舞い降りる天使
第一章 旅立ち
一
男が、店先に腰を落とし、箱入りのトマトを三個ずつ手に取ってはせっせとビニール袋に詰めている。薄汚れたベージュの作業ズボンに、上半身は白い半袖の肌着のままだった。周辺には段ボールの空箱が散乱している。
時刻は午前十一時になろうとしていて、暖かい日差しが降り注いでいた。
「精がでるね!」
野太い声が響いた。
男が返事をしようと、顔をあげると、すでに声の主を乗せた黒い自転車は通り過ぎていて、焦げ茶色のシャツ姿の背中がずいぶん小さくなっていた。
「せっかちな野郎だな」
薄笑いを浮かべると、また作業に戻っていく。
男は、布栗八郎といった。
浅黒い丸顔で、短く刈り込まれた白い頭髪は頭頂部まで後退している。身長一六〇センチそこそこと小柄だが、体をまめに動かしてきたせいか、六十二歳にしては元気な方だった。東京都心部から西に二十キロほど離れた、ここ北多摩市で八百屋を営んでいる。
付近には大型スーパーもあったが、買い忘れた野菜を少しだけ求めたいときに、長いレジの列に並ばなくてもよい気軽さが受け、住民には重宝がられている。
北に広がる団地は、VR都市整備機構のもので、蓮川団地といった。団地は、五十六万平方メートルという東京ドーム十二個分の広さがあり、西側の一三〇〇世帯の分譲住宅と、東側の一五〇〇世帯の賃貸住宅の、二つのブロックで成り立っている。
この分譲住宅区画の南側に位置する蓮川西商店街は、一つの通りに沿って店が長く続く一般的な商店街とは違っていた。団地の南端を東西に走るバス通りの北側に店舗が並んでいて、さらにその通りに直角に、南北二十メートルほどの短い商店街が六筋、櫛のように並んでいる。布栗の店は直角になった一番東端の筋にあった。
一九七〇年に入居が始まった蓮川団地は、建設からもう四十年以上が経つ。建設当初は都市近郊農地のなかに突如として現れる新都市という趣きがあったらしい。そのため団地内には広々とした緑地が設けられ、なるべく周囲の環境を壊さないような配慮がなされていた。ところが四十年のうちに周囲の農地はどんどんと住宅へと変わっていき、いまでは逆に、緑を蓄えた団地の方が、都会のオアシスのような存在となっている。
歳月は団地をすっかりと時代遅れのものにしていた。
これまで幾度となく改修工事が行われてきたが、設計の古さはいかんともしがたかった。高齢者が多いというのに五階建ての建物にはエレベーターがない。
賃貸住宅の方には、かろうじて子育て中の若い世代の姿が見られたが、分譲住宅では高齢化が深刻だった。建設当初に入居していた世帯のうち、経済力のある世帯は早々に一戸建てを求めて出ていってしまい、住み続けているのは、あまり経済力のない高齢者世帯ばかりとなった。老朽化により住宅価格は、限界知らずに下落を続けている。新しく入居してくる世帯も、高齢者世帯の比率が異常に高い。賃貸に住むより経済的だという理由が、老後の蓄えがない人々を引き寄せているのだった。
周囲で進む新興住宅地の開発にも団地の衰退を止めるほどの力はなかった。少子化の影響は他の地域にも増して深刻で、付近にあった四つの小学校も統廃合が進み、いまでは一校を残すのみである。
そのせいか、布栗の店頭に並ぶ野菜や食品の品数も昔に比べるとずいぶん寂しいものとなってきている。さびれゆく団地の人々を相手にした布栗たちの商売が、この先、活気づくような気配はどこにもなかった。
布栗は腰に下げているタオルで額を拭った。
「今日は何がおいしいのかしら?」
その軽やかな声が聞こえた瞬間、布栗は自分が自然と微笑んでしまうのを止められなかった。
振り返ると、やはりそこには北熊由美が立っていた。腕には、藤を編んだ買い物籠を下げている。
由美は団地の住人ではなかった。団地南側の真新しい一戸建てに住んでいる。
彼女は背が高く大柄な女性だった。小柄な布栗では肩にも届かないかもしれない。恐らく身長は一七五センチ以上あるだろう。体重は八十キロを超えているに違いない。年齢は布栗よりひとまわりほど下のはずだから、五十歳になったばかりといったところか。たっぷりとボリュームのある長い黒髪は軽くウェーブしていて、気品のある面長の顔を引き立ている。この日は、落ちついた浅黄色のセーターと、同系統のより濃い色のスカートを履いていた。
「このトマトなんかどうかね。美味しいよ!」
そう言った布栗は、教師に憧れる少年のような気分になっていた。
「あら、ほんと! おいしそうだわねぇ」
形のよい眉が大きくアーチを描く。
その由美のリアクションに、布栗の顔がさらに緩んでいく。
無愛想に野菜を持ってきて、早く精算しろと言わんばかりの態度をとる客が多いなかにあって、由美は必ず布栗と会話してから野菜を買ってくれた。そればかりか、時折店にやってくる孫の博史の相手もしてくれる。博史は布栗の長女、知子の長男で今年五歳になる。どこに落ち着くのかわからない博史の話を、由美は辛抱強く聞いてくれる。
彼女こそが理想の妻であり、母であると布栗は思った。由美のような美しく優しい女性が母親であったなら、子どもはきっと自分にも自信が持てるだろう。それはどんなに幸福なことだろうかと布栗は思った。
布栗の同い年の妻、緋素恵は、何かと由美に親切にする布栗の態度が気に食わない様子だった。会話する二人の間で作業を始めたり、急に布栗に用事を言いつけたりする。彼女は気のよい女だったが、なぜか由美にだけは対抗心を露にする。その緋素恵が、今この瞬間、店にいないのは、何よりの幸運だった。精一杯、心のこもったサービスをしようと心に誓う布栗だった。
大きめのトマトばかりを詰めた袋を由美に手渡そうと布栗が立ち上がったときだった。突然、上空から、すさまじい爆音がとどろいてきた。リズムを刻むドラムのように、規則正しく轟音を響かせながら、一機のヘリコプターが高度を下げてきている。陸上自衛隊のもののようだった。
陸上自衛隊朝霞駐屯地と航空自衛隊厚木基地を結ぶ経路になっているためなのか、この辺りの上空を自衛隊のヘリが飛ぶのは別に珍しいことではなかった。ただそのヘリがこうして地上に降りてくるのは布栗が知る限り初めてのことだった。
付近の商店主やちらほらいた客たちも茫然として見守っている。
布栗の店からは見通せないが、南に二百メートルほど離れたグラウンドに着陸しようとしているようだった。
何事かと近くの住宅から住民が出てきた。一人、また一人と外に出てきてはグラウンドのある方角を眺める。そこに二人の警察官が白い自転車をこいで現れ、少し慌てた様子で先へと進んで行く。グラウンドの周囲の規制をするのだろう。
今朝からテレビでは高句麗軍が上陸する緊急事態が発生したとさかんに報じ、不安を感じてはいたが、それは何百キロと遠くはなれた日本海側の出来事で、自分には関係ないことだと布栗は思っていた。いや、そうではない。実は布栗も心の奥底では異常事態に怯えていたのだが、日常の生活を続けるために意識してそう思い込もうとしていたのだった。
着陸してしまったからなのか、騒音は収まった。それで布栗も我に返った。すると、かつてないほど近くに由美が立っているのに気づく。起伏に富んだ彼女の体は圧迫感があり、布栗をどうしても落ち着かなくさせる。
上下する胸のあたりの動きが少し速い気がする。彼女もきっと不安なのだろう。
しばらくするとブレードが巻き上げた土埃が布栗の店の方まで流れてきた。「迷惑だなぁ」と思いながら、布栗は顔をしかめ、土埃を払おうと煽いでいたが、その手が止まってしまう。ヘリから降り立ったと思しき人影が布栗たちの方に向かって駆けつけてきていたからだった。
先頭に立つ女性は白いシャツと黒いタイトスカート姿だった。歩きながら左手でA四判の端末機を胸の前に支え、右手の指先で何やら操作している。急ぎ足でやってくると、布栗の店の前で立ち止まった。その後を薄い灰色のヘルメットを被った迷彩服の隊員二人が追ってくる。
えっ。どういうことだ?
前触れもなく、布栗の鼓動が速くなる。
目の前に靄がかかったようになり、女性に焦点を結んだまま視野が急速に狭まっていく。
今朝のニュースに関係しているのか。自衛隊が絡んでいるなら、そういうことしか考えられない。
まさか、この俺に用があるのか? 背の低い、六十を過ぎた、この俺に……。
しかし、次の瞬間、女性の発した言葉は予想もしていないものだったので、危うく聞き逃しそうになった。
「北熊さん、北熊由美さんはおられますか?」
タイトスカートの女性はよく通る声でいった。
違ったか。今朝のニュースは関係ないのか。
由美の出先まで追いかけてくるからには、携帯などから位置情報を得るシステムを持っているのかもしれない。
「何でしょうか?」と由美は、見ず知らずの他人に突然自分の名前を呼ばれ、怪訝そうにした。不安そうな様子で布栗の前から、そちらの女性の方へと歩み寄る。
「北多摩市市民部市民課住民記録係の野村佳代と申します」
女性が名乗った。
中肉中背で前髪を垂らし、二十そこそこにしか見えなかったが、実際はもう少し上だろう。
佳代は一段と声を落とすと、「選抜されました」とだけ言い、端末を由美だけに見えるように示した。
「作戦開始まであまり時間がないんです。申し訳ありませんが、ここのまま入間基地に向かっていただけませんか」
佳代は丁寧に言ったが、しかしその態度には有無を言わせない雰囲気が漂っていた。
「えっ」
由美は絶句した。
作戦などという言葉を実際に聞くのは初めてだった。しかも市の職員という公的立場にいる人間がそれを使っているのだ。今朝からの事態と関係があるのは間違いない。
だが、女性である由美にいったいどんな役目があるというのだろう。
由美だけに見せていた、あの端末にはどんな情報が表示されていたのだろうか。
そんな疑問が次から次へと布栗には浮かんでくるのだった。
向かいの魚屋の店舗がすぐそばまで迫り、店の前はほんの狭い幅しかなかったが、明るい日差しが届いていた。
その光の中にまるで時間が止まったかのように、由美が佇んでいる。
その姿を眺めながら、布栗は、先ほどからの出来事を振り返ってみようとした。
そういえば、この日、店に現れた由美は、どことなくぎこちない印象があったような気がしてくる。
努めて明るく振る舞っているような、そんな感じがあったかもしれない。
あれは不安を紛らわせようとしていたからなのだろうか。
今朝からの報道に接し、自分と同じように、由美もまた言いようのない不安を感じていたのかもしれない。
うちの店に来たのは日常の営みが今このときも続いていることを確認しようとしたということか。
それなのに、現実はどうだ。
今まで由美の生活圏には決して現れることのなかったであろう迷彩服姿の人間が目の前に現れ、基地に来るように求められているのだ。
自分を見つめる気配に気づいたのか、布栗の視線と出合うと、由美は力なく笑った。
やがて由美は観念したようになり、隊員に促されるままゆっくりと歩み出す。
役目はもう終わったのか、佳代は一緒に向かわずその場に残って由美と隊員たちを見送る。
気がつくと布栗は由美の後を追いかけていた。
「奥さん、何かできることはありませんか?」
自分の声がかすれ、かすかに震えていることに気づき、布栗は少し恥ずかしくなる。
こんな風に自分が声をかけてしまうとは。無意識のうちにこれが由美の姿の見納めだとでも感じ取っているのだろうか。
由美が振り返ったので、布栗は産毛が確認できるほど間近で整った顔と向かい合うことになる。しかし、その目は泳いでいて、彼女の中に自分の姿が確かに像を結んでいるのかどうか疑わしかった。
「ああ、ありがとう。そうね……。夫や息子にはもう連絡がいっているようだし……。そうだな、さっきのトマト。あれを家まで届けていだだけるかしら。そうしてもらえると、うれしいんだけれど……」
由美は、混乱しているのだろう。由美がいなくなってしまう家庭にそんなものが必要だとは思えない。だが、それを指摘してどうなるものでもない。布栗は話を合わせた。
「そ、そんな……。お安いご用ですよ」
布栗はそのまま、不安そうな由美の後ろ姿を見送った。
二
由美たちが辿り着いたのは、住宅街の中にある、四方を薄い緑色の金属製フェンスで囲まれたグラウンドだった。
グラウンドの中央に、機首を南東に向けたヘリが着陸していた。陸上自衛隊のUH―1Jだった。機体は黄色と黒を一対一の割合で混色したオリーブドラブという色をしている。二枚のローターブレードが力なく垂れ下がっていた。
もとになった機体はアメリカのベルクラフト社が開発したもので一九五九年からアメリカ陸軍で採用され、ベトナム戦争などで活躍し、ヒューイという愛称で親しまれていた。日本では富士重工業が一九六二年から陸上自衛隊向けにUH―1Bのライセンス生産を行ってきたが、UH―1Jはそのエンジンを強化した改良型である。陸上自衛隊の現在の主力ヘリはUH―60Jとなっているが、一機三十七億円と非常に高価であるため、一機十二億円ですむUH―1Jが併用されているのだ。
グラウンドは土を整地しただけのもので、周囲の金網のほかにはとりたてて構造物がない。一辺が五十メートルほどのほぼ正方形になっていた。市の教育委員会生涯学習課が管理しているもので、普段はゲートボールやミニサッカーに使われている。南西の一角が削られて、駐車場と用具倉庫のスペースになっていて、その脇に赤い自動販売機が置かれている。
由美たちはその自動販売機の脇の金網に設けられた入り口を通り、ヘリの方へと歩いて行った。金網の周りには近所の住民たちがちらほらと集まってきていた。遠巻きに物珍しそうにヘリを眺めながら、時折白い歯を見せている。不安な思いの自分とのあまりの違いに、由美は少し腹立たしい思いがした。
由美たちが近づいて行くと、ヘリの左側のスライディングドアが開いた。機内からヘルメットを被った搭乗員が現れ、由美に右手を差し出す。その腕につかまりながら、地上五十センチほどの高さの床に右足を乗せようとすると、スカートがすべり、白い太腿が露わになる。由美は少し慌てたが、なんとか機内へ乗り込むことができだ。搭乗員の誘導で、後方の席へと案内され、普段の調子で腰を落とすと、座面は驚くほど硬かった。搭乗員がそのままシートベルトとヘッドセットを装着してくれる。同行してきた二人は、所定の場所に乗り込むとめいめいが自分でヘルメットにコードをつないでいる。
その様子を、前方のコクピットから二人の操縦士が首を後ろに捩じって窺っていた。二人とも黒い曲面のバイザーを下ろしていて、それが唇の上辺りまで覆っている。そのため由美には表情を窺うことができないのだが、気のせいか、二人の口元は、薄笑いを浮かべているように見えた。
「離陸準備!」
進行方向左の座席にいた操縦士が声を発した。
どうやら彼がこのヘリの機長らしい。右側は副操縦士ということか。
機長と副操縦士がそれぞれの受け持ちのコントロールパネルとオーバーヘッドパネルの各スイッチを指でなぞりながら、目に止まらぬ速さで点検していく。
