十一、血闘小仏峠
小仏峠に続く上り坂を兵史郎は二人の手を取り上っていった、右には高尾の霊峰が間近に見え、左には景信山が迫っていた。
東に下ったこの辺りでは紅葉にはまだ至らぬのか高尾山の麓から山頂にかけては未だ薄黄色のまだら模様を塗したようで真っ赤な色づきは少なかった。
三人が上る小仏の街道は幾重にも折れ曲がり急峻を緩和していた、そして何度目かの曲がり道を右に折れたとき後方が一気に開けた、三人は立ち止まりこれまで上ってきた葛折れの街道を眺めながら山裾から吹き上げてくる涼しげな風を襟元を寛げ取り入れた。
「あっ 先ほど見た相模湖があんなに光って…真之介見て綺麗よ!」
「本当だ、姉上 去年父上と行った大見山から見る諏訪湖もこのように光ってましたね、でも富士のお山はここから見た方が随分と大きいや!」
二人は下界に広がる景色を指さしてはしゃいでいた、しかしそのはしゃぎには誇張が感じられた、これより死地に赴く逡巡を何とか心の高揚で払拭しようとする切羽詰まった想いが垣間見えた。
兵史郎はその二人の会話を目を瞑って聞いていた、すると二人の高揚した会話は兵史郎に向けて放たれているものと察した、それは己等の逡巡を兵史郎に見透かされるのを躊躇う意識から発したものと読めたのだ。
兵史郎は二人のはしゃぐ様を聞きながらまたもや逡巡に暮れた、しかしここまで来て今更引き返したとて途中で敵に遭遇するのがおち、ならば背後の林に隠れ敵をやり過ごし麓に戻って相模代官所に保護を求めるか…。
そのとき「あぁぁいい気持ち、青山様涼しい風が吹いています、江戸に着く頃は紅葉は見頃でしょうか、青山様江戸で紅葉の名所はどこですか、お江戸に着いて用が済みましたら私と真之介を連れて行って下さいまし、あっ海もですよ」と紫乃の声が兵史郎の想いを中断させた。
兵史郎は現実に引き戻された感に目を開けた。
「さて紅葉の名所は何処じゃろう、向島か小石川…すまぬ儂は花より団子での、紅葉とか花見には感心が薄うて…じゃが海は見に行こうぞ、ふぅっそれにしても良い風じゃ、気持ち良いのぅ 紫乃さん海にも潮風というものがあっての、湖とは違うて潮の香りがするんじゃ…」
そう言ながら横に立つ紫乃を見た、そして(あっ!)と慌てて目をそらした。
そこには大きく襟が寛げられ紫乃のぬめるように光る胸元が露わになっていたからだ。
江戸で十八といえば嫁に行き 子さえいる年齢である、しかし田舎育ちの紫乃は五兵衛に小太刀ばかりを教えられ男に恋心を抱く暇さえ無かったのだろうか、爺とはいえ男の目の前で襟を広げ屈託無く胸元を見せる少女の心の内を兵史郎は推し量った。
(純過ぎて男は父親と真之介しか知らず、未だ男への意識は薄いのであろうか…しかし韮崎の宿では一緒に風呂に入るのは恥ずかしいと拒んだくせに…)
紫乃の今の感情は、少女と女を綯い交ぜに心揺らぐ年頃であろうと勝手に断じた。
だが一瞬垣間見えた真っ白な胸元から喉そして貌に続く艶やかな輝きは兵史郎の目の奥に残像が如く焼き付いていた。
(はぁぁ己が三十も若ければこれほど美しい女を見過ごしにはしないであろうに…)
と想ったが瞬間に残像を打ち消した、五十を越えなおも年甲斐無く心が騒いだことに恥じ入り、兵史郎は繕うように下界を見た。
そのとき眼下に見える葛折れの辻角より急ぎ足の一団がこちらに迫り来るのが見えた、距離にしておよそ四町ばかり、数からしておそらく追っ手の一団であろう。
「いかん、奴らもう来おった」三人の寛ぎは一瞬で緊張へと変わった。
「紫乃さん真之介走るぞ!奴らに追いつかれる前に山頂の峠を何としても抜けたい」
言うと三人は駆けだした、しかしこちらから向こうが見えるという事は向こうもこちらを見たのであろう、一団の武士も同時に走り出した、この双方の走り出しで兵史郎の先の逡巡は一瞬で消し飛んだ、もう逃げ隠れは出来ない覚悟を決めざるを得なかった。
