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七、栗原宿

 兵史郎、紫乃、真之介の三人は栗原宿の小松屋という旅籠に投宿した。

旅籠は昨日泊まった宿に比べれば数段落ち、宿銭も安心であろうと兵史郎は独りごちた、懐具合は潤沢であったがこれから先 何があるかは知れたものではない、金に足るはないであろうと通された部屋の造りに見入った。


部屋は六畳間で三人が寝るには丁度の大きさであろうか、先ほど風呂に入り夕餉を済ませたところであった、部屋は既に布団が敷かれ三人は布団の上に座って語り始めていた、しかし真之介は眠たそうに目を虚ろにし兵史郎と紫乃の会話を聞く側に回っていた。


そして夜も更けた頃、兵史郎は紫乃からこれまでに聞いた話と、五兵衛から送られた十数年分の便りの内容、それと兵史郎が知りうる諏訪の歴史を綜合し今回の「事の顛末」を創作も加えながら構築していた。


その頃には真之介も紫乃も兵史郎のすぐ横で可愛い寝息を立てていた、兵史郎はその二人の可愛げな寝顔を見ながら五兵衛が若かりし頃の顔と重ね(たぶん奥方に似たのであろう)と独り笑った。


しかし江戸に着いたならどうするかである、老中首座・水野越前守がこれを知れば必ずや諏訪忠誠を呼び きつく御下問に及ぶであろう、下手をすれば譜代とて改易は免れまい、それでは死んだ五兵衛が浮かばれない、諏訪御櫓脇派のみを成敗し御家はお咎め無しとする方策を考えねばと兵史郎は腕を組んだ。


(それにしても御櫓脇派、特に坂本一派らのやり口は汚い、まっ何処の藩でも大なり小なりこんな輩はおるものじゃが…殿様が暗愚だとこんな輩が蛆のように蔓延るもの、ふむぅ…こんなことで家臣や領民が犠牲になるのは実につまらぬ話じゃ!)


兵史郎は心の内で吐き捨てるように呟くと再び思考の内に入っていった。



 戦国期、諏訪の領主・諏訪頼重は隣国の武田晴信(信玄)の侵攻を受け切腹して果てた、これにより諏訪宗家は滅亡したが頼重の従兄弟である諏訪頼忠は諏訪神官として生き残った。


後年、頼忠は「天正壬午の乱」のとき諏訪氏を再興、後に家康の家臣となり慶長五年の関ヶ原の役では徳川秀忠軍に従い功績をあげた、その功により慶長六年 子の諏訪頼水に旧領・諏訪高島への復帰が許され頼水は徳川幕府における諏訪高島藩初代の藩主となる。


この初代の頃より諏訪家には代々家老を輩出する重臣二家があった、一つは源氏の昔より諏訪氏に仕えてきた千野家で千野頼房を初代とし諏訪高島城の三ノ丸に屋敷を構えることから「三之丸家」と称されていた。


もう一つは初代藩主・頼水の弟である頼雄を初代とする一族で二ノ丸に屋敷を構え「諏訪図書家」(二之丸家)と称されていた、この二家は初代より交代で諏訪藩の歴代家老を輩出してきた家格にあったが…創設期より互いに反目しあい、そのため諏訪藩家臣団にも二つの派閥が派生していた。


それから百六十年が経った明和の初めの頃である、三之丸家の当主は千野貞亮(兵庫)、二の丸家の当主は諏訪頼保(大助)で、積年の反目が高じ遂に「二之丸騒動」へと発展した。


そのときの諏訪藩の藩主は六代・諏訪忠厚で生来病弱で政務には関心はなく暗愚無能の藩主であったという、為に筆頭家老が藩主に代わり藩の実権を掌握していた。


二之丸騒動は藩の財政悪化に端を発し、藩政改革から藩の主導権争いに転じ、その両派閥の対抗激化が騒動へと発展した、当時藩の実権を掌握していたのは筆頭家老を擁していた三之丸派で藩政改革は当然三之丸派主導の元で始められていた。


