ぶつもりなのだろう。男達がぞろそろと集まってきて、四人全員が由美の居る部屋に揃った。誰もが目を輝かせていて、笑みがこぼれてしまわないよう必死で抑えているかのように見えた。

 これからどんな目に遭うのか、由美にはもう諦めはついていたが、庸子と紀美香にそのときの音を聞かれることだけが耐えがたかった。

 突然、二階からガラス戸の割れる大きな音が響いてくる。

 間髪を入れず、二階を担当していた馬面とニキビの二人が部屋を飛び出し、階段を駆け上がっていく。

 庸子に違いない。窓を破って逃げ出したのだろうか。足を挫いていた紀美香はどうなったのだろう。瞬間的にそんな考えが由美の頭をよぎる。

 階上から大きな男の声が響く。高句麗語で逃げたとでも騒いでいるのだろう。

 馬面とニキビは階段を駆け下りてくると、そのまま玄関を飛び出していく。

 残された細面とのっぺりの二人の男は、こっちは逃がすまいとでも思ったのか、由美のそばを離れない。

「どうか無事に逃げて」と祈るような気持ちで由美は男たちが飛び出して行った玄関の方を見ていた。すると、逃げたはずの庸子が紀美香の肩を抱きながら静かに階段を降りて来るではないか。

 フェイクだったのだ! さっきの物音は。ガラス窓を壊し、二階から逃げ出したように思わせながら、物陰に隠れ、男たちが家を飛び出したスキをついて逃げる。足を挫いた紀美香を連れ出すために庸子が考え抜いた作戦だったのだ。

 廊下を歩く庸子と目が合う。彼女は無言で頷いた。だが由美は何の反応も返してはならない。目の前の二人が気づいてしまう。由美は動悸が激しくなり呼吸がしずらくなってくる。その由美の変化に、勘の鋭い細面が不審がる。由美は速くなる呼吸を必死で抑えながら、ゆっくりと体を捻り、玄関の方向に背を向ける。そんな仕草に、何事かと由美の顔を覗き込もうとした男達にも玄関側が死角になる。

 庸子と紀美香は最後のドアを出る瞬間に、物音を立てた。

 振り返った男たちはまだ二人が居たことに気づき、大きな声をあげる。細面は少し迷っていたが、立ち上がって庸子たちを追う。

 ついに由美の前にはのっぺりが一人だけとなる。

(逃げられるの? この私も!)

 そんな考えが勝手に動きだし、結論に飛びつこうとしてしまう。

 待って、待って、待つのよ!

 必死で自分を制止すると、由美は、目の前の、のっぺりを観察し始める。

 身長は由美より少し低い一七〇センチほど。色白だが肩のあたりの筋肉はよく発達している。二の腕も由美の一・五倍ほどの太さがある。どう見てもまだ二十代中頃だ。さっきの出っ歯より相当力はありそうだ。まともに戦っては到底かなわない。いずれにしてもあまり時間はない。グズグズしていると細面が戻ってきてしまう。どこかに弱点はないのだろうか……。

 つぎの瞬間、信じられないことが起こった。

 玄関から別の男が家に入ってくるなり、のっぺりに襲いかかった。

 その男こそ、降下直後に由美に襲いかかり、その後もずっと由美をつけ狙っていたあの男だった。

 考えるより早く、由美の体が動き出す。

 もみ合う二人の男の脇を駆け出すと、玄関から飛び出した。

 狭い通りの両側に、特徴のない民家が並んでいた。

 どこにも人影はない。細面は遠くに行ってしまっているようだ。

 アドレナリンのせいなのか、足の裏に地面の感触がなくもどかしい。現実感がなく夢の中にいるような感じがしてしまう。

 由美は集落を一気に駆け抜け、橋を渡ると土手の上を一目散に駆け出す。心臓が早鐘のように打つ。そのまま息が続く限り走り続けた。限界になったところで土手から降り、倒れこむように草むらに身を隠す。

 荒い息が収まらない。耳には、蛙の鳴き声が聞こえてくる。ずっと鳴いていたのに、緊張のあまり気づかないでいたのだ。

 草むらに伏せていると、普段は感じないはずの位置の微妙な空気の流れがわかる。全身がセンサーのようになっていた。その感覚があることが由美を不安にさせる。世界とたった一人で対峙しているような孤独を感じさせ、余計に心細くさせていくのだ。

 あともう少しだった。あともう少し進めば、恐らく庸子や紀美香がいるはずだった。しかし、一度立ち止まってしまうと、もうそこには誰かが潜んでいそうに思えてくる。そのため由美はあと一歩がどうしても踏み出せなかったのである。


                 二


 黒野須が中央指揮所に向かおうと、官邸の中央階段を降りかけていると、ちょうどロビーの方から外務大臣の米野唯成よねの・ただなりが階段の方にやって来ようとしていた。

 彼は、この日の早朝にアメリカのウィリアム・フルバイブ国務長官と電話会談をする予定だと聞いていた。日本への国際的な支援を取り付けるための情報交換が目的だった。

 その結果が気になり、黒野須は足早に階段を駆け降りた。

 米野は俯き加減で、直前まで黒野須に気がつかない。黒野須が二メートルほどの距離に近づいて、ようやく上を向いたが、その顔に覇気がない。

 黒野須は少し不安になったが、尋ねるしかなかった。

「フルバイブ国務長官は何と?」

 高句麗軍の侵攻を遅らせるためとはいえ、無防備な女性を降下させるという途方もない作戦にアメリカ側は難色を示していた。日本の作戦が女性の尊厳を穢すものだとアメリカ国内の女性団体が騒ぎ出せば日本を支援することができなくなり、国連平和維持軍の組織と派遣に支障をきたすとしていた。

「何とか大統領を説得してくれそうです。農産物について予定してたより三段階以上の譲歩をすることにはなりましたが……」と米野は答えた。

「そうですか。それはよかった。いやぁ、本当によくやってくださいました」

 黒野須は胸をなでおろした。

 しかし、米野は、そんなねぎらいの言葉にも表情を曇らせたままだった。

「問題は、フルバイブ国務長官からもたらされた情報なんです」

「ほう。何ですか、それは?」

「ヨーロッパの方で、特に北欧を中心になんですが、我が国の作戦を人道に対する罪で問題にしようとする動きがあるようで……」

「なんですって!」

 黒野須はよろめきそうになった。

 そんな、まさか! こちらは被害者なんだぞ。

「まあ、あそこらへんの国々は今でも高句麗と国交があるのだから、当然といえば当然かもしれませんが……」

 米野は軽く頭を下げると、首相に報告するため階段を登っていった。

 今度は黒野須が立ち尽くす番だった。


                 三


 原田秀人は、街のはずれの路肩に腰を下ろしていた。高句麗兵がたむろしている場所からはずいぶんと距離があった。

 降下作戦から三日が経過していたが、目的の女性を見つけることはできなかった。

 これまで原田が救えた女性は一人もいなかった。

 降下から一夜明けた後、降下ポイント近くに行ってみると、混乱は収まっていて、女性たちは集団となり、身を寄せ合ってみずからの身を守っていた。そこに原田がのこのこと近づいていくわけにはいかなかった。相手は一糸まとわぬ姿なのだ。歓迎されるどころか変に勘ぐられるだけだった。

 集団からはぐれた女性たちが高句麗兵に捕らえられているのはすぐにわかった。だが女性を探そうとすれば、見つける前に自分の存在を高句麗兵に気づかれてしまう可能性がある。

 苛立った原田は、何度も高句麗兵を八十九式小銃の照準の中におさめた。だがそこから引き金を絞ることはできなかった。もしそうしたら、その報復は必ず女性たちに及ぶだろう。

