表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
オリジン  作者: MENSA
4/4

オリジン5(終)

 

 

第五章

 

     1

 

 桧山が隠れている場所が、安西の証言から明らかとなった。新宿のビジネス街にある老ビル。地上三十階建ての下半分がビジネスフロアで、上半分が個人事業フロアとなっている。桧山の事務所は二十四階にあり、そのフロア一帯を会社名義で占有していた。

 月岡は会社プレートが掛かったドア前に立つ。横手には保阪と、二名の応援部隊が待機している。いざというときの戦力になってくれる男だ。その他にも、外に見張り役が三名待機している。

 彼らに視線を一巡させた。二人とも引き締まった顔をしている。準備はできているようだ。月岡はうなずいてから、ドアに向き直ってノックをした。

「桧山! 桧山はいるか!」

 繰り返しドアをノックした。相手の名前を何度も連呼する。

 返ってくるのは、沈黙ばかりだった。妙な緊迫がつづいた。月岡は相手の気配を探りつつも、呼び掛けをつづける。

「何か?」

 突如開けられたドアからぬっと顔を出したのは、背丈の大きな、がっしりとした体躯の男だった。ビジネススーツに身を包んでいるが、この事務所を守るボディガードであるのはすぐに分かった。

「警察だ。ここに桧山がいるんだろう? すぐにでも出せ。そいつに逮捕状が出ている。ここの事務所に対しても捜査令状がでている。全面的に、投降してもらおう」

「なにを言っていやがる。だったら、いますぐにでも、持ってきた書類を見せろ!」

 突き出た顎を押さえながら、男は目を細める。用意していた逮捕状を保阪が拡げた。すると、男はそれを鷲掴みし、奪い上げようとしてきた。

「何をする!」

 保阪が逮捕状を引っ込めて叫んだ。

「そんなものは、認められない!」

 男が保阪に突っ掛かっていった。太い腕が保阪の身体を掴む。身体を入れ、手前に投げ飛ばすつもりだ。

 だが、保阪は空いていた男のもう片方の腕に狙いを定めていた。明らかに目がそちらに向かっていた。一先ず掴んできた腕を手で弾き返し、身体の半身をがら空きとなっていた男のスペースに飛び込ませた。

 すばしっこい身のこなしだった。男の隙に完全に潜り込んでいた。半回転して男の後ろに回り込み、肩を掴んだうえで腕を後方にねじ曲げていく。男は誘導されるように保阪の前にひざまずいた。応援の男がカバーに入って、男は完全に封じ込められた。

「妨害行為は、すべて逮捕だ。我々は、妥協するつもりはない!」

 応援の男によって、手錠が掛けられる。

「ここは、自分らに任せて、先にいくんだ!」

 保阪がぼんやりと見守っていた月岡に檄を飛ばすように言った。言われるまでもなかった。今回のこれは、強行策が許されている任務なのだ。臆する必要などはなかった。むしろ、どんどん進んでいかなければいけない。

 桧山を逮捕するのだ――

 事務所内に突入する。

 思ったよりも所帯じみた空間だった。調度品も古めかしい様式のものばかりが揃っており、事務所というよりも少しスペースが広めに取られた社長室といった風情である。

 応接空間が部屋の中央に設けられ、来客用のロングソファが入口に対して背を向けるように構えている。その中央に黙然と座っている男がいた。桧山だ。後頭部しか見えないが、彼であると分かるだけの雰囲気が発されていた。

「おい、桧山。こっちを向け!」

 彼は応じない。ただ、真っ直ぐ前を見たまま、何事か考えている。二三歩詰めて接近したところ、部屋の奥隅にあった控え室のドアが開き、奥から現れた男がものすごい剣幕で迫ってきた。先程の男よりは身体は大きくない。だが、胸や背中、そして肩の筋肉が異常に発達したラガーマン体型で、押してもビクともしない、いかにも強健そうなあり様だった。

「社長になんの、用だ?」

 男は桧山の後ろにつく形で、月岡の前に立った。彼を死守するつもりでいるのは、顔つきだけで分かる。

 彼と戦闘になることは避けて通れないようだった。ここは、妥協などなしに挑んでいかなければいけなかった。

「何度、言わせるんだ。逮捕状が出ていると言っている。この事務所に対しても、捜査令状が出ている。拒否権はもはやない。何かを仕掛けようものなら、お前も同罪だ」

「ここまできたなら、同罪もクソもないだろうがっ!」

 案の定、男が襲い掛かってきた。月岡は足に力を込め、男の突進に備える。

 振りかぶった右手が右頬を狙ってくる。月岡は、両腕で防御に掛かった。つづけざまに男から繰り出された拳は腹部に向かっていた。

 月岡は半歩身を引いて、やはり二つの腕をそろえた防御で凌いだ。拳は肘にあたった。骨を通じた、特有の痺れが全身に伝わる。

 けっこうな重量だった。

 ただのチンピラではないことが、分かった。月岡は気持ちを引き締め直した。だが、しばらくは様子見に入る気でいた。一撃カウンターだけを狙う作戦だ。これは、相手に隙が生まれるその時まで、耐え抜かなければいけない忍耐力が必要な作戦だった。

 男の連続攻撃。

 鍛えた身体をしばらくもてあましてきたのだろう。鬱憤を晴らすというばかりのそれは、実に苛烈を極めている。防御しきれなかった彼の拳が月岡の右脇腹を抉った。軽い唾液が口からほとばしる。一瞬、何も考えられなくなった。

 男の顔に手応えが浮かんだ。さらなる一打を繰り出すべく腕が振りかぶられたところで、月岡は彼にしがみついてクリンチに持ち込んでいった。膠着をつづける。男はフリーになった腕を振り回し、月岡の身体に腰の入らない拳を打ちこみつづける。そこからは持久戦だった。

 月岡は左右の足、交互に重心を移動させる動きをひたすら繰り返していた。男のリズムを狂わせながら時間を稼ぐことで、こちらにチャンスが巡ってくるのを待つのだ。

 全力で拳を振るい続ければ、いやでも疲れが腕に掛かってくる。男の体力が尽きると、たちまち拳の応酬が収まった。

 その時が、好機到来だった。

 月岡は重心を一気に前に押し出し、腰を入れた。男の背中に回していた腕を一気に前にもってきて、胸元を掴んだ。後は、引き寄せた重量を足下に叩きつけるだけだった。

「えいやッ……!」

 気合いを飛ばす声が自然と洩れた。

 男の肉体が勢いよく、地べたに叩きつけられる。肉を潰すような音。受け身も取らなかった彼は、顔を打ち、そのまま気絶に入った。

 大きな痣が顔の半分にできあがっていた。

 おそらく身体が入った時、どうあってもこの技を避けることはできなかったことだろう。体重を存分に翻弄できていた辺り、かつてないほどの手応えが得られていた。

 月岡は長い息をついた。応援の男が駆けつけてきた。

 足場に伸びている男を目に映すなり、月岡は彼に対し言った。

「こいつの処分を頼む。俺に手を出しているから、立派な公務執行妨害だ」

 彼はうなずくなり、無言で対応に掛かった。男の身体を仰向けにさせるなり、捕縛の仕度に取り掛かった。その途中で彼は顔を上げ、言った。

「一応、待機組に応援を要請しています。そろそろ駆けつけてくるはずです」

「そうか。なら大丈夫だな。ここは、任せた」

 月岡は踵を返し、桧山に向かって行った。

 彼はまだソファに座ったまま、真っ直ぐ前を見ていた。視線の先には見るべきものはない。ただぼんやりとしているだけだ。

「おい、桧山。いい加減にしろ! いつまでそうしているつもりだ。こっちは、お前に用があって来ているんだ」

 その時、声に反応してか桧山が立ち上がった。何かを思いついたというような、勢いのある動作。間合いをおいてから、ゆっくりと彼が振り返ってきた。

 桧山の全貌が月岡の前に露わになる。

 會伝社の記事に掲載された白黒写真の彼とはやや異なっていた。感情の消えた、うつろな目つき。血色こそは悪くなかったが、病的なほどに頬肉が削げ落ちている。それでも高圧的な役人を思わせる雰囲気だけはそのままに残されていた。

