オリジン1
第一章
1
熱気はピークに達しようとしていた。ただでさえ空調装置のない空間。縦長、十二畳程の空間にびっしりと人がすし詰めにされれば、いやでも人いきれは募る。
月岡琢磨はターゲットをしっかりと監視していた。その男は、自分から二名ほど男を挟んだその向こうにいる。携帯型MP3プレイヤーを愉しんでいる。いや、その顔は冷淡だ。だから耳に流しているのは流行の音楽などではなく、英会話なのかもしれない。
通信記者の小見直志――
イギリス大使館付きの参事官、E・ワイズマンと接触を繰り返している男。ワイズマンは、イギリスの諜報機関、SIS直下で動く秘密情報部(MI6)の機関員であることは、すでに裏が取れている。つまり、小見は彼に抱き込まれようとしているエージェントと睨まれているということだ。
この段階で、小見の個人情報は洗われ尽くされている。経歴に汚れた箇所は特に見つかっていない。それでも先行の調査隊員は、彼を黒だと指摘している。本格調査に乗り出す一歩手前の要注意人物。月岡は彼が黒であることの決定的証拠を探し出さなければいけなかった。
列車は、渋谷駅に到着した。朝のラッシュだ。ごっそり吐き出される乗客はまるで瀑布だ。この流れには逆らえない。月岡は流されるままに、小見の追尾を開始した。改札口を抜け、長い通路に出る。地下街に出て行くエスカレーターにターゲットは乗った。
月岡がその後を追おうとしたところで、横手から手で合図してくる男がいるのに気付いた。
その男は、班長の中西だった。直截の上司なだけに当然、月岡が置かれている状況が分かっている。だからこそ、手招きを受けたら、任務中でも彼の元に駆け付けなければいけなかった。
小見を見やると、彼の背中がちょうど地下街の向こうに消えていくところだった。
「ちょっと、こっちまで来てもらおうか」
中西は無表情で言い、少し離れた場所まで引率してきた。何かしらヘマでもやらかしたのかもしれないとも思ったが、どうも違うようだ。二人が入ったのは、コンクリートの柱が立てられたその陰だった。
「なにか、あったんですか?」
顔を付き合わせた後、月岡の方から言った。
「お前に、呼び出しが掛かっている」
「呼び出し、ですか? どちらからでしょう?」
「監察のほうからだ」
ぴしっと電流が走る。監察室。警察官を取り締まる司法執行部だ。警務部に所属しているが、それは名ばかりで、実質はどの部からも影響を受けない独立機関と化している。
「自分、なにかやってしまったんでしょうか?」
「覚えはないのか?」
「ざっと振り返って見るにないと思いますが、まったく無いと言い切れるというわけではないことはご承知の通りです」
公安部といえば、デリケートな職務遂行が求められる一方で、体力が勝負な泥仕合も同然の抗争に飛び込んでいくこともしばしばだった。その過程で、何かしらの地雷を踏んでしまうことなんかは、ざらにあることだった。
「とりあえず、お前に攻撃があったんだ。その事実を持って、一旦、今の任務から離れてもらおうと思ってな」
キャップが直々に面会してまでそう言ってくるぐらいだ。これは、緊急を要する事態だと言ってよかった。そして、電話ではなく口頭での申告だったのは、おそらく自分にスパイ疑惑が掛かっているからなのだろう。
公安部外事課には、インテリジェンス・コミュニティの一員として日本の諜報を請け負っているという自負がある。それが、スパイ疑惑などに追い立てられれば、組織そのものに泥を被せるような行為に等しい。月岡自身、やるせない感情が沸き立ってきていた。
「分かりました、とりあえず本庁の方に戻るとします」
警視庁の監察室が入っているフロアは、公安部が入っている十四階と並んで、異様な気配をただよわせている。警察官の不祥事を取り締まるばかりではなく、民間からの苦情受け付け、職務審理請求もここが担っている。そうした窓口に相応しいだけの親しみやすさがどこにもないのは、この部の性質をそれとなく表しているようだった。
第二監察室。
月岡はその扉をノックした。すぐさま、中からどうぞ、という野太い声が返ってきた。ドアノブを捻り、押すと、比較的明るい清潔な空間が目に飛び込んできた。簡素な様式の対面所。長机に座っているのは、目尻のあたりに人懐こそうな皺が刻まれた、五十輩の男だった。
「月岡くん、ですね?」
相手の気配を探りながら、ゆっくりとうなずいた。
「私は、監察室の主任を務めている、松原と申すものです。今日は、話がありましてね。……とりあえず、そこに座ってもらおう」
彼は手前に設置されたパイプ椅子を示して言った。この面談には、自分用の机は用意されていない。というのも、心に防御線を張るのを阻止する、心理的解放の狙いがあるからだろう。考え方的には、刑事部の尋問室とさして変わらない。今の自分は、本当に罪人扱いなのだろう、と月岡は思った。
「是非に、確認してもらいたいものがあるんです」
松原の指示を受け、キャビネットを探っていた係員が封筒を抱え、近づいてきた。中から取りだしたのは、三枚の写真だった。いずれも二名の人物が写っているものだ。隠し撮りらしく、被写体はどれもカメラの方を向いていない。
「匿名の書簡でうちのほうに届いたものです。他に入っていたものはない。消印は、墨田局。日付は昨日です。手に取って確認してもらっても構わない。指紋などの調査は、すでに実行済みですから」
月岡はその通りにした。遠視でぼやけていたのが、ピントが合わさることで、写真の中身がはっきりと明らかになる。
一見して見覚えがあると思ったのだったが、やはりそうだった。映っているのは、自分だった。
しかしながら、映っている場所に見覚えはない。遠景から近景まで、なんだか空虚な感じが強い。三枚とも撮った場所は同じらしく、ひと続きになっている。注目すべきは、一緒に映っている人物だ。まるで仲睦まじい夫婦のように腕を組んでいる女性――彼女もまた、覚えのない人物であった。
最初の一枚はその女性と、官舎らしき建物からでてくるシーン。二枚目は最接近したアップシーン、そして三枚目は、すれ違い、どこぞの街に向かって遠ざかって行くシーン……。
「これは、自分ではありませんね」
弁解が先ず口を衝いて出た。松原はじっと月岡の顔を伺っている。穏やかが保たれているものの、その一方で裏側に妥協を許さない隙のなさが彼にはあった。
「いえ、これそのものは自分で間違いないでしょう……ですが、この写真そのものは、おかしいです。こうした行動を取ったことなど、自分にはありません」
「つまり、合成か何かである、と?」
「そうとしか考えられませんが」
もう一度写真をつぶさに観察した。影の傾きの対比。全体的な色調のバランス。自分と映り込んでいる女性のバランス感覚。どれもが調和していた。かなり精巧な合成といってよかった。どこからどう見ても、ここに映っているのは実際にあったワンシーンのようだ。
作られた日常――
なるほど、スパイ疑惑に掛けられるわけだ、と月岡は納得した。
「信じてください、自分は彼女のような人間は知りません。これは疑いもなく、合成なんです。仮にも、自分は公安部の人間です。このようなことをした結果、どうなるかはよく分かっているつもりです」
「本当に、写真の彼女の事を知らないんだね?」
松原の再三の問い。彼の顔に疑義の色合いが残っているのは、明らかだった。それが彼の職務なのだ。だからこそ、ここは内側から沸いてくる屈辱に耐えるしかなかった。
「誓って、知りません」
「まあ、あなたは妻帯の身分ですから、そうであったら倫理を犯してしまう恐れがあったわけで、我々は第一にそれを危惧していたのです。あなたの口から直にそう聞いて、とりあえずのところ、安心しましたよ」
結婚しているのは、本当だ。警務部の福利厚生担当から紹介されて、ほとんど見合い結婚も同然に妻帯を持った。相手は、元婦人警察官をしていた、友梨香。父親も警察官で、親戚筋にも警察関係者がいる彼女は、公安という秘密を扱う職業に就く月岡にとっては格好の相手だった。もちろん、性格も自分をはっきり持っていて、しっかりしている。困った時には、いまだに協力要員という形で、彼女にも仕事を手伝ってもらうことがあった。
今回、このようなことになってしまった。友梨香はなんと言って、迎えてくるのだろうか?
なんだか、収まりのつかない感情が湧き上がってくるのを感じ取った。
「ですがね、我々としては、その言葉を額面どおりに受けるというわけにはいかないんですよ。今後も、調査はつづきます。そのつもりでいてください。もし、追加で招聘する必要が出てきましたら、その時は是非に応じていただきたい。いいですね?」
「もちろん、その時は無条件で協力させていただきます」
自己申告で、どのような回答が得られるのかその確認だけに呼ばれたということでいいようだ。これは、まだ真偽の程がどちらに傾くのか、はっきりしていないことの表れだ。考えようによっては、牽制球を投げこまれたようなものだ。自分は今後も苦しい状況に追いやられるのだろう。
月岡はため息を一つついて、写真をもう一度眺めた。
ワンレングスの、実直そうな女性。年の頃は、二十代半ばか、それを過ぎているぐらい。いい年の取り方だ、と思う。どこにも翳りらしい点は見当たらない。
はっきりいって、美人と言ってよかった。この手の罠に用意される女性といえば決まって美人であると相場が決まっているが、今回もその慣例に倣う形となっている。
――やはり、諜報機関員ということでいいのだろうか。
「その女性は、いったい誰なのでしょうね?」
月岡が問い質したいことを、松原が口にした。答える言葉は、特に何もなかった。松原は指を組んだまま、ふむ、と独りごちた。
「これから、捜査ではっきりさせなければいけないんでしょうが、残念なことに、その過程であなたの奥様にもそのことが報せられるというようなことになってしまうのかもしれません」
「それは承知済みです。このようなことになった以上、家内にも情報が行き渡ったところで、特に異論はございません。正直なところ、早い段階で家内に打ち明けた方が良いのかもしれないという風にもいま思っていたところなのですが、もしかしたら、現在進行中の仕事にまつわる事案なのかもしれず、そのタイミングが難しいところです」
「一応、君の上司とは、話がついている」
上司とは、キャップのことではなく、その上の外事一課長のことだろう。外事一課長と言えば、監察室と並んで同じエリートを驀進する立場にいるだけに、彼にとってこの事案を相談するのはそう抵抗感のあることなんかではないはずだった。とはいえ、同じ出世道を争うライバル同士だ。穏やかな取引がなされたとは考えにくい。
「向こうは、向こうなりのスタンスでいきたいということだった。つまり、我々の会話はここまでで、あとは君の方の上司に指示を仰ぐ形となる。どういうことかと言うと、写真の件の捜査を、そちらが請け負うという形になったのだ」
内部調査敢行――
これを実行するならば、この話自体、機密にされるのが定例だ。それは自分とて例外ではない。それなのに、今こうしてそのことが公にされている。これはつまり、外事課は自分のことを信用し、匿うつもりでいるということになるのだった。
「捜査権の肝心な部分は、我々の中にある。いつでも、そちらの捜査を拒否することが可能だということだ。理不尽なやり口にならない条件として、一週間ほどの猶予を与えるということになった」
一週間の猶予。
何事も捜査には時間がかかることから、それは短すぎると言ってよかった。監察室の介入などは、汚点でしかない外事課にとっては、不利な条件であった。それを跳ね返す材料がなかったのは、要員がこの手の細工を掛けられたことについて、油断があった結果だと暗にながら認めたからだろう。
「なるほど、そういうことでしたか……」
「なあに、そう深刻にならなくっていいはずだ。これが罠だったというのなら、そもそも不処分で済むことなんだからな」
松原は、腹の底では自分を疑っているようだった。ただでさえそうなのに、今回、捜査権を与えるなど、譲歩の措置をしなければいけなかったことについて面白くないと思っている。それでも相手が公安だからこそ、慎重に取り扱わなければいけないことが頭で分かっており、いまだけは妥協の姿勢でいようと思っているらしかった。
やがて、彼は腹の内の一部を明らかにするように言った。
「我らの公安部への不審は、根強く存在している。というのも重大問題を起こして、我らの手で処分しなければいけなかった人物が最近出たばかりなんだ。最近というのは、そんなに近いうちでもないんだろうが、記憶に新しければ最近のうちに入るだろう? それが、たちの悪い事件だったりすると、どうしても強く印象に残るものなのだよ。さらに追加で言うと、程度のほどはどうあれ、それより前からその手の問題について数が発生していたり、つい最近まで連続していたりすると、なおさら悪い感情を持ってしまうのは言うまでもないことだ」
よくない事に、公安部に不審の念を持っているようだった。
この調子だと一週間が過ぎたその時、何をされるのかまるで分からない。彼を見つめている内に、牙を剥き、襲い掛かってくるイメージが浮かび上がってくるようだった。
過去にそうした公安の関係者が不祥事を起こした事実について、知っている人間は限られる。月岡も押さえられていない一人だった。これは公安の身分が特権的に保障されていることと関係がある。そのことに妬みの目を向ける者は多く、彼もその一人なのかもしれなかった。なんにせよ、自分はいま部内抗争の駆け引きの直中にいるということで良かった。
「とりあえず、捜査権を預かっていると聞きました以上、写真はお預かりしてもいいのですね?」
「もちろん、それは構わない。自由に持っていってくれたまえ」
感じの良い愛想笑いを松原は湛える。この見かけだけでいえば、どこを取っても人の良さそうな尋問官といったところだ。
しかし、裏側にはそれとはちがった顔が隠されている。写真を易々と提供してくれたことには、しっかりとした根拠があるはずだった。
彼は指紋を採取済みだと述べた。これは、手の内を明かすちょっとした失言だ。そう、いま手許にある写真は、彼らが後から焼き増しした予備分のはずだった。
2
中西が公安部屋で待っていた。月岡の姿を認めるなり、マンツーマンで話せるミーティング室へと連れこんできた。
顔を向き合わせるなり、どうだった、と問われたので、月岡はありのままに打ち明けた。すでに大方の情報を押さえているらしく、月岡の説明にそれほど興味関心の目を光らせることはしなかった。追加情報がないと分かると、露骨に眉を寄せさえした。
借り上げてきた写真を一枚ずつ眺めながら、彼は嘆じるように言った。
「これは、間違いなくお前だ。だが、写真そのものは、合成だとお前は言った。たぶん、それで間違いないんだろうが、しかしそれが通じるわけではないことは、もう分かっているな」
「不覚を取ったことは、認めます。こうなった以上、すべての責任を負う覚悟は、できているつもりです」
「ならば、今の担当から外れてもらうことに異存はないということでいいな。もちろん不満はあるだろう。罠を仕掛けられたぐらいで担当を外されるというのは、もしかしたら相手の思惑どおりに物事が進行したということにもなるんだ。しかし、これは我らの作戦の内だ。一課長は言った。うちらは、売られた喧嘩はとことん買ってやる、と。お前も担当を降りてもただでは引き下がれんぞ」
「つまり、写真の捜査の方を追えということなんですね」
中西は、うなずいた。
「そういうことだ。業務のシフトチェンジだ。今日から頭を切り換えろ。ただ、今回のこれが小見の件とまったく無関係であるとも言いきれない。しばらくのあいだは公安事案として捜査に取り掛かる事になる。いいな?」
「分かりました」
「与えられた日数は一週間ということだが、これでは短い。どうあっても、捜査が追いつかない状況に追いやられる事になろう。それは、一課長もおれも分かっている。対応としては、こうだ。女と小見がつながる線をコネを使うなどして強行で見つけ出し、公安事案としての扱いを大いに主張していく……分かっているな? これは我らの領分には、奴らも踏み込めないことを思い知らせてやるということでもあるんだ」
公安の業務は、年度計画案から執行予算まですべて秘密にすることが許されている。それが監察室によって、一要員の粗を指摘されれば、そこから流れ流れて、外部に秘匿すべき内部情報までもが何らかの形で洩れてしまう。
予めそうならないように、情報の管理は元より、秘密を徹底しなければいけなかった。二つの部の協力体制は不可欠だ。これは組織の慣例でもあった。駆け引きは、水際すれすれの所で取り交わされることが予想される。
「それにしても、完璧な合成写真だ」
中西は、写真を感慨深そうに眺めて言った。
「何度も弁解のように言いますが、これは真実ではありません」
「分かっているさ。信用なしには、今回のこの駆け引きはできん。我々は、なんとしてでもお前の真実を証明しなければいけん」
言い切ってから、肩を少しだけ下げた。
