二、上諏訪宿
上諏訪宿の明かりが次第に近づいてきた、そして風が出てきたのか諏訪湖は白波に覆われ湖畔の石垣に波飛沫が立っていた。
兵史郎は五兵衛と撃剣館で競い合った昔を思い出しながら歩いていた。
五兵衛は三十俵取りの御家人の家に生まれ父は南町奉行所の同心をつとめていた。
貧乏人の子だくさんと言うが、彼も例外にもれず末の五男に産まれ 幼き頃より辛酸を嘗め尽くす赤貧の幼少時代を送ったという。
だが学問と剣技には天分の才があり、十七歳のとき素読吟味を及第し昌平坂学問所に入所、二十歳のとき学問吟味では甲科を及第していた、また剣技でも天分の才を発揮し二十を二・三つも過ぎた頃には撃剣館において兵史郎とともに竜虎としてその名声は江戸中に知れ、剣をもって立身出世をしようではないかと行きつけの居酒屋で二人して息巻いていたことを今でも懐かしく思い出す。
一方兵史郎の方は直参旗本六百石、足高二千石もいただく裕福な幕府重臣の家に生まれた、しかし四男の悲哀に変わりなく、長子は跡継ぎとして可愛がれ次男三男は高家や大番旗本に養子に迎えられた、だが末子であった兵史郎が元服したころには既に父は隠居の身で養子の口はついにかからなかった。
そうともなれば独力で仕官の道を探さねばならない、兵史郎は十七歳のとき親友・五兵衛に誘われ昌平坂学問所の素読吟味を受け何とか及第した、だが五兵衛ほどに学問は優れず一年もしないうちに女と酒におぼれ昌平坂学問所を退所、その後は放蕩三昧の日々を送っていた。
兵史郎が堕落したのは友の五兵衛が余りにも優れ、嫉妬の悲哀からであったが金銭に苦労がなかったのも原因と言えようか、厳格だった父の後を継いだ長兄は兵史郎とは親子ほども歳が離れ兵史郎が為す事には甘く、また兄嫁も兵史郎が甘えれば小遣いは潤沢に出してくれ遊興費には事欠かなかった。
それでも武芸だけには飽きはなく撃剣館に通いつめ剣技ばかりは五兵衛に負けないと自負していた、しかし十九歳のとき 師匠を前にして三本勝負を行い二本も取られ嘆き苦しんだ。
そのときの衝撃は如何ばかりか、学問も剣技でさえも五兵衛に勝てないと分かったとき、自信喪失は深く撃剣館通いもやめ放蕩の限りを尽くした、しかしそんな兵史郎を見かねた五兵衛は一年に渡って兵史郎を涙ながらに諭し何とか撃剣館に引き戻したのだ。
兵史郎はこのときから放蕩生活に見切りをつけ剣技に打ち込んでいった、そして五年がたったころ幸運の女神は天才・五兵衛を差し置いて不出来な兵史郎に微笑んだ。
当時 神田猿楽町の神道無念流の撃剣館は隆盛を極め、幕府要職や大名江戸屋敷の子弟らの多くが挙って入門していた。
丁度そのころ肥前唐津藩水野家江戸藩邸では剣術指南役・保賀征四郎が急死したため後釜の剣術指南役を探していた、そんなおり当時江戸で隆盛を誇っていた撃剣館の塾生に白羽の矢が立った。
当然 撃剣館の竜虎と謳われた兵史郎と五兵衛の名が候補に上がったのは言うまでもない、だが水野家では二人の素性を調べ当時兵史郎の兄らが幕府の重職にあったことから家柄のみで兵史郎に決めたのである。
この成り行きを師の岡田吉利に聞いた五兵衛は己の低き身分を嘆き慟哭したという、それ以降二人の中は冷えていき、兵史郎が水野家に仕官した後は音信は次第に途絶えていった、ただその五年後ようやく五兵衛にも遅い春は訪れた、信州諏訪藩の大納戸役・高田清兵衛の入婿になったというのだ。
そして七年が過ぎたころ初めて五兵衛から便りが届き、可愛い女の子が生まれたとの知らせを送ってよこした、そんな便りがあってからは年に数回の文のやりとりが始まり十四・五年ほど続いた…しかし数年前より五兵衛の返信は途絶えがちになり、今年の春 二年ぶりに便りが届いたばかりだった。
諏訪高島の高田五兵衛宅を辞してから六町あまりも歩いたころ、ようやく前方に上諏訪宿の繁華な通りが遠くに見えてきた。