その上で、機長が規制をしている警察官へ、右手人差し指を上に向けクルクルと回して合図を送る。轟音とともにエンジンがスタートした。垂れ下っていたローターブレードが回転を始め、遠心力で徐々に持ち上げられていく。巻き上げられる土埃の中を、警察官が帽子を手で押さえながら後ずさっていくのが機内からも見えた。
ヘリコプターに乗るのはこれが初めてで由美には少し不安があった。どうしてもコックピットの様子が気にかかる。
機長は前面にある計器盤の真ん中の下の方から、湾曲するように伸びきている棒の柄の部分を右手で握っていた。それを中立位置に保とうとしているようだった。そのうえで、操縦席左脇にある、自動車のサイドブレーキのような長い円筒形のレバーの先端を一生懸命に外側に回した。その操作によるものなのか、心なしか轟音が大きくなったように感じる。それから機長は左手のレバーを徐々に引き上げ始めた。機体がゆっくりと浮き上がるような感じがした直後、右に流されていくような気配がする。すかさず機長の左足が床を蹴るように動く。軽い反動のようなものがあって、それから後は機体が正面を保つようになった。そのときになって初めて、窓から見える光景で、ヘリが完全に宙に浮き、すでに相当な高さに達しているのに気づいた。機長はなおも左側のレバーを引き上げている。グラウンドを取り巻く金網のフェンスを越えるために上昇を続けているのだ。
「こちらハンター5、対象者を確保。繰り返す、対象者を確保。これから帰投する」
機長はヘルメットの左側から伸びたマイクに話しかけている。
窓から見える家並みは、強い日差しを浴びてまぶしいほどに輝いていた。
機体は高度を得て、視界が広がったが、入り組んだ家並みはどれも同じように見える。
由美は自分の家さえどれだか分からず、全く知らない街のように思えた。いつも見ている風景を、面に置き換え捉え直すのは容易なことではなかった。
ヘリが安定した飛行に入ると、意識は景色を離れた。
自分はこれからいったいどうなるのだろう。
あの若い市職員に何かを聞けばよかったのだろうか。
これまで平穏な生活が失われてしまいそうな、今朝から感じていたあの不安……。恐れていたことがとうとう現実のものになったのだと由美は思った。
由美は、夫と息子の三人暮らしだった。
三歳上の夫、和夫は港区の大手電機メーカーの同僚で職場結婚だった。由美は結婚と同時に退職したが、和夫はそのまま事務部門で働き続けてもう三十一年になる。息子の浩一は、由美が二十四歳の時の子だ。今年で二十六歳になる。中央区の就職情報会社に就職して四年目で、今は営業部門で働いている。
その二人を、午前七時半に送り出し、食事の後片づけをしていると、近くの主婦から電話がかかってきて、とりとめもない話に付き合わされた。室内の掃除にとりかかったときには普段よりずいぶん時間が過ぎていた。
カーテンを開け、ガラス戸を開け放つと、二十畳のリビングルームは明るい日差しに包まれた。部屋の東側の壁に沿って置かれた六十インチの液晶テレビからは生活情報番組が流れている。それを聞くともなく、由美は薄いベージュの布製ソファー・セットの周辺を念入りに掃除していた。
十一日午前十時のことだった。
ふと、微かな金属音を聞いたような気がし、由美は掃除機のスイッチを切る。するとテレビからカメラのシャッター音が響いているのがわかった。
画面の方へと振り返ると、そこには首相官邸一階にある会見室の様子が映し出されていて、「ただ今から緊急特別番組をお送りいたします」と、男性アナウンサーの押し殺したような低い声が響いた。
日本政府の紋章である五七の桐のレリーフがかたどられた中央の演壇へ、白いワンピースにエンジ色のジャケットを羽織った小柄な女性が歩み出てくる。
内閣総理大臣の武立比留江だった。
同じ女性であることで、由美は好感を抱いていたが、この日の武立はいつもと少し印象が違う。
武立は演壇の前に立つと、ガサゴソと音を立て、左胸の内ポケットから三つ折りの白い紙片を取り出す。指はかすかに震えていた。紙を広げてみて老眼である自分がそのままでは文字が読めないことに気づき、ジャケットの右ポケットから老眼鏡を取り出してかける。右の弦がちゃんとした位置にかからずメガネが僅かに左へ傾いていたが、本人は気づかない。
「先日より高句麗軍の多数の船舶が日本の領海に迫っていることを探知し、海上自衛隊はじめ、関係各方面の総力をあげ阻止に努めてまいりましたが、本日午前七時四十七分、高句麗軍が新潟県村上市の海岸に上陸する事態に至りました。これはわが国の主権、領土保全および政治的独立を著しく侵害するものとして到底容認できるものではありません。かかる行為は、侵略についての定義を定めた国連総会決議3314に明白に違反するものであり、高句麗に対し断固抗議するとともに、即時撤退を求め、国連安全保障理事会に討議を要請したところです」
そこまで読むと、武立は顔を上げ、カメラを見つめた。その瞬間、すさまじい数のフラッシュが放たれ、眩い閃光に包まれる。眉間に皺を寄せ、口を真一文字に結び、白目がちの目で正面を見据えた武立のこの顔は、その後、多くのメディアに登場することなる。
このときテレビを見守っていた多くの国民もそうだったように、由美は、彼女の苦悩に満ちた厳しい表情から目が離せないでいた。
国連総会決議3314が何かという説明はなかった。一九七四年十二月十四日の総会で決議されたもので、侵略の定義を定めたものなのだが、これまで日本政府はその有効性に懐疑的な立場をとってきたということも知らされなかった。
「我が国は、高句麗軍に反撃を加える当然の権利を有し、また実力を持ってこれを排除することは十分に可能ではありますが、人道的見地に立てば、悪戯に人的損害を招くのは得策でないと考えるに至りました。こちらの側が望んでもいない事態で、かけがえのない生命が失われるようなことがあってはならないのです。高句麗の行為は言語道断の許しがたい暴挙ではありますが、それと同じレベルで反応するのでなく、より高い見地から事態の収拾に当たることこそ肝要だと考えます。そこで、まず当該地域の住民のみなさんには速やかに避難していただき、一定の区域内を封鎖して、高句麗軍の侵攻を阻止するとともにその孤立化をはかりたいと考えます。そのうえで国際的な協力のもと、武装解除から撤退への流れを模索してまりいたいと考えます」
これはどういうこと? 戦争はしないということなの?
由美はだれかにはっきりと説明してもらいたいと思った。夫と息子が側にいないことを、このときほど心細いと感じたことはなかった。
「その時間をつくるために、何としても高句麗軍を現在の場所に留めておかなければなりません。武器を交えるのではなく、人間的な関係行為によって侵攻を止める作業に直ちにとりかかりたいと考えます。これから一部の限られたみなさんのもとに、私どもの職員が参って非常に心苦しいお願いをいたしますが、犠牲を最小限に抑えるための手段なのだと、どうかご理解をいただき、ご協力のほど、心よりお願い申しあげる次第です」
そこまで述べると、武立はカメラに向かって深々と頭をさげた。
非常にまわりくどい表現で、いったいどんな対策を行うのか、国民がどんな協力をすることになるのか、由美にはまったく想像がつかなかった。おそらく、多くの国民もまたそうだったに違いない。
テレビの画面は、記者会見室の中継からスタジオへと切り替わった。左側に男性キャスターが座り、右側に同じく男性でやや年配の解説員が座っていた。二人は何かを話していたが、由美の耳には届かない。
由美は息苦しいほどの不安を感じ始めていた。
平穏だった生活は、今朝のあのときが最後で、もう二度とは戻らない――そんな予言めいた考えが浮かぶ。
今の放送は、これから始まる暗黒劇の序曲なのではないだろうか。この後には、さらに恐ろしい幕開けが控えているのでは……。
由美はそんな考えに押しつぶされそうになる。このままたった一人、家に留まっているのは耐えられなかった。急いで買い物籠を手に取ると、家を飛び出した。
三
ヘリはなだらかな狭山丘陵の東端上空を飛行していた。丘陵は芽吹いて間もない新緑で、濃淡がモザイクのようになっている。やや濃い緑の桜が茂っていて、そのうえに黄緑の欅やコナラが覗いている。黄色く輝いているのはトウカエデのようだった。
頭上のターボシャフトエンジンの騒音はいつしか単調な背景音になってしまい、それほど気にならくなっていた。
白く輝く、所沢市周辺の高層マンション群を過ぎると、何も植えられていない黒っぽい畑が広がってきた。その中をのんびりと走っている黄色い電車と出合う。小手指を過ぎたあたりだろう。西武池袋線だった。同社の新型車両は白を基調に、前後のパネルのみを青と緑のグラデーションにしたものとなっているが、まだ従来のカラーの車両の方が圧倒的に多かった。由美がいつも使っている西武新宿線はこの辺では北側を走っている。東の所沢で交差しているのだ。
そこに突然、耳をつんざくような金属音が響いてくる。
木々の中の広々とした一帯に、長い滑走路があり、その脇を降り立ったばかりのジェット機がゆっくりと動いている。それが騒音の主だった。旅客機にしてはやや小ぶりに見える。エンジンが胴体の後ろに付いていて、由美が子どものころによく見かけたボーイング727を小さくしたような形だ。同じ形のジェット機がすでに三機止まっている。白く輝いて見えたが、影になった一機の様子から、機体は薄い水色をしているようだ。
そこが航空自衛隊入間基地だった。
二つならんだ巨大なパラボラアンテナが目を引く。その周囲には薄緑色に塗られた背の低い堅牢そうな建物がいくつも並んでいる。飛行機を格納していると思われる茶色い蒲鉾型の建物も見えた。
由美にはどれも初めてみるものばかりだった。
入間基地は埼玉県狭山市と入間市にまたがる広大な敷地を持っていた。三〇〇万平方メートルの広さがあり、これは東京ドーム六十四個分にあたる。二〇〇〇メートルの滑走路を備えていて、航空自衛隊中部方面隊の司令部がおかれているが、戦闘機はなく配備された五十機はすべて輸送機や救難ヘリなどだ。航空自衛隊の給油・補給の拠点としての機能を担っていた。
由美を乗せたヘリはゆっくりと高度を下げていく。
着陸したのは、滑走路からほど近い場所だった。そこがヘリの発着場のようだ。
先に降りた搭乗員に手を貸してもらい、ヘリを降りる。
暗い機内から外に出ると、あまりの眩しさに目を開けていられないほどだった。
時刻は正午になろうとしていた。
手をかざしながら、搭乗員に誘導されるまま後についていく。
辿り着いたのは、通常は荷物の積み下ろしなどを行うカーゴエプロンとなっているところだった。そこには黒い山型の建物が、ちょうど滑走路に平行するように伸びている。近づいてみると建物と見えたのは黒い布製の業務用天幕で、それがいくつも連結されていたのだった。一つの天幕は幅と長さがいずれも五メートルの正方形で、高さは二・七メートルもある。
搭乗員に「00014」と五ケタの数字の書かれた小さな紙を手渡された由美は、背中を押されるようにして、一番手前の天幕に入った。
中は蛍光灯が灯っていたが、とても暗く感じる。
そこは受付のようだった。折り畳み式の長いテーブルが横向きに置かれていて、その後ろに迷彩服を着た女性隊員が一人、パイプイスに座っている。テーブルにはノートパソコンと、ケーブルにつないだ簡易プリンターのような機器が置かれていた。区画は奥行き二メートルほどのところを幕で仕切られ、一つの部屋のようになっている。仕切りの幕は二枚の布を中央で重ねてあり、どうやらそこが通路になっているようだ。
由美は手に持っていた紙片を女性隊員に手渡した。
女性隊員は、左手で紙を受け取ると、キーボード上の右手を一瞬、軽く捻るようにした。それですべての数字を打ち込んでしまっていた。
「北熊由美さんですね」と女性隊員は言った。
由美が頷くと、彼女は足下から風呂屋の脱衣籠のような青いプラスティックの籠を取りだした。
「服を脱いでその袋の中に入れてください」
見ると、籠の中にはプラスチックのファスナーが付いた半透明の袋が入っていた。
由美は少しためらったが、健康診断でもするのだろうと思い、衣服を脱ぎ始めた。
そんな由美の様子には目もくれず女性隊員は手元のパソコンを操作している。下着一枚になったところで由美は一度止まり、女性隊員の方を窺う。それに気づいて彼女は顔をあげたが、何も言わない。ただ黙ってうなずいた。由美は覚悟を決め、最後の一枚も取り去る。皮膚に残る幾筋もの下着の跡が、無防備な自分を浮き立たせ、由美を心細くさせていく。
全裸になった由美が、衣服を入れた袋を手渡すと、女性隊員はパソコンに接続した機器から、白いプラスチックの紐のようなものを二本引き抜いた。一方を袋のファスナーに取り付けて固定すると、もう一本は由美の左手首に巻きつけた。
「戻るまで、ちゃんと保管しておきますから」と、そこで初めて笑顔をのぞかせた。
女性隊員は仕切りとなっている幕の方を手で示し、次へ進むように促した。
仕切り幕を開け、次の区画に入ると、突然、両側から新たに二人の女性隊員が現れたので、由美は驚いた。
二人は姿勢を低くして中腰になると、一人が「はい、足、入れて」と言う。見下ろすと足下に濃い緑色のベルトが「8」の字になっている。その輪になった部分に足を入れろというのだ。由美が二人の肩を借り、両足を入れたとたん、二人はベルトを一気に引き上げ、背中にリュックのようなものを背負わせた。
その重さに少しふらついてしまう。どうやらパラシュートのようだった。薄い布のようなイメージだったのにこんなに重いとは意外だった。まるで小学生だ。それも高学年の子を背負っているような感じがする。
固いベルトが肌に食い込み、薄い皮膚を引っ張って激しく痛む。由美は思わず顔を歪めたが、二人の女性隊員はまったく気にもとめなかった。両肩、胸、腹、両足の付け根をベルトで容赦なく締め付けていく。体が動くたび、胸のあたりの金具がジャラジャラと音を立てる。装着を終えると、点検のためか、二人がそれぞれベルトの各部分をぐいぐいと引っ張っていくので、また痛みが由美を襲う。
重さと痛さに気を奪われ、由美はなぜこんなものを背負うのかということに考えが及ばなかった。
「はい。オッケー」と一人が言うと、もう一人が次の幕を開け、先に進むように促した。
幕を潜ると、さらにもう一枚の幕があり、連結された別の天幕になっている。
その幕を潜ると、二つ一組の白い餅のような物体が無数に並んでいた。
そこには素肌に黒いパラシュートを背負っただけの女性が百人近く並んでいた。
区画は三つの天幕を連結して作られているようだった。
何やら妖しい匂いが漂っている。恐らく汗の匂いや粘膜に繁殖した雑菌の匂いが入り混じったものなのだろう。一人ひとりは微かでも、狭い空間に数多くの女性が詰め込まれているのだ。エアコンのない天幕にはその匂いがこもってしまう。
「はーい。みんな!」
ハンドマイク越しに、ちょっと場違いな感じの甲高い女性の声が響く。