「もうこっちはいつでもあんたらの所に出ていく準備はできている。何もそう急ぐ必要はないだろう。話をしようじゃないか」

 彼の言葉どおり、抵抗の意思は感じられなかった。下手に強行策に出ても、彼の反感を買うだけだ。月岡は彼に合わせていくことにした。

「いいだろう。話に付き合うとする。だが、捜査令状の件だけは、すぐに認めてもらわなければいけない」

 月岡は懐から捜査令状の用紙を取り出し、裁判所の実印が押されたそれを彼に突きつける。形式どおりに、内容を読み上げた。偽計業務妨害罪を前面に押し出した、多少強引な所がある形式書類。その裏側には、公安部の狙いがたくさん隠されている。

「いいだろう。好きに捜査をやってくれ。というより、あんたらが事務所内に入っているということは、もうそれが執行されている段階にあるんだろ。あえて、読み上げる必要もなかったはずだ。つづけてくれよ。我らの話は、そのなかで行われたところでなんら問題はないはずだ」

 桧山は一人用のソファに腰かけ、肘掛けにだらりと手を乗せ上げた。突き抜けた感情でいるのかもしれない。いまの彼は、これ以上何も失うものはないという気構えでいる。

「話というのは、なんだ?」

 月岡は彼の対面席に腰かけてそっと言った。

「ここまで自分がやってきたことについて、弁解するつもりはない。すべてこのおれがやってきた。だが、言い分が全くないわけでもない。米光律子。青山のスカイヒルズで開かれている、高級会員制クラブのサポート企業の女社長だ。おれはそいつの言いなりになってきた結果、もろもろの罪を被らされるはめになった。ある意味、その女との出会いがおれの運の尽きというやつだったんだ」

「米光律子のことは、ちゃんと把握している。お前との関係ももちろん調べているつもりだ。だが、被害者面を決め込んだところで無駄だ。お前から積極的に関わっていったことだってたくさんあったはずなんだ。とくに我らに仕掛けた工作計画の一番の責任者はお前だったはずだ」

 彼は尖った目つきで、月岡を見ていた。出端をくじかれて、勢いを失ったと見える。おそらく自分本位に話を進め、そこから同情を請う策に出るつもりでいたのだろう。それを突き返してやったことは、彼に自分らの態度を伝えるという意味でも、良かったことのはずだ。

「最初の出会いから、語ってもらうとしよう。いや、その前に花笠絢の存在をここで出さなければいけない。彼女だって、事件の背景に関わっている重要な人物だ。まず、お前には、米光との出会いが先だったのか、花笠絢との出会いが先だったのかそれを打ち明けてもらう必要がある」

 花笠絢は、彼と出会う前、米光の手許にいたのは分かっている。その時、彼女はまだ女優として活動を続けていた。環境が変化していくどの段階で、彼が関わったかでまた見えてくる筋は異なってくる。

「花笠絢が先だ」

 彼は堂々とした口調で言った。

「ならば、イベント会場で彼女と会ったということになってこようか? 彼女の立場は、参加している人間を退屈させない、レシーバーだった。お前は接待を受けることで、彼女と知り合ったんだ。そういうことなんだな?」

 彼は気を溜めた様子で、月岡を見返していた。

「まあ間違っていない。彼女は会場にて働いている接待人だった。容貌も美しかったが、そつのない身のこなしが何よりおれの目を引いた。彼女はいち早く気があることに気づく女らしい。おれの所にはすぐにやってきたよ」

「その時、連絡先を交換したんだな? いや、その時点で関係があったのかもしれない。お互いが離れられない妙な縁は、早い段階からはじまったのだとこっちは見ている」

 彼の回答は、沈黙で返された。顔には否定の気配がまるで感じられない。正しいということでいいのかもしれなかった。

 まもなく彼から語りだされた言葉は、その読みを証明するようなものだった。

「最初から、初めて会ったような気がしなかった。それは、向こうも同じだったよ。だからこそ、おれは彼女を離さなかった。そうなっていくまでは、実にスムーズな流れだったと思う。おそらくその手の駆け引きに慣れている女なのだろうって思ったが、抱いてみれば違った。彼女は、おれが初めての男だったと思う。もちろん根拠はない。彼女を見ていて、そう思ったに過ぎないことだ」

 彼は流し目をしたままに、浅い息をふっと洩らす。

「自分を偽って生きてるところに……そう、特に強がっている部分だ。そこがこのおれと何だか似通っているように思えて、愛着を持った。やがて彼女は、おれの側にいなければいけない女だとまで思うようになった」

「その時のお前は、政治家の秘書を務めていた。だからこそ、彼女に構っている余裕などはなかったはずだ。それに、情報管理という問題もある。秘書とはいえ、第三者の接近には注意を払わなければいけない。彼女は、まさに注意すべき女だったはずだろう」

「実際、彼女は危険人物だったんだ」

 彼は言い、目をきゅっと細めた。目下に寄った皺が、彼の深刻ぶった気配をより強めている。

「このおれにスパイ行為を働いていたんだ。部屋の鍵を盗みだし、それをコピーしていた。それでもって事務所内に潜入していた。おれは、彼女のその行為に直面してしまったのさ。何を盗む気だったかは分からない。とにかく、金目になる情報でもあさっていたのだろう」

 彼の冷めた目つきを眺めていると、二人が顔を合わせた時の緊迫した光景が月岡に入り込んでくるのを感じた。

 かなり冷え切ったやり取りだったはずだ。すぐにでも逃げ出したくなるような、そんな静かな恐怖が部屋中に張り詰めていた。

「そうか、その時に、お前は彼女の背後に米光がいることを知ってしまったのか。それで、彼女と渡り合っていくようになるんだ。しかし、そうなっていく前に、彼女を警察に突き出すなど訴え出れば、それで事は済んだのかもしれない。お前はなぜか訴えなかった。そこが、お前が悪に堕ちていく分かれ目だったのかもしれない」

「そうするつもりだったよ。当時は、自分の仕事に命を掛けていたからな。単なる秘書で終わるつもりはなかった。政界に進出し、ゆくゆくは重役のポストに就くつもりでいた。その下準備としておれは、そこで働いていたんだ」

「だったら、なぜ我が方に訴え出なかったというのか。お前は、やるべきことをやらなかった。情に囚われているようでは、いざというとき決断力に欠く。お前自身、そうした中途半端な精神で納得できるというのか?」

 事務所内にて捜査書類を持ち出す応援要員の動きがせわしくなっていた。次から次へと積み上がっていく段ボール。できあがったものを運び出す要員の人手が足りないらしく、段ボールは積み上がっていくばかりだ。

「その通りだ。おれは、彼女を警察に突き出すべきだった。しかし、できなかったんだ。その状況では、おれには裁量なんてないに等しかったからな」

「どういうことだ?」

 彼はぴくりとも動かないままに、足場を見つめていた。

「当時このおれが遣えていた男がもどってきたんだ。そう、守村がその緊張した場面に現れたんだ」

 持ち上がった彼の顔には、自嘲があった。

「偶然ではないさ。おれは、守村が帰ってくる時間をちゃんと理解していた。ちょっとだけ予定が空いたことで、早くに戻ってきてしまった。ただ、それだけのことだったんだ。それでなんだが、さすがは代議士先生と言うべきなのか。すぐにでも状況を読んだようだ。花笠絢が政治スパイであるとすぐに見破った」

「なるほど、そこで守村が権限のすべてを持っていったのか。最悪なことに、彼は、彼女を警察に突き出すどころか、黙っている見返りとして情婦になるよう要求した。それで、彼と花笠の関係がはじまったんだ。となれば、例の週刊誌に書かれてあった内容は大筋が本当だったということになる。その時に法廷にて披露された彼の苦しい言い訳こそが嘘で、すべては自己保身の結果だったということになってこよう」

「それが、真実だ。守村が選んだ選択は、実に下劣だった。だからこそ、報復しなければいけない。おれは秘書を装いながら、絢と、そのバックにいる米光と通じ合っていった。徹底した証拠集めをやって、守村を追いつめようとした。例の民事で花笠が全面勝訴したのは、そうした証拠を守村に法廷の裏側で提示していたからだ」