(どうやらもう少しで宿場に入れそうだな、たしか五兵衛の文に上諏訪宿は古くから諏訪大社の門前町として栄え、温泉が名物と書かれてあったが…しかしこんな時刻に宿など空いていようか…)
そう思うと先ほどの冷淡なる用人の態度が思い出され再び腹が煮えてきた、
(あの用人め、せめて墓の所在くらいは教えてくれても罰は当たるまいに)
思えば思うほどに腹は煮え 怒りは沸々とこみ上げてくる。
そのとき後方よりばたばたと切羽詰まったような足音が聞こえた。
(こんな時刻に…何事だろう)
兵史郎は胸騒ぎを覚え、振り返ると軽く三戦立ちに身構えた。
辺りは暮れ一団の姿形は定かではない、しかし明らかに自分を追っている姿勢に見えた、その一団は兵史郎から二間余りに殺到すると息を整えつつ背を低く構えジワジワと周りを囲み始めた。
兵史郎を取り囲んだのは武士と思しき五人の集団である。
江戸を出るとき「近頃信濃は治安悪く、博徒や夜盗物盗りの類いが横行し信濃悪党取締出役らも手が付けられぬほどの荒廃ぶりと聞きまする、父上くれぐれもお歳を考え、けして悪党退治などしようとは思わないで下され」と息子の兵一郎に釘を刺されたことから兵史郎はこの集団を夜盗物盗りの類いと思った。
「そこもとの面体を検める!笠を取れぃ」
兵史郎のちょうど正面に立った男が一歩にじり寄り、凄んだ声で叫ぶと腰をさらにかがめ刀の柄に手をかけた。
(んん、面体を検めるとは…夜盗ではないのか、それにしても何と横着な物言い)
「じ爺!早よう笠を取らぬか、取らねば叩き斬るぞ!」
言うやその男はさらに間合いを詰めてきた、明らかに剣術に心得ある者に見ゆる。
「これ!何と無礼な奴儕、人を立ち止め一方的に笠を取れとは何たる言いぐさ、貴公らまずは名を名乗られよ!」ただでも腹が立っているところへ男らの傍若無人なる態度に憤怒がこみ上げてきた。
兵史郎は男らに周りを囲まれたとき刹那に五人の技量は看破していた、剣客として常に念頭にあるのは相手を倒せるかということである、もし相手が同等或いはそれ以上と感じたなら次は如何にして無事退避するかを模索するのだ、しかしこの五人については退避は無用と判断した、襲いかかってくれば一瞬で斬り伏せることが出来ようと読んだからだ。
相手は五人、彼らの所作や足の運びから兵史郎ににじり寄る男だけは多少なりとも剣の心得あるものと見た、しかし遠巻きの四人は剣とは無縁な者らであろう。
兵史郎はにじり寄る男を尻目に一見無造作に歩み寄った、もし相手が剣技を極めた者であれば兵史郎の身のこなしを見ただけで震え上がるはずだ、それを見極めるためであったが…しかし前方の男は後退するどころか逆に肩を怒らせた。
(これはだめだ…)と苦笑を噛み殺した、これが弟子であれば一喝するところであろう。
「きさまその風体からして 用人の岡田益太郎であろう、真之介と紫乃を何処に匿った!、言わねば斬るぞ」言いざまに腰の刀をギラりと引き抜き上段に構えた。
(はぁ…勢いだけは立派だが何たる無様な構え、隙だらけではないか)
兵史郎はこのとき、想いにおいて瞬時に突出し脇差しを横薙ぎに一閃、対峙する男の両腕もろとも首を一瞬で斬り落としてしていたのだ。
「岡田益太郎…はて誰のことじゃ、人違いであろう」とさらに頓着無く一歩前に出た。
抜き身を前にして全くたじろがぬ兵史郎の落ち着いた態度に 対峙した男は怯むように後方へ二歩下がった、ようやくただ者では無いと気づいたようだ。
そのとき横で身構えていた男が「島田様、この男…岡田益太郎ではありませぬ」と身構えを解き後退した。
「そ、そう言えば声が違うな…しかし風体は奴そのものよ、紛らわしいじ爺め何処ぞに消え失せろ!」と言葉は威勢はいいが声に震えを帯びていた。
「きさまその言いぐさは何じゃ!、人違いをしておきながら消え失せろとはよう言えたものよ、謝れぃ馬鹿者!」
