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流浪の女神  作者: 廻 石輔
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プロローグ

ここがロドスだ、さあ跳んでみろ! [Hic Rhodes,Hic salta!]――イソップの寓話より














○国際武力紛争の犠牲者の保護に関し、一九四九年八月一二日のジュネーブ諸条約に追加される議定書 〈第一議定書〉 効力発生 一九七八年一二月七日

【第七五条 基本的保障】

 二 次の行為は、いかなる時及びいかなる場所においても、文民により行われる軍人により行われるかを問わず、禁止されており、かつ、禁止されなければならない。

(a)略

(b)個人の尊敬に対する侵害、特に、屈辱的で品位を傷つける取扱い、強制売いん、及びあらゆる形態の強制的わいせつ行為

―以下略―


【第七六条 女子の保護】

 一 女子は、特別の尊重の対象とし、かつ、特に強かん、強制売いん及び他のあらゆる形態のわいせつ行為から保護しなければならない。

 ――ミネソタ大学人権図書館より


○国際刑事裁判所規定 一九九八年七月十七日 ローマ

【第七条 人道に対する罪】

 一 本規定の目的に関して、「人道に対する罪」とは、一般住民に向けられた広範な攻撃または系統的な攻撃の一環として、この攻撃を知りながら行った次に掲げる行為のいずれかを意味する。

 a(略)、b(略)、c(略)、d(略)、e(略)、f(略)、

 g 強かん、性的奴隷化、強制売春、強制妊娠、強制断種またはその他同等の重大な性的暴力

―以下略―

 ――「入門 国際刑事裁判所 紛争下の暴力をどう裁くのか」 アムネスティインターナショナル日本国際人権チーム 現代人文社 二〇〇二年四月より


                ◇


▼日本の対応を注視  国際刑事裁判所


 国際的な重大犯罪を扱う常設機関、国際刑事裁判所のスポークスマンは二十日、日本と高句麗人民共和国との間に起きていた一連の事態のなかで、日本側が実施した活動の一部について、一部の締約国から「人道に対する罪」に当たるのではないかとの懸念が出ていることを認めた。そのうえで、「そのような犯罪行為があった場合、まず第一義的には日本国内の刑法により取り扱われるべきである」と述べた。また仮定の議論だとしながらも、なんらかの政治的思惑により、事態が適切に処理されなかった場合、日本の刑罰権を補完するという立場から同裁判所検察局が調査に乗り出すこともありうると述べた。(ハーグ=持谷輔彦) 九月二十二日付請売新聞より


                 一


 廊下は青みがかった灰色のカーペットが敷かれていた。

 その上を濃紺のスーツに身を包んだ長身の男が足早に歩いていく。

 衆議院議員、黒野須圭人くろのす・けいとである。

 一時期、保守党の次代を担うエースと目されていたこともあったが、かつてのような精悍な印象はすっかり影を潜めていた。まだ四十九歳だったが、短く刈り込まれた頭髪には白いものが目立ち始めている。

 廊下の左側には天井から床上三十センチに届くほど大きな窓が設けられていて、彼の上には明るい日差しが降り注いでいる。窓を区切る白い柱の間に、同じく白いプランターが置かれ、観葉植物の葉が鮮やかな緑色に輝いていた。

 十四階という高さもあって窓からは病院の敷地のほとんどが見渡せる。建物は建設時期が異なるためか、デザインも色もさまざまで、あまり統一性はなかった。白く輝く斬新な中央診療棟、ややくすんだ灰色の外来診療棟、落ち着いたレンガ造りの研究棟……。帝都大学附属病院の重要施設が所せましと並んでいる。

 廊下の反対側は深い色の板張りの壁となっていて、等間隔に五枚の絵が額縁に飾られていた。

 黒野須はすぐそばの一枚目の絵を見上げる。

(睡蓮か……)

 明るい日差しの降り注ぐ池の水面に、丸い緑の葉が浮かび、薄い桃色の花が咲いていた。

(そういえば「光の画家」と呼ばれた印象派の画家、クロード・モネは十九世紀末から二十世紀初頭に亡くなるまで睡蓮をモチーフに二百枚以上もの絵画を残したと聞く。その一枚がここにあったとしても一向に不思議では……。いや違う! これは睡蓮ではない。葉は円形だが、睡蓮ならあるはずの葉の切れ込みがない。水滴が葉の上で丸くなっている様子が描かれているが、睡蓮の葉にそんな撥水性はない。これは睡蓮ではななく、蓮だ。だがそうなると……。蓮は仏教では極楽のイメージと結びついている。病院として、そんな絵を掲げるのは相応しいのだろうか……)

 納得がいかないまま、次の絵に視線を移した黒野須はさらに驚いた。

 石版のような翼を持った人造人間の男が力なくうなだれていて、それを白い翼を持つ天使がいたわっている。

(これは知っている! 確かルイス・ロヨとかというスペインのイラストレーターの作品だ。それにしても、なんという思い切った選択なんだ。確かに看護師のことを白衣の天使と呼ぶことはあるが……)

 そう思いかけてハッとなる。急に、その絵が自分がかかわったことを暗示しているように思えてきたのだ。

(考えすぎだ。どうして関係もないこの病院がそんな回りくどいことをするのだ……)

 そうはわかっていても、一度、暗示という考えが浮かぶと、どうしてもそれを拭えなくなってしまう。もうそれ以上、黒野須は絵画を見ていることができなくなってしまい、俯いたまま進んでいく。

 下の総合受付から連絡が届いていたのだろう、特別室のドアは開いていた。右手の受付に明るい灰色のスーツ姿を着た若いコンシェルジュの女性が笑顔で出迎えてくれている。

「お待ちしていました」と、丁寧なお辞儀をしたコンシェルジュは、細身でまだ二十後半代といった様子だった。

 特別室は全体が五十畳ほどの広さがあった。

 ドアを入ったところが十畳ほどの待合室を兼ねたロビーとなっていて、右端がコンシェルジュのいる受付となっている。その反対側には薄いブルーの衝立があり、その前にイスが三脚並べられている。衝立の後ろは給湯室になっているようだ。ロビーの正面中央が二十畳ほどのベッドルームに繋がっていて、その両サイドにそれぞれ十畳ほどの談話室と会議室が設けられている。しかし、ベッドルーム以外はあまり使われているような形跡はなかった。