改革は新役所が設置され新切・新汐・開削・畑直しが次々に打ち出され、物成金納・本途物成・年貢や上納・運上金も次第に好転増加していった、こうしたなか賄賂政治も横行したがそれなりに改革は進み藩主・忠厚から賞賛を受けるまでになっていった。


しかし一方の二之丸家の当主・諏訪頼保はこのままでは三之丸派に藩の実権を完全掌握されかねないと三之丸派の追い落としを画策していく。


その画策とは、現状行われている財政改革は領民からの極端なる税搾取であり とても改革とは呼べない粗末に失し、一揆誘発の危険さえありやといった讒言ざんげんであった。


この讒言に藩主・忠厚は仕方なく調査を開始、これが事実と判定されるや「御勝手掛けの処置不届き」として、藩主の自筆で厳重注意され千野貞亮は家老職を解任、三之丸派の役人三十人程が役向きが粗雑として知行・家屋敷が没収され逼塞を申し渡された。


これにより二之丸家の諏訪頼保は首席家老となった、しかしこの諏訪頼保ははかりごとはたつが清廉など微塵も無く、姦淫・遊興に耽り 為に以前にも増して悪政がまかり通っていくことになる。


だが三之丸家の派閥はこの悪政を黙って見過ごさなかった、安永八年三月諏訪藩江戸屋敷の藩主・忠厚を訪ね二之丸家・諏訪頼保の淫らな行状と暴政を訴えるに及んだ、これにより今度は頼保が家老を罷免され知行召し上げ閉門蟄居の命が下された。


その後、この二家の攻防は泥仕合と化し讒言や追い落としなど足の引っ張り合いは続き、ついには諏訪藩の家督相続を左右するまでに混乱を極めた。


しかしこの混乱を放置すれば幕府にいずれ察知され御家改易は必定。

このため現状、藩主忠厚の子・頼粛を調伏し藩政を牛耳ろうと企む二之丸派を処断する事が賢明とされ、天明三年七月遂に二之丸派・諏訪頼保に切腹の処分が下された。


また二之丸派重臣四名には打首、その他八十名ほどに永牢や座敷込・知行召上が命ぜられ、関係した百姓や町人までもが処罰された、こうして二之丸家は断絶しここに「二之丸騒動」は終焉した。


これにより家老を輩出する家は「三之丸家」の一家となったが、二之丸騒動後の天明五年、三之丸家でこのとき既に隠居の身であった千野貞亮が「御櫓脇家」を創設し、再び三之丸家と御櫓脇家の二家が諏訪藩家老を輩出していく事になる。


しかしその後、二家の出自は同家にもかかわらずこの二家はまたもや派閥化し対抗していくのである、五兵衛がこの諏訪高島藩・御納戸奉行を勤めていた高田家に婿入りしたのはそれから三十年後の文化十三年も暮れようとしていた頃であった。


五兵衛が婿入りしたとき藩主が代替わりの時期で、文化十三年十一月二十一日、七代藩主・諏訪忠粛の隠居により跡を継いだ長子の諏訪忠恕が八代藩主となった。


この忠恕の代になった文化年間においても諏訪高島藩は依然慢性化した財政難に窮しており、これに追い打ちをかけるように東北地方で発生した飢饉が米価・諸物価を高騰させ高島藩の財政はいっそう厳しいものになっていった。


藩主・忠恕は逼迫する財政を憂い財政再建を目指すべく検地・税制改革・諏訪湖の治水工事・養蚕業を大いに奨励し、逐次力を入れていったが小藩の人材不足は否めず再建は遅々として進まなかった、そのため優れた人材の登用が急務とされ藩主自らが人材登用の指揮に当たった。


五兵衛が高田家に婿入りすると当主の清兵衛は翌年文化十四年三月、五兵衛に家督を譲ると隠居した、これにより御役は一役下がり五兵衛は御納戸組頭に就いて藩主の御側近くに仕えるようになった。


当初組頭に就いたときは他国の婿入者よとそしられ苦労はしたが、二年もしないうちに優れた能力は隠しようもなく藩主は何かと五兵衛を重用した、また大都会大江戸の昌平黌に学び学問吟味で甲科を及第したと知れるや新参者の誹りは次第に消えていった。


