暴力④ 夢想と酔狂
主人公の回想によって、無気力の根源が明らかになる。生きる屍は何者にも屈服しない。鋭利にやられても、殺気に狙われても……。活路は無心にある。
後頭部への衝撃で、脳天に火花が散りました。薄れゆく意識の最中、罵倒の声もわたしには届かないのです。もう幾度も演じてきた暴力による服従。稽古という名の蹂躙です。だから耐えられました。今日は無理です。今のわたしはオフなんですから。
「お前さえいなければ―――」
向き合った鋭利さんは、鬼気迫るようでした。問答無用、一直線に肉薄してきました。恐らくは正拳突き。非暴力不服従を訴えるより前に、わたしは宙を舞ったのです。どんどん心は剥離していきます。そんな中、わたしは一方で不思議でした。
(わたしがいなければどうだと言うのだろう)
と。疑問なのです。彼女にとってわたしの価値が占める割合が。わたしがいないことで姉の寵愛を受けるのでしょうか。そう思い込むことで気持ちの負担を軽減しているだけなのです。彼女は自身と向き合わず、安直な理由に『逃げ』ているのでしょう。
責めたい訳ではありません。これは同情なのでしょうか。はたして同調なのでしょうか。少なくとも叱責の念は皆無です。精神が肉体を離れ、幽体離脱のような浮遊感。わたしには思考することしかできないのです。がむしゃらな彼女を見ていると、ふと昔を思い出しました。
中学生の頃でしょうか。何年生かも思い出せません。ともかく希望と夢に胸を膨らませた時分のことでした。正道を信じ、邪道を排斥しました。もちろん、平和的に。健全に。非合法に。
しかし個人の力など、社会的には無価値でした。いじめという集団心理は無法地帯なのです。体格が強い者が威張り、有産階級が金を唸らせる世界でした。それでもわたしはコウモリのように立ち回りました。
結果、誰も救えないピエロでした。わたしは火の粉が掛からない程度にじゃれていたのです。児戯に等しい、ただの偽善にすぎません。そうして一人の少年の死が、わたしに現実を突きつけたのです。
「俺の最期を見ていてくれないか」
彼がそう言った時の、穏やかな顔は忘れません。あざだらけの顔で澄み切った瞳。全てに疲れたのでしょうか。一切の迷いがありませんでした。そしてそこに至るまでの経緯を、わたしは少なからず知っています。
陰口、リンチ、道具の破棄、隠匿、数えきれません。そこにわたしはいません。止めることも、守ることも、向かうこともせず。一緒に帰って、慰めることしかできないのです。どこまでも無力で、恐怖に支配されていたのでしょう。わたしはただの傍観者に成り下がっていました。
いいえ、立派な加害者ですね。見て見ぬ振りという名の『無視』です。今でも心臓が締め付けられるようでした。慚愧の念にたえません。
(最期とか、そんな悲しいこと言うなよ)
喉まで出かかった言葉。咽頭が潰れたかのように、声が出ませんでした。乾燥していたのか、喉元からかすれた音が漏れるだけです。やらない後悔より、やる後悔。言う資格が無かったにせよ、止めるべきだったのです。悔恨の念に悩まされるぐらいならば。
その日もいつも通りのはずでした。放課後しっかり遊んでもらい、ボロボロの制服を整え、鼻血を腕の甲で拭い、肩を落として帰る。そんな日々は、とうの昔に臨界点を超えていたのでした。彼はとうとう生きる望みを捨てたのです。わたしはその事実を受け止められないでいるのです。
「帰ろう」