 来客の気配を感じて、奥のベッド脇にいた中年女性が振り返る。セミロングの髪で眼鏡をかけたその女性は、黒いニットのトップに、濃い灰色のスカートという姿だった。黒野須の姿を認めると、笑顔になる。

 黒野須も顔見知りの鈴沢淑子だった。

「これは、かん……あっ、すいません、黒野須先生。よくお越しくださいました」

 淑子は、黒野須の元に足早に歩み寄ってくると、丁寧にお辞儀をした。

「その肩書ももうすぐ返上しなければなりません。もう少し早く伺うべきでしたのに、残務整理で遅くなりまして……」

 黒野須は深々と頭を下げた。

 淑子は「さ、どうぞ」と言うと、ベッドルームの方へと案内する。

 彼女は努めて明るく振舞っていたが、ベッドの方へ体を翻す、その何気ない仕草に疲れの色を読み取ってしまい、黒野須は少し申し訳ない気がしてしまう。

 ベッドの上には青白い顔色の年配の女性が眠っていた。

 トレードマークだった、艶やか黒髪はなく、その頭にはしっかりと包帯が巻かれていた。その上を白いネットが覆っている。

 透明のマスクが装着されているが、自発呼吸はしているようで挿管はされていない。マスク越しに、かすかにカーブしながら先端が丸く下に回り込んだ特徴的な鼻が見える。かつては血のように赤い口紅で艶めかしく輝いていた口元は、今は白っぽく生気がない。鋭かった目は穏やかに閉じられている。顔全体の印象を和らげていた二重顎も、心なしかやつれたように見えた。

 ほんの三カ月前まで、若々しい印象を与えていた姿はそこにはなく、五十七歳という実際の年齢より少し老けて見えるほどだった。

 それが、かつて「平成の紅蜥蜴べにとかげ」と呼ばれた、前首相、武立比留江ぶりゅう・ひるえだった。

「容体はいかがです?」

「あまり変わりはありません」

 淑子は首を左右にふった。社会福祉の政策通であった彼女も、いまはただのヘルパーのようだ。

 高台の敷地にあり、しかも十四階の高さがあるベットルームの窓からは、付近のマンション群に遮られることなく、東側の上野一帯が一望できた。三枚の花びらのような形に仕切られた不忍池は、ほんの直ぐそこある。両端の二つの区画の水面に蓮が生い茂っていた。

(なるほど。さっきの絵は不忍池の蓮だったのか……)

 黒野須もようやく合点がいった。

 その向こうには森が広がっていた。九月に入り、すでに桜や欅など落葉広葉樹は黄色く色あせ始めているが、この距離からはまだ青々として見える。

 一年足らずの短い間ではあったものの、黒野須は官房長官として武立を支えてきた。その武立は首相任期中であった五月十八日、脳血管障害で昏睡状態に陥ってしまったのだ。

 もともと武立は保守党ではなく、連立政権を組むパートナー、青空市民連合というミニ政党の党首だった。保守党の中枢にいた黒野須にとって武立は、本来なら相手をすることもない、取るに足らない存在に過ぎなかった。

 そんな武立と密接にかかわるようになるきっかけは一年前、保守党が総選挙での激しい闘いの末、民本党に勝ち、悲願であった政権復帰を果たしたことに始まる。

 保守党の獲得議席は二百四十一議席を上回り、衆院本会議ですべての法案を可決できる過半数を得たが、すべての常任委員会での委員長ポストを取る安定多数の二百五十二議席には少し足りなかった。そこで青空市民連合と連立を組むこととなったのだ。見返りとして保守党は市民連合の主張が生かせるだろうと気をきかせ、環境大臣のポストを用意したが、武立は「選挙で勝ったのは保守党さん。国民は保守党の公約の実現を願っている」と固辞。交渉の結果、担当省庁を持たない副総理として入閣することになった。「名を捨て実をとる」という言葉があるが、この場合はその逆の「実を捨て名をとった」という格好だった。だれもがそう思った。

 政権発足後一カ月ほど経ったころ、総理大臣・井尻満寿夫の女性をめぐる不祥事が発覚した。一般の女性を相手にした犯罪すれすれの悪質な行為であったため、辞任は必至とみられたが、ここで武立は「このような事態のために私のポストがある。参院選までに懸案事項を迅速に処理することが何より重要」と主張し、首相代行を買って出た。

 武立はまるでそれが初めから自分に与えれた仕事であるかのように閣僚会議を主催した。不得意な問題にもたじろがず、じっくりと耳を傾け、的確な判断を下した。その結論は黒野須たちも十分に納得のいくものであった。武立がしたたかだったのは、その席でこれまで一度も言葉を交わしたことがなかった黒野須に対し「圭ちゃん、どう思う?」と親しげに話しかけたことだ。それによって、あたかも保守党主流派が武立を支えているかの印象を、閣僚たちの間に広めていったのである。

「主婦に毛が生えたようなもの」という武立に対する黒野須の評価は、わずかな期間のうちに揺らぎ始めた。

 その後の参議院選挙で、武立は保守党の各候補の応援にこまめに飛び回ると、選挙後の首班指名では、大多数の保守党議員の支持を集め、正式に総理大臣となった。その武立の首相就任のやり口が気に食わない保守党の重鎮たちが江戸川乱歩の女盗賊「黒蜥蜴」になぞらえ、「平成の紅蜥蜴」と呼んだのだった。黒ではなく紅としたのは武立のトレードマークであった血のように赤い口紅を象徴してのことだろう。

 あのまま何事もなければ、武立は保守党の有力者を抱き込み、それに誘われたという形で入党し、現首相という立場をフルに活用しながら保守党の総裁選挙に出馬していただろう。そして今度は、保守党総裁として首班使命を受ける――そうして自分の権力基盤をさらに盤石なものしていったにちがいない。

 しかし、現実はそうはならなかった。

 そのはるか手前で失速してしまったのだ。

 仮に健康の問題がなかったとしても、武立の再選はあり得なかったろう。

「ずっと甘いものが止められなかったんですよ」

 ふいに淑子が口を開いた。

 脈略もなく、武立の意外な一面を知らされた黒野須は、鼻腔を針で突かれたような感覚に襲われる。淑子に気取られないよう顔をそむけると、ゆっくり息を吐き出し、何とか感情を抑え込んだ。