三人は峠入口の緩やかに曲がった道を駆け上がると前方に二町ほどの直線道が現れた、それを全速力で走り抜け突き当たりを右に折れようとしたとき敵も直線道路に入ってきた。
(これは追いつかれる)兵史郎は焦った、しかしあと三町も走れば街道は一間幅の小道になるはず、たしか両側は土手で土手下には鬱蒼とした灌木が茂っていたと記憶している。
そこにさえ逃げ込めれば路幅からして敵は散開はできず一直線になって斬り込んでくるだろう、そこが付け目とばかりに二人を叱咤して ひた走った。
だが紫乃の脚は遅く男らの速度にはついていけなかった、真之介が「姉上急いで!」と叫ぶが紫乃の足は既にもつれはじめていた。
兵史郎はそれを見かね紫乃の手を強く握ると「紫乃さん!もう少しじゃ」と曳きずるようにして走った。
やがて街道が緩やかな下りになったとき後方に怒号が湧いた、敵は何やら喚きつつ走っているようだ、この怒号が子供らの恐怖を呷るのか紫乃と真之介は口を大きく開け限界の体でふらつきだした。
三人は脚をもつれさせながらも何とか目的の小道へと走り込んだ、その土手道は長さおよそ半町余り、その中央付近まで進んだとき兵史郎らは崩れるように立ち止まった、止まると後方を振り返り 追いすがる敵に正面で対峙すると膝に手をあて呼吸を整えた。
小道の幅は一間弱、敵は小道手前で我がちに進入しぶつかり合ったがすぐに二列に伸び小道に分け入ってきた、そして兵史郎らの三間ほど手前で敵も崩れるようにして止まった、敵・味方 双方とも肩で息をし声かけも出来ない状態で、辺りは吐く息の音ばかりが聞こえていた。
そのままの状態で睨み合いが続いた、敵も犬目峠で同胞の無残なる死骸を見てきたはず、対峙する老人がただ者では無い事ぐらいは既に理解していよう、故に問答無用の仕掛けもできず躊躇いが無言の睨み合いを演出していた。
睨み合いに絶えられず最初に声を発したのは敵側であった、先頭の年嵩の男が少し前に出ると兵史郎らを睨み付け「その子らをこちらに渡せ!その子らの親は藩の重罪人として捕らえてある、またその子らは我が藩の重要書類を盗み出し逃亡中の身、藩に連れ帰り詮議しなければならぬ、お手前はどういうつもりで二人を庇護するのか知らぬがこのままでは貴公も同罪として処断せねばならない、その前におとなしくこちらに引き渡してもらおう!」
「ふん、勝手な事をほざくものではない!お前らの事を盗人猛々しいと言うのよ、誰が渡すか馬鹿者どもが!」
「何!その罵詈雑言許さん!」言うや先頭の男は激高し抜刀しながら遮二無二上段から斬り込んできた、この敵の怒りを誘ったのは上出来である、敵が踏み出すと同時に兵史郎は倍の速度で踏み出していた、そして視線は斬り込んできた男の後ろと横の男にも照準は着けられていた。
一瞬で先頭の男の懐に達するや抜刀の流れでその胴を深々と斬り払い、横に流れる切っ先を止めると後方の男の胸板を突く、突いた切っ先は体を捻りながら右へと流し横で呆然と立ち尽くす男の首を刎ね飛ばした、それは一瞬の早業で後方の敵は前方で血飛沫上がるのを見て初めて戦闘開始に気が付いたほどであった。
一瞬で三人が朽木のように倒れ細い道は塞がった、剣客か或いは戦い慣れた者であればこの事態に一旦引いて体勢を立て直すところであろう、だが敵の殆どは烏合の衆だ、先頭の三人ほども倒せば直ぐさま恐れ戦き遁走に移るものと読んでいた、しかし当ては完全に外れた。
なんと最後部の男が両手を広げ大音声で「引くな!」と怒鳴ったのだ。
この大音声と目の前の惨殺に動転した中間に位置した男らは震え上がり、前後を閉ざされ揉み合い状態になると弾け、小道左右の土手を滑り下ったのだ。
滑り下ったのは五人で左土手が三人 右が二人、男らは左右の土手下に茂る灌木に引っかかるとすぐに体を起こした、そして灌木の間を我武者羅に突き進み兵史郎らの後方に出ようと動きだした。
