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一、諏訪への旅

 青山兵史郎は甲州街道を脇道にれた涼やかなる谷川で足を冷やしていた。

谷川の清らかな水は川底の藻を映し緩やかに流れ、周囲の黄や赤に染まった紅葉を華やかに投影して揺らいでいた。


これほどの遠出は何年ぶりだろう、兵史郎は水から足を上げると懐から手拭いを取り出し(秋は始まったばかりと思っていたが…)そう思いながら足を拭き 谷を覆い尽くすほどの華麗な紅葉に目を見はった。


旅の往路では先を急ぐあまり道中の景色など見るゆとりさえなかった、しかし不本意ながら用も済み後は江戸へ帰るのみとなったからだろうか、こうして谷川でゆるりと足を冷やし絶景に心動かす余裕も出てきたようだ。


足に足袋をはかせ、時間をかけて脚絆きゃはんをきつく巻くと尻を手で振り払いゆっくりと立ち上がった、そして気付いたように足下を見つめ軽く足裏を尖った石に押しつけてみた。


(ん、腫れは引いたようだ…)


それは半時前、街道行手を染める見事な紅葉に気をとられ、剥き出しの鋭く尖った石に気づかず思い切り踏みしめてしまったのだ。


若いころであればこの程度の石を踏んだところで痛みさえ感じなかっただろう、だが息子に家督を譲った頃より出歩くことは少なくなり、また江戸の平らな道になれたせいだろうか、すっかり足裏の皮は薄くなってしまったようだ。


兵史郎は脇差しを腰帯に差すと網袋を背に斜めに掛け 柿渋を塗った気に入りの菅笠を被ると元来た道を石伝いに歩きだした。


(さて…どうしたものか)谷川沿いを少し歩き先ほど飛び降りた高さ一間余りの土手下に着いた、来るときは谷川に降りる道が見つからず仕方なくこの土手を飛び降りたが…周辺を目で追ってみるもやはり街道筋に繋がる登り口は見つからなかった。


(仕方ない、飛び上がってみるか…)


若い頃は助走なしに優に六尺近い大男の頭上を飛び越え一撃さえ加えることができた、しかしあれから二十年は経とうか…鍛錬は絶やさず続けてはいたが齢五十半ばの今となっては足腰の瞬発力には自信が持てなかった、兵史郎は暫く思案すると足だけで飛び上がるのは無謀とあきらめ、右手を上げると土手上辺に茂る草をむんずと掴んだ。


そして膝を屈し気合いもろとも地面を蹴った。

腕の引きが手伝ったのか見事に体は空を舞い土手上に膝立ちで着地した。


(ふぅ…この高さなら手は使わなくとも飛び上がれたやもしれぬ…)


とは思ったが年寄りの冷水、飛び上がれず無様に落ちれば足腰を痛める羽目に陥ったであろうか、兵史郎は思わず零れる笑みを噛みしめつつ甲州街道に繋がる小径を歩き出した。



 兵史郎は天保十二年辛丑九月六日、江戸四谷から一路甲州街道を急ぎ、およそ六日をかけ目的地である上諏訪に着いた、そこで不本意ながら一日逗留しただけで今は帰路の途中にあった。


旅の目的は旧友・高田五兵衛の安否確認のためだ、この五兵衛とは十五歳のみぎり神田猿楽町にある神道無念流の撃剣館で出会ったのが最初で、それ以降は同い歳で馬が合うというのか初対面で意気投合し以降長年にわたり深く親交を結んできたのだ。


だが兵史郎が二十四歳のとき撃剣館の塾頭に抜擢され、その剣の腕を見込まれ若くして肥前唐津藩・水野家の剣術指南役に推挙され、その翌年 撃剣館主である岡田吉利の仲人により藩主・水野忠光の側室の子(お遙)を妻に迎えたころより次第に五兵衛との付き合いは途絶えがちとなっていった、それから五年後 五兵衛もめでたく信州諏訪高島藩の御納戸奉行・高田清兵衛方の入婿となり諏訪へと去った。


あれから二十有余年、今年九月初めのことである、久々に神田の撃剣館を訪れたさい諏訪の高田五兵衛が急死したと二代目館主・岡田吉貞から聞かされたのだ。


今春五兵衛からの便りに、胃の腑が痛み最近では丹田にも力入らず剣の鍛錬は滞りがちと書かれてあったことを思いだし「吉貞よ、ひょっとして五兵衛は胃の腑の病ではなかったか」と聞いてみた。