「どうしても真意を伺いたいと思っていたのですが、ついに聞けずじまいでした」

 いったい何のことか、注釈は必要なかった。

 四カ月近くたった今もなお、国民の多くが『あの事件』がもたらした影響から逃れられずにいたのだ。

「今も私は、ずっと問い続けているんです。自分の想像の中の武立さんに。それまでの行動からは到底考えられないようなことを、なぜあれほど強引に実行されたのかと……」


                 二


 あれは今から四カ月ほど前、二〇一X年五月十日のことだった。

 当時、官房長官だった黒野須は、首相官邸の正面ロビーに立っていた。そこで首相の到着を待っていたのだ。左腕のシチズンを覗き込むと、時刻は午後九時五十八分になろうとしていた。

「よりによって、どうしてこの時期なんだ」という苛立たしい気持ちを抱いていたことを今でもはっきりと覚えている。

 西日本を襲ったマグニチュード九・四の南海地震から、二カ月が経過し、救援と復旧活動もあと少しで一段落しようかという矢先だった。高句麗人民共和国の多数の船舶が日本の領海に接近しつつあるという一報が飛び込んできたのである。

 首相は急遽、四国への視察を切り上げ、羽田空港から車で官邸へ向かっているところだった。都内にいた黒野須は防衛大臣の井草大蔵いぐさ・だいぞうとともに、首相と対策を協議するためにいち早く官邸に駆けつけてきていた。

 黒野須の傍らいる井草は今年で五十二歳になる。一年生議員でありながら防衛大臣に異例の抜擢をされた男だ。一六五センチの小柄で、国際政治学者である彼はテレビのコメンテーターとしても活躍していた。尋ねられたことにまともに答えない気難しい性格から反感を買うことも多かったが、頭脳明晰な男として党内の評価は高い。この日は濃いグレーのスーツに身を包み、赤いネクタイを締めていた。

 全面ガラス張りのショーケースのような首相官邸前には大きな人だかりができていた。アプローチ両サイドの定められた位置に、首相の到着時の様子をとらえようと大勢のテレビのクルーや新聞・雑誌のカメラマンがスタンバイしていて、ロビー内の両サイドにも青い制止線の内側に別のクルーが待機している。この時点ではまだ、報道陣たちには何があったのかは知らされていない。ただ、首相が四国への視察を早めに切り上げて帰京しなければならない事態が発生した、とだけ教えられていた。

「私たちの方で対応しないと……」

 黒野須はそうつぶやくと、井草の方を見た。彼は腫れ瞼の細い目を足下に落としたままだった。

 高句麗の船舶の領海への接近は、予想外の事態ではあったが、すでに護衛艦隊が現場に急行していることもあり、第一報を受けたときのような切迫感は幾分柔らいでいた。黒野須の心配は、むしろ首相の方だった。

 武立が党首を務める青空市民連合は結党わずか五年ほどにすぎず、防衛政策があるかどうかも疑わしい。そんな彼女にこの事態への対処は荷が重過ぎる。一刻も早く、自分が何らかの答えを出し、そこに彼女を誘導していかなければならないと感じていたのだ。

 これは保守党が対処すべき仕事だった。一時野に下った期間があったとはいえ、戦後長らく政権を担当し、米ソ冷戦時代の緊迫した情勢の中でこの国の防衛を担ってきた実績がある。有事を想定した、数々の研究も行ってきていた。

 そのときだった。官邸の入口付近が急に騒がしくなる。

 武立を乗せた、鮮やかなライトブルーの日産リーフが、音もなく滑り込んでくる。SPが乗り込んだ黒塗りのフーガ・ハイブリッドが後に続いていた。報道陣のカメラのシャッターが煩いほどの音をたて、眩いばかりのフラッシュの光が明滅する。

 リーフから降り立った武立は、黒いタイトスカートにエンジのジャケットといういでたちだった。黒みかげ石のエントランスホールをハイヒールの甲高い音を立てながら先を急ぐ。一六〇センチにかなり欠けるという身長にもかかわらず、体重は六十キロに迫るやや太めの体型だ。太ももを覆うスカートが引き裂かれないかと、黒野須はついつい余計な心配をしてしまう。ボブカットに短く切り揃えられた真っ黒の髪は滑らかで、間断なく揺れて目を引いた。その姿は若々しく、とても五十七歳には見えない。報道陣の方をチラッと振り返った武立は真っ赤な口紅が引かれた唇を一瞬、緩めかけたが、すぐにもとの厳しい表情に戻した。

 武立の後を、細身の首相補佐官、谷口正彦が慌てて追ってくる。頭髪こそ後退しているものの彼はまだ四十代前半の保守党衆院議員で、当選三回の若手だったが、政策通として評価されている。体力はあまりないようで、武立より十歳以上若いはずなのに、四国からのトンボ返りで疲れた様子を隠せないでいた。

 スピードを緩めることなく進む武立に、速度を合わせるように黒野須と井草の二人が両側から合流する。黒野須が右側を歩き、井草が左側を歩く。そのまま三人は官邸警護員やSPが周囲を囲む中、執務室へ通じる中央階段へと向う。傾斜地に立つ官邸はロビーが地上三階にあり、執務室は最上階の五階にある。階段を登る間も惜しんで井草が最新の状況を報告し始める。

 その井草が、言葉を切り、一段と声を落とした。

「誠に残念なのですが……。米軍は、動けないとのことです」

「えっ!」

 井草の報告に驚いた武立は歩みを止める。

 すでに黒野須は承知していたが、武立はショックを受けたようだった。

「米国は経済危機の影響が深刻なのです。加えて中央アジアの情勢が再び悪化してきておりまして、限られた資源をそちらに集中せざるを得ないとのことです。その支援の必要もあって、在日米軍を動かすわけにはいかないとのことです」と、井草は米軍の内部事情を説明した。

「しかし、日米安保条約では、こうした状況には日米が共同して対処することになっているんじゃないの?」と、武立が尋ねる。

「はあ。それが……」

 井草が一瞬、黒野須の方へ助けを求めるような表情を見せたのを、武立は見逃さなかった。

「違うというの?」

 今度は井草ではなく、黒野須の方へと向き直り、その目を真正面から覗き込む。

 それに促され黒野須が口を開く。

「実は、具体的な内容を定めた日米防衛協力のための指針では、このような事態に際しては、まず日本が主体となって防衛作戦を行い、米国がこれを補完・支援することとなっているんです。ですからあくまでも主体は日本なのです」

