八、上花咲宿
秋の夜は更けていった、宿裏から聞こえてくる虫の音が二人の寝息に割り込むように融け込んでいく、兵史郎は無邪気な顔で傍らに寝むる子らを見ながら五兵衛が書いた行状調書を風呂敷に包み枕元に置いた。
(さて…そろそろ寝るか)そう思うも未だ思考が鮮やかすぎ すぐには寝付かれないだろうと思った。
どうせ眠気が訪れないのならもう少し五兵衛の事を考えてみるか、そう思い布団に仰向けに寝そべると頭の下で手を組んだ、すると天井に描かれた雨染みが行灯の光りに揺れ再び兵史郎を思考の中へ誘っていく。
怒りの収まらない坂本一派は、次なる五兵衛失脚の奸計を巡らす事になった。
そしてこの年の夏の事である、夏というに気温は低く九月に入ると秋の訪れより先に冬のような寒い日が続いた、四十年ぶりに信濃一帯を襲った冷害である。
米の収穫は例年の半分以下で他の雑穀や野菜などの収穫量も激減した、そして翌年の春には蔵米の底は尽き、諏訪藩に限らず信州諸藩の財政悪化は深刻なものになっていった。
この冷害により翌年の春過ぎには信州各地で一揆や打ち壊しが頻発し、夏前には諏訪領内も例外に洩れず百姓一揆が勃発、また同時期に運が悪い事に江戸藩邸が焼失し藩財政は破綻状態にまで陥った。
これに目を着けたのが御櫓脇派である、現勘定奉行の高田五兵衛の無策が御家困窮を招いたと喧伝し、数度に渡り殿へ五兵衛更迭を進言したのだ。
藩主・忠恕はこのとき江戸藩邸の焼失や藩財政の破綻、そして諏訪高島藩で初めて百姓一揆を引き起こしたという不名誉を恥じ失意の底にあった。
失意による気の弱さであったろうか遂に坂本一派の度重なる進言に折れ、五兵衛の勘定奉行職を解き下役である目付頭に役替えを命じた、これにより御櫓脇派の坂本秀興は再び勘定奉行に返り咲く事となった。
五兵衛は失意の内に目付頭としてせめて役を全うしようとするが、大目付や同役の目付頭は御櫓脇派の者らで占められ、坂本一派の策謀か五兵衛には満足に仕事などは与えられず、出仕してもやる事と言えば昔の傷んだ調書を新しく書き写すぐらいしかなかった。
それでも二年が経ち、坂本秀興の悪辣なる執政が功を奏したのか領民の不平は高まる一方であったが藩の財政破綻は何とか回避され改善の兆しに向かっていた。
そして十年が経った天保七年、隣国の甲斐東部の郡内地方に発生した百姓一揆が甲斐全土に波及した、世に言う天保騒動である。
この騒動で諏訪高島藩は八月二十三日、甲府勤番・永見伊勢守の命を受け五兵衛は一揆鎮圧のため翌二十四日に藩兵六十五名を率い甲州に向かった、一行は甲信国境を越え西大武川村に展開する騒動勢と対峙することとなった、だが騒動勢は暴徒化し刀・槍や火縄銃さえ携えているため鎮圧は困難を極め藩兵にも被害が続出した。
しかし二十六日、甲府勤番より一揆勢の殺害布達がなされたことから五兵衛は捕縛困難として武装をもって騒動勢の強行鎮圧に踏み切り二十八日までにこれを収束せしめた。
この功により五兵衛はその時空席にあった大目付に昇進し、その後は御櫓脇派の妨害工作も次第に絶えていった、またそのころ藩主は病に伏せがちとなり剣術指南や学問教授はいつしか長子・鍈太郎君(後の忠誠)専任となっていった。
天保四年に始まった東北地方の陸奥国と出羽国に端を発した飢饉は天保の大飢饉と呼ばれ日本全国に波及し、先の天保騒動の引き金ともなった飢饉であったが、諏訪藩も財政が上向いてきた矢先の飢饉厄災であり米価急騰の打撃は深刻であった。
この飢饉による藩財政逼迫から、勘定元執政・坂本秀興は繰廻と称し、家中の知行や物成の一部を借上、また御郡中からも石高に応じ御借用金と称し借上げを実施、自転車操業的手法で藩の財政破綻を糊塗していた。