 証拠のほとんどは、秘書である彼が用意したものなのだろう。常に付きっきりで傍にいるからこそ、あらゆる仕掛けを設置し、彼を陥れていくことが可能だった。

 それが成立する条件として、桧山と花笠のつながりについて、誰にも悟られてはならないということが第一に挙げられる。守村は花笠のスパイ行為を働いている現場に直面していながら、そのことまで見破ることはできなかった。結果、花笠の裏側にある罠について、自ら嵌っていくこととなった――。

「どうしても納得できないことがある。その時、お前は花笠のことを大事に想っていたのだろう? だとしたら、秘書をつづけていることなどできなかったはずだ。訴訟の騒ぎについて守村を擁護することだって、我慢ならないものがあったはずだ」

「もちろん、苦痛だったよ」

 彼は鼻に小皺を寄せ、一瞬しかめっ面を見せた。

「たまらなく苦痛だった。時間が経過することがいやだった。だが、それも、最初のうちだけだった。何ヶ月かするうちに、自分の中で気持ちがねじれて、そこから落ち着きを取り戻していった。思うにその時、肉体的執着というやつを自分から断つことができたのではないか」

 それは、望んで体得したものではない。彼は状況に耐えるために必然的にそうした感覚を手に入れたのだ。彼がその後に金の亡者というべき人間に成り果てていったのは、あるいはそうした抑圧の代償というべきものなのかもしれなかった。

 桧山は突然、ぱっと明るい顔を見せた。

「耐え抜いて、正解だった。その後には、大いなる勝利が待っていた。守村を思いきり出し抜いてやったんだ。やつの政治生命を見事に断ち切ってやった。失ったものは大きかったが、得られたものはそれ以上だった」

 いま、彼の顔に浮かんでいる愉悦には、どこかしら破れかぶれな気配が秘められていた。どうも、本気でやったという風には思えない。少なからず良心を痛めている部分が彼の中にはあるはずだった。

 なにかが裏側にある、と月岡は読み取る。

「そこまで白状してもらったところで……ここから本題といこう」

 月岡が切り出すと、彼の顔からさっと喜色が抜け落ちた。

「お前は、その金を彼女から搾取している。自分の懐に転がし、彼女の自由にできないようにしている。名目は税金対策であり、資産運用でもあった。一時預かり金のつもりだが、実際のところは返すつもりなどない。それには、米光も一枚噛んでいる。というより、米光が指示役のはずなんだ」

「それは、認識違いだ。米光からは投資金として預かっている。返すつもりがないというのは、違う」

「米光の下にいる女の何人が、お前の懐に転がっているというのか。我らの捜査を甘く見てもらっては困るな」

 反発の精神の表れなのか、彼は粗い呼気を繰り返していた。

「本当だ。おれは、政治家としての夢を捨てた。今度に見つけたのが、投資信託だ。集めた資金を運用し、それでもって資金を増やしていくつもりでいた。財テク関連の友人が何人かいる。そいつらはみんな、成功者だ。相談役には事欠かない。さらには、何かあれば、彼らがバックアップしてくれる約束を取りつけていた」

「その点について、どのように弁解しようと自由だがな、その前に説明することがあるだろう。錦谷のことだ。なぜ、花笠を使ってまた別の男から金を吸い上げようとしたのか。しかも、守村と同じ手口だ。ターゲットの身分についても申し分のない条件がそろっている。どう考えたところで、これにはお前が噛んでいるのは、疑いもないことだ」

「米光の指示だ。おれは、関係ない。あの女がプッシュすることで、その計画は始動することになったんだ」

「また責任逃れか? お前に、花笠を愛する精神はもうなくなってしまったのか?」

 睨み合いが続いた。

 彼はいまだ自分を抑圧しつづけている。

「花笠は、お前に想いを持っている。だからこそ、お前の理不尽な要求にも応じてくれるんだ。さからうつもりなんてない。言いなりに動くことが、お前への愛情表現だと思っている。しかし、この形がお前たちにとって、理想的な形とは思えない。むしろ二人は知らず内にどんどん掛け離れていく選択を採っているように思える……」

「このおれにどうすれ、と言うんだ? さっきから、本当のことしか言っていない。それに、よ。愛情を示す方法など、どんな形だっていいだろうが。そこまで干渉される筋合いはない」

 彼は話すごとに、苛立った気配を強めていった。

「そのとおり、お前の自由だ。しかし、選択していることが実に片寄った、事によっては道から外れていくものであると予め分かっているのならば、早い内に質さなければいけないだろう?」

 桧山は黙っている。月岡は、ペースを保ってつづける。

「最初の、正常な付き合いにもどってみればいい。それで、あの頃のお前たちの想いをそれぞれ取り戻せるはずだ」

「それは、無理だ」

 彼は顔を伏せて言った。

「なぜ?」

「無理なんだよ……あいつは、そういう女ではないんだ」

 もどかしそうな顔がそこにはあった。これは、どんなに接近しても距離の縮まることはない恋愛なのだと彼はそう言いたげだ。

「絢は……通常の女ではない。感覚に一癖も二癖もあるような、そんな変わった女なんだ。第一、守村の件にしたって、絢には拒否権があったはずだ。相手は政治家だ。絢が強く出ていけば、その時点で身体を許すこともなく、相手を陥れることができたはずだ。それを拒否したのが絢だ」

 あえて、自分を犠牲にしていく作戦に出ていったという。月岡には考えが及ばなかった。

「よく分からないな。何を考えているんだ、彼女は」

「歪んでいるんだよ、心底からね。人が慌てふためくその様子を観察していることが堪らなく好きなんだ。身体から沸き上がってくるものがある、といつかに絢はそう言っていた。そう……人を不幸にさせることこそが絢の生き甲斐なんだ。他人の不幸こそが、絢の最大の報酬なんだ。あいつは……歪みきった、悲しい女なんだ」

「つまり、錦谷の件は、彼女が一番に望んでいた、と?」

 彼はゆるりと軽い首肯をしてみせた。

「そのことを、米光は分かっていた。だからこそ、あの女にとって都合がいい計画を、母代わりのつもりで進んで実行にかかったんだ」

「それで、いつからそんな性質を抱え持っていたんだ、花笠は。お前と出会ったそのときから、そんな感じだったのか?」

「その時から、一貫して変わっていないはずだ。そう、このおれに最初に接近したときだって、絢はゆくゆくは米光を介して陥れていくつもりでいたんだよ。そういう女なんだよ、あいつは。もっともこれは後から分かった事であって、あくまでおれの推測に過ぎない事でしかないんだがな」

 米光によって、彼女の性質がねじ曲げられていったのではない。スカウトマンを通じて彼女の元に転がり込んできたその当時から、彼女の心はひねくれていた。あるいは、女優になっていく夢など、あってないようなものだったのかもしれない。

 イベント会場のレシーバー役こそが、彼女の希望だった。仕事に明け暮れるごとに、自分のやるべき事と性質について、少しずつ確信していった。

 彼女の本性部分が覚醒したのは、彼女自身、自分の選択を誤らなかった結果だ。みずから自分の本質を切り開いていったのだ。となると、今の彼女は、嘘偽りのない等身大の彼女そのものである、とそう見なして良いはずだった。

「お前まで騙すつもりでいたというのは、信じられないな。こっちはある程度、彼女について分かっているつもりだが、そんなことまでしようとしていただなんていうのは、想像しにくい」

「もちろん、受け容れがたいことだ。何より、絢は自分が初めての男だったとこっちは思っているから、これまでも自分を強く持ち、守り抜いてきた女だというイメージが強くある。しかし、絢は違った。とくに、これといって自分を大切にする考えを持っているわけではなかった。これまでに男と交渉をしてこなかったのは、単にその機会がなかったというだけに過ぎない。言ってみれば、相手など、別におれでなくともよかったのだ」