「米国は弾道ミサイルへの燃料注入を確認した場合には、ただちに高句麗本国への攻撃を開始すると確約してくれたのですが、それが確認されないうちは、何とか日本で対処してほしいということです」と井草が付け加えた。

 武立は黙りこむ。

 米国の態度を非難する気にはなれないんだろう、と黒野須はその心の内を推し測った。度重なる震災時の救難・復旧活動では米軍からは多大な支援を受けていたのだ。これ以上、米国に支援を求めるのは、独立国として筋が通らないと思うはずだ。

「とにかく、最悪の事態を考え、上陸予想地点の住民避難を急ぎましょう」と、武立は気を取り直し、いつになくハスキーな声で言った。

「それがいいでしょう」と黒野須も同意した。

「谷口君、手配、お願い」

 武立は振り返らず視線だけをわずかに後方に向けた。

「はっ」と谷口が応えるまでに一瞬の間が開いた。

 これから対策を話し合う場に自分が同席できないことが不服なのだろう。谷口は救いを求めるような視線を黒野須に向けたが、黒野須はなだめるように頷くほかはなかった。

 中央階段を進む三人を残して、谷口と随行の秘書官たちが住民避難の実施に取り掛かるため四方に散っていく。

 五階に着くと、武立を先頭に三人は首相執務室に入った。そこは五十畳ほどの広さがあり、ベージュのカーペットが敷かれていた。中央奥にどっかりと構えた大きな執務机が目立つが、調度品は少なく、広さを感じさせる。

 武立は部屋に入るなり、左右の足を振り上げ、ヒールを乱暴に脱ぎ捨てた。執務机には向かわず、その前に向かい合って並べてあるベージュの長椅子タイプのソファーに、なかば寝そべるように体を投げ出した。ストッキングを履いた太腿のかなりの部分が露わになった。

 長旅で疲れているのだろうと思った黒野須は、小さな木製テーブルを挟んだ向かいのソファーに腰を下ろした。井草も黒野須にならい、左隣に座った。

「よりによってこの時期にとは……」

 そう言うと、武立は深くため息をついた。

 そうだ。そこなのだ。

 それは黒野須も考えていた点だった。

 震災から日も浅く、復旧作業もまだまだこれからという時期だ。普通なら世界の同情が集まるその国への侵攻など考えない。

 ではなぜ、高句麗は日本への侵攻という暴挙に出たのか。

 それほどまでに高句麗の政治指導部は追い詰められていたというのか。

 それは確かにあるだろう。直前までに収集できた情報から、高句麗指導部が見かけ以上に苦しんでいるという証拠が数多く集まっていた。自らを取り巻くアメリカ、韓国、日本、ロシア、中国という五か国の間に、何としても混乱を作り出し時間を稼ぐ必要があったのだ。そしてその混乱を作り出せたなら、それを収拾することと引き換えに政権延命のための保証を引き出せるかもしれないと考えたのだろう。

 だが――。

 それだけではないという気が黒野須にはしていた。

 同時に彼らは微妙な国際感情というものを読み取っていたのではないかと思うのだ。

 今回の日本の震災は、前回よりも被害規模が大きかったにもかかわらず、国際的な支援は前回に比べて低調だった。駆けつけてきたボランティアの数、寄せられた物資の量、募金の金額、どれをとっても前回とは比較にならないほどだった。この震災が各国メディアのニュースから消えるのにもそんなに時間はかからなかった。

 だからこそ彼らは……。

「とにかく……」

 武立のその言葉で、黒野須の考えは中断させられた。

「あまりに多くの生命が失われ過ぎた。もうこれ以上、だれの生命を失う場面も見たくない。たとえそれが高句麗の人間であっても……」

 武立は苦しそうに目を閉じる。

 その様子を見て、黒野須はしばらく間を置く。

 やがて、静かに口を開いた。

「国土が侵略されるかもしれないのです。そうも言ってられないでしょう」

 武立は目を閉じたままだ。

「武力攻撃事態法でいう『武力攻撃事態』に発展することを想定して、早急に対処基本方針を立てておくのが賢明だと思われますが……」

 黒野須はこれから必要となる法的手続きを説明しておこうとした。今の段階では、少なくとも対処基本方針をつくり、それを閣議で承認しておくことが必要だった。それさえあれば、自治体への指示が可能になる。国会での承認はそのあと考えればいい。

 その説明を、武立はどれだけ理解しただろうか。

 武立は髪をかきあげ、眉間に皺を寄せている。

 恐らく武立は、過酷な任務へと自衛隊員を投入しなければならないことに苦しんでいるのに違いない、と黒野須は思った。この日までに震災の救援と復旧のために自衛隊は陸海空合わせて十五万人を投入していた。その隊員たちは疲労のピークに達していたが、一人でも多くの生命を救うという崇高な使命のために昼夜を分かたず奮闘を続けていた。そんな彼らを、いくら国を守るためだとはいえ、今度は相手の生命を絶つことになるかもしれない戦闘に投入しなければならないとは……。武立の心中を察すると同情を禁じえない。

「そろそろ護衛艦隊が高句麗軍と接触する時刻です。市ヶ谷の中央指揮所に設備を整えてありますので、そちらへ参りましょう」

 井草が武立の手にそっと自分の手を重ね、移動を促した。


                 三


 何かの爆発かのように、砕けた波の水煙が広がり、泡立ちながら甲板を洗っていく。

 あちこちに白い波頭を覗かせる波を切り、海上自衛隊第三護衛隊群の旗艦、「おわせ」(艦番号DDG―一九七)は進んでいた。

 波は重厚な交響曲の前奏のような音を立てている。響くたびに、胸の奥底に得体の知れない不安感を蓄積していくようであった。

 北緯三十八度三十分、東経百三十八度二十分。石川県輪島市より北西に約百キロの海上だった。

 日付は五月十一日へと変わり、時刻は午前五時を少し回っている。すでに十三分前に日は昇っていて、周囲は明るくなっていたが、霞がかかり視界はよくない。空も海も遠くに行くほど白く霞んでいて、両者がぶつかる水平線の辺りは真っ白なベルトのようになっている。その向こうには、まるで空と海が未分化な混沌とした世界が広がっているかのようだ。

