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オリジン  作者: MENSA
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オリジン2

 

第三章

 

     1

 

 パーティーを明日に控えた午後の一時過ぎ。月岡は自宅にいた。

 仲間の所有物をあの手この手でかき集めて、一式のすべてを揃えた。借り受けたパーティー用衣装一式は、さいわいサイズが狂いもなくぴったりと合っていた。アルメネジルド・ゼニアのスーツ、ネクタイ、シャツの三点セットだ。足下を飾るのは、ジョンロブの紳士靴。極めつきはなんと言っても腕時計で、IWCのボルトフィーノセレクションを借り受けることができていた。いかにも、成功者に相応しい、風格のある逸品たち。あとはそれに似合う男の品性を意識的に装うだけだった。

「うん、これならどこに出しても、大丈夫」

 友梨香が最後に襟を直して、得意に言った。

「分相応なんていっていられない。明日には、これらが違和感がないようになっていなければ、全部だめになってしまうんだ」

「問題ないわよ。心配なら、ちょっとぐらい香水を掛けていけばいい。メーカー品の少量のやつなら、うちにだってあるから。気分も出てくるし、何より落ちついた気持ちになれるわ」

「それは遠慮しておくよ。さすがに今回のこれらは借り物だからな。せめて、整髪料だけでもいいものを使ってそれで誤魔化すとする。だいたい、向こうでは人と接することは避けるつもりでいるから、そこまで配慮する必要はないんだ」

 妻にはパーティーの詳細については話していない。しかし潜入であることは準備段階に入ったその時からすでに把握されてしまっていた。そのうち何も言わなくても、要領のいい対応をしてくれるようになるのかもしれなかった。

「それで、例の人は、明日出席するの?」

 思わずぎくりとした。まだ、彼女はそのことについて気に留めていた。

「上司がそのようにセッティングしたということだったが、どうなるかは分からない。もしかしたら、こないかもしれない」

「いいのよ、そんな回りくどいことを言わなくても。あなたのやりやすいようにしてもらえればそれでいいんだから。でも、もし来るんだとしたら、すごく綺麗な格好で現れるんだろうなって思うのね」

 合成写真の中の花笠が着飾ったらまた違った印象になるのだろうか。そういえば、彼女について知っているのは大部分がデスク上で見知ったことばかりだった。まだ一度も直截的には顔を合わせてはいない。

「中身を探っていくごとに、とんでもない破壊屋な女であることが分かってきている。自分が引っ掛かるようなことはまずないだろう。むしろ自分は、誰かが引っ掛かるのを見守る役だ」

「どういう人かは分からないけれど、でも写真で見る限りには、聡明そうな感じがあったわ。あなたの視線を感じながら、罠に掛けた対象者さんをわざとらしく自分の元へと引き込んでいく……つまり、あなたに見られているってことをあえて楽しむわけね。もし、その人が動くとしたら、それぐらいのことをしてきそう」

「そこまでにはならないさ。だいたい、なんで自分の正体が知られてしまっていることが前提の話になっているんだ」

「あら、気をつけた方が良いわよ。パーティーを管理している会社や支援している会社というのはそういう風に見えなくてもしっかり横でつながっていることが多いから。情報を交換して、あなたのことを探ってくる可能性はある。というより、クラブで使うような、パス代わりの会員証って普通、顔写真付きで作るものじゃなかったかしら?」

 データ管理をしている人間が、一人ずつ会員の顔を確認する方式だったら、おそらくそのパーティー会場に入ることはできない。検問という名の、手続き会場にて引っ掛かる。

 しかし、問題ないはずだ。中西が今回、そのパスを用意してくれたのだ。方式について、問題なく把握しているはずだ。

 ここで一番に気をつけたいのは、米光だ。彼女には顔が知られている。もし、会場にて顔を見つけられようものなら、その時は一発で潜入がばれてしまう。しかしながら、彼女は管理職だけに、会場には視察ぐらいでしか顔を出すことはない。スタッフが就く立ち位置は、だいたい限られる。そこを注意深く監視していれば、見つかることはないはずだ。

「余計な心配ごとを吹き込んで、むやみに不安にさせるのはよせ。こっちだって、緊張感がまったくないわけではないんだ」

 ごめんなさい、と彼女はうつむいて言った。軽く襟に触れ、特に気になるわけでもない埃をすくい上げた。

「もしかしたら、わたしが一番不安になっているのかも。あれだけの美人さんですもの。そういうのを見てしまったら、なんだか気持ちの底に諦めのような感情が植え付けられてしまうの。劣等感なのかしら。ほら、わたしって、そんなに美人でもないから……」

「くだらないことを言うのは、よせ。もし、俺がお前のことを認めていないというのなら、写真も見せないし、土下座だってしない。そうだろう?」

 友梨香の口許に軽く微笑みが湛えられる。

「信頼しているわ。だから、あなたらしく仕事して」

「そのつもりだ。気を抜いたら、それで終わりなんだ。事実、今回の件は厳しいことになりそうなんだ。監察室の方が、こっちの言い分をまるで無視している」

 彼女は月岡を見ていた。優しい眼差しをしていた。

「左遷されるようなことがあっても、問題ないわ。だって、あなたがどういうところに勤めているか知っている人間ですもの。例えそれがあなたにとって不本意で理不尽な取り決めだったとしても、受け容れる」

「そうか。ありがとう」

 彼女は自分を理解してくれる一番の人間だと思った。妻だからこそ、無条件でできるわけではない。彼女の持ち前の包容力のたまものだ。見合い結婚だったが、この彼女との巡り合わせには感謝しなければいけなかった。

「悪いが、これはもう脱ぐとする。この後すぐに出るつもりでいるから、いつまでも着ているわけにはいかないんだ」

「いま、手伝うわ」

 友梨香に手伝ってもらいつつ、普段の仕様に着替えていく。栞との接触。それができるとするなら、今日だけのはずだった。ところがその途中で、月岡の携帯が鳴った。業務用の番号だった。すまんと妻に断って、距離をおいた。

「月岡か? そちらの予定の方をいろいろ確認させてもらったんだが、明日、スカイヒルズのほうでお忍びでパーティーに参加するというのは、本当か?」

「事実だ」

 相手は、今回のミッションに参加している男ではない。だが、小見の件では合同に仕事をしていたので、この秘密を明かすことに問題はないはずだった。

「実は、そのパーティーに、うちらが追っている筋の人間が一人転がることになっている。名前は皆藤卓志。こっちにはパスがない分、追加で追ってもらいたく思うんだが、できるのかどうか?」

「率直に言って、厳しい。マークしなければいけない人物が多すぎる。それで、その皆藤とやらは、どういう男なんだ?」

「現在はリヴァプールの総領事に所属する、在イギリス日本大使館付き一等書記官だ。いま、外交交渉の関係で日本に戻ってきている。滞在期間は、四日。ほとんど、そのパーティーに出るためにもどってきたといっても過言ではない」

 とうとう小見と花笠がつながる線が見つかったようだ。当初、無理にでもこさえるつもりだった線が、本当になってしまったケースだ。ただ、つながりは直截的ではない。皆藤という男を仲介する形でのつながりだ。

「そっちもいよいよ、佳境に入っているみたいだ」

「まだまだだ。小見が何の情報を流したのか、いまのところ掴めていない。ただ、大使館の書記官がらみとあらば、SISの抱き込み作戦はいよいよ大事になってきたということだけは言える」

「それで、SISのところには、どんな情報が転がり込んでいるんだ?」

「はっきりとは伝えることはできない。大筋で言って、テロの案件と見ていいはずだ。SISと政府通信本部(GCHQ)はここ数日、テロ対策を強化している動きを見せているからな。我らの監視を逃れた日本人の何人かがテロ国家、もしくは支援国家入りを果たし、戦闘要員となって働いている。中には観光客を装ってイギリス国民を勧誘する人間までもが暗躍している始末だ。今こそ、そうした義勇兵を量産するパイプラインを根元から断つつもりでいるのではないか」

「大使館付き書記官と、単なる一介の通信記者が噛んでいるのは、これはどういうことだ?」

「暗にながら、彼らは政府機関直下の内閣情報調査室(ナイチョウ)ともコネクションがあることが判明した。つい先日のことだ。だからこそ、お使い役を任されているとも考えられる」

 日本には諜報機関は名目上、存在しないことになっている。だからこそ、関係機関が海外の諜報機関とタッグを組むところはだいたい限られている。その限られたところの機関には、海外業務の権限を持っていなかった。

 そこで用意されるのが、特殊要員だ。

 今回、大使館の関係者に目をつけられたようだ。いくらテロ情報の交換とはいっても、第三者機関に非公式の入口を作るのは危険な行為だ。それ以外の情報まで流出し、関係者の肥やしの手段に使われてしまう恐れがある。何より、SISはそのことを狙っているはずだろう。彼らの根城、イギリスは日本と同じ島国国家だけに、日本から盗みだしたい軍事技術はたくさんあるのだ。

「となれば、これは断ってはいけない案件のようだ。だが、本当にきついんだ。なんとか、そっちでパスを用意してくれればそれが一番ベストなんだが」

「あいにく、エスの当てはもう使い尽くした状態だ。無理にねじこんでも、一人がやっとといったところか」

「それでいいに決まっている。単独でもいいから、無理にでも潜入してもらいたい。というより、そっちのミッションをこっちに持ってこないでくれ。俺は、役を外れたんだ」

「キャップの話では、直に戻るはずだということだったんだがな。何やら、苦戦しているようで。とりあえず、状況は分かった。こちらでねじこむ強行策を採ることになる。一応、写真を回すから、皆藤の面通しだけはしっかりやってくれ」

 連絡はそこで終わった。

 大変なことになった。これまでやってきたことが同時に進行し、一つに合流しようとしている。

 なぜこのようなことになったのか、考えなければいけなかった。別々だと考えられていた線がつながりつつあるということは、基本的なところが誤っていたということだ。

 花笠が最初から、こうしたやり取りについて押さえていたとしたらどうだろうか。そう考えたとき、また見方が変わってくることになる。

 彼女は、こちら側の混乱をあえて狙って、例の写真を送りつけてきた。つまり、公安部牽制こそが本当の狙いだった――

「どうしたの、あなた。顔色が、悪いわよ」

 友梨香に声を掛けられ、はっとする。

「問題ない。ちょっと、想定よりも大変なことになりそうなんだ。明日は帰れないだろうな。いや、この案件が片付くまで帰れないように思う」

「そう……。いつものことじゃない。気をつけて行ってきて」

 明るく言う友梨香の声が、どこかしら遠いものに聞こえていた。

 

     2

            

 皆藤卓志は、かなりシンプルな顔立ちをしていた。うすい眉に、分かりやすい切れ長の目。典型的な日本人顔と言っていい。髪型を綺麗に整えるなど、写真の映りについての無駄のなさが、彼の固い身分に妙な説得力を持たせていた。

 彼ははたして会場に現れるのだろうか。そして、花笠と接触するのだろうか。花笠は少なくともイギリスを舞台にした今回の機密情報交換の事実関係について把握している。これが意味するところは、すでに接触していたところでおかしくはないということだ。