(しまった!)兵史郎は土手下は相当深いと読んでいたが…意外に浅いと知れた。
このままでは後方に回り込まれる、子らが危ないと感じたとき 街道に残る二人の内一人が青眼に構えた状態で つつぅと前に突出し兵史郎の刀に鎬筋を軽く当てた。
(この男多少は使える)そう思い敵がもう一度鎬当てを繰り出した瞬間、兵史郎は僅かに切っ先を下げこれを躱し切っ先を素早く上げるとすぐに手首だけの返しで高速に繰り出した、その切っ先は敵の右手甲を見事に切り裂いていた。
敵はまるで手妻でも見た感覚だったのか、自分の手首から血が吹き上がるのを見て呆然とした瞬間、兵史郎の剣はその右脇腹を深々と斬り込み、そのまま流すように切っ先を後方の男に向けた。
だがその男は兵史郎の動きを事前に察知したのか数歩後方に引いていた、その鮮やかなる引き脚は見事で相当の使い手であろうと感じた。
だが前方の敵だけに専念は出来ない、後方の紫乃のことが先ほどより気が気ではない、五人の男が後方に回り土手をよじ登り始めたからだ。
二人の子らはそれに対応すべく道の両側に分かれ、土手下に刀を突き入れ敵の這い上がりを懸命に防いでいる、だが複数の敵にそれも時間の問題だろう、兵史郎との距離はおよそ五間ほどだが十間にも二十間にも感じられた。
とにかく目の前の男を倒さねば後退は出来ない、構えからしてただ者ではないことは既に見切っている、兵史郎がいま少しでも引けばこの男は渾身の気迫で打ち込んでこよう。
兵史郎に対峙している男は先ほど後退する連中を大音声で阻止した男だ、剣の腕には相当に自信があるのだろう。
髷は月代を剃らず総髪結いから浪人崩れであろうか、たぶん坂本一派が用心棒に雇った者に違いないが、烏合の衆ばかりと思ったのが兵史郎の抜かりであった。
だが一方 その男の方は兵史郎の想いとは裏腹に 引き際を失った事に焦りを感じていた。
男の名は深谷清治郎という、十日ほど前に越後長岡から諏訪に来た者だ、深谷は昨年まで越後長岡藩に籍を置き藩領・新潟湊の新潟町奉行所で管理執務与力をしていた、しかし今年の初め勘検のさい部下の一人に少額であったが公金着服が発覚、管理不届きとして深谷にも謹慎処分が言い渡された、だが四月になり御役御免の厳しい沙汰に変わったのだ。
深谷は若い頃から剣術を学び、長岡の一刀流の道場で免許皆伝を受け藩内でも一・二の腕前であった、ゆえに御役御免の後はこの道場の師範代となり若者の指導に当たる一方 自らもその腕を磨いていた、しかし道場からの給金はしれたもので妻と子を養うには余りにも少なかった。
そんなとき諏訪高島藩が腕のたつ人物を集めていると友より聞き、その距離五十五里と遠国なれどこの時期に仕官を募る藩などあろう筈も無く、すがる思いで六日間をかけ諏訪に赴いたのだが…。
そして初めての仕事がこれである、藩から逃亡した高田家用人とその子らが持つ藩の重要書類を小仏関所の手前までに無事確保したならば正式に仕官を許す、との約定で藩の勘定奉行の役人らと共に甲州街道を東に進み小仏関所を目指した。
諏訪を発つとき詳細事情は一切教えられなかった、しかし老い耄れ爺さんと子供二人捕縛するに なぜ十人もの武士団で追う必要があるのか理解に苦しんだ。
だが犬目峠で死骸の切り口を見たとき驚愕した、脳天から肺近くまで見事に両断されていたのだ、一対八の総掛かり戦のさなかこれほどの兜割を造作なくやってのける達人などこの世に存在するのかと思えたほどである。
しかしいま老人の働きを見た瞬間に合点した、それは己の想像の埒外にあった、初戦で前衛の三人を瞬殺した技はもはや神の領域と思えるほどで、どう足掻こうともこの老人には勝てそうもないと納得してしまったのだ、しかしここで逃げれば得るもの無く長岡に帰らなければならない、となれば意地でも引けず大音声を発したのだが…。