この特別会計である繰廻は初めから返済の見込みなど立てておらず陰では搾取金とも呼ばれ最終的には百姓の負担相殺となるべきものであった、そのため高島藩では昔から繰り返されてきた会計手法で公金着服の温床にもなっていた。
これら繰廻からの御借用金は藩の特別会計から御勝手方役所の一般会計に移されるのだが実際は三割ほどが途中で掠め取られていた、だがそんな会計が出来るのは会計全てを取り仕切る主税掛兼務の勘定奉行・坂本秀興しかいない。
彼ら一派はそのほか検地をやり直し貢租を減じその差額の六割を要求するなど多岐に渡り冥加金や賄賂徴収などは公然と行われ、その行状は青葉を蝕む害虫の如く財政難で喘ぐ高島藩をさらに蝕んでいった。
これらで得た資金は年間およそ一万両にも達し御櫓脇派、特に坂本一派に多くが流れ派閥内の覇権を固めるに寄与していた。
五兵衛は大目付職を拝任後これら坂本一派の行状をつぶさに調べ調書に記録していった、だが天保十年秋口 三年かけて纏め上げた調書を何者かに盗まれてしまった。
調書を大目付御用部屋に置いていた事が抜かりであった、犯人は坂本派の目付頭・太田宗右衛門と知れてはいたが証拠は無く十二冊にも及ぶ調書を再び書き表すは途方も無い事であった、だが幸い下書きが屋敷に大凡残っていたため、五兵衛は下城後 密かに屋敷内で再び作成を開始した。
だが事件は別の所から起こった、当時藩主の忠恕は参勤交代で江戸に出府したまま江戸藩邸で病に伏せ長きの療養に入ったため政務は三之丸派江戸家老の千野頼隆と国元の御櫓脇派筆頭家老の千野貞由が行っていた。
事の発端は殿が三之丸派の江戸家老・千野頼隆に政務執行をこれ以上続けるのは困難としてそろそろ息子に家督を譲りたいと洩らしたのが発端であった。
このことは当然国元の筆頭家老・千野貞由にも伝えられた、驚いたのは御櫓脇派で特に坂本一派らであった、彼らは殿の長の患いをよいことに政務を私しこれまで甘い汁を散々吸ってきた連中である、順序から言えば次代の藩主を継ぐのは長子・忠誠(幼名:鍈太郎君)で御櫓脇派に対立する三之丸派が擁護する若君である。
この若君が諏訪高島藩を相続すれば藩の権力は三之丸派に移動し、これまでの御櫓脇派の行状が明るみに出るのは必至、当然ながら早すぎる藩主交代の様相に御櫓脇派は狼狽えた。
長子・忠誠の外祖父は寛政期の幕府老中首座・松平定信で、定信には将来を嘱望されて育ち、また高田五兵衛の教授により藩きっての剣の腕と学識の高い若君に育っていた。
その英明さは諏訪藩初代の頼水公をも凌ぐと言われるだけに もしこの若君が九代目を継いだなら御櫓脇派のこれまでの行状は暴かれ崩壊は必定と御櫓脇派の誰しも思ったに違いない。
直ぐさまその対策は練られ、忠誠の弟である頼図を担ぎ出す画策が巡らされていく、この頼図は兄とは違い凡庸なる若君で御櫓脇派の家老千野貞由が特に可愛がっていた経緯もあり御し易いとふんだのだ、早々にそれら画策は実行に移され、第一弾は大胆にも若君忠誠暗殺の方策が煉られていったのだ。
そして天保十一年一月十四日、諏訪藩初代藩主・頼水公の祥月命日に当たる日、坂本一派は若君が少数の供を連れお忍びで頼岳寺に墓参りに向かうことを嗅ぎ付けた。
しかしこの日は午後になっての急なる墓参りとなったため、暗殺に適す剛の者をすぐに調達できず坂本家に当時寄宿する浪人八人の内、剣の達者な一名は温存し残る七名を甲州街道沿いの姫宮神社の林に潜ませたのである。
だが結果は一行の中に剣客高田五兵衛がおり、また若君が予想以上に強かったため事は失敗に終わった、このとき死に残った暗殺者三人のうち若君に腕を切られた男は坂本屋敷に帰る途中 出血多量で死亡、残る二人は金子を与えられ即日越後に放逐された。