当時は江戸の昌平坂学問所に学んだというだけでこの片田舎では名誉であり、ましてや幕府学問吟味で甲科及第などあり得ぬ話だった、学問吟味(試験)とは寛政の改革を行った老中松平定信によって、旗本・御家人の学問奨励のため寛政四年から始められ、幕臣出世の登竜門であると、こんな片田舎の諏訪でも知れわたる程だった。


学問吟味の受験者は年間およそ二百三十~二百六十人ほどで、及第するのは一割に満たない難関である、その中でも甲科及第などは数年に一人出るか出ないかといったほとで、それはもう学者扱いである、そんな秀才がわずか三万石のそれも小藩諏訪家に仕官するなどはあり得ぬ話であったのだ。


五兵衛の身元調査はすぐに諏訪藩江戸藩邸に命ぜられ、調査の結果「間違いなし」の報告が寄せられるや家中は沸いた、五兵衛の能力を日頃驚異に感じていた藩主・諏訪忠恕は得たりとばかりに、「人材登用の儀により勘定奉行に任ず」と人事発表したから驚いた、普段であればあり得ぬ話で、勘定方衆や勘定組頭を一気に飛び越え奉行職筆頭である勘定奉行に任命されたからだ。


五兵衛も驚いたが高田家中も沸き立った、隠居の清兵衛などは「さすが儂が見込んだ婿殿だけのことはある」と手を打って喜んだ、しかし後がいけなかった元々勘定奉行職は御櫓脇派の重鎮・坂本家が三代に渡って拝命している重席であり、現在は当主の秀興が奉行に就任していた。


一方高田家は、鎌倉のむかし千野氏の陪臣となり、慶長の頃より三之丸派に所属し代々諏訪藩の奉行席を勤める重臣でもあった、中でも四代と五代目は勘定奉行を勤め藩の財政再建に功を為し九代目となる五兵衛が勘定奉行に就いたとて無理はない。


だが坂本秀興は自分の代で御役替えとなるのは恥として以降 御櫓脇家を背景に三之丸派となった五兵衛に対し露骨な妨害工作を打ち勘定奉行職の失脚を狙った、それでもこれら妨害をよく凌ぎ少しずつながらも諏訪藩の財政再建に功を為していった。


ところが奉行職就任から五年後の文政六年春のことである、何かと武辺を好む藩主忠恕は御前試合を催した、この御前試合は毎年春の恒例行事であったが五兵衛は己の剣の腕前は他人に告げておらず、これまでの御前試合にも参加してはいなかった、しかし今春は坂本一派の裏工作で出場者の候補に名が上がってしまったのだ。


この御前試合の出場者は今年も十人とされ、試合の方法は勝ち残り式で まずは一組目が試合を行いその勝者とまた新たな対戦者が試合を行うというものである。


ゆえに最終勝者が最初の一組目に選出されていれば都合九人と立ち合わねばならず、余程の体力が無ければ試合参加は覚束ない、五兵衛はこのとき齢四十で誰が見てもこんな過酷な試合に出場する年齢ではなかった、これは御櫓脇派の画策で五兵衛が辞退するのを見越し腰抜け呼ばわりし、これまでの五兵衛の評判を落とすことが目的だった。


しかし五兵衛はこの企みを察知し何と出場すると申し出たのである、これには周囲が驚いた、しかし最も驚いたのは当然辞退するものと画策した御櫓脇派・坂本一派の者らであった、だが坂本秀興だけはこれを奇貨として「馬鹿な奴、出るというなら試合にこと寄せ殺すことも出来ようか」とほくそ笑んだ。


諏訪藩では御前試合が恒例になったころより怪我人が続出していた、そのため行事の中止を憂いた藩主・忠恕は「もし怪我をさせたりそれが元で死亡したとしてもお咎め無し」と決めていたのだ。


ちなみに昨年の優勝者は御櫓脇派・坂本秀興の長子・坂本威一郎である、彼は高島藩江戸藩邸で在勤のおり、アサリ河岸の士学館(桃井春蔵道場)で鏡新明智流を三年ばかり修行し多少なりとも剣の心得はあった、だが諏訪の片田舎にあってはこの程度の腕前でも向かうところ敵なしで遂には藩内随一と評され天狗になっていた。