 最初の降下時にC―1の輸送機で見かけたあの女性。

 すべてはあれが始まりだった。

 茶色がかったショートカットのヘアスタイル。ひと際白い肌。細く長い眉の下の知的な大きな瞳。いたずらっぽく少し上を向いた鼻。

 あの姿が、スイッチを入れたのだ。

 高校を卒業して十年間、原田は自衛隊という、一般社会とは隔絶された世界にはいたが堅実に生きてきた。そこで女性たちとも出会った。大抵は看護師や保育士たちだったが、自分はこういう女性と結婚し、つつましい家庭を築くのだろうと思っていた。

 それなのに……。

 C―1で見かけた女性の姿がずっと心に蓋をしてきた記憶をロードさせてしまった。

 原田がせっかくたどり着いた現実的な考えの上に、またも子どもじみた幻想が上書きされていく。

 待ってくれ、そんなはずはないと原田は抵抗した。

 出身地も、年齢も違う。別人だ。他人のそら似じゃないか。

 そう自分に言い聞かせて目をつぶった瞬間、原田の意識は過去に引き戻されてしまった。

 小学二年のころの自宅のまわりの風景が目に浮かぶ。

 それは一九九〇年ごろの千葉県八千代市だった。

 六世帯が三軒ずつ二段に並んだアパートが原田の自宅だった。建物の前面に鉄を茶色に塗装をしただけの武骨な廊下と階段がついていた。どの家の玄関先にも埃をかぶった洗濯機が置かれている。

 世間はまだバブル景気の余韻に浸っていたのに、原田の家は母子家庭で貧しく、友達が持っているような自転車や運動靴は買って貰えなかった。それでも母親のかおりが元気で明るかったせいで、引け目を感じることはなかった。

 それが起こったのは小学校の給食の時間だった。

 その日のメニューは原田の大好物の揚げパンだった。

 日頃から甘い菓子さえあまり口にしていない原田は有頂天になる。高ぶる気持ちを抑えられず机の周りを走り回るのを止められない。

 ふと見ると、机を寄せ合っていた同じ班の二人の女子の表情が暗い。どうやら二人ともティッシュを持っていないというのが原因のようだった。そのまま食べればいいじゃないかと原田は思うのだが、それでは砂糖や油が洋服に付いてしまうと悩んでいる。女とはつくづくやっかいなものだと思った。

 そこで原田はハッとなる。普段はティッシュなど持っていないのに今日に限って登校前にかおりがティッシュを持たせてくれた。それを思い出したのである。そうなると、もう止まらない。

「僕、ティッシュ持ってる!」と得意げになり、満面の笑みを浮かべ、女の子二人の前にティッシュを差し出す。

 その瞬間だった。

「ぎゃあぁぁぁー」

 耳をつんざくような悲鳴があがる。

 原田は何が起きたのかさっぱり理解できない。

「何これ! トイレットペーパーじゃない!」

 声を張りあげたのは松本恵とかいう何かと口うるさい子の方だった。

 原田には意味がまったくわからなかった。

 原田家ではティッシュペーパーを買う習慣がなかった。トイレットペーパーをかおりがロール・ティッシュと呼んで使っていたのだ。それが原田家の常識で、それに疑問を持ったことはなかった。

 恵に指摘されて初めて気づいた。ティッシュペーパーとトイレットペーパーでは使い道が違う。ティッシュペーパーを使うところにトイレットペーパーを使ってはいけなかったのだ。

 一瞬で顔が真っ赤になり、信じられないくらいに熱くなってくる。

 ああ。せっかくの揚げパンの日に、俺は何というとんでもないことをしてしまったんだ! もう、揚げパンどころじゃない。目の前が真っ暗になりかける。

「同じ紙だからいいじゃん。あたし、借りるね」

 そう言ったのが彼女だった。その一言で原田は救われた。その一言でたった一人の肉親、かおりを恨まずに済んだ。

 それまでは何事にも斜に構えているような態度が気に障っていたのに、その日以来、原田はひそかに彼女を思うようになった。

 原田はもう一度、中学三年で同じクラスになった。

 だが彼女を思う気持ちが邪魔をして、一度としてまともに話すことができなかった。

 冬を迎えるころにはもう進路が決まり出していた。

 彼女のめざす高校は、原田の進学する高校のレベルとは段違いで雲の上の存在と言ってよかった。

 このままでは手が届かなくなってしまうと焦った原田は、こっそりと彼女に年賀状を出す。

 しかし、投函してしまった後で自分のようにろくに話したこともない人間が年賀状を出してもよかったのだろうかと、まるで大きな犯罪をおかした気分になった。

 三が日が過ぎ、彼女から返しの年賀状が届くと、今度は余計な気を使わせてしまったのではないかと罪悪感に駆られた。

 

 自分が彼女を理想化してしまっていることは原田も十分わかっていた。

 だが、なぜこれほどまで、彼女への思いに縛られ続けるのだろうかと、考え続け、ようやく原田は気づいた。

 自分は、一方的に救われただけで、何も返してはいなかったのだ。

 C―1の中で泣きそうな顔で俯いていた姿に昔のあこがれの女性の面影をみた。

 そして、そんな彼女が一糸まとわぬ姿で過酷な任務へと舞い降りて行った。

 一度は割り切り、自分の任務に戻ってみたが、やはり彼女を放っておくことはできなかったのだ。

 原田は腰をあげ、ふたたび捜索に取り掛かることにする。

 耳を澄まし、晴れ渡った空を見上げた。

 腑に落ちないことがあった。

 自衛隊の捜索隊の網を逃れるのが厄介だと思っていたのに、それがまったくやって来ない。

 原田はそれが不思議でならなかった。


                 四


 まるで、女性のハイヒールのような形をした深い緑色のヘリコプターが、ひっそりとしたグラウンドに着陸してきた。JR羽越本線岩船町駅のすぐ南にある場所だった。ここは高句麗軍の侵攻地域の南端にあたる地域だったが、侵攻していた高句麗兵たちのほとんどは降下してくる女性を目指して北へ戻ってしまったため、エアポケットのように無人になっていた。

 緑のヘリはイタリアのアグスタA109Eで、民間航空会社のチャーター機だった。

 乗客がスライディングドアを開くと、インテリアは白い革張りとなっていた。スタジアムコートを来た二人の男が降り立ち、大柄の男の方が機内から黒いバックを降ろした。すぐに離陸するつもりなのか、パイロットはエンジンを止めなかった。

 男が大きな黒いカバンのファスナーを開けた。中には猿轡をされ、両手を縛られた全裸の竜淵高江が入っていた。

 男が高江の縛めを解く。

「ここはどこ?」

 何かの薬品の影響からか、高江はまだ意識が朦朧とした様子だった。

「いま全国が注目している場所だよ」

 そう応えたのは小柄な方の男、ブライアン荒川だった。

 当然、大柄な男はビリオン・バーバーということになるが、彼が本当にその名前である可能性はほとんどない。

 バーバーはカバンを乱暴に引っ張り上げ、中の高江を転がり出させた。

「いや! やめて何をするの!」

 高江が思わず声を上げる。

「そんな大声を出すと、すぐに高句麗兵が集まってくるぞ!」

 荒川のその言葉に高江がおびえた様子になった。

 高江は少し声を落としたが、それでも必死に食い下がる。

「どうして、こんな酷いことをするの! 私に何の恨みがあるっていうの!」

「何を言ってるんだ。これは全部、アンタのためじゃないか。ここでの体験をもとにすりゃ、アンタの執行部批判も、うんと説得力が増すっていうもんだろうが」

 荒川は意地悪く笑う。

 バーバーの方に向き直ると「あまり長居をするのも危険だ。そろそろ行こうか」と言い、アグスタに乗り込もうとする。

 白い革張りのシートの横、アームレストの収納庫には飲みかけの缶ビールと、つまみの菓子類が置いてある。荒川はそれが待ちきれないのだ。

「待って! お願い! 置いてかないで!」

 すでに高江は泣き出していた。

 荒川は呆れたような表情を浮かべ、ズボンのポケットの中をまさぐる。ピンク色のプラスチック製のカプセルを取り出すと、それを持って高江の方に歩み寄った。

「大切に持っておきな。これでアンタの居場所がわかるんだから。なくしちゃダメだぜ。高句麗兵に見つからないように隠しておくんだね」

 高江はカプセルを受け取るが、全裸の身ではそれをどこに仕舞ってよいのかわからず戸惑っていた。そんな高江の様子を見ながら、いずれ答えにたどりつくだろうと荒川は思い、アグスタに乗り込むと、ドアを閉めた。