「兄者、申し訳ござらぬ 亡くなった原因までは知らせに来た者にも分からぬらしく、ただ急死されたとしかそれがしも聞いてはおりませぬ…」


この撃剣館二代目館主の吉貞は兵史郎の師匠・岡田吉利の子で、兵史郎が入門の頃より兄者と言ってはよく懐き、何処に行くにも兵史郎や五兵衛の後をついてきた可愛げな少年であった、そんなことから剣術も殆どは兵史郎と五兵衛が教えたものであるが…あの紅顔なる美少年も今や齢五十にもなり その風貌は兵史郎よりも二・三つも老けて見えた。


「ふむぅ、あの五兵衛が急死したとは俄に信じられぬ、何かの間違いではなかろうか、万が一そうであっても 諏訪に行って直に聞かなければ到底信じられぬ、間違いであってくれれば良いが、今日は九月一日であったな…今月の前半は特に用も無いゆえ諏訪に旅立つことは可能じゃが…」


「兄者が諏訪に発たれるなら それがしも御供せねばなりますまいが、如何せん最近は弟子の斉藤弥九郎の練兵館も面倒を見ており、生憎あいにく 弥九郎が水戸藩弘道館の開館式に出向いておる最中…半月ばかりはどうにも動けませぬ、申し訳御座りませぬが撃剣館の名代として もしもの事を慮り御香奠を持参してはいただけませぬか」


香奠こうでんとは縁起でもない、しかし万が一という事もあるでな…。

それにしても儂と違っておぬしは忙しいことよのぅ、儂なんぞ隠居してこのかた屋敷に寛いでおると息子の嫁が邪魔扱いするよって こうして朝早う屋敷を抜け出し旧知を訪ねるのが日課になってしもうたわぃ」と兵史郎は苦笑いを浮かべ頭を掻いた。


「何を仰せられます、兄者は今もって江戸随一の剣客としてその名は天下に聞こえ、何処の道場に行こうとも客分として歓待される御身分、それを邪魔扱いとは…」


「それは剣客内での話じゃ 女子供に解るものかよフフフッ、それよりそなたこそ親父殿や斎藤弥九郎をしのぐ名人と巷では評されておるそうな、儂も鼻が高いというものよ」


「兄者に言われると恥じ入る限りでござる、兄者にせめて三本打ち込んで一本でも取れればその噂は嬉しゅうござるが、未だもって手もなくあしらわれるとあっては…。

まっ‥天分の才ある兄者に勝とうとも思いませぬが、して兄者はいつごろ諏訪に発たれまするか」


「そうよなぁ…明後日は神田於玉ヶ池の千葉道場に行かねばならぬから…その後になるかのぅ」


「おや、千葉殿は弥九郎とともに水戸弘道館の開館式に出向いているはずでは…」


「いや開館式に出向いたのは周作のせがれの栄二郎の方じゃ、周作も来年はもう五十にもなろうか、先日会ったときなんぞ儂をしげしげと見つめ「あぁ隠居したい」とこぼしおったわ、冗談であろうが あやつも往年のようには行かぬのかもしれんのぅ…」


「そんなものでしょうか…しかし周作殿は水戸藩の剣術指南役に決まったばかり、来年にも正式に御召抱えになると聞いておりますが…そんな周作殿も歳には勝てぬのでしょうか」と吉貞は往年の周作を思い出すように目を細めた。


そしてフッと気付いたように「千葉殿の玄武館に行かれるならばここより目と鼻の先、明後日千葉殿に会われた帰りしなにもここにお立ち寄りくだされ、御香奠を用意しておきますよって」と吉貞は応えた。


そんなことがあった三日後の夕刻、兵史郎は水野家上屋敷に幕府老中首座の水野忠邦を訪ねた、忠邦と会うのは一ヶ月ぶりで いつものように忠邦はぶすっとした顔つきで客間に現れた。


「越前守様お久しゅう御座りまする」と兵史郎は頭を深々と下げた。


「ふん何がお久しゅう御座りまするだ!ぬけぬけと、そこもとは我が家の用人ぞ、毎朝出仕するのが筋であろう」


「なにを仰せられまするか殿様、それがし倅めに家督を譲るさい おぬしに去られては寂しいゆえ形ばかりに用人を勤めてほしいと言われたのは殿様ですぞ」


「おっとそうじゃったなクククッ」と初めて忠邦はここで笑った、これは最近いつも会ったときに繰り返される老いの戯符のようなものであろうか。


兵史郎が忠邦に初めて会ったのは三十年ほど前 水野家の剣術指南役に仕官した頃で、まだこのとき忠邦は十七歳の少年で兵史郎自ら忠邦に剣術指南をしたのだが…人一倍の意気地はあったものの剣の上達は意気地に比例はしなかったことを覚えている、むしろ剣の腕前は弟の良弼(後の大目付・跡部能登守)の方が優れていた。


