九、犬目峠
兵史郎ら三人は上花咲宿の戸田屋という旅籠に投宿した、宿に入ると早々に風呂と夕餉を済まし兵史郎は紫乃と真之介を目前に呼んで語りかけた。
「二人とも聞いてほしいのだが、例の坂本一派の動向のことじゃ…。
小仏の関所を過ぎれば関東取締出役の影響力は強ようなる、となれば真っ昼間から刀を抜いての蛮行に及ぶは難しい、よって彼らが襲撃出来るのは小仏関所以西と考えるべきであろう。
であれば関所までの旅程から考察するに襲撃は明日か明後日が順当、それと今日の昼過ぎの事じゃがそれらしき人陰を街道筋で見かけておる…どうも敵の動きが慌ただしくなってきたように見えるのじゃ。
昼間儂らが越えた笹子峠を覚えておるか、あそこの地形は襲撃にはうってつけの場所であったが、何故か襲って来なんだ…たぶん何らかの齟齬が生じたのだろう、今日のところは幸い免れたが明日はそうはいくまいよ、敵も相当焦ってきておるゆえのぅ…。
そこでじゃ、儂一人であれば敵が十人いようと何ら臆する事はない…しかしおぬしらが一緒では十分に力が発揮できぬ、よって明日はおぬしらと一旦離れようと思うておるのじゃが…。
「えっ、そんな…私たちだけで敵に立ち向かえとおっしゃられるのですか」
と驚いたように真之介が目を剥いた。
「いやそうではない、この先の街道を二町ほども行くと郡代の出先所が有る、そこに半日ほどもおぬしらを匿ってもらおうと思っての」
「では青山様お一人で行かれるというのですか」と紫乃も不安そうに口を開いた。
「そうじゃ、敵の狙いはおぬしらの命と紫乃さんが背負っているその風呂敷包みじゃ、ゆえに明日は儂がその風呂敷包みを持って彼らの目につくよう歩こうと思っての」
「では囮となって行かれる所存…」ようやく二人は理解した。
「儂の感働きでは彼らは明日犬目峠で仕掛けてくるとよんでいる、ゆえに犬目峠に行って彼らを退治して…なぁに倒したらすぐにもここに戻ってくるゆえ安心せぃ」
「いやです、私たちも連れて行って下さい」と二人は怒ったように兵史郎に詰め寄った。
「お前達…無理を言うではない、お前らまで斬られたら誰が五兵衛の仇を討つのじゃ」
「青山様、私と真之介は十二の頃より父上に剣の手ほどきを受けております、そう易々と敵に遅れは取りませぬ、先日は初めて人斬りの場を見て不覚にも震えてしまいましたが…一回見て腹は座りました、今後は青山様の足手まといにはなりませぬゆえ私たちも連れて行って下さい」と今にも泣きそうな顔で兵史郎の膝を掴んできた。
「そうか、二人は五兵衛から剣術を教えられておったのか、しかしまだ子供であろう」
「それほどお疑いなら私どもの腕をお試し下さい」
そう言うと二人は立ち上がり、部屋の隅の乱れ箱より短刀と脇差しをそれぞれ取り出すと兵史郎の前に対峙した。
紫乃は短刀を引き抜くと小太刀でも握るように構えた。
「ほぅ、紫乃さんは小太刀を使うのか…では腕の程を見てみるか、二人とも儂を殺すつもりで掛かってきなさい」そう言うと立ち上がり、座卓を部屋の隅に押しやり二人の前に立ちはだかった。
「さぁ掛かってこい!」の兵史郎の掛け声に まず紫乃が可愛い気合いと共に鋭い突きを入れてきた、兵史郎は体を開きそれを捌いた…刹那、紫乃は瞬間に空気を切り裂くほどの早さで回転すると兵史郎の右脇めがけ次の太刀を繰り出してきた。
と同時に真之介が右斜め袈裟懸けで兵史郎の項を魂魄の気迫で切りつけて来る、後方は壁で引きしろ無く素手では防ぎ切れないため兵史郎は体を横に倒しながら真之介の足を払い前方に脱出した。
脱出と同時に体を半回転捻り膝立ちに起きた、そのとき紫乃がいつ体勢をたてなおしたのか鋭い三の太刀を繰り出した、その切っ先は確実に兵史郎の喉元に迫っていた。
兵史郎はそれを上体のみを横に移動し 辛うじてかわすとその腕を掴んだ。
その時、紫乃の後方より音を唸らせ真之介の刀が降り下ろされてきた、これを防ぐには紫乃の体を盾にせねばならず、その防御法は危険に過ぎ兵史郎は遂に観念した。
真之介の刃は頭の二寸手前でピタっと止められた、
兵史郎はこの鮮やか過ぎる二人の組み打ちに一瞬目を見張った、この二人が今のように組んで連続技で掛かったなら並の剣客では防ぎきれまいと感じたからだ。