 すぐにブレードが回転を始め、アグスタは車輪を格納しながら上昇していく。

「酷いことをするな。あれはバイブレーターだろ」とバーバー。

「ウソは言っていないだろ。音で居場所がわかるじゃないか。気づかない方が悪いんだよ」

 そう言うと荒川は缶ビールを煽った。


                 五


「失礼します、大佐」

 徐明吉ソ・ミョンギル中尉が参謀本部となっている新潟県立村上中央高校の職員室のドアを開けた。戸口に立って敬礼をしたが、朴光植パク・グァンシク大佐は顔を上げようとする気配がない。机に向かって何やら書き物をしていた。

 明吉中尉はいつものことなので気にはしなかった。自分ごときに仕事の手を止められてはたまらないとでも考えているのだろう。

「そこでずっと突っ立っているつもりか」

 光植大佐は書き物の手を止めず、俯いたまま言った。

「はっ。実は、金東健キム・ドンゴン上佐より苦情が届いておりまして……」

 明吉中尉はそこでこのまま続きるべきかどうか迷ったが、大佐がなおも顔を上げないので、仕方なく続けることにした。

「上佐によりますと例の、保衛司令部の全賢秀チョン・ヒョンス少佐が補給本部の張智勲チャン・ジフン少佐の周囲を調べて回っているとのことです。張少佐はわが軍十二万人の食料確保のために粉骨砕身の奮闘を続けておられまして、一分一秒も無駄にできない身にもかかわらず、このような調査が続けられると任務に支障が出てしまうと上佐は仰っておいでです」

「なるほど」

 そこで初めて光植大佐は、ボールペンを投げ出し、顔を上げた。体を背もたれに預け、頭の後ろで両手を組む。

「いかがいたしましょうか?」

「放っておけ」

「えっ」

「一度言えばわかるだろう。放っておけと言ったんだ」

「ですが……」

「ただでも軍規が乱れ、弛緩し始めているんだ。保衛司令部の連中が動いてくれた方が、軍に緊張感が生まれていいだろう」

 光植大佐はそう答えながら、賢秀少佐も必死なのだなと思った。

 何かの成果をあげ有能なところを見せて何とか自分だけは本国に呼び戻してもらいたいとでも思っているのだろう。せいぜい任務に励めばよい。どんなに成果を上げようとも、自分はそれをバカ正直に本国に伝えるつもりはない。こうなったら一蓮托生だ。これまで特別扱いされてきた保衛司令部の連中も最後までここに残り、苦労を共にしてもらおうじゃないか。

「それに今ここで、奴らに口出しすれば、ほかに矛先を向けんとも限らん。奴らのやりたいようにさせておけ」

 光植大佐は言った。

「了解しました」と明吉中尉が敬礼をして立ち去ろうとすると、光植大佐が「待ちたまえ。君にチャンスをやろう」と引きとめた。

 光植大佐は意地悪そうに微笑み、少し間を空けてからゆっくと語り出す。

「停滞しているわが軍を動かすのに君ならどうするかね? もし、名案が出せたなら、私と同じ食事付きに格上げしてやってもいいぞ」

 それを真に受けるほど、明吉中尉はバカではなかった。光植大佐はからかいたいだけなのだ。本当に名案を出そうものなら大佐の立場がなくなり、激昂するに決まっている。そうなるとどんな手ひどい仕返しをされるか分からなかった。

「そうですね……、もう一度、伝令を出し、各部隊の指揮官に行軍を命じることぐらいしか、思い浮かびませんが……」と明吉中尉は無難な答えを選んだ。

「こいつは驚いたな。どうしたらそんなバカな案が浮かぶのかね。ぜひ君の頭の構造が知りたいもんだ」

 それから光植大佐は、明吉中尉をさまざまな角度から五分以上もけなしていた。

 近年、組織における立場を利用した嫌がらせだとしてパワーハラスメントが問題になってきているが、高句麗の組織は純粋にこのパワーハラスメントのみで運営されているといっても過言ではなかった。

 逃げ場のない弱い立場にある部下の弱点を探し出し、そこを執拗に責め立てて屈服させ、自らに奉仕させるその卑劣な行為が、勤労党にかかると「思想闘争」というさも知的な活動であるかのように美化されるのである。そして、このようにして自尊心を奪われ、人格を傷けられた部下は、暗く歪んだ精神を、今度は自分の部下にぶつけていく。

 一見、勤労党員ではない、明吉中尉には関係のないことのように思えるがそうではなかった。機能停止に陥って久しい勤労党ではあったが、唯一の政党である勤労党の組織原則は、高句麗社会の文化として広く社会全体に浸透してしまっていたのだった。

「かなり位の高い連中の中にも君と同じように考える輩がいるのだから参るよ」

 明吉中尉を辱める材料が尽きたのか、光植大佐は本題に入った。

「数珠を想像してみたまえ。指揮系統の整った部隊はこの数珠のようなものだ。いくら縺れたように見えても一つの球を動かせば、全体がついてくる。君のように指揮官に命令すれば動くというのは、このような状態のことだ。ところがわが軍は急遽召集された者ばかりで、ろくに訓練も受けていない。そのうえ日本側の作戦によって、兵士が女を求めて右往左往し、部隊も何もあったものじゃない。数珠で言えば球をつないでいる紐が切れてしまった状態だ。これを動かすにはどうすればいいか……」

 そこで光植大佐は得意げになって、間を置いた。

「これを動かすには、球がこぼれないようにして、一方の側から押していくほかはない。牛や羊の群れを動かしていくのと同じだともいえる。実際にはどうするかというと、警護の数人を残し、八十八式歩兵銃を持った勤労党員をかき集める。五百人くらいにはなるだろう。彼らを横一列に並べ、この司令部がある最後尾から進軍方向に向かって兵隊たちを追わせていく。後ろから兵が来るのでどんどんと密集し、圧力が高まるので動かざるを得ない。こうすれば先頭も動くはずだ」

 人を人とも思わない光植大佐らしい案だと明吉中尉は思った。

 ふと、明吉中尉に疑問が湧いた。

「大佐、でもそれでは司令部が無防備になってしまうのではありませんか?」

「安心しろ。そこはちゃんと考えてある」

 明吉中尉はなおも戸惑った様子で戸口に立っていた。

「下がっていいぞ、中尉」

「はっ」

 明吉中尉は退出するほかはなかった。


第七章 新たな出会い


                 一


 それはまるで長く続く土俵入りのような印象があった。

 青い空の下、緑の丘を背景に白い素肌の女性たちが続く様はそんな場違いな考え抱かせる。

 庸子は紀美香に肩をかし、女性たちが集まっている場所まで戻ってくると、女性たちは長い列になって並んでいた。

 路肩の草むらには、あちらこちらに女性たちが腰をかけ、白い握り飯をほお張りながら、白い発泡スチロールのカップに入った豚汁をすすっていた。どの女性たちの表情からも笑みがこぼれていた。