声のする方を見ると、ピンクのトップに灰色のタイツを履いた女性が、前方の一段高い台に立っていた。茶色く染めた髪をポニーテールに纏めていた。よく目立つ青いアイシャドーのせいか、丸顔に満面の笑顔を浮かべているのがよくわかる。
「ちょっとこっちに注目してくれるかな?」
由美のように自分の母親ぐらいの女性もいるのに、まるで子どもに言い聞かせるような話し方だった。
こんな人間が自衛隊員であるはずはない。きっと民間のインストラクターか何かに違いない。
「みんなは、これからパラシュートを使うことになるんだよ。驚いちゃうよねぇ?」
その言葉に由美は心臓が止まりそうになる。それはそうだ。使わないものを背負わせるはずはないのだ。しかし、その可能性を考えてみることはなかった。人は、だれかに言葉ではっきり指摘されるまでは、どんな事実も受け止めようとはしないものなのだ。
会場の女性たちから低いどよめきの声が上がる。
もっと軽い反応を期待していたのか、インストラクターは重い空気に少しとまどった様子だった。
しかし、すぐに気を取り直すと、もとのテンションで声を張りあげた。
「でも、怖がらなくてもぜーんぜん大丈夫! これからそのやり方を、お姉さんがちゃーんと教えちゃいますからっ!」
第二章 豊葦原の奔流
一
二十代中ごろと思しき男が、海を臨む小高い丘に腰を落とし、時折吹いてくる風に身を任せていた。日差しに照らされ、少し前まで濡れていた緑の粗末な服はすっかりと乾いている。太い眉をした身長一七〇センチほどのその男は、劉明哲と言った。
彼のいる辺りには茎が連なった草が生い茂っていた。ギョウギシバというイネ科の海浜植物である。地上を這う茎の節々から直立の茎が伸び、そこからひげ根も出ていた。
明哲にはまだ少し、地面が揺れているような感覚が残っていて、思わず地面に手を触れてしまう。触ってみるとその丘は、砂でできているのがわかった。
丘のすぐ下には道路が走っていて、海側に金属製のフェンスが続いている。フェンスには下向きにスリットが付いていた。
そのフェンスの向こうが砂浜だった。
砂浜は、明哲の右手に遠く霞んで見える北の山際から始まって、南の方へと延々と続いている。海岸線はほとんどまっすぐだ。誰が作戦を立てても、この地を上陸地点に選んだろう。
明哲がいたのは新潟県村上市の西部にある瀬波海岸だった。
新潟県は北東から南西方向に、本州を縮小したような細長い形となっている。その日本海側の海岸線はほぼ中央の燕市あたりが突出したなだらかなカーブを描いていて、総延長は三百三十キロにも及ぶ。その一番北の端に位置するのが村上市である。
その村上市の海岸線には温泉街があり、十数軒の旅館やホテルが林立している。瀬波温泉街で、ここができたのは明治三十七年(一九〇四年)に石油掘削のために井戸を掘ったところ温泉が噴出したことがきっかけだ。かつて歌人の与謝野晶子が投宿したこともあり、それを記念した句碑が建てられている。戦後になって数多くの旅館が建てられた。
その温泉街の後方、東側には幅五百メートルの帯状に標高三十メートルほどの海岸砂丘が形成されていて、そこには防風林として植えられた赤松林が広がっている。明哲が座っていたのも砂丘の一部だった。
明哲はズボンの腰のあたりに挟んでいた真空包装の透明のビニール袋を取り出すと、それを犬歯で噛みちぎり、中のイカの姿焼きにかぶりつく。
その瞬間、頬の内側の顎の付け根の辺りが痛くなり、じっと堪える。唾液腺から大量の唾液が湧き出し、痛みが出たのだ。長らく味わっていなかった感覚で、その懐かしさに目頭が熱くなる。イカは瀬波温泉街にある鮮魚センターで手に入れたものだった。群がる高句麗兵のおかげで、いまごろは何も残っていないだろう。
近くのホテルや旅館はどれもみな高句麗兵でごった返していて、足の踏み場もないほどだった。明哲も一度中を覗いてみたが、すでに食料品を巡って激しい奪い合いが始まっていて嫌気がさした。こうしてこの丘にいる方が気楽でよかった。
砂浜は打ち寄せられ木切れやゴミが波の形に縞状になっていた。
その縞を横切るように、びしょ濡れの高句麗兵たちが疲れ切った表情で行進している。午前九時ちかくのこの時間になっても、海から上がってくる兵の列が延々と続いていた。
海はすでに穏やかになっている。
波打ち際から二十メートルほど離れた海の中では、黒く変色したテトラポッドの列が波に洗われていた。その周辺には高句麗軍の乗り捨てた漁船が何隻も漂っている。このテトラポッドを初めて見たとき、明哲には上陸を阻むバリケードのように思えたのだが、今こうして陸側からみるとその意味がはっきりとした。ここは海水浴場になっていて、テトラポッドは波を和らげるためのものだったのだ。
沖合には高句麗兵を運んできたタンカーや鉱物運搬船が停泊していた。船が浅瀬に入れないため、運ばれてきた連中はボートや艀に乗り換えてやってくる。そのため時間がかかっているのだ。
大きな船舶はみな中国やロシアなど、それぞれの国旗を掲げていたが、別にそれらの国々が今回の作戦を支援しているわけではなかった。詳しい事情は知らないが、調達方法は容易に想像がついた。
明哲の働く職場でも、中国から物資を乗せた貨車がやってくると、このときとばかりに、その貨車をさまざまな目的に使い回す。返却時にはガタガタになってしまっているため、中国からはいつも抗議がくる。それと同じだろう。別の目的できた船に、勝手に大量の兵士が乗り込んでしまったため、やむなく船員たちは目的地まで運ぶことになってしまったのだ。恐らく燃料代さえ払っていないはずだ。それが高句麗という国の常套手段だった。それほど明哲の祖国にはモノとカネがなかった。
上陸作業は当分、完了しそうにはない。軍が何らかの行動を起こすにしてもまだ時間がありそうだった。しばらくはここでのんびりできる。
この日の天気のように、明哲は晴れ晴れとしている。自分がそんな気持ちになれるとは、数時間前までとても想像できなかった。
明哲が漁船で流れ着いたのは一時間前のことだった。
乗っていたのは、全長十二メートル、排水量八トンほどの漁船だった。定員十人ほどのところに四十人も詰め込まれていたため、いまにも沈没しそうになっていた。
波にあおられ、時折、空回りするスクリューがウシガエルの鳴き声のような音をたてていた。
「気をつけろ! そこはそんなに丈夫じゃないんだぞ」
後方から男の声がした。
船の最前部にいた明哲が振り返ると、マストにしがみついている男が、何やら叫んでいた。どうやら明哲が持つ船首楼甲板の手すりのことを心配しているらしい。確かにそれは塗料も剥がれ、錆が目立っていた。
男は親切心から言っているのだろうが、余計なお世話だと明哲は思った。
このまま海に落ちて死ぬならそれでもいい。
そんな気分だった。
明哲は半島の付け根部分の東側にある玄菟郡出身で、製鉄労働者という建前だった。だがそれは名ばかりで製鉄所はもう何年も操業していなかった。週に四日、職場に出ると各班に分かれ工場内に設けられた畑で農作業に取り組む。栽培しているのは主にトウモロコシやジャガイモなどだ。金曜日には金曜労働といって自宅周辺の道路や河川の整備などの公共事業を村人総出で行う。土日には農村に駆り出され、農場の整備や草取りに従事する。空いた時間には、遠くの山まで燃料となる薪を拾いに出かける。そんな生活だった。時折、職場や近所の人が栄養失調で亡くなる。それでも一時期よりましだった。明哲が五歳のころが一番酷かった。友達の半分が餓死し、明哲の父親と妹も亡くなってしまった。狭い家をとても広く感じたことが忘れられない。部屋の土壁には、父親が貼ったと思しき、一九七〇年ごろの雑誌の切り抜き写真がずっとそこに残っている。
明哲の家は崩れかけた長屋にあった。唯一の喜びは、隣の棟の長屋に住む、女の子の姿を眺めることだった。明哲と同い年のその子はとても頭が良く活発な子だった。ほとんど話したことはないが、ツンとすましていて高句麗ではめったに見かけないタイプだった。四・六制の義務教育の終わり近く、高等中学校五年になったころ、彼女が楽浪郡の教員養成大学への進学をめざしているという噂を耳にした。明哲はとても大学に進学できる家柄ではなく、学力もなかったので、彼女の姿もあと一年で見納めかと暗く沈んだ。
最終学年になってしばらくすると、こんどは近所の中年女性たちが彼女の大学進学がなくなったと話していた。なんでも成分(出身階層)に問題があったということらしい。彼女には韓国の親戚がいて、それがひっかかったようだ。成分の審査は上層部の都合で厳しくなったり緩くなったりするので本人にはどうすることもできない。明哲は複雑な気分になった。希望を絶たれた彼女には悪いと思ったが、これでまたしばらくは彼女の姿を眺めることができると思うと少しうれしかった。もしも何かの作業で一緒になることがあれば、そのときは精いっぱい手助けをしてやろう。時間をかければ彼女が自分に心を開いてくれるかもしれない……。そんな夢を見ていた。
製鉄所への配属が決まり、明哲もいよいよ社会人として働くことになった。信じられないことに彼女も製鉄所に配属されていた。新しく覚えなければならないことが山ほどあったが、明哲の頭の中は彼女のことでいっぱいだった。職場に着き、朝礼の列に並びながら、早く彼女の姿が見えないかとキョロキョロしていた。だが、彼女は現れなかった。その日の夜、保衛部の男たちがトラックで長屋にやってきて、彼女の両親と姉をどこかへ連れて行った。そうだったのだ。彼女は家族にも内緒で韓国へ脱出してしまったのだった。
明哲は呆然とした。どう考えたらいいかもわからなかった。明哲は、人生が終わったと思った。以来、抜け殻のような日々を送り続けていた。
だから、遠征軍の船に乗せられ、荒れた海にいくら翻弄されようとも怖いという気持ちはまったくしなかった。
灰色の軍艦が目の前に現れたときでさえ、とうとうそのときが来たかと冷静でいられた。
ところが、その軍艦は何もせずに去ってしまう。
仕方なく明哲は、ただ目の前に広がる海を眺めていた。
やがてうっすらと陸地が見えてきた。
青くかすんだ、不規則な幅の帯。
その光景が、なぜか気にかかる。
それは、幅にして三ミリにも満たない遠くの山々だった。
だがそれで十分だった。
「あの山には木が茂っている!」
ものごころついたころから明哲が目にしてきた山々は、赤茶けた禿山ばかりだった。国の最高指導者の指示で頂上までトウモロコシを植えた結果、雨で土壌が流されてしまい荒れ果てていたのだ。そのせいで海藻が枯れ、海にも魚が住めなくなっていた。
ところがどうだ、この景色は。街のすぐそこに青々とした山が迫っているではないか。
「……楽園だ」
明哲の目が輝きを取り戻し始めたのは、そのときからだった。
二
村上市を特徴づけるのが市の北部を東から西へと流れ、日本海にそそぐ三面川である。山形県境に近い朝日連峰にその源を発するこの川は、ブナ林によって育まれ、古くからサケの遡上で有名だ。同じ新潟を流れる信濃川が河口付近で濁って川底が見えなくなるのに対して、三面川は河口付近でもある程度の透明度を保っている。
村上市の海岸線は、この三面川を境にくっきりとした違いが見られる。この河口より南には平坦な砂浜が続いているのに対して、北は、小高い葡萄山地がそのまま海に没する断層海岸となっていて、花崗岩が突出した複雑な地形となっている。岩礁が点在し、ほとんど漁港もない。
高句麗軍には北に進んでも得るものはないと見えたこともあって、日本側は北側への侵攻をかろうじて防ぐことに成功した。
まず山形県へと伸びるJR羽越本線の鉄橋と国道三四五線が通る瀬波橋を、北岸の羽下ケ渕という一帯で封鎖した。
さらにその東の上流では、三面川に向かって南東方向から合流してくる、もう一つの清流である門前川の北岸にまで進出。山形県鶴岡市方面へと向かう国道七号線を封鎖した。そのポイントが山辺里大橋だった。
この封鎖には山形県の神町駐屯地から派遣された第二十普通科連隊が駆り出されていた。
同連隊に所属する安田保・一等陸士はこの山辺里大橋の北岸の袂に歩哨として立っていた。
後ろには同じ神町駐屯地から来た第六施設大隊の装輪式のバケットローダーやトラックが並べられ、道路を完全に塞いでいる。
安田は八十九式小銃のピストルグリップを右手で持ち、胸の前で下に向けていた。引き金に触れないよう人差し指だけを真っ直ぐにピンと伸ばしていたが、緊張からか少し力が入りすぎているようだった。
左手で双眼鏡をあてがい、南岸の様子を窺う。
高句麗側はほとんど火器を持っていないという情報だったが、安田はそれでも不安だった。強力な火砲を持った戦車がこちら側にいないということが何とも心細かったのである。
本来、この地域をカバーしている陸上自衛隊は第十二旅団であるが、そこに所属していた第十二戦車大隊は二〇〇一年の師団から旅団への改組にともなって廃止されていた。しかし、仮に廃止されていなかったとしても戦車大隊が配備されていた群馬県からでは、侵攻地域の南側にしかアプローチできない。同じ東部方面隊に所属する戦車隊としては静岡県御殿場市の駒門駐屯地に配備されている第一戦車大隊があるが、これもやはり侵攻地域の南側にしか近づけない。もちろん日本海東北自動車道を使えば北側にも行けるのだが、その道路の村上市部分が高句麗側の手に落ちるのは時間の問題だった。
侵攻地域を迂回して村上市の北側へ陸路から到達できる、もっとも近隣の戦車隊は百六十キロ以上も離れた宮城県の大和駐屯地の第六戦車大隊しかない。そこでこの戦車大隊に出動命令が出されたが、配備されているのは、いまでは旧式となってしまった七十四式戦車だった。正午を過ぎたばかりのこの時点ではまだ東北道から山形道へ向かっているところだろう。
七十四式戦車は制式採用以来ほとんど改修がなされず、現代の戦車戦においては標的としても役不足というくらいだったが、相手が人間ならば、それで十分だった。安田は一刻も早くその七十四式がここに到着して欲しいと思っていた。
光の加減なのか、双眼鏡ごしに見る対岸の風景は青白く霞んでいて、昼すぎだというのに早朝の景色のように見える。当然のことながら、何も音は聞こえない。日本のどこにもある長閑な街の風景だった。
同じころ、侵攻地域の南側は避難に追われて混乱をきわめ、封鎖どころではなかった。新潟県内には新発田市の新発田駐屯地に配属されている第三十普通科連隊と、上越市の高田駐屯地に配属されている第二普通科連隊や第五施設群などがあるのだが、それらの部隊は、村上市内の住民避難の誘導とその護衛に動員されていた。今、その部隊は村上市の南部から隣の胎内市へと向かって移動中だった。
双眼鏡を覗いていた安田は、民家の間を縫ってトラックが何台も連なって走っていくのに気づいた。
まだ避難していない住民がいるのか、と思いかけて、トラックの荷台に目が留まる。
男ばかり大勢が乗っていた。日焼けした顔に髭が浮いている。煙草を吸いながら談笑していた。
服装は汚れていて元の色がよくわからない。
こんなときにも、農作業へ行くつもりなのか?