この失敗により却って三之丸派による若君防備は厳重となり、若君暗殺は暗に御櫓脇派の仕業と主張しているようなもので、以降は安易に若君に近づく事もままならず、御櫓脇派は高田五兵衛に恨みを募らせ焦っていった。
そんな焦る中、遂に若君忠誠は正式に家督相続を受け幕府にも承認され諏訪高島藩九代藩主を継承してしまった、こうなれば手を出すどころか逆にいつ捕縛の手が回るかしれたものではない、御櫓脇派は戦々恐々のなか急遽方針を変え三之丸派の重職者をこれまでに蓄財した潤沢なる資金で「抱き込み工作」にかかっていった。
だが問題は殿が信頼を寄せている高田五兵衛の存在である、幸い坂本派の目付頭・太田宗右衛門が運良く高田五兵衛が密かに御櫓脇派を調査し書き上げた調書は盗んで焼き捨てていた、しかしその調査下書きや写しなどを持っておるやもしれず、また高田五兵衛が生きている限りいつでも書く事が出来るし喋る事も出来よう。
高田五兵衛を抱き込む事が出来なければ彼が生きている限り御櫓脇派に安穏は無い、ならばいっそ五兵衛を殺してしまえ、五兵衛を殺し家宅捜査して全書類を手に入れれば証拠隠滅しあとはどうとでも糊塗することは出来よう。
こうして高田五兵衛の暗殺は必須として坂本一派らで暗殺計画は進められていった。
だがここで安易に高田五兵衛を暗殺すれば殿は必ずや坂本一派の仕業と疑うはず、また五兵衛を暗殺するといっても彼に敵う者など諏訪にはいない。
ならば五兵衛が自ら切腹して果てたというなら問題は無かろう、切腹の原因などは事前に収賄の偽造文書でも造っておけばよい、自分らが日頃やっているだけに収賄のネタなど何処にも転がっていた。
以降切腹という暗殺計画に変更され煉られていく、その計画とは。
八月十四日坂本派の奥右筆が偽造の「上意書」を造る、翌日早朝に目付頭・太田宗右衛門が高田屋敷に乗り込み殿の上意書を見せる、上意書を見せれば五兵衛の性格から手向かう事なく捕縛を許そう、
そして城内二之丸の奥書院に連行し縛り上げたるを幸いに屈強の者らで押さえ込み五兵衛の腹に刃を突き立てる。
また高田屋敷に乗り込みたる目付下役らは高田屋敷内を隈無く家宅捜索し全書類を証拠書類として押収する。
このとき兵史郎は はたと夢想を止めた。
(二十日以上も過ぎた頃、再度高田屋敷に踏み込み奥方の捕縛や家宅捜査を実施したのは何のためだろう、目当ての書類に不足ありやと気付いたためか…)
兵史郎は半分夢うつつの中、これまで子らに聞いた内容と調書文面から五兵衛が死に至るまでの状況行程を起想してみたが、三分の一は兵史郎の創作で繋ぎ合わされている、(やつらはこのようにして実行したのであろうか…)そう思ったとき急に睡魔が訪れ意識は薄れていった。
翌朝目覚めたとき紫乃と真之介は部屋にいなかった、兵史郎は大きく伸びをし起き上がった、すると昨夜枕元に置いた風呂敷包みが目に入る、中身は五兵衛が書いた調書十二冊だ。
夕べ時間を掛けてじっくりと読んだが、ようもこれ程に詳しく書いたものよと感心した、達筆さは然る事ながら文章構築の見事さ、事件の裏を読み解く洞察力など どこを読んでも兵史郎にはけして真似の出来ない建白書仕立てであった。
その時二人が部屋に入ってきた「まっ青山様起きていらしたのですね、昨夜は遅かった由、よく眠られておりましたゆえそっと抜け出したのに…起こしてしまって」
そう言いいながら二人して布団をたたみ始めた。
「おぬしら顔を洗ってきたのか、さて今日は何処まで脚を伸ばそうかのぅ、この時間に出れば上花咲宿までは行けようか」そう言いながら窓辺により街道筋を眺めた、もう街道には多くの人が行き交っていた。