 庸子たちがいない間に、近くで調理した食事が運ばれていたのだった。持ってきたのは恐らく自衛隊員に違いない。

 列の先には人の塊が出来ていて、人垣の間から何台ものリアカーが止めてあるのが窺える。

 庸子は紀美香を連れたまま列をたどってリアカーの方へ向かう。二人は泥まみれで、しかも紀美香の赤く腫れた右足は痛々しいほどだったので、列に並んだ女性たちは誰も文句は言わなかった。

 一番手前のリアカーのところまでくると、その荷台にはクリーム色のプラスチックのケースが何段も積み込まれているのがわかった。その脇に立つ白いマスクに透明の手袋をはめた女性がケースの中から握り飯を取り出し配っていた。傍らではもう一人の女性がステンレス制の容器から、豚汁を掬っては発砲スチロールのカップに入れて配っている。処分に困るはずの発砲スチロールを採用しているのは、断熱性に優れていることを優先したためだろう。

 二人の女性も滞留促進要員の女性と同じように衣服は身につけていなかった。

「あなた、自衛隊の方?」

 庸子は、せっせと握り飯を配っている少し小太りの女性に聞いた。

「はい、そうです」

「この子がケガをしちゃったんだけど……」

 庸子は体を捻り、肩を貸している紀美香の体を女性の方に向けた。

 隊員は握り飯を配る手を休めずに、首だけを後ろに向けると大きな声で叫ぶ。

「飛鳥一曹!」

「ハーイ」

 明るい返事が聞こえ、並んだリアカーの奥の方から大柄な女性が駆けつけてくる。

「あっ!」

 それまで辛そうにしていた紀美香の表情が和らぐ。

「知っている人?」

 庸子の問いかけに紀美香が頷く。

「まあ、大変! 手当てしなくちゃ。連れてってあげる」

 飛鳥京子は駆けつけてくるなり、そう言った。

 京子の先導で、庸子と紀美香は、少し離れた民家の影に止めてあるラブこと軽装甲機動車に向かった。

 庸子はすぐにでも由美を探しに戻りたかったが、紀美香が心細そうにしていたので病院まで同行することにした。

 京子はラブを東側の山に向かって走らせると、国道七号線へと出て、それを南下すると新潟県立病院に向かった。そこが滞留促進要員となった女性たちのための診療センターになっていた。

 同病院の本来のスタッフは全員避難していたが、代わりに自衛隊から派遣されたスタッフが診療に当たっていた。

 病院の救患入口ではすでに連絡を受けた医師と看護師がストレッチャーを出して待っていた。

 京子たちは三人とも衣服を纏っていない。さすがにそれはまずいと思ったのか、ストレッチャーで迎えに来たスタッフが京子と庸子に白衣を渡し、紀美香には水色の患者服を着せた。

 スタッフが押していくストレッチャーに伴走しながら、庸子は横になった紀美香の額を撫でた。

「アンタはもう十分に頑張ったんだから、このまま戻してもらえばいいんだよ」

「庸子さんはどうするの?」

「これから戻って、由美さんを探しに行く」

「そんなの無茶よ。庸子さんが行かなくても、自衛隊の人たちがちゃんと助け出してくれるわよ。ね、そうでしょ?」

 紀美香は首をひねり、ストレッチャーを挟んで庸子の向かいにいる京子の顔を窺う。

 京子は申し訳なそうな表情を浮かべると視線を下に落とす。

「違うの?」

 紀美香は驚き、言葉が出ないという様子だった。

 自衛隊員は高句麗兵とは接触してはならないことになっていた。それは偶発的な戦闘が起こらないようにするためで、姿を見られることも許されなかった。

 医師の診断で紀美香の足は軽い捻挫で骨には異常がないとわかった。

 ベッドに横になった紀美香は「由美さんにもう一度会いたいからここにいる」と言った。


「ラブで送っていくわ」

 病院を出ていこうとする庸子を、後ろから追いながら京子は言った。

 京子が横に並びかけると、庸子が言った。

「ありがとう。少し頼みごとがあるんだけど……」

「何?」

「地図と磁石、それに無線機があれば貸してほしいの。ほら、あそこは今、携帯が使えないでしょ」

 二人は救急搬入口に止めてあるラブのところまで来た。

「急ぎたいわよね。前線基地に連絡して、途中まで持って来てもらう。さあ、乗って」

 京子はそういうとラブに乗り込んだ。

 ラブは国道七号線を南下すると、米沢街道に出て西に進み、新潟新発田村上線を北上するというコースを取った。コの字型に進むという遠回りのルートだったが、徐行ではなく、時速一〇〇キロ近い速度で走行できた。

 旭橋の袂で、前線基地から国道三四五線を北上してきたオリーブドラブのパジェロと合流する。パジェロとはいっても市販車ではない。正式名称は一/二トントラックと言い、三菱自動車が納入している車で、ジープの後継車にあたる。市販パジェロのショートホイールベース・タイプを元に造られている。

 パジェロから降りてきたのは高林静香・二等陸尉だった。彼女は迷彩服を着ていた。背は京子より低く、メガネをかけている。静香は庸子の姿を認めたが、かすかに会釈をしただけで、もっぱら京子にだけ話をする。

「あまり無茶をしちゃだめよ」

 そう言いながら、静香は、パジェロの荷台からリュックに詰め込まれた装備一式を取り出すと、ラブに積み込む。何故かリュックは二人分あった。

「わかってる」と京子。

「水と食料を余分に乗せておく。持っていけなければ、そのまま載せておけばいいんだから」

 静香はまるで母親か姉のような口ぶりだった。

 そしてトランシーバーのような機械を取り出すと、京子をそばに呼び寄せた。

「これはCSEL(Combat Survivor and Evader Locator)と言ってね、日本語に訳せば戦闘生存・回避者位置特定装置ってとこね。とあるところから借りてきたの。イラク戦争で使われたのと同じものよ。ボタン一つを押すだけで位置と装置を持つ人間の識別データを送ることができるから」

 CSELは九〇〇グラムという重さながら、通信機としての機能はもちろんのこと、GPS受信機、衛星通信装置、捜索救難用ビーコン発信装置としての機能も備えていた。

「ありがとう」

 京子が静香に礼を言った。

 京子と庸子はそこで、静香と別れると、ふたたびラブに乗り込み、こんどはゆっくりと三四五線を北上していく。神社を過ぎた辺りで左折すると、海側に出て車を止める。

 そこはお幕場という松林が広がる一帯だった。

 江戸時代から強風、飛砂を防ぐための保安林として赤松林が育成され、村上藩主らが茸狩りに興じたり、幕をはって景色を楽しんだりしたことからお幕場と呼ばれている。今も時折、昔を偲んだ茶会が催されている。

 ここからは高句麗兵が潜んでいる可能性があるので、徒歩で北上するしかない。車内に待機し、日が沈むのを待った。

 完全に日が沈んでから庸子が車を降り、白衣を脱いでいると、同じように京子も白衣を脱ごうとする。

「何してるの? あなたたちは高句麗兵と接触できないんでしょ。命令違反じゃないの」

「いいえ、命令違反ではないの。私、特別に滞留促進要員に認定してもらったの」

「ずいぶん、思い切ったことをするのね」

「いずれ全員を救助しなければならないんだから、女性たちの実際の様子をこの目で確かめておきたいのよ」

 紀美香も由美も京子が担当する便に乗っていた。二人は京子が送り込んだも同然だった。その紀美香はケガをし、由美は行方不明になってしまっている。自責の念にかられていたのだが、そのことは口にしなかった。

「そう。じゃあ、行きましょう」

 庸子が明るく言った。


                 二


 川の土手を歩いていた由美は、とっさに斜面の草むらに身を隠す。

 男たちの騒ぐ声が聞こえてきたのだ。

 すぐ近くの川にかかる橋からだった。

 よく見ると高句麗兵の男が三人、女性をロープで縛り、バンジージャンプのようなことをしている。男たちは三人とも二十そこそこというほど若い。一方、女性は紀美香より四、五歳上の二十代半ばのように見える。