「おわせ」は背後に護衛艦七隻を従えていた。それぞれの艦が五〇〇ヤード(四五七・二メートル)間隔で一直線上に並ぶ単縦陣という隊形だった。

 第三護衛隊群は京都府の舞鶴基地を母港とする第三護衛隊四隻と、青森県の大湊を母港とする第七護衛隊四隻の二つの護衛隊の計八隻で構成されていた。

「おわせ」は基準排水量七二五〇トン、コンバインドガスタービンエンジン四基を備え、最大速力三十ノットを誇る、いわゆるイージス艦と呼ばれる最新鋭の護衛艦だった。原型となっている米駆逐艦アーレイ・バークと非常によく似た外観をしている。

 艦橋構造物は上方がやや細くなった八角柱になっている。船の中心線に対し斜め四十五度の位置になる前後左右の四面に八角形の特徴的なレーダーが備えつけられている。ヒューズドアレイレーダーSPY―1Dというもので、このレーダー板自体は固定されていて回転しない。一枚がそれぞれ九十度の範囲、つまり三百六十度の全周をカバーしている。このレーダーと高度情報処理システム、ミサイルの垂直発射機(VLS=Vertical Launching System)を組み合わせることにより、同時に多数の目標を攻撃することができるのだった。しかもこのイージスシステムは従来型のものではなく、弾道ミサイル防衛(BMD=Ballistic Missile Defense)システムを備えていた。イージスBMDベースライン3・6というバージョンのソフトウエアがインストールされ、ロケット・モーターを強化したスタンダードSM―3ミサイルが配備されている。特にSM―3は有効迎撃高度一二〇キロで、弾道ミサイルの上昇段階、中間飛翔段階、終端段階のいずれにも対応できる能力を持っていた。

 構造物の最上部に横一列の窓が覗く。そこが艦橋で幅二十メートル、奥行き十五メートルほどの広さで、中央部は操船装置や航海機器が大きな場所を占めている。今、そこは足の踏み場もないほど多くのクルーで溢れ返っていた。士官たちは濃紺の作業服を着用し、海曹以下はそれより明るい青い作業着を身にまとっていた。いずれも海上自衛隊の艦艇戦闘服に指定されているものだった。

 前方右舷側にある赤いカバーのシートに艦長の村田宣一・一等海佐が、赤いストラップの双眼鏡を首にかけて座っていた。その左に副長の田代達也・二等海佐が立っている。やや左に離れて航海長の松本慎吾・三等海佐がいた。その後方には艦内への連絡を担当する大木越也・一等海曹がヘッドセットをつけ、腕を後ろ手に組み両足をやや広げて立っていて、その左後方に彼を補佐する当番兵がいる。

 艦橋中央前方には操舵士が舵輪を持って立っており、中央後方には航法を担当する海曹が海図台の上に該当海域の海図を取り出して鉛筆で直接針路を記入していた。その左隣には、気象、信号を担当する信号員二人がヘッドセットをつけて横に並び、それぞれが担当するコンソールを覗き込んでいる。

 これらのクルーのほかに、砲雷長、船務長、補給長をはじめ、見張りを支援する士官が双眼鏡を首にかけて立ち、彼らを補佐する海曹たちが何人もいた。

 艦橋の外、両側に張り出したブリッジウイングには、すでに灰色のポリアミド系樹脂の兜に灰色のカポック(救命胴衣)を着用した見張り員がそれぞれ三名ずつ出ていた。一人が艦に固定された大口径、高倍率の双眼鏡で航路の監視を行っていて、残りの二人は手持ちの双眼鏡で周囲を監視している。

 通常の航海では二時間または二時間三十分交替の輪番当直体制になっているが、今は交替制はなく、三〇〇人の乗員全員がそれぞれの持ち場についていた。

 出港から九時間、緩みが出始めていた艦橋の空気が、次第に張りつめたものに変わろうとしていた。

「距離六・四七。六十八隻目を確認!」

 電気的に増幅された声が艦橋内に響いた。単位は海里だった。

 戦闘指揮所(CIC=Combat Information Center)の電測員の声だった。艦橋真下にあるCICは、レーダーやソナー、各種の通信など、あらゆる情報が集約される中枢にあたる部署で、今そこでは、電測員が対水上レーダーの映像を二十五海里レンジで表示させ、中・遠距離のレーダー見張りをしていた。

「こちらマイズル4、……船団後方にタンカー五隻を確認。甲板は人でいっぱいです」

 今度は、先行している第二三一飛行隊の哨戒ヘリSH―60Jからの通信だった。第二三一航空隊の四機と大湊の第二五一飛行隊の三機の合わせて七機が随伴していて、そのうち六機が護衛隊群の前方一キロの海上に展開していた。残る一機が艦隊の真上にいて、リアルタイムの画像を中央指揮所へと送っていた。

 SH―60Jはシコルスキーが開発したアメリカ海軍のSH―60Bをもとに三菱重工業がライセンス生産しているもので、一九九一年(平成三年)から配備が始まった比較的新しい機体だ。全長十九・八メートルで、一六〇〇馬力のターボシャフトエンジンを二機搭載している。SH―60Bの搭載電子機器は一部がアメリカの軍事機密となっているため、同等のものを防衛庁技術研究本部が開発した。データリンクによって、レーダー画像を護衛艦のCICに直接送る機能を持っている。

 高句麗軍の陣容がしだいに明らかになってきていた。

 村田艦長は自分とは反対側の、艦橋左舷側にある黄色いカバーのついたシートの方を一瞥する。

 そこにはやや小柄な男が座っていた。

 第三護衛隊群司令、海城雄二・海将補である。身長は百六十八センチに過ぎないが、がっしりとした体形をしていた。四角い顔から、すだれのように眉が伸び、人の良さそうな印象を与える。短く刈り込まれた頭髪には白いものが目立つが、まだ四十八歳だった。