だが数手後に後方の子供らに危機が迫った、となれば老人の気は散漫となり 隙が生ずるやもしれず、勝てずとも一太刀浴びせたいと剣客根性が勝ってしまった、だがこうして実際に正面で対峙してみると…相手の大きさに手も足も出ず一旦後退したがそこまでだった、あのとき遁走しておればと悔やんだが…。
深谷清治郎は兵史郎に隙が生じるのを震える想いで待っていた、一方兵史郎は後方ばかりが気になり注意は前七分後ろ三分で心の内は散漫に乱れていた。
その時後方より紫乃の悲鳴が上がった、兵史郎は反射的に振り返った、なんと土手に這う男が紫乃に顔面を突かれ血濡れの形相で紫乃の小太刀の刃部を素手で掴み引きずり落とそうと藻掻いていたのだ。
それを見るや「紫乃!刀を放せ」と言った瞬間 兵史郎に隙が生じた、深谷は得たりとばかりに大きく踏み出し、兵史郎の背に右上段から袈裟掛けに魂魄の刃を一閃させた。
兵史郎は後方に焼き付くほどの殺気を感じ反射的に体を五寸ほど引いた、その時空気を切り裂く刃音を感じ振り向きざまに刀を横に薙いでいた、薙いだ刃筋は正確に相手の喉を切り裂いていた、この振り向きざまの返し技は兵史郎の得意とする技でもあった。
頸骨近くまで断ち切られた深谷は倒れざまに思った(確かに肩を斬ったはず…)
兵史郎は前方の浪人が倒れるまで待たず脱兎の如く後方に走った、それは紫乃が対峙する反対の土手より登り上がった男が紫乃の後方に迫っていたからだ。
体が泳ぐように感じられた、走っているのに進んでいない感じに苛立った、紫乃の後方に迫った男の切っ先は今まさに紫乃の背中を突き通さんばかりに迫っていたからだ。
「紫乃!」と兵史郎は思わず絶叫を放った、また紫乃の向こう側より二人の敵を倒した真之介も顔を歪め紫乃救出のため走ってきている。
兵史郎は途中焦りから宙に飛んだ、刀は上段に振り上げられ紫乃の背中を突こうと繰り出された腕に狙いを定めていた、そして魂魄の振り降ろしが始まった その勢いは兜割の凄まじさである。
だが物打ち部が敵の腕に食い込むと同時にその腕に握られていた切っ先も振り返りつつあった紫乃の脇腹に達していた、「ズシャ!」という肉と骨が断たれた音が発した刹那 刀を握った男の両腕は切断されていた…だが既に遅くその切っ先は紫乃の脇腹に深々と突き刺さっていた。
紫乃は小さな悲鳴を上げ、体を反らせると前のめりに倒れた。
「紫乃!」兵史郎は絶叫を上げ、手首を失い呆然と佇む男を憤怒の形相で振り返ると薙ぎ払うように男の首を刎ねた。
すぐさま手首の付いた刀を紫乃の脇腹から引き抜き、その傷口に手を当て血が噴き出るのを防いだ。
紫乃は意識はないが死んではいなかった、だが切っ先は確かに肝の臓を刺し貫いている、兵史郎は夢中で抱き起こすと「紫乃!と叫び 辺りを憚らずオロオロと震え慟哭した、そのとき真之介が感極まり紫乃に取りすがった。
「姉上!」と叫ぶや血の気が引いていく紫乃の顔を掌で擦り始める、それは血の気を戻そうという無意識の試みであろうか、真之介は泣きながらその行為を続けている。
それを見て兵史郎の目から溢れるほどに涙が零れた、と同時にこれまで経験した事の無い憤怒が湧き上がった「死なせてたまるか!」言うと紫乃の傷口を押さえたまま まるで子犬でも抱き上げるように紫乃を軽々と抱き上げた。
「真之介!泣いている場合ではない紫乃の手当が先じゃ、関所は近い一気に走るぞ、その刀を拾って付いてこい!」そう怒鳴ると走り出した。
その時 土手道にはもう動く陰は無かった、紫乃が二人を刺し真之介も二人を仕留めていた、しかし兵史郎は悔いた どうして強行にもこの峠を越えようとしたのか、心の何処かで敵を舐めて掛かっていたのでは…悔いは次から次に押し寄せその度に涙があふれた。
やがて峠を抜けると前方の視界は一気に開けた、その時前方に騎馬武者数騎が走り寄る土埃が目に入った、騎馬はこちらに向かっているのは確実だ。
(くそぅ…敵は前にもおったのか、どうしてくれよう…こうなれば皆殺しにしてくれる!)