わたしの声は空々しく響きます。彼は一つ頷いて、校舎の中に入っていきます。もしかして、わたしは瞳孔が開くの感じます。彼は進みます。足を引きずりながら、それでも着実に一歩一歩。どんどん屋上に向かっていきました。わたしはゴクリと喉を鳴らしました。早鐘のように心臓が波打ち、足に鉛が付いたように歩みが遅れます。彼は断頭台に向かい、天に帰るつもりなのです。
「歴史の尾藤、今日傑作だったよな。寝不足なのか、半分声寝てた」
「将来さ、警官になりたいんだよ、俺」
「あー百万くらい金あったらなぁ。金持ちだったらいいのに」
「母さんと父さん、仲良くやっててくれよ」
金網の向こう、飛び降りる直前のことです。唐突とも言える独白でした。これまでになく饒舌さで、彼は早口にまくし立てます。風が幾度も吹き、彼の横髪を払いました。学校、家族、夢、そこには彼の全てが詰まっていました。わたしはもうその頃には、心が鈍麻して、どこか非現実的に感じるのです。
不思議でした。この時点において喜怒哀楽のどれにも属さない、無我の境地。喜々として話す彼を前に、わたしは呆然と街並みを眺めていたのです。躁うつ病患者の二面性が同時に存在しているような。そんな奇妙な光景でした。言い終わった後、彼は満足気に星空を見上げました。心が凪いでいるのか、チラリと見えた横顔はどこまでも穏やかです。
「じゃあ、行くわ。ありがとな」
今生の別れにしてはあまりにも淡泊な挨拶。それでも彼は迷うことなく飛び降りました。呆然と残影を見つめてることしかできません。これはドッキリで、ひょっこり戻ってくることを期待していたのかもしれません。下を覗く勇気も持てなかったのです。心にぽっかりと穴が開いたようでした。
わたしが生きていて、彼は死んだ。ただそれだけのことなのに。それだけとは失礼ですね。それでも興味が失せたのです。彼に?自分に?加害者に?恐らくは全てに。気付けば大の字に仰向けでした。
薄氷を踏み抜き、深海に落ちていくような感覚。それは感情的なものであり、実際はアスファルトの冷たさしか感じないのです。体の芯まで冷えていく時、わたしは体を起こします。いえ、これはもうわたしの意思なのでしょうか。
全身の力が抜けているにも関わらず、意志とは無関係に歩き始めました。全く奇妙な体験でした。神のご意思でしょうか。ゆっくりと屋上のドアが閉まる音が響きます。無気力も突き詰めると、自動化になる。一つ勉強になりました。
―――
わたしは胡坐をかいていた。屋根の上からし合いを見る。妹の鋭利。もう一人は木梨勉。鋭利は勉に勝つだろう。それは間違いない。問題はそこからだ。
鋭利が一気呵成に攻める。低姿勢で下から潜り込み、意識を下に向けさせる。左アッパーでブロックを崩し、右の正拳突き。空手というより、ボクシングでいうインファイターになるか。どっちみち勉はまともに受けて吹き飛んでいる。いつにも増してやる気がないな、あいつは。
軽い失望と落胆はあるが、それ以上に面白い。あいつのぶれなさは好きだ。そしてむしろここからが本番なのだ。惜しむらくはそれに鋭利が気付けないことか。現に今、顔を真っ赤にして怒っている。
「姉上、こいつのどこがいいのですか!!」
声を大にしての咆哮。思わず笑ってしまう。鋭利の走り去る音が遠ざかっていく。しかしそれでいい。そのひたむきさ、実直さ、素直さに好感を持つ。それに勉の理解者はわたし一人でいいのだ。
鋭利が去ってもわたしは勉をしばらく眺めていた。ゆっくりと彼は立ち上がり、何事も無かったように歩いていく。足取りは重くもなく、軽くもなく。顔の傷はハンカチで拭ってお終い。普段から傷の絶えない日々を送っているせいか、まるで違和感を感じない。わたしは鳥肌が立った。
「あいつの本気、一度でいいから見たいな」