次の瞬間、安田は凍りつく。
荷台の人影の中に双眼鏡でこちらを見ている者がいた。
「あっ」
思わず声を上げかけたが、まるで接着剤でも塗られていたかのよう唇に抵抗があった。
いつの間にか口が渇いていたのだ。
「て、敵、敵だ!」
「やはりな」
男は双眼鏡を下すとニヤリと笑った。
山辺里大橋の南岸、トラックの荷台から北岸を双眼鏡でのぞいていたのは、高句麗軍の南方方面遠征統合軍司令部補給本部の張智勲少佐だった。身長一七〇センチほどの引き締まった体に、あばたの目立つ赤ら顔の額には幾筋もの皺が刻まれていた。短い頭髪はやや後退を始めている。
「やつらは攻めてこないようです、上佐」
「よし! このまま進め」
四角い顔で大柄の上司、金東健上佐が叫んだ。
二人を乗せたいすゞのエルフを先頭に、三菱ふそうのキャンター、日野デュトロが続く。トラックはいずれも二トン積みで、荷台に多くの高句麗兵を乗せていた。上陸地点近くの工場や商店から調達したものだった。自国の習慣がしみついた兵士の運転する車列は反対車線を猛スピードで逆走していく。
この日の朝、高句麗軍は上陸を果たしたものの、その大半が漂流者のように砂浜に倒れこんでしまった。兵士たちは、そのまま何時間も動けないでいた。船酔いと疲れで休息が必要だったのだ。
総勢十二万五〇〇〇人の遠征軍は急造だったが、それでも五つの軍団で構成されていた。それが上陸時には軍団が入り混じってしまい、指揮系統はなかなか回復しなかった。
そんななかを、智勲少佐は迅速に行動した。混乱した状態の砂浜のなかで東健上佐を探し当てると、各軍団から十人ずつを選抜し、総勢五十人の物資調達のための先遣部隊をつくることを提案した。そのうえで、日本側と接するこの地点まで大急ぎで進出してきたのだ。
遠征軍全体でもわずかしかない八十八式歩兵銃も二十丁ほど確保した。八十八式歩兵銃とは旧ソ連製AK―74アサルトライフルを高句麗がライセンス生産したものだった。外見は世界で最も大量に生産された小銃といわれるAK―47と似ているが、口径を七・六二ミリから五・四五ミリへと小口径にしたことで、射撃時の反動が小さくなり、命中精度が向上し、射程距離も長くなっている。
智勲少佐は日本側が仕掛けてこないうちに、より広範な地域から物資を調達しておこうと考えたのだ。今後どうなるか、だれにも見通しは立てられない。日本側の巻き返しにより、支配地域を失ってしまうことも十分にありえるのだ。
智勲少佐はもちろん、このような少人数で十二万人以上もの食料を確保しようなどとは考えていない。まず侵攻地域の状態、食料などの保管状況などを自分の目で確かめようとしたのだ。そのなかで食料の捜索の仕方や下処理の仕方、保管の仕方などを、チームの兵士たちに教育していき、そのうえで彼らを軍団に戻す。そして今度は彼らが中心になり、各軍団ごとに割り当てた区域で自力で食料を確保できるようにさせようと考えたのだ。
智勲少佐が真っ先に向かったのは、山辺里大橋から六百メートル南の大型スーパー「MUSCO」だった。地上五階建ての白い建物に赤い「М」のマークを描いた広告塔は遠くからでも確認できた。売場面積三千八百坪ほどで、人口五万人程度の地方都市にありがちな中型クラスの店舗だった。
智勲少佐はエルフの屋根を叩くと、運転手に正面入り口ではなく、生垣で隠された裏側の業務用搬入口につけるよう指示した。人を荷台に乗せているのにもかかわらず、エルフはロールしながら急角度に方向を変えると、スロープをくだり、半地下式になった搬入口へと侵入する。キャンター、デュトロもそれに続く。
搬入口は鉄道駅のプラットフォームのような形状の段になっていて、入り口は柱で二つに仕切られ、それぞれに頑丈なシャッターが下ろされていた。
荷台から飛び降りた智勲少佐は、右側のシャッターに歩み寄ると、しばらくそこにしゃがみ込み、そのカギの形状を観察する。ここで八十八式歩兵銃を確保していたことが生きる。部下に声をかけて、八十八式歩兵銃を受け取ると、軽く数発連射し、カギを吹き飛ばした。
それにならって東健上佐がほかのシャッターに向けて八十八式歩兵銃を撃とうとすると、智勲少佐はそれを制止する。自ら、右側のシャッターを上げて中に入ると、隣のシャッターのカギを内側から銃床で破壊した。貴重な銃弾を節約したかったようだ。
シャッターを上げると、段ボール入りの野菜が高く積み込まれたカートが何台もそのまま放置されていた。恐らく荷卸しの最中に、従業員に避難命令が伝わったのだろう。
ためしにそばの段ボールを開けてみると、中に入っていたトマトは新鮮そのもので、まだ少し青いものもあった。中から赤いものを選んで右手で一つを掴むとそれをほおばり、左手で持ったもう一個を東健上佐の方に放る。
「敵の一鐘を食むは、わが二十鐘に当たり、きかん一石は、我が二十石に当たる」
トマトを受け取った東健上佐が上機嫌で言った。
孫子の一節だが、博学なところを部下にひけらかしたかったのだろう。
ごもっとも、とでもいうように智勲少佐は微笑みながら頷いた。
膨大なモノが有り余るこの国の、地方のスーパー一つを略奪したところで、相手の痛手は毛ほどもないだろう。ただ、これによって高句麗軍が食いつなぎ生きながらえることが、相手にとって不利益になることだけは間違いない。
智勲少佐は部下を引き連れ、さらに奥へと進んでいく。
照明は失われているが、あちこちから差し込む自然光で結構、明るい。
地下に設置された食品貯蔵庫に行くと、一番奥の冷凍庫を目指す。冷凍庫には頑丈な扉がついていたがカギはかかっていなかった。中に入ると、さすがに真っ暗だった。智勲少佐は胸のポケットからジッポのオイルライターを取り出し、火をつける。すると、そこには白く凍った冷凍マグロをはじめ多数の魚介類、肉類がところ狭しと置かれていた。智勲少佐はそれを一つひとつ点検していく。侵攻地域は電気の供給がストップしていたが、冷凍庫の断熱材のおかげでまだ凍っていた。しかし、電源が失われたことでもうそれほど長く保存しておけないことは明らかだった。
智勲少佐は部下を冷凍庫に呼び集めた。ドアを全開にし、少し光が入るようにしたうえで、冷凍庫に収めてあったマグロ、サケ、サバ、牛肉を床に並べた。そしてそられをどのような順番で消費していくかや、保存のための下処理などをこと細かく説明した。彼にそんな知識があるのは、高句麗国内で飲食業に従事していたうえに、中国に出稼ぎに行き、大型スーパーで働いた経験があったからだ。そんな食料管理の技能を見込まれ、司令部直属の補給担当に抜擢されていたのだ。家柄が幅を利かせ情実がはびこる高句麗にあっては考えられないほどの適材適所の合理的な人事と言えたが、それは軍みずからの命をつなぐための重要な部署だったからにほかならない。
自分たちの生存に直接かかわっているため、智勲少佐の説明を聞く兵士たちの態度は真剣そのものだった。
小柄で浅黒い李泰圭もそんな兵士の一人だった。彼は選抜されなかったにもかかわらず、智勲少佐が選抜部隊の指揮を執っているのを見ると、食料を確保しに行くのだと悟り、部隊を勝手に離れるとチームに潜り込んだ。それは決して自分が食べるためではなかった。食料を握ることこそがこの混乱した状況の中で自分がのし上がっていくための手段だと判断したからだった。
智勲少佐は、部下たちに物資の積み込みを命じると、東健上佐のもとへやってきた。
「上佐、恐らく鉄道沿いに穀物貯蔵庫があると思うんです。それをできるだけ多く確保しておきたいのですが……」
「相当な人員が必要だということだな。わかった。朴光植大佐に進言してみる」
三
十一日午前九時ごろ、東京・市ヶ谷の中央指揮所では、武立首相をはじめとする安全保障会議のメンバーと統合幕僚監部の幕僚が戦況分析を続けていた。
「村上市近郊に上陸した高句麗兵力は約十万。なおも増強が続いており、最終的には十二、三万人に達する見通しです。現在、沿岸部の瀬波温泉街を占拠し、隊列を整えているところだと思われますが、順次、二キロ東の市中心部に移動するものと見られます」
おりしも正面の超大型モニター横に、統合幕僚監部運用部の運用第一課長・杉村秀一・一等空佐が立ち、現在の戦況について報告を始めていた。
モニターには中部日本の地図が映し出されている。
「今後、予測される敵の進路は……」と杉村一佐が言い、指し棒でモニターに触れると、村上市付近から南下する矢印が伸びて行き、新潟市の辺りで二つに分かれ、かなり太い方の矢印が東へ伸び、細いもう一方はそのまま日本海沿いに南へと伸びていく。
「敵本隊は阿賀野川沿いに東へと向かい、会津盆地を経て首都圏を窺うものと見られます。残るもう一隊は日本海沿いに南下を続け柏崎刈羽原発の占領を目指すものと見られます」
その説明を、メンバーのほとんどが空しい思いで聞いていた。本来なら簡単に阻止できたはずだった。高句麗軍は、溺れかけた老人も同然だった。少し頭を押さえておけば、それでかたがついた。今頃は事後処理をしていただろう。ところが、その非情さがなかったために、十万人もの兵を無傷で上陸させてしまったのだ。これは相手側にとっても想定外の事態に違いない。今、事態が膠着しているのは高句麗にとってあまりにうまくことが運びすぎ、次に打つ手が思いつかないからにほかならない。
「韓国は何と?」
首相からみて左手二人目に座る国土交通大臣・重原武雄が尋ねた。水を得た魚という様子で、質問はもっぱら彼がしている。党内きってのタカ派として鳴らし、かつて防衛大臣を努めた経験もあった。防衛大臣・井草大蔵はというと、高句麗軍の上陸を許したことに責任を感じているのか、じっと俯き、押し黙ったままだった。
「高句麗国内の配備に変化はなく、警戒レベルも通常通りだということです」
「おかしいじゃないか、どういうことだ?」
「詳しい分析を待たなければなりませんが、今回、派遣されたのは既存の軍団ではなく、新たに編成されたものではないかと思われます。ご承知の通り、高句麗には、労農赤衛隊、矯導隊、青年近衛隊という民兵組織があり、農民や工場労働者、学生などに対しても常時軍事訓練を行っています。今回それらの組織の中から必要な人員を選抜したのではないかと思われます」
「軍を派遣すれば済むだろう。どうしてわざわざ新たな軍を編成する必要がある?」
「はぁ。これは単なる推測ですが、彼らにすれば派遣が成功するかどうかは賭けだったわけですから、たとえ全滅したとしても、自国を防衛している戦力は一兵たりとも減らないようにしようとしたのではないでしょうか」
「なるほど、そういうことか……」
そんなやりとりを官房長官の黒野須圭人は眺めながら、一見、真剣そうに見える議論は、どこか緊張感に欠けていると感じていた。
武立がすべての責任を負うと宣言したのをいいことに、すべてを彼女に委ねてしまい、ここにいる自分を含めた閣僚たち、いや幕僚も含めた全員が、本来みずからが背負うべき重要な責務から逃れていたからだ。
そしてそこに、仙人のような男が現れた。
身長は百九十センチ近くあるものの痩せていて、頭頂まで後退した縮れ髪を肩まで伸ばし、口元には薄いひげを根気強く伸ばしていた。オリーブドラブのポロシャツに、クリーム色の綿パンというラフな姿だった。臨時の入館証を首から下げ、右手で黄色いファイルを鷲づかみにしている。
黒野須は幕僚たちを見渡していて、目が合った鵜飼運用部長を自分の席に呼び寄せた。
「いったい何者なんだ?」
「実は私と同期の男でして……。私が紹介させていただきました」
黒野須の脇に腰を落とした鵜飼は彼の横に座る武立の方に一瞬、目をやる。武立はちらりと鵜飼の方に視線を向けるが、またすぐに正面に戻すと目を閉じた。
鵜飼の様子を見ていた黒野須の目に、離れた席の萩島統合幕僚長が苦々しい表情を浮かべているのが映る。それで勘が働く。
「何か問題でも起こしたのか?」
「いいえ。体を壊して退官したんです。いまは民間軍事会社のアドバイザーのようなことをしています」
黒野須が頷くと、鵜飼は身をかがめたまま自分の席へと戻っていく。
長身の男はスクリーンの前に歩み出た。
「はじめまして。久留遠反馬と申します。それではご説明に入りたいと思います」
冴えない容姿とはそぐわない、低く艶のあるバリトンのような声質だった。一度、耳にすると、今度はいつそれが聴こえてくるのかと気になる声である。
第三護衛隊群が高句麗軍と接触したのが午前五時三十分ごろだったので、久留遠は依頼を受けてから、三時間ほどで作戦を作り上げたことになる。
「武立首相から頂きましたご指示は、敵にも味方にもいっさいの犠牲者を出さないことを方針として対処案を作れとのことでした。誠に懸命なご判断だと感服仕り、そういう視点から必要な手立てを考えてまいりました」
そう言うと久留遠は、武立に目を遣る。彼女はしっかりと目をとじたまま何の反応も見せない。
「敵はあまり武器を持っているようには見えなかったが……」
国家公安委員長の鳥井が口を挟んだ。彼は行き掛かり上、武立に同意したものの、心の底から納得してはいなかったのだろう。
「臆病者だけが武器のないものを恐れる」
国交大臣の重原も同調し、少し意味ありげなことに言った。
「ほう。どこかで聞いたセリフですね。確かジークリンデの言葉でしたね。あれは武人ならだれもが観る劇ですよ」
久留遠は軽くいなした。が、少し説明をする必要を感じたのだろう。そこで間を置き、会場を見渡す。
「たとえば、敵の大半は投降の意思があるものの、一部は徹底抗戦の構えだという状況を想像してみてください。これはかなり楽観的な想定といえますよね。でも、要求される手続き、技術はとても複雑です。戦う意志のない相手を武装解除するだけでも、安全に行うためには特別な訓練が必要なんですよ。そんな訓練はやっていないでしょう。そんな準備もしていない状態で戦闘を始めようものなら、双方に相当な犠牲がでてしまいますよ。戦闘も長引き、完全な終結までには……、そうですねぇ、六年はかかるでしょうね」
そこで久留遠は言葉を切り、六年という時間の重みが会場の全員に浸透するのを待った。
「相手はこの時間を利用することができる。弱体化してしまった支配体制を修復できる。紛争が完全に終わった時点では、始めたときより支配体制は安定した状態になっている。つまり、たとえこちらが一兵残らず相手を殲滅したとしても、勝負は相手の勝ちということです」
「時間をかけず、短期間で終結させたらどうだ。それなら相手に時間的余裕を与えなくて済むだろう」
そう言ったのは鳥井だった。
「時間をかけて戦闘しようという者などどこにもいませんよ。戦闘とはいつでも可能なかぎり短期間で終結させようと始めるものなんです。それでもそうならないのが戦闘というものです」
久留遠はそう言って笑った。