「口の減らぬ糞爺め、いまはきさまなど相手にしておれぬわ、皆のもの先を急ぐぞ!」
そう言うと兵史郎を避けるように後退し一団は走り出した。
「これ!待たぬか」
兵史郎が呆れ果て声を発したときには彼らの後ろ姿は闇に消えようとしていた。
兵史郎はそれを呆然と見送りながら(腹の立つ奴らめ…どうしてくれようか、しかしこの信濃という国、ほんにろくでもないところよ…はぁ来るのではなかった)と前方の街の明かりを見つめ思わず溜息が洩れ出た。
兵史郎が予想した通り、上諏訪の繁華にある宿は何処も一杯と断られてしまった。
仕方なく寂れた湖畔沿いに宿を求め彷徨っていたとき一軒の宿に提灯の灯りが揺れているのを見つけた、もしここでも断られたら今宵は野宿になろう。
兵史郎は宿の入口に佇み、懇願する体で「今宵の泊まりは可能かえ」と対応に出た女中に聞いてみた。
「おや爺様、こんな夜更けにお一人での夜歩きは危のう御座いますよ」と、まるで呆け爺さんへの対応である。
「部屋は空いとりますが竈の火は落としましたゆえ夕餉は出せません…それでもよろしければどうぞ入いって下さいまし」
「おおこれはありがたい…だが飯は出ぬのかよ、これは参った…じゃがこの寒空に野宿とはまいらぬゆえ泊まらせてもらおうか」
兵史郎は上がり框に座るとがっかりした顔で宿の造作に目をやった、繁華街から三町余り外れた侘しい湖畔の宿、どうやら客の入りも少ない様で佇まいにも寂れ感は否めない。
腰の脇差しを抜き背の網袋を解くと草履と足袋を脱いで寛いだ、暫く待つ内に女中が足洗の桶を持ってきた、その桶には温泉宿らしく硫黄の臭いのする熱い湯が注がれていた。
「これは馳走じゃ、フーッ心地よいのぅ」兵史郎は両足を桶に浸すと溜息を漏らした。
暫く足を桶に浸け、足が温まるとおもむろに洗い出した。
「お客さん、夕餉は出せませんが握り飯と汁ぐらいなら何とかなりますと勝手場の者が申しておりますが如何なされます」
と女中は手拭いを差し出しながら聞いてきた。
「おおそうか、握り飯に汁があれば嬉しい限りよ、それでええから頼む」
言いながら手渡された手拭いで足を拭いて立ち上がった。
「部屋はその階段を上がって廊下の突き当たりの左側にございます、それとお風呂はこの廊下をまっすぐ進んだ突き当たり右に御座いますから」と女中はにこやかに指を差した。
「わかった、では先に風呂に入るとするか」兵史郎は脇差しと網袋などを手に持つと示された階段を二階へと上がりかけた、そのとき女中が外に掲げてあった提灯を取り込み玄関内の鴨居に掛けると重そうな木戸をガラガラと閉め心張り棒をかけた。
この宿を見つけるのがもう少し遅かったら今宵は野宿になったろうと思い、今日の最後は少し運が向いたような想いに笑みがもれた。
部屋は六畳一間で隅に無理矢理造られた半間ほどの床間があり、そこには煤と黴で汚れた槍持奴の近江絵が貼られてあった、また元は大部屋であったろうか隣の部屋とは襖一枚で仕切られた粗末な商人宿造りである。
兵史郎は着ているものを早々に脱ぎ下帯一枚になった、その体はどんな鍛え方をしたらこれほどの筋肉が付こうかというほどのものであり、とても五十半ばの老人の体ではない。
四股を二・三度ほど踏んで床の間に置かれた盆より浴衣を取り上げ腕を通した、だが何としたことか浴衣の裾下は膝小僧を僅かに隠すばかりで、いつもながら六尺を越える体躯に合う浴衣に出会うなど希なことを経験しているだけに苦笑は禁じ得ない、仕方ないとあきらめ帯を締めると手拭いを持って部屋を出た。
旅の汚れを落とし部屋に戻ると既に布団が敷かれてあった、その布団横には膳が置かれ旨そうな湯気を薫らせる汁と大きな握り飯が皿に二個載っていた。
朝から何も食べていなかったせいか兵史郎は握り飯を見つけるとたまらず駆け寄り、その一個を握ると頬張った、そして行儀悪く歩きながら咀嚼し窓辺に寄った。