 月岡は悩ましい感情に囚われたまま、スカイヒルズのタワービル入りした。手続き会場はすでに人でごった返していた。壮年クラスの男が多い。低い声でささやき合う様は、なんだかものものしい。思ったよりも形式的ではなく、和やかな雰囲気に包まれていた。

「会員様でいらっしゃいますね?」

 控えめなビジネススーツを着た若い受付員が言った。七列ある分の、一番右側を担当している女性職員だ。その顔には、潜入員だと疑う気配はない。

 彼女が口にする前に、パスを提示した。確認はわずかに五秒だった。流れるようにその場を離れたが、月岡は職員についてウォッチ対象から外さなかった。入口をくぐるまでの十数秒間の深い洞察。どうも、裏を取る行動には出ないようだ。

 最後まで念入りに見届けてから、会場入りした。

 高層ビルのワンフロアを一面に使った、盛大な会場。いくつものシャンデリアが綺麗に敷き詰められた赤絨毯の会場を明々と照らしつけている。

 会食テーブルのどれを取っても並べられた料理が異なっている。高級食材が惜しみもなく使われており、銀細工の食器がそれを引き立てている。豪奢な飴細工の飾りを全面的に出した、ミニケーキなどが並べられたデザートの部門の鮮やかさがとくに際立っていた。

 入口付近にて配られている酒は、ピンクのシャンパンだった。月岡は挨拶代わりに受け取り、無難な位置に就いた。VIPがこぞって集まる会場。顔の知られた要人も、何人か見受けられた。月岡はあえてそうした人間たちから距離をおいた。何度も雑踏に混じる。

 マークすべき人間を捜しつつも、それとなく料理を独りでたしなんでいる折、ぽんと肩を叩かれた。

「今日はよろしくお願いします」

 見たことのない男だった。が、月岡には、彼こそが小見付き内偵のいち要員であるとすぐに分かった。ネクタイ裏に隠れたシャツの第二ボタンあたりに膨らみがある。これは、ワイヤレスイヤホンのレシーバーを仕込んでいることによる隆起だ。もちろん関係者にしか分からない仕掛けだから、一般人に見破られる心配はまずない。

「よろしくどうぞ。自分は好きに飲んでいるので、そちらも自由にやってもらいたい」

 月岡が、周囲を意識しながら彼に言った。

「ああ、そうですか。お帰りは一緒にならない予定なので、もし何かあれば、うちのほうを経由で頼みます」

「了解だ。……ただ、今日はそれを持ち合わせてないので、何かあっても出て行けない。そのつもりでいて欲しい」

 月岡はネクタイの中央を示しながら言った。

「こっちは、外の方にも連れ合いがいるので、その配慮は必要ない。あなたは、あなたの思うままに過ごせばいい。では、また後ほど――」

 彼は人込みの中に消えていった。揚々とした足取りは、ベテランの風格がある。おそらく今回の作戦に当たって、わざわざ召集した視察部隊の一人なのだろう。公安部の人間だからといって、必ずしも部内の仲間を全部掌握しているわけではない。月岡自身、滅多に表舞台に立たない裏部隊の人間について、知らない者が何人かいた。それも、十二十という数ではない。今回のように、見知らぬ仲間が合流するなんてことは、とくに珍しことでもなかった。

 会場に入ってくる人の数が少しずつ増えていく。

 月岡は目立たない位置に留まったまま、監視の目を怠らない。

 その時だった。

 スタッフルームのあるほうから、レシーバーと思われるナイトドレスをまとった女性の集団が現れた。がやがやと騒がしいグループの中に三々五々まじっていく。しなやかな振る舞い。誰もが彼女たちの相手を、喜んで迎えている。

 その中に、一際異彩を放つ存在がいた。

 花笠絢だ。

 大振りなドレープが利いたマーメイドスタイルの黒ドレス。質の良いサテン生地が、彼女の細い体格に合わせたハイライトを作り出していた。大胆にえぐられた背中がそう派手に見えないのは、彼女の肌色がそれだけ美しい証拠だ。

 艶やかなほほえみを振りまいて、颯爽と振る舞う彼女。なるほど、多くの男が虜になるだけの魅惑が彼女にはあった。月岡も彼女の美貌について、かなりのレベルにあると認めなければいけなかった。もしかしたら、こうした会場こそが、彼女には一番輝ける舞台ということなのかもしれなかった。

 月岡は皿に中華料理を盛る振りをして、距離を取っていく。一目でも自分を見られたら負けだ――そう思っていた。

 が、彼女の目が一瞬、こちらを向いた。月岡は手前にいるメタボリックな男の影にさっと隠れた。十数秒ほど、息を殺して耐え忍んだ。また移動し、花笠の姿を求めた。いつの間にかいなくなっていた。

 どこに、消えた?

 慌てて首を巡らしながら、移動を繰り返す。すると、消えた場所からすぐ近くにいた男たちの囲いに交じっていることが分かった。恰幅のいい男のご機嫌をうかがっている。割り合い良い雰囲気がそこにはあった。

 予想どおりに、男の扱い方や、転がし方を心得ている。きっと、搾取を完成させた先の二件の民事事件についてだって、彼女にとってそう労力を使うことのない、いとも簡単に成し遂げられたことのはずだった。

 しばらく、動きがない時間が続いた。

 月岡はスタッフ席を気にした。

 給仕係たちは皆、固い義務的な顔をして、客の様子をうかがっている。誰ひとりとして、気を緩めている者はいない。意識の高い緊張感が維持されているのを見る限り、当面の所プリマヴェーラの代表取締役である米光律子は現れないだろう。

 一時間が過ぎて、会場が酒気の気配を帯び始めたところで、仲間の男に動きがあるのを見た。

 彼がマークしているその先には、皆藤の顔があった。音響器機や、照明を管理するコンソールルームがあるすぐ近くだ。

 月岡もテーブルを離れ、動いた。ちょうどスタッフの列と、皆藤がいる立ち位置の中間点。そこは会場のど真ん中だった。大シャンデリアの直下だけにひときわ明るいところではあったが、まだ多くの人が残っていたため、彼らを利用すればうまく身を隠すことが可能だった。

 ふと、いつのまにやら花笠の姿がなくなっているのに気付く。

 就いていた場所から離れ、別のグループに向かったのだと思われるが、近隣の風景にそれらしき影が見当たらない。贅肉のついた男ばかりが大半を占めている。

 焦りが募ったところで、はっとする。

 すぐ近くのグループからぬっと抜け出てきた女の姿があったのだ。それは、花笠絢と一緒に会場に加わったレシーバーの女だった。ドレスから覗いた肩が、綺麗な形をしている。

 月岡との距離は、十メートルもなかった。広い会場にあってその距離は隙を許したも同然なものだった。

 月岡の手前までやってきたところで、彼女の顔に、たおやかな微笑みが装われる。

「愉しんでいらっしゃいますか?」

 彼女は、滑らかに言った。相手に配慮したしゃべり方に慣れた女の、はっきりとした声音だった。

「もちろん、愉しんでいます。あなたは?」

 月岡は自分を殺しつつ言った。こうなったら、とことん客人を装ってやるしかない。下手に拒否をして移動を繰り返すよりも得策だ。

「不自由はしていませんよ。お酒も、相手も。でも、あなたはなんだか孤独そうな感じがあったわ。誰とも話していないまま過ごしている人って、どうしても態度に表れてしまうみたい。わたし、そういうのよく気づくほうなの」

 自分はからかわれているのだろうかと思った。もし、彼女が花笠と連携しているというのならば、そうなってくる。が、顔色や気配を確認するぐらいでは判断はできなかった。

「そりゃ、お気遣いありがとうございます。ちょうど、退屈していたところだったんですよ。何か一緒に呑みましょう」

 最寄りのテーブルからシャンパンの壜を持ってきて、二つのグラスを満たした。持ち掛けた会話は、テンポ良く弾んだ。お互いの趣味と価値観についてのちょっとした歓談だ。女は月岡の話を一言も聞き漏らさないといった、強い眼差しをよこしている。そうして、黙って聞き入るのだ。いやでも、自分からリードしていかなければいけないという気にさせる彼女は、なるほどその手の職業人だった。レシーバーであるということを悟らせないあたりも見事だ。

 彼女は、単なる盛り上げ要員ではない。

 会場の一員として参加するぐらいの、そんな存在だ。おそらく、それぐらいの権限が運営主から彼女に与えられている。

 これは、花笠についても同様に当てはまると考えていい。

 ふと、皆藤の姿が、彼女の真後ろずっと向こうにあるのに気づいた。監視をつづけていたのにも関わらず、いつしか位置把握が狂ってしまっていた。

「どうしたんですか、後ろのほうで、何かあったんですか?」

 彼女が甘い声で言う。

「いや、なんでもない。ちょっと、気になっただけですよ」

 またもや熱烈な視線が彼女から注がれる。こちらをしっかり見てお話し下さい――そう誘い掛けるその目に月岡は戸惑いを覚える。

 この時、会場全体に動きがあって、月岡と皆藤のあいだにいたグループに何人かの入れ替えが進んだ。相変わらず大柄な人間が多くいたことから、皆藤の存在が見えづらくなっていた。誰かと話し込んでいるようだ。その男は、後ろ姿であったが、ひときわ背の高い骨格を見る限り、外国人であるのだと思われた。

 その事実は、ここでは重要な要素と受け取ってもいいものであった。

 ――もしかしたら、イギリス大使館付きの参事官ワイズマンと、通じている可能性がある男かもしれない。

 どちらにせよ、彼を監視する必要があった。こういう時、仲間がいればいいが、今だけは単独行動だ。月岡は難しい状況にあることを悟り、いつも以上に気を強く持った。

「わたしの相手をするのが、そんなに苦痛なんですか?」

 怒った顔の女が目の前にあった。視線を阻んでくるような、詰め寄り。これだって意図的な行為のように感じられて、思わず警戒心を抱いた。

 状況が状況なだけに、彼女への不審は高まるばかりだ。彼女は引き付け要員だったりするのか、はたまた、そうではないのか?