 女性は足首をロープで縛られ、その端がコンクリート製の橋の欄干にロープで縛り付けてある。男がその女性を抱いたまま落下する。女性のロープが伸びきると、激しい衝撃とともに制動がかかる。男たちはその衝撃を楽しんでいたのだ。大抵の場合、男はそのまま水中に落下してしまう。水深は胸の位置ぐらいまでしかなく非常に危険だ。

 安易に女性が手に入ったためか、高句麗兵たちは、自国の女性には決してしないようなことをしていた。

 高句麗兵たちが大声をあげ楽しそうにしながら、欄干から女性を引き上げていた。もう何回かジャンプをしているようで、びしょ濡れになった女性は悲鳴もあげず、朦朧とした状態だった。

 身を潜めたまま、由美は迷った。

 さっきは年寄り一人にも手を焼いたのだ。若い男が三人もいてはとても太刀打ちできない。しかし、このまま由美が立ち去れば、彼女の命が危険になるのは明白だった。

 かすかに何かが聞こえてくる。初めはそれが何かわからなかった。

 しばらくして、それはハスキーな女性の声なのだと気づいた。

「お姉しゃん、お姉しゃん」

 由美が振り返ると、土手の斜面を中年女性が身をかがめて近づいてくる。

「無理ばせんで」

 女性は、見るからに派手な印象だった。

 赤みがかった茶色に染めた髪は、上部を短くして下部を長くしたハイレイヤーというスタイルだった。サイドの髪が顎の下にまわり込み、動くたびに揺れている。

 中央の分け目から覗く額は広く、頬骨が高い。そこにつり上がった大きな目が光っていて、尖った鼻の下に、これまた釣り上がった大きな口がある。そばで見ると女性は、由美よりは少し小柄だったが、よく日に焼けた褐色の体はふくよかで見るからに柔らかそうだった。若作りをしているが年齢は庸子と由美の中間といったところか。近くに大勢の高句麗兵がいるというのに、彼女に恐怖のかけらは微塵もない。

「でも」と由美は声を潜めた。

「だいも助けんとは言ってんよ」

 そういうと右手に持っているポーチの中から口紅を取り出した。

「そんなものどうしたの?」

「そがんことだけんワイはダメなのよ。昨日の夜に、ちゃんと空から配ってくれたとに気付かんやったの? やっぱい国のやることは違うねぇ。高級品ばっかりだもん」

 どうやら由美の知らない間に化粧道具一式が投下されたらしい。確かに滞留促進要員という役目には必需品かもしれなかった。そして化粧品なら、高句麗兵に見つかっても奪われる心配はないだろう。

 ハイレイヤーの女性はコンパクトを見ながら、血のように赤く艶々とした口紅を引いていく。

「うちのやることば見ておきなさい」

 そう言うと、橋の真ん中で女性を弄んでいる三人の男の方へ、堂々と歩いていった。

 高句麗兵はそれぞれ緑の軍服の上着は着ていたが、下半身は裸だった。うち二人がすでにジャンプを済ませていて、びしょ濡れだった。

 近づいてくる人影に気づいて振り返った男たちは、女の釣り上った赤い唇を見た瞬間、動けなくなった。かつて自分の国では一度も見たことのないような妖艶な姿だったからだ。化粧の効果は絶大だった。田舎の少年がいきなり高級クラブに連れて来られたような状態で、高句麗兵は自分たちがどう振る舞うべきかがわからず、ただニヤニヤと笑うだけだった。

 彼女は左手を橋の欄干の上で遊ばせながら、足をクロスさせ、ゆっくりと近づいく。男たちにはこの先どうなるかの予想がつかない様子だったが、表情には期待が広がっているのが見て取れた。

 彼女は一番最初に出会った男の膝をゆっくりと時間をかけて撫であげながら、その手に合わせて視線を上げてゆき、その視線を迎えようとする男と目が合うや否や、素早く次の男へと視線を飛ばす。取り残された男の視線は彼女を求め、再び見つめ合いたいと焦がれてさまよっている。

 たちまち男たちの体の一部が、それぞれの感じ方と勢いで形を変えていく。

 彼女はまるで荷物を預けるように一人の男に胸を押し付け、その重さを感じさせておきながら、もう一人を優しく撫であげ、さらにもう一人を目で誘うというようにして、だれも自由にしない。

 一人の男の膝に跨ると、下から上とゆっくり腰を這わせていく。男はその膝に濡れ雑巾が滑ってくような冷たい感触を味わい、震える。

 その様子を見ていた由美は息が止まり、自分の意思に反して勝手に下腹部に力が入っていくのを感じ、慌てて目をそらす。しかし、かすかな音が届いてくるために由美の反応は止まらない。痺れたような感覚が腰に広がり、筋肉が不規則に収縮と弛緩を繰り返す。目を閉じても、荒々しい動きをする赤い唇のイメージが頭を離れず、物悲しいような感情が襲ってきそうになるのを必死で耐えていた。

 やがて由美の耳に、小さな連続音が届いてくる。目を閉じていても、それが乾いた路面を、零れ落ちた何かが叩く音だとわかった。

 女性が堂々と橋の欄干に縛られた女性のロープを解いても、その場にへたり込んでしまった男たちは文句ひとつ言わない。いましめを解かれた女性は軽く会釈をすると、小走りに逃げ去った。男たちはそんな女性には目もくれず、それぞれ荒い息をしながら、満面の笑みを浮かべてハイレイヤーの女性を見上げていた。彼女は妖しい微笑み彼らに返すと、「またね」とでもいうように手を振って男たちのそばを離れる。

 戻ってきた彼女は、草むらに由美の姿を見つけ、意外そうな顔をした。

「ワイも律儀な人ばい。本当に見とったの。逃げてもよかったのよ」

「あなたは大丈夫なの?」

 由美が気遣った。

「ちょっと若返らせてもろうたわ」

 赤い口の端を吊り上げ妖しい笑みをうかべる。笑うと見えてしまうピンクの歯茎が彼女を一層若く見せていた。

 ようやく二人は、互いを紹介し合うことができた。

 ハイレイヤーの女性は豊谷美津子とよたに・みつこと名乗った。

「おなごは男のまねはしなくてよかと」

 美津子がぽつりと言う。

「そがんことばしなくても、男とおなごは同等なんばい。確かに男の力は強か。ばってん、そん力もおなごば皆殺しにできんとなら、ないと同じ」

 由美は美津子のいう意味が即座に理解はできなかったが、どうやら、美津子は、男がどんなに強くてもその力で女を皆殺しにできないのなら、力はないのと同じだといっているようだった。

「うちが昨日から何人の男にやられたか、わかっとけんと?」

 美津子は何人の高句麗兵に犯されたのかを聞いているようだ。見るからに性的魅力がありそうな美津子だ。それを自慢したいのだろうか?