窓を開けると暗闇に湖の白波だけが目に入る、これが昼間であれば絶景であろう、吹き込む湖風は冷たかったが風呂上がりの火照った体には心地いい。
白波を見つめながら大きな握り飯を一個平らげると一心地つき、兵史郎は窓を閉め ようやく膳の前に座った、箸を取り汁椀を持つと一口啜る、出汁は煮干しで味噌の味は薄かったが今の兵史郎にはこの上ない馳走に感じた。
残る一個の米麦半々の塩結びを手に 添えられてあった菜の塩漬けを口に放り込んだ、味は浪速で食した天王寺蕪そのものである。
(んんこれは旨い、塩漬けと言うからには日持ちもしよう、これを土産にするか…)そう思いながら握り飯を口一杯に頬張り始めた。
そのときである、波の音に紛れ悲しげな女の啜り泣きが耳に届いた。
兵史郎はおやっと思い耳を澄ませる、そして顔を巡らし音源を求めた、そのとき建て付けの悪い襖の上辺に僅かな隙間を見つけた。
どうやら啜り泣きはその隙間から洩れてくるようだ、兵史郎は興味をそそられ握り飯を咀嚼しながらその泣き声に耳を傾けた。
初めは男女の閨の営みかと下世話な興味が先んじたが…聞くほどにその声は悲しく夜の静寂を微かに震わせ、時折それを叱責しているのか若い男の声が被っていた。
(隣は若い男女ようだ…駆け落ち者であろうか)
その啜り泣きと男のボソボソ声はその後深夜にもおよび、兵史郎は堪らず襖を開けて「うるさい」と叫びたかったがそれに耐えた、それから数刻後 男女二人がようやく寝静まったのは窓の外が白みかけた頃だった。
兵史郎は波の音で目覚めた、どうやら知らぬ間に寝いってしまったらしい。
布団をはぐると伸びをして浴衣の裾を整えつつ立ち上がった、そして思い出したように襖の際に歩き はしたなくも耳を寄せた。
暫く佇んだが隣からは物音一つ聞こえない、(何だ…もう出立したのか)
拍子抜けの感に窓辺に寄り戸を開けた、と同時に「うゎっ」と無様にも声が出た。
窓一杯に黒々とした湖が迫っていたからだ、兵史郎は窓に齧り付くとその絶景に魅入ってしまった、その湖上は僅かだが湯気を漂わせ、その向こうには諏訪大社の秋宮が朧気に浮かんでいたのだ。
(急いで帰る用もなし、今日は下諏訪まで歩き下社秋宮に詣でてみようか)そう思ったとき「朝餉を持って参りました」と女中が入ってきた。
女中は昨夜と同様に布団の横へ膳を置くと「昨夜は塩結びしか出せず申し訳ありません、主人には夕餉代より引くよう申し伝えておきましたよって」そう言うと御櫃より飯をよそい兵史郎を見上げて微笑んだ。
兵史郎は促され膳に着いた、そして箸を手にしたとき…少し考える風に、「隣はもう出立したのかえ」と聞いてみた。
「あの御二人様ですか、ええ一時ほど前に出立なされましたが」
「そんなに早くにか…ところであの二人は夫婦者かのぅ」
「とんでもございません まだほんの子供ですよ、何やら曰くありげな感じでしたが…どう見ても女の方が少しばかり年上に感じましたが、お客様…あの御二人が何ぞ御迷惑でも…」
「いやなに迷惑というか…夜遅うまで起きておった様子、それでも朝早うに出立したとあって少し気になってのぅ」
「お客さん、いま何時とお思いです朝四ツ半(10:30)で御座いますよ、他の御客様はとうに出立なされ よその御部屋は既に掃除も済んだというに」
「何、もうそんな時刻か、儂としたことがフフッ寝過ぎたようじゃのぅ」そう笑いながら旨そうな湯気をたてる汁椀を手に取った。
(そうか…隣の男女は夫婦者ではなかったのか)
兵史郎は隣の男女は子供であったと知ったが、その子供らが何故このような寂れた宿に泊まり、閨で空が白み出すまですすり泣いていたのか…何やら謎めいてすこぶる興味が湧いたが…下世話に過ぎるとて思考を止めた。
「今日も良い天気じゃのぅ」と窓から見える湖上の空を仰ぎ味噌汁を音を立てて啜った。