 もう一度、五感を総動員して、彼女の瞳の中に真実を求める。下手に食って掛かれない以上、見極めだけが頼りだった。

 結果、どうも嘘をついているようではないと見なす他はなかった。

「失敬、そんなことあろうはずもない。ただ、できるだけ多くの交流をしていきたいと思っていてね。今日は、ちょっとした顔を売る仕事でもあったんだ」

「それでしたら、わたしも入れて下さいよ。こう見えて、商談に応じられるだけの話はいくつか持ち合わせています。わたしの父、輸入雑貨を扱った貿易商をやっているんです――」

 彼女の話に合わせているだけで、どんどんペースを取られていきそうだった。

 月岡はもう我慢できなくなってきた。ちょうどその時、皆藤とウォッチ対象者、その他の取り巻きが集団で出口向こうのロビーに歩いて行くのを見た。周囲を確認すると、スタッフルームへ通じる扉がまさに開かれていて、その向こうへと消えていく影があった。花笠だった。回り込み、彼らと合流するのかもしれない。

 そんなことをさせてはならない。

「是非とも話し合いたい人がいま、こちらに来ているんですよ」

 月岡はまだ何かを言おうと夢中でいた彼女を押し退け、出口のほうへと向かおうとした。

「ちょっとぉ」

 女に腕を掴まれる。が、振り切るつもりで突っ走った。すると、女の身体が引かれて、一瞬空中に浮きあがる感覚があった。きゃあと悲鳴があがる。彼女はシャンパンのグラスを投げ出す形で、地べたに突っ伏した。半回転したのかもしれなかった。かなり派手な倒れ方をしている。絨毯に顔をつけたまま動かない。

 ざわざわと、周囲の人間が騒ぎ出す。

「大丈夫ですか……!?」

 月岡はまずいことになったと思いつつ、彼女に取り掛かった。厄介なことに、完全に気絶に入っていた。どうもこのまま放置していくことができそうにもない。マナー違反だけは御法度だ。この会場ではとくに公安の人間である前に、一人の紳士でいなければいけなかった。

「大変なことになったようで」

 集まりだした男の中からぬっと顔を突き出して月岡に言ったのは、最初に挨拶を済ませた応援の男だった。

「奴らについては?」

 皆藤たちが消えていったロビー方面を顎で示しつつ、彼の耳元でそっと言った。

「大丈夫だ。外勤班が待機している。彼らに引き継いでもらった」

 警視庁公安部の真価は、引き継ぎ能力の高さにこそあった。今回も、連絡一つですべてが済んでくれるようだった。助かった。

 一人の男が、医者らしき男に知り合いがいるのか、名前を呼んでいる。多くの人間は彼が呼び掛けるほうに気を向けていた。

 月岡は息をついてから、男に言った。

「こんなことになって、すまない。すべては、自分の責任だ」

「気にするな。こっちの仲間がカバーしてくれる。いま考えるべき事は、この事態をどうすべきかだろう」

「そうそう、こっちもマークしていた女がいる。そいつも、スタッフルームのほうへと消えていった。皆藤と同じタイミングだ。これは、偶然ではない」

「だったら、そっちも仲間にマークさせる、と?」

「できればそうしてもらいたい。俺は、自分の尻ぬぐいをする」

「なんだったら、このおれにここを任せてもらったっていい。応援にまだ当てがあるから、少しは余裕がある」

 彼は自分の胸を手で押さえて言った。月岡は首を振った。

「それは希望しない。もし、何かを手伝ってもらえるなら、徹底した人払いを頼む。俺は、このイベントを任されている社長に顔が割れている。できるものなら、接触しないままに、彼女を治療室へと運びたいと思っている」

「そこまでして、ここに残ることに何かあったのか?」

 この時、仰向けに倒れたままの女性に、なんとなく二人の視線が集中した。医者らしき男が彼女を診察に掛かっている。単なる気絶なようで軽い診察を終えるなり、自らも担架待ちに入った。

「ちょっと気になることができたというだけのことだ。そういうのは、最後まで突き止めない限りには、いつまでも、もやったままになってしまうだろう?」

 月岡は女性の様子を横目で見ながら、強い口調で言った。

「そうか、だったらお望みの環境だけは手配することにする。一旦、離れるよ」

 男は早走りで去っていった。取り残された月岡は、じっと息を詰めて待機に掛かった。何もできないこの状況では、こうしているしかない。集まるスタッフにはできるだけ顔を見られないよう、彼女を囲うサークルの外側を見ていた。

 

 スカイヒルズの医療室は、VIP専用の個人病室といった雰囲気があった。間取りは二十畳ほどあるのにも関わらず、酸素吸引機をはじめとする医療器具は限定したものしかない。

 月岡は一人きりで、自分が倒して気絶させてしまった女の顔を見守っていた。一度気絶から覚めた彼女は安心したのか、今度は眠りに就いていた。その目が、ゆっくりと開かれる。覗き込んでいた月岡に気づくと、まばたきを何度かせわしく繰り返した。

「お目覚めのようで。先程は、大変失礼しました」

 女は横たわったまま、首を振った。

「わたしも、ちょっと変に慌てていたから。……これは、あなたのせいなんかではありません」

 気丈に言っている裏で身体の痛みを隠しているのかもしれない。月岡はそのことを問い質した。が、彼女は平気だと言う。そして、最近転んだことがなかったから、受け身が取れなかったのだと自嘲を洩らす。なんとなく気が休まる穏やかなやり取りが続いた。

 しかし、いつまでもこうした馴れ合いを続けるわけにはいかなかった。早々に本題に入らなければいけなかった。

 月岡は頃合いを見てから、口を開いた。

「時に、あなたは慌てていたというようなことをおっしゃった。それは、どうしてなのでしょう? もしや、誰かの指示を受けるようなことがあって、急かされていたのではないしょうか?」

「誰かの? どうして、そのようなことをおっしゃられるのでしょう?」

「どうも、自分とぶつかったとき故意だったように思えましてね。もしかしたら、と思ったのです。邪推かもしれません。が、私にとっては大事なことなのです」

 真剣に迫った月岡に、彼女はぱちくりとした目で見返している。

「そんな指示なんて、ありませんよ」

「では、最初に、私に近づいた理由はなんだったんです?」

「思いつめたような、そんな顔をされていたからです。食事を楽しんでいらっしゃるようでもないですし、会話を楽しんでいるようでもない。ここは、自分の出番だなと思っていたんです」

 どうも、見当違いな答えしか返ってきそうにない。だいいち、彼女の裏表のないきょとんとした面相は最初に見かけたその時からずっと継続されているものだった。

 しかし、月岡には控えていた切り札がまだあった。それとは、彼女と花笠を結んでいる会社という存在である。そこから繋がっていく線を考えたとき、あらゆる想定が可能なのだった。

「大変失礼しました。どうも、見込み違いだったようで。実は、あなたがレシーバーの人間であることは分かっています。今回のイベントを影から盛り上げる役……。あなたが私に近づいたのは、職業的な義務感だけが理由だったようです」

「どうして、そこまで私のことを知っていらっしゃるのでしょう?」

「スカイヒルズ・パートナーズの会員とあらば、パーティーの中身ぐらいは押さえていますよ。全員が全員知っていることではないでしょうが、少なくとも、私はそうした関係者の一人です。そう思って下さい」

「なんだ、そうだったんですね」

 彼女の口から、安堵の息が洩れる。口許には笑顔があった。

「と、続けてお伺いしたいのですが、花笠絢さんという、同じメンバーは御存じですね?」

「……ええ、はい。まあ、同僚ですから」

「いまこちらに彼女が残っていないのですが、そうした途中退席が許されるようになっているのでしょうか、あなたの会社は」

『ラ・マジェスター』の職務内容と、行動範囲。まず、それを今ここではっきりとさせなければいけなかった。

「それは……」

 彼女は言い淀んだ。

「そのとき次第です」

「つまり、こちらからの呼び掛けに相手が応じてくれれば、そのまま相手の予定に合わせても構わないようになっている、と」

「そうです」

 彼女は言いにくそうに言った。

「それで、会社員としての、あなた方の目的はなんなんです?」

「ですから、イベント支援です。ただそれだけなんです。本当は、それ以上は認めていませんが、黙認という形を取っています」

「もしや、引っ掛けた男たちから、搾取することが目的だったりはしませんか?」

「そんなことはあり得ません。そんなことができるはずもないでしょうに」

 失礼な、とはねつけてもいいところを彼女はまに受けて真剣に返していた。紅潮した顔。彼女はそれとなく自分で泥沼にはまり込んだことに気づいていない。

 月岡は隙を逃さず、畳み掛けに入った。

「それでは、間違っても報酬をもらうようなことはしていないんですね」

 彼女は、怯んだように目を伏せた。

「当たり前です。一応言いますと……わたしたちが勤めているところの給料形式は、歩合制です。なんの歩合制かと言いますと、取引の仲介人をやったことについての歩合制です。そのための会ですから、わたしたちが仲介役を買うんです。基本、それ以上のことには踏み込みません。規定で踏み込めないんです。接触する相手から何かをいただくことだって禁止されています」

「花笠、絢……。彼女は過去に問題を起こしている女であることは分かっています。今回のこのクラブ主催のパーティーではないまた別のところで起こした問題なんですが、まあ似たような会員制パーティーでのことですから、他方の同士が仲間ということで情報を提供してくれたんです。いずれにせよ、この事実について、同僚のあなたがその事実を知らないとは思えませんが」

「知らないわ……というより、そこまで知っているなんて、やっぱりなんだかおかしい。あなた、どういうつもりなの?」

「ですから、ここのいち会員ですよ。クラブに所属する同士で、通じ合える縁というのもあるんですよ。オーナーズクラブというのもありますしね。なんでも、そのクラブ仲間が言うには、彼女には気をつけろということでした。まあ、要注意人物ですよ。そうした彼女が、なぜ我が方に転がってきたのか、ちょっと分からない所があります。……そのあたり、詳しく教えていただけませんか?」

「わたしには関係ない事よ。だいたい、ここではない別のクラブって、なんです? そっち方面で何かを聞きたいなら、もっと顔の広い人にあたってみたらどうなの? 仮に何かを知っていたところで、わたしからは何も言えないわ」

 彼女の口が固く閉ざされた。

「言えないというのは、どうしてです?」

 月岡はひたすら彼女の口が開かれるのを待った。応援の男が時間稼ぎをしてくれているからこそ、こちらの持ち時間はある程度保証されていた。

「察するに、権力に怯えていると見えます。あなた方の、米光社長。彼女の影響力が絶大で、そこから抜け出せないでいる、とかそういうことなのでしょうか?」

「そんなこと関係ないじゃないですか」

「でしたら、米光社長についてどう思っています? 彼女についても一応、いろいろ情報を持っています。それも、悪い方の」

「やめて! あのお方の、悪口を言ったりすると、許しませんよ!」

 支配関係を明らかにするように、彼女は振り乱していた。激しく息を切らしている。

 月岡はそんな彼女を荒い呼吸が止むまで見守っていた。

 やがて怒気が引いていった後の彼女の顔は、追い詰められた風に見えていた。

「あの人は、わたしたちの恩人のようなもの……だから、特別な存在であるってことだけは認めます。悪口だけは、よしてください。本当に、耐えられないんです……」

「残念ですが、受け止めてもらわなければいけない。というよりも、彼女の黒い部分はあなた方にも大きく関わることだから、そんなにショックなことではないはずですよ。まず、彼女に救われたあなたのこと、それを教えてもらえますでしょうか?」

 彼女の目には、感傷が深く差し込んでいた。

「教えるも何も、そんな大それた話なんてないわ。恩人というだけのこと。どの仕事の世界にも、あぶれ組というのは存在する。やってはいけないことだって分かっているのに、それをやってしまってクビになってしまう人……それがわたしたちよ。心がね、どうにもひねくれているの。だから、どう頑張ったところで最後には道を踏み外すようにできているの。あの人は、そこを分かっていながら、手を差し伸べてくれたお方……。それだけでも充分、すごいことでしょう?」

「米光社長は、いくつかのペーパーカンパニーを転がしている疑惑がもたれています。それというのは、もしや全部あなた方を受け容れるための予備の道だったというわけなのでしょうか? 問題を起こしたとき、社会的責任を取らせる形で辞めさせる手続きを一応取るが、それは形だけのものに過ぎず、実質はまだ彼女の手の元にあるというわけですよ」