「お前はどうも、運がない男のようだ。これを送りつけてきた相手は、たぶんじゃなしにプロだぞ」
精巧な合成。
その精度は、写真を眺めるたびに思い知らされる。単なる貼り合わせな上に、質感調整というぐらいでは、ここまでのレベルには達しない。相手がその手の技術に通じた、プロなのは確実だった。
「今のところ、自分にも相手が何の目的があってこんなことを仕掛けてきたのか、よく分かりません。それこそ小見の線での牽制だというのでしたら、理解できるんですが、今回のこれはどうもそうではなさそうです。もちろん、公安事案として取り扱うためにもその線を完全に潰すようなことをしてはいけないとは頭で分かっているのですが……」
中西はふう、と息をついた。
「まずは、女の正体からだ、な」
二人の耳目は、写真の中の女に移った。
目鼻立ちの整った、楚々としたな佇まい。髪質はしっとりとしていて、ハイライトまでかき消すような、黒の強さを湛えている。まつげや眉も共に同じ力を持っている。それらが彼女の印象を際立て、美しさをくっきりと浮き彫りにしていた。
「彼女は何者なのか、そのことについて、本当に覚えがないんだな?」
「まったく、です」
月岡は首を振りながら言った。できるものなら、自分がその答えを教えて欲しいという気持ちでいた。
「おそらく、過去のデータベースに照会しても無駄なのだろうな。前科のほうはでてこないと思う。見るからに一般人ではないということは目に見えて分かっているんだが……しかし逆に考えれば、その方が我らとしてはやりやすいはずだ。前科がないということは、犯罪に慣れていないということでもあるからな」
「自分としましては、ここで一度も捕まったことがないというような玄人パターンだったりしないことを、祈っています。ともかく、思い当たるところのすべてに当たってみるとします。ところで、お伺いしたいのですが、捜査要員というのは、自分一人だけなのでしょうか?」
「いまのところ、フリーにできる要員にあてはない。一週間のあいだ、お前だけが単独で動いてもらう形になる。安心しろ。要請があれば、このおれも動く。というよりも、情報収集という部分では、特命班の一人を遊軍として働かせるつもりでいるから、決して孤立無援なんかではないはずだ。さらに言えば、その男について、段階的に仲間としてシフトさせていく事になると思う」
特命班とは、一見して公安の予備要員のような存在だが、一般要員と身分はさして変わらない。取り扱う情報は特に重要なものが多いことから、任務の責務は一際重たいものを背負っている。国家治安が危局に瀕した非常時の際には海外諜報機関との連絡係ともなることから、コネクションという点では大いに頼りになる。
「それは、頼もしい限りです。そのうしろだてを大いに利用して、事案解決に取り組んで参ります」
「頼んだぞ。あと、警戒を怠るな。引き続きなにかしらの攻撃を加えられるようなことがあったら、すぐさま報告しろ。すぐに対応策を講じることになる」
中西は、この事案について単なる一事象として片付けるつもりではないようだ。全力であたり、その先で得られるものについてしっかり検討しなければいけなかった。今回のこれには公安の面子、それが掛かっている。
最初に訪ねたのは、同じフロア内にある鑑識室だった。公安機動鑑識部隊がつめている所だ。何人か通じている人間がいたが、合成写真に詳しいものは限られていた。今回は、小野木という男が、月岡の話に付き合ってくれることとなった。
事情を話し、合成写真についてのレクチャーを求める。写真から浮上する事実関係について、何かしら情報が得られるのかもしれなかった。彼はフレームの角張った眼鏡を何度も持ち上げながら、三枚の写真をじっくりと時間を掛けて見入った。
「ふむ、なるほどねえ。しっかりと作られた合成写真ということでいいだろう」
「あなたの目から見ても、そう言いきれるのでしたら、かなり精度の高いものであるということでいいんですね?」
「精度というと、少し困ってしまうような写真だ。そもそも、画質がかなり悪いJPEG画像から起こされたプリントだと思うんだが、あなたはそれについて気にならなかっただろうか」
月岡は写真にぐっと顔を近づけた。すると、写真が一気にモザイク画を見るように粗くなったように感じられた。
「この距離だと、かなり見にくくなりますね、そういえば」
「JPEG画像には、ブロックノイズというやつがいっぱい被さっている場合が多い。真贋判定を頼まれるとき、たいていはデジタルカメラで撮ったJPEG画像なんだが、その中で圧縮加工されたものなんかを送りつけられると、画質の悪さで作業が手こずってしまう。だからね、この手の依頼を受けるときは必ずファイルを弄らないでそのままで、とお願いしているんだよ。デジタル鑑定とアナログ鑑定とでは、所要する時間がおおいに異なってくるからね」
「この写真に見るもやもや感は、そのブロックノイズによるものですか?」
「自分はそう思う。ブロックノイズに潰された写真というのは、デジタル的な真贋鑑定は最初から不可能なものが多い。これはまさにその典型だよ。あえて、質の良いカメラでけっこう近くから撮影し、そうした上質なものを、ファイル加工してデータそのものを細工した……というようなやり口だったのではないか。これなら写真を細工してもある程度なら誤魔化せてしまう」
「しかしながら、小野木さんはそれは合成であると言い切りました。ブロックノイズで誤魔化しきれなかった部分があったということでいいんですね?」
「いや、自分としてはそれが合成であると判断したのは、わざとらしいブロックノイズの挿入感を第一に感じてのことだった。写真そのものから、真贋判定をくだすのは非常に難しいレベルにある。それぐらいのものなんだ」
彼の経験こそが、その写真が偽であることの根拠となっているようだ。つまり、真贋鑑定の経験の浅い人間ならば、まず騙されるだけの内容であるということだ。
小野木は思案に暮れたままに言葉を連ねる。
「アタッチを実行するに当たって一番難しいのは、なんといっても陰を作り出すことだろう。顔の陰。背景の陰。またそれぞれの関係……。すべてを総合的に見ると、やはり不自然な点が浮かび上がってくる。起伏がある箇所での陰となると、やはり変形されていなければおかしい。今回、そうした陰そのものに、不自然な点があったかというと、どうもそれは認められなかった」
「では、もし画像がJPEGのそれではなかったとしましたら、本物であると判定したということになってくるではないですか」
そんなはずはない。そこにあるのは、明らかな虚構なのだ。被写体の中心になっているのが自分だからこそ、はっきりと言える。
「一つだけ、そうした陰そのものをそっくりそのまま違和感なしに作り出すことが出来る方法がある」
「それとは?」
月岡は思わず食いついた。
「カメラの撮影位置、そして撮影日、それから焦点距離、すべてが統一されていれば、こうした完全に近い合成写真を作り出すことが可能だ。最初から同じ条件なんだから、アタッチをいれる箇所は限定されるというわけなんだ」
これは、捉え方によっては、衝撃的とも取れる情報だった。
カメラの撮影位置、日付、焦点距離が同一――これが意味するところは、合成写真はかなり計画的に作られたということになってくるのだ。
「ロケーションが同じなのでしたら、合成写真を作る方は比較的、簡単だ。雑誌なんかでは合成技術は当たり前に導入されている。そうしたところでは、加工写真を作るのに、ホリゾントを使う。映写機の映像を映し出すスクリーンに似た道具だ。ここで使用する照明はハロゲンライトに白レフと、だいたい相場が決まっている。同じ条件に同じ道具という環境下で撮影されるから、たいてい合成写真にみる不自然さは見つかりにくくなる。それでも複雑な背景が絡んでくれば、陰は回り込むから注意が必要なんだろうが、合成に慣れた技術者はその対応策もちゃんと心得ている」
「なんだか、かなり面倒なことになりそうなんですが、不自然になりそうな影は一つずつ処理しなければいけないのですね?」
「そうだ、一個でも落とせばそれで合成は失敗だよ。ご想像の通り、気の遠くなるような作業だ。その精度を争うのが、合成写真というやつなんだ」
「なるほど、とにかく今回のこれが、裏のあるよくできた合成写真であるということはしっかり把握しました。自分としましては、それぞれ別の場所で撮影したものをミックスさせたものと思っていたんですが、どうも違ってきたようです」
小野木は、おや、というような顔をした。
「写真の当事者である、あなたがそうだと思っていることを、理論で覆すのはおかしい。事実は事実なんだ。そこは変えてはいけない。
……写真に映っている場所。それぐらいは、普通に分かるはずですぞ」
月岡は言われて思わず、うっとなった。というのも、写真が示している場所にまったく覚えがなかったからだ。というよりも、写真は狙ったように周囲の象徴的な器物を隠すように撮影されているように思える。
月岡は言い訳として、そのことを訴えた。彼は納得いかなさそうに、うーんと唸った。
「まあ、妥協してそうかもしれないと同意したところで、このあなたが着ている服に覚えがないとまでは言わせない」
写真の中の月岡が着ているのは、紺色のジャンパーに、褐色のスラックスだった。いつも張り込みや追尾用に着ている服は、お決まりの三パターンだっただけに、これがいつに着たものであるかという特定はできなかった。
「捜査用に用意していますこの服は、二年ほど前から繰り返し着用しているものでして……、いまも着回し用に使っています。ですから、これを見ただけでは特定できないのです」
小野木は月岡に愛想笑いを振りまいて、腕を組んだ。
「もちろんこの写真を鑑定したところで、撮影時期までは割り出せない。こちらに丸投げされるようなことをされても困るということだ。我らが出来るのは、真贋の判定のみに過ぎない。……しばらくのあいだ、この三枚を預かるということで、よろしいね?」
「コピーは手許に控えております。ですから、どうぞそのままお引き取りください。鑑定の程は、お任せします。結果判明の時期についてだけ詳細を教えていただければありがたく思いますが……」
「ざっと、一週間は必要だろうね」
「それでは、ちょっと困ります。こちらの期限は一週間となっているのです」
「書類整理も合わせて一週間と言ったつもりだ。初期鑑定結果なら、三日で出せるだろう」
「分かりました、三日後、またお伺いします」
写真が合成であるのは、もうすでに分かっている。ここでは真贋の程ではなく、同じ条件下で撮影されたことが事実であるかどうかの有無をはっきりとさせることにこそ意味があった。
いまのところ、月岡には信じ難い思いしかない。もし、自分を利用した計画的な仕掛けだったというのならば、どこかで自分は何者かに見張られていたということになってくるのだった。
逆監視――。
公安の追尾要員がターゲットを追い掛けている最中、尾行され、挙げ句には撮影されていたとあらば、それは恥もいいところの失態でしかなかった。ミイラ取りがミイラになるというのは、まさにこの事だろう。
「と、今回の接見についてなんですが、他の部への口外は無用ということで、お願いしたく思います」
「それは、承知しているよ。私も一応、公安部の人間。同じ立場にあるから、あなた方のことはよく分かっているつもりだ」
「お気遣い、感謝いたします」
「にしても、今回のこれは、ちょっと苦しい事案になりそうだね」
小野木はこちらの苦しい胸の内が分かっているようだった。写真が示すことがどういうことなのか、だいたい把握しているのだろう。
仕掛けてきた相手の狙いは、いったい何だというのか。自分には少なくとも、狙っていいだけの要素などは何もないはずだ、と月岡は思う。それとも、公安要員というだけで狙いをつけたのだったら、それは重大行為だ。あるいは国家への挑戦とも受け取れる。公安は国家の治安を守るという重要な役を担っているからだ。
しかし、それぐらいの行動だったならば、何かしらの犯行声明が現時点ですでに発されていなければおかしかった。そういうのは、今のところ確認できていない。つまり、自分は何らかの計画に利用されようとしているに過ぎない。
やはり、これは正体不明な事案というほかはなかった。
3
女についての、綿密な調査がはじまった。まずは小見との繋がりを見ていく線だ。そして、警察筋に関係がある女かどうかの線。データベースを駆使して洗い出す作業は、保阪という遊軍の男に委任することとなった。何度か班を共にしたことがある、同僚だ。月岡は、マニュアル式に情報を求めていく作業だけに明け暮れた。
事件が解決するまでは家に帰るつもりはなかった。が、月岡はそこをあえて押して、その日、自宅マンションに戻った。
妻の友梨香が出迎えてくる。固い顔をしたまま玄関で顔を合わせると、何かがあったと彼女にはすぐさま分かったようだった。なだれ込んだ居間にてしばらく沈黙に暮れた後、月岡は彼女に一枚の写真を示して謝った。
「どうしたの、これ?」
写真は捜査情報だ。体面上、公安事案に觝触するだけに、極秘ファイル情報の一種とも言ってよかった。それを持ち帰り、妻に示すのは本来ならば御法度行為だ。
しかしながら、今回は事情が異なっている。
期限付きの捜査で、しかも初期捜査の段階で、女の正体が掴めない状況にある。早い段階での頭の切り替えが必要だった。だいいち今回のこれは、最初から泥仕合になることが予想されるだけに、情報解禁はいまからでも積極的に実行していくのが得策のはずだった。その第一歩として、元警察官であり、いまも現場にて協力要員としてたずさわっている、妻の友梨香を選んだのに過ぎない。
「見ての通りだ。不覚を取ったんだ」
月岡は土下座をして、その体勢のままに事情を告白に掛かった。友梨香はじっと聞いていたが、そのうち腕組みをしてなるほどねえ、と洩らした。
「らしくないわね。どうして、こんなことになってしまったのかしら」
「分からない。なぜかしら、俺が狙われてしまったんだ」
「いいから、その土下座やめてよ。こっちに座って、ちゃんとして」
月岡は身体を起こし、立ち上がった。しかし、友梨香の言いつけどおりに、ソファに座ることはしなかった。
「さいきん、何かしらのヘマをやらかしたことはない……と思っていたが、これはどうも内偵中に隠し撮りされてしまったものらしい。今回このような合成が作られたのは、結局、俺の油断が原因だったと言いきってもいい」
「上司さんは、なんて言っているの?」
「とりあえず、この写真の捜査を任せる、と」
友梨香は黙り込んでしまった。いまの担当を降ろされたことをいち早く理解したのかもしれなかった。たいてい、こうしたことは家族にも話さないことが通例だ。それだけに、少ない情報だけでどういう状況になっているのか判断しなければいけなかった。友梨香には経験がある分、それがある程度できた。
「事情はわかったわ。しばらく、変わった仕事をすることになるってわけね。それで、また明日から帰ってこない日々がつづくってことになるのかしら」
「そういうつもりでいたが、必ずしもそのようになるとは限らないということになった。というのも、女の情報を探るのに、手こずりそうなんだ」
友梨香は写真の中の女を見つめた。身なりのいい、気品のある女性。肩から提げているショルダーバッグはブランドのロゴこそ見えないが、上物の革製品の証拠である高級感のある艶を放っていた。
「とても、素敵な女性。あなたには、もったいないぐらいの」
友梨香は言って、月岡に含みのある笑みを寄越してきた。
「おい、からかうのはよせ。それとも、今回のこれについて、俺のことを信じてもらえないってわけなのか?」
「あなたのことは、信じているわ。でも、こんな素敵な人と一緒にいるのを見たら、例えそれが合成であっても、嫉妬しちゃうものなのよ。ねえ、このもやもやな気持ち、あなたがばっちりと解決することで晴らしてもらえる?」
「もちろん、そのつもりだ。情報を求めたい。そいつについて、覚えは?」
彼女は首を振った。
「あるわけないじゃない。でも、なんとなく、商売っ気のにおいがするのよね。わたしも、そういう人、現役の頃、何度も相手してきたからかしら」
「商売っ気というのは、どういう類の?」
「自分の身体というか、美貌を売りにする類の商売よ。だって、すごく写真写りが良さそうな顔つきをしているもの。これは、偶然なんかではないはず。そういうモデルさんなのかもね」
「なるほど、モデル……」
考えつかなかったことだ。罠を仕掛けてくる仲間などではなく、一つの計画に基づいて動員された要員だった……。あり得ないことではない。
月岡は写真の中の女を見つめた。斜め四十五度の絶好な角度で写っている所を見れば、これはたしかに、写されることを意識したモデルという風にも見て取れる。
「いや、しかしだからといって、モデル事務所なんかを当たったところで、彼女のような人間が引っ掛かるという風にも思えないな……。こういう場合、どこを見ていけばいいんだ?」