「なるほど、お前は、彼女の気持ちを捉えきれないところに、苛立ちを持っていると見える。だからこそ、彼女の生きたいようにさせている。守村の件にしても、錦谷の件にしても……お前は、彼女を見守っていくしかできないんだ」

 月岡は会話を取り下げ、顔を上向けた。まだすっきりとしないものが頭上にわだかまっている。

「お前の話を聞く限りには、花笠自身、金には興味がないように思える。そこで、もう一度投資信託の話に戻ってみることにする。金に興味がないなら、守村から搾取した金をお前のところに転がすことに抵抗はなかったはずだ。というよりも、お前のことを信用し、投資信託として運用を任せる気でいた。その方が、彼女にとってはいろいろと都合がよかったのだと思う。

 問題は、他の女について、だ。そちらの金集めには、壁がある。たいていの人間は、金に執着心を持っているからな。それでも金を明け渡したのは、花笠からこれまでに集めた金の総額を目に見える形で提示されたからだろう。花笠がそうしているなら、自分も……という口だ。察するに、彼女たちは釣られたんだよ」

 花笠の職場の同僚と接触している。その際、職場の環境について押さえることができた。同僚同士の信頼関係は厚かった。花笠がそうしているのだと聞けば、あっさりと信用してお金を預けるのかもしれなかった。あとは、集団心理を利用すればいい。信用できる筋には財布の紐もたやすく緩めてしまう。結果、彼女たちが持っている資金を自分のところに引き込むことができる。

「錦谷を第二のターゲットに設定し、彼を攻略していったのは、実は彼女の歪んだ欲を満たすためだけではなかったのだと思う。お前が述べたことを否定しているわけではない。そういう事実もあっただろう。彼女のことを一番に観察しているお前の証言は、ある程度正しいのだと思う」

 月岡は息を吸い込み、自分に勢いをつけた。

「しかし、その裏で進行している計画があった。それはいかに金を吸い上げるかという具体的な計画であり、さらにそうした金を合わせて巨額の預金口座を作っては、それでもって投資信託の顧客数を増やそうとしていた――そうなのではないか?」

 彼の顔は翳りばかりがあった。

「否定はしないさ。プリマヴェーラや、ラ・マジェスターの一部の従業員たち……。彼女たちを説得する手段に、巨額の口座を提示することで納得を取り付けた。しかし、そういうものが通用するかは人による。だいたい、二件の民事から得た金は、そんなに巨額というものでもない。たいていは、自分の努力によって蓄えた自己資金によるものだ」

「話しぶりから察するに、まったく足りていないのだろう? だからこそ、お前は第三の計画に取り掛かるようになった。警視庁の公安部の人間……安西という男だ。彼を籠絡し、機密情報を持ち出させては、内調を通じて政府から口止め料を吸い上げようと企てた。その計画の一端として、警視庁の監察室のほうに、例の工作写真が送り付けられたんだ。すべてはお前が金を得るためにやったことなんだ。これについては、花笠の関与は限定的だ。少なくとも、お前が言う、彼女が求める人が慌てふためく姿――そう、不幸そのものだ。これを間近で見届けることはできない」

「それを説明するには長くなる。先ずだが、その計画を提案したのは、おれではない。安西だ」

 桧山は平たい表情で、さらりと言った。

「やつが提案した。なんでも、とくに攻撃を仕掛けてやりたい相手がいるということだった。それが監察室であり、公安部だった。すでに密偵行為をつづけてもらっていたから、攻めていく要領は分かっていたようだ。やつに任せるつもりでいた。おれは、ゴーサインと、種銭を仕込む役を果たせばよかったんだ」

 彼は自分の胸元をそっと押さえ、気を溜め込んだ。

「そう、やり口はもう決められていたという訳だ。あんたを攻撃していくことになっていた。安西が言うことには、あんたはまもなく警視庁を追い出され、下野することだろう、と。それが免れても、地方に飛ばされることは確実で、行く先厳しい道が待っているということだった。ここで、おれらの計画は、そこで打ち止めになると思ったか? そう、まだあったんだ。どのような進退となるにせよ、絢があんたの前に現れることになっていた――そういうことなんだ。つまり、彼女が計画に協力しているのは、そうした報酬を約束しているからだ」

 月岡はこの時、身体の奥から熱が突き上げてくるのを感じ取っていた。感情の底までに繋がっていく、根の深い怒りの感情。こうしたものを知覚したのは初めてだ。

「この俺の堕ちた面を拝みにわざわざやってきてくれるというわけか?」

 月岡は怒りを抑え付けながら、なんとか言った。

「それこそが、絢だとさっきから言っている」

 もし、こうした情報を事前に分からないまま、彼女と対面するようなことがあったら、どのような気分になるのだろうと月岡は想像した。相手がまさかそんな悪意のある魂胆で接近しているとは考えない。だからこそ、顔を合わせたその時は、当たり障りのない会話がやり取りされることになるはずだった。

 ――お可愛そうに。同情申し上げますわ。

 話が弾んできた矢先にそんな風に言っては、自分の傍に引き寄せようとしてくるのかもしれない。あくまで想像に過ぎないが、いつだかに直截目にすることがあったあの彼女ならば、いかにもそんな風に優しく諭してくれそうだった。

「付き合いきれない女だ。だが、俺を笑いものしてやろうだなんて、そんなことをさせるつもりはない。俺は、そうしたことをされるのが大嫌いだからな。だいいち、彼女が現れたところで、それがなんだというのだ。勢いよく突き返してやれば、それで済む話じゃないか」

 何をむきになっているのか、と月岡は自分に対し懐疑的な気持ちを持った。花笠へのそれとない恋慕を抱えているように感じられて決まり悪くもあった。自分が見ているのは妻だけだ。友梨香こそが自分のすべてなのだ。

「絢が、自分を陥れようとしていたことについて、おれが気づいたのはずっと後のこと。米光からそっとこぼれ話のように伝えられたんだ。それまではずっとそうだったなどとは気づかなかった。あんたも、多分あいつを見破ることはできないだろう。それぐらいの女だ。いや、誰もあいつの本質を知ることは、できないんだ」

 特殊な性質を持つ彼女。

 彼にとっては、それが恋人なのだ。

 彼自身、ずっとその性質に悩まされつづけてきたことだろう。それでもそこから一歩も身を引かなかったのは、彼女との未来を思い描いていたからだ。

 蓄えた資金。

 それでもって、なにもかもを捨て、どこか遠い所まで二人で逃げていくつもりでいたのかもしれなかった。彼の計画の帰結は、つまるところ、世を捨てることにこそあった。だからこそ、攻撃を仕掛けていく相手に対し、選り好みをするようなことはなかった。公安部を通じた国家を相手に選んだのは、恐れという感覚が、彼の中から失われていたためだ。

「最後だ。これから、花笠にも任意同行を掛けることになる。そっちから、何か言っておきたいことがあったら聞こうじゃないか」

 彼はしばらくうつむいていた。事務所の捜査はいまや佳境に入っていた。まもなく、関係者の号令が掛かるのだと思われる。

「とくにない」

 彼は短く言った。完全に気力を失ったというような、のっぺりとした顔つきになっている。

「もう、終わったんだ……。あえて言うなら、〝おれは、結局お前を楽しませることができなかった〟と――そう伝えておいてくれ」

 彼は、花笠にとって、単なる道化という存在でしかなかった。愉しませてもらう事以外の役は求められていない。それに叶わなくなったその時、自分は捨てられる――。

 彼の一言は、そのことを悟ったことから発されたもののはずだった。

 

     2

 

 警視庁の捜査が本格化していた。公安部の通告により、連動して二課が動き出したのだ。微少罪と、桧山が企画した投資信託の関連、その他いくつかの余罪の名目で米光の関連会社が次々に調べられていく。これは公安部の動きを内調に悟らせないための、陽動作戦でもあった。

 ラ・マジェスターも、そうした大掛かりな調査の対象となった法人の一つだった。しかし、花笠は事務所の方にはいなかった。自宅のほうに入り浸ったまま、出勤していないということであった。