 彼女はゆっくりとうなずいた。なぜか目先に、涙の気配が集まりだしている。

「社長は、わたしたちがどういう人間かを知っている。だから、扱い方というやつを知っている。どんな状況になっても、わたしたちを見捨てるつもりはないの、あの人は……」

 彼女の目からぽろりと滴が零れた。彼女への感謝を示す度合いは大きい。思いの外、純粋な思いを持っていた彼女を、月岡はじっと見守っていた。

「となると、あなたも過去に問題を起こしたということになるのでしょうか? あるいは、花笠と同じようなことでもやらかしたことがあったりするのでしょうか?」

 もしそうなら、なんだか妙なことになってくる。米光直下にいるあぶれ組の全員が男を引っ掛ける仕掛け人ということになってしまいかねない。

「わたしも確かに、問題を起こしてきた女だわ」

 彼女は正直に言った。息を溜める。

「でも、花笠さんとはちがう。わたしは、お客さんから大量にお金を借りて、それで返せなくなっちゃってパンクしちゃった女。ね?あなたが花笠さんの事情を知っているなら、全然中身がちがっているでしょう? わたし、あの人のように、裁判なんてやったことなんかないんだから」

「いくら借金していたんです?」

「一千五百万円ぐらいよ」

「それは、いまも、未返済のままなのではないでしょうか」

「なんで、そう言うの、頭ごなしに」

「でしたら、借金はないんですね?」

 彼女は、顔を勢いよく逸らした。

「そんな強引な導き……嫌いよ」

 そんな風に突っぱねておきながら、彼女は拒否を顔に湛えている訳ではなかった。

「……あなたの言う通りよ、一千五百万、そっくり借金したままよ。遊行費だけで半分は消えちゃった。残りの半分は、よく分からない。気がつくと無くなっちゃっていた」

「……そんな中途半端な回答でこちらが納得すると思いますか? 一千五百万といったら大金です。それが人様のお金なら、ただでは使えない。思うに、米光の所に転がったのではないでしょうか?」

 正しいのなら、彼女は詐欺師グループの一構成員であるということになってくる。これは、今後の方針にも関わる大事なことだった。彼女の口は今、縫い付けられたように閉じられていた。

「どうなんです?」

 彼女を見つめつつ、詰め寄る。もはや尋問調になっていたのだったが、月岡はいまさら改めるつもりもなかった。

「というより、なんでそこまであなたは問い詰めてくるのかしら?そろそろ、あなたの本当の正体を聞きたいところ。目的はなんなの?それをまず、わたしに教えてよ」

 彼女がこの病室に運ばれる前に取った一連の行動について、こちらが疑った要素はすべて当て外れだった。だが、彼女の中身は黒だった。彼女は花笠と同等かそれに近い、訳ありな存在だ。簡単に手放すわけにはいかなかった。

「残念ですが、この私の正体なんて何もない。ただのスカイヒルズの会員制のクラブのいち会員にすぎません。それは、さっきから言っている通りですよ。今回、こうして聞いていますのは、自分の信条が絡んでいるからです。自分は少々、情報管理にうるさいところがありましてね、こういうことには黙っていられないんです」

「そんなの嘘。見え透いた嘘。あなたは、きっとわたしたちのことを調べている人。ここまでお互い事情を明かしておいてそれはずるい。花笠さんこそが、狙いということでいいんだよね?」

「それは、関係ないです。彼女について聞きましたのは、あなた方の中でもっとも際立った存在であったからです」

「隠さなくたっていいじゃない。私、彼女について話せることは、いっぱいあるよ」

 乗ってはならない。これは、誘導尋問というやつだ。自分の本当の狙いを引き出そうとしている。

「そろそろ、打ち切りにさせてもらいましょう。怪我をさせてしまったこと、本当に申し訳ありません。ここでやり取りした会話は、是非とも忘れて頂きたい。あなたの中に、しまっていて欲しい」

「ねえ、私……彼女について、語りたい。というより、こういうときこそ言わなくっちゃいけないのだと思う。だって、あなた、彼女のこといろいろ誤解していると思うから」

 月岡のことなどお構いなしに彼女は、語り出した。

「あの子は、うちらの人間の中でひときわ孤独な子……。小さい頃、両親が離婚して父親のほうに引き取られたみたいなんだけど、そのお父さん、悪いことやって捕まっちゃったみたいなの。今度は、お母さんの所へと転がるはずだったんだけど、そのお母さん、あの子を引き取るその前に勝手に蒸発しちゃったの。なんでも育てる余裕がないとかそんなことを書き残していたとかそういうことだったけれど……。まあ都合、二度捨てられたようなものよ。それでなんだかんだあった結果、最終的に親戚の家に引き取られて、そこで子供時代の大半を過ごすことになったの。その親戚っていうのは、あの子のお父さんの弟さん夫婦。まあ、あの子にしてみれば叔父さんね。その叔父さんなんだけど、あの子のお父さんのことをひどく嫌っていたみたい」

「それは、彼女が言っていたことなのですか?」

「そう、同僚だもの、昔話ぐらいするよ」

「嫌っていたというのは、なんです。娘である彼女も憎まれていたということなのですか?」

「そういうことよ。親への憎しみが彼女の方に引き継がれたの。だからといって、性的な暴力を受けていたとまでは聞いていない。たんなる折檻ということでいいんじゃないかしら。それでも、行きすぎれば、肉体的暴力ってやつだよね。それよりも何よりも、あの子の育った環境には、親子の愛情なんてどこにもなかったみたい。暴力よりずっと堪えるでしょ、そういうの。あの子は他人の家に、居候しているというようなお子さんだったの。とにかく、肩身せまい思いをしながら、今日まで生きてきた子なの、あの子は。わたしなんかより、ずっと可愛そうな子なの……」

 愛情を受けることなく過ごしてきた、子供時代……。

 事実だとしたら、なんだかやるせない。まだまだ、花笠について知らない事実があるのかもしれなかった。

 親子としての情愛のない自分の家。察するにそこは、居心地が悪くって仕方がなかったことだろう。他人と接している内に、自分は特殊なのだと気づかされる。それでも周囲に合わせなければならず、疎外感はいやでも募っていった。毎日のように、思い悩んでいた彼女は、その時からすでに子供らしからぬ考えを持っていたのかもしれない。

 もしかしたら、今の彼女が、男に対して異常なほどに猜疑的でいるのは、情愛の感情について正しい認識がないためなのかもしれなかった。原因となるものは、たいてい過去に由来することが多い。これはこれまでに何人もの犯罪者と付き合ってきた月岡の経験則が証明していることでもあった。人は幸福というものが手に入らないと分かると、幸福というものに対して不感症になり、挙げ句には興味を失ってしまうことで、道を踏み外してしまうのだった。

「あなたの言うことは、半分は信じてもいい。だが、だからといって彼女のその後にやった行為について正当化してもらっては困る」

「正当化も何も、裁判では相手もあの子の言い分を認められたわけなんだから、そこに批判なんて成立しないはず。それ以上は、侮辱ですよ。あなたはやっぱり、わたしたちに否定的な感情を持っている。それで、ここまで来て、正体を明かすつもりはないんですか?」

「実際、この私のことなんて、どうだっていいことのはずですよ」

「どうでもいいと思っていたら、あの子の過去について話したりなんかしないわ」

 彼女の顔は、ここにきて妙な落ち着きを取り戻していた。月岡と真っ正面からぶつかっていく気構えが整っている。

「気になるのでしたなら、米光社長にすべてを打ち明け、手許にある会員情報について調べればいいでしょう。それですべてはすっきりとします。というよりもそんなことをわざわざ言わなくても、あなたは社長にすべてを話すに決まっているんでしょうが。とにかく彼女が、あなた方の母的な存在であることはよく分かりましたよ」

「わたしたちは、どうあっても相容れないみたい。なんとなくだけれど、あなたがどういう人か、分かってきた……」

 その時、ノック音が鳴った。状況的に、仲間からの合図のはずだった。そろそろ出なければいけないようだ。

「すまないですが、ここでお別れです。あなた方の主人、米光社長によろしく伝えておいてください」

 彼女は黙っていた。

 月岡は踵を返して、扉に向かっていった。外へ出て行く道は、すでに仲間たちによって規定されていた。何もない、空っぽの夜。スカイヒルズ近辺を固める建造物群の光だけが無機質に輝いている。黙って、待機していた送迎車に乗り込んだ。

 彼女は、米光にすべての事情を明かす。

 彼女は宣戦布告と受け止めることだろう。自分たちが守っている砦。それを、彼女はあの手この手で死守に掛かってくるのだと思われる。

 

     3

      

 臨時ミッションを課されてから五日目の朝。

 月岡はやるせない感情で、突っ立っていた。目の前には中西がしかめっ面で座っている。久々の長たらしい説教タイムだった。

 無理もない。自分は視察要員としては、始末書ものの失態を犯し、事態をややこしくさせてしまった。とくに自分の存在を相手に知らせてしまったことは、弁解の余地がなかった。

「何はともあれ……このまま、お前に続行してもらうしかないんだ」

 中西は辛い口調で言った。代役はいない。そう言いたいにちがいなかった。

「どうにか、自分で挽回してもらわないと困る。そもそも、これはお前自身の名誉がかかっていることなんだ。お前が解決するのが一番望ましい。そうだろう?」

「自分は、まだ諦めてなんかいません。これからだとむしろそう思っているぐらいです。ですから、このまま委任していただければありがたく思います」

「策があるってわけか?」

「そこまででは、ありません。少しずつ、輪郭が見えてきたというぐらいのものです。しかし、それだけで充分、攻めていける材料になると思っています」

 一晩掛けて書き上げた報告書。それには、視察の失敗の模様だけではなく、キャッチした花笠の生い立ちについて書き込まれている。そちらのほうが、全体の大半を占めている。自分のミスをカバーしようと躍起になったのではなく、書いているうちに花笠に感情移入してしまい、つい筆が止まらなくなったのだ。

 中西は頬杖をついたまま、頁をめくっている。

「ここに書いてあることが真実ならば、米光の懐には、思っていたよりもずいぶんと黒いものがわだかまっているということになってくるか。花笠よりも、この女をまず見ていかなければいけないように思う」

 彼は顔を上げた。

「それで、今回の事件について、米光が噛んでいる可能性はあると見ているのか?」

 月岡はいえ、と首を振った。

「これは、あくまで花笠の単独行為によるものでしょう。ただ、金の流れがまだ掴めていません。彼女が裁判で勝ち取った金。それがどこかに流れた恐れがあります。それは、『ラ・マジェスター』の要員すべてに言えることなのかもしれません。彼女たちには、それぞれ時間外業務における回収金があるはずなのですが、その大半が行方不明となっています」

「どう考えても、米光が巻きあげているとしか思えないじゃないか。この女こそが、黒幕でいいんじゃないのか? 彼女の周囲に固められている組織全体が、詐欺組織ということだ。考えてみれば花笠が二件もの民事的な問題を起こしておきながら、血の繋がりがあるわけでもないのに、形を変えた上でまだ自分の手許に置いているだなんていかにもおかしな話だ」

「それでは、花笠の傍に男がいるとする説は、打ち消すのでしょうか。気になっていますのは、合成写真の件です。写真を制作したのは彼女ではなく、専用のライトバンを所有している謎の男です」