特に紫乃の小太刀特有のうなるような回転力…もし紫乃が短刀でなく一尺長い小太刀を握っていたなら今頃兵史郎の喉に深々と突き刺さっていただろう、それにもまして真之介の振れのない豪速なる振り降ろしの手並みは余程の鍛練を積んだとてこうはいかない。
「そこまでやれるとは思わなんだ、んん凄い恐れ入った、これは儂の完敗じゃ」
「では私どももお連れ下さいますよね」と二人は目を輝かせた。
「そうとも、連れていかいでか、これならば足手まといと言うより助けにもなるわさ」
と兵史郎は笑った。
(五兵衛めようも仕込んだものよ、それにしても血は争えぬ、この歳でこの域に達するは天性そのものであろうか)と兵史郎は満足げに独りごちた。
だがなんと言っても二人は子供、剣技がいくら優れていようと人を殺すとなれば訳が違う、まずは殺人への怖れが克服出来ねば技がいくら優れようと無用の長物である。
殺人を犯すということは自分の経験から推量すれば怖れ以上の憎しみか、或いは土壇場の殺すか殺されるかの追詰めが必要となろう、さて二人はどちらで克服するのやらと兵史郎は思った、しかしできうる限り二人には剣を抜かせずに済ませたいと願った。
翌朝は早くに宿を発ち、早足で今宵の宿である相模川畔の関野宿に向かった、途中「刃物」という看板を見つけ紫乃の小太刀が購えないかと店に入った。
だが店に入ってみると僅かばかりの包丁と鎌や鋤鍬ばかりで刀は置いてはなかった。
ちょうど奥から出てきた主人らしき爺様に「小太刀は無いのかえ」と兵史郎が聞いた。
「有りますよ」と気さくに言い 奥に引っ込んだ、暫く待つうち埃が被った朱塗り鞘の小刀を持って現れた。
「これが二尺丁度の脇差しになりますよ」と主人が差し出してきた。
見れば柄巻は虫食いに傷み、鞘を抜けば刀身の至る所に赤錆が浮いていた。
「こんなものを売ろうというのか、無礼なやつめ」と兵史郎は少し怒って主人を見た。
「これは失礼、では少し小ぶりになりますが良いのが一振り有りますが…少々お高くなりますよ」と横着にも兵史郎をつま先から頭までを値踏みするように睨め付けた。
「有るなら早うに出さぬか」と兵史郎も睨み付ける。
再び奥に引っ込むと今度は刀袋に入った長物を大事そうに持参し、紐をほどくと中より刀を取りだした。
今度は埃も被っておらず柄巻きの鮫皮にも艶が有った、鞘から刀身を抜き出すと錆も無く長さ一尺六寸と小ぶりではあるが紫乃が持つには丁度の長さであろうか。
「御主人、これは備前物じゃな、でっ いかほどするのじゃ」
「へぇ、備前物で長船祐定になりまする しかし天文年間の粗製濫造期の作によって、へへっお値打ちに六両五分にまけときますわ」
「何っ、これが六両五分とな馬鹿を言え、江戸で買っても四両で釣りがくるわい!」
「あっ 左様で御座いますか、ならば江戸で買いなされ」言うと主人は刀を袋に戻しかけた、相手の方が一枚も二枚も上手であろうか。
「わかった!買う、買うからしまうな、じゃが六両五分は高い五両にまけよ」
「しかたありませんなぁ、わかりました五両にまけましょう」と主人はしたり顔。
刃物屋を出ると兵史郎は無性に腹が立ってきた。
(好々爺の顔をしくさって何という因業爺だ、それにしてもあんな小太刀に五両も払うとは…足下を見おってからに、はぁ散財したわい…江戸まで路銀はもつだろうか)
と懐に手をやり、軽くなった財布を握りしめ兵史郎は顔を顰めた。
紫乃は小太刀を買ってもらったことが余程嬉しかったのか大事そうに抱え、手溜まりを良くしたいのか何度も握っては己の手になじませていた。
そんな可愛げな紫乃を振り返り兵史郎は「紫乃さん、その小太刀は手に馴染むかえ」と聞いたみた。
「はい、父から戴いた小太刀より二寸ほど長いけど、この方が調子が良いみたい」
そう言いうと素早く小太刀を抜き払い、空気を切り裂きながら体を鋭く回転させた、それは見ていて感心するほどの小太刀の舞であった。
途中猿橋宿を過ぎたころである、兵史郎らの後方三町ほどに深編笠を被った四人の男が見え隠れしているのを真之介が見つけ兵史郎の袖を引いた。
「ふむぅ気がついたか、奴らは二里ほどもつけてきておる、真之介もう振り返るでない」