 その左脇には、長身の群司令部首席幕僚、佐田浩輔・一等海佐が立っている。

 海城は首に黄色いストラップをかけたまま、双眼鏡だけを座席前のごく狭いテーブルに置いた。落ち着かない様子で右手で顎のあたりをこすり始める。

 海城の脳裏には、今回の出動に至った経過が蘇っていた。

「大至急、お戻りください。統合幕僚長より緊急の連絡です」

 官舎でくつろいでいた海城が、自分の補佐役である佐田一佐の電話を受けたのは十日午後七時のことだった。

 すぐに舞鶴基地内の第三護衛隊群司令部に戻り、統合幕僚長である萩島道信・海将と連絡をとった。

 電話の向こうで萩島統合幕僚長は、「防衛大臣による海上警備行動が発令されました。第三護衛隊群はその任に当たるため、現場海域へ出動してください」と言った。

 海上警備行動とは、強力な武器を持った不審船が現れ、海上保安庁では対応できないと判断されたときに、防衛大臣の命令により発令される海上における治安維持のための行動である。

 自衛隊に対する防衛大臣の命令は、フォースユーザーといわれる統合幕僚長が一元的に執行することになっている。これに対して海上幕僚長などはフォースプロバイダーと呼ばれ、日常の人事、教育、訓練、防衛力整備などの業務を指揮・監督することになっていた。

 萩島の声はきわめて事務的で、努めて感情を押し殺しているようだった。ふだんはポーカーフェースで何も気取らせない萩島が、そんな作為を覗かせている――それだけでも、尋常ならざる事態であることを海城は感じとった。

 萩島によると、神奈川県の厚木基地を飛び立った海上自衛隊第四航空群第三航空隊の哨戒機P―3Cより、高句麗人民共和国のものと思われる多数の船舶が日本海をまっすぐ東に進んでいて数時間後には、日本の領海に達する見込みだとの情報がもたらされたという。

「状況によっては総理大臣による防衛行動の発令に切り替わる可能性が十分にあることを含んでおいてください」と萩島は付け加えた。

 その瞬間、海城は体温が上昇したような感覚に襲われ、体中にアドレナリンが駆け巡るのを感じたのだった。海上自衛隊きっての戦術家として鳴らし、日米合同演習などでも高い評価を得てきた海城には、恐怖心など一切なかった。むしろ自分の実力を存分に発揮し、国に貢献できる機会が訪れたことに誇りとやりがいを感じていたのだった。

 海城は自衛艦が行える権限について定めた自衛隊法九十三条の規定を確認しながら、さまざまな状況を想定し、何度もシミュレーションをしてみた。

 これまでの経験からいって、停船命令を発令したとしても、おそらく相手は従わないだろう。こちらの追跡を振り切ろうと逃走をはかるに違いない。そこであらかじめ逃走を想定したうえで接近していくのが得策だ。それでも逃走をはかるようなら射撃警告をする。当然、従わないだろうから、海面への威嚇射撃もやむをえまい。もし無謀にも相手が反撃してきたなら、そのときは船体射撃を開始するだけだ。おそらく相手はひとたまりもないだろう……。

 何しろこちらは最新鋭のイージス艦二隻を含む護衛艦八隻態勢なのだ。これだけの水上機動部隊を投入すれば、どんな事態にも対処できるだろう……。海城はそう考えていた。

 だが、高句麗軍の陣容が明らかになってくるのにつれ、自分が用意してきた策が役に立たないかもしれないという不安が忍び寄ってきていた。


「右舷前方に不審船!」

 双眼鏡を覗いていた見張りの士官の一人が声をはりあげた。

 艦橋内の空気が一瞬にして張りつめる。

 すでに刻々と情報が入り、艦のレーダーでも捕捉していたが、直接目視で確認するのはこれが初めてだった。

 海城は見張り員が示す方向に双眼鏡を向けた。

 上下に大きくうねる波の合間から、白い点のような古びた漁船が一隻、また一隻と姿を現し、やがてそれは夥しい数になった。よく見ると、どの船の甲板にも定員を遥かに超える人間がずぶ濡れになりながら、振り落とされまいとしがみついている。

「何なんだ、これは!」

 双眼鏡の焦点を、先頭の一隻に合わせた海城が思わず声を漏らす。

 地獄のような光景だった。

 甲板を埋めたずぶ濡れの男たちは、だれもが痩せこけ、恐怖に竦んだような顔をしていた。海水を大量に飲んだのか激しく咳き込む者や、青ざめて朦朧としている者もいた。

「くうぅ」

 海城は頭を振り払うと双眼鏡に映る像を注視した。

(武器はどこだ? 武器はどこにあるんだ? それさえあれば有無を言わせず……)

 海城は双眼鏡で必死に捜し続けるが、どの船にも武器はおろか漁具さえ見当たらなかった。

 たまらず海城は、隣にいた佐田一佐の目の中を探るように覗き込んだ。

 同じように双眼鏡から目を外した佐田一佐は黙ったまま首を横に振る。

 男たちは深い緑の軍服のようなのを着ていたものの、ただそれだけだった。ナイフ一本さえ身につけていない。

「距離四・三一。百十二隻目を確認!」

 前触れもなく、CICの電測員の声が艦橋内に響いた。

「司令! ご指示を!」

 右舷側から艦長の村田が指示を仰ぐ。

 村田の口は大きく開かれていたにもかかわらず、なぜか耳には遠い。

 それが海城には少し意外だった。

「うむ……」

(まともな操船さえできていない。そんな状態の船に停船を命じて意味があるのか?)

 海城は判断が下せない。

 押し寄せてきている人間の群れは、いかなる規定においても難民などではない。純然たる軍隊だった。しかし、難民と変わらぬみすぼらしい外見が、海城の行動を縛ろうとする。

 阻止するのは簡単だった。

 ただ何らかの行動に出た場合、間違いなく多数の船が沈没する。とても救助できる数ではなく、多くの人命が失われることになるだろう。そうなると、領海を侵犯した高句麗よりも、多数の人命を見殺しにした日本側の対応が国際的な問題に発展する恐れが出てくる。あらゆる国際法を無視する高句麗軍は、自らの行動に何の制約も受けなかったが、先進国の末席に座る日本には遵守しなければならない国際ルールがいくつもあった。

(この可能性を考えるべきだった!)