「七、八人?」と、由美は思っているより少な目に言った。

 美津子は豪快に笑った。

「〇人! 〇人じゃ。お金ももらわず、そんげん易々とうちの金庫に入らせてやらんわよ。二十人くらいはイカせてやったばってんね!」

 美津子は自分の秘所を金庫になぞらえているようだった。

 二人はそのまま、草むらで並んで座りじっとしていたが、突然、美津子が立ち上がった。

「そうやった、よかもとがあるとば忘れとった」

 そう言うなり、元いた方へ走っていく。

 取り残された由美は少し心細くなる。

 しばらくして戻ってきた美津子は、ビニールの袋を二つ、脇に抱えていた。

「化粧品とセットになっとったとよ」

 それはMREだった。

 美津子は、袋を破ってヒーターの袋を取り出すと、眉間に皺を寄せながら、その袋の中に川の水をピッタリと定められたラインなるように入れていく。それはほんの少量だった。その袋のなかにメインディッシュのレトルトパックを入れ、それをそばにあった石に立てかける。同じ作業を繰り返し、二種類の食事を用意した。それを見守りながら、由美は美津子の慣れた手つきに感心した。

 やがて二つの袋から白い蒸気が立ち上ってくる。

 一つはローストビーフの野菜添えで、もう一つはポークリブだった。容器はなかったので、袋のまま、二人で交換し合いながら食べることにする。

「おいしゅうなか」

 茶色いプラスティックのスプーンをなめた美津子が顔をしかめながら笑う。

「ほんと」

 由美も苦笑いを浮かべた。

 やがて日が落ち、辺りは真っ暗になった。蛙の鳴き声だけが響いていた。

 由美は美津子の背中に肌を寄せじっとしていた。美津子の息遣いが聞こえると由美はそれだけで安心できた。たった一人でいたならとても気が休まることはなかったろう。

「あの娘さんを助けてくれて本当にありがとう」

「ワイが礼ばいうことじゃなか」

「あのまま放っておくこともできたのに、美津子さんは勇敢だわ」

「勇敢なんかじゃなか」

 そのまましばらく沈黙が続いた。

 日は落ちたとはいえ、眠りにつくにはまだ早すぎた。

 何もすることがなくなると、美津子は、話さざるを得なくなってしまう。

「うちん娘もちょうど同じぐらいん歳やけん」と美津子は由美に背を向けたまま言った。

「えっ。そうだったの」

 また少し沈黙があった。

 由美がこらえきれず尋ねてしまう。

「その娘さんはどうしているの?」

「知らん」

 今度は即座に答えが返ってきた。

 美津子はようやく重い口を開き始めた。

 娘が小学三年生のときに別れたきり、もう十五年近く会っていないという。

 美津子は長崎県佐世保市で生れ、結婚した後もしばらくはそこに住んでいたらしい。中学時代までは成績もよく、学級委員を何度も務めたほどの優等生だったという。それが高校進学後からだんだんとグレだしてしまう。高校卒業と同時に、ヤンキーの仲間で大工見習いだった男と結婚、すぐに娘が生れた。平凡な専業主婦として家事と子育てに専念していたが、そのころの自分は毎日の生活に追われ、生きているという実感はなかったと美津子は振り返る。

 そんな生活が十年ちかく続いた。娘が小学三年のとき、たまたま家庭訪問で家にやってきた男性教師と関係を持ってしまった。またたく間に二人の感情は燃え上がり、美津子は男性教師と駆け落ちし、広島へと流れた。しかし、美津子はその教師がそれほど好きだったわけではなかったという。結局、一年ほどでその教師とは別れてしまったが、美津子は佐世保に帰るわけにもいかず、そのまま広島でスナック手伝いをして生活していた。もともと人あしらいがうまい美津子は、たちまち人気を集め、地域で評判となった。それが地元の暴力団幹部の目にとまり、愛人になるよう誘われた。高級マンションとBMWをあてがわれ、何不自由のない生活を送っていたが、今度は生活の面倒を見てくれていた若い子分と関係を持ってしまう。ほどなく、そのことが発覚し、当の幹部は激怒し、若い子分を半殺しの目に合わせただけでは気が済まず、美津子にも制裁を加えようとした。その幹部は「わりぁの前と後ろの大事なところを溶接してやるからのぉ」と叫び追いまわしたという。すんでのところを逃れた美津子は大阪の暴力団に庇護を求めた。そこで暴力団の息のかかったキャバレーを紹介され、働いていたところ、今回の作戦に召集されたのだった。

「ろくな人生じゃなかったわ。向こうに戻ったところでなあんもよかことはなか。こっちにいる方がよっぽど充実しとっと」と美津子はさびしく笑った。

 長い沈黙が続き、そのまま二人は眠りに落ちていった。

 翌朝、目覚めると、二人は川で、顔と体を洗った。

 美津子は傍に生えていた、菊のような葉をつけて四弁の黄色い花を引き寄せた。由美に見せ、これはクサノオウという花だと教えた。都会育ちで野草の名も知らない由美にはそれが新鮮だった。美津子の意外な一面を見たような気がした。

「お嬢さんには会いたくないの?」と由美が尋ねた。

「別に会いとうはなか。いつまでん母ば恨むような寂しか人生ではなく、うちのことは忘れてわが人生ば生きてほしか」

 そういうと美津子は湿っぽくなったのを嫌い、急に立ちあがった。

「そんげん汚くしとったら、せっかくきれかとが台無しよ。ほら、うちがきれかにしてあげる」と自分のポーチを取り出す。

 美津子は由美に丁寧に化粧を施し始める。由美はコンパクトを見ながらされるままになっていた。母親に化粧を教わったころの娘時代に戻ったような気がした。美津子の好みが現れ、かなり派手なメイクになっていたが由美は気に入った。

 しばらくして美津子が川の土手を歩いて行くので、由美もそれに続いた。ただ、歩いていく方向が高句麗兵が上陸してきた方へと近づいていくようで、少し不安になる。

 すると、突然、美津子は化粧品の入ったポーチを由美に差し出した。

「これはあんだにいげちゃうとよ」

「えっ、どうして」

「ここで別れちゃう」

「えっ」

 由美はこれから二人で助け合っていくものとばかり思っていたので驚いた。美津子に親近感を抱いたことが、弱さを見せたと思われ、足手まといになると受け取られたのだと思った。

「確かに、昨日から私はちょっとなよなよしてたかもしれないけど、私にも力になれることがあるわ。一人より、二人でいる方が絶対に安全よ」と食い下がった。

「ワイのことじゃなかの。うちの問題なのよ。うちのこん気性は変えられん。うちはこれがらもこいまでどおりしていくしかん。そうばってんか、ワイといるとなしてもワイば意識してしまう。ワイば意識して行動してしまう。昨日の男のときもそうやった。そいでは自分らしゅうなかし、楽しくもなか。だけんここで別れた方がよか」

 由美ではなく、自分の問題だ。自分の性分は変えられないが、由美といると、どうしても由美を意識して振る舞ってしまう。それは自分らしくなく、楽しくもない、と美津子はいった。

 美津子の決意は固かった。

「ワイは違う。ワイはうちのごとは生きられんし、生きる必要もなか。ワイは自分にあった生き方ば見つければよか」

 そういうと美津子は振り返らず、歩いて行ってしまった。由美は追いかけることもできず、ただ見送るしかなかった。

 泣き叫んで逃げ回るか、目をつぶって耐え忍ぶか。危機に直面したとき、由美にはそのどちらかしかできない。だが美津子は違う。修羅場だからこそ生き生きとするタイプの女性だった。

 他人の旦那にすぐに手を出したり、子どもの教師にちょっかいを出したりする。平和な状況ではトラブルばかりおこす迷惑な女性。それが、このような有事になれば、どれほど貴重な存在かがわかる。彼女のような人間がいなければ、こんな辺鄙な島国に人間は住んでいなかったかもしれない。

 美津子は、高句麗兵が群がる危険地帯に、たった一人で行ってしまった。


                 三


張智勲チャン・ジフンの周辺に何か不審な点はなかったか?」

 全賢秀チョン・ヒョンス少佐が尋ねた。

 そこは遠征統合統合軍の司令部が置かれている村上中央高校の敷地内ではあったが、校舎から少し離れたところにある用務員室だった。それが保衛司令部観察部の事務所になっていた。今、そこには賢秀少佐を含めた四人全員が集まり、調査の進展状況を報告し合っていた。