「米光は東京の一等地に事務所を構える企業の社長だ。彼女クラスとなれば、そうした男を雇うなど、造作もない」

「本当にそうでしょうか?」

 中西の眉が跳ね上がった。

「他に、どういう答えがあるというんだ?」

「フィクサーなる存在がいるという考えはどうでしょうか。雇用人ではなく、フィクサーです。もちろん雇われ人には違いありませんでしょうが、それとは区別するべき存在です。どういう立ち位置かと言いますと、花笠をはじめとする『ラ・マジェスター』要員と、米光の連絡要員であり、また、要員全体のまとまった資産を管理する人間といったところです」

「どうやら、そっちには、このおれと違う考え方があるようだ」

 彼は腕組みをして、椅子にもたれた。

「今回、合成写真が送り付けられてきましたのは、我らに対する一種の牽制というのが、いまのところの私共の見解です。ところがどうでしょう。我らにそうした牽制を仕掛けたところで、どういった利が得られるのかまるで見えてきません。少なくとも賢い選択だとは思いにくい節があります」

 月岡は軽く息継ぎをした。

「ここで、牽制ではなかったという別の見方を取り上げるとします。その一つが、先に言ったフィクサーの存在なのです。彼が何らかの目的でもって動いてきたとしましたら、これは牽制ではなくって、むしろ誘き寄せだったのではないかと導かれるのです。つまり、我らに捜査が掛けられるのを意図的に狙ってきているのだ、と」

「ふむ、それで目的は?」

「ずばり、金でしょう」

「となると、一連の流れを掴んだ結果、そこに付け入っては口止め料を調達しようという腹か。我らが動くことに意味があるのかどうか」

「強請を掛ける対象が広いのでしょう。大使館の関係者だけではなく、そうした情報の仕掛け人である内調にもそれが仕掛けられている可能性があります。こうなってくると、相手がどこまで本気なのか彼らに分からせる必要が出てきます。そこで、自分らが動いているという事実を相手に嗅ぎつかせるわけです」

「内調も秘密裏に行動しているからこそ、動いているという事実だけで充分というわけか。もしや、お前がいま開き直っているのは、例のパーティーの中に内調の関係者がいて、こうした事実を確かに掴み取れたからなのか」

「はっきり言いますと、事後に理解したことなんですが、まあそうだと思って下さい。この事件は、内調の隠密作戦に付け入った国家的な強請なのだと、自分はそう思っています」

 中西の眉間の皺がひときわ深くなった。

「となってくると、内調がみすみす民間人に口止め料を払うはずがないから、奴らが我らを騙って……ということになるか。うん、それなら真実味がある。情報拡散の事前阻止。そのためなら、向こうだって惜しみなく金を出してくれるはずだろう」

「大事なのは、組織で接触するというのではなく、個人で接触するという形を取ることでしょう。相手がたった一人か、二人の人間だと分かれば、向こうも開き直れます。工作員を逆に買収して自分の手駒にしようとなります」

「もしこれを、我らが阻止しようと思ったらどうすればいいんだ?内調に通報しなければいけないことになってくるのか?」

 中西の顔の皺が額にまで及んで、曇る表情になった。

 無理もなかった。内閣情報調査室と警察組織は昔から犬猿の仲だった。

 最近も、内調のトップである内閣情報官に無断でスタンドプレーを働いたため、面目を潰すというような結果を招いた。むろん、警察組織としては逮捕を確実にするためにやった正当行為であると思っている。現場ではこうしたすれ違いは多い。それぞれ妥協を許さない組織体系のため、どうしても事件が起こるたびに確執となってしまうのだった。

「そこは、スルーでいいはずでしょう。今回の事案は、内調が秘密にしておきたい事柄なのです。テロ関連についての情報交換は、国家の治安を促進させる上でも重要なことです。あえて知らない振りを決め込むのが正しい選択ではないか、と。もっとも、我が方のネットワークのいち機関であります、国際テロリズム対策課には一報をよこしておかなければいけないことにはなるのでしょうが」

 ここでようやく中西の表情が少しだけ解れた。

「スルーとくれば、こっちは気が楽なんだがな。しかし、事案が大きければ大きいほど、うまいことそうなってくれるかなんて確かなことは言えない。内調の奴らに接近している我らを騙った集団を突き止め、彼らの代わりに出ていく……そういう形を取ることになるだろうか」

「その作戦しかないように思います」

 中西はうなずいて、返した。

「問題は、取引に動く金をどうするか、だな。我らが介入して、金を受け取らずに勝手に終わらせるという形を取ることはできるが、それでは相手に不審を与えてしまう。なぜ、急に金を受け付けなくなったのか、と。また、こうも考える恐れもある。他に、何か狙っていることがあるのではないか、とな」

「一番、まずいパターンですね」

 月岡は即座に言った。

「そうなってくる。まずいパターンだ。何より、受け取る相手――つまりお前が言うフィクサーの男だ。そいつに金が渡らなかった場合、当然のように騒ぎ出す。その際、内調とそいつとのあいだで混乱が起こる恐れがある。頭の良いやつならすぐに我らが介入したと見破るだろう」

 中西はしばらく顎に手を当てて考え込みに入った。目が計算を追う動きをしている。

「二重スパイ作戦といくしかないな」

 彼が出した結論は、それだった。

 月岡はその一言だけでどういった計画が行われるのか、察した。

「なるほど、そうきますか。二者双方に干渉するのですね。それぞれ接する相手を我らに設定し直すことで、我らの思うどおりの結果に導ける……。名案です」

「もちろん、これは非常に難しい作戦となる。あと、準備に入るだけでも相当な人員と時間が必要だ。ただでさえ、今回のお前は時間がない状況にある。今度は、こっちの問題が引っ掛かることとなる」

 どうやら、中西単独による監察室説得の工作はすでに失敗の段階にあるらしかった。彼が説得工作の件について、決して触れようとしないあたり、そのことを確かに裏打ちしている。

 月岡は迷った。

 しかし、躊躇っている場合ではない。組織の利こそを最優先に考えるべきだった。不利益を被るとしたら、数が少ない方がいいに決まっている。何より、決意として自分を捨てていくつもりで取り掛からなければいけなかった。

「自分のことは問題ありません。組織のためでしたら、犠牲を払うぐらいのことはなんとも思っていませんので。むしろ本意を遂げられるならば、本望というやつです。ただ、もし生き残れる道が僅かでもあるというのでしたら、やはりそちらを選択したく思います。最善の選択というやつがあるはずなのです」

 両者に利が得られる選択。それがあればベストなのは言うまでもない。ぎりぎりまで粘ってみる価値はあろう。

「そちらについて、お前に方策はあるというのか?」

「ちょうど、今回の失敗案件について、呼び出しされているところでした。交渉に出ていくいい機会なのかもしれません」

 ふっ、と中西は鼻で笑った。

「直談判に出るというわけか。古典的だな」

「ものは試しというやつです。これまでにも閉じられた戸は、自分で突破してきたつもりです。今回も、自力でなんとかしなくてはと思っていたところだったのです」

「なら、そうすればいい。だが、あれだぞ。ここで話したことは、口外してはならない。一言でも洩らせば、それで作戦はすべて終わりだ」

「承知いたしております」

 いつしか礼式的な口調となった。

「お前は、いまは近辺を整え直すことだけを考えろ。それまで、おれは要員をかき集め、作戦を実行していく手筈を整える」

 二重スパイ作戦――内調と、フィクサーの男を騙していく二重工作。これが為し得るためには、一人二人の人員では足りなかった。まずなにより、多くの情報収集要員が必要だ。通信傍受は当たり前で、メールのやり取りから直截的なコンタクトまですべてを把握しなければいけない。

 おそらく、中西は警備局長に応援を請うつもりでいるはずだ。そこからコネクションを引き出し、内外合わせた情報管理システム及び機関に接続していこうと考えている。

 内調を手玉に転がすつもりでいるなら、それぐらいのスケールの大きい行動が必要だ。どこまで広く繋がっていくのかまでは分からない。

 いずれにせよ、人手に頼ることから、作戦に失敗する事が許されない状況となる。いまからでも、強い士気を蓄え込まなければいけなかった。

 

     4

 

 監察室はひっそりと静まり返っていた。そのせいもあってか、いかにも身に堪えるような空気が張り詰めていた。尋問官から立ち合っている男まで皆、堅苦しい顔をしている。

「それでは、あなたはぶつかった相手に対し、介抱することを優先に回したということなんですね」

 今回の尋問役も、松原主任監察官だった。今回の案件は小さな事案だったが、合併罪というつもりで扱っているに違いなかった。だからこそ、松原が目くじらを立てるように自分を呼び付けたのだ。

「はい、そうです。決してこれは、職務放棄なんかではありません。役職上の選択肢であります、引き継ぎを意識しての行動でした」

「だったら、当時、ワイヤレスイヤホンを所持していなかったのは、これはどうしてなのか? 引き継ぎを意識していたならば、それは必需品のはずですよ」

 松原は監察官だけのことはあって、さすがにその辺りの事情は掌握済みだった。

「応援の男が一人いたのですが、彼とは別行動を取るつもりでいたのです。つまり、連絡手段は必要なかったということです。が、こうした予測不可能な事態が起こってしまうことで、自分の見込みが甘かったことを痛感せざるを得ませんでした」

「それで、取り逃がしてしまったという二名の対象者が、その後どうなったのかちゃんと把握しているのだろうか?」

「それは自分の職務ですから、もちろん把握しております。事後にですが、報告書を読ませていただきました」

 追尾班による懸命な追跡も実らず、花笠と、皆藤の二名が合流するようなところまで見届けることはできなかった。彼らが共に乗り合わせた車は、絶妙な撒き方でかわしていった。それでも向かって行った方向からして、二者が接近したであろう事はたやすく予想できる。おそらく花笠の方が皆藤たちの監視行為に出ていったのだろう。

 また花笠のほうに同乗者はいなかったが、皆藤のほうには会場で見かけた外国人の男の他に、日本人が二人付き添っていた。それぞれ何者なのかは、調査中ということになっていた。

「何のための内偵だったのか、それを説明してもらえないだろうか?」

 いきなり松原が切り出してきた。厳しい目つき。まるで、月岡の背後で進行している作戦について明らかにしようとでも狙っているかのように思えた。

「それは、捜査情報に抵触します。話さなければいけない理由はないはずです」

 いくら監察室といえど、業務に支障のあることまでの介入は許されない。拒否を示せば、そこから先に相手も踏み込んでくることはできない。

「いやしくも君は、我が方で査問対象者に挙げられている身なんですよ。そんな態度が許されるだなんて思わない方がいいね」

「何度も申し上げますが、例の写真は、合成です。自分は無実です。今回の視察につきましても、自分の無実を晴らすための行動でもあったのです」

「ならば、視察結果について報告に上げた所で問題はないはずだろうに」

「あいにく、結果は得られませんでした。ですので、詳細は伝えられません」

「気に掛かっているのは、君が先に取り掛かっていた事案と今回のこれについて関係性が認められるという点だ」

 視察対象者が、皆藤と合成写真のいち当事者である花笠であることがはっきりと相手に伝わったら、今回動いている計画の全体の構図を悟られてしまう恐れがある。その時、同時に内調の影を掴まれてしまう可能性は高い。これは、なんとかやり過ごさなければいけないことだった。