そう言うと兵史郎は前方に目を凝らした、だが前方にはそれらしき人影は見えなかった。
(後方の敵はこれで揃ったわけか…)と兵史郎は独りごちた。
その四人は付かず離れずおよそ三~四町の間合いを取って後を付けてくる、そうこうするうち下鳥沢宿の繁華に入った、兵史郎らはここで昼餉をとり半時ほど休んだ、その間も目は辺りを注視していたが敵の陰は知らぬ間に消えていた。
新しい草鞋に履き替えると三人は再び歩き出した、この宿場を出れば次の犬目の宿までは人家は途絶える、その途中には例の険しい犬目峠待っている。
(やはり襲ってくるのは犬目峠であろうか…)と兵史郎は後ろをそっと振り返った。
下鳥沢宿を出て暫く行くと街道は左に折れ山道に変わった、この山道は葛折れの上り坂でいつまでも続いた、(ふぅ難儀な坂じゃ、いつまで続くのか…だがここで疲れていてはいざというときに息が上がる)兵史郎はそう思い歩調を落とした。
四半時も歩いただろうか前方の道は大きく右に曲がりを見せた、兵史郎の緊張は次第に高まっていく、気づけば三人の前後には暫く旅人は絶えていた。
(あの曲がり道の向こうは見えないが三町も行けば犬目峠になるはず…)
曲がり道を越えると二町ほどまっすぐな道が現れた、その道の突き当たりは左に折れている、兵史郎がもし待ち伏せするならこの見通しの良い直線道路を選ぶであろう、道路の左手は崖で右手は谷、路幅は一間半と左右に逃げ場は無い、だが幸いな事に左手の崖は草に覆われ 路面より九尺ほどの高さに二尺幅ほどの棚が半町に渡って切られていた、この道普請のさい何らかの必要から削られたのだろうか。
兵史郎はその棚が切られた中央近くまで進むと辺りに殺気を感じ立ち止まった。
「お前達、いよいよじゃ ここで五兵衛の仇を討つぞ!」
そう言うと道中袴の後ろをたくし上げ腰帯に突き込んだ、そして鞘に巻いた下緒を外すとそれをたすきに掛け袂を深く絞って引き締めた、二人もそれを見て各々倣った。
「この棚に二人は上れ」そう言うと二人の顔は緊張に強張った、真之介は草を掴むと身軽に棚上へ登りあがった、紫乃は兵史郎が尻を押してやり真之介が引っ張り上げた。
その時である、街道の前後より今まで見えなかった敵がこちらに向かい走り込んでくるのが目端に入った、やはり予想的中である前後四人ずつの男らが深編笠を投げながら兵史郎の前後に殺到してきた。
兵史郎は紫乃と真之介が棚上で刀を抜き払ったのを見届けるや道の中央に戻り、敵が近寄るのを待った。
「じ爺!子供らをこちらに渡せ、渡せば命だけは助けてやろう、ほれ道を空けるよってさっさと去ねぃ」そう叫んだのは あの革手袋をした男であった。
その男は言うと崖側に寄り、後の三人もそれに従い崖に手をついた、その崖上には紫乃と真之介が不安顔で崖にへばり付いていた。
空けた谷側をもし兵史郎が歩けば斬りつけてくるか谷に落とす算段であろう。
兵史郎は無言のまま笠を取り八人の技量を推し量っていく、どうやら使えそうなのは前方は手袋の男のみ、後方は痩せた年配の男一人と見切った、後は不本意ながら命令に従い仕方なくついてきた連中であろう。
つまりこの二人を倒せば総崩れになるは必定、敵との間合いは双方一間、敵は余裕にも未だ刀を抜いてはいなかった。
(先手に出るか…)と思った瞬間に兵史郎は前方高くに飛び上がり空中で抜刀していた。
手袋の男は一瞬目の前から消えた兵史郎を上空に見つけ慌てて刀の柄に手を掛けた、とその瞬間 兵史郎は彼の脳天めがけ一気に斬り下ろしてきたのだ、その勢いは凄まじく それはもう五十をこえる老人の動きではなかった。
その振り降ろしは渾身の兜割である、豪速なる刃は手袋男の脳天に当たるや首下まで一気に斬り裂いたのだ、それは敵に身構えさえ与えない問答無用の殺人刀法である。
その時 破裂するように飛び散った脳漿や血しぶきは両側に立つ男らを直撃した。
その叩き付けるような血飛沫に「ヒィッ」と呻いた瞬間その二人も兵史郎の返す刀で一人は喉を抉られ、もう一人は袈裟懸けに肩から肺まで切り裂かれていた、だが辛うじて端の一人だけは反射的に尻餅をついたが幸いし辛うじて刃を逃れると這うよう遁走に移った。
一瞬目の前で起こった問答無用とも言うべき先手を駆けた殺人に後方を塞ぐ男らも固まっていた、そのとき血に濡れた鬼がやおら振り返ってその男らを睨め付けたのだ。
その形相を見るやようやく四人は恐怖を感じ、谷側の一人は後方に仰け反った勢いで谷に落ち、一人は悲鳴と共に這うようにして遁走、崖側の男は何を血迷うたのか崖を登り始めた。
何とかその場に立ち止まったのは中央に立つあの痩せた年配の男一人だけだった、
兵史郎は血が滴る切っ先を僅かに下げると流れるような所作でその前に進み、年配の男に一間の距離をおいて対峙した。
これまでの全く無駄のない流れるように動きと、まるで舞踊でもしているように人を無慈悲に切り刻んでいく刀法、一体どんな修行をしたらこんな仕事が為せるのか…年配の男は忘我の中で刀を構えるのがやっとの状態だった。
棚の上によじ登った男は右手から威嚇するように紫乃に向かって突きを入れていた、しかし腰は完全に引けていた、これでは紫乃の敵になろうはずもなく、兵史郎は横目で見て安心したように対峙した男を再び見据えた。
対峙は続いた、わずかに踏み込めば容易くこの男の首は落とせようが、しかし此奴を捕まえ五兵衛の事を洗いざらい喋らせたかった。
また男は男で動けなかった。
あの日…縛られ動けぬ大目付に跨がり、その腹に深々と刃を突き通したとき、大目付が垣間見せた今にも喰い付きそうな怖ろしげな眼差しと、いま目の前の野獣そのものの眼が被り、食い殺されそうな怯えに体が竦んで引くにも引けなかったのだ。
そのとき棚上が動いた、紫乃の後方に位置した真之介が崖上に蹴上がると紫乃の側方を回りこみ左袈裟懸けに男の首を切りつけたと見るや、紫乃は深々と男の胸板に小太刀を突き刺していた、この二人の相調子は目にもとまらぬ速技で、男はなすすべも無く討たれ首から噴水のように血を噴き上げながら街道に落ちてきた。
それを見た年配の男はここで無様にも刀を落とした。
その場に力なく尻餅でもつくように座り果てたのだ、完全に戦意喪失である 男は口を結ぶとがっくり項垂れ呆けた。
それを見て紫乃と真之介は棚から飛び降り兵史郎の元に駆け寄った。
「真之介、この男が誰かわかるか」と聞いた。
真之介は腰を落とし暫く男の顔を見つめた、すると驚いたように立ち上がり「こいつ父上を駕籠に押し込めた目付頭の太田宗右衛門です」
言うやいなや真之介は血が滴った切っ先を男の首にあてがった、その勢いは今にも突き刺さんばかりの気迫がこもっていた。
「真之介!殺すでない、まだ此奴には聞きたい事があるのじゃ」
そう言うと兵史郎は刀を一振りし鞘に収めると襷を外し、その下緒を持って男の後ろに廻るとその腕を取り上げ後ろ手に縛り上げた。
兵史郎は男の肩に手を当てると髷を強く掴み首筋を伸ばすように引っ張り上げた、男は藻掻いて痛がったが兵史郎はかまいなしに「おぬしが目付頭の太田宗右衛門か…やはりのぅ」と呟いた。
「高田五兵衛の腹に刃を突き刺し切腹に見せかけたは きさまであろう!」
兵史郎は大音声で吼えた。
男は震えながら頭をガクガクと前後に揺らし応えた。
「して先ほど儂が頭を切り裂いた手袋の男は坂本威一郎よな」
男は同様に頭を揺らす。
「五兵衛の奥方は何処に捕らえられておるのじゃ」
「・・・・・・・・・」
「言わぬか!」そのとき真之介の切っ先が五分ほど首に刺し込まれた。
男は顔を歪ませ悲鳴を上げると「に、二之丸座敷牢…」と洩らした。
「生きておるのか」の問いに苦しそうに頭を揺らした。
「では儂等を追っているのはあと何人おるのじゃ」
「じ、十人…」
「さて、もう聞きたい事は無いか」と兵史郎は真之介を見た刹那、横合いから紫乃が「父の敵!」と叫びなが小太刀を男の胸板に深々と突き立てた、それをうけ真之介も「覚悟!」と叫び 首にあてがっていた切っ先をそのまま反対側へ勢いよく突き抜けさせた。
男は一瞬 断末魔に全身を大きく痙攣させ首を反り上げた、そして「ガク」と力なく後方に仰向けに倒れた。
紫乃と真之介は憎々しげに男の顔と胸に足裏を掛けると刀を引き抜いた、そして暫く呆然と佇むと紫乃が大声で泣き始めた、それにつられるように真之介も泣き出す、それはまるで幼子の泣きじゃくりのようにも聞こえた。