坂本秀興は威一郎を呼び「高田五兵衛を誤りを装って撲殺できぬか、もし殺せなくとも肩か腕の骨を砕き政務出来ぬようにせよ、なぁにそちの腕なら容易な事よ」と命じた。


そして御前試合の当日が来た、場内の広庭に陣幕が張られ その中央奥の床几に殿が座りその両側に三之丸派と御櫓脇派の重臣らが並んだ、出場者は殿に対峙する反対隅に片膝立ちで居並び順番を待っていた。


殿より開始の命が下ると審判が中央に出て試合の趣旨及び注意事項が説明され早々に試合開始が宣言された。


五兵衛の順番は幸い六番目に組まれていた、ならばじっくりと観戦しようかと肩の力を抜いた、一番目の立会は双方二十過ぎの若者らで接近もせず気合いばかりで決着が付かない、余程木剣に当たるのが怖いらしい、それは見ていても苛立つほどであった。


これが真剣であれば一日戦っても勝負はつかないだろうと欠伸あくびを堪えるのに苦労した、それでもまぐれで当たった一本が功を奏し何とか決着が付いた。


勝者に与えられる休み時間は柄杓で水を飲む程度しか与えられず、勝者が肩で息をしているのに「始め!」の声が掛かった、次の者は若干腕がたつようで先の勝者はあっけなく敗れた。


こうして試合は順次進みいよいよ五兵衛の番となった、五兵衛は立ち上がり中央へ進み殿に一礼し対戦者に一礼すると「始め!」の声で木剣を青眼に構えた、だが相手は三人抜きしたため息は上がり膝が震えていた、これでは試合にならずと相手の呼吸が整うまで間合いは詰めず構えたまま対峙した。


審判はこれを見て「始めぬか!」と叱咤した、この声で相手は我に返ったように闇雲に突っ込んできた、五兵衛はその切っ先を木剣の鎬筋で軽く払うとそのまま腕を伸ばし相手の肩に打物部を軽く触れさせ横に飛び退いた。


「それまで!」の掛け声で両者中央に進み一礼して試合を終えた、五兵衛は息一つも乱れは無く次の対戦者を待った、こうして次々と難なく勝ち進みようやく最後の対戦者である坂本威一郎が出てきた。


出てきた威一郎は六尺近い偉丈夫であった、五兵衛の見たところこれまでの対戦者より多少は強そうに見えた、しかし藩随一の使い手と人から怖れられるには士学館に最低十年ほども通い、せめて目録ぐらいは取得しなければ話にならない。


ましてや撃剣館の師範代との対戦など夢のまた夢であろうか。

それでも互いに一礼し構え合う…だが全く物怖じしない威一郎の尊大なる構えを見て首をひねった、桃井春蔵道場で多少なりとも剣術を修行した者であれば五兵衛の力量などすぐにもわかり、普通であれば恐怖に怯え試合どころではないはずだ。


(これは駄目だ、こちらの腕の程が全く見えていない、この若造は桃井の道場に遊びにでも行っておったのか…)五兵衛は一気にやる気をなくした、しかしそれとは裏腹に相手の眼光は鋭く光り今にも牙を剥いて突出してくるようにも見えた。


(此奴おかしい…構える前から殺気を紛々と放っていたが…儂を殺そうとでも狙っておるのか、まさか父親の差し金…)とは思ったが(こんな稚拙な腕で儂を殺そうとは何を勘違いしておるのだ、まっ適当にあしらって勝ちを急ぐか…)


そう思ったとき、威一郎は気合いもろとも大上段から振りかぶってきた、五兵衛は体を開いて横にかわすと相手の胴に木剣を軽く当てそのまま力任せに押し倒した。


五兵衛はすぐに審判を見た、だが審判は「まだまだ!」と言い威一郎が立ち上がるのを待っている(おかしい…これが真剣ならば小倅の胴は今頃二つ斬り分かれているはず、審判は何処を見ているのだ…)


威一郎は皆が見守るなか無様にも押し倒され、羞恥から憤怒の形相に変わると 今度は渾身の突きを入れて来た、五兵衛はこれを木剣の鎬で滑らせる様に横に逸らせると威一郎の喉元に木剣を当てた。