 月岡は同行の班員の内、保阪一名を引きつれて彼女の自宅マンションを訪れた。

 二十四階フロアに彼女の部屋はあった。退路は仲間たちが断っていた。月岡と保阪による呼び出しはその上での実行だった。が、チャイムを二度目に押しても彼女の部屋からの応答はなかった。

「なんか、おかしいな」

 保阪がドア向こうに耳をそばだてて言った。

「外出情報はない。彼女は、ここにいるはずだ」

 月岡は苛々する感情を抑え付けながら、そっと言った。

「やっぱり、気配は感じないな。この中には誰もいない」

 保阪は最終的にそう判断した。二人のあいだに、不穏が拡がっていった。

「そんなはずはない。もしや……自殺しているのかもしれないな。もしいないというのなら、そうなる。大家に言って、鍵を開けてもらうとするか?」

 保阪は最後のチャンスとばかりにドアを叩いて、大声で呼び掛け始めた。何度試しても、手応えの方はない。返ってくるのは沈黙だけだった。

 その時、耳にはめこんでいたワイヤレスイヤホンに通信が入った。目撃情報があったという一報。その人物は、非常階段を使って、上階を目指していたという。月岡はすぐさま屋上に向かった。

 最上階フロアに出て行く昇降口の扉は、大きく開かれていた。よく見ると、真新しい光を放つ、札付きの鍵がノブに差し込まれたままだ。屋上に出ていくために、管理室から盗みだしたのだろう。

 彼女は自殺する気でいる――

 月岡は屋上へと身を乗り出した。

 フェンスの低い、矩形空間。給水タンクと空調装置が並んだマンションの設備練の影に、一人の女が弱々しい足腰で立っていた。

 花笠絢。彼女だ。

 強く吹きつけてくる風に長い髪がなびいている。月岡の姿を認めるなり、ゆっくりと顔を上げ、目を細めた。

「花笠絢だな……?」

 月岡がゆっくりとした口調で呼び掛けた。

 彼女は反応しない。ただ、表情のない目でじっと見返しているだけだ。寒風には長いあいだ耐えられそうにもない薄着だった。いかにも部屋から慌てて飛びだしてきたといった感じだ。自分らがここに来るのがいかに不意討ちだったかが分かるあり様……。

「君を、ずっと追い掛けてきた。俺が誰か、分かるな? 君が全面協力して作った合成写真。それの一番の被害者というべき男だ」

 彼女は月岡をじっと見ていた。やがて、状況を認識したのか顔に力を込めた。

「あなたが、そうだったのね……」

 風にもっていかれそうな、弱々しい声だった。

「そうだ、俺がそうだ。いずれ、俺の前に現れるつもりでいたということだったが、それは正しいのだろうか?」

 工作を仕掛けられたことから、置かれている状況が一変し、やがて現職から、職務を追われることになっていた自分……。

 その男がいま、こうして目の前に立っている。

 いま、彼女はどのような気分でいるのだろう。

 不思議なことに、彼女は真っ新な顔を貫いていた。表情をかき消し、ひたすら自分と対峙しているようだった。

「そのうち、あなたの前に現れるつもりだったわ。でも、それはもう過去の話……わたしはいま、自分のことで精いっぱいなの」

 彼女の膝には、激しい震えが起こっていた。設備室に寄り掛かる事でやっと立っているといったところだ。

「死ぬつもりでいるんだな? そんなことをしても駄目だ。君は生きて、これまでやってきたことの罪を償うべきなんだ。さいわい、君に掛かっている罪状は、それほど重いものなんかではない。すべては桧山に掛かることになっている。素直に協力してくれれば、書類送検程度で済む可能性もある」

 彼女には、何の気休めにもならなかったようだ。表情は固いままでまるで変わってくれない。

「そんなこと、望んでなんかいない……。そっちまで出ていって、自分のことなんかを話したくないから」

「なぜ、そこで頑なになるんだ。そんなに、自分の過去が憎いとでも言うのか? もちろん、この俺は君の過去を探っている。君の同僚とも接した。その事は、君だってその人から話を聞いて、知っていることだろう。ほとんど知らないことはないと自負できるぐらいに、君のことをよく理解しているつもりだ」

「わたしは、あなたが見聞きしたとおりの女よ」

 彼女は平板な口調で言い、悲しそうに目を伏せた。化粧気のない今の彼女でも、充分な魅力があった。空が近く、直射日光がひときわ強く降り掛かる場所のせいか、肌が艶めいているように見えている。

「わたしはね、生きていてもどうしようもないような、そんな女なの……!」

 彼女は目に涙の光をちらつかせて、必死に訴えた。

 風が相変わらず唸っている。フェンスが低い安全性に欠けた造りの屋上だけに、かなり危険だった。彼女が今いる場所から離れただけで、一気に外側に身体を持っていかれるかもしれない。

「聞けば、君は他人の不幸に悦を感じるらしいな。それも、堕ちていくその人の傍について直截にその模様を見届けてやりたいというような、こだわりまであったりする。いかにも歪んでいる性質だと思う。しかし、俺はその点について責めるつもりはない。むしろ、付き合っていかなければいけないと思っている。君の過去を知っているからだ」

 彼女は口を噤み、じっと月岡を見ていた。

「叔父のところで育ったという過去……、それは君にとって、辛いものだったみたいだな。団欒のない家庭。そんなのは世の中にはうんざりとするほどに氾濫しているが、ひときわ精神が繊細だった幼少期の君にはどうにも耐えきれないものがあったとみえる」

「本当に、孤独だったわね」

 彼女はよろり、とふらめきつつなんとか言った。

「何もない、空っぽな家庭だった。ひどい虐待を受けていたというわけではない。でも、何も関心をもたれないという精神の虐待だって、かなりひどいものよ。ネグレクトというやつではないんだけれど……でも、同じところにいて愛情を受けられない、交流しあえないというショックは、正直、わたしにとって虐待以上のものがあったわ。そんなこと、日常であり得る? わたしは、いつも誰かにそう訴えたかった。叫びたかった。ずっと、そんな気分でいた……」

 虐待以上であったと表現した以上、彼女の心にはまだ、その時の傷がたくさん残っているはずだった。

 今日という日まで、痛みを訴えながら、ずっと耐えてきたのだ。心の中で、いつか自分を解放できるその日を、待ち望んでいた。

「その時に抑圧していたことが、どうして今になって、他人の不幸を愉しむような、そんな性質になって現れるようになったんだ?」

「そんなこと、わたしに分かるわけないじゃない!」

 彼女は悲しみを含んだ訴えを吐き出して、目元に力を込めた。胸元を見つめながら、いまにも途切れそうな頼りない声でつづける。

「気がついたら、こんな風になっていたのよ。わたしには、心から何かを楽しむという感情が欠けているのよ、きっと。すぐにでもこんな自分を破棄してしまいたい。でも、自分を変えていく勇気なんて、わたしにはないのよ。どこにもないの!」

「桧山との出会いで、少しは変わると思ったんじゃないのか?」

「それは、期待したわ」

 彼女の顔にあった緊張感が少しだけ解れた。

「でも、駄目だった。むしろ、わたしを悪化させるような人だったのよ、あの人は。ううん、あの人と出会ったその時から、わたしはもうどうにもならない所にまで来ていたのかもしれない。だから……、彼はどこも悪くない。悪いのは、わたしなの」

「しかし、君を止めるチャンスはあったのだと思う。それを彼は逃してしまった……その罪は大きいはずだ。桧山が守村の秘書をしていたときのことだ。君は桧山とつながりながら、その裏で守村の事務所から使えそうな情報を持ち出し、それでもって彼を追いつめていくつもりでいた。その時、桧山と鉢合わせしたんだ。彼は、そのとき君に罪を償わせていたら、また別の人生が君に待っていたのだと思う」

「無理よ」

 彼女は自分に言い聞かせるような低い声で言った。思い切ったように勢いよく持ち上がった彼女の顔は、今度は、あふれ出しそうな程の悲哀の感情を湛えていた。

「だって、あの時のわたしは、すっごく興奮していたんだもの。はじめてだったの。これまでにもそうした非行をやってやろうと考えたことはあった。でも、臆病な気持ちが邪魔をしてなんとなく何もできないできた。わたしの心の中は、すっごく悪意に満ちたものに溢れ返っているのに、いつも偽善者を装っていたの」