「特に見当たりません」と古株の金秀宗キム・スジョン大尉が答える。

「智勲自身はどうだ? 何か変化はないか。吸ってるタバコが変わったとか、いやに高価なものを身につけているとか……」

「それはないですね。きわめて質素な男ですから」と秀宗大尉。

 そのとき最も若い部下の崔承哲チェ・スンチョル少尉がパイプ椅子の腰の位置を少しずらすようにする。それが賢秀少佐には何か言いたげな様子に映った。

「どうした? 構わん、何でもいいから、言ってみろ」

「はい。実は部下の中に名前がわからない男がいたというんです」と承哲少尉。

「なんだと? どういうことだ」

「ええ。今は見当たらないのですが、上陸した直後には確かにいたという話です。浅黒くて少し小柄の男です。なんでも第三〇五軍団からきたヤツだというんです。で軍団に当たろうとしたんですが、いまあそこは完全に指揮系統がなくなってしまっていて確認ができないんです」

「あやふやだな。で、そいつが何をした?」

「すごく真面目なヤツでして、智勲少佐の後をずっと付いて歩いてたっていうんです」

「別に問題ないじゃないか。ただの真面目なヤツだろ」

「ええ。そうとも解釈できるんですが……。新しい品物を扱うたび、智勲少佐だけでなく周りの人間にも扱い方や保管方法を根堀り葉堀り聞くもんで、閉口していたというんですが、それが急にパッタリと姿を見せなくなった、という話なんですが……」

「うーん」

 そのとき大きな音がして扉が開けられる。

「賢秀! きさま、どういうつもりだっ」

 激しい剣幕で現れたのは、智勲少佐の上司に当たる金東健キム・ドンゴン上佐だった。身長一八〇センチのがっしりとした体格の東健上佐は、いまその四角くいかつい顔を真っ赤に染めていた。

「なんのことでしょうか?」

 賢秀少佐は努めて冷静な態度を取ろうとした。

「とぼけるな! きさま、智勲のところに出向いて行きやがったな」

「ああ、そのことですか。確かに行きました。それが何だというのです。自分の職務を全うしたまでのことです」

「それがどういうことを意味するのか考えもしなかったのか! お前のやったことはこの俺には智勲を扱えないと宣伝して歩いたも同じことだぞ! 武人としてこんなに侮辱をうけたことはないぞ」

 そういうと東健上佐は右ホルスターから拳銃を引き抜いた。

 それはCZ75という拳銃だった。その美しい光沢は、その銃が高句麗で製造されているレプリカなどではなく、チェコが分裂前、まだ社会主義であった時代にチェスカー・ズブロヨフカ国営会社で製造された純正モデルであることを告げていた。当時、世界最高の軍用拳銃と謳われたこの銃を東健上佐は社会主義の栄光を示すものとして今も愛用し続けていたのだった。

 東健上佐はCZ75の銃口を賢秀少佐の左こめかみに押し当てる。

「上佐、どうか落ち着いてください」

 そう言ったのは賢秀の部下、車仙珍チャ・ソンジン中尉だった。

 しかし、東健は顔色一つ変えず親指でハンマーを起こす。

 東健上佐ほどの地位があれば、ここで賢秀少佐を射殺しても何事もなかったとして処理することは可能だった。相手は保衛司令部の少佐というやっかいな存在ではあったが、ここは遠征地であって本国ではない。

 保衛司令部のメンバーは東健上佐の妥協のない態度を見て、それぞれがホルスターの七十式拳銃にゆっくりと手を伸ばす。

「落ち着け! だれも動くんじゃないぞ」

 賢秀少佐が部下たちを制止する。

「フン」

 やがて十分恐怖感を味あわせたと考えたのか、東健上佐がゆっくりとハンマーを戻す。

 それを確認し、賢秀少佐がため息をついた瞬間、東健上佐はそのこめかみに目がけて強烈な頭突きを見舞った。

 賢秀少佐は一瞬、目の前が真っ暗になり、床に倒れてしまう。

「少佐!」

 部下たちが賢秀少佐の元に駆け寄る。

 そのまま、東健上佐は去っていった。

 仙珍中尉に助け起こされながら賢秀少佐は言った。

「みんな、よく辛抱してくれた。俺はお前たち全員を必ず無事に本国へ戻してやるからな」


                 四


 地図を見ながらとはいえ、真っ暗な中を別の方角から同じ場所に辿り着くのは容易ではなかった。

 家影に隠れ地図を見ていた庸子のもとに京子が腰をかがめながら戻ってくる。

「東の方に工場があったわ。あれって生コンクリートとか言うんじゃなかったかしら」

「えっ。そんなのあったかしら……」

 庸子は細い懐中電灯の光が漏れないように手で覆いながら、地図を読む。

「あっ、本当だ。コンクリート工場がある。ということは……まだ二筋ほど北だわ」

 小さな林を左手に見ながら二人は腰をかがめて進む。

 ようやく民家が立ち並ぶ一帯に出た。

 昔ながらの黒っぽい板壁の家が多いが、真新しい外装ボードに覆われた新築家屋もちらほらとあった。

 よく見ると、入口が二重になっている家が少なくない。普通の扉の外側にもう一枚ガラスの扉がついているのだ。冬には玄関を開ける前にそこで雪を払うのだろう。全国どこでも見かけるような作りの二階建てアパートも、二階部分の廊下は窓のある壁で覆われていた。

「あったわ」

 ついに庸子が目的の家を見つけた。

 他の家に比べて色が濃く、夜目にも青い外装ボードに覆われた家だとわかる。表面には横方向に等間隔の細い溝が走っている。二階のベランダのガラス戸が壊れ、そこから落ちた木製のシングルベッドが、一階のガラス戸にもたれかかっていた。

「ずいぶん、派手に暴れたのね」と京子が感心したように言う。

 黒いサッシの玄関扉には縦に二本、銀色の細いベルトが走っている。その右側のベルトに四角いガラスの小窓が縦に八つ並んで穿たれている。今その小窓は真っ暗で、家の中から何の光も漏れてこない。

 庸子が銀色の丸い円柱型のハンドルに手をかける。少し力を入れてから京子の方に頷く。カギはかかっていないようだ。そのまま、ゆっくりとドアを開いていく。

 庸子が警戒しながら、ゆっくりと家の中に入っていく。少し進んでは止まり、いつでも逃げられる準備をしながら奥へと進む。京子もそれに続いた。

 中は無人だった。

 グループごとどこかに移動したのか。それとも何等かの事情でグループ自体が崩壊してしまったのか。

「なかなかりっぱな家だわ」

 かろうじて見分けられるほど暗い部屋の中を見渡しながら京子が言った。

「ここに居たら雨露もしのげるのに、どうして居なくなったのかしら……。雨露をしのぐよりも、もっと優先すべきことがあったということね……」

「それで?」と庸子。

「ごめん。聞いてたの? 独り言のつもりだったんだけど」と京子は恥ずかしそうにした。

「いい線いってるんじゃないの」

 庸子はすぐに自分の作業に戻った。彼女は一階の奥、庭につながった八畳間を重点的に調べている。どうやらそこに由美が押し込められていたようだ。部屋にはマットレスが敷かれたままになっている。

 庸子はそのマットレスに顔近づけ、表面を調べる。そこには取り立てて乱れた様子はない。

 庸子の真剣な様子を見て、京子は自分が傍観者のような態度をとってしまったのではないかと後悔した。

「心配でしょう。申し訳ないわ」

 京子が言った。

「何それ? 何もアンタのせいじゃないでしょう」

 京子は黙っていた。

 その様子を見て、庸子が口を開く。

「私は、由美さんの身の安全に関してはあまり心配はしていないの。女性はどうやっても生きていくものなのよ。暴力のはびこる時代から、何の権利も与えられず、経済的にも肉体的にも力のない女性たちがちゃんと生きてきたんだから」