友梨香はクスクスと押し殺した笑いを短く洩らした。
「調べていく先について、思いついたのがモデル事務所だなんて、頭が固すぎるにも程があるわよ。でも、発想的には間違っていないと思う。うん、ある意味、モデル事務所を調べていくことになるんでしょうね。それも、犯罪すれすれの所に関わっている恐れがあるような、そんな不穏当な事務所……。そっちだったら、かなり数が限られるでしょうから、情報通の人と顔を合わせればすぐにでも答えは得られそう」
「もしや、その方面を調べていくのに、当てがあるのか?」
「昔、芸能事務所の顧問をしていた人と、接触したことがあったわ。ドラッグにはまってしまったタレントについていくつかの情報をもらったの。今回、その人に話を持ち掛けたら、何らかの情報が得られそう。とにかくコネクションを持っている人だから、こういう漠然とした話を持ち掛けるのに、最適な人だと思う」
「だったら、そいつを紹介してもらおうか」
「いまも、同じように現場で働いているかどうかまでは分からないわ。それに、その人についての電話番号はもう手許にはない。だから、名前というか、事務所名だけを教えることになるけれど」
「それで構わない。あとは、こっちのほうでなんとかする」
「だったら、教えるわ。『エルモーソ』ってところの、山科という人。表舞台に出ず、裏の世界だけをわたっている人だから、会ってくれといきなりお願いしたら、向こうは警戒心を持つかもしれない」
「なるほど、ある程度、こちらの顔を明かさなければいけないようだ。しかし、こっちは秘密裏に動いてる人間だ。ある程度以上の情報については、妥協することはできない」
「一度情報提供者として協力してもらった過去があるんだから、連絡をよこすときは、その時に対応した人の名前を出せばいいのよ。そうすれば、無条件で、ある程度の理解は取り付けられるはず」
過去のデータをさらうことで、すぐに対応に当たった関係者を割り出すことが可能だ。その人物に協力を要請することになるだろう。名前を借りさえすれば、それであとはスムーズに段取りが進む。
「それにしても助かったよ。お前は、意外な筋の人間を知っていたものだ」
「別に、知り合いとかそういうわけではないわよ。ただ、過去にそうした仕事があったというだけのこと。向こうはやたらとこちらに興味を持っていたわね。そういうコネクションを自分の懐に控えておいて、いつかに不利な状況に立たされたとき、使ってやろうというような魂胆があったのかも。あなたも、気をつけた方がいいわよ。そういう人は、檀家さんには向かない人だろうから」
「そうだな。はっきり言うと、関わり合いになりたくない手合いだ。だが、問題ないだろう。こっちとしては、探りを入れられるその前に引くつもりでいるからな」
一旦長い息をつくと、友梨香は顔に満たしていた緊張を一気に解いた。
「なんだか、いつもにしない会話をしてしまったみたい。あとから、どっと疲れがくるようなことがなければいいけれど」
「すまん……すべては、この俺の失態からはじまったことなんだ」
「相当、自分を追いつめているみたいね。まあ、こんなことこれまでになかったことかもしれないから、そうなって当然といったら、そうなんでしょうけれど」
友梨香はガラステーブルの上に放置されていた写真をまた取り上げて、丹念に眺めた。
「ほんと、綺麗な人。この人にあなたが実際に会うようなことがあったら、その時は一気に気持ちが傾いてしまうのかも」
「それは、百パーセントない」
月岡は生真面目に言った。語調に、ちょっとした怒りが乗ってしまったのかもしれなかった。
「分かっているわよ。見ず知らずの他人に気を許すことなど、今の仕事やってるあなたにとってはあり得ない事でしかない。これは軽い冗談ってやつじゃない? ムキになることじゃないわ。……でも、頭の固いところがあるあなたにちょっと言っとけばね、人生なんてね何が起こるかなんて、誰にも分からないものだったりするのよ。時として、自分でも予想しないことが起こってしまう場合があるってこと。絶対というようなことなど、世の中には存在しないんだから――」
柄にもなく、感傷的な面差しがあった。月岡は黙って彼女のことを見守っていた。こんな気持ちにさせたのは、やはり写真を見てしまったからだろう。見知らぬ女と、夫婦のように連れ添って歩く自分の夫……。別の人生があったのかもしれないというような、取りとめのない妄想に囚われているのかもしれなかった。
月岡の中に、妙な苛立ちが募り始めていた。
どうも、この事件は、ただでは終わってくれそうにもなさそうだった。
4
翌日、朝早くから『エルモーソ』と連絡を取った。すると、山科はまだ現役の顧問をしていることが分かった。すぐさまアポイントを取り、面会を求めた。何やらスケジュールが過密なようで、会って話ができるのは、十分程度だと伝えられた。
面会場所に選んだのは、イートインフロアを階上に設けている、日本橋の喫茶店だった。ワッフルカフェと看板を上げているとおり、店内はクリームの甘ったるい匂いに満ちていた。
月岡よりも五分遅れて到着した山科は、いかにも垢抜けない、古風な顔つきをしていた。そこを新調したばかりのシャツやらバッグなどで、カバーしていた。とりあえず新しいものを取り入れる事のセンスだけはありそうな男だ。
「いやはや、遅れましてすいません。時間にルーズというわけではないんですが、どうも予定が押していましてね……」
彼は名刺ケースを取りだし、中身を月岡に手渡してきた。その礼儀に倣わず、月岡からはお返しを渡さなかった。
「お呼び出しして申し訳ありません。今日は、あなたの知恵をお借りしたく存じます。それとも、最初に自分の素性を明かさなければ、あなた自身、納得できないのでしょうか」
「連絡をいただきましたとき、お世話になった当時の関係者の名前をだされました。それで充分ですよ、こちらとしては。あなたがどのような筋の人なのかは、はっきりとは分かりませんが、関係者であることはご信用申し上げます。今回も、秘匿すべき事柄なのでしょう」
「ご理解のあるお方のようで、助かります」
「いえいえ、こちらが扱っている情報も、たいていがシークレットなものばかりなので、それはお互い様というやつですよ」
「それで、あなたが扱っているのは、主に芸能関係の裏の筋……ということで、いいんですね?」
急に山科の顔がよそよそしくなった。口許に手を当てて、密やかな声で彼は言った。
「そんなに、あっさりと言ってもらっても困ります。こういうのは、もっと慎重に話すべきことでしょう。……まあ、そうです。こちらは、表に出してはいけないタレント事情を押さえているといいますか、処理する役を担っています。もちろん、犯罪行為には容赦をしませんが、それでも事情がある場合には、裏工作というやつを実行します。関係者の都合が良くなるように、お手伝いをするということです」
初対面の人間にいきなり事情を明かしてきたのは、持ち時間が少ないからではないか。
「それで、今回の対面は何が目的だったのでしょう?」
頼んだドリンクで喉を潤すなり、彼から切り出してきた。月岡は懐に収めていた写真を三枚取りだして、彼に示した。
「この女性について、覚えがあるかどうかあなたにお伺いしたい」
彼は三枚の写真を扇形に並べ、それぞれ見比べるように眺めた。
「ここに写っています男性は、あなたですね?」
「ええ、そうです。自分です」
沈黙に入った。彼なりに、事情を把握に掛かったようだった。再び口を開いたのは、少ししてからだった。
「私では、協力できないようですね」
「あなたが見知っている範囲内の女性ではない、と?」
「年一回発行されています、タレント年鑑の大筋は押さえている方だと自負しているんですがね……。彼女についてはちょっと分からなかったです」
そのことが彼自身かなり悔しいことのようで、何度も首を捻る仕種を繰り返していた。
「どこかで、見たようなそんな感じがあるんですが……。たぶん、五年から六年ぐらい前、あるいはそれ以上前のタレント年鑑に登録されていた女優さんかもしれません。いま、それが手許にあれば、調べたいところなんですがね」
「もし、連絡をいただけるというのであれば、こちらにお願いしたく思います」
月岡は電話番号を走り書きしたメモの端くれをポケットから取りだし、彼に手渡した。外事一課内にある庶務担当の一系が共有しているもので、もっぱら工作仕様に使われている番号だった。当然、通話内容は、管理される情報となってしまうが、それはやむを得なかった。情報収集担当の個人番号は、信頼できる筋だけで共有しなければいけない掟となっている。
「なるほど、こちらでよろしいんですね」
彼はシステム手帳を開いて、カレンダーのなかに番号をつづった。びっしりと細かい字で枠欄が埋まっていた。本人でなければ解読できないアラビア文字めいた様相。手帳は秘密管理らしく、すぐさま閉じられた。
「あなたが協力していただけるのは、ありがたいんですが、この写真については預けることはできません」
「問題ないですよ。私もこういう仕事をしていますから、一度見た顔はしばらくのあいだ、忘れることはないでしょう。人の顔を覚えていて、それで仕事が繋がるというようなこともまあ、あるわけですよ。と、今回の件について、自分には協力できる範囲は限られるんですが、一つ、紹介したいところがあるんです。その人なら、もしかしたら彼女の事を知っているかもしれません」
「どういうお方ですか?」
どのみち、大っぴらに公にできるような明るい表舞台に立っている人物ではないはずだろう。そう否定的な感情でいると、彼は予想外な線に触れてきた。
「編集部のお方です。少ない要員で隔週誌を発行している小さな所なんですが、まあけっこう名の知られた人です」
続けざまに伝えられた名詞は、馴染みのないものだった。
會伝社、『THE〝奔放〟バラエティー』編集部。
ゴールデンタイムに流される、テレビ番組のような名前だ。何度も休刊に追い込まれ、そのたびに発行誌の名前を変えてきた履歴がある。呼称が俗物化したのは、世間に忘れられたくないという、せめてもの抵抗だろう。
一方で、一番最初に使っていた『THE ルーモア』というシンプルな雑誌名は、月岡にも見聞きしたことがあるようなものだった。その通り、それが休刊に追いつめられた特集記事は、世間の社会的タブーに触れるものばかりで、その破天荒ぶりが買われる形で、かつて一大センセーションを巻き起こした事があったはずだった。
「編集員の柄本秀樹さん、彼は物知りな男と言いますか、まあ、腕の立つ、有能な男です。ああした小さな所で使われているのがもったいないというような」
「それで、彼と連絡を取れば、すぐに会ってもらえるのだろうか」
「問題ないと思いますが。ただ、疑り深い人ですからね、あなたのことをいろいろと問い質すことがあったりするのかもしれません」
情報収集要員にとっては一番いやなタイプの相手だ。しかし、捜査には期限がある。ここは、前に進んで行く選択を採るのが基本だった。
「でしたら、あなたのお力を借りたいのですが、ひとつお願いできませんか。こういうとき、あなたの部下という形を取らせてもらえれば、こちらにとっては一番都合がいいのですが……」
「部下ですか……? それは、構いませんが、相手はそういうことも見破れるだけの頭がありますよ。有能な男だと言ったでしょう。こういう仕事というのは、そうした情報処理やら、原稿を書く能力が優れていることばかりが有能ってことではないんです。総合力ですよ」
「接触は原則一回だけですよ。それ以上は、尾を引きません」
「あなたが、そうおっしゃるなら……。ええ、そのようにしてもらって結構ですよ。ただ、部下……というのは足がつきそうなので、ここは私筋の関係者ということで、接近してみるといいかもですねえ」
「そうですか。でしたら、そのようにします。とりあえず、ご承諾、ありがとうございます」
新たな名刺が、彼の手帳から抜き出され、なりすます人物についての具体的な提案を受けた。一時だけ、タレント事務所の関係者となることの詳細が決まった。
柄本とは、すぐにコンタクトが取れた。
電話での彼はひどく横柄で、こちら側からの要求を突き返しかねない強い態度を取っていた。が、面会の場所に現れた彼は、そうした邪慳な感じが見受けられない、比較的穏やかな身なりをしていた。身嗜みには、あまり気を使っていないようだ。そのことからも理系の大学生が、そのまま社会人になったというような感じがある。
「あなたは、ずばり山科さんの関係者じゃありませんよね? まったく外側にいるようなお方でしょう」
彼はいきなり、尻尾を掴みに掛かってきた。なんと返していいのやら、月岡は戸惑った。
「分かっていますよ、なんだか山科さん、よそよそしかったですしね。まあ、こんなことを黙って仕掛けてきたからって、怒るとかそういうことはないので、ご安心を。それにしても、そこまでするぐらいです。あるいは、あなたの話を聞いてあげなくもないですね」
「条件をつけるとか、そういうことなのか」
「こちらが望んでいるのは、いつだって有効な情報、それだけですよ」
ただでは帰してもらえない男だというのは最初から分かっていた。が、やはりこの男は月岡が安易に接触していい相手ではなかった。しかし、そのことが最初から分かっているならば、いくらでもその対応は取れる。ともかく、ここは徹底して強気の態度で臨んだ方が良さそうだった。
「あいにく、そうした情報は持ち合わせていない。まず自分について正直なことを明かすと、そっちが見破ってのとおり、出版関係者でも芸能事務所関係者でもない。まったくの外野だ」
彼は首を振りながら、吐息をついた。
「そんなことだろうと思っていましたよ。それで、これは非公式な面会にして欲しいということでしたが」
「その通り、非公式だ」
「相当、暗いところで働いている人みたいですね。この時点で、あなたがどういう人かはだいたい想像できますが、まあここでは黙っておくとしましょう。……用件の方、聞くとしましょうか」
月岡は軽くうなずいてから、写真を三枚取りだし、彼に差し渡した。彼は指紋がつくことを厭わずに写真に手を当て、それぞれくまなく自分の目に映していった。
「聞きたいのは、そこに写っている女性について、だ。見覚えがあればなんでも言って欲しい」
「この人は、見たことがありますね。というより、知っています」
彼は自分にうなずいてからそう言った。
「芸能関係者、ということでいいんだな?」
即座に首を振った。
「タレントさんではありませんよ、この人は。あえて言いましたら、とあるスクープの役者さんというべきでしょうか」
「つまり、裏工作にでも駆り出された一人の要員ってことなのか?」
「まあ、そのようなものです。よくいるじゃないですか、水商売の女性に引っ掛かって、あとからたちの悪い追っ掛け廻しをされ、金をふんだくられるというような有名人が。その相手の女の方ですよ。事件が起こって炎上したとき、どうしても女の方にも注目が集まると言いますか、知名度を得ますよね。彼女はそうした経緯でぼくの耳目に触れた女性だったはずです」
友梨香の予想が大筋で当たっていたということでいいだろう。商売っ気のある顔つき。彼女はやはり、そういった女だったのだ。
月岡は柄本のほうを向いている写真の中の女を見つめた。
自分の眼力では、そうした裏のある顔はどうしても見えてこなかった。公安部隊では、女性を扱う役とまったくそうでない役との二種類に分かれる。月岡は男ばかりの世界にどっぷりと浸かってきた。これは、警務部の采配に他ならなかったが、いま思えば絶妙だったのかもしれない。自分には女の取り扱いはできない。
「不祥事というのは、どういう不祥事なんだ?」
月岡は顔をあげて問うた。彼は顎を擦ったきり、黙っていた。
「情報提供の謝礼は少額なら、できると思う」
追加で言い、相手の様子見に入った。
「そんなことは、望んでいませんよ。ぼくが期待していますのは、あなたとの関係です。なんだか、とても強いバックに守られているようで、どうもこれを見逃すのはもったいないように思えてならないんです」
「残念だが、その点で期待してもらっても困る。……こっちは、それができないだけのそういった関係のところだ。どういう人間かだいたい想像できるとそっちが述べたからには、その辺りの事情だって理解できるのだと思う」
「ずばり言いますと、あなたは警察……の関係者ですよね?」
彼はぼそっとした口調で言った。その顔には、明らかな確信があった。月岡は黙っていた。それが認めてしまったも同然の反応となってしまった。
「情報、提供します。ですから、ぼくの事務所まで来てもらえないですかね。けっこう、ここから近いところにあるんです」
彼は表情をほぐして言った。自分のほうにペースが向いていることに、気をよくしているようだった。
月岡は、判断に迫られていた。この男の口車に乗るべきか回避するべきか――。引っ掛かっているのはやはり猶予が決められた時間のことだ。もし、この筋をパスしたら、次に別のところで代わりの当てを見つけることができるだろうか。見込みの程度を問わないならば、山科からの回答だってあったし、保阪からの情報提供だって、期待できなくもなかった。