 月岡は何ともいえない気持ちでいた。

 彼女には、変調の波がやがて外側に出て行くことの自覚があった。むしろ、偽善者でいることに、罪悪感すら募らせていた。

 一度堕ちてから以降、悪意が望む道にどんどんひた進んでいったのは、そうした溜まりきった過去の分の罪悪感を晴らしていくためでもあったのかもしれない。

「ずっと、自分に苛々していたの。ようやく犯罪行為に手を付けて、わたしのなかには達成感があった。興奮の大部分はそれなのだと思う。でも、それだけではなかった。あの時、あの人に見つかり……それから、守村にまで見つかったとき、わたしのなかで興奮はまだつづいていたの。その興奮を、取り逃がすことは考えられなかった。だから……わたしは、それが導いてくる運命に従うことにしたの」

「君には後悔はなかった、と?」

「あるわけないわ。必要なものをすべて捨てたいと思っていた。それができる環境がわたしに飛び込んできたのだから、受け容れるしかない。なすがままに生きてきたわ」

「それで、守村を追いつめていくことにしたのは、どういうつもりだったんだ」

「だから、興奮よ。それが、わたしの生き甲斐になっていた。あの人については裏で少しずつ追いつめていく作戦が進行していた。わたしの心は、それを楽しんでいた。案の定、法廷での彼は、わたしを楽しませてくれた……ただ、それだけのこと」

 彼女は一気にトーンダウンして言った。

「でも、終わった後、わたしに虚脱感が襲ったの。仕事にも身が入らなくなったわね。わたしは、軽い抑うつ状態になっちゃったの。得たものが大きすぎて、空っぽになっちゃったのかも。見かねたのが、わたしの本当の主人である、米光さんよ」

「彼女は、君のよき理解者だったんだな?」

 花笠は月岡の目を見て、うなずく。

「わたしのためなら、どんなことだって惜しまずにやってくれる人よ。あの何もない、空っぽの家から引き抜いてくれたのもあの人だったし、いざという時に助けてくれたのも、あの人だった」

「いま、君は彼女のことを引き抜いてくれた恩人だと言った。やはり、君のほうから望んで彼女の元に飛び込んでいったんだな。最初はてっきり、君は騙された結果にそうなっていったのだと思っていたのだが、見込みは外れたようだ」

「その時は、まだ偽善者を装っていた。でも、米光さんはその本質を見抜いてくれていた。だからこそ、今も昔も、あの人の下で働いているのよ。わたしに必要なものを、ちゃんと用意してくれる人なの。それは桧山にとっても同じはずよ。わたしたちは、あの人から離れることはできないの」

「忘れてもらっては困るんだがな、桧山にしたって米光にしたって、いま我らの手中にある」

 彼女の顔に強い緊張が走った。

「君にも、こちらにきてもらって、すべてを告白してくれたらありがたい。間違っても、彼らが落ちたのは自分のせいだとは思わない方がいい。これは、流れ的にそうなっていくことだったのだから……。やはり、君が一人で背負い込むことなんかではないんだ」

 彼女は、弱々しい動きでかぶりを振った。

「今、わたしがやろうとしているのは、わたし自身の問題よ……」

 深刻ぶった気配が彼女の顔を覆った。

 月岡は、まず彼女がいま囚われている思いを断ち切る必要があると思った。

「そうそう、桧山から、伝言を預かったことを忘れていた。〝おれはお前を愉しませることができなかった〟――ということだった。それは、君たちにとって決別を意味する言葉でもあるのかもしれない。が、彼の顔には未練がたっぷり残っていたよ。米光にしたって、君に期待している部分を持っているはずだ。いつも困った時に助けてくれるような理解者であったということは、それだけ君のことを想っていたことの表れでもある。彼らを捨てるのか? その行為は、もしかしたら君が憎んでいる愛情らしい愛情をくれなかった義父母と同じ行為ではないのか?」

 彼女ははっとした顔を見せていた。目を右手に逸らすなり、ゆるゆるとかぶりを振った。精神的な強い動揺が彼女を襲っている。

 月岡は間髪を入れず、畳み掛けに入る。

「繰り返すな。君自身で、決着をつけるんだ。そうすれば、奇妙な興奮はもう君を苦しめてくるようなことはない。少なくとも、この俺は君に付き合って行くつもりでいる」

 彼女は顎を引き、上目遣いで月岡を見ていた。苦しそうな気配があった。

「いいから、こっちにこい。戻ってくるんだ!」

 月岡は彼女を引き寄せるつもりで言った。

 まだ、彼女は動かない。

 次の瞬間、壁を離れた。風になびかれるように、フェンスに向かった。

 月岡が飛び込んでいこうとすると、彼女が勢いよく振り返って叫んだ。

「こないで!」

 月岡は身体を止めた。彼女との距離は、十メートルあるかないかぐらいだがまだ遠くに見えている。

「俺は、君を失いたくないんだ。だから、そっちに行くことを許してくれ!」

「自分で、決めたいの……だから、来ないで。わたしを束縛することは、わたしを殺すようなものよ。だから……これ以上は、許しません!」

 月岡は、逡巡の末に彼女を見守ることにした。葛藤がいま、彼女を襲っている。自分なりに真剣に考えている証拠だ。ここは、彼女にすべてを委ね、彼女自身に闘ってもらうしかなかった。せめて、目だけは離さないことにしていた。彼女はきっとこちらにきてくれる、と信じたい所だった。しかし、この駆け引きがどちらに転ぶかは分からなかった。それだけに、緊張感が凄まじかった。握った拳に、いつしか震えが起こっている。

 それから、どれほどの時間が流れたのだろう。どちらも動けないという、長い膠着に入ってしまっていた。

 やがて、うつむきがちだった彼女の顔が上がる。心を決めたようだ。顔に、強い意気が認められた。

 止めていた足がぎこちなくながらも、動きに掛かった。一瞬、向こうをむいたと思ったのだったが、最終的に彼女が身体を向けたのは、月岡の方だった。よろよろとした足取りながら、月岡の方へとやってくる。

「闘ってくれるのか、君の中にある、悪意、と?」

 月岡は昂ぶってくる気持ちを抑えつけながら言った。やがて、自分から出ていって、彼女を迎え入れた。

「わたしは、変わらないわたしのままでいるしかない。ただ、もう愛情うんぬんで散々悩まされてきたあの人たちと同じようなことをしたくないの……。絶対に同じようなことだけはしたくない。それは、わたしの信条に関わること……だから、しばらくは人のために生きてみようか、と……」

 彼女は苦しそうに自分の胸を押さえていた。ようやく本心からの一言を発してくれたようだ。塞がれていた心の扉を自分でこじ開けたのだ。

 月岡は彼女の勇気をしっかり受け止めた。

 彼女は、まだ変わっていける余地がある――

「それでいいさ。いまは、それでいい。君にはまだまだ考える時間がいっぱいあるんだ。一緒にいちからやり直していこう。これからしばらくのあいだ、君を応援できる存在に、俺はなりたいんだ」

 月岡は寒さを堪えるように小さくなっている彼女の横手にしっかりついて、背中に手を当てた。行こうと暗に催促する。二人は、歩み出した。それぞれ異なった歩調。月岡は徐々にながら、彼女に合わせていった。

 屋上出口付近には、保阪をはじめとする応援部隊がほっとした顔で見守っていた。月岡を迎えるなり、彼女への激励が相次いだ。

「よく耐えた!」

「頑張ったな」

「もう、なにも背負わなくたっていい!」

 彼女はただうつむいて前へ前へと進んでいる。その背中を月岡は優しく支えていた。華奢な体つき。こんな小さな彼女が、よく、一連の大きな事件を引き起こすことができたものだと思う。

 すべては、彼女の幼少時のトラウマからはじまった。静かで、何もない姉と二人ぼっちの生活。彼女はいつも、孤独を感じていた。誰にも愛されないという抑圧の下、静かに生きてきた。いや、生き抜いてきたという表現が正しいのかもしれない。