「そ、そうね……」

 そこで気分を変えようとしでもしたのか、少し明るい調子に戻り、京子が尋ねた。

「ねぇ、由美さんってどんな人?」

 降下時のかすかな記憶があるとはいえ、京子は言葉をかわしたことはなかったのだ。

「そうねぇ……、お嬢さんって感じかな」

 庸子が答える。

「へえー、そうなの」

「背が高くて、髪が長いの。私より十歳くらい上じゃないかな」

「仲がいいんだ……」

「別にそういうわけじゃないの。私が巻き込んじゃったみたいなものだから……」

 特にこれといった手がかりは見つからなかった。

 二人は奥の間に胡坐をかいて座った。

「これからどうする?」と京子。

「とりあえず、ここを拠点にして、もう少し周囲を調べてみましょ。外を歩き回れるのは日の落ちている間だけだから。その前に……」

 庸子は立ち上がると庭側のガラス戸の方へ行く。カギを外すと音をたてないようにガラス戸を開け、庭に降りていった。

 京子はダイニングルームに向かった。冷蔵庫や戸棚を開け、食料品の状況を調べてみる。食品はおろか調味料ひとつ残されていない。ひょっとすると、ここを放棄したのは略奪できる食料品が底をついてしまったからなのだろうかと考えた。

「アンタもこっちに来なさい」

 庭の方から京子を呼ぶ声が聞こえる。

「何?」

 京子が近づいていくと、庸子は庭にあったポリバケツの水を撒き、近くにあった庭箒で泥をこねようとしている。

「何してんの?」

「さっき気づいたんだけど。肌って夜目にも目立つのよ」

「なるほどカモフラージュってことね」

 庸子は自分の体に泥を塗りたくる。

「乾くと白っぽくなっちゃうかもしれないけどね……」

 京子も庸子にならい、体に泥を塗る。

「さあ、向こうを向いて。背中を塗ってあげる」と庸子。

 他人に体を触れられるのは相手が女性でも緊張する。

 対の丸い包みが振り子のように揺れる。

「あんた、歳いくつ?」

「もう二十九」

 庸子の手が突然止まる。

「えっ。そんなに若いの」

「庸子さんは?」

「言いたくない。だいぶん上だとだけ言っておく」

 庸子がポツリと言う。

「それにしてもアンタ、いい体してるわね」

「えっ」

 京子は意味をとりかねて返答に困る。

 その京子の様子に今度は、声をかけた庸子の方が驚き、やがて笑い出す。

「ごめん、ごめん。違うわよ。そういう意味だったら、もっとロマンチックな言い方をするわよ。私が聞きたかったのは、何かスポーツでもやっていたのかなってことよ」

「なんだ。そういこと」

 京子は安心したように笑い出す。

「バスケをしていたの。高校時代まで」

「そうなの。ポジションは」

「センター。でもほかの高校はもっと大きな子ばっかりだったから、全然ダメ。毎日練習漬けだったな。でも、夏は練習終わりでもまだ明るかったから、仲間でよく海岸に行ってた」

「出身どこ?」

「神奈川よ。湘南の方」

「なるほどねぇ」

「いまでも実家に帰ったら、海岸にはよく行くの」

「よっぽどいい思い出があるのね」

「ない、ない」

 京子は手を激しく振って否定した。話題がそのまま恋愛のことに及んでいき、あれこれ聞かれるのは想像しただけでも耐えられない。

「ただ、昔から困ったこと、つらいことがあったら海岸に行く。そしたら何だか気がまぎれるの。やっぱ私の原点かな……」

「ふーん。そうなんだ」

 そう言った庸子の顔はいつしか上を向いていて、京子の言った情景を思い浮かべているようだった。

 カモフラージュを終えると、二人はそれぞれのリュックを背負い、音を立てないように玄関から出ていく。どちらの方角にも家並みが続いていた。すぐ裏には水田が広がっているため、蛙の声が近い。とりあえず北の方へと進んでみる。

 しばらく進んでから、京子がリュックの中からバーコードリーダーのような機械を取り出す。女性たちのつけているICタグを読み取る装置だった。

 京子は軒を連ねた家屋に一軒一軒近づくと機械をかざしていく。

「何の反応もないわ」

 京子はがっかりした様子でスイッチを切る。家屋の中には女性が連れ込まれているかもしれないが、通りからでは電波が届かないのだろう。

 庸子は、小石を拾うと二階のベランダの窓に投げてみる。逃げ出さないようにするため、女性は上の階に囚われている可能性が高いと考えたのだろう。京子もならってほかの二階のベランダに石を投げてみた。

 京子が小石を投げた三軒目だった。ガラッと小さな音がして二階のベランダのガラス戸が開いた。

 二人は身を屈める。

 ベランダからカーリーヘアーの女性が顔を覗かせた。その女性は疲れ切っているのか無表情だった。

 庸子が自分のリュックサックから水入りのペットボトルと、アルミの袋入り固形食を取り出すと、女性のいるベランダに投げ込んだ。

 しばらくして、ふたたび顔を出した女性の表情が少し明るくなっている。水も満足に与えられていなかったのかもしれない。

 庸子はリュックからB六サイズのメモ帳を取り出すと、ボールペンを素早く走らせる。書き終わるとそのページを破り、小石を包んでベランダに投げ込んだ。由美の特徴と彼女を探していることを書いたのだろう。

 女性は紙つぶてを拾い上げると中を広げて読んだが、申し訳なそうに首を横に振った。

 結局、接触できたのはこの女性だけだった。

 実際に女性が囚われていたとしても、高句麗兵の目をかいくぐり外から接触できるケースは極めて限られている。女性にある程度の自由が与えられていなければ、とても接触するチャンスはない。

 そのまま二人は捜索範囲を広げていこうとしたが、その先に焚火の光のようなものが見えてきて思いとどまった。そうしているうちに周囲が明るくなってくる。夜が明けようとしているのだ。

 仕方なく二人はまた、もといた青い家に戻ることにした。

 昼間、高句麗兵が家に入ってくることが十分に考えられたので、二階の部屋の押し入れで休むことにする。

 周囲は明るくなってきていたが、押し入れの中は真っ暗だった。

「まるで吸血鬼みたいね」と京子は笑いながら、布団の間に体を押し込む。

「まったくね」と庸子も笑う。

 京子は疲れていたが、周囲に高句麗兵がいると思うとなかなか眠りにつけなかった。

「さっき会ったあの女性が、由美さんが出て行った方向だけでも見ていてくれればよかったのにね……」

 京子がポツリとつぶやく。

「そうだね」と庸子。その声は小さかった。

「女性ってあまりほかの女性に関心がないのかな」

 さらに京子がつぶやくが、今度は庸子の反応がない。

 きっともう眠りについてしまったのだろう。

 遠くに蛙の鳴き声が聞こえるだけだ。

 京子もようやく眠りにつけそうな気がしてきた。

「アンタ、いいこと言ったわよ!」

 突然、庸子が声を上げる。

「えっ。何のこと?」

「女性のことを女性に聞いても仕方がない。女性のことを聞くなら、男に聞けばいい!」

「男って高句麗兵ってこと?」

「私、知っているの!」

「何を?」

 京子には庸子が何を言おうとしているのか、まったく読めなかった。

「由美さんにはね、ずっと付きまとっている高句麗兵がいたの。ストーカーのような男。そいつならひょっとしたら由美さんの居所を知っているかも」

「でもその男をどうやって見つけるの?」

 その指摘に庸子も詰まってしまう。

「でも、女性よりは見つけやすいはずよ。女性は監禁されてしまうけど、高句麗兵の男は歩き回っているはずだから」

 確かに庸子の言う通りかもしれない。その策はいけそうな気がする。そう考えると早く捜索に取りかかりたいという興奮で、京子はまた眠れなくなってしまった。










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