 洗練された武器で対抗してくるものと勝手に決めていた。もともと相手はこちらに対抗する武器など持っていなかったのだ。人命をかえりみないどころか、同胞の命を危険にさらしそれを脅しの道具に使う、実にアジア的な戦法。これこそ『貧者の戦術』だった。エリートとして順調に歩んできた海城は、万全な準備をして臨んだ試験で出題範囲外から問題を出されたような気分を味わっていた。

 そして、そう考えている間にも高句麗の船舶との距離がどんどんと縮まってくる。

「距離三・五〇。百二十八隻目を確認!」

「司令!」

(まただ。村田はどうしたんだ? どうしてあんな様子なんだ? いや、そんなことはどうでもいい)

 海城はまだ考えがまとまらない。

 艦橋内の緊張がますます高まる。

 村田とその周囲にいる航海長をはじめとするクルーたちが一人残らずその視線を海城に注ぐ。

 その無遠慮な視線に、最高指揮官を軽んじる態度が見てとれたが、今はそんなことにかかわっているときではない。そんなことより決断だ。時間がないのだ。

「司令!」

(いや。待て。おかしいぞ。村田の体調を気遣う者がだれもいないのはどういうことだ? 村田じゃないのか……。まさか、俺? 俺なのか?)

 そのときになって初めて、海城は自分の思考速度が驚くほど緩慢になってしまっていることに気づき、心の底から恐怖した。

「距離二・五三。百四十二隻目を確認!」

 新高句麗軍の先頭の一隻が波の上をジャンプするのが視野に入り、一瞬、ひやりとする。

(気をつけろ。危ないじゃないか!)

 無意識のうちに相手側を気遣ってしまう。

(バカな! いったいどうしたんだ俺は! これじゃあ、一般市民じゃないか! 俺が培ってきた経験はどこへ行ってしまったんだ!)

 また焦りが募る。

(ま、まずい! 落ち着け。なんとかするんだ。今ならまだ間に合う。自分を立て直せ。立て直すんだ)

 投げ出しそうになる気持ちに抗い、海城は高句麗軍の船舶にどう対処すべきかを考え直す。

(痛っ!)

 思考に集中しかけたところで、海城の右目を激しい痛みが襲う。

(何なんだこれは!)

 夥しいほどの冷たい汗が額から流れ出し、こめかみを伝わってきた一筋が、目じりから目の中へと侵入してきたのだった。

(もういいかげんにしてくれ!)

「司令!」

 またも村田だ。

(わかっている! 少し待て……)

「司令!」

「距離一・三五。百六十三隻目を確認!」

(くそっ!)

「司令!」

 決断を促す六度目の村田の声。その強い声には紛れもない怒りが滲んでいた。

 この問題と格闘を続ける根気がそこで失てしまった。

 海城は半ばやけっぱちになって叫ぶ。

「か、回避だ! 回避するんだ!」

 海城が言い終わらないうちに、間髪を入れず村田が叫ぶ。

「主舵いっぱい!」

 すぐに松本航海長が「主舵いっぱい」と伝承し、操舵手が「主舵いっぱい」と発声しながら舵輪を思いっきり右に回す。

 その瞬間、艦橋が大きく左に傾き、クルーたちはいっせいに手直な突起にしがみつく。「おわせ」は大きく左にロールし、やや左に横流れしながら、右へと旋回を始めた。すんでのところで高句麗の船舶をやり過ごす。後続の「ひなさき」(艦番号DD―一九九)、「ようま」(艦番号DD―一九六)も「おわせ」にならい、白い波を立てながら旋回していく。

 自分の命を危険にさらす必要はまったくなかったのだ。自分は安全なところにいて、ただ溺れかけた人間の群れの中に無慈悲に鋼鉄の舳先を向けるだけでよかった。その豪胆さがありさえすればよかったのだ。それが望めないのなら、結果を見通すことのできない愚鈍さでもよかったのだ。それがあればもっと上までいけただろう。

 しかし、そのいずれも海城は持ち合わせていなかった。

 これまで海城は、過去の戦史を紐解くたび、平時には抜群の俊秀と評された先人達が、砲煙弾雨の戦闘場裡にあってはまったく無能な指揮官で終わってしまった事例があまりに多いことを嘆いてきた。

 自分なら決してそんな愚はおかさない、指揮官としてやるべきことを決然と実行するだけだ、と考えてきた。その通りに演習でも着実に成果をあげて見せた。しかし、実際に命をやりとりする戦場は、演習とはまったくの別物だった。いざ、自分が同じ立場に立たされてみると、みずからも過去の将官たちの例外でないことをつくづくと思い知らされるのだった。

 それは、この国の武人に代々受け継がれているDNAのなせるわざなのかもしれなかった……。

 海城は、ただ虚ろな表情で波間を漂う高句麗兵の姿を眺めていた。


                 四


 第三護衛隊群が高句麗軍と接触する模様は、東京・市ヶ谷の中央指揮所でもリアルタイムで伝えられ、武立首相をはじめとする安全保障会議のメンバーと統合幕僚監部の幕僚がその様子を見守っていた。

 防衛省の庁舎A館の地下シェルター内に設けられた中央指揮所は、小さな体育館とでもいった印象だった。堅牢なコンクリートで囲われ、核攻撃にも耐えるとさえ言われている。首相官邸地下にある危機管理センターでなく、こちらが使われているのは今回の事態が自然によってもたらされた災害などでなく、高句麗国の侵略によりもたらされた純然たる武力攻撃事態であったからだ。自衛隊の各部隊と頻繁に連絡を取る必要があり、陸海空の自衛隊の各部隊と常時リンクしているこちらが選ばれたのである。

 部屋の中央にU字型の机が置かれていて、U字テーブルの丸い頂点に武立が座り、安全保障会議のメンバーとして六人の閣僚が座っていた。さらにその外側に自衛隊の幕僚が座っている。各幕僚の後ろには各官付きの連絡員がいて、慌ただしく動いていた。

 Uの字の開いた方向の壁面は全体が大きなモニターになっている。そこに現場海域のSH―60Jが撮影しているリアルタイムの画像が映し出されていた。

 とても席に座っていられないといった様子で、官房長官の黒野須圭人をはじめ、防衛大臣の井草大蔵、国土交通大臣の重原武雄、国家公安委員長の鳥井志摩雄たちがモニターの前に集まり、その成り行きを注視していた。

 そこに目を疑うような光景が飛び込んでくる。第三護衛隊群の艦隊が高句麗軍の船舶の群れに接触しようとしたその刹那、まるで演習の展覧航海のように、先頭の護衛艦が右に大きく舵を切り、後続の艦が次々と変針していく。そのままの速度で現場海域を離脱してしまう。後に、『謎の敵前旋回』と語り継がれることになる、まさにその歴史的瞬間だった。