 ともかく、心の底から何かを愉しむことさえ許されなかった環境にあった。大人になってからようやく見つけた愉しいこと――それは、自分の悪意から生まれたものだった。興奮が伴うその気慰みに、彼女は少しずつ自分の身を壊しながら囚われていった。

 それが、事件の裏側にあった全貌だ。

 彼女のなかに、正しい愛情を植え付けなければいけない。それをやるのが自分であり、見届けるのも自分なのだ。

 月岡は、彼女の背からいつまでも手を離すことはしなかった。

 

 

 

 

終章

 

     1

 

 松原主任監察官は、いかめしい顔で、査問結果通知を読み上げていた。形式な言葉の羅列の先にあったのは、お咎めなし、の無実を伝える四文字だった。

「それでは、自分は……」

 月岡は形式的な立場にあることを忘れ、前にのめった。

「伝えたとおりですよ。これまでどおり、所属の課で働いてもらうことになります」

 胸の奥に溜まっていた疲れやら、不安が一気に解かれ、身体が軽くなった気さえした。安堵が顔に出ていたのだろう。松原は気を引き締めよとばかりに、堅苦しい口調で言った。

「もちろん、これで終わりというわけではありません。引き続き、君については監視をつづけていくつもりでいます。不穏の一つでも見せれば、またこちらに戻ってもらうことになります」

 単なる脅しなんかではない。彼らはいつだって妥協のない職務遂行を心掛けている。今回だって、例に洩れずそうした意気が彼の顔に溢れ返っていた。

「しかし、なぜこのような寛大な処置がくだるようなことになったというのでしょうか。もちろん、これは自分にとって望ましい結果です。しかし、当初は言い分を聞いてもらえなかっただけに、なんだか納得できないのです」

 松原はやりにくそうに身体を動かし、デスク上に両肘を預けた。

「そちらの提出書類を信用することにしたのが、一番の理由ですよ。花笠絢。彼女は、そちらが指摘しているとおり、裏のある女でした。写真工作を仕掛けてくるぐらいの事は当たり前にやってくるような危険人物……。実際、今回のこれだって彼女が動いたのだと査問委員のほとんどが承認しました。直截的な証拠は、ありませんよ。あくまで状況証拠が揃っているに過ぎません。が、今回にいたっては例外を認めようとなったのです」

「例外を認めることになった経緯については、教えていただけないのでしょうか?」

「そんなことまで語る必要があるのかどうか。あなたには立場上、分かっているんじゃないですかね?」

 松原の顔には、明らかな拒否があった。その他に、少々の抵抗も見受けられた。別の何かが彼にありそうな様相だ。

 月岡はさらに出て行くべきか迷った。もたもたしていると、彼の方が先んじて言った。

「いいから、もう行ってください。用件は、もう伝えました」

 厄介払いでもしてくるような剣幕だった。これで月岡は出て行く弾みを失った。そぞろにながら敬礼し、踵を返す。

「月岡くん」

 監察室のドアノブに手を掛けたところで彼に呼ばれた。月岡は一旦手を引っ込めてから、振り返った。

 緊迫感がまだそこはかとなくただよっているのは変わらない。そんなさなか、彼は鼻白んだ顔をしていた。

 何かを言いかけ、彼は顔を伏せた。直後に、ぽつりと言葉を零した。          

「……健闘を祈っています」

 明らかに、言いたかったのはそれではなかったはずだ。

 しかし、月岡は追い求めようとはしなかった。あとは、自分で考えるべき事だと思っていた。

 部屋を出ると、真っ直ぐ中西の元へと向かい、査問結果について言い伝えた。生き残ることができたことについて、彼は微笑んだ上で、当たり前だ、と一蹴してきた。同僚たちは、いつも通りだった。珍しいことが起こった風でもなく、淡々と今日の仕事に明け暮れている。月岡もやるべき事が残っていたため、そのまま何事もなかったように、通常業務に明け暮れた。当面のところ、米光と桧山が共謀して、資金集めに暮れていたことの詳細について調べることになりそうだった。

 

 一時間もすると、小用で、階下にまで出て行かなければいけなくなった。

 なんとなく人を避けたいという気分でいたため階段を選んだ。すると記者クラブがある九階にて、広報課員に呼び止められた。何やら、会いたい男が来ているのだという。承諾するなり、廊下の簡易休憩室にて待ち惚けとなった。

 現れた男は、會伝社の柄本だった。署回りの記者に相応しい、律義な格好を装っている。が、普段からの顔を知っている月岡には違和感しかなかった。

「どうだったんです、査問のほう?」

 彼の方から口を切った。

「……なんだ、それがどうしたんだ。さっき問題なしと伝えられた。つまり、お咎めなしで、いつもどおりということだ」

「それは、良かったですねえ。いやあ心配していたんですよ。処分されるようなことになったら、どうしようかとずっと思っていたんですよ」

 大げさというほどに身をよじらせて、彼は喜びを示している。どうも、ご機嫌取りというような風でもない。

「なぜ、お前がそんなに俺のことを心配するというのだ?」

「約束したはずでしょうに。自分らは、これからもうまく付き合っていける関係をつづけようと、と」

「そんな約束をした覚えはない」

 形の上では保留ではあったが、ほとんど拒否に近いようなものだった。あれだけきつく言っても、彼には通じないようだった。

「今日まで、月岡さんの立場が悪くなるようなことがありましたか? ぼくは、ちゃんとルールを守っていますよ。もちろん、今回の事案について記事にはしていますけれど、でもそれは米光の会社についてのことだけです。それ以上のことには触れていません」

 公安という秘密の部について、配慮ある対処を一応取ってくれているということだ。実際、彼のせいで業務が滞るというような事態は一度として起こっていなかった。裏約束を守ってくれていることだけは、認めなければいけないようだった。

「それで、情報は役に立ったのか?」

「それは、もう。おかげさまで、大分部数をだすことができました。早い段階で勝負に出た事が奏功したのでしょう。社員一同、臨時ボーナス支給を受けて、盛り上がっていますよ」

「我らのあいだで取り交わしたビジネスの契約はそこまでだ。そこから先は、もう何もできない。つまり、付き合いもここで終わりということにさせてもらう」

「どういうことですか、勝手に関係を断ち切らないでくださいよ。それも、こうもいきなりだなんて酷すぎます」

「いかにも理不尽なやり口だというのは、こっちも重々分かっているさ。だが、妥協はできない。お前にも、自分にも……。事情を分かってくれ、頼む。じゃあな――」

 情を見せてはならない、と月岡は思っていた。約束を守ってくれたことよりも、公安としての立場を守ることだけを考えていた。それぐらい厳しく自分を追いつめなければ、諜報の世界ではやっていくことなどできなかった。

「ぼくはあなたから、まだ離れる気はありませんよ」

 月岡が自分の持ち場へと向かうべく、彼に背を向けたところで彼が言った。

 振り返ると、にこやかな顔をしている彼がそこにいた。

「こんなぼくにだって、できることはありますから、まあ、利用する気でいてもらってけっこうですよ。こんなことを打ち明けると、実に恩着せがましく聞こえますがね、でも言います。査問の件、自分が絡んでいます」

 月岡はこめかみのあたりがぴくり、と動くのを感じた。

「お前……」

 彼の笑顔は続いている。

「匿名でですよ、監察室の方に、独自の報告書を送ったんです」

「報告書とはなんだ?」

「メインは、そのなかに含まれている写真ですね」

「写真? いったい、何をしたというんだ?」

 月岡には、正直に感謝する気持ちはなかった。むしろ、余計なことをしてくれたという苛立ちを抱え持っていた。

「そう、目くじらを立てないで下さいよ。ごく普通の報告書というやつですから。ただ、それを制作したのは、著名な人物です。業界内では、知る人ぞ知るというような、そんなお方。写真の中身は何?となれば、ここまでくれば何か、想像がつきませんでしょうか?」