「領海内に侵入された時点で、もう戦うという選択肢はなかったのです。戦端を開いた時点で負けです。だから、戦わないということです。いかにすれば戦わないで、この事態を収拾できるか。そういう視点から必要な手立てを考えていくのです。私の考えでは、そうですねぇ……、恐らくこの事態は一カ月もあれば収拾することができると思います。あとには何のしこりも残りません」
久留遠は、まるでヤジロベエか何かのように両腕をななめ下に向かって広げて手のひらを見せた。そして、にっこりと微笑む。
会場は沈黙したままだ。
「戦えば六年。戦わなければ一カ月。六年と一カ月。よく比べてみてください。六年後に解決したとしてその間、放置されていた電気、水道、ガス、鉄道、道路といった社会資本はどうなっているでしょうか。それを元通りにするためにどれほどの費用と時間がかかるか、想像もできないでしょう。しかし、一カ月ならどうですか? 復旧までに、もう一カ月もあれば十分でしょう。ひょっとすると今年の米の収穫にもそれほど影響がないかもしれませんよね」
会場の何人かはつばを飲み込むような仕草をした。そんなことが本当に可能なのか、先を聞きたくなったのだろう。
「具体的な作戦の説明に入ってよろしいですか?」
久留遠が念押しをするように会場の全員に尋ねる。
やがて、多くの者が眉間に皺を寄せたままゆっくりと視線を落としていく。それは頷きの合図だった。
「では、始めましょう。作戦名は『豊葦原の奔流』としました。元来、作戦名というものはその舞台となる地形・風土を表すものです。いまのこの現状を、この国の歴史が始まったころの、開闢のときのカオスに見立て、大きな水の流れがすべての混乱を洗い流し、瑞穂の茂る美しい土地へと姿を整えていくことを目指していきます」
そう言うと久留遠は後方の係員に頷いて合図を送り、画面の表示を変えさせた。
大型モニターの地図が村上市に焦点をあてたまま拡大されていく。
「まずわが方の被害を最小限に食い止めるために、高句麗軍を可能な限り狭い範囲に封じ込めなければなりません。しかし、そのための緩衝帯やバリケードをつくる装備と人員を集めるには、今しばらく時間が必要です。そこで高句麗軍の進軍速度を遅らせ、時間を稼ぐための第一段階の作戦として、『羽衣作戦』を実施していきます。高句麗軍の最前線から約一キロ後方の地点に集中的に滞留促進要員を投入していきます。この投入地点を作戦ではホット・スポットと呼ぶことにします。わが方の滞留促進要員が集中的に集まることで、要員同士の身の安全をはかるとともに、高句麗兵をそこに滞留させ、高句麗兵の行動を一定のコントロール下におくのです」
「その滞留促進要員とは何だ? いったい何をするんだ? 戦うのか?」
ここでも質問役は重原が買って出ていた。
「戦いません」
「そんな敵の真ん中に投入すれば戦わざるを得なくなるだろう」
「そうはなりません」
「なるに決まっている」
「なりません」
「どうしてだ?」
「女性だからです」
「何だと?」
「滞留促進要員はすべて女性です」
その場にいた全員が唖然とした表情を浮かべていた。
「君は紛争地域に女性を投入するというのか?」
「そんなバカなことが許されると思うのか!」
閣僚達が口々に発言し始め、騒然となる。しかし、久留遠は一向に動じない。
「武器を交えず、戦わないのであれば、それはもう紛争とは呼べないでしょう。当然、その場所も紛争地域ではない。だからそこに女性を投入したとしても何ら問題にはならないのです」
久留遠は平然と言ってのけた。
会場はざわついていて、収まりそうもない。
(『どんなに常識外れで社会道徳や法秩序に反していようとも』というのはこういうことだったのか)
黒野須は武立の反応を見ようと、彼女に目を遣る。当然、作戦の内容は承知しているのだろうが、目をつぶったまま何の反応も見せない。
やがて根負けしたように重原が、作戦についての質問に戻る。
「なんで一キロ後方なんだ?」
「まず、最前線の高句麗兵士は極度の興奮状態にあります。戦うことに全神経が集中しており、そこに要員を投入しても、効果がないばかりか、生命を脅かされる危険があります。ところが一キロ後方では、緊張状態であるとはいえ、進軍しているだけです。前方には友軍の長い列が続いており、危険性はあまり感じないでしょう。単調な行軍による疲労で厭戦気分に陥りやすい状態です。そこに空から女性が舞い降りてくればどうでしょう。十分効果が望めるはずです。さらにその距離からだと最前線にも情報が届きます。つまり『後方では何かいいことがありそうだ』と。そうなると後方に戻りだす兵士も出てくることも考えられます」
「しかし、逆に火に油を注ぐことにならないかね。そのぉ、何というか、高句麗兵の動物的な本能を呼び起こすことになってしまって……」と鳥井が尋ねた。
「おっしゃる意味はわかります。何人もの高句麗兵に対し、滞留促進要員が一人という状態では、一人をめぐって奪い合いが起こり、その結果、傷つけられるという事態も起こるでしょう。確かに滞留促進要員と高句麗兵の比率は一対十ですが、これはあくまでもトータルで見た場合の数字です。実際の現場では、この比率は逆転するのです。なぜなら高句麗兵は広範囲に広がっていますが、滞留促進要員は狭い範囲に集中的に投入されるからです。一人の高句麗兵に対して二人、三人と滞留促進要員が舞い降りてくるわけです。これにより滞留促進要員の安全も保たれると考えます。もちろん、すぐに周りの高句麗兵が集まってくるのですが、それに対しては滞留促進要員を取り巻く高句麗兵自体が防壁となるでしょう」
「それで投入する女性の数はどれくらいを想定しているんだ?」と重原が尋ねる。
「一万人規模になります」
久留遠の回答に会場がざわついた。声を上げているのは主に閣僚たちだった。
「なんで一万人なんだ。そんなに必要なのか?」と重原。
「あまり少なくては一部の兵だけにしか影響を与えられず、高句麗軍全体の動き変えることができません。すべての兵が『自分もチャンスが得られるのではないか』と思えるだけの数を投入してこそ、混乱を引き起こすことができると考えます」
「それを全部、空中から投入しようというのか?」
「はい」と久留遠。
「無理だ! C―1で運べるのはたかだか四十五名ぐらいだろ。そのC―1すら何機もあるわけじゃない」
すかさず重原が言い放つ。さすがに防衛大臣経験者とあって自衛隊の装備については他の閣僚たちより詳しかった。
「だからオーストラリアやカナダみたいにC―17を導入しておけば良かったんだ! イギリスみたいにリース契約という方法もあったのに!」
そんな重原の指摘に、現役の防衛大臣である井草は顔を歪めた。
輸送機を巡っては自衛隊には苦い思い出があった。二〇〇五年十月、パキスタンで発生した大地震の救援に向かう際、航空自衛隊のC―130Hでは陸上自衛隊の主力ヘリUH―60Jを搭載することができず、旧式で非力なUH―1Jを持っていかざるを得なかったのだ。それから六年以上が経ったが事態は何ひとつ変わっていなかった。二〇一一年の福島第一原発事故の際、高圧放水砲システムを輸送したのは、米軍やオーストラリア軍のC―17だった。日本にはそれを運べる機体は存在しなかったのだ。航空機産業を育成するという名の下に、次期輸送機C―Xの独自開発に時間と血税を浪費していたからだ。武器輸出三原則によって輸出ができず、割高になるだけの独自開発に拘る意味がどこにあるのか。しかも独自開発といいながら、エンジンは最初から国産化をあきらめ、開発は機体だけに過ぎない。それでどんな技術を培おうと、その先に未来がないのは赤子でもわかる道理だった。
C―17はボーイング社(旧マクドネル・ダクラス)のグローブマスター3と呼ばれる大型長距離輸送機で、一九九三年から配備が始まり、すでに十分な実績があった。四基のターボファンエンジンを備え、未舗装の三〇〇〇フィート滑走路(九一四メートル)で離着陸が可能で二十五メートル幅での転回機能を持つ。最大積載量七十七トンを誇り、アメリカ陸軍で使用されるすべてのタイプの装甲戦闘車両と航空機を搭載することが可能だった。フル装備の空挺兵なら一度に一〇二名を運ぶことができる。そのC―17も軍用機とあって生産機数は少なく、早く注文を出さないと生産ライン自体がなくなってしまう恐れがあるのだ。
しかし、C―17がどれほど有用でも、一度、国産C―Xの開発というレールが引かれ、それにしがみついている膨大な数の人間が存在してしまっている以上、一大臣の力でとても変えられることではないのである。
ましてその責任を就任してまだ一年足らずの井草に問うのは酷というものだ。むしろ責任というならば、二年以上も防衛大臣の職にありながら何の手立てもとらなかった重原の方が重いというべきだろうと、黒野須は思った。
それにしても井草はよく耐えていると黒野須は感心した。いくら護衛隊群の失態があったとはいえ、武立には自分の頭越しに作戦の立案と実行を進められ、今また自分がまったく関与していない過去の輸送機選定の責任まで押し付けられているのだから……。
頃合いを見計らって、久留遠は説明を再開する。
「ご指摘のとおり、空中から人員を投入できる自衛隊の輸送機はC―1とC―130Hの二機種です。今回の滞留促進要員は、フル装備の空挺隊員のような重装備ではありませんが、メインパラシュートとともに、もしもの場合に備えてリザーブパラシュートを装着しますのでやはりかさ張ります。一人ひとりの占有スペースは空挺隊員とそれほど違わないでしょう。C―1はターボファンエンジンの双発機ですが、フル装備の空挺隊員が一度に搭乗できるのは四十五名です。C―130Hはターボプロップの四発機で一度に搭乗できる空挺隊員は六十四名です。保有機数は全基地合わせてC―1が二十五機、C―130Hが十六機ですから、すべてを動員したとして一回の飛行で投入できるのは二一四九名です。実際には修理点検中の機体もありますから、この通りにはいかないでしょうが、少なくとも五回の飛行を繰り返せば一万人ちかくを投入できるという計算にはなります」
そう言うと久留遠は閣僚たちの後ろにいた大型画面のオペレーターに合図を送り、画面の方に向き直った。画面の表示が日本列島全体の表示に変わり、そこに航空自衛隊の基地の所在が表示される。
久留遠は指示棒を使い、輸送機の配備状況と、今後の運用方法を説明していく。
「現在、C―1は二十五機が埼玉県の入間と広島県の美保の両基地に配備され、C―130Hは全十六機が愛知県の小牧基地に配備されています。いずれも各基地間の人員や物資の移動のための定期便などに使用されているのですが、現在、これらの通常業務をすべて中止していただき、小牧基地のC―130Hを宮城県の松島基地へ、美保基地のC―1を茨城県の百里基地へ、それぞれ整備要員、交換部品を含めて前方展開していただいているところです。新潟県の作戦区域への直線距離は、入間で約二百二十キロ、百里で約二百キロ、松島で約百八十五キロとなります。巡航速度はC―130Hが時速五百五十キロ、C―1が時速六百五十キロですので、いずれの基地からも片道二十分程度で到達可能となります。これに整備・補給の時間を考慮しても一往復に要する時間はせいぜい八十分程度と考えられます。したがって作戦開始から六時間四十分もあれば、所期の目標である一万人の投入が可能となります」
ようやく重原も納得したかのようだった。
「自衛隊はバリケードの構築と、滞留促進要員の投入しかやらないのか?」
そう言う重原は、毎年、何兆円もの予算を投入し、数々の装備を整えてきたのにそれでは割に合わないだろうとでも思っているのかもしれない。
「とんでもない。滞留促進要員の安全確保と必要物資の供給などの支援活動があります。そして何よりも大きな仕事として……」
そこで間をあけ、どこか意地の悪そうな意味ありげな表情を浮かべると久留遠は言った。
「すぐに高句麗兵十三万人を収容できる仮設収容所の建設に取りかかります」
「えっ」
会場がざわつき、閣僚の全員が顔をあげた。
高句麗の進軍が止まっていない段階でそれは少し気が早いのではないかと黒野須は思った。
久留遠は会場のリアクションにまったく関心を示さず、どこにも不自然さはないといった表情を浮かべながら説明を続ける。
「場所は、胎内市と村上市とのちょうど境目。ここです。新日本海カントリークラブです」
指示棒を使い、胎内市の北端の日本海に面した一帯を地図上で示した。
「それは今後の敵の進軍方向やスピードによっては変わってくるのでは」と鳥井が疑問をさしはさむ。
「うーん。それはどうでしょう。あまり考えなくていいでしょう。それより順次、収容していくことになりますから今から着手しておかないと、とても間に合わなくなる危険があります」
久留遠の見通しが正しいのかどうか黒野須には判断がつかなかったが、彼がこの計画に並々ならぬ自信を持っていることだけは理解できた。
「それにしても女性とは……」
黒野須は頭を抱え込んだ。
第三章 舞い降りる天使
一
晴れ渡った空を航空自衛隊第四〇二飛行隊のC―1輸送機の十五機の編隊が飛行していた。高度は三〇〇〇メートル。五機ずつの三つのグループが、先の尖った逆V字形に並び、さらにそれぞれのグループ内の五機も逆V字隊形を組んでいる。
編隊は約二十分前に埼玉県の入間基地を飛び立ち、ほとんど真北に向かって飛行してきた。
標高二五七四メートルの日光白根山のほぼ真上を通り、日本の脊梁、奥羽山脈の南端をかすめながら、三国山脈を越え、越後山脈の東側に沿うようにして飯豊山地に差し掛かろうとしている。山の中腹を覆う残雪がまぶしい。
時刻は午後四時半になろうとしていた。太陽はやや傾きかけ、編隊の左側面に強烈な光を投げかけている。しかし、日没まではまだ二時間以上もあった。
どの機も滞留促進要員の女性四十人を載せている。
C―1の貨物室は旅客機と同じように与圧はされていたが、装備は貧弱で、あちこちに構造材やケーブルが露出している。座席はジャンプシートと呼ばれる空挺隊員用のもので、パラシュートと重装備を背負ったまま座れるよう、場所を取らない簡略化した設計となっていた。両サイドの内壁から突き出ている座面はパイプの上にわずかなクッションを乗せただけのもので、背もたれは細いベルトを組み合わせただけのものである。
女性らは全員が透明のゴーグルをつけ、素肌の上に直接パラシュートだけを背負っている。左手首には白いプラスティックのバンドをつけていた。
肌寒さと恐怖から、しきりにカチカチと歯を鳴らしている女性もいたが、大半の女性は押し黙り、双発ジェットエンジンの規則正しい振動に身を委ねていた。目的地に近づくにつれて大きくなってくる不安を誰もが抑え込もうとしていたが、時折、気流の乱れで不規則に揺れると、「きゃっ」と小さな悲鳴が漏れる。
「はい! こちらに注目してください」
電気的に増幅された声が、女性たちの思考を中断させた。一斉に声のする方を向く。
機種方向の中央に、キャップを被った迷彩服姿の女性がエンジンの騒音にかき消されないように右手に青いハンドマイクを持っていた。