実はですね、と彼は月岡の迷いを汲み取ったように、切り出した。
「その彼女が関わった不祥事といいますか、事件について自分も、ある程度関わっています。といっても、記事についての最終校正の手伝いをしたというぐらいなものでしょうが……それでも、まあ関わったことには違いないはずでしょう」
「とにかく、協力できるということでいいんだな?」
「そうです。あなたが満足できるかどうかまでは分かりませんが、求めているものを渡すことができます」
一気に判断の天秤は、彼を信頼しようという方向に傾いた。彼を退けたところで、結局同じ畑を回るのは避けられず、堂々巡りになるだけだろう。多少の泥道は仕方がない、と月岡はそう見なした。
二人は、揃って移動した。タクシーで京橋方面に向かい、日本橋交差点で右折した。ビジネス街の中心地から脇道に逸れていった先に、會伝社のビルは建っていた。八階建ての、それぞれの階層がワンフロア構造となっている中堅ビルだった。
ビルに入っているテナントは、ほとんどが通信社関連で占められていた。IT支援企業の名もあったが、いまは事務所を移転したようで、名前ばかりが残されているだけであった。
會伝社の事務所内は、新聞社のフロアさながらにプリントや資料類でごった返していた。六名分ある机のどれもが見えなくなっている。近くにあった出力機がスチールラックを揺らしながら動作音を立てている。
月岡は座高の低い粗末な椅子に腰掛けながら、柄本が目的の資料を持ってくるのを待っていた。
彼が現れたのは、フロアに入ってから十五分が経とうとした頃だった。
「やっと見つけました。四年前の記事でした。なにぶん、その時はまた発行誌の名前がちがっていましたから、山をかき分ける必要があったのです。これです、どうぞ――」
雑誌ごと、渡された。
開かれた頁は白黒の記事で、ターゲットとなった有名人以外は名前と顔を伏せられていた。目的の女にも目許に黒の修正が入っている。飲み街に並ぶタクシーの一つを拾い、肩を貸し合って男女が乗り込もうとしているワンシーン――正直なところ、すぐには工作写真の女だとは言いきれないところがあった。目を凝らして見れば、そうかもしれないと思う程度でしかない。
「どうです?」
柄本は月岡の正面向かいの席に座って言った。
「どうもこうも、これでは駄目だな」
「なら、これならどうです」
頁の上に彼は、一枚のカラー写真を被せた。キャビネサイズの、雑誌採用写真。タクシーに乗り込もうとしている女の顔がはっきりと写し出されていた。
間違いなかった。
今回合成写真に仕込まれた、彼女だった。四年前ということだったが、それ以上の時間を感じさせるほどに若く見えている。いずれにせよ、予想を裏切らない美しさを持った女であるということで良かった。
「彼女、だ。……それで詳細の情報を押さえているのだろうか?」
この時、また何かの要求があるかもしれないと構えていたが、彼はあっさりと口を開いた。
「連絡先を教えて欲しいということなのでしょうが、残念ながらそういったものはありません。すでに情報が古いですし、だいたいうちのほうから彼女を直截取材するというようなことはしていないのです。ただ、どういう人間かを明らかにするために、当時彼女が勤めていたところは、押さえています」
「できれば、そこを教えてもらいたい」
「青山にあります、スカイヒルズには会員制クラブがあります。そこに協力会社としてサービスを提供している会社の一つに『プリマヴェーラ』というのがあるのですが、彼女はそこの従業員でした」
「なるほど、政財界の重鎮たちが集まるクラブの下請けの会社……」
スカイヒルズにある会員制クラブは、バブル期直前に設立され、そのままバブルを謳歌した豪勢なクラブとして名を馳せていた。レセプションと称して開かれたパーティーは、当時から各国諜報機関員の格好の密会場所だった。不穏な動きをみせる海外諜報員と疑われる人物を、公安は見逃さず見張っていた。その彼らから接収した情報は、月岡が従事する今の代になっても本部内でしっかり血肉となって生き残っている。ビッグマネーが動くところでは、重要情報もしっかり交換され、彼らのビジネスのネタにされるのだった。
「プリマヴェーラがいまもあるかどうかは、分かりません。が、当時はけっこう羽振りがよかったから、残っているんじゃないでしょうかね」
「プリマヴェーラについては、こちらで調べる。残っていなくとも、問題ないだろう。すぐさま雇用されていた従業員の一覧は割れる。問題は、そっちからの情報が間違いないかどうかという点だ」
「その点は、信用してもらうしかありませんね。というより、こちらがあなたを欺いたところで、何ら利益なんてありませんよ。だいたいあなたが警察官であると分かっているなら、挑発するような行為はいかにも危険だって分かり切ったことでしょうに」
月岡は一旦、会話を取り下げ記事を読み込んだ。事件の後半ごろに作成されたもののようで、総まとめといった内容になっていた。
スクープの対象は、当時、参議院議員であった、守村達郎内閣官房副長官。話題の女と連れ添い、夜の街を転々としていった結果、記者陣の追尾から消えていった。愛人を囲っているという確かな証拠はないが、その後、彼女に追われ、訴訟沙汰に巻き込まれていることが発覚。
守村はこの一件をもみ消そうとあれやこれやと火消しに奔走している。その支払いの一部が、記者陣に洩れた。額面は二千万超――。
記者陣たちの目から逃れるように守村はその後、体調不良で入院。事後は、彼の第一秘書である桧山という男がすべての対処にあたった。記事は後半以降、彼とのやり取りで占められていた。
白黒ながらもインタビューの模様を写した写真が添付されてあった。桧山対會伝社、及びその他の記者陣といった構図だ。束ねられたマイクの束が彼に突きつけられている。
表情をかき消した、無愛想な対応。上背がある大男ながら、痩せこけた彼はどこかしら高圧的に振る舞う役人の気配を帯びていて、それが記者の妙な反感を買う材料となっているようだった。
記事は守村の道義的責任を投げかける形で終わっていたが、その後、彼が引責辞任といった形で政界から姿を消したのは、月岡にも良く知っている。あれはそうだったのだ。今回浮上した謎の女が絡んでいたことだったのだ。
「彼女のその後については、これは分からないのだろうか」
「追っていませんね。というより、スキャンダルになったのは、対象が有力政治家だったからですよ。はっきりいって、相手の方は誰であろうと構わないわけです。女性が何者なのかは、きっと読者にも興味がないことのはずでしょう。しかし、自分には興味ありますよ。内閣官房副長官を潰した後にまた出てきたとあらば、記事にできますからね」
「きっと、俺の方からも追加情報が得られるとでも期待しているんだろうがな、最初に言っておくとする。自分からはそっちが期待するようなことは得られない、と」
柄本は何度も目を細めて、月岡を見ていた。
「もしかしなくても、情報制限というやつが掛かっているんでしょうね。こちらからも一言いっておくとしますと、背景にどのような影響があるにせよ、そうした威圧や圧力には屈しないところなんですよ、うちらというのは特にそういう所の人間です」
「それは、聞いている。何度も発行誌の名前が変わったことが、その証拠だ。関連団体から圧力を掛けられるその度に、ここは空中分解を繰り返してきた。それでも、なんとか生き残ってきたんだろう?」
「今度ばかりは、それができないところだと言っても無駄ですからね」
柄本は、強気な表情をしていた。かなり頑固そうな気配がある。いや、この手の男は、強く出ていくほどに燃え上がるタイプに違いない。これ以上煽ったところで、面倒なことになるだけのはずだった。
「編集人生において、一番にピンチだったのは、とある記事について抗議団体が直截こちらの事務所に乗り込んできたときでしたね。代表が、乱闘になるのを何とも思わないようなそんな暴力的な男だったんです。ぼくと編集長が二人とも殴られて、地べたに押さえつけられましたよ」
話を聞くに、そんなことは一回二回の経験ではないようだった。何かあるたびに、暴力行為に出てくる相手について彼は慣れてしまった。だからこそ、それを乗り越えた今、怖いもの知らずといった強い気持ちを持っている。何事も経験が人を強くするというのは、本当のことのようだ。
「それにしても、彼女に目をつけられただなんて、月岡さん、あなたも不運ですね」
「不運かどうかと問われれば、不運ではあるかもしれない。が、それよりも引っ掛かっていることがある。というのも、自分は有力政治家なんかではない。財産もなければ、これといった値打ちのあるものを持ち合わせているわけでもない。それは、仕事を通していえることだ。だからこそ、妙なんだ。彼女が自分を狙う理由などはないはずなんだ」
「なるほど、焦点はそこですか」
彼は顎をしゃくって、考え込んだ。
「なら、どうでしょう? 彼女について情報交換の協定というやつを結びませんか? むろん、この場合、あなたのことについては一切触れないという条件での、協定になります」
「いい提案だと思う。だが、受けるわけにはいかない」
「どうしてです?」
彼の顔から笑顔の気配が消えた。
「自分らのことを信用できないってことでしょうか? だとしたら――」
「それもある。第一は、プライドだ。そもそも、あんたらの手を借りようと思ってここまできた訳じゃないんだ。情報だけが欲しい。こっちは、解決までにはリミットが設けられている。泥まみれになってでも、期限内になんとかしなければいけない。ここに来たのは、やむを得ずといったところだ。だから、それ以上のことはできない」
「どちらにしたって、ここまできた以上は、うちらとしても引き下がれませんね。もう、すでに乗り掛かった船ですよ。ここに写っている女性の正体、それをはっきりとさせるまで食いつきます」
カラー写真の女を、とんと指で突き差し、柄本は鋭い目を月岡に向ける。執念をのぞかせた、並々ならぬ気配。この男がスッポンのように食い付き、情報を追い求め回すのは確実だ。
月岡はゆるりと首を振り、立ち上がった。
「話し合いは、ここで終わりにしよう。情報提供には、感謝したい。正規な意味での見返りなどはないが、ここまでのやり取りだけでもそっちには充分な収穫があったはずだろう」
「……もし、ですよ。彼女について、他の履歴を見つけたらどうします?」
柄本は月岡の手を引いて言った。座ってくれと強引に促す動きだ。しかし彼のひ弱な導きに身体が誘い込まれるはずもない。
「そちらで勝手に処理すればいいだろう」
突き返すように言った。
「その人物を知る上では、うちらほど都合のいいところはないですよ。後悔はさせません。連絡させてくださいよ」
柄本の名刺らしきものがスラックスのポケットに無理矢理ねじ込まれた。
「こちらから掛けることはない。そんなことをされても困る」
「あれですよ、警視庁の方に掛けて、月岡さんを呼び出すことになりますよ。そうすると、内部の人に巡回した分だけ、他人に迷惑が掛かります」
「問題ないさ、月岡という人間など、本部内にはいないからな」
自分の正規の名前が登録されているのは、クリアランスを持った一部の関係者だけが操れる極秘データベース内だけだ。それ以外の登録簿には、自分の名前はない。どこにも存在などは確認できない。これは、公安要員ならではの特殊な雇用形態であった。
月岡は戸口に向かっていった。
「いまのそれで、あなたの身分がどういうものか、確信を持ちました」
彼の声が、月岡の足を止める。
振り返った先には、柄本の不敵な顔があった。
「あなたは、公安部の人間ですね。どこの部隊なのかまでは分かりませんが、そこまで割れれば、充分ですよ。あなたの正体を少しずつ、明らかにすることができます」
思わず、秘撮されていたことの失態が思い出された。しかも内偵中だった可能性があるワンシーンだった。逆監視の屈辱。ここで彼を敵に回し、また新たな失態を重ねてしまうようなことは避けたいところだ――。
しかし、どういう状況であれ、公安要員であることの誇りを捨ててはならない。それは、組織全体が共有している感情だ。
「残念だったな、俺はそういった人間じゃない」
月岡はその場を颯爽と立ち去った。
會伝社の入ったビルから出た後は、ひたすら早歩きで一人になれる場所を探し続けた。細い道をたどっている内に民家の集中する区域に入り、その先で見つけた空き地に足を踏み入れた。
まず最初に連絡したのは、遊軍の男――保阪だ。
青山のクラブと、プリマヴェーラのことを伝え、そこに所属していた従業員を洗うよう頼み込んだ。相手からの見返りとして、この任務がはじまる前に担当していた小見について、いくつかの進展があったという情報を授かった。小見が、MI6のエージェントである事の確かな証拠は依然として掴めないものの、外堀は着々と埋められていた。本来必要性のない横の広がりがあり、そこに何人かの官僚と、マスコミ関係者が噛んでいる。
月岡は頭を整理したところで、キャップの中西につないだ。一先ず、彼に進捗具合について説明にくれる。
「なるほど、そこまで分かったなら、直に女の顔は割れる」
中西は気のないように返してから、次に、守村の不祥事の件について話題に取り上げた。
「守村関連のトラブルについては、良く知っている。内閣官房副長官とあらば、重要ポストだから無関係ではない。だが、我が方で相手の女について調査しろというような指示は確か、出されるようなことはなかったはずだ。というのもその時、あくまで私事というような取り扱いを越えることはないと判断されたみたいだからな」
政府の要人が何者かにつけ狙われた場合、援護する用意がこちらにはある。それが本人の身から出たさびだった場合、介入理由が失われ、どうにもならなくなる。守村の件もそうした範囲外でのトラブルだったようだ。
「その女が今回の件と同一人物であるなら、要注意人物であると認定できる。間違いないんだな?」
「間違いありません。自分のこの目で関連の資料を見てきました。しかし、その資料を提示してくれた企業からちょっと厄介な干渉を受けてまして、困ったことになりました」
月岡は會伝社であったことの一部始終を話していった。芸能事務所顧問を務めている黒幕的存在、山科の紹介で出会ったことから、柄本とのやり取り、彼の事務所まで出て行って、提案された協賛の話……。何より、會伝社がどのような会社であるかを伝えるには、念入りな説明が必要となった。
「會伝社……何度か、事務所襲撃を食らって、我が方の世話になっているところだったはずだ。過去に我が方の管理情報についての漏洩にたずさわったというような指名企業入りはしていないが、充分、注意しなければいけない所であるのは間違いない」
「前情報を押さえず、つい勇み足を踏んでしまったようで……すいません。お詫びいたします」
「構わん、そのまま直進してもらって結構だ。突きつけられている向こうからの挑発だって、気にするな。お前にはいつだって、我らというバックがついている」
彼は言葉を切ってから、口調を変えてつづけた。
「そうそう、さっきの報告で気になったワードがあったよ、それは、青山のクラブ――そう、スカイヒルズの件だ。そこで催されたレセプションには、我が方からも何人かがお忍びで潜り込んでいる。当然、おれも出ていったことがあった。お前はまだ若いから管理ファイルからの情報でしか知らないんだろうが、あの場所にはエージェントが何人も転がされていて、目の前で堂々と情報を売りさばかれていた」
「今、話の流れを訊いていてふと思ったのですが、もしや、その時、大使館の関係者も出席したりしていませんか?」
問うと、電話向こうの気配が止んだ。深い思案に暮れだしたらしい。次に聞こえてきたのは、少し興奮が混じった声だった。
「なるほど、そうか。こういう形で、小見と通じる線が出てくることになるわけか……」
どうやら、彼に月岡が思い描いていることの過程が通じてくれたようだ。
「小見自身がそのクラブの会員という可能性も否定できません」
月岡は気を緩めずに言った。
「……それはないだろう。格式が高すぎる。青山のスカイヒルズ・パートナーズというのは、本当に選りすぐりの人間しか出入りできない要人専用のクラブだ。おれが覚えている限りでは、入会金と入会預託金というのが、合わせて二百六十万ほど必要なんだ。年会費がその一割の二十六万ほど掛かる。小見は、まだ三十四と若い男だ。一介の通信記者がどうしてそのようなところに所属できる? 例え、その筋のコネクションがあったところで、無理だろう。会員費は割安にならないのが原則だ。どう考えても厳しい」
「無知を承知で伺いますが、入会はお金さえ工面すれば入れるところですか?」
「そういうのは、たいてい一名から二名以上の会員からの推薦が必要だ。そればかりではない。運営の会社の審査が暗黙で行われる。スカイヒルズの場合は、ゼネコンのファステックグループだ」