「たしかに、そちらにはこれは公安事案であるという説でもって、我が方の班長が説得に出ていることは把握しています。が、どうも状況は変わってきたようで、その内容は取り下げてもらう必要が出てきましたことをお伝えいたします。近々、例の合成の女についての情報をそちらに提出することになると思います。どのような女なのか、それを把握していただければ、と」

 彼の顔に、好奇の色が浮かんだ。

「公安事案から外れたからこそ、その情報が解禁になったというわけなのです?」

「そう受け取ってもらって結構です。先に指摘しましたつながりは、彼女には認められませんでした。ですので、例の合成写真は彼女及び、その関係者によるいたずらということに落ちつきます。もちろん、ただのいたずらではないことは御察しのとおりです」

 月岡が選択したのは、監察室が提示する一週間の期限内に、花笠の個人情報を提出するというものだった。

 花笠にまつわる、暗い生い立ち事情に加え、以後の民事的トラブルの遍歴……。それを微細にまとめたものでもって自分の潔白を訴え出るのは、賭けに近いところがある。

 彼らはまだ写真が合成ではないと信じ切っているのだ。だからこそ、提出物について端から疑って掛かる。

 大部分はでっち上げなのだと見なすのかもしれない。それが正しいのだと認められるには、証人が必要だった。

「自分に与えられました期限は、明後日でした。それまでに、提出物は確実に出すことになります。最後の手段として自分はこれからそうした彼女の経歴が正しいことを証明する人物を捜さなければいけません。実は、その当てがすでに見つかっているのです」

「誰なのかね?」

「写真の女の、姉に当たる女です」

「なるほど、肉親、と」

「これから接触して報告書にまとめるのは簡単です。そこで、改竄をしようと思えばいくらでも可能でしょう。できれば、立会人を用意していただきたく思うのですが」

「それは、構わない。用意してあげたっていい。だが、この時点で、向こうと口裏を合わせているようなことがあったら、やはり立ち会いをよこしたところで無駄なんですよ」

「その人物ならば、調査の手を入れてもらっても構いません。自由にお調べ下さい、と言っておきます」

 花笠栞――。彼女は、すべての事案から蚊帳の外にある。だからこそ、調査の手を入れられたところで、こちらが困ることなど、特に何もなかった。

「一先ず、そちらを信用するとしますよ。疑って掛かったら、何もはじまらないですからね。しかし、あなたもタフな男ですよ。あれだけの完成された写真を送り付けられておきながら、そこをなんとか、あの手この手でひっくり返そうとしているんですからね。どうも、あなたという人はただでは転ばない男のようです」

「真実ではないことを認めるわけにはいかないというだけのことです。自分は疑いもなく、潔白です。それを証明したいだけのことです」

 松原は目を細め、顎を突き上げた。値踏みするような眼差し。やはり気に入らない男だとでも思われたのかもしれない。

「要請どおり、立会人を用意します。その者の証言と、そちらからの提出物でもって判断することになります。結果は、今日から一週間後です」

 その時、自分の進退が決する。

 訴えが認められなかったときには、公安を飛ばされることになるのは確実だ。東京から離れた地方で、交番勤務ということになるのかもしれない。過去にもそうした流浪組の流れ話を耳にしたことがあった。ほとんど警察官を辞めさせられたも同然の状況に追いやられていた。

 もしそうなったら、その時はそのときだ。

 妻の友梨香が何と反応するかということだけが気に掛かったが、ここ最近、彼女から立場を理解してもらえている一言をもらったばかりなのだった。もはや、後ろ向きに物事を考える材料など自分には無いと言ってよかった。

 月岡は辞去を告げ、その場を立ち去った。

 

 公安部屋に居残っていた保阪は、事務仕事に明け暮れていた。月岡の犯した失態の後始末だった。

「手を焼かせて、すまない」

 月岡は粛々と謝った。保阪は肩をぽんと叩いて、優しく受け流してくれた。

「そんなことよりも、監察室の呼び出し、どうなったんだ?」

「決戦日は、先に延ばされた形となった。ただ、それだけのことだ」

 月岡は自分がこれからやるべきこと、監察室から取り付けた約束事、それから今後の予定について話していった。

「そもそも今回集まったチームは、月岡をサポートするものだったはずなのに、いまでは目的が変わってきてしまっている。だから、こうなった以上、今取り掛かっていることのベストを尽くした上で、向こうの判定に委ねるしかない。その選択は間違っていなかったはずだ」

「花笠の経歴がどこまで信用されるか、だ。あと、姉の栞が何を言い出すのかもこっちは予測不可能だ。こちらが取り掛かっている事案について觝触するようなことまでは言わないとは思うが、不安はある」

「問題ないだろう。きっと、こっちに有利なことだけを話してくれるはずだ。というのも、姉妹の生い立ちから感じられるのは不幸な気配ばかりなんだ。過去にも不幸な人間を見てきたが、今回のこれはひときわ特殊な臭いがする」

 保阪は言うなり、思案顔を見せた。

「ただ、この姉妹について言うと、生い立ちは同じでも考え方までは一緒ではないあたりは注意したいところだ。というのも、姉の栞からは前科は確認されていないことがその根拠の一つに挙げられる。その他、目立った素行不良の事実だって確認できていない上に、高校卒業後に得た仕事を今もつづけている、堅気そのものの履歴となっていることを押さえている。……栞は、あくまで妹とは区別すべき存在なんだ」

 これといった汚点のない経歴をした、あるいは妹とは対照的だとさえ思われる栞。

 同じ境遇を生きてきながら、妹のように何かに執着する心を持っているわけではないということが本当だとしたら、何がここまで二人を分けたのか知りたくってしょうがなくなってきた。

「けっこう有益な話を聞き出せそうに思えてきた。だが、体当たり聴取でどこまで聞き出せるのかは、分からない。やっかいなことにこっちには課せられた事情から、立会人をも取り付けることになっている」

「いちいち意識する必要ないさ。彼女の意思を尊重すればいい。それで、彼女は自分からそのことを進んで話してくれる」

 自分の運命が、彼女に託された形となった。

 

      5

 

 待ち合わせ場所に選んだ喫茶店は、年配者ばかりで賑わう繁華街から一歩外れた歩行者道路の並びにあった。店の構えはいたってシンプルだ。どの年令層も気兼ねなく入れるようになっている飾らない様式。奥で一人のサラリーマンが休憩しているだけで、あとは従業員がいるだけだった。

 月岡は窓際の奥の席に座っていた。横に待機している男は、さっきから何も言わない。余計な情を持つことを断つためなのだろう。彼は自分の仕事をすることだけを考えている。

 栞がやってきたのは、二杯目のコーヒーを注文してからすぐの頃合いだった。

 幸の薄そうな、締まりのない顔立ち。まとっているものも、ストールを中心に構成したアジアテイストの濃いもので、全体的に手作り感のあるスタイルだった。絢の面影がないわけではなかったが、それにしても姉妹とは思えない雰囲気に満ちていた。

 栞を正面向かいの席に座らせるなり、月岡は簡単な挨拶と事情説明に入った。彼女は息を潜める風にして、じっと聞き入っていた。気の長いところがある女のようだった。生い立ちに触れると、すぐさま自分の過去に感情移入していった。

「そうです、わたしと絢は叔父さん夫婦の所に引き取られていったんです。そんな格式なんて何もないはずなのに、とても厳しい家でした。しつけと称して、何度も折檻を受けました。絢がそうされているときに何回か庇いに入ったんですが、無駄でした。わたしが代わりに折檻を受ける立場に立たされました。思えば、父が憎まれていたことの他に叔父さん夫婦の仲はよろしくなかったので、その鬱憤が向いたのではないでしょうか」

「親子間の関係も良くない上に、夫婦仲も不良、か。なんだか、不穏な感じがしてきましたよ」

 彼女の月岡を見つめる目には、悲しい色合いがあった。

「わたしたち姉妹に対し、行きすぎた行為があったとでも思っていらっしゃるのでしょうね。そこら辺は、ご想像の通りでいいと思いますよ。でも、あくまで理由があっての折檻ですから、しつけといえばそうなのです。身体に痣を作ったわけではありませんし、怪我を負わされたことはありません。日々の生活についてだって、不自由が強いられるというようなことはなく、最低限度のことはやってくれました。……が、いつも取り残されたような感情を、わたしたち姉妹は抱え持っていました」

 それからは、独白のような語りとなった。家庭内での姉妹の姿が次々に彼女の証言によって明らかになっていく……。

 団欒のない家庭。そこには、息苦しさばかりがあった。義務的な付き合いから一線を越えるようなことはなく、毎日が退屈そのものだった。幸せがどういうものなのか知る事ができない、心まで冷え込む、徹底して情愛に欠ける環境。周囲には家族間不和などとは無縁な友達ばかりがいて、そうした友達たちに妙な違和感を持つようになった。やがて彼女はそのギャップに苦しめられるようになり、早く大人になりたいと思うようになっていった。ここまでは、まさに月岡が思い描いた通りの人生だった。

「絢さんは、叔父さん夫婦についてどう思っていましたか?」

 月岡は、彼女の感傷的な気配に配慮しつつ、そっと訊ねた。

「何も言ったことがないですね。本当の両親のほうに会いたいというようなことは言ったことがありますが」

 おや、と月岡は引っ掛かるものを感じ取った。

「その感情はいまも持っていると思います?」

「はっきり申し上げますと、ないと思いますよ。さすがに、いまのあの子は、あんな風なまでに変わってしまったわけですし……」

「だとしましたら、現在のような感じになったのは、いつ頃なのでしょうか?」

「高校を卒業して家を出たら、すぐそんな風になりましたよ。あの子も私と同じで、ずっと家を飛び出したいと思っていたのでしょう。いつも、自分はなぜこんな所にいるのだろうというような違和感を抱え持っていたはずですよ、きっと」

「それで、彼女が起こした民事訴訟のトラブルの件についてなんですが……。そうした行為に走ったのは、もしや強いコンプレックスを抱え持っていたからではないでしょうか。あなたがいましがた語ったような、一風変わった環境に育ってきたことの跳ね返りというわけですよ」

「どういう理由かは、分かりません。その辺は、あの子に直截聞いてみるしかないでしょう。わたしが知っていることといったら、もしかしたら、まったく話の流れにそぐわないことだと叱られるかもしれないんですが、……中学、高校時代の彼女がとても美人で、周囲にもてていたということです。それこそ芸能関係のスカウトマンがわざわざやってくるというぐらいの、そんな逸材だったんです。……でも、環境的に恋愛は許されない。コンプレックスがあるとすれば、そこなのかもしれません」

 花笠絢が美人なのは、月岡も直接目で見て確認している。疑いもなく、人を惹き付ける魅惑を彼女は持ち合わせている。どの男だって、彼女に言い寄られただけで有頂天になり、たちまち彼女の虜になってしまうはずだ。

 それが、中学生時代からそうだったというのだ。

 その時、彼女の心の中には、どのような感情があったのだろう。恋愛の許されない、厳しい家柄。素直に、自分の容姿を誇りに思うことが抑圧されていたのではないか。そして、そのことの抑圧の代償として、彼女は極端なまでの現実主義者となり変わっていくことになる……。