(さてどうするか…)と五兵衛は一瞬考えたが勝手に体が動いてしまった、突進を受けつつ木剣の小尻を首筋に当て直すと同時に脚を掛け大きく横に払った、すると威一郎はその場で見事に半回転し後頭部を地面に叩き付けた。


見守る一同はその光景に息を飲んだ、藩随一の使い手と仰がれる威一郎が頭一つ分も小さな五兵衛にまるで子供扱いなのである、誰が見ても勝敗は明らかであった。


それでも威一郎はふらふらの体で立ち上がると足下も覚束ぬのに木剣を構えた、これを見て審判は「始めよ!」と叫んだ、明らかに審判は御櫓脇派の者であろう、どうしても威一郎を勝たせたいらしい。


わざと鏡心明智流の奥義「足さばき」で転がし、負けを思い知らせてやろうとしたが、威一郎が通ったという桃井道場の看板奥義であるのに本人は全く気付いていない。


(これは駄目だ…自流の奥義も知らぬこんな輩は少し痛い目を見せるしかないな)

五兵衛は早々に決着をつけるべく右上段に構えた。


これを見て得たりとばかりに威一郎はまたもや突きで仕掛けてきた、五兵衛はこれを避け一歩後退する、するとすかさず胴抜きに来る、(やはりこの程度か…)と五兵衛は相手の木剣が胴に届く瞬間、相手左手首めがけ怖ろしい速度で木剣を振り下ろした。


「バシッ!」という嫌な音と共に威一郎の木剣は地に叩き付けられ、本人は無様な悲鳴を上げると苦痛に顔を歪ませ地に転がった。


(あぁぁこれは痛かったろう、手首の骨が砕けたな…)

つい腹立ち紛れに腕を切り落とすほどの勢いで振り下ろしたことを後悔した。

(こんな素人相手に本気を出すとは…はぁ我ながら情けない)


当の威一郎の手首は奇妙な角度に折れ曲がり、本人はその手首をみるや再び悲鳴を上げ地を転げた、そこへ三人の者が駆け寄り威一郎の腕や肩を掴み、悲鳴を無視し陣幕外へと引きずっていった。


「勝者、高田五兵衛」審判は気がついたように勝者の名を上げた、そして忌々しそうに五兵衛を一瞥し威一郎の後を追いかけた、五兵衛は殿の方に向き直ると一礼した、その後殿からはねぎらいの御言葉があり優勝の報償を賜った。


その後、五兵衛が余りにも強いため坂本一派は五兵衛の出自を江戸藩邸に命じ調べさせた、その結果 五兵衛は諏訪に来る前は江戸で有名な剣術道場「撃剣館」で師範代を務め、江戸でも斉藤弥九郎・千葉周作と並び五本の指に入る剣客と知れてしまった。


これを聞いて坂本一派らは怒った「著名なる剣士が素人を相手にやり込め、怪我までさせるとは、もはや故意に違いなし!」と喧伝したのだ、自ら仕掛け逆襲に遭えば逆恨みをする、もう馬鹿者としか言いようのない連中であった。


坂本一派はこれをあろう事か殿に讒言した、だが「たわけ者!」の一言で一蹴され面目を失う、武辺者と自認する藩主・忠恕は江戸で聞こえし剣の達人が我が膝元にいると思うだけで宙に舞い上がるほど嬉しかったからだ。


その後、藩主・忠恕から諏訪藩剣術指南役を併職するよう御達しがあり別途役料二百俵が追加された、こうして藩主に剣術指南を行い その後当時二才だった長子・鍈太郎君が成長して行くにつれ四書、五経、三体詩や朱子学、そして剣術に至るまで教授していったのだ。


しかし大事な息子を片端者にされた坂本秀興は怒り心頭に発していた、威一郎の手首は粉砕骨折し一ヶ月近くも腫れが引かず熱が引いたときには手首は反って動かなかった、田舎とて適切な治療が施せなかった結果であろう。


こうして怒りの収まらない坂本一派は、次なる五兵衛失脚の奸計を巡らしていく事になる。

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