「嘘だろ!」

「なんでだ!」

「そんなバカな!」

 閣僚たちの間から悲鳴にも似た叫び声が上がる。

「どういうことか! 説明しろ!」

 国交大臣の重原が、責任を問うかのように、萩島道信統合幕僚長の席に詰め寄り、激しく机を叩く。それを合図に他の閣僚も集まってくる。

 萩島は苦しそうな表情で俯いたままだ。

「いますぐ艦隊を呼び戻せ!」

 重原が怒鳴る。

「残念ながら、もう間に合いません。すぐに反転したとしても、そのとき高句麗軍の船は護衛艦が航行できない浅瀬に達しているでしょう」

 萩島の左隣の福田副夫統合幕僚副長が苦しそうに答える。

「空からはどうだ?」

 望みをかけるように国家公安委員長の鳥井が尋ねる。

「数が足りません。それに装備はほとんど対潜兵器ですので……」

 福田は申し訳なさそうに目を閉じた。

「どうするんだ! このままでは、上陸されてしまうじゃないか」

 感情の抑えが外れてしまったのか、鳥井が悲鳴のような声をあげる。

「うるさい! そのキーキー声を出すな!」

 重原が苛立ちの声をあげる。

 黒野須たちの所属する保守党は有事を想定した、数々の研究も行ってきていた。しかし、こんな状況は想定していなかった。自衛隊もこんな想定で訓練はしていない。

 どうする? そのとき武立の姿が黒野須の目に入る。自分の席から画面を見つめていた彼女は眉間に皺を寄せ、苦しげに右手人差し指を噛んでいる。その姿を見た瞬間、早く対策を考えなければと気が焦る。

 そこに怒号が響く。

「いったいどうすんだよぉ! こんなことになってしまってよぉ」

 集中を妨げられた黒野須は、ついに声を荒げてしまう。

「よさないか。大きな声を出すんじゃすんじゃない!」

 会場は完全にパニックだった。

 その部屋のすべての人間関係が険悪になっていくようだった。

 打つべき手が見つからなかった黒野須は、苛立たしげに部屋を見渡していて、防衛大臣の井草の様子に目が留まる。彼はいつの間にか自分の席に戻っていた。テーブルに肘をつき、しっかりと組み合わせた両手に顎を乗せ、考え込んでいた。どう見ても名案が浮かびそうな気配はない。無理もないことだった。彼は防衛政策の理論家ではあっても、戦術家ではないのだ。

 武立は? と目で追うと、彼女は運用部長の鵜飼三郎・陸将を自分の席の近く呼び寄せ、何かを話し合っている。

 やがて、会場が静まっていく。

 その静けさに列席した閣僚たちは心底、怯えた。

 なぜならそれは緊急事態に遭遇しながら、有効な対策が何一つないことを示す恐ろしい沈黙だったからだ。

 武立が自分の席を立ち、モニターの前へと歩み出した。俯いたまま会場の中央へと歩いていく。無言のまま、その場にいた重原や鳥井らが自らの席に戻るのを待った。

 しばらく体の左側を見せる姿勢で俯いていた。サイドの黒髪が前へと落ちて、定規を引いたように顔を隠している。特徴のある鼻先しか見えない。

「この状況は、私たちに何を告げているでしょう?」

 少し予想外の語り出しだった。会場の全員が注意を引き寄せられ、言葉の続きを待った。

「すべての防衛対策が海上での阻止を前提として組み立てられていたために、本来集めておかなければならなかったはずの陸上兵力の集中が間に合っていません。現地ではいまだに住民避難が完了しておらず、進攻をはばむための道路封鎖にも手がついていないようです」

 閣僚と幕僚たちに改めて深刻な事実が突き付けられる。

「このままだと、このような状態で戦闘に突入することになります。どんどんと戦力を投入していき、ある時点で、敵兵を一兵残らず殲滅できたとして、そのとき私たちの状態はどうなっているでしょうか。想像してみてください」

 そこで武立は静かに目を閉じ、たっぷりと間を空けた。

 やがて静かに語りだす。

「自衛隊員には間違いなく数多くの犠牲者が出ていることでしょう。鉄道、道路、港湾、学校、病院などの公共施設が破壊され、長い歳月をかけて築上げてきた農地もその多くが壊滅的な打撃を受けてしまっていることでしょう。賠償を求めることはでき、それは正当な権利として認められるでしょうが、相手がそれを支払うことはまったく期待できません」

 武立はそこで会場を見渡す。

「敵の生命を絶てば隊員達は精神的苦痛を背負い込みます。多数の犠牲者がでることで双方に深い憎悪が刻み込まれ、その傷が癒えるには半世紀以上かかるということになるかもしれません。ことによるとそれが新たなテロの火種になることだってありえます。それでも世の人々は止むを得ない選択だったと言うでしょう。だが、私は違う。そんなことは受け容れられない。負の要素ばかりが増えていくような、そんな愚かな選択を、私は断じてするつもりはありません」

 武立は会場の全員を睨みつける。その目の周りは赤く染まり、白い眼球には今にも血管が浮かび上がってきそうに見えた。

「こちらは侵略されたんだぞ」

 重原が少しヒステリックに声を上げる。

「兵士たちが望んでしていることではないでしょう。強制されてやむなく来たのです。そんな彼らに報復して何の意味がありますか。私たちが望んでもいない事態であるにもかかわらず、それに機械的に反応することによって取り返しのつかない結果をもたらすのは愚か以外の何物でもない。これから先、私は、ありきたりな対応は一切するつもりはない。それがどんなに常識外れで社会道徳や法秩序に反していようとも、犠牲者を出さないということに最大限の努力を払ってこの事態を収拾していきます。そこのとによって私自身が罪に問われることになったとしても後悔はしません。ですからみなさんも覚悟を決めてください。異論のある方は今すぐ辞表を提出していただいて結構!」

 武立はいったい何をしようというのか。

 黒野須が思わず声を上げる。

「でも、どうするというんです?」

 武立は右手をまっすぐ横に伸ばした。まるでフレミングの法則を示すかのように長い指が三方に跳ね上げられている。

「鵜飼さん、彼を呼んでください」


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