「朝霞駐屯地から参りました、飛鳥京子と申します」
一七〇センチ近くの大柄な体格の女性隊員が、キャップをとり、ぺこりと頭を下げる。
顔を上げると、広く丸い額の下にぱっちりと丸い目が光り、上を向いた丸い鼻と捲れ上がった上唇が少しコケティッシュな印象を与えている。
朝霞の東部方面後方支援隊の所属の一等陸曹だが、戦闘糧食についての知識や経験を買われ、滞留促進要員の支援を担当する役目を任されていた。
京子は左手に小さく折りたたんだ白い紙を持っていて、それに説明すべき項目がメモしてあるのか、チラッと一瞥する。
「もう、気づいた方もいらっしゃると思いますが、みなさんの中にリストバンドを付けた方がいらっしゃいますね」
その言葉をきっかけに女性たちが自分たちの列を見渡す。
列には四人おきに、リストバンドを付けた女性が混じっていた。リストバンドは白一色のもの、白と赤のもの、白と赤と青の三色のものと様々だった。
「あらかじめ班長をしていただく方にお渡ししておきました。みなさんは班長さんのもとに五人ずつの班をつくっていただき、助け合って行動していただきたいのです」
女性たちは、それを肝に銘じるかのように何度も頷いていた。
だが進行方向右側の列の中ほどに座っていた北熊由美は、別のことに注意が向いてしまう。
「やっぱり……」
由美の注意が向かったのは並んだ女性たちの年齢だった。自分が最年長だと気づき、由美は少しがっかりした。
自分のような年配の者が、娘といっていいほどの若くてピチピチとした女性たちとともに裸で並んでいる。それが恥ずかしくてたまらなかったのだ。
まるで真新しい新鮮な野菜の中に、賞味期限切れの野菜を忍ばせているみたいだ……。
そこまで考えると、召集の場となった布栗の店頭の記憶が蘇ってくる。
いつも由美に親切に応対してくれた布栗は、「力になれることはないか」と優しく声をかけてくれた。もう彼は、あのトマトを自宅に届けてくれたのだろうか。それを見たら、果たして夫と息子はどんな思いをするだろうか……。
そのときだった。突然、由美の体がビクンと反応する。だれかが由美の右手を握ったのだ。
それは右隣の若い女性だった。
二十歳そこそこに見えるその女性は肌がとても白い。少し茶色味を帯びた髪をショートカットにしていて、目の下にうっすらとソバカスがあった。不安げに俯いていて、自分が由美の手を無意識に握っていることさえ気づいてないようだった。
由美は、彼女にかける言葉が見当たらず、そのまま握らせておくしかなかった。
「さて、これからまもなく当機は新潟は村上市の上空に差し掛かります」
京子の口ぶりはまるでキャビン・アテンダントのようだったが、次のセリフに女性たちは凍りつく。
「そこからみなさんには、パラシュートを使って降下していただきます」
搭乗前に手順を説明されていたものの、こうして逃げ場のない機上でそのことを説明されると、パラシュート降下という、とてつもない難題が現実感を持って迫ってくるのだった。
「基地内で説明された手順通りにしていただければ何も心配はいりません。万が一、みなさんが空中で気を失われた場合でも、AAD(Automatic Activation Device)という自動開傘装置がついています。今回の作戦では、地上五八〇メートルに達した時点で、降下スピードが秒速三十五メートルを超えている場合、自動的に予備のリザーブ・パラシュートが開く設定になっています」
その京子の説明で、女性たちの間に少し安堵の表情が広がり、運動神経のあまりよくない由美もホッとため息をついた。
通常の降下作戦では、空挺隊員は二〇〇~三〇〇メートルほどの低空から降下する。それはできるだけ敵に見つからないようにするのと同時に、攻撃に対して無防備な降下時間をできるだけ短くするためである。そのため飛行機の機体と隊員たちのパラシュートのリップコードが繋がれていて、機外に飛び出すと同時にコードがはずれ、四秒で自動的に開傘する仕組みとなっている。しかし、この方法だと万が一の場合の時間的余裕が極めて少ない。四秒経過した時点でメインのパラシュートが開かなかった場合、すぐにリザーブ・パラシュートを開かなければならないのだ。それ以上、時間が経過すると間に合わなくなる危険性がある。高度な技能が必要なため、空挺隊員は普段から厳しい訓練を重ねている。
しかし、今回の作戦は通常の降下作戦のような隠密性は必要としない。むしろ敵を呼び寄せ、滞留させることが目的である。降下していることを敵に知らせることが必要になるので、三〇〇〇メートルの高高度からの降下方式が採用されたのである。これによってメインパラシュートに問題が発生した場合に、リザーブ・パラシュートを開く時間的余裕を確保することができた。さらに降下技術のない女性たちが、可能な限り着陸予定地点に近づくために、一分間の自由落下の後、開傘するという方式が採用されていた。上空高くで開傘すると、風で大きく流されてしまう危険があるのだ。
空挺隊員は六十キロ~八十キロもの重装備をつけ、短時間で降下をするため、フランス製696MIという丸いマッシュルーム型のものを使う。空気を含んだキャノピーと呼ばれる部分がつぶれにくいが、操作はしにくく、落下時の衝撃も大きい。今回の作戦では女性たちは自分の身一つで降下するのでスポーツパラシュートと同じ長方形のアメリカ製MC―4が選ばれた。操作性がよく、前方に滑空するようにして着地するので衝撃を少なくすることができる。しかし、一万人分ものストックはないため、今この瞬間も、米軍から融通してもらったり、同等の性能を持つ民間のスポーツ用パラシュートをかき集めたりしているところだった。
「そして、後ろをご覧ください」
京子の言葉に、女性たちが一斉に後ろを振り返る。それぞれが背負ったパラシュート装備が背もたれのベルトと擦れ、大きな音になった。
機内後部に屈んでいた、四人の兵士が立ち上がる。キャビンの幅が狭いため、横一列になれず凹凸のある並び方をしていた。
四人は迷彩服姿で、薄い灰色のヘルメットを被っていたが、その形状が他の搭乗員たちとは異なっている。やや小ぶりで、アニメのキャラクターのような流線型をしていた。彼らの左脇からは、何やら黒いパイプのようなものが突出し、その先端が鈍く光っている。それは背中に背負っている八十九式小銃がのぞいているのだった。いずれもが身長一八〇センチを超え、太い腕と厚い胸板の鍛えられた体をしているのだが、軍服の上からではよく確認できない。
「万が一の場合に備えくれる第一空挺団の降下誘導小隊のみなさんです。彼らも一緒に降下します」
その紹介を合図に、四人は女性たちにペコリと頭を下げたが、目のやり場に困ったのか、そのまま俯いてしまう。
四人はそれぞれが十人を受け持ち、女性たちの後から降下し、彼女たちのパラシュートに問題があれば空中を移動しすぐにサポートに向かうことになっていた。そのため最後のぎりぎりの瞬間までパラシュートを開かない高高度自由落下低高度開傘(HALO=High Altitude Low Opening)をすることになっていた。
「大丈夫か?」
機首に向かって右端にいた降下誘導小隊の工藤穣太郎・二等陸曹は、自分の前に立っている同僚を黒いグローブをはめた手で軽く小突いた。固まったまま微動だにしなかったので、柄にもなく緊張しているのかと気になった。
「……あ、ああ」
ようやく、我に返ったかのようだ。
右から二人目にいたその男は、原田秀人といった。同じ二十九歳の二等陸曹で、工藤とはよきライバルだった。スポーツ選手にもひけをとらない抜群の運動能力を持っている。一八〇センチを超える屈強な体のうえに、鷲鼻で頬がこけていて、大きく頑丈な咀嚼器を備えた凶暴な風貌をしていた。
そいえばコイツは誰かを見ているようだったな。
「だれか知ってる女性でもいたのか?」
「いや。集中だ! 任務に集中しよう」
どうやら原田は工藤の質問に答えるつもりはないようだ。
機内では京子の説明はなおも続いていた。
「こちらが見えますか?」と、京子は縦が三十センチ、横が二十センチほどの分厚いビニール製の袋を持ち上げた。薄茶色のその袋には大きく「Meal」との文字が見える。
「これはMRE。ミール・レディー・トゥ・イート(Meal Ready to eat)といいまして、みなさんの当面の食事となるものです。米軍で使用されているもので、種類も豊富で、水を少し入れるだけで熱を発生するヒーターやデザートなんかも入っています。味はあまりいいとはいえませんが……」
付け加えた一言で、女性たちからドッと笑いが起こる。
「なぜ、これを使うかというと、缶詰などと違い高句麗の人たちには食べ物に見えにくく、奪われることが少ないと思われるからです。降下ポイント周辺に投下しておきますので、見つけたら大事に取っておいてください。先のことも考えていくつか隠しておけばいいと思います。いずれ温かい食事が提供できるようにしますが、それまではどうかこのMREで辛抱してください」
説明が終わると、MREの袋を右と左のそれぞれの列の先頭に渡し、現物を確認させていく。中身が確認できるよう、袋はすでに開封されていた。たちまち女性たちの間から話し声が漏れ始めた。
その間を使って京子は小さく折りたたんだ左手のメモを親指の先で追う。説明項目も残りわずかとなってきているようだ。
「さて、これから地上に降りますと、高句麗兵が襲いかかってくると思います。しかし、くれぐれも無理に抵抗したりしないでください。傷を負わされたりする危険があります。どうか自分の身を守ることを第一に考え、身を委ねてください。みなさんの体にはあらかじめジェルを塗っておいて頂きます。二十分ほどで肌に吸収されてしまうでしょうが、最初の衝撃から身を守る助けにはなると思います」
京子は自分がその身になれば耐えらないようなことを冷静を装い説明していた。心の中では申し訳なく思っていたのだが、表情には決して出さなかった。
説明が終わると、各列の先頭から、いくつものジェルの瓶がバケツリレーのようにして配られた。女性たちはキャップを開け、それを体に塗った。ジェルはすぐに肌から吸収されたが、一定量を超えると肌に滞留し、彼女たちの体をテカテカと輝かせ始めた。機内の薄暗いランプに照らされ、自分の体が妖しい輝きを放つことを恥ずかしがった女性たちから笑い声が漏れる。
「みなさん方の目的は、我が国への被害を最小限にするため、彼らをできるだけ同じ場所に引き留め、侵攻を遅らせることにあります。これから一ヵ月後、遅くとも一ヵ月半後には国連平和維持軍が到着するはずです。そうなれば、高句麗兵は一兵残らず武装解除、拘束され、収容所に送られることになるでしょう。それまでの期間の辛抱です。どうか耐えてください」
説明を続けながら京子は、本当にそんなにうまく事が運ぶのかどうか確信はなかった。国連平和維持軍は本当に組織されるのか。各国に国連に兵力を出す余裕があるのか。大きな負担をして日本に派遣するだけの意味があると考えてくれるのか……。
「作戦終了後は政府から生活していくのに十分な年金が生涯支給されます。この試練を潜り抜け、ぜひ年金を受け取ってください」
それが滞留促進要員への報酬だった。年金の支給は魅力だったのか、女性たちの表情にかすかな希望の光が灯ったように思われた。
話を終えた京子は、機体後方の扉横に立っているロードマスターである見田正規・一等空曹へ、目配せで合図を送る。見田は四十代のがっちりした体格の男で、緑のフライトスーツに身を包み、灰色の航空ヘルメットを被って屈んでいた。人員の安全輸送、貨物の搬入、搬出などの管理業務を取り仕切るのが彼の役目だった。
京子の合図を受けた見田一曹が大声で叫んだ。
「さあ、もうすぐですよ。順番にこちらの方へ進んでください」
その指示で、全員が席から立ち上がり、両方の列の女性たちが見田一曹の方に進んでいく。
見田一曹は女性たちの降下を助けるのが役目だった。女性たちのハーネスを引っ張って確かめ、所定の方法でしっかりと固定されるのを点検し、その背中を押して空中に送り出すのだが、目のやり場に困っていた。できるでけ女性と目線が合わないようにと目線を下げると、今度は女性の足の付け根の辺りが目に飛び込んできてしまう。
やがてけたたましいブザーの音が鳴り、後部の扉が開く。その瞬間、息をするのも困難なほどの嵐のような暴風が機内に押し寄せてきた。それが扉口までやってきていた先頭の女性の恐怖心を煽る。見田が降下を促すが、足を突っ張るようにしたままいっこうに動かない。そのとき、ヘルメットを被っていない彼女の髪が乱れて顔を覆い、それを直そうとした。その一瞬を見逃さず見田はその女性の背中を押す。次にいた女性は突然、目の前にいた人影が消えたことに驚く。今度はその瞬間をとらえて背中を押す。
「ゴー!、ゴー!、ゴー!」と大きな声で叫びながら、見田一曹は女性たちを次々と空中へと押して送り出して行った。
十一日午後四時四十六分。羽衣作戦はついに後戻りのできない最も重要なステージに突入したのであった。
空の下には十万人を超える高句麗軍の兵士が蠢いていた。恐らく彼らはみな若く、劣情を滾らせていることだろう。そこへ女性たちは文字通り体一つで降下していったのだ。あたかも灼熱の地獄へ、舞い降りる天使ように――。
二
「ああああああああ」
由美はあらんかぎりの叫び声をあげたが、その声は誰に届くこともなかった。
凄まじい風切り音が恐怖を煽る。
痛いほどの激しい風に叩かれ、体中の皮膚が波打つ。
ふくよかな部分が吸盤のように変形し、あらぬ所が窪んでいく。
風は、痛みを感じるほど冷たかった。それを感じながらも由美は目が開けられない。
夥しい量の小水を撒きちらしていたが、それは周囲を濡らすとすぐに気化してしまい、後続の女性たちが迷惑することはなかった。
やがて衝撃波のような風に慣れてくると、入間基地でインストラクターに教えられことをやらなくてはと思い至る。
恐る恐る両手を広げ、両足を開いていく。
顎をあげ、臍の辺りを前に突き出すようにする。
膝を後ろに反らす。反らせ過ぎて、一瞬、体が逆さになりそうになりひやりとする。
少し慌てたものの、上体を反らすと再び平衡状態に落ち着いた。
しかし、まだ目はつむったままだ。
やがて速度が一定となる。落ちているという感覚はもうない。重力による加速が、空気抵抗によって阻まれ、終末速度に達したようだ。時速にすれば二百二十キロ前後にはなっているだろう。
自然と由美の目が開いていく。
飛び込んできた光景に、由美は息を呑んだ。
自分のぼやけた鼻以外に何もさえぎるもののない三六〇度の視界が広がっていた。
少し灰色を帯びた薄い水色の空が全天を覆い、それが次第に薄黄色へと滑らかなグラデーションとなって西の海へと続いている。黄金に縁取られた薄い灰色の雲がいくつか浮かんでいて、そのすぐ上に、黄金色の太陽が神々しいまでの輝きを放っていた。それは遥かかなた、反対側の東の山々を照らし出し、木々に深い陰影をつけている。