 その結果、彼女の中に、歪んだ男性観が芽生えることとなった――そうだったのではないだろうか。

「彼女の美貌については、すでにこちらも把握済みです。それだけの容姿の持ち主でしたら、たとえ恋愛禁止の環境下におかれていたとしても、恋人ぐらいは隠し持っていたのではないでしょうか?」

「否定はしませんけれども、わたしはないほうに賭けるとします。家の中では、恋愛なんて許される空気なんてありませんでしたし、叔父さんも許すことはなかったはずでしょうから。だから、あの子がそうした行為に走ることは、なんだかあり得ないことのようにしか思えません。とくに絢は人一倍臆病な子だったわけですし……」

「ほう、臆病……実は、そうだったんですね」

 彼女は小さくうなずいた。

「ある意味、ああした家庭で育てば、いやでもそうした性格にならないはずがないのかもしれませんが、それにしても元々気持ちの小さい子だったように思います。

 あの子が小学生の頃でしたか? 友達からイベントの招待券をもらっておきながら、出ていかなかったことがありました。その友達は、あの子の親友です。学校で約束したんでしょう。でも、あの子はその日、何もせずに家に閉じこもっていたんです。何時間か前に養母からきつい折檻を食らったことが原因なのだと思われます。が、それは気分が少し塞いだというぐらいで、問題なく出かけることはできたはずなんです。それなのに……あの子は、なにもせずに、ずっと部屋の中に閉じこもっていたんです……」

「これは、外出することでさらに追加で叱られることを怖れた結果……ということなのですね?」

「そうだったと思います。いくら厳しいったって、遊びに出ていくことまで制限されているわけではありません。何時に帰ってくるのか、どこに行ってくるのかを伝えておけば問題なかったのですが……あの子は、出ていかなかったんです。いま、はっきりと思い出しましたよ。これは、あの子が小学生の四年生のときの話ですね」

 そんな子が、少し成長してから、どうして恋人を隠し持つことができるのだろうか、と彼女はそこを強調して言っている。ともかく、彼女にとっては総合勘案で恋人がいたはずがないと言いきれるだけの根拠があるということで良かった。

「ちょっと伺いたいんですがね、あなたが絢さんといっしょに過ごした時期は、彼女が何歳の頃までですか?」

「高校を卒業してすぐに出ていきましたから、絢が中学二年生の時ですね。もちろん、その後もあの子とは会っていましたから、どのような学校生活を送っていたのかは、ちゃんと把握していますよ」

「となると、あなたはその叔父さんの家に何度か里帰りされているということなんですね。家が厳しいのだとおっしゃられれば、どうしてもそこに帰っていくとは思いにくいんですが、やっぱりあなたにとって帰るべき家は、そこなんですね」

 彼女は何とも言えないというような苦い表情をした。

「目的の大半は、絢ですよ。あの子をおいていったことが、気掛かりでならなかったんです。あの子さえよければ、わたしのところにまねいて一緒に暮らしてもいい。そういうつもりでいましたが、なかなか切り出すタイミングが分かりませんでした。そんなことをすれば、当然叔父さん夫婦から、縁切りされるのが目に見えていますしね。そうされたら、もうわたしたち二人の関係はその時点で終わりも同然でした……。正直なことを言えば、その時のわたしは経済的にも豊かでなかったことですから……、二人が行き着くところと言えば限られていたようなものだったのです」

 いまは、もう叔父さん夫婦とは会っていないのだという。絢が高校卒業した時点で、それぞれの関係は予定されていたことのように途絶えた。叔父夫婦との別ればかりではなく、なぜかしら姉妹との縁も遠くなってしまった。

「あなたが絢さんのことをそれだけ気に掛けていたのに、今に至ってはもう会えていないというのは、ちょっと理解できないですね」

 月岡はこの時、妙に沈鬱になっていた彼女の顔色をうかがいながら言った。

「あの子の方から、会うのを拒否してきましたよ。電話番号だけは押さえていたので、会って欲しいと言ったら、仕事で忙しいとやんわりかわされるんです。社会人になってから、悪い男に引っ掛かったのでしょうとわたしは思っていましたが、案の定、そうした事件を起こす、トラブルメーカーになっていたんです」

「その事件を始めて知ったのは、いつです?」

「実は、訴訟問題が週刊誌に取り上げられるようになってからだったんです。ですから、世間よりもずっと知るのが遅かったと思いますよ、わたし」

 姉だからといってとくに情報が早く報せられるというわけでもないようだった。そのことは訴訟問題について、それとなく彼女の立ち位置を示しているようにも思われた。

「でしたら、騒ぎの大きさからして、ずいぶんと驚かれたことでしょう?」

「まあ、そうですね。というより、報される前に一度記事を読んだことがあったんですが、その時は、まったく気づきませんでした。まさか、あの子がやったことだなんて、考えもつきません。というより、全然あの子の柄にあったような騒動じゃないですよね、これ。いまでも信じられないくらいに思っています」

 彼女がそこまで言いきってしまうぐらいに、いまの絢は当時の彼女とは似ても似つかないものに成り変わってしまったらしい。

「それで、あなたはその頃の彼女と連絡を取ったことがあったのです?」

「もちろん、あります。直截、あの子の所まで会いに行きました」

 興奮が彼女に起こっていた。それは、必ずしも彼女にとって具合のいいものではなかったようだ。悲しみを抑圧しているといった雰囲気がどこかしら感じられるのだった。

「それで、どうでしたのです?」

 あえて、月岡はそう問うた。

「どうもこうもありません。相変わらず綺麗な子でしたよ。姉であるわたしがちょっと惨めに思えてしまうぐらいに。中身も変わっていないとは思いましたが、ちょっと気持ちが突っ張っているところがありましたっけ。なんかこう、自分を出そうとするのを拒否しているという感じです」

「トラブルの件については?」

「話そうとしませんでしたね。あの子自身、自分が何をしているのかということぐらいの自覚はあったのでしょう。でなければ、あんな態度を取るはずがないと思います」

 その後も、その手の話題についての質問攻勢を掛けたのだったが、なぜかしら歯切れの悪いやり取りが続いてしまうのだった。情報を出し惜しみしているというような風情は感じられなかった。考えてみれば、花笠は姉に騒動のことを話すことがなかったのだから、栞が押さえられている情報の範囲はかなり限定されているはずだった。ここは、話題を切り替える必要があった。

 月岡は溜めを作ってから切り出した。

「訴訟の相手となった、守村元副官房長官については分かりますね? 彼について何か知っていることがあれば教えて下さい」

「何もないです。それだって、彼女は何も言っていませんし」

 彼女は急に冷たい風になって言った。その顔つきには、くすぶった怒りがちらついていた。

「あえてわたしから言うことがあるとしましたら、うちの妹に手を出して、何を考えているんですか、という文句ぐらいでしょうか」

「その様子を見る限りでは、絢さんは、彼のような人間がタイプだったとかそういうことではないんですね?」

「何を言っているんですか。そんなはずがないでしょう。二番目に騒ぎになった人だって、まるっきりあの子のタイプなんかではありません。だから、これまでの流れと合わせてちょっと、びっくりしているんです。あの子は、どうかしてしまったんじゃないかって。もちろん本人の前ではそんなことは聞けはしません。……そうそう、あの子の好きな人と言えば相場が決まっています。痩せ形で優しい……自分を飾らない人です」

 彼女はその後も、思い出話を交えながら、絢の理想像を口頭で表現していった。

 月岡は、黙ってその姿を思い描いていった。結果、彼女の言うとおり、訴訟の対象となった二人からは随分と掛け離れていると言わざるを得なかった。

「たぶん、向こうの人たちについて、あの子は何も感じていないと思いますよ。だから、事後に思い切り牙を剥くことができたんだと思います」

 彼女はいまや興奮冷めやらぬといった状態になっている。

「本当に憎んでいる相手だったら、泥沼戦に持ち込みたいとか、そうはなかなか思いませんものね。だって、自分が辛くなってしまうわけだし……だいたい、あの子はそんな執念深い子なんかじゃないんです。さっきも言いましたとおり、引っ込み思案な子です」

「それでは、彼女はそうしたステータスや、お金に強いこだわりがあるような人だったのかどうか、そのあたりをお伺いしたい」

 これは、月岡にとって重要な質問だった。彼女の人格を知るという意味でもそうだったが、月岡がこれから監察室に提出する書類の最重要項目に位置づけられる質問であった。あるいは、彼女の返答の中身次第で、今、追いつめられた状況にある自分の進退が決する――それぐらいのものだった。

 彼女は口許に手を当てて、男っぽい仕草で考え込んでいた。

「そういえば、お金には厳しいところがあったな、という記憶がわたしの中にあります。いえ、あの家に生まれたら厳しくならざるを得ないんです。というのも、義父母からはお小遣いをもらっていたんですが、きまぐれに千円もらえるとか、そういった程度でしかなかったんです……。これは、機嫌のいい義母がお情けでこっそり渡してくれる形です。ですから、お小遣いを貯めて何かを買うといったらたいてい限られています」

「家の事情が原因で……というのでしたら、あなたにも同じことが言えるのではないでしょうか?」

「わたしと、あの子は同じ境遇にあったとは思いますけれど、でもやっぱり違うというか、一緒には考えられませんね。というのも、あの子は美人ですから、少なくとも優遇されるというようなことがあったはずなんです」

「では、部屋の中にそのような根拠を見付けるようなことがあったということでいいんですね?」

「部屋の中に、ですか? 根拠という程のものとなると、困ってしまいますが。……ざっと思い返しますに、一応まあ、CDコンポとかそれぐらいのものは見ていますよ。そんなに大きいものではなくって、女の子が手で持ち歩けるぐらいの小さいやつですけれど。それでも充分、わたしとは違うって分かるアイテムと言っていいでしょう。わたしはその時、何も持つことが許されなかったんですから。と、これはまだわたしが学生時代の頃の記憶だったかしらね」

 彼女は独りでに考え出し、うんそうだ、と最終的にそれが正しいことを伝えてきた。

「でしたら、あなたが家から出ていった後の場合について、思い出してもらえませんか? その時だって、彼女の部屋にあなたは入ることがあったのでしょう? その時、何か値打ちのありそうなものを見かけることはありませんでしたか?」

「なにかあったかしら……」

 と、彼女は懸命に考え始めた。

「女の子同士が話題にできるような雑誌を購読している様子があったわけでもないし、流行り物の商品の姿を見かけたこともない……。身の回りのものだって新しいバッグを使っているとかそういうわけでもありませんでした。ただ一つ言っておきますと、すごく女の子らしい部屋になっているなとは感じました。小物類とか、けっこう充実していましたっけ。そうそう、編み物でもやっていたらしくって、そういう棚とかありましたね」

「ここは、編み物……ではなくって、小物の方が気になりますね。それには何かこう、宝石箱のようなものがあったりしたんじゃないでしょうか?」

「宝石箱かは分からないんですが、オルゴールの木箱とかありました。何個か種類があって、それぞれ表面に彫られた模様が楽しめるようになっているんです。うん、ごちゃ混ぜだった記憶が、今どんどんはっきりしてきている。確か、その近くには小さな化粧品とかおいてありましたっけ。けっこうな種類を持っていましたよ。きっと、無料サンプル品とかそういうのを取り寄せたのでしょう。スキンケアとか、ミニサイズコスメみたいなお試しセットみたいなのがメーカーごとにちゃんと整理してありましたね」