「いずれにしても、小見の持つパイプがそうしたグループと繋がっている可能性は高いはずでしょう」
「そのグループについて、強引に理由をつけようと思えば、すぐにでも監視対象者を何人かピックアップすることはできる。しかし、そうすることに意味はない。観察室も我らの手の内を読んでいるはずだからな。一週間の猶予をさらに伸ばしてくれるようなことはまずないだろう。できれば、彼らの要求どおりに、その期間内に片付けるのが理想的だ。それができれば、我らの沽券が守られることになる。何にせよ、当面の所、おれは彼らと交渉を続けることになろう」
「ご迷惑をおかけします。自分は、期間内に女の正体を明らかにし、彼女の意図を問い質してみせます」
「その、お前が先に言った會伝社だったか? どうせなら、そいつらにも餌をくれてやったらどうだ。恩を売っておくということだ。言っても聞かないような連中なのだろう? だとしたら押さえこむよりも、接近するふりをしていた方が得策なのかもしれん。むろん、要注意企業だから、付き合いはうわべだけだ。それ以上のことは何もない」
「問題は、どのような餌を与えてやるのかということに尽きます。奴らが希望しているのは、あくまで我らと同じ女の情報でしょうが、本当のところを言えば、自分が陥れられています今回の案件について、一から十まで明らかにしたいというのがあるようにも思えます」
「それを、得てどうするつもりなんだ? 組織全体を侮辱しようという腹か?」
「まあ、きっと、そのようなものではないか、と」
その発端は、あくまで自分なのだ。だから、月岡は話が進行する横で、気持ちが委縮するのを感じていた。
「そのようなことはさせん……と言いたいところだが、仮にやられたとしても、奴らにとって金になるとも思えんし……、ここはちょっと謎が多いな。まあ、リスクを承知でいい顔をみせてやれ。後から手の内を返したら、そのときはその時だ。そうそう、おれからの命令だからといって、妥協しなくてもいい。お前なりの付き合いで結構だ」
「分かりました。奴らとは、ほどよい距離感で付き合っていこうと思います」
連絡は終わった。
月岡はもう一度保阪につないで、プリマヴェーラの情報を求めた。その会社は、六本木の方に移転していたが、しっかりと存在していた。しかも、年商をバブル期と同等かそれ以上に伸ばしているということだった。
5
プリマヴェーラの事務所が入っているのは、高層ビルの二十七階だった。イベント支援企業はサービス業に属する。実務中心の会社の割には、構えられている事務所は清潔で、広々とした空間が保たれていた。一般の企業とさして装いは変わらない。
そうした印象のギャップは、代表取締役の女についても同様だった。水商売の女にありがちな派手な装いなどは、どこにも見当たらなかった。それどころか、穏やかな顔つきにセレブ特有の高貴さを漂わせている。控えめなピンクのスーツ。生地も、無難な粗織りの木綿だ。そのまま何かのセレモニーにも参加できそうだ。
名前だけ名乗り、月岡は彼女に写真を示した。
「このお方を、あなたは御存じですね?」
彼女は頬に手を柔らかく当てたままに、こくりとうなずいた。
「……はい」
困ったような気配がある。それもそうだろう。彼女は問題を起こして、会社を追い出されたような故のある女なのだ。
「四年前ほどに、あなたが会社から追い出した、つまりクビにした女性ということで間違いないでしょうか?」
彼女は気が入らないぼんやりとした様子で、もう一度うなずく。持ち上げた顔には、訴えかけるような表情があった。
「あの子は……何かを、やってしまったのでしょうか?」
「いえ、今ここでお伺いしたいのは、当時の彼女の事だけです。まず、確認ですが、彼女の名前を教えていただけますか?」
月岡は丁寧に問いを差し向けた。隣では、保阪が登録名簿を引っ張り出して自ら情報を求めていた。今回彼女から吸い上げた情報をそれでもって照合する流れとなっている。
「花笠絢さん……。彼女のことは、よく覚えています」
花笠絢――
ようやく女の名前が判明した。ここが第一歩というやつだった。名前さえ分かれば素性は少しずつ確実に紐解いていける。
「クビにしたのは、週刊誌に書かれたような、不祥事が原因だったということでいいですね?」
彼女は顎を引いたままに、月岡を見ていた。やたらと警戒しているような節が所々に見受けられた。
「そうです。……それであなたは、そのことについて被害を受けたお方だったりするのでしょうか?」
「いえ、そういうのはありません。ご安心を。自分は、事件のことを調べているというだけにすぎません。聞くだけ聞きましたら、早々に退出いたします。不祥事を起こした時のこと、できるだけ詳しく教えていただけませんか?」
「例えば、どのようなことを聞きたいのでしょう?」
彼女は改まって問うた。
「発覚に至るまでの経緯。その後の、彼女の変化、行方……そのことにまつわる全般です。そこに絞られたものなら、実際、どのようなことだって構わないわけです」
「発覚となりますと、それはずっと後のことになりますね。そうです、週刊誌で例のことが取り上げられました時、ようやく分かったんです。そのう……政治家のお方が騒ぎでいやな注目をされはじめた頃、まだその相手が彼女であるだなんて、誰も分からなかったのです」
「発覚のきっかけは、週刊誌ということなんですが、週刊誌には彼女の名前は掲載されていないはずですが……」
「彼女宛の特殊な手紙やら、電話、そういうのが日ごとに多くなっていったわけです。どうも何かに巻き込まれているみたいだ、と。本人を呼んで直截問い質したのですが、それでも明瞭な答えというやつは得られませんでした。そこで、彼女宛に掛かってきた電話を私が受け取って、直に事情を聞いてみたのです。相手は詳しいことは言いませんでしたが、まあ、特定の政治家を支援する後援会の関係者みたいだったんです」
「なるほど、それで肝心の相手が誰か、分かってしまった、と」
「そういうことです。もっとも、それだって早い対処だったわけなんかではなく、私が気付いた頃には、もうすべてがどうにもならない段階になっていたのですが……。ともかく情報収集の失敗だけは認めなければいけないようです。それは私の過失でもありましょう。
と、そんなことよりも、刑事さん方が気になっている事をお答えしなければいけませんね。次に取り上げなければいけないことと言いましたら、私の立場から鑑みて、どうしても解雇云々の事になりましょうか。その点について私から先に申し上げますと、理由の如何を問わず、流れからして当然の処置といった所だったはずです。
と言いますのも、私が預かっています業務というのは、信用が第一ですから、尾を引くような要素はどうしても、そのままにしておけない事情があるのです。あの子は、規定を犯してしまった……だからこそ、この処置はやむを得ないことだったのです」
あの子を信じてあげたかったのだというのが、自分の本心なのだ、と彼女は口惜しそうに内心を打ち明けた。
月岡は彼女に配慮してある程度の間を置くことにした。が、切り込む内容については、やはり妥協などするつもりはなかった。
「それで、発覚するその日までの彼女の様子はどんな感じだったのでしょう?」
「いつも通りですよ」
「まったく、それを気づかせないような態度を貫いていた、と」
「そうですね、まったく分かりませんでした。普段どおりだったと思います。いつものように出勤して、いつものように挨拶してあがっていく……そうだったはずです」
民事訴訟でやってきた彼女の一連の所業を思えば、普段の素行にそうした素振りを見せなかっただなんて、かなり徹底している。神経がかなり太くなければ、こんなことは為し得ないように思える。いずれにせよ、花笠は裏を持った女という見方で間違いないのだろう。
「彼女は、解雇に至るまで何か言っていましたか?」
「特に、これといったことは……。礼儀だけはしっかりしている子で、ご迷惑をおかけしましたとか、これまでありがとうございましたとかそういうことは、すごく丁寧に言われたことは覚えていますけれど」
「相手の政治家については?」
彼女は月岡の目を捉えたまま、はじめて首を振った。
「何も口にすることはありませんでした。トラブルになっている……ただそれだけです。もしかしたら、誰かに騙されてこんなことになってしまったとか、そういうことなんじゃないのかなとは思いましたけれど、彼女が何も言ってくれないのですから、実際どうなのか何も分かりません。私としましては、そういうことをする子だとは思っていませんし、そんなことで頭が回るような子でもないとは思っていますが……」
彼女の後ろには誰かがいる可能性がある。
そういえば、合成写真は彼女一人では、こしらえられないのだった。鑑識室の小野木がレクチャーしてくれたとおりに、例の写真が計画に基づいた意図的なものだったとしたら、最低、撮影する男が彼女の側に存在していなければいけない。
「とにかく、要領のいい子ではないんですね? つまり、店にとっての稼ぎ頭とか、看板ではなかったと」
「器用さはなかったと思います。その分、それをカバーする分だけの美貌があったのは事実です。彼女と言えば、それでしょう。ただ、御存じの通り、こういう仕事といいますのは、美人であればそれで無条件に客が取れるというわけではないんです。やっぱり、サービス精神を心得ている、その上で自分に自信がある人が、一番お客さんを集める力を持っています」
花笠は、店にとって一番人気という存在でもなかった。そんなことがあるのだろうか、というのが正直なところだった。従業員が多ければ多いほど、彼女は際立った存在でなければおかしい。彼女があえて控えめに振る舞っていたという可能性が、少なからずあるように思えてきた。
「それで、彼女は何年、あなたの所で働いていたのです?」
「三年ぐらいでしょうか」
「相手の政治家さんについてだって、あなた自身、彼女と同じぐらい知っているということでいいんですね?」
「一応、当方の会員様でいらっしゃられることは把握しておりましたが、直截的な意味では、接触したことはございません」
彼女は言い、それから弁解をするようにつづけた。
「スカイヒルズ・パートナーズのパーティー会場には、毎回、千人近くの会員様がたがいらっしゃられます。皆様、それぞれ仕事に追われているお方ばかりでして、毎度出席というわけにはいかないようです。そうです、その会ごとに出席される顔ぶれは異なっています。ですから、特定の一人とお知り合いになるというのは、とても難しいことなんです」
「それは、あなたが管理職に就く人間だからでもありましょう。サービスを提供する従業員に至っては、その限りではない。そうですね?」
「一応、社内規定には、特定の個人様と業務とは無関係の交流を持ってはならないというのが、あるのですが……。私自身、あの子が例のお方と必要以上の接触を繰り返していたとは、知りませんでした。他の従業員にも証言を求めたのですが、誰ひとり把握している人はいませんでした」
かなりの隠密行動だったということだ。コンタクトを取ったのは、彼女からだったのかもしれない。そうでなければ、うまくいかないように思える。だいたい、守村は政治家なのだ。第三者から挙動不審と受け取られるような行為を極端に忌み嫌う。彼にとって都合がいいばかりの条件が彼女から与えられない限りには、罠に掛かることはないはずだろう。
「彼女の事は、だいたい把握しました。それでなんですが、現在の彼女について何か、見聞きしていますでしょうか」
「解雇の扱いですから、その後どうなったかだなんていうのは、まったく分かりません。特に、他の仕事を紹介したというわけでもないんです」
彼女の顔には、多少の困惑があった。かつて切り捨てた部下といえど、情の念はまだ持ち合わせているようだ。
「連絡先、住所。これについては?」
「個人情報保護法の規定に基づきまして、すでに登録簿は破棄しています」
「でしたら、ご友人を紹介していただくということはできるはずでしょう」
「友人、ですか?」
「三年も勤務していたのですから、同僚との付き合いはあったはずですよ。その人をちょっとお借りさせていただきたく思います」
彼女は迷った挙げ句に、名簿を取りに向かった。拒否をしなかったのは、捜査への献身のためなんかではなく、花笠への懺悔ということなのかもしれなかった。
プリマヴェーラの従業員の一人が紹介され、その女性と月岡は話し込んだ。彼女の情報を求めながらも、自分は安全な男だと伝えていく説得術。交渉は順調に進んだ。結果、彼女同伴の下に、当時住んでいた住所を訪ねることとなった。
彼女自身、花笠が会社を去ってから交渉が途絶えていたので、月岡という付き添いは再会を果たすのに前向きな材料だった。
神田川の畔に建つ、そのマンションは十五年前にデザイナーズマンションとして売られていたものだった。現在は投資家の手によってあちこちが改修され、かつての姿を失っている。花笠はすでに退去していなかった。これはある程度、予想していたことだ。月岡は女性を帰し、一人になったところで保阪に電話をつないだ。
彼は花笠絢の情報をおおまかにながら掴んでいた。情報は大筋で月岡が掴んだものと一致していた。旧住所を伝えると、彼はそれが彼女の尻尾を捕まえる有力情報になる、と言った。
「あと、そっちに面会の要請が入っている」
「誰だ?」
「写真の件、と伝えれば分かるということだったが?」
小野木だ。初期鑑定の結果が出たのだろう。時間が押しているだけに予定どおりに報告を上げてきたことに感謝をしなければいけなかった。
「分かった、一旦、本庁のほうに戻るとする。何かあれば、連絡を。そちらに顔を出す」
「了解」
月岡はタクシー乗り場まで一目散に走った。
第二章
1
小野木は、鑑識班のミーティング室にて月岡の来訪を待っていた。戸口に立っているのを見つけるなり、彼は腰を起こした。近くの検証作業用の机に並べた三枚の写真にライトを照らしつける。
「どうも、今日も朝早くから、あちこち走り回っているとみえる。いまの状況で説明しても問題ないのだろうか。なんだったら、少しぐらい時間をおいたって構わない」
月岡は乱れていた呼気を、大きく深呼吸することで一気に整え直した。
「問題ありません。構わず、どうぞ」
小野木は月岡を試すように見た後、小さくうなずいた。
「だったら、説明に入る。短くカットした説明でいくとするよ。真贋の判定なんだが、まあこれは予想していた通り、合成写真ということでいいだろう。本当に微妙な判定だ。専用の器機を使わなければ、見逃していたことだろう。いくつかの箇所で、色の補整、陰の修正跡が見受けられた。おかしなところを逐一マッピングして、一つずつじっくり検証していくやり方を採った。これがマッピングについての考察書類」
彼はクリップで綴じられた報告書類を月岡の手前に差し出した。用紙十枚に及ぶ、三枚の写真の専門的な考察。まだ提出仕様になっていないので、所々に手書きの修正跡が見受けられるものの、内容は充分だった。補整レベルの微妙なニュアンスまでもが指摘されている。データ参考値を引用してまでの解析には、専門家ならではの独自の理論が展開されていた。
「先にも指摘しておいたとおり、陰の向きについては狂いはなかった。それは背景と人物の関係においても同じく言える。また、女性とあなたの陰の相似関係。これも大筋で一致している。これについては修正跡は認められなかった。ここに写っているあなたと女性の二人については、弄られていないという結論に達した」
「それでは?」
彼の確かなうなずき。
「撮影は同時期に、同じ場所で、しかも同じ撮影距離、角度、シャッター条件を保って行われたということでいい。これらは、ほとんど重なる二枚を一つにしたというような合成写真だ」
素人目では見破りにくい作品たちということが認定された。さらにはファイル加工を重ねることで故意に画質を悪くするというあくどい手段を使っている。これを仕掛けてきたのは、あからさまな挑発であったということが確実となってきた。
「五枚目をご確認いただきたい」
小野木の指示どおり、月岡は頁をめくった。そこには、背景の考察について詳しく書かれてあった。添付された検証写真にはかなりの赤入れがされてあった。修正されなかった箇所はもはやないというほどの勢いだ。
とくに女と並んで遠ざかって行く三枚目の写真に、最もマッピングの点数が多くあった。
「その三枚目の写真は重要だ。何といっても、遠景が映し出されているわけだからな。その遠景なんだが、検証をするごとに不自然な部分が多くあるということが分かった。特に、建物同士の関係性がおかしい。あなたは自己申告として、その風景には見覚えがないと言った。そうなってしまうぐらいに、風景が加工されたのではないかと睨んだが、その通りになったよ。おそらく象徴的な建物、器物などは消されているはずだ」
「なんと、そういうことだったですね」