海は、太陽の光を眩く反射しながら、その中に穏やかな波の影を作っている。
海と大地がこんなにもはっきりと球体となっているなんて。
そこには何一つ、動いているものはない。
由美は今、時間のない世界の真っただ中にいた。
それは対象物までの距離があまりに大きいために起こる錯覚であったのだが、そんな理屈は由美にはどうでもよかった。
由美はいつの間にか自分が笑顔を湛えているのに気づく。
なぜか自分の中にふつふつと力が漲ってくるような気さえしてくる。
さっきまで隣に座っていた女性たちが、自分の前を降下していることで、かろうじて目の前に広がる世界が現実だと理解できる。
女性たちはみな黒いパラシュートを背負っていたが、その姿は甲羅を背負った亀というより、腹足をいっぱいに伸ばしたカタツムリに近かった。
その女性たちへの視線が、どうしてか、自分の意思とは関係なく股間の方へと引き寄せられていく。
何度、意識してそらしても、気が付くとまたそこに目がいってしまう。
これはきっと性別を確かめようとする動物の本能なのに違いない、と由美は思った。
申し訳ない気になったが、すぐに自分も同じように後続の女性に見られているのだと気づき、少し恥ずかしくなる。
すると突然、先に降下していた女性たちが次々と目に止まらぬ速度で舞い上がり、由美の視界から消えていく。
初めて目にする光景に、一瞬、何が起こったのかがわからず焦ってしまう。やがて彼女らがパラシュートを開いたのだと気づく。
自分もそろそろ開かなくてはと、教わった通り、由美は右胸にあるリップコードを引く。
ほんの一瞬の間があり、意表をつくタイミングで、衝撃が襲う。まるで、もとの高度に引き戻されるかのような凄まじい勢いで由美の体が引き上げられる。自由落下を続けていた由美の体に、パラシュートの開傘によって五G近くの強力な制動がかかったのだ。反動で体が浮き上がり、一瞬、無重力状態のようになったかと思うと、今度は頭を上にした姿勢で、下に落とされた。体にかかっていた風圧が格段に弱まり、落下速度が衰えたことがわかる。それもつかの間、すぐに脇の下と両足の付け根にベルトが食い込み、激しい痛みが襲う。
由美の目に涙がにじむ。
見上げると、いくつもの紐が伸びた先に、濃いグレーのパラシュートが開いていた。カバーは黒かったのに中に収まっていたものは、やや色が薄かった。
それは細長い抱き枕を幾つも寄せ集めたような恰好だった。よく見ると一つひとつの枕のようなものは鯉のぼりのようになっていて、前方の口から空気をはらんではためいている。布はきわめて薄い。それが由美には、頼りなく思え、どうか地上まで持ちますようにと祈らずにはいられなかった。
自分のハーネスからライザーというベルトが四本、傘体へと伸びていた。後ろの二本に操作用のC字型のリングがついているのを思い出し、手を伸ばして掴む。これを引っ張ると傘体が変形して制動がかかるのだが、未熟な操作で危険なことにならないよう、できるだけ動かさないようにした。
降下速度が緩やかになると、足下に広がる世界を観察する余裕が生まれてくる。
山々に目をやると、緑のモザイクといった趣だった。
まず人家に近い辺りを杉の人工林の深い緑が覆っている。中腹には桜などのそれより薄い緑が見えていて、ケヤキやブナなどのやや黄緑がかった部分があり、頂上にはミズナラやアカシデなど黄色に近い部分があった。
東側の高い山々を覆っているのは、ほとんどがブナ林であった。関東では、七、八百メートルまで登らなければ見られない木である。冷温帯に属する東北地方に特徴的なのだが、冬の豪雪がそれより低い緯度での生育を可能にしているのだ。今、その山の間には白い霞がかかっていた。
その山々に囲まれ、まっ平らな水田が広がっている。どの田にもすでに水が張られていて鏡のように雲を浮かべた空の様子を映し出している。遠くにある水田は銀色に輝いていてまるでアルミのプレートに覆われた工業施設のようにも見える。
従来、この地域の田植えは五月下旬に行われ、学校も休日になるほどであったが、現在では五月の連休中に済ましてしまうようになっていた。
家々はほんの小さな範囲に固まっていて、瓦屋根が青っぽく見え、西側の一面を白く輝かせていた。
沿岸部の方に目を移すと、上空からも白い砂と砂防林として植えられた松林を確認することができた。砂丘列が発達した日本海側特有の地形となっていた。
今回の作戦の降下ポイントとしてここが選ばれたのは、高句麗軍の侵攻状況ももちろんだが、平らな水田が広がっていて、特に大きな構造物がないということも考慮されていた。これより南になると、広大な松林が広がっていて危険であった。
原田秀人・二等陸曹は両手を軽く広げ、腹をやや突き出し、膝を後ろに曲げたアーチ姿勢をとって自由落下を始めると、右半身を後方に捻って、空中を左横に滑っていき、降下する女性たちの状態を順番にチェックしていた。
すると左下から自分の方に近づいてくる女性の姿があった。初めての降下なのに見よう見まねで移動方法を身につけたらしい。原田の方を見上げると、自分の左手の方を指し、何かを叫んでいる。そちらに目をやると、パラシュートが縺れたまま落下している女性がいた。
原田は右手親指をあげ、「了解した」という意思表示をすると、彼女にリップコードを引いて開傘するように指示した。彼女が頷き、右脇のコードを引くと、彼女の体が目に止まらぬ速度で跳ね上がった。真上で彼女のパラシュートが開いた。それを確認すると、原田は空気抵抗を減らして増速し、問題の女性の方へと近づいていく。
原田があと二十メートルほどに近づいたところで、その女性のメインパラシュートがはずれ、リザーブパラシュートが開いた。今度は正常に機能したようだった。
受け持つ十人のパラシュートが無事開いたことを確認すると、原田は両膝を自分の背中側へと反らせる。すると原田は空中で倒立したようになり、頭を向けた方向へと進んでいく。
「あんなに塞ぎ込んでいたけど、本当は活発な子なんだな……」
原田はそんなことを考えながら、離脱方向となっている海側へと降下していった。
三
暗いトンネルを抜けた劉明哲は、前方に広がる光景に、思わずため息をついた。
目の前には広大は水田地帯が広がっていて、さえぎるものは何もない。それは素晴らしい光景に違いないが、水田はまだ植えられたばかりの、か細い苗が並んでいるだけだ。人家はほとんどない。それはこの先、食料が得られる望みがほとんどないということを意味していた。
明哲がいたのは村上市の南部、岩船地区だった。所属する第三〇五軍団は、国道三四五線を南に向かって行軍していた。
左手には山麓に雪を残した飯豊連峰が遠く霞んで見え、右手前方の海側には赤松林が広がっていた。かすかに松脂の香りが風に運ばれてきている。
列の先頭は二キロほど前方にあり、列の後方は小高い丘を貫いたトンネルの中へと続いていた。道路の西側にはシャッターを開けたような状態のフェンスが、延々と続く。そばを歩く兵士たちが物珍しそうに見上げている。それは冬の強い北西風から道路と車を守るためのものだった。
三〇五軍団がこの方面に進出しているのは作戦でも何でもなかった。上陸地点の瀬波海岸から他の軍団が市街地へと移動を始めてしまったため、行き場を失った軍団は、瀬波温泉トンネルを抜けこちらに来る以外になくなってしまったのだ。
高句麗軍の南方方面遠征統合軍は、五つの軍団で構成されていた。全国横断的な組織から集めた五〇〇〇人でつくられた一軍団と、全国四地域から各三万人ずつを集めた四つの軍団である。
人数の少ない第三〇一軍団は、青年団体や退役軍人会などから集められた兵士で構成され、司令部の警護部隊として位置づけられていた。
残りの四軍団は、第三〇二軍団は北西部にある楽浪郡の出身者、第三〇三軍団は半島中西部の真番郡の出身者、第三〇四軍団は中東部の臨屯郡の出身者、第三〇五軍団は北東部の玄菟郡の出身者でそれぞれ構成されていた。これらの四軍団にはまだこれといった任務は与えられていなかった。
遠征軍の軍団の大きな特徴は、百人単位の単純な小集団で構成されているということだった。
通常の軍隊は班、分隊、小隊、中隊、大隊、連隊、旅団、師団、軍団というように、小さな単位が複数集まって次のレベルの単位を作っていくというピラミッド式の階層構造になっている。これによってさまざまな局面や任務に応じて適切な人員を振り分けたり、同時並行的に異なる任務を遂行したりすることが可能になるのだ。
遠征軍がこうした階層構造になっていないのは、兵士の数に対する指揮官の数が極端に不足しているためである。もともと上陸する見込みが薄く、その大半の兵力が途中で失われる可能性が高かった。急造の部隊に複雑な作戦行動など最初から期待されていない。兵士たちの任務はただ粛々と地獄への竈に向かって進んでいくことであって、それを可能するためだけの最小限の指揮官しか配置されていなかったのである。
列の横には、八十八式歩兵銃を肩にかけた兵士がいて、時折、「列を乱すな!」などと偉そうな声をかけている。この種の兵士が、一軍団に付き三百人ほど配置されていたが、彼らはみな特務上士という位だった。他国の軍隊では軍曹に相当する。百人の小集団で構成されるという単純構造の軍団が無秩序にならない済んでいるのは、この特務上士の役割が大きかった。特務上士はみな、百人もの人間の運命を左右できるという、自国にいては到底与えられない特権に酔いしれ、それを絶対に手放すまいと固く決意していたのである。
特務上士は全員が高句麗勤労党の党籍を持っていた。組織の中に党と軍の二つの規律が併存するという仕組みが社会主義国の軍隊特有の弱点になっていたが、高句麗軍の場合、党組織の機能停止という状況がこの問題を解決していた。党大会、党中央委員会はともにもう何十年も開かれておらず、党役員の改選も行われていない。党政治局員は全員が七十歳を越えてしまっている。組織としての党は完全に死に体になっていた。ただ、党員は高句麗社会における有資格者であるという意味合いは依然として根強い。高句麗社会において党員以外が重要ポストに就ける可能性は皆無だった。
食料が得られる見込みがあまりなく、特務上士に口うるさく声をかけられているにもかかわらず、兵士たちには暗い様子はなく、時折、白い歯がこぼれるほどだった。それは豊かな自然に恵まれた新天地への期待感、息苦しい祖国の監視網から解き放たれた開放感のなせるわざだった。
今回の遠征のために急遽、集められた明哲たちの位は、最も低い「戦士」と呼ばれるものだった。高句麗軍にとってこれほど便利な呼称はほかにない。生存の可能性のないどんな不合理で過酷な任務をさせても「戦士」と呼べば、あたかも敬意を払っていたかのような印象を与えることができた。
「戦士」である明哲たちに支給されていたのは濃い緑色の軍服の上下と粗末な靴だけで鉄兜はなかった。例外なくほとんどの者が軍服の前のボタンを外している。袖の内側の布を節約するためなのか、袖が脇の低い位置で縫製されていて、腕を下に向けていると何ともないのだが、腕を上にあげた途端に大きな抵抗が加わる。それは大きな痛みを感じるほどで、服も大きく変形してボタンが取れそうになってしまうのだ。それを避けるため兵士たちはボタンを外しているのだった。
武器らしい武器も持っていなかった。モノがないことが大きな理由ではあったのだが、訓練を受けていない者たちに武器を支給すれば互いを傷つけあう結果にもなりかねないのもまた事実だった。めいめいが道端で拾った棒きれや鉄パイプを握っていた。
そのときだった。
どこからともなく鈍く響くような低い音が聞こえてたきた。
見上げると、前方の青く霞んだ山の上空に横一列になった小さな五つほどの黒い点が見える。
兵士たちはみなそれに気づいたが、それまで通り行軍を続けていく。
黒い点は、近づいてきていたが、あきれるほどゆっくりとした速度だった。点の数は十一個ほどに増えている。
やがて、横一列と見えていたものが、中央が尖った逆V字形に並んでいることがわかってくる。背後に並んでいるものと区別ができるようになり、点の数は十五に上ることがわかってきた。
しばらくすると点そのものも、黒ではなく、白っぽい灰色をしているのが確認できるようになった。やがて側面が迷彩塗装になっているのも判別できるようになる。
高句麗国内でも飛行機の姿を見ることは珍しいことではないが、ほとんどの場合、それは旅客機で高句麗航空のツポレフTU―204だった。燃料事情もあって国内を軍用機が飛行することはめったになかったのだ。
ところが、今、上空にいる飛行機は見慣れた機影とはまったく異なっている。普通の旅客機だと胴体の中央下部に主翼が付いてるのに、この飛行機は胴体のほとんど先端部分の上部から主翼が広がっていた。その主翼に二つのエンジンをぶら下げた双発で、尾翼はT字型になっている。
高い上空にあるためか、実際に飛行機が見える位置と、音の聞こえてくる方向がずれていた。飛行機はすでに間近に近づいてきているにも関わらず、音はまだ遠くにあるように感じさせる。その音がやがて耳を聾するような甲高い金属音になってくる。
兵士たちは、もうだれも歩いておらず、その場に立ち尽くしていた。
無意識に軍服のボタンをいじったり、自分のモミアゲの髪を触ったりしながら上空を見上げていた。
特務上士たちも銃を握りしめたまま微動だにしない。
誰もが夢から覚めたような、どこか諦めに似た表情を浮かべている。
今までがあまりにうまくことが運び過ぎたんだ。
そのツケが、こうしてまわってきたのだ。
もう幸運を使い果たしてしまった。
あれはきっと、そう……死の翼。
ここで俺たちの命運は尽きるのだ……。
高句麗兵たちの表情からはそんなふうに考えているように見えた。
次の瞬間、十五機の飛行機から一斉に白い雫のようなものがこぼれ落ちるのが、はっきり見てとれた。
その点は飛行機から離れると陽光を受けて右側の面をまぶしく輝やかせる。
明哲にはそれが何かは分からないのに、空腹と疲労感が一瞬にして消えた。
なぜか、落下地点と思われる方へと駆け出してしまう。
明哲の脳は、特務上士の命令や軍法会議などよりも重要な、最優先事項としてこの白い点を追うことを、明哲に命じているのだ。
あらぬ方向へ走り出す明哲に驚いた特務上士が八十八式歩兵銃を振り上げ、「止まれ! 止まらないと撃つぞ!」と高句麗語で叫ぶ。だが、銃を構える間もなく背中を押され、よろけてしまう。堰をきったように兵士たちが次々と両脇をすり抜けていく。明哲の後を追っているのだ。
同じものを見ているはずなのに、なぜか特務上士には兵士たちが駆け出す理由がわからない。かなり長い時間が経過して、ようやく彼も兵士たちが白い点を追っているのだと気づく。そして、その方向に銃を向けようとした。その瞬間、後ろから猛烈な速度でやって来た兵士にまともに後頭部を強打され、倒れてしまう。