 なつかしそうに言う彼女は、いかにも夢中でいた。それらを元に、姉妹が仲良く語り合ったというようなことがあったのかもしれなかった。

「おかしいですね。そんなセットを彼女が持っているはずがない。何より未成年なんだ。そうしたものを取り寄せられる状況にない。だいたい、あなたのこれまでの話を聞いていれば彼女の置かれた環境的に、そうしたものの所有は許されるものではないはずでしょう」

「いえ、お金の掛からないことでしたら、とくに文句は言われないところがあったんです」

 はっきりとそう言いきってから、彼女は小首を傾げた。

「でも、考えてみれば自分でもおかしいって今、気づきました。当時も、無料サンプルモニターのシステムというやつがあったんでしょうけれど、今ほどは、まだ一般的でもない……。そんな中で、彼女がそうした一式を持っていたのって、なんだかかなり進んでいたのかも」

「あなたは否定されていますが、それこそ男がいて、貢がれていたとかそういうことじゃないだろうか。サンプルじゃなくって、本物のメーカー品の商品を持っていたということですよ。考えてみれば、オルゴールにしたって単価は高い。お小遣いは少なかったのでしょう? そういったものは、なけなしのお金をはたいて買うようなものでもないかもしれない。少なくとも、彼女がそれを手にするまでには何かしらの事情がなければおかしい」

 実は……と、彼女は息継ぎと同時に、小さな声をぽつりと洩らす。

「わたしからも、お金をちょくちょく渡していたんです。一回当たり、五千円を包んでいましたけれど、まとまったお金が入ったとき、二万円ほど渡したこともありました。それでも小さい額でしょうけれど、あの子の生活の足しにはなったはずです。その一部で買っていたのでは……とは思うんですけれど」

「彼女は素直に受け取っていたんですね、それを?」

「もちろん、あまりいい顔はしなかったですよ。遠慮がちに受け取っていました。親のしつけもあってか、お姉ちゃんありがとうってちゃんと言うんです」

「たぶん、それはほとんど使わず、貯金していたはずでしょう」

「そうだったんですか? たしかに、高校卒業したらすぐに出ていったわけですから、支度金がある程度、手許にあったのは間違いないことなのでしょうが。でも、そこまでしっかりしている子という印象は、やっぱりわたしにはないですね。あの子は、そんなに計画的に生きている子じゃない。恋人の存在についても同じです。わたしが認めたら駄目だろうというような部分がどうしてもあるのです」

 この内容の程度では、提出書類の中身が弱いままで終わってしまいそうだ。月岡は決定打というものを彼女から引き出す、もっとも効果的な質問を考えていた。しかし、時間的な猶予がないこの状況では思いつくことなど限られていた。ここは、別口で切り込んでいく方が賢い選択なのかもしれなかった。

「話は飛びますが、彼女がそちらの業界でやっていくつもりでいたなら、そうした言動というか、やっていくことの希望、意思などを、一度くらいは、あなたの前で表すというようなことがあったのだと思うんですが、これはどうでしょう、覚えがありますか?」

「見聞きしていませんし、相談もされていません。予測もできませんでした。あの子は卒業してから、一気に変わっていった子だと思います。わたしのなかでは、いまも大人しい妹というイメージのままなんですけれどもね。それは、きっとこれからもずっと変わらないはずです」

 少女時代の絢のイメージを彼女は大切にしている。まだ彼女のことについて、諦めていないのだろう。何かあれば、彼女が庇護に動くのかもしれなかった。本当の意味での、絢の保護者ということでいいはずだった。

「ちょっと、気になったんですがね、さっきのスカウトマンの話ですよ。その人は、どうでしょうか? 彼女に何度も接近しては、コンタクトを取っていたんじゃないでしょうか?」

「スカウトマン……ですか?」

 彼女は、意外なところを突かれたというような顔になっている。

「その人は、ちがいますよ……関係ありません。だって――」

「しつけの厳しい家庭に育てられて、引っ込み思案の性質を抱えるにいたった彼女が卒業と同時に飛び出していくには、やはり何かがなければいけません。劣悪な家庭環境によって溜め込んだ鬱屈というだけでは根拠にはならないと思います。もっと確かなものが必要ですよ。おそらく、そのスカウトマンが彼女の傍にやってきては、話をちょくちょく持ち掛けていたのではないか。あなたが棚の中に見た小物類は、その彼の持ち土産だったということですよ。もちろん、彼としては彼女の美貌が目当てで、いずれタレントとして引き抜くつもりでいた、と」

 彼女は口を閉ざしていた。返す言葉がないようだ。やや、唇が色を失いだしていることから、その可能性を彼女の中で少しずつ肯定しているのかもしれなかった。

「とりあえず、彼女に近づいたスカウトマンについて、何か教えてもらえませんか?」

 彼女は無言で首を振った。

「あの子は、そういうことを自慢するような子じゃないですから……スカウトマンその人についての話は、何も聞いていません。あくまで、その人の存在を知ったのは人伝に、です。わたしが高校生の終わり頃ぐらいでしたね……。わたしの妹にそういう声が掛かっているって言われて。帰ってからあの子に問い質したところ、会ってもいないと突き返されました。それで声が掛かったという事実だけを誇りにするみたいになっていたけれど、あの時、まだその人が妹にこだわっていたとしたら……あり得なくはないですね」

「絢さんは、タレント年鑑というものにも登録されていた時期があったようです。名目は、女優。たしか、そうだったはずです」

「仮にそうだったにしたって、演技なんてできるような子だとは思いませんけれど。テレビに出たという話などは聞いていませんから、やっぱりというか、失敗したんでしょうね……。あの子が腐っていっちゃったのは、それで性格がひねくれちゃったとかそういうことなのかしら……」

「彼女は現在、形の上では、イベント支援企業のいち従業員ということになっています」

 と、月岡は話をさらに進める。

「それで、同じ勤め先の人間から、彼女自身が語った半生の中身をうかがっています。何でも養父母から憎まれていて、ひどく惨めな生活を過ごしていた、と。先程あなたがおっしゃったこと、そのままですよ。思うに、女優業として成功しなかったことの言い訳として、彼女はそうした自分の過去を打ち明けたように思うのですが……」

 彼女は思案げにうつむいた。

「あり得ますね……。プライドが高い子かどうかはよく分からないんだけど、意地のようなものは持っていたと思います。自分のことを諦めきれずに、暗い過去を大げさに表現して、そこに原因を求めるようになった……これはいかにも、あの子がやりそうなことですよ。引っ込み思案な分、口が達者なところがあるんです。それでもって、他人を巻き込んでいく、と……」

 なるほど、と引き取ってから、月岡は一息置いた。

「それにしても、女優業に限定して言えば、彼女ほどの美貌があれば、なんでもうまく行きそうに思えてならないんですがね。必ずしも、そうはなってくれなかったようで」

 もしかしたら、引き抜かれたところが、そう良くないところだったのかもしれない。何にせよ課題ができた。花笠絢に接近したスカウトマンを掘り下げる必要がある。月岡はこのときすでに、次のステップに進むべく頭を切り替えていた。

 

 立会人の男と別れてから、會伝社の事務所まで向かった。もう二度と来ることはないだろうと信じていた、狭苦しい空間。喧噪は今日も健在だった。誰も取らない鳴りっぱなしの電話に、通信器機の作動音。ここにいるだけで落ちつかない気持ちになってくる。

 柄本は在室していた。関係者らしき相手と電話で掛け合いをしている。月岡の姿を認めるなり、だらしなくしていた姿勢をしゃきっと立ち直らせ、掛かっていた電話を強引に終わらせた。

「月岡さん……どうしたんです?」

「話がある」

 山科は行方不明だ。だからこそ、彼に頼るしかなかった。

 即席の会議でも開いていそうな、椅子が並べられた空間に招じられる。編集室とひと続きになっているだけに、さして居心地は変わらない。

 月岡は座るなり、彼に来意を告げていった。花笠絢の過去。近づいてきたスカウトマンに加え、そこから変わっていった彼女の人生。彼女について分かっていることの数々は、まだ点の段階に留まっており、一つの線とまでにはなっていない。

「スカウトマンですか?」

「彼女はタレント年鑑に登録されていた時期があったんだ。その男が間違いなく、彼女を事務所に引き入れた。名目は女優として登録されていた可能性があるが、まだ確認できていない。それを、お前さんに頼みたい」

「うん、それならお手のものですけれどね。それでも、やっぱり時間はかかりますよ。事務所はすぐに特定できても、雇われスカウトマンなんてのはいっぱいいますからね。それに、花笠がそこに所属していたのは短期なんですよね。となれば、それと同時に事務所も畳んでいる可能性だって否定できません。最悪の場合、調べたところで何も出てこないという場合もあり得ます」

「仮にそうだったと分かっていたとしても、ここは引き受けて欲しい。山科が駄目なら、もはや、お前さんしかいないんだ」

「もちろん、助けますよ。ただ、ぼくについてどういう人間かは分かっていて、そうおっしゃっているのですよね?」

 交換条件の要求だ。

 彼ならそれを持ち掛けて来るであろうことは分かっていた。

「今度は、何が希望だ」

 月岡は固い口調で言った。ただでさえ、いま極秘ミッションが進行しようとしている最中なのだった。下手なことは、何一つ言えない状況にある。

「花笠絢がこっちにとって価値のある対象であることはもう分かっています。そこから一歩進んだ情報ですね。いま、彼女に何が起ころうとしているのでしょうか。ずばりそれが知りたいです」

 やはりというか、月岡にとって觝触されたくない部類の要求だった。無言で首を振ってから口を開いた。

「できれば、彼女には近づかないでくれ。こっちの邪魔になるだけでしかない。もし、彼女方面で調べる空きスペースがあるとしたら、彼女を元雇用していたプリマヴェーラという会社だろう。そこには、予想以上に黒いものが溜まっている。そこにあるものはどれも我らが觝触できないものでしかないが、花笠絢が我らの手中に落ちた時、あんたらにとってニュースバリューのあるものになってくれるはずだ」

「なるほど、勤め先の会社、そのものですか」

「花笠絢ばかりではない。他の従業員もなんだかおかしい。米光だって、真っ新な人間ではないはずだろう。いまこそ、そちらに焦点を向けるべきなんだ。それこそが、あんたらの仕事でもあると思う」

「米光律子については、ある程度知見はありますよ。現在の会社を構える前に、二度ほど事業に失敗しているみたいですね。元従業員から雇用関連のトラブルで訴えられている過去もあります」

 穏健そうな顔の裏には、トラブルが隠れていた。もしかしたら、思い描いた人物像からはだいぶん離れているのかもしれない。

 月岡は立ち上がった。

「交換条件は、成立したのかどうか?」

「これまでプリマヴェーラについて見ていく対象にも挙げませんでしたから、まあ上等です」

「それで、情報はいつぐらいになる?」

「三日は、欲しいですね」

「頼んだぞ」

 月岡は彼に対しうなずいてから、事務所を後にした。

 

 

 

 

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