宿を出たのは朝五ツ半のころ、街道には多くの人が行き交い甲州の勝沼界隈は活況を呈していた、兵史郎らは辻の両側で喧しく商う朝市を楽しげに見ながら一路東に向かって歩き出した。
暫く歩くと紫乃が甘えるように兵史郎の手に触れ繋いできた、そんな紫乃が愛しくなり横顔をそっと見た、秋風に睫毛はフルフルと揺れ、白く嫋やかな頬は目映く光っていた、思わず(美しい)と思うも(いや可愛い…かな)そう思うと自然に笑みが零れてくる。
兵史郎には女子はいなかったが、もしこれほどに可愛い子がいたなら…そう思ったとき五兵衛が偲ばれた。
(子らがまだ小さいというに志半ばで理不尽にも殺されるとは、神も仏も無いのかよ)
五兵衛の不遇時代を知るだけに五兵衛がやっと掴んだ名誉や家庭を彼から毟り取った坂本派と称する姑息なる連中に腹の底から憎しみが湧き上がった。
(奴ら…やりたい放題が露見しそうになれば己らの保全のため、まるで虫けらでも潰すように五兵衛を抹殺したというのか、蛆虫どもめ…奴らは儂が必ず殺してくれるわ!)
そう思うと知らぬ間に手に力が入り紫乃が「あっ!」と小さく叫んだ。
「おっとすまぬ、考え事していたら思わず手に力が入ってしもうたな」
「ううん、ちょっと驚いて…でも青山様は力も強いし背も高いですね、わたしこんなに大きな人は初めてです、江戸には青山様のような背の高い人は沢山いるの」と仰ぎ見た。
「どうじゃろう、これまで儂より背が高かった者は…ふむぅ思い出せぬのぅ」
「やっぱり青山様は凄いんだ、男の人は逞しくなくちゃね…真之介も青山様みたいに大きくなるのですよ」と隣を歩く真之介を小突いた。
「姉上、それは無理です父上の背丈を思い出して下さい」そう言って口を尖らした。
「これこれ、五兵衛は剣術をやりすぎて背丈が伸びなかったんだ、五兵衛が真之介の頃にはもう大人を打ち負かすほどの腕前になっておっての、それが面白うて二人して日夜修行に励んだものよ」
「ではなぜ青山様だけがどうしてこんなに背が伸びたのでしょう」
「それは儂が鍛錬を怠っていたからさ、若いころ儂がどんなに頑張っても五兵衛には勝てなかったなぁ」
「まぁ父上ってそんなに強かったの」
「そうさ、江戸でも五本の指に入るほどよ」
そのとき後ろから鋭い殺気を感じた。
五兵衛は瞬時に丹田を固め、子らには分からぬよう左手を袂で隠しながら鞘をそっと握り静かに鯉口を切っていた、そして全神経を背中に集中させる。
背に気配を感じ、間合いを見切った刹那 後方の敵を抜き打ちざまに斬り倒す技は神道無念流の「立居合」には無く、兵史郎が諸国修行のとき 後方からの闇討ちに対応すべく編み出した得意技でもある、ゆえにいつでも掛かってこいとばかりに相手が仕掛けるのを待った。
しかし殺気はフッと消え、三人の横を深編笠を被った男が急ぎ脚で通り抜けていった。
(何だ、斬りかかってくるのではないのか、ならばこちらから仕掛けてみるか)
一瞬兵史郎は思ったが堪えた、何もわざわざこちらから仕掛けることもなかろうと、どうせ先に行けば待ち伏せしていよう、その時纏めて斬り倒した方が効率的というもの。
(これで先を進むのは都合四人か…では後方には何人が儂らの後をつけていよう、しかし…いま通り過ぎていった男は左手に革手袋をしておったが…何かの呪いか)
紫乃と真之介は兵史郎が急に黙ったため何か気に障る事でも言ったのかと心配そうに兵史郎を見つめていた。
「ごめんごめん、話の途中じゃったな、ところでいつ頃の事だったか忘れてしもうたが…五兵衛の書状に女子が生まれたと書かれてあったが、その子は紫乃さんのことかな」
「そうだと思います、でもそんなことまで青山様に…」