風景というのは、たいてい目印になる物の位置関係を一つのパターンとして記憶する場合が多い。その目印を取り上げられた場合、その風景はなじんだものではなくなってしまう。顔のパーツをずらしただけの肖像写真が、元が誰なのかが分からなくなってしまうという錯誤感に近いものがある。面影が残っているはずなのに、最初のイメージが邪魔立てをして、それがその人であるとなかなか認識できないのだ。
「となると、三枚とも背景が弄られている、ということでいいんですね?」
小野木は検証用のライトを消した。月岡に視線をくれ、おもむろにうなずく。
「そうなる、三枚とも背景が変えられている。ここで、一つの矛盾が生まれる。あなたを隠し撮りした条件と同じ条件で女性を撮影するという手間暇を掛けていながらも、背景は弄るといった、いかにもあり得ない矛盾だ。これでは、時間を掛けて制作したものを自ら台無しにするようなものだ」
「なぜ、そのようなことをしたのでしょう?」
彼は一度首を振った。
「まったく、不可解だ」
月岡は考えた。
「でしたら、このような導きはどうでしょう? 彼らの狙いは写真を仕掛け、自分らを牽制することに違いありませんが、合成写真を制作するに当たっての焦点はまた別で、背景を弄ることにこそ、重きを置いていたのではないか、と――」
「背景こそが、焦点だった、と」
小野木は大きく息を吸い込んで、軽い咳払いをした。その目は、科学的考察に暮れている。
「意図的にそれを仕掛けたということか。それでいくと、また別の見方をしなければいけなくなってくるな。はて、なんの目的があって、そのようなことをしなければいけなかったのか……?」
「それには、鑑定の順番が関係あるのではないでしょうか」
月岡が追加で言うと、小野木は興味深そうに目を光らせた。
「……そうか、そういうことか。たしかに、合成写真の初期鑑定というのは、人物から見ていくのが一般的なんだ。人物にできる影というのは、何度も検討材料にされているから、これから見ていくのがもっとも手っとり早い。とくに、顔なんかを見る。目、鼻。こういったものは、起伏が強くある。だからこそ、反射の条件がよく表れやすい……」
月岡も少しだけ小野木が考えていることの筋が見えてきた。
「つまり、人物の顔を第一に見ただけで、合成があるかないかの判定をしてしまう場合がある、と」
「そうなんだ。合成の鑑定は数が多いからな。初見だけでそう見なしたものについては、あとはそう詳しく見ないままに受け流してしまったりする」
この写真を仕掛けた人物はどのように鑑定がなされていくのか、その手順について少なくとも分かっている男のはずだった。それを踏まえて今回のこれが制作されている。
「それでは、初期鑑定を誤魔化すために、これをやったということでいいんですね?」
月岡は結論を求めた。しかし、彼は思案げな様子を保ったままでいた。
「仕掛けについてはそうした狙いがあったということでいいだろう。しかし、そのことが直ぐさま写真が送られてきたこと自体の目的でもあったということにはならないと思う。もう少し、考えを進めていこうじゃないか」
「それでは、失礼して、自分に合わせてもらいたいのですが……、と言いますのも、合成写真についてまだちょっと分からないことが多くあるのです」
「かまわない。そっちから聞くとしようか」
「まず、弄られた背景、これについてなんですが、元の景色がどうであったかは、データを手に入れない限り、どうにもならないものなのでしょうか?」
「データを手に入れたところでも、無理だろうね。すでに加工された後なのだから、どうにもならない。ただ、再現についてはまったく不可能というわけでもないんだよ。例えば、五枚目の書類に添付された写真のコピー、それに注目してもらいたいんだが、点線で示した部分一帯がごっそりすげ替えられる、あるいは塗りつぶされるといった加工が成されている。つまり、そこに何かがあったはずなんだ。こういったものは、イメージで補ってもらうことで、なんとかなるはずだろう」
小野木は月岡が遠ざかって行く写真を取り上げ、手前の近景の一部を指差した。
「特に、ここの修正された跡を見てみて欲しい。マッピングの形で何か見えてこないだろうか? 大きさの比率からして、ここには消火栓があったのではないかと思われるんだが、仮にそうだとすればそれをイメージすることで君の中で重ねられるはずだ」
月岡はなるほど、と思った。
そうして一個ずつ、消されたものを組み立ていくのだ。点線が示す場所にあったであろうものを継ぎ足していくことで、また別の風景が造り上げられていく。それでようやく、記憶の風景が呼びさまされることとなる。
月岡はあらためて三枚の写真を見比べ、自分の記憶に呼び掛けてみた。長い沈黙。小野木は物音一つたてずに見守っていた。集中力と、根気が必要な駆け引きだった。時間が流れるのがやたらと遅く感じられる。想像力はなかなかに膨らんでくれなかった。しばらく経ってから息を止めてしまっていることに気付き、月岡ははっと我に返った。
息を吐き出すと、そのまま高めていたものが切れた。根負けするといった感じで小野木に対し、首を振った。
「どうも、思い出せないようだね」
「すいません、何かが引っ掛かっている感じではあるのですが……」
「何にせよ、ここで一つの結論が導き出されることとなった。やはり、初期鑑定を誤魔化すための仕掛けなんかではなかった。むしろ、あなたの目を誤魔化すためにこれをやったのだ。そう、写真はあなたが目を通すことが前提で造られているということだ。この事実が意味することは、あなたを写したものが合成のベースにされたということなんだ。この事実こそが彼らの隠したいことだったのかもしれないね」
「だとすれば、実に手が込んだものということになってきましょうか、これは……」
この写真は、特命で監察室の方に送りつけられた。月岡を名指しした中傷文が添付されるというようなことこそなかったものの、特定の個人を攻撃するのに充分な破壊力があった。
監察室は、この写真を放置することはできない。
審査、検証の上で月岡を呼び出し、尋問の上で、写真を提示することは当然の流れだったはずだ。この時、写真は月岡の目に触れることになる。その際、不明瞭な回答をすれば、一発で立場が悪くなる。
――写真に映っている場所。それぐらいは、普通に分かるはずですぞ
小野木に写真鑑定を依頼する前、彼にそのようなことを言われた。
そうなのだ、普通に考えて、今回使用された写真が実際の自分を撮ったものだとしたら、自分がその時、行動を取ったとするその場所について、見覚えがないというようなことはあり得ない。
実は、これも罠だったのだ。
監察官の心証を悪くするための、二重トラップ――
「だとしたら、あれですね。仕掛け人は相当、やり手であるということになってきますね」
「ようやく、自分がおかれている状況が分かったようで。まあ、騙されたままだとかっこ悪いだろうから、ここからが勝負だよ」
「そうですね。自分はやりますよ。というよりも、すでに時間がないのです。どうあっても、いまは直進するしかない状況にあるのです」
小野木は同情するように軽くうなずいてから、自らが作成した報告書を取り上げた。
「これから、写真の場所についてあなた自身、検証に掛かるんだろうが、一つ言っておけば、遠くにある山、木、こういったものはすべて消されていると思ってほしい。というのも、空は変化が少ない単色だから、これで塗りつぶしてしまう方がやり口としては楽なんだよ」
「そういうことですか。それでは、近景といいますか、路面と一部の建物だけが、頼りということになってきますね」
「何よりのヒントは、視察結果報告帳簿、これだね。これを使えば、後は消去法で割り出していけるはずだ」
「はい、今、自分もそのことを考えていたところでした。ただ、それだけではまだ手掛かりが足りないように思えるのですが、もう少し追加のアドバイスをいただけないでしょうか?」
彼は月岡から顔を逸らし、うーん、と唸り声を上げた。
「それなら、天気の状態なんかを調べていく……というのはどうだろう? これだって一つの情報ではあるんだ。ここ最近の天気と言えば、特徴のある状況が続いていたように思える。お陰で近景の草木や、周囲の枯葉の状態はかなり乾燥しているから、もしかしたら、秋晴れが一週間近く続いた日なんかを注目すればいいのかもしれない」
「なるほど、そういうことですか。参考にさせていただきます。うまくいけば、早い段階で割り出しができるかもしれません」
月岡は言いだした途端、居ても立ってもいられなくなってきた。謝辞もそこそこに、鑑識室を飛び出した。自分の根城である十四階フロアに戻り、帳簿閲覧の許可を得るべく中西キャップの姿を求めた。
2
要警戒対象についての視察結果をまとめた報告帳簿は、クリアランスの必要なシークレット情報だ。作成担当の公安要員ですら取り扱いに慎重さを求められる。様式別に分けられ、人物照会、施設名簿、視察結果報告、解明作業進捗状況報告書、その他添付情報と続いている。一週間分の報告書だけで全体として一冊のファイルができあがってしまう分厚さとなっている。
月岡は小野木の指摘に従って、秋晴れが続いた日程に限定し、ファイルを持ち出していた。さいわいなことに、今年の秋は寒気が居座ることが多い天気がつづいていた。搾り出しはかなり効果的に進められた。
十月七日分の視察結果報告書を開く。
対象者、小見直志――
選定理由が綴られた後は、視察結果が横書きで順に並んでいるだけの簡単な模様となっている。変化が見られた時間ごとの記入。月岡は一つずつ、自分の中の記憶を呼びさましながら追っていく。
十時半 元本郷町交差点。
タクシーでの移動。(東麗ハイヤー)
十二時十分 同僚の大貫と合流。
八王子市内中華料理店『鵬龍』にて昼食。打ち 合わせ。
十三時七分 車輌(同僚と思われる)(品川42な1740)
十三時四十二分 大貫が下車、八王子2ー8変電所付近
十四時三十一分 下車 荻原橋付近
徒歩
十五時七分 東亜通信社八王子局入り
十五時四十五分 同八王子局出、南西、バスセンター方向。
この時、月岡の手が止まった。
小見が南西に向かいだしたとき、追尾がはじまった訳なのだが、この時の小見の様子が何やらおかしかったのを思い出したのだ。道に迷ってしまったのかと何度も思ってしまうほどに、歩行には相応しくない小道を突き進んでいた。
そうだ、ここだ、と確信を得る。
公団マンションが立ち並ぶ殺風景な景色。公園が多かった分、隠れ場所は多くあったはずだ。何より、築年数が進んだ建物だけに、入居者数は減ってきている。その模様を見届けていた証言者は極端に少ないはずだろう。隠し撮りをするには、絶好なスポットということでいい。
月岡は帳簿を綴じた。
資料室にしっかり戻してから、八王子に向かった。
小見を追尾していた、二週間前の自分が通った道。そこをもう一度辿るのだ――
3
写真を元手に三枚の写真が確実に重なる場所を探していく。すぐにでも判明するはずだと高を括っていたが、どうもそう簡単にはいかないようだ。
背景の合成はかなりの程度に、弄られているに違いなかった。どこを見ても、それらしき場所が見当たらない。だいたい、煉瓦敷きの小道といったものがエリアの中に存在しなかった。
その時、日除けカバー付きのベビーカーを引いた主婦が通り掛かった。月岡は彼女を呼び止め、写真を示した。
「こういったちょっとうねった小道のある場所を探しているのですが、見覚えがありませんか?」
主婦に、とくに煉瓦敷きの小道の模様を強く強調して写真を見せる。彼女は、首を巡らせてその模様をじっと見つめに入った。
「ちょっと、見づらいものなのかもしれませんが、ご容赦下さい。写真はこれだけです。これと同じ様式で作られた公園を捜しているのです。大きくても小さくても構いません。見かけたことがあれば、お教え下さい」
「もしかしたら、見当違いなのかもしれないんですけれど……、この煉瓦と同じ形状の小道なら、そこの空き地の向こう、ちょっといったところにあったはずです」
少し、自信のなさそうな口調だった。
追加情報としてその煉瓦は、全体として紫味を帯びた色調のもので、写真のものとは異なっているという。しかも、敷き詰められた範囲が狭く、その一部は地盤沈下の関係でめくれ上がっている。どうも、そのエリアは管理が行き届いていないというような、荒れた一帯らしかった。
「もしかしたら、そこかもしれません。とりあえず、行ってみるとします。情報ありがとうございました」
主婦に礼を述べ、月岡は指定の場所まで歩を進めていった。けっこう回り込むので、かなりの距離を歩かされた。直進に入った時、軒売住宅街の入口を示すアーケードが立っているのを見た。それでピンときた。
ここは、一度通ったことがある――
そこからは、写真にある建物探しとなった。一部分を大きく拡大するように撮ったのは、建物の外観を把握させないためだ。そんな細工など、先入観さえ排除すれば特に問題ない。
しばらくあちこち歩いていると、それらしきものが見つかった。意外と小さなマンションだった。その反面、共用の入口が大きく作られている。
モルタル造りのアプローチは、乾燥して黄ばんでいる。盤面に載ったままの小石たちと土埃から推する限り、往来の人間が極端に少ないことが分かる。段差になった部分の高い位置に立つと、煉瓦敷きのうねった小道がすぐ近くにあるのが見えた。疑いもなく、写真の景色の中にいた。月岡のボルテージが一気に上がる。
自分が写っていた場所を求め、それらしき位置に立つ。その地点から逆算して、カメラの立ち位置を求めた。
生垣の中だった。
枝が切られた箇所がある。そこがカメラの撮影道だ。内側すぐ傍に三脚が立てられたに違いない。
マンションの中に入り、表札が掛かっている家を訪ねた。八十は過ぎているだろう老婦人が出た。
「このあたりであったことについて、ちょっとした捜査をしている者ですが……御協力ください」
「捜査……ですか? 警察さんでしょうか?」
高齢の割には意思のはっきりとした人だった。
「まあ、そのようなものです。二週間前にこの周辺でうろついていた不審人物を捜しているのですが、覚えはありませんでしょうか?」
「二週間前……」
老婦人は頬にぺたりと手を当てた。
「それぐらいになると記憶がはっきりとはしませんが、ぱっと思い出すに、そのようなお方は見ていないと思いますが……」
「普段見かけない人間でいいんです。そうそう訪問販売をやっているセールスマンなんかは良い例ですよ。あと、何かの広告業者さんのような人でも構いません。とにかく、このあたりを通ったここらの人間でない者であれば、誰でもいいのです」
少しの黙考があった。そういえば、と前置きしてから彼女は言った。
「普段見かけない人と言いましたら、工事の人でしょうか」
「その工事の人、気になりますね。いつ頃、見かけましたか?」
「二週間前ですよ。家の前にライトバンの車を止めて、三脚型の……測量機というのですか? そのようなものを使って、ここらを調べていましたっけ。ちょうどお買い物に出ていまして、その帰りにそうした人を見たわけです」
カメラを測量機に仕立てあげ、カムフラージュしていた可能性は充分にある。いや、まったくその逆で測量機そのものにカメラの機能を搭載したパターンなのかもしれない。そういえば現在使用されている測量機には、レーザー表出器が搭載されている。これが使用されたならば、正確な位置を計算できるこの機能を、利用しない手はなかった。今回、合成写真を制作するに当たっては、かなり有効な装置だ。カメラが同位置で撮影しなければいけない条件を、寸分も狂いなしに再現できる。
「測量機を取り扱っていたのは、一名ですか?」
「そうですね、一人だけだったはずです」
「停められたバンのほうに、人は?」
彼女は口をきゅっと引き締めて、かぶりを振った。
「それは、確認していませんから……」
「では、測量機の一人について思いだしてもらいたいのですが、どのような人物だったのでしょうか?」
「男性ですよ。顎髭を蓄えています。まだ若いからでしょうか、なんだかお顔に似合っていないというような、感じの悪い印象を受けましたよ」
彼女は自分の顎を使って、髭の模様を身ぶりで表現に掛かった。かなり癖っけのあるうねりをしていたようだ。
「実は、自分はその人物を追っているのです。見かけました顔について、もうちょっと詳しく教えてもらえませんか?」
「ちらっと見たぐらいですからね、自信がありませんわ」
そう断っておきながらも、彼女は月岡の導きにより、口が動くままに人相について語っていった。一重の薄い目、潰れたような低い鼻ではあったが鼻梁は長く、全体が面長の態となっている。一方で唇は突き出ていて、髭とあわせて威嚇的な気配がある。
あと、もう一つと、月岡は老婦人に食い下がる。
「その時、近くに女性の姿があったと思うんですが、見ていませんか? そう、測量機が向けられたその先に彼女が立っていた可能性があるのです」
「それは、確認していません」
月岡は今度は、自分に問いかけた。
この小道を通っていくとき、このマンションの付近にライトバンが停まっていたのかどうか?