「さっぱりだ。というよりも、いまだにお前さんの考えている事がよく分からなくて困っているほどだ」

 まいったな、というように彼は頭を掻いた。 

「もったいぶっても仕方がありませんので、もう少しヒント……と言いますか、ほとんど答えに近いものを教えるとします。ぼくと通じているコネクションと言えば、みんなその筋のプロばかりですよ。その線で考えてください。そうです、今回依頼したのは写真の技術者です。合成映像から、写真まで作り出す技術に優れた腕を持っているプロ……その人に新しい合成写真を作ってもらったのです。月岡さんに見せてもらった写真とほぼ同じ内容になるよう依頼しましたが、さすがに、そっくりというまでにはいきません」

「お前、まさか……」

 月岡は開いた口が塞がらない。彼の得意な様相は最高潮に達していた。

「不倫合成映像、それを送り付けたんです。写っていますのは、監察室の一部の人間と、こちらが独自に用意した花笠をイメージしたモデルさんです。提出する前に見せてもらったんですが、よくできていました。もちろん、画像ファイルを弄るなどの加工だって、やってくれましたから、微妙なところまで見ていけない彼らの生半可な鑑定ではそれは合成だとは見破れないでしょう」

 とんでもない作戦だった。

 松原が何かを言いかけたのは、その仕打ちについて一言何かを言い返すつもりだったのかもしれない。しかし、蒸し返すことは自らの立場を悪くする恐れがあった。彼はこじれない結果を選んだ。それが、月岡の無実の背景だ。

「目には目を……というやつですよ」

 彼は悪びれた風もなしに言ってのける。月岡は数時間前のやり取りを頭に浮かべながら、気持ちの底から沸き上がってくる怒りをなんとか抑え込んでいた。

「お前さんのことだ。俺が関わっているとは思わせない方法でやってくれたに違いないだろうが、それでもやはり疑いの対象には残ったままだ。事実、査問結果を言い渡された直後、厳しい監視をつづけていくつもりだ、と向こうから宣告されている」

「業務としての監察については、どの警察官も無条件にされていると思いますが」

 この男には、反省するという感情がないようだ。月岡はこれ以上、彼に対して腹を立てるのを止めることにした。空回りの結果しか生まない。

 ここは気持ちを切り替え、このエネルギーのすべてを自分の中に昇華させることを考えるべきだった。

「とにかく、勝手な事をやってくれたことの尻ぬぐい。それをやってもらわなければ気が済まない」

「どうしろ、とおっしゃるのです?」

「また、その人に依頼をしてもらえないか?」

 彼がきょとんとした。

 月岡には一計があった。まだ、今回の事件について完全には決着がついていない。それを片付けるために必要なことをやらなければいけなかった。そのためには、彼の手を借りるしかなかった。

「それをやりますと、貸しを作ることになりますよ、ぼくに。いいんですか?」

「やむを得ない。こればっかりは、お前の力が必要なんだ」

 

 

 尋問室での花笠の様子は、落ちついている。

 少しずつ心を回復し、正常な感情を取り返しつつある。月岡もなるべく彼女の側に付き、温かい声を掛けることを怠らなかった。

 素の彼女は、少女のように清らかな精神の持ち主だった。桧山にもう一度会ってみたいと洩らしたのは、素直な気持ちからだろう。

 一方で、桧山の方はまだ彼女のことを、自分から切り離した存在として扱っていた。それは米光も同じだ。

 離れた心。

 距離は少しずつ広がり、すれ違い始めている。

 彼らが今後、どうなっているかは分からない。仮に依りを戻すにしたって、普段どおりというわけにはいかないだろう。それでも、なんらかの前向きな進展があると期待したいところだった。その可能性がある限り、月岡はいつだって手を貸すつもりでいた。

 SISの諜報機関員ワイズマンは帰国した。内調の潜入員であった小見は、姿を消している。すべての計画は公安部が収拾させる形で、空中分解となった。国家財政への被害はゼロ。感謝状の一つでももらっていいところだったが、公安部のこうした名誉は、当面のところ闇に伏せられたままとなる。

 月岡はその日、報告書類を持って自宅に戻った。友梨香がいつものように迎えてくれる。が、抱えている書類について早速気に掛かったようだ。月岡は説明するその前に彼女に手渡した。

「何なの、これ」

「いいから、見てみてくれ」

「報告書みたいだけど」

 友梨香は中身を引き抜いた。たばねられた報告書はすべて白紙だ。それはダミーでしかない。見るべきものは、その書類の上にある添付写真にこそあった。友梨香はそれらを一枚一枚手に取って眺めた。

 その顔がやがて、失笑めいた風に膨れあがっていくのを月岡は認めて、気持ちが和んだ。

「どうだ、合成写真を作られた気分は?」

「困ったわ。やられた……という感じかしら。少なくとも、あなたの気持ちが分かったような気持ちだわ」

 三枚の合成写真。

 それは、柄本を通じて依頼した、プロの映像作家の手によるものだ。どこを取っても、非の打ち所のない、完成度。月岡と、友梨香が秘密の逢い引きを重ねているような、怪しげな内容。しかし、二人にとってそれは、笑い話でしかない。二人の中に存在しない記憶であることは、すでに分かっていた。

「大丈夫よ。こんなものを作ってもらわなくたって。あなたのことは、信頼しているつもりだから」

 友梨香は写真を持つ手を下げて言った。

「どうしても、納得できなかったんだ。だからこそ、これを頼んだ。俺は、なんだか今回の事件について必死になっていた。その理由が自分でもよく分からなかった。花笠がからんでいることによるものではないと自分でそう見なしていたが、本当の所を言えば、彼女に関係することだとは理解していた」

 友梨香は真剣に聞いていた。月岡は彼女の顔を見つめたままにつづける。

「そうだ、と後から気づいたよ。俺はお前に少しでも誤解されることが怖かったんだ。土下座をしたのは、その恐れの表れのようなものさ。お前が今もそう言ってくれているように、軽くいなしてくれるのは分かっていた。でも、不安だったのだと思う。もっと、確かな形で自分の気持ちを伝えるべきだったように思える。自分には、それができなかったんだ……。できていなかったんだ」

「仕事のことだったら、以心伝心でスムーズにやっていけると思っていたけれど、それだけじゃ駄目みたい。そして大丈夫とか、信じてるという安易な言葉だけでは、本当のところで通じ合うことはできないんだって分かったわ。だったら、どうすればいいってなるとわたしにも分からない。もっと、お互いのコミュニケーションを取っていかなければいけないのかしら。できることといったら、それぐらいだと思う……」

 彼女は写真をまた眺めやった。月岡はそんな彼女の顔を眺めた。

「それでいいはずだ。コミュニケーション、それを取っていかなければいけない。いつもよりも意識して、だ。その写真にある虚構のように、表面的なものはいくらでも作れてしまえる。通じ合えているというつもりだけでは駄目なんだ。俺も反省している。だから、もっと話し合っていこう。もちろん、これは自分のためにやりたいことでもあるんだ。俺は、お前ともっと通じ合って、好きだという気持ちを示したい。これは、本心からの言葉だよ」

 彼女は微笑むなり、写真を写真ボードに貼り付けていった。

「何を、するんだ? それは、処分品だ」

「捨てる必要ないんじゃない? 大事な写真よ。ここにあるのは、嘘。だから、誰かが求めた時、あなたがその説明をしなければいけない。ね? あなたがそのことをしっかり記憶している限り、今日のこのこと、ずっと忘れることはない」

 月岡は、何だかやりにくい気持ちでいた。その内には、照れの感情も大きく入っていた。

「しまったなあ……、それだったら、こんな逢い引きみたいな写真でなくってもよかったよ。もっと、そのあたりの計算、ちゃんとやるべきだったかもな」

「もう、遅いわよ。これでいいじゃない」

 彼女はクスクス笑っている。月岡の気分は上機嫌だった。自分を飾らないで生きていこうと思っていた。あらたに貼り付けられた写真を見るたびに、そうした初心に返る気持ちを取り戻すことになる。

 その作業を繰り返して、彼女と確認しあいながら、これからもやっていく。愛情は、けっして一人だけで成立しうるものなんかではないのだ。

 すべては、事件と造られた写真たちが教えてくれた――。

                                                                                     (了)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