地面に降り立ち、勉の去った方を向きながら呟いた。その時ジャリ、と敵意を込めて地面を踏む音がした。見知らぬ女がこちらを睨んでいる。どこの誰か知らんが、わたしにカツアゲを挑もうとは。首を左右に振って、呆れ顔にもなるというものだ。
「よくもまぁべんちゃんを傷物にしてくれたわね……」
「…………誰だ?」
「あんたに名乗る名なんて無いわよ!バカ!」
わたしは『べんちゃん』の方を聞いたつもりだったのだが。日本語というのは難儀なものだ。蹴り主体の攻撃をいなしながら嘆息する。飛び蹴りによる多段蹴り。滞空時間と手数がいい味を出している。重さは無いが、鋭い。かすっただけの頬から血がにじむ。女だからと顔を狙わない配慮がない。実に素晴らしい。
「うぐっ。げほっげほっ……」
相手の出方を伺ったところで、腹に一突き。右足を蹴り出した瞬間だったため、カウンター気味に入ってしまった。女はもんどりうって苦しんでいる。おかしい。そこまで強く入れたつもりはなかったのだが。どうもこの女、打たれ強くはないらしい。いや、これが普通か。勉に慣れ過ぎて、逆に新鮮味がある。
「目的はなんだ」
「ぺっ」
反骨精神は買おう。不良の強がりみたいな態度も嫌いではない。地面に膝を付きながらもなお、闘志の光を目に宿している。わたしはこめかみの数ミリ前に竹刀を突きつけた。ビクリと体が固まった。蛇に睨まれた蛙だな。気丈に目を吊り上げているが、一瞬見せた怯えの瞳を逃さない。わたしは質問を変えた。
「『べんちゃん』とは誰だ?」
「……木梨勉。わたしの夫よ」
「………………は?」
何とも間抜けな声が出た。出さない方がおかしい。大学生の分際で夫婦だと?いや、偏見か。それにつけてもそんな素振り微塵もなかった。今度はわたしの体がビタリと止まった。
「だからべんちゃんを傷つけていいのはわたしだけなの!分かる?!」
意気揚々と宣言する。言葉の反撃で気を良くしたのか、女は得意げだ。しかしわたしは別のところに意識が行った。そう、実に都合が良い。
「ほう、なるほどなるほど」
「な、なによ。右半分は~とか、四分の一を取り分とか、そういうの無しだからね」
「痴れ言をぬかすな。つまりお前は勉に取って一番大事ということだな」
「なに呼び捨てにしてんのよ!」
わたしは喉元に竹刀を突きつける。本気でやったため、見えなかったに違いない。ひっと可愛らしい悲鳴を漏らした。ゴクリと唾を飲み込んでいる。わたしが真剣だと知ると、恐る恐る口を開いた。
「そ、そうよ。なんか文句でもあ、あるっての?」
「いいや、文句など一つもないさ」
女の返事を待たず、わたしは気絶させる。これ以上の会話は無意味。お膳立ては整ったという訳だ。最愛の女が危機に瀕する。勉としては逃げる訳にはいかないだろう。わたしは言いようのない喜びに満ちていた。久しぶりに命のやり取りができるかもしれない。これ以上の高揚感をわたしは知らない。
名も知らぬ女に感謝せねばなるまい。人質として―――
「ああ、そうか」
なぜ生かす必要があるのか。どちらにせよ邪魔者ではないか。わたしは自分の痴呆さに笑った。そうだ。本気を出さねば殺す。わたしが勝てば伴侶になってもらい、有言実行で女を処す。怒り狂ったとしても望むところである。実に名案ではないか。
わたしは女を肩に担ぎ、大きく頷いた。
さて、なかなか暗い話が続きました。少々作者のテンションも下がります。次で終わりの予感です。勉と殺気に対決が終われば、殺気編は終了となります。次はどうしよう。三人になったことなので、それぞれを掘り下げてハーレム系かつ、ほのぼのな話でも書こうかと思案中……。
ここまで読んでいただきありがとうございました。