それは、なかったはずだ。いくら追尾中の所を監視に掛けられる失態を犯したところで、そのような不審車について見落としするようなことはあり得ない。こうしたことは報告書には必ず綴らなければいけない要素でもあるのだった。
「ちょっと、この写真を御覧いただけますでしょうか。自分が言っていますのは、この女性のことなのです」
月岡が写真を示すと、老婦人は引き取って念入りに眺めた。ここで誘導するように話を進めていくなど、余計なことはしない方がいいはずだった。彼女の判断こそを大事にしなければいけない。
「彼女かどうかは分かりませんが、遠くに人影があるのは見ていたように思えるんです。そうそう、一緒に写っているのはあなたですね?」
「そうです、自分です。当日、自分もその付近にいたのですが、なにぶん他のことに夢中でいまして、記憶がすっぽりないのです。写真の場所じゃないところも含めて、この自分とすれ違うようなことはありましたでしょうか? これは、その女とは別の行動と思ってください」
「最初にあなたのお顔を拝見させていただいたとき、いつかに見かけたというような感じは直観的にはありませんでしたけれども」
「そうですか、では、すれ違うようなことはなかったのかもしれません」
あくまで彼女が見たのは、女と、仕掛け人の男の二人組だ。自分とはニアミスをするところまでいったが、すれ違うまでには至ってない。
いや、ちょっと待てよ、と月岡は一旦思考を差し止める。
自分がこの通りを抜けていったときには、男の車は見かけていない。それなのに、女の撮影はまさにその日行われていたという。男女が腕組みしている合成を作るには、女の撮影は自分の撮影よりも後でなければいけない。ポーズの組み合わせの問題、合成する写真をえらぶ選定の問題、より確実に真実に見せかける技術上の問題……。すべてを総合すれば、どう考えてもその日のうちに、撮影できるはずもなかった。
おそらく老婦人が証言していることは、この付近を通りかかった十月七日以後のことにちがいない。
「すいませんが、先に二週間ほど前とおっしゃいましたが、具体的な日にちを特定することはできないでしょうか。買い物に出て行かれたのですよね、例えば、レシートなんかを取り置きしていましたら、日付が確かめられるはずです」
「それなら、ちゃんと取っておいてあるわ。ちょっと待っていてもらえます?」
十分は待った。
老婦人が持ってきたレシートは、案の定、十月九日の日付となっていた。撮影は別の日に行われた。それだけではなかった。時間が、十五時二十四分となっていた。これは、老婦人が徒歩で自宅まで帰る時間を勘定に加えたら、ちょうど、自分が二日前そこを通過した時間に符合する。
日付はずらしても、時刻は同じ日を選んだのだ。そうすることで、太陽の傾斜が作り出す陰についてまったく同じものを作りだすことができる。
「最後の質問です。この買い物の二日ほど前、あなたが見かけたライトバンがどこかに停められているというようなことはありませんでしたか」
「それは、分かりません。私がそれを見たのは、その日だけです。出掛ける日じゃないときは、外の景色さえ見ることはありませんねえ」
他の証言者を求めれば、それは見つかるだろうか。いや、その必要はないだろう。今回のこれは、花笠とそれにつながる男さえ見つけ出せば、それで終わりなのだ。裏を取る必要などどこにもない。
老婦人の元を立ち去り、本部への連絡を済ませた後、帰庁の準備に掛かった。その途上のことだった。月岡の携帯が鳴った。保阪からだった。
「花笠の現住所が割れた。新宿区の中落合だ」
なんでも各地を転々としてきた履歴があり、さらには何度も旧住所をつぶそうとした痕跡まで確認されたのだという。
「そうか……、いま八王子なんだが、これから中落合の現住所まで出ていこうと思う。初期視察でできるだけ情報を掴みたい。それで、今後の日程を決める。即刻、花笠の前に出て行ける材料など、今のところないんだろう?」
「まだ住所を割り出しただけだ。中身についてはこれからだ。初期視察にはこちらも応援として参加しようと思う」
「同居人がいる恐れがあるってわけなのか?」
「それは、分からない。登録情報を見る限りではいない可能性が高い。それでもいる場合が、ゼロではない以上、まだ油断するべきではないのだろう。何はともあれ、いくら時間の問題があるからと言って、早とちりするようなことがあってはならない」
一先ず、落ち合う場所を巡っての打ち合わせをした。ものの一分で決まった。二人がいる場所のちょうど中間点に位置する場所だ。公安には所々に中継点というのが設けられている。都内には、現在、少なくとも百箇所以上ある。個人要員がそれぞれ独自に見つけ出した、安全地帯。毎回スポットは変わるから、一度きりの利用となる。
月岡は携帯を切るなり、タクシーを拾うべく国道に向かって走った。焦りなどは感じていなかったが、実際そんな感情を無意識のうちに抱え込んでいるのかもしれなかった。花笠絢。その女の居場所が、こんなにも早く見つかるとは正直、思っていなかった。
油断するな――
保阪の言うとおりだ。自分は、こんなことで気持ちを翻弄されるようなことがあってはいけない立場にいる人間なのだ。呼吸を整え、冷静な感情のままに、すべてを解決しなければいけない。
月岡は走りながらも、出張ってくる自我を抑えつけつづけた。
4
花笠絢が引っ詰めている七階の部屋からは明かりが洩れていた。在宅している証拠だ。掛かったカーテン越しにうごめく陰を見る限り、同居者の陰はないようだ。視察を開始してから三時間、得られる情報は限られていた。
保阪が視察から戻ってきた。
「どうだった?」
月岡の問いに、保阪は即座に首を振った。
「駄目だ。動きはない。とりあえず、マンションのセキュリティのほうを確認してきた。管理人とかはいないようだ。セールス関係でも簡単に入っていけるだろう。エレベーターは使わない方がいい。昇降音がかなりうるさいから、人の動きが分かってしまう」
「それは、分かっていることだ。築年数がもう三十年を過ぎている。メンテナンスを充実させることでなんとかだましだまし動かしているといったところだろう。しかしなんだって、そんな古い物件なんかに暮らしているのか。守村からたっぷりと金をせしめたなら、もっといいところに住んでいたっておかしくはないはずなんだが」
マンションの外観は、決して悪くはないのだったが、すぐ隣に建っているオーナー系列が違うマンションが新築で造りがいいために、どうしても見劣りしてしまうのだった。
「もしかしたら、かなりの浪費家ですべて失ってしまったとか、そういうことなのかもしれん」
月岡は肩をすくめた。
「まさかとは思うが。それで、過去に借金の履歴があったのかどうか?」
「そういうのは、出てこなかったな。これから情報を求めていくにあたって、また別の顔が出てくるとも限らないが」
その時、マンションに近づいていく車の姿を見た。一時代古い型の、スポーツワゴンタイプ。徐行で進んでいたのが、門前を過ぎると塀に幅寄せする形で停まった。エンジン音が止む。男が降りるのが分かった。ちょうど外灯が照らす範囲外にいるので、まったく姿が見えない。
「誰だ?」
保阪が目を凝らしながら小声で言った。距離がある分、相手に気付かれる心配はない。
「分からん。だが、どこかで見たような気もするシルエットだ」
男は姿が明らかにならないままに、マンションの中へと消えていった。
「追おう。花笠の同居人である可能性が高いぞ」
保阪が身を乗り出して言った。それを片腕で制して、月岡は彼に首を振った。
「様子を見よう。なんだか、同居人にしては不慣れな行動だったように思える。だいたい、あそこに車を停めるのは、駐車違反だ。分かっていたらあの場所に停めることはしない」
「愛人かもしれない。やることを済ましてさっさと帰る気でいるってことだ。それぐらいだったら、あそこに停めたって問題はない。この一帯は、パトロール巡回コースから明らかに外れているからな」
「正味七分だ。それだけ待ってくれ。たぶん、男は引き返してくるはずだ」
「七分? また、中途半端な時間だな」
二人して沈黙に入った。設けたリミット時間はすぐに過ぎた。保阪が口を開き掛けたその時、男が玄関口に現れた。車のあるほうへと移動する。
「行くぞ!」
月岡が先に飛び出した。足音を極力殺した、疾走。男との距離がぐんぐんと狭まる。男はこちらの様子にまだ気づいていない。半分を過ぎた所で一気に差を詰めた。暗がりを走っているだけに、風になったような気分があった。彼の手がドアノブに触れたところで、勢いよく肩を掴んだ。
「なんなんだ、あんたは?」
強く仰け反った後に、うわずった声を吐き出したその男は、月岡の見知った顔をしていた。會伝社の柄本だった。
「なぜ、お前さんがこんなところでうろうろしているんだ?」
この時、保阪がようやく追いついて、柄本の背後についた。逃走防止の援護。これで柄本はもう逃げることができなくなった。
「それは、こっちの台詞ですよ、月岡さん。そちらもなんでここに来ているんですか? わざわざうちの方に転がり込んでくるぐらいに、情報に困っていたんじゃなかったんですか?」
彼の顔に余裕が浮かぶなり、卑屈さは深まっていった。月岡は掴んでいた手を離した。保阪も一歩身を引いた。
「もちろん、ここにくるまで随分と足と体力を使ったさ。これは、こっちの努力の結果にほかならない。そっちはどうなんだ? もしや、最初から彼女がここに住んでいることを知っていたのではないか?」
情報屋が、情報を出し惜しみするというのは、常套手段だ。それでもってずるずると引き延ばしては、金蔓の手段にする。
「いいえ、知りませんでしたよ。というよりも、情報を掴んだばかりだったのです。それで本当かどうか、こうして確かめにきたってわけです」
「適当なことを言うな!」
保阪が怒鳴った。
「いや、待て。信用したっていい。たぶん、こいつが中に入ったのは表札を確認にきたからだ。不慣れな動作に加え、車を停める場所の誤選択……すべては繋がっているんだ。それらは、はじめてここに来た者ならではの挙動だったと思う。これは最初の読みどおりだったってわけさ」
「とりあえず、いま、自分らは同じ立ち位置にいるってことでいいですね、月岡さん」
柄本が割り込んで言った。
「競争をするつもりなどはない。あと、我らの領分に干渉をすると、お前自身の立場が厳しくなると思った方がいい」
警告が通じない相手であることを、言ってから思い出した。案の定、彼は月岡の言葉をむしろ好意的に受け止める気配を見せていた。
「そんなことよりも、どうして自分が彼女の居場所を特定できたのか、興味がありませんか?」
「教えてもらおうか。お前さんが語ってくれるというのなら」
柄本は人懐っこい微笑みを投げかけてきた。
「一緒に話せるところに移動しましょうよ。なんだか、ここで立ち話をしたところで、腹を割って話せないような気がしてならないんですがね」
「だったら、その車に乗せてもらおうか。ここに停めていると駐車違反だしな。お前さんのためにもいいことのはずだ」
「乗ってもらって構いませんよ。もちろん、無闇にスピードを出すというような手荒なことはしませんから。というより内偵中だったんですよね、そっちのほう大丈夫なんですか?」
「余計な気遣いはいらない。仲間がいるからな」
月岡は保阪を見やった。彼は自分の役割が分かっていたように、うなずいた。そして胸を押さえつつ口を開く。
「自分に任せてくれ。しかし、その男を信用していいんだろうか?どうあっても我らに対し、協力的な人物とは見受けられない」
「問題ないさ。一度顔をあわせている男だ。何かあれば、こっちから潰しに出ていくつもりだ」
「相変わらずというか、付き合いにくい人たちですね、あなた方は」
傍で聞いていた柄本が苦笑いで言った。彼がドアノブを引くと、車内灯が点った。運転席のシートに身を滑らせていく。その途上で言った。
「乗って下さいよ」
月岡は無言で助手席に乗った。車は、南方面へと向かっていった。
5
柄本が選んだ店は二十四時間営業のファミレスだ。安さと豊富なメニューに定評がある庶民派向けの店。時間帯的にサラリーマンの姿があってもおかしくはなかったが、店内は空いていた。
「彼女の居場所を特定できたのは、とある情報筋からそうした連絡をいただいたからですよ」
二人が腰かけるボックスシートは座席が固定式になっており、自由が利かない分お互いの姿勢がぎこちない風になっている。
「その情報提供者が気になるな」
「その人のことを、月岡さんは知っているはずですよ」
頭を軽くひねるだけで、その答えはぽろりと転がり落ちてきた。
「山科か?」
「そうです、彼です。今日という日までに何度も連絡を取りあっていたんです。それで、そのたびに情報提供を受けていたんですが、あいにく、どれも外れで……五回目にしてようやくビンゴですよ。ところがどうでしょう。中に入って花笠の名前があることを確認した途端、今度はあなたに捕まってしまうじゃないですか。まったく、自分って運があるんだかないんだか……いやになってしまいますねえ」
まるで笑い話のように言う。追いつめられてばかりいる編集人生だったからこそ、今回のこれだって状況を逆転させ、自分のチャンスにしたいとでも思っているのかもしれない。
「山科とは、深い繋がりがあることは分かっているが、その手の情報を授けてくれるには、やはりただとはいかないのだろう?」
「そうですね、そこは情報料が取られますよ。向こうも、商売ですから。そこらはこちらも割り切っていますから、問題ないんです」
そういえば山科は覚えのある女性について、過去のタレント年鑑を浚っては掲載情報を確認次第、連絡を差し上げると言ったきり音沙汰がない。あれは社交辞令というやつだったのだろうか。
「付き合い方のルールってやつがそっちで成立していたところで、四回もの外れ情報を掴ませてくるあたり、見過ごせないものがある。山科って男は、金にうるさい男なのか?」
「そんな感じじゃありませんよ。大手プロダクションの顧問をやっているぐらいですから、お金に困っているというような人じゃありません。外れ情報といっても、嘘を言ったわけではありませんよ。月岡さんも押さえているかもしれませんが、花笠は何度も転居を繰り返しています。その古いやつが、よこされたというだけに過ぎません」
タレント年鑑から得られる情報は限られる。所属事務所にプロフィール、その他、活動内容といったところだ。住所までは特定できない。しかし山科ぐらいだったら、持ち前のコネクションでこれまでに重ねてきた住所の履歴というやつを一個ずつ遡及できるのかもしれなかった。今回、掴んだのが古い情報だったのは、使ったコネクションが花笠の関係者に限定されたためだろう。
いずれにせよ、山科とは連絡を取らなければいけない。彼にこれまでに沈黙していたことの理由を問い質し、事情を押さえなければいけない。
「花笠についてなんだが、彼女は女優という扱いでいいのだろうか? 情報提供者が山科だったということは、その線は固いように思える」
「正確に言いますと、女優というのは名ばかりのものです。彼女を雇用しているイベント支援会社がサービスを提供する従業員の格式を上げるために、小口の事務所を設け、そこに登録させては女優という肩書きを与えていただけです」
「そういうことか。では、女優としての活動は一度だってない、と」
「そうだと思いますよ。ですが、実体をもたせるために、それらしい活動をやらせたというようなことはあるかもしれません」
イベント支援会社『プリマヴェーラ』の、あの代表取締役婦人。彼女は、実は裏ではあの手この手を使っているというような、策士だったのだ。もしかしたら、快く接見に応じたことだって、そうした裏を掴ませないための一つの作戦なのかもしれなかった。
「そうした情報も山科から授かったというか、買い取ったんだろう? その他に、何か見聞きしたことはあったはずだ。情報というのは、ある程度量がないと売りものにはならないだろうからな」
「ご明察です。……まあ、他にも情報は得ています」
彼は頼んだコーヒーフロートをストローで混ぜながら、にやりとした。実は、ここまで呼び付けたのは、彼がいま抱えている本命情報があったからだ。
「それを引っ張り出すには、こちらからも謝礼が必要ってことか?」
「そういうのは、要りませんよ。自分がいま望んでいるのは、こないだ要求した件、それだけです」
花笠を巡っての協力体制。
彼と組んでも、公安側にはいいことなどは何一つない。それは、今のこの時点も変わらない。しかし、状況は変わってきている。一度、中西キャップの耳にこうした情報を伝え、適当にあしらえと指示を受けたのだった。
いま裁量は、自分の手中にある――
「問題は、そちらが握っている情報というやつが、どれほどのものかということに尽きるな」
「信用してもらっていいですよ。花笠絢の経歴に関することです。実は、守村元内閣官房副長官ばかりが彼女の毒牙に掛かったというわけではなかったのです」
「まだ、過去があったのか?」
「素性が判明してからこちらも動きました。それで、いろいろ裏を取っていたのですが、その過程で握った情報が真実であると理解するのと同時に、詳細を押さえました。――ここまで話したところで、続きを聞きますか、止めますか?」