またたく間に、銃を構えていた三十人ほどの特務上士が倒されていく。なかに銃を空に向けておらず、ただ銃を持っているだけで殴り倒される者もいた。その様子をみて、銃を投げ捨てる特務上士も現れ出す。
自分がなぜ、それを追うのか、明哲にはわからない。
それにもかかわらず、胸が熱く、痛みを感じるほど焦がれている。
明哲には自分に新しい身体が出来ていくような感覚があった。
激しい痛みを伴いながら、肉体が拡張され、新しく創出された部分が、この世界を感じ取ろうとしているような新鮮な喜びに似た感覚がある。
明哲は、白い点を追っていくが、その速度がとても速くて追いつけそうにない。
これほど焦がれているのに届かないのか。
まるで子どもに戻ったように、明哲はやすやすと悲しみの感情に取り込まれそうになる。
すると思いがけなく、白い点から濃い灰色の蕾が伸びていき、歪なキノコのような傘が開く。
白い点の速度が急激に落ちた。一瞬、明哲の方に戻ってくるように見える。
傘が開いてしまうと、それはもう、ゆっくりと漂うようになっていて、明哲は、これなら捕まえられるという期待感で満たされていく。
一つの傘が開くと、それを合図に次々と傘が開いていった。
それはとてもこの世の光景とは思えなかった。
薄く霞みのかかった小高い新緑の丘の上、水色の空に幅五〇〇メートルにわたって、六〇〇もの黒っぽい傘が浮かんでいた。
巨大な葡萄の房がゆっくり形を変えながら地上に触れようとしている。
甘い香りが漂ってきそうな予感さえしてくる。
気がつくと、上空には新たに北西方向から別の十機が飛来していて、そこからも四〇〇ほどの白い雫が零れ落ちている。それが終わらないうちに真北から飛んできた十五機が白い雫を落としていく。その数はそれまでと比較にならないほど大量で、九〇〇を超えていた。
これは世界の終りなのか、始まりなのか。
明哲には判断がつかなかった。
濃い灰色の葡萄の粒が全天を覆い、その粒の一つひとつから薄いピンクの剣が伸びている。
剣の中央部には矢印の先端のような濃い翳りがあって視線を引き寄せて離さない。
明哲にはもう驚きはなかった。
剣は紛れもなく、女性だった。
それは明哲の五十メートルほど先を行く男だった。
裸の下半身をさらした男は、何の突起もない街燈を手と足を使って難なく登っていくと、そこから平らになったガソリンスタンドの屋根へと飛び移った。その屋根を滑走路代わりに加速していくと、何のためらいもなく、その終端から空中へと踊り出す。
男はまるで走り幅跳びの跳躍のように、体を反らせながら空中で自転車を漕ぐように両足を回転させて、飛翔の距離と時間を稼ぐ。降下中の女性にたどりつき、その腰にしがみつくと、それまで後方に反らしていた腰を一気に前方へと押し出し、空中で結びついた。
明哲は、まるで人類初の偉業を見たような気分になった。
明哲もまた街燈をよじ登る。なかなか男のようには行かず、時間はかかったがどうにかしてガソリンスタンドの屋根に辿り着いた。
そこから見下ろすと、イソギンチャクの触手のように何人もの高句麗兵たちが両腕も伸ばし、天からの贈り物を受け取ろうとしていた。
やがて上空に、ひときわ白く大きな目標を見つけた明哲は、ためらいもなく空中へと躍り出した。
まだずいぶん高度があるのに、家や道路の細かい部分がどんどんと識別できるようになると、それだけで安心感が湧いてくるのだから不思議だ、と由美は思った。
パラシュートは広範囲に広がっている。先に降下していく女性たちは濃いグレーのパラシュートの下に隠れ、由美の目にはその姿を確かめることができなくなってしまった。
地上ではパラシュートをめざし、高句麗の男たちが道路を駆けてくるのが見える。パラシュートの降下していく方向と、道路の方向がズレているため、男たちは水田を横切って行かざるを得ない。あちこちでつまずいては倒れ、泥まみれになるが、すぐに起き上がって走り出す。
パラシュートが地面へ降り立つ地点にはすでに多くの高句麗兵が集まってきている。パラシュートはスローモーションのようにゆっくりとその高句麗兵たちの上に覆いかぶさるっていく。あちらこちらでテントような形になっていった。それらの内部で何かが蠢いているのだが、何が行われているのかがわからない。
突然、その一つが捲れ上がり、たったいま生まれた子どものように女性が飛び出してくる。あまり進まないうちに周囲から集まってきた男たちに捕まってしまう。
それを上空から見守っていた由美は、とても恐ろしくなり激しい動悸に襲われる。
なおも高度が下がる。
そろそろ着地の準備をしなければと思った、その時だった。
腰の両側に人の手を感じた。
(まだ空中にいるのに……なぜ?)
振り返ると、そこには息子の浩一と同じくらいの若い男の顔がある。
咄嗟のことで由美には何が起きているのか理解できなかった。
次の瞬間、背後から激しい衝撃が加わる。
世界が一瞬で色を失ったように感じた。
いままで見ていた世界は、薄い風船の内側に投影されていた幻だったのだ。それはアッという間に弾け飛び、無彩色の本当の現実が姿を現したのだ。
そしてそのまま由美は意識を失ってしまった。
背後から殴られ倒れていた特務上士の一人がふらふらと立ち上がる。手にしていたはずの八十八式歩兵銃がどこにも見当たらない。
兵士たちは女性に群がり、統制がとれなくなってしまっている。
男はそれをいまいましく思いながら考えをめぐらせ始めた。
勤労党の主義主張を唯一絶対のものとして信じて疑わないこの男は、人間としての自分を持たないと同じだった。そのため数えきれないほどの女性が全裸で舞い降りてくるという幸運を前にしても、そのチャンスを追おうともしなかった。ただ、いらだたしげな様子で考えているだけだった。やがて兵士たちの注目を集める考えが浮かんだのか、大声で叫び出す。
「毒だ! 女のアソコには毒が塗ってあるぞ! これは敵の罠だ!」
すると背後から身長二メートルはあろうかという男が現れた。
その男は「いいかげんなことを言うな!」と言うと、特務上士の頭を掴み、アスファルトの道路めがけて力いっぱい叩きつけた。
「さながら、舞い降りる天使に群がる地獄の僕どもといったところだな」
小高い丘の上から見守っていた申承浩はそう思った。上空から大量の裸の女性をパラシュートで降下させるという突拍子もない作戦を実行し、このような光景を現出させた人間の詩的感性を称賛しないわけにはいかなかった。
リミッターが外れたようにその能力をいかんなく発揮し、裸の女性のもとへかけていく男どもの姿をみて、承浩は、ふと古代オリンピックの起源には、これと似たような出来事があったのでは、と勝手なことを想像するのだった。
もう五十歳に近い承浩は、一九九五年からの「苦難の行軍」と呼ばれた飢饉の時代を幼年学校の教師として過ごしてきた。子どもたちには特別なことができなくても、ただ健やかに育ってくれればいいと願っていた。しかし、それさえかなわず、日々眠るように亡くなっていく姿を見守ることしかできなかった。誰一人として救えなかった。
今回の遠征にともなって徴集された承浩は自分の子どもほどの特務上士に顎で使われ、満足に食事も与えられず、いまにも沈みそうなボロ船で命からがら日本にたどり着いた。上陸してからも、疲れ切った体を小突かれながら行軍させられてきたが、これもみな自分が受けるべき報いだと諦めていた。
だが、こうして思いがけない光景に遭遇してみて、意外なことに気がついた。完全に世捨て人になったつもりの自分の中に、瑞々しい欲望が目覚めようとしているのだ。もう、見ているだけで済ますほど野暮な承浩でもなかった。おこぼれにあずかろうと、女性たちが舞い降りていく方向へとゆっくりと歩み出す。すでに三年物の古漬けのような萎れた自分の一部をほぐし始めていた。
カーニバルはまだ始まったばかりだった。
すっかり夜は暗くなっていたが、空にはまだ轟音がとどろいていた。
突然、上空にいくつものネズミ花火のような火花が広がる。
その光に照らし出されたのは、C―130Hの編隊だった。
眩い光はIRフレアだった。赤外線誘導ミサイルを欺くための装置が今は、降下する女性たちを照らし出すために使われていた。
「俺は、もうすぐ死ぬのだろうな」
大地に寝そべり、眩い光を眺めながら明哲はそう考えていた。
想像もしていなかった状況に遭遇し、異常な興奮状態にあった明哲は、あれから五回、六回と女性たちを求め続けた。
若い明哲もさすがに体力が続かなくなってしまい、回復を待つ以外になくなった。
それなのにまだ上空から女性たちが舞い降りてきている。
なぜ日本側がこのような対応をしてくるのかなど、どうでもよかった。
そもそも上陸前に溺死しても不思議ではなかったのだ。あんなボロ船では、むしろ溺死するのが必然だった。それが予期せぬ幸運にめぐまれて上陸することができ、あろうことか、美しい女性たちと出会えた。
これはもう神の意志としか考えられない。
高句麗のすべての人間と同じように、明哲は無神論者ではなかった。明哲は神を信じているが、勤労党党員は「神」と言わないだけで最高指導者を全知全能だと崇拝しているのだから同じことだ。
神の導きにより、明哲はかつて経験したこともない幸福な時を過ごせた。もうこの先に待っているのは「死」しかない。それでも一向に構わないと明哲は思った。
どうせ死ぬのなら……。
明哲の目に浮かぶのは、あの女性だった。
だれもかれもが美しかったはずなのに、いまでは思い出すこともできない。
ただ一人、記憶に残っているのは最初に出会ったあの女性だけ……。
あまり艶のない肌だった。
液体のようなとらえどころのない体だった。
そして苦しそうにしていたあの表情。
自分はかつてどこかであの女性に出会ったことがあるような気がしていた。
決して穢したかったわけではない。
美しいものに単純に憧れ、それと同化したかっただけなのだ。
その願いは叶わず、空しい結果に終わった。
気品を感じさせたあの顔が、荒んだ自分を照らし出し、強烈な罪悪感を残していった。
明哲は自分がどうしたいのかが、わからなかった。
だが、もう一度あの女性に会えば、何かがわかるかもしれない。
明哲はゆっくりと体を起こした。
四
最初の降下から四時間後。原田は再び村上市の砂浜にいた。女性たちの降下を援助する誘導小隊の人数が限られているため二回のシフトが組まれていたのだ。
四時間前に、仲間とともに前後二基のローターを備えた大型ヘリCH―47Jチヌークに拾われた原田は、そのまま新潟空港まで運ばれ、そこから航空自衛隊のU―125Aで入間基地へと戻り、二度目の降下をしていたのだ。
今回の作戦における原田の任務はこれで終了した。あとは基地に戻って待機するだけだった。しかし、パラシュートをたたみ、収納した原田は合流地点へとは向かわなかった。これから単身、高句麗軍の侵攻地帯に乗り込むつもりだった。
一度目の降下を終え、基地へと戻る機上、劣情を滾らせた暴徒の群れの中に、一糸纏わないあの女性を残してきたことに原田は苦しんでいた。いくら任務だと割り切ろうとしても割り切れなかった。二度目の降下を無事に終えた今、もう思い残すことはない。自衛隊法ではこのような原田の行為は正当な理由がなく職務の場所を離れる行為に該当し、第一二三条により七年以下の懲役または禁錮となっているが、それは覚悟の上だった。これまで空挺隊員として積み上げてきたものすべてを投げ捨てようとしていたが、原田は不思議と自分を愚かだとは思わなかった。人間として当然やるべきことだと考えていた。
胴の左脇に挟むようにしていた八十九式小銃を取り出すと、右手人差し指と親指で小銃の右側に取り付けられているセクターレバーを安全位置から素早く三段階動かし、単発射撃の位置にセットした。少ない弾薬を無駄に使うわけにはいかないのだ。ピストルグリップを握って胸の前に構えると低い姿勢を取った。
周囲の様子を慎重に窺い、降下地点に向かって走り出そうとしたところ、背後から大きな声がした。
「六十発で何ができる?」
振り返ると、そこに黒い影があった。
「支給されたのは、三十発弾倉が二つだけだったろう?」
その声でようやく、その人影が誰なのかがわかった。
同じ空挺隊所属の工藤穣太郎・二等陸曹だった。訓練での成績は互角で、原田とはライバルと言ってもよかった。しかも工藤は頭が良い。整った顔立ちをしていて、人望もある。いずれは指揮官になる器であることは原田も否定しない。だが、原田はこれまで彼に一目置くような態度をとったことは一度もない。互いの命を懸けたような場面で闘えば必ず自分が勝つという自信があったからだ。たとえ工藤が有利なポジションをとったとしても、ヤツには止めを刺すことはできない。抵抗をやめるよう諭すだろう。自分にそんな甘さはない。躊躇なく喉を掻き切ることができる。原田はそう考えていた。
無言のまま歩み去ろうとする原田に、なおも工藤は言葉を投げかける。
「このまま行けばもう二度と隊に戻れなくなるぞ」
「それがどうした?」
「こんな作戦、納得していないのは何もお前だけじゃない!」
その言葉に、原田の動きが止まる。
「何が言いたい?」
「俺も気持ちは同じだ」
「ふん。俺を説得するつもりか?」
「悪いことは言わない。俺と一緒に来い」
「それでどうなる?」
「あつらと戦えるようにしてやる。しかも処分されずにな」
「どうやって?」
「簡単なことさ。命令を出させればいい。正式な命令をな。戦えという命令をだ」
「ふざけるな。そんなことがお前なんかにできるものか! 単なる兵士に過ぎないお前に」
原田はわざと工藤のプライドを傷つけるような言い方をした。
「できるとも」
「嘘をつけ! お前に特別なコネなどないだろう」
「だができる」
「どうやって?」
「それは今、ここでは言えない。だが勝算はある。俺は一人じゃないとも言っておこう。だから早まるんじゃない。俺たちと来るんだ。お前が入隊したときの初心を生かす道はそれしかないんだぞ」
原田は沈黙していた。
やがて静かに語り出す。
「お前と一緒にするな。もともと俺はりっぱな志があって入隊したわけじゃない」
「だったら、なんでだ? なんでたった一人、敵の真っただ中へ行こうとするんだ? おかしいだろ」
「俺は別に戦いたいわけじゃない」
「じゃあ、なぜ行く?」
「ただ助けたいだけだ」
さすがに原田はそれ以上、話すつもりはなかった。
「だれをだ? あのなかに知り合いがいるのか? そうなのか?」
工藤は食い下がる。しかし、原田は「悪いな」と言い残すと走り去っていく。
すぐに闇に紛れ、姿が見えなくなる。
工藤には原田の性格は分かっていた。一度こうと決めたら周囲の人間がいくら道理を尽くして説得しても無駄だった。そんなことはこれまでに何度もあったのだ。しかし工藤はつぶやかずにはいられなかった。
「バカな奴……」
踵を返すと、工藤は仲間の待つチヌークの方に向かった。