忠邦の父親・忠光が隠居し家督を相続した以降は忠邦に仕え、浜松藩への転封の折りや大坂城代就任、また京都所司代に就いたときも陰ながら彼に付き添い御身の警護に当たったのだった。


「ところで今日は何用じゃ、楽隠居もそろそろ飽きたとでも言いに来たのか」と意地悪げに聞く。


「左様、楽隠居も飽き このところは胸躍ることもなく、ますます老いに落ち果てまするわ…、いやこれは冗談冗談、実は随分昔の事になりまするが殿は木俣五兵衛なる剣客を覚えておいででしょうか」


「木俣五兵衛…おお撃剣館でおぬしとともに竜虎と謳われし猛者もさじゃったのぅ、確か信州の方に婿入りしたと記憶するが…してその男が何ぞしたのかえ」


「はっ、その木俣ですが婿入りして高田姓になり高田五兵衛となり申したが、なんとその五兵衛めがつい最近 諏訪の地で急死したとの知らせが届いたのでござる」


「急死とな、あれほどの猛者が病気とは思えぬ…何か事故でもあったのか」


「それがどうにも分かりませぬ」


「分からぬとはどうしたことよ、でっ五兵衛は何藩の何家に婿入りしたのじゃ」


「諏訪高島藩三万石の御納戸奉行・高田家で御座ります」


「何!諏訪高島藩じゃと」


「……高島藩が何か」


「いや…おぬしの弟子でもある弟の跡部能登守が今度大目付になりおっての、先日挨拶に来たとき、何やら高島藩がきな臭いと言いおって…現在調査中ゆえ分かり次第知らせると言っておったのじゃ」


「御家騒動か何か…」


「いやそれは分からぬ、でっ おぬしはどうしたいのじゃ」


「それがし死因不明がどうにも解せず、半月ばかり御暇を頂き彼の地で真相を確かめようと思いましての」


「そうか…それは難儀な事よ、したが彼の地では何が待っとるか知れたものではない、跡部能登守の報告を待ってからでも遅うないではないか」


「いや待てませぬ、もし五兵衛が彼の地で生きておるならば助けを待っておるやもしれませぬ」


「分かった、おぬしは言い出したら梃子てこでも動かぬ奴、すぐにも道中手形を用意させるよって早う行って参れ、それと高島藩と能登守には儂の方から連絡を入れておくわ」


「殿、それはいけませぬ 幕府老中首座が動いたとあっては騒ぎが大きゅうなりまする、五兵衛が生きておれば面目を潰すことにもなりますよって、高島藩への連絡だけは御控え下され」


「そんなものかのぅ、して御老体一人で大丈夫かよ目付下役の手練てだれ数人でもつけようか」


「殿、それも遠慮しておきまする、まっ少々湯治とうじ気分もありますよっての」


「此奴ぬけぬけと、仕方ないおぬしのすきのように致せ、したがくれぐれも注意を怠るでないぞ、もし危険が迫ったなら江戸にすぐにも逃げてまいれ、後は能登守に任せるよって。


それと話は変わるが儂の方の頼みじゃが貴公も知っての通り今は改革で多忙を極めておる、じゃがそれに反撥する輩も多く最近は物騒で困る、隠居したおぬしに頼むのも何じゃが以前のように儂の警護役を引き受けてはくれまいか、なにそちのせがれもようやるが…なんせ若造では心許のうてな」


「はいはい、やることもなく暇を持てあます老体、喜んで引き受けましょうぞ」


「それは助かる、倅殿には儂から言い含めるよって。

それともう一つ、おぬしの弟子の鳥居耀蔵のことじゃが、先日殊勝な顔で貴公との仲を取り持って欲しいと言いおって…貴公ら何かあったのか」


「耀蔵が儂に…奴はたしか南町奉行に就任したばかりでござりましたな。

殿、正直申し上げて奴は確かにそれがしの愛弟子でござったが、腕が多少たとうとも彼奴の根性が気に入りませぬ。


去年の暮れになりまするか、それがし存じ寄りの御仁を奴が奸計を設け失脚させたことがありましての…正々堂々とならそれがし何ももうしませぬ、しかし奴は武士にあるまじき姑息な手段で陥れたのでござるよ。


そのさい耀蔵を呼び出し やり口が汚いときつく叱りましたが、それ以来音沙汰なしで…それがしに遺恨でも持ったのか…それとも合わせる顔がないのか、しかしいまさら殿に仲介を頼み御心を煩わせるとは…困った奴」