条件を呑むかどうかを、彼は問いかけている。
ぎりぎりまで拒否を示して駆け引きに応じたいところだったが、その手の術策は彼の方が一枚上手のようだ。まるで、強く出ていけない。
「聞こう」
月岡が前にのめって言うと、彼からの快い首肯があった。
「では、話します。これは、守村を潰してから二年後の情報なんですが……、外務省領事局に所属する一人の男に狙いをつけています。名前は、錦谷祥一。どこで拾い上げたのかまでは分かりませんが、この男の愛人になり、守村を潰す手法と同じ方法で、やがてこの者を追いつめています。寝物語という口実ででっちあげたものをつらつらとぶちまけ、民事裁判において泥沼抗争に陥れるやり口です」
「錦谷……知らんな。こちらでは、まだ浮上していない男だ」
「それは、良かったですね。それこそ、ぼくとここまで付き合うことの意味があったというようなものでしょうよ。彼は、やり手でではないものの、まあ頭の切れる男です。花笠とトラブルが起きる前の正式な所属先は、領事局の外国人課というところです。主に大使館出向組ですから基本、海外勤務です。調べましたところ、ちょくちょく日本に呼び出されていたみたいですので、周囲から相当な程度、目を掛けられていたことがわかります。当時は幹部補の一人として扱われていたということでいいのではないでしょうか」
「その海外というのは、どこだ。まさか、イギリスだったりしないよな?」
「あれ、何か引っ掛かったみたいですね。そうです、イギリスなんです。外交査証の発行責任者ということですから、あるいは、そこだけに限定するべきではできないんでしょうが、でも彼の場合、もっぱらイギリスに駐在することが多かったようです」
一番最初に追い掛けていた小見直志――
彼はイギリスの諜報機関、秘密情報部(MI6)の回し者である、E・ワイズマンのエージェントであるという疑義が掛かっていた。その決定的な証拠を押さえるのがその時の仕事なのだったが、ここでイギリスという部分で繋がることとなった。
これは、偶然ではないはずだ。
何かが、ある――
「ともかくイギリスが、キーワードなんですね?」
考え事をする月岡に、柄本が首を覗かせて問う。
「俺から口にしたことだが、そこにはタッチしてくれるな」
「中身までは教えてくれなくってもけっこうですよ。ですから、表面的なことだけは認めてもらいたいところです。でなければ、こちらとしても、もどかしいですよ。あなたとこうして顔を合わせていることの意味がないも同然になってきますからね」
小見の存在と、彼に通じるイギリスのSIS直下で働く、MI6の影だけは掴ませてはならない。世間にこの手の情報が流れるなんてことになれば、外交上の問題に発展しかねない。敵対的諜報活動などは世界中どこでも、当たり前のように氾濫している。日本も例外ではなく、常に各国の監視に晒されている。
公安要員が早期発見することでたいていは牽制で済むのだったが、一歩踏み出されてしまった場合は、外交ルートを通じて国外退去処分を出すことになる。マスコミにこうした事実を嗅ぎつけられれば、当然、両者沈黙のままでは終わらない。最悪の場合、政治問題にまで発展する。今回、目の前にいる男は、そうしたマスコミに通じていく第一線にいる男なのだった。
「そっちが思っている通りだ、とだけ言っておこう」
月岡が妥協して言うと、柄本の表情が緩んだ。
「まだ、もう一声ぐらいいただきたいところですね。こっちは、その錦谷についての情報をまだ抱え持っているんです。裁判の中身、それについて知りたいところでしょう? そうそう裁判といえば守村元内閣官房副長官からせしめた額については、すでに把握済みで?」
「その件は、もう一人の仲間のほうに任せている。俺のほうは、まだ押さえていない。というのも、今回の俺が動いている件と直截には関係ないことだからな。どういうことをやってきた女か、それだけが重要な要素だ」
「まあ、そう話を一方的に引き取っていかないでくださいよ」
と、彼は同情を誘うように言って、それから編集人の目つきを見せた。
「守村氏から勝ち取った額は、二千六百万ぐらいです。向こうも最初こそは争う姿勢を見せていたんですが、さすがに立場を考えて長期化はよろしくないと見込んだのでしょう。最後は、全面的に彼女の言いなりです。と、錦谷氏のほうは、それよりも額は劣ります。一千八百万ほどです。が、裁判としては彼の方が泥沼でしょう」
彼は語りたくてうずうずしているといった顔を見せている。泥沼裁判の中身。それは、彼にとって価値のある情報の宝庫といったものなのだろう。月岡にはやはり興味のないことでしかなかった。何より業務をこなしていくのに必要のない情報でしかない。
「泥沼の中身と引き替えに――と、お前さんは思っているのだろうが、それを俺はとくに望んでいない」
「我らの交渉は、ここまでだとでも言うのですか? このままでは、不公平ですよ」
「もちろん、情報を授かった以上、それに見合うだけのお返しはしなければいけない。そこでなんだか、一つだけ質問を受け付けようと思う」
この時、半分浮いていた彼の腰が、ゆっくりと下がっていくのが分かった。
「たった一つだけの質問ですか。これは、難しいですね」
「まだ、こっちの言い分は終わっていないぞ、聞け。質問と言ったって、何を聞いてもいいというわけではないのは、分かっての通りだ。まさかとは思うが、この俺に関することは聞いてくれるな。あと、背景にまつわるものすべてについても同じく言える」
「でしたら、こういう質問はありですか? 花笠絢は今後、あなたがたの手に落ちる可能性はあるのか、と」
質問の真意を測った。
この男は、きっとニュースバリューについて計算している。
「例の写真を見ただろう。あれは、工作だ。彼女が仕掛けたとは考えていないが関係者であることは疑いもない。何らかの事情を知っている可能性がある。少なくとも、事情聴取に踏み切るのは確実だろう」
「それで、どれほどの規模に拡がっていくのかは、これは答えられないのでしょうか? イギリスというキーワードだけではなんだか曖昧で……。まさか、国家規模とかそういうあれじゃないですよね」
月岡はしばらく黙って考えに暮れた後、静かに言った。
「……あえてここでお前さんの質問に回答するとしたら、お前さんがいま頭で描いていることの大部分は当たっていて、さらにはその中でもたちの悪いものが漂っているとだけは言っておこう」
彼は顔に喜色を満たした。
「そりゃ、けっこうな情報で。やる気がうんと出てきましたよ」
「一度警告する。余計なことには首を突っ込むな。我らの業務の阻害になるときは、このつながりは即座に破棄させてもらう。もちろん、お前個人に対しても容赦はしない」
「これから花笠絢に電撃訪問をしようと、計画していたんですがね……無理なんでしょうか?」
彼は頬を掻きながら、月岡のご機嫌を伺うように言った。
「もちろん、それは業務の差し支えになる。が、業界人であるお前さんの方は我らよりも短い時間に生きている。すぐにでも情報が欲しいところなんだろう。下手に抑制して、勝手な真似をされるよりも面会を増やして、密やかにながら連携する方が双方にとって、いいことなのかもしれない」
「つまり、許可を取れば大丈夫ということなんですね?」
「というより、花笠から何を聞くというのだ?」
睨みの目を利かせて、月岡は問う。
「過去のことですよ。重役の面々から合計四千万超もの現金を裁判で勝ち取った女……それ自体も充分おいしいネタでしょうが、その後の彼女というテーマも面白いですね。本人が開き直って今の生活を暴露してくれれば、謝礼は大いに払えるはずなんですが」
「そういえば、例のマンションはそんなに立派なものではなかった。本当にそれだけの資産を彼女は持っているのかどうかも疑わしいな」
「そうですよね、それは、自分も気になりました。ですから、例のマンションまでくるのにかなり時間が掛かったんです。え、あそこなのって思ったのが最初の印象です」
花笠絢は極端なまでの、浪費家だったりするのだろうか。いまだ素性を掴んでいないだけに、何かを想像したところで、その先に続くものは何もなかった。
「花笠の性格のほうが気になる。男がいて尽くすタイプだったりすれば、まあ最初から最後まで取っている行動は一貫しているということにはなるんだ」
「それは、泥沼裁判の中身について話せば分かることです。ここまで出し惜しみしましたがね、まあ勝手ながら、ここらで一部解放するとしますよ。彼女はあくまで錦谷と結婚する気でいたようです。愛人ではなく、本人としては恋人のつもりだった、と。イギリスにある拠点に戻る際、彼女も同伴したことがあったようです。その滞在期間は二ヶ月。これを錦谷が肩代わりしていました。その他、スイス出張についても彼女が同伴しています」
「錦谷当人はそれを認めているのか?」
「最終的には、そうであった、と」
「傍から聞いている限りには、本当に恋人だったようにも思えるんだがな。出張先にまで呼び出すだなんて、普通じゃない」
「彼女は最後までそうだと主張していたようです。裁判もその方向でまとめられたことから、そうでなくてはいけないんでしょうが、しかしこのぼくはそうはいきませんよ。今、せしめた金で私欲を満たしているとなればやはりこれは目的のある計画だったのだとなってきます。だいたい、二人もの要人クラスの人間に狙いをつけているあたり、下心は明らかで充分な計画性が窺えますでしょうに」
柄本は彼女の正体を暴いてやりたいという気持ちでいるのだろう。直截の訪問は、それが一番の目当てだ。
「ともかく、花笠はお互いにとって外せない存在であることは分かった。そっちも動きたいんだろうが、もう少し時間が欲しいところだ。情報を集めなければいけない」
「もう少し、となりますと、どれほどで?」
彼は言って、ストローに口をつけた。
「まあ、一日か、二日だ」
「それぐらいなら、大丈夫ですよ。そちらに合わせられます」
月岡は立ち上がった。そろそろ潮時だった。
「最後にお願いがある」
「なんです?」
「山科だ。彼と連絡を取って欲しい。月岡があなたに会いたいと言っていた、と」
なぜかしら彼は嘲笑めいた風に口尻を持ち上げた。
「おそらく、山科さんはもうあなたには会ってくれないと思いますよ」
月岡は口を閉ざし、彼のその表情をヒントに自分なりに考えてみた。
答えは簡単なところにあった。おそらく柄本に情報を授けたのは山科のはずだ。本来、月岡に授けるべき情報を彼を最優先に回して、そちらに意図的に流した。これは工作などではなく、彼ら二人のあいだにある一種の取引が成功した形だ。
柄本は情報を得るその見返りに、ある程度掴んでいた月岡の身分を晒した――そういうことなのだろう。
「どうやら、こっちの信用をおとしめるような行為をお前さんはやらかしたようだ」
「いえいえ、これはお互い様というやつですよ。ぼく自身、まさかこんな風にまたあなたと再会し、対等な立場でお話しできるとは思っていませんでしたからね。あの時、月岡さんが少しでもこっちになびく気配を見せてくれていたら……また、違っていたと思いますよ」
柄本たちとの付き合いについて、中西から自分に裁量が預けられたのは、その後のことだ。だから、あの時は突き放すような態度で間違いなかったはずだ。こうした結果は、ある意味必然的なことだったと言ってよかった。
「それで、もうどうにもならない状況なのか?」
「おそらく」
彼には、交渉役を買ってでたいという意思はないようだった。観念するしかない。
「分かった。この件については、忘れてくれ。自分のほうでなんとかする」
「もしや、強引なやり口で接触していくつもりでしょうか。だとしたら、それもよした方がいいと言っておきますね。彼は、職務上、トラブルの対処法について詳しいと言いますか、まあ術を心得ているんですよね。公安部という大きな所に所属している月岡さんにしたって、それは例外ではありません。不当捜査云々を掲げ、うまく名誉毀損に持っていくことでしょう」
下手に手を出すべき相手ではないということだ。山科は芸能界の裏事情に通じている男だ。警視庁の一部と通じている事実もある。ある程度の権力者なのだから、それぐらいのことをしてもおかしくはなかった。
どうあっても、山科に対し行動を起こすのはちゃんとした口実ができたその時だけだ。
「せめて、伝言だけでも頼まれてくれないか?」
月岡はそっと言った。
「どのようなことです? 先ずそれを聞かないことには、なんとも言えないですねえ」
足下を見るような、そんな気配がある口調だった。
「自分の心証をみすみす悪くするようなことは、よしとけ、とな。ただそれだけだ」
柄本の片頬が、持ち上がった。なるほどといった態度だ。伝言はきっと、伝えられる。その後、どうなるかは山科次第だ。
おそらく、出てこない可能性が高い。敵と認識したものは、とことん関わり合いを持たない――それが、彼のやり口に違いないだろうから。
6
新たに浮上した錦谷の捜査が念入りに行われた。すると、彼はスカイヒルズ・パートナーズの一会員であることが分かった。現在も外務省に所属しているのは変わっていなかったのだが、すでに以前の役を下ろされていたため、国内にいることが分かった。
「まったく、とんでもない女でしたね」
美術館施設内にあるレストランは要人との会食に相応しい、清潔感のある空間が保たれていた。六本木まできたときは、必ずここに寄るというぐらいの彼のお気に入りの店。そう申告するだけあって、彼はこの店に相応しいだけの洗練された印象があった。
「あなたの事情はすべて押さえています。相当ひどい目に遭ったようですね。失礼ですが、裁判では彼女のことを愛人と認めたということになっているみたいですが、実際は違うんですね?」
名目は雑誌記者という形での接触だったので、ある程度の情報開陳が、許される状況にあった。
「そうなんだ。実際は、そんなことはない。あいつとは、単なるうわべだけの付き合いだったに過ぎない。向こうも承諾済みだったというか、海外までついてきたのは向こうが勝手にやってきたことだったんだ」
「しかし、あなたは彼女の情にほだされて、滞在費のすべてを負担すると言ってしまった。それがすべての運の尽きという結果を招くことになった。しかしそれにしても二ヶ月以上も現地同伴だなんて、これはよっぽどですよ。実は、あなたからも引き留めるようなことを言ったのではないか?」
錦谷はフォークとナイフを持った手を止めるなり、荒い息を吐き出した。感情が高ぶると紅潮しやすい体質らしく、目許にはすでにその兆候が現れていた。
「そんなことはない。一度だって、ないんだ。裁判では、夢中でそのことを訴えたがな……最後にはばかばかしくなってしまったんだ。だから、そこではそうだと認めても、本当のところは違う」
「彼女のことを憎んでいるのでしょう? でしたら、最後まで本当のことだけを述べて闘うべきだったのではないでしょうか」
「そのつもりでいたよ。だがな、向こうが雇った弁護士、これがあくどいやつでな、あることないことそれらしく取り上げて、どんどんこのおれの印象を悪く貶めていきやがる。怒りを通り越してしまったんだ。だから、さっさとこの裁判を切り上げ、金を払うだけ払ってお終いにしよう、と思ったんだ」
「そういうことにして、あなたの中に怒りが残ったままでは、やるせないでしょうに」
月岡は努めて同情の声色を乗せて言った。彼は虚空を向いたきり、何やら思案に耽っている。
「もちろん、そうだ。怒りはおれの中に閉じ込められたままでいる。しかし、自分の将来を考えれば、この処置は妥当だったように思える。……あと、幸いだったと言えば、今回のことを通してこのおれに手を差し伸べてくれる仲間が何人かいると分かったことだ。はっきり言って、あんなことがあっても今こうしていられるのは、その彼らのお陰なのさ」
「では、その人たちには、一連の事実について本当のことを伝えているんですね?」
「まあ、そうだね。興味が無くっても、聞いてもらわなければいけないことだったよ。こういうのは、おれだけの犠牲に留めておきたいものだからね」
また食事を再開した。しかし、気持ちは入っていない。
月岡はしばらく彼の様子を見ていた。きっと、彼なりに生き残っていく道、そしてそこから再起を果たす道を掴んでいるに違いなかった。いまはまだ、忍耐期だ。仕掛けていく材料や情報を集めに集め、その時が来たら一気に出て行くことになるのだろう。
そういえば、と彼は手を止め、言った。
「そちらから、まだ本題が切り出されていなかったよ。何の用だったの?」
失礼、と言って、月岡はナプキンで口回りを拭いた。
「実は、情報を持ってきたのです。それをあなたに聞いてもらいたいと思いまして。言うまでもなく、花笠絢のことです。最初に、裁判の話題を取り上げましたのは、彼女について、あなたの心証を確かめ、切り出していくタイミングを計るためでした」
彼は食事の手を休め、生真面目な顔になった。二度まばたきをしたのを見届けてから、月岡はつづけた。
「花笠絢は、またもや不穏な動きを見せています。いえ、彼女の履歴を踏まえれば、いつもの通りに動き出したというべきでしょうか? 例によって、今回も重大事案に関わることです」
「つまりどういうこと……? 今度ばかりは、逮捕もあり得るってこと?」
月岡は慎重にうなずいた。安易に相手を喜ばせる行為も危険