兵史郎の憤怒は怒髪天を衝くが如く凄まじかった。
「真之介止まれ、紫乃を草むらに横たえるよってこの傷口を強く押さえよ」言うと紫乃を道脇の草むらに寝かせ傷口から手を放した、と同時に血が噴き出す。
「強く握れ」と指示し、掌の血糊を袴で拭うと真之介が持ってきた刀を掴むや立ち上がった、そして迫り来る騎馬隊の正面に立ち、血で染まった刀を真横に伸ばし構えた。
やがて騎馬隊は兵史郎の前方五間ほどで止まると騎馬上から「青山殿では御座らぬか」との叫び声が聞こえた、すぐに先頭の騎馬から一人の男が飛び降りると「師匠殿!」と声を上げて駆け寄ってきた。
見れば大目付の跡部であった、その瞬間緊張の糸は切れた、膝が折れそうなほどにふらついた。
「師匠お怪我はありませぬか」と跡部は心配顔でふらつく兵史郎の肩を掴んだ。
「儂はよい、それよりその子が危ない」と紫乃を指さした。
「あぁこれはいかん腹を刺されましたな、お前らぼぅとしてないでこの娘を関所に運ばぬか!」と騎馬に向かって怒鳴った。
関所の一室で紫乃が呻いている、この界隈では韮崎まで行かなければ医者はおらず、早馬で連れて来ても今の紫乃の状態では間に合わない、また奇跡的に間に合ったとしても田舎医者ではどうにもならず優れた蘭方医でなければ開腹手術は出来ないのだ…。
関所に運んだとき紫乃は意識を取り戻し しきりに兵史郎にすがりつこうとした、しかし意識は取り戻さない方が良かったのかもしれない、痛みは余程酷く吐瀉しながら暴れるたびに血が吹き出た。
肝の臓を深く刺されたならまず助からない、それが分かるだけに兵史郎は苦しかった、なすすべが無いのだ、死にゆくまで見守るしか手が無い事に無性に苛立ち、部屋に入ってくる者らに見境も無く当たり散らした。
紫乃のあの瑞々しく美しい肌は既に体内毒が廻ったのか土気色に染まり腹筋部も腹膜炎で板のように強張っていた、そして発熱・悪寒・嘔吐が続き、半時後に頻脈を感じたときからもう意識は途切れ、手の施しようもない状態に陥った、それからすでに二刻余りが過ぎようとしている。
もう紫乃は動かなかった、先ほどまでは父母の名を譫言のように呼んでいたが、今は息するのも困難な有様で 時折引きつるように体を震わせている、あと四半時も持たないだろう、兵史郎は慟哭するも涙は既に涸れ果てていた。
夜のしじまにこの子はいま消えようとしている、ついさっきまで笑って汗を流し兵史郎の手にしがみついていた子が消えようとしている、あの柔らかな手の感触がまだこの手の平に残っているというに。
何とかしてこの命をこの世に引き戻せないものか、いくら考えてもどうにもならない悔しさに無性に腹が立ち、すぐにでも己の腹に刃を突き立てたい想いに駆られた。
やがて紫乃は引きつりさえも絶え次第に弛緩していった、それを見た真之介は「青山様!姉上は…姉上は息をしていません、息を…」と言って兵史郎に泣いて取りすがった。
(…あぁぁ神も仏もないのかよ……)
兵史郎は涙で霞む紫乃の優しげな顔を見ながら、そっとその頬に触れた。