「まっ儂も奴は好かん、出自怪しく相当苦労して今の地位を掴んだようじゃが、それなりに権謀術数をめぐらさねば昨今では出世など覚束ぬよってのぅ、じゃが奴は使える、儂とすれば奴の根性なんぞどうでもよい 彼奴の手腕のみが欲しいのよ、使い捨てにするには可哀想じゃが今暫くは使ってみようと思っておる、兵史郎そう怒らず儂の顔も立ててくれぃ」


「まっ殿がそこまで申されるなら致し方御座りませぬ、諏訪より戻りましたら一度会ってみましょうぞ」



 九月六日、兵史郎は四谷の屋敷を発つと諏訪に旅たった、兵史郎にとって久々の旅である、たしか六年もまえ水野忠邦の命で京に行ったが最後だったろうか、そのときは供回り五人もつれ主命を携えての旅のためか、せわしない強行軍であったと記憶している。


だが今度の旅は気ままなものである、供回りなど一人もおらず己の脚力や興味に応じ歩調の緩急は自由になるのだから。

旅が決まったこの四日の間は息子の嫁(琴絵)は顔を合わせるたびに「そのような長旅など御歳を考えてくだされませ」とか「せめて供回りの二人もお連れ下さい」とか散々繰り言を言われ辟易したが、最後は我を通しこうして一人で屋敷を出てきたのだった。


これで当分はあの神経質な嫁の顔を見なくて済むと思うと五兵衛には悪いが この旅も妙に心浮き立つ楽しげな旅になろうとほくそ笑んだ。


そんな想いも手伝い兵史郎の足は軽やかに進み六日目の夕刻には上諏訪に到着した。

だが彼が諏訪に着いたとき、やはり知らせの通り五兵衛の死は間違いなく葬儀も既に済んだということだった。


結局兵史郎や撃剣館・練兵館・玄武館のもしもの香奠は本当になってしまった。


兵史郎が諏訪高島の五兵衛の屋敷を訪れたのは夕闇迫る頃だった。

夕べの急なる訪問はよほどに迷惑だったのか、暫く待たされた挙げ句 仏間に通されたものの誰も仏前にはつかず一人放って置かれた。


線香を上げ真新しい位牌に手を合わせると大声で家人を呼び、五兵衛の急死原因を知るべく奥方への面会を求めた、しかし応対に出た伊藤某という用人は奥方も子らも今は遠くの親戚に行き当分留守と素っ気ない返事であった。


これにはさすがの兵史郎も怒り心頭に「江戸からこうしてわざわざ旧友が訪ねて参ったというに、彼の死の原因ぐらいは教えてくれてもよいではないか」と詰め寄った。


しかし相手も然る者である「ですから病没と申したでしょうに、奥方様が留守とあってはそれがし勝手に家内の事を他人には洩らせませぬ」と木で鼻をくくた様な返答である。


二十両と相当額の香奠を仏壇に供えたにもかかわらず…。

「只今家内取り込み中で何のお構いも出来ず申し訳御座りませぬ、遠路江戸よりほんに御苦労様で御座りました」と慌てた様子で早々に屋敷から追い出されてしまった。


(江戸からの急ぎ旅とこれまでの五兵衛との厚情を思えば一夜の宿は当然あるものと期待したが…宿どころか茶の一杯も出さず早々に追い出すとは何たる無礼。

儂を爺と見てあなどりおって…呆れ果ててものも言えぬわ)

兵史郎は地団駄踏み再度屋敷の方を振り返ると肩を落として高田家の門を出た。


(はぁ…この時刻に宿を探す羽目になろうとは…じゃがあの用人の慌てぶりといい屋敷内が妙に騒がしかったが…なんぞ家内で難儀でも生じたのであろうか)

そのとき水野越前守が言った「どうも諏訪高島藩がきな臭い」の言葉を思い出した。


(仕方ない、これ以上あの用人から無理にも聞きだせば高島藩と揉めるやもしれず、やはり後は跡部能登守に任せた方がよいのかもしれぬ…)


兵史郎は夜空を仰ぐと上諏訪の街に向かってとぼとぼと歩き出した、しかし街までは八町余り、ここにきてどっと疲れが足裏に押し寄せた。


(五兵衛め…焦ったとはいえあんな素っ気のない家に入り婿に入りおって、一体どんな半生を送ったのやら…)

自然と入り婿五兵衛の諏訪時代の境遇が忍ばれ兵史郎の心は沈鬱に暮れていった、そして仏壇の位牌を見たことでようやく五兵衛の死を実感したのか 涙が止めどなく零れ、知らぬ方が良かったと…諏訪に来た事を後悔し始めていた。

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