「んん余程嬉しかったのであろう、でっ紫乃さんはいくつになるのかの」
「十八になります」
「そうか、あれからもう十七年も経つのか…」
そんなとりとめの無い会話をしながら歩いた、やがて勝沼宿を過ぎたころ街道は山道となり緩やかな登り道となった、そして駒飼宿を過ぎたころには坂道は一層険しくなり三人の歩速は落ちた。
「これより笹子の峠道になり少々辛いが頑張れよ」そう言いながら兵史郎は二人の手を握るとずんずん牽引して上った。
兵史郎は峠を登りながら時より後方を振り返った、ここからだと五町先まで見通せる。
(この辺りは道幅狭く片側は林で片側は崖、敵が仕掛けるには絶好の地形であろう…もし攻めるのであれば当然前後から挟み撃ちが上策、しかし後方にはそれらしい陰はみえず、ふむぅ…待ち伏せはここではないのか)そうは思うも辺りに気を巡らし進んだ。
やがて街道は下り坂になり三人の歩速は軽快になった、前方の視界は大きく広がり見せ民家もちらほら見え始めた。
(笹子峠で待ち伏せがあるものと思うたが…敵の準備が間に合わなかったようじゃな…しかしここまで来ればもう大丈夫じゃろう、こうも通行人が多くなれば敵も控えるはず)
昼もだいぶ過ぎたころ三人は空きっ腹を抱え大月の黒野田宿に入った、入るとすぐに飯屋を探し飛び込んだ。
「二人とも腹が減ったろう、あの坂はきつかったからのぅ、ほれ紫乃さんもこんなに汗で汚れてしもうて」そう言うと懐から手拭いを取り出し紫乃の顔を丹念に拭いた。
飯屋を出ると甲州街道に戻り、今宵の宿泊地である大月の上花咲宿に向かう、宿まではおよそ三里、暮六ツまでには着けるであろうと少し急ぎ足で歩いた。
(こうも人出が多ければこの先 宿に着くまでは襲って来ぬであろう、であるならば明日か…、もし明日であれば上野原の犬目峠辺りになろう)
兵史郎は敵の攻撃にどう対処するかを模索していた、兵史郎一人であればたとえ敵が十人といえど使い手や優秀な指揮者がいなければ烏合の衆である、二~三人も切り倒せば恐怖で浮き足立つだろう、だが問題は紫乃と真之介である、この二人が敵の手に落ちれば手も足も出ない。
(敵に囲まれ乱戦ともなれば三人は分断され散り散りになるは必定、敵はその辺りを狙い まずは子らを確保するはず、さてさてどう対処したものやら)
そのころ兵史郎らの五町先を深編笠を被った四人の武士が早足に歩いていた。
先頭の一人は頭目らしく先ほど勝沼宿の手前で兵史郎らを追い越した革手袋の男だ、後の三人は革手袋の男に従うふうで少し後方に控えて歩いていた。
「しかし予定の笹子峠の襲撃に後詰めの太田宗右衛門殿が遅れるとは如何した事よ、あれほど絶好なる場所はこれより先には少ないと言うに」と手袋の男は余程悔しいのか しきりに拳を振りながら歩いていた。
「威一郎様、きょう笹子峠で襲撃に失っした場合は明日 犬目峠で仕掛ける手筈となっておりまする」
「そんな事は百も承知じゃ、黙っておれ!クソッ…あんな老ぼれ爺なんぞは儂一人で十分に討ち取れたものを、おぬしら後詰めが揃わぬとて止めおってからに、なんで爺相手に挟み打ちを仕掛けそれも八人もの大人数で襲わにゃならんのだ、情けない それでもおぬしら目付かよ!」
「しかし…韮崎宿の外れで河田様ほどの使い手が爺に一刀で切り倒され…」
「たわけ!この俺を川田ごときと一緒にするな、先ほど爺の後ろに付いたとき奴の背中は隙だらけで余程切ってやろうかと思ったが…それを我慢したと言うに、もうよいわ!それで今宵の宿の手配は出来ておろうな」
「はっ、この先の下花咲宿の田野屋という旅籠で太田宗右衛門様らと落ち合う手筈になっておりまする」
それ以降四人は黙って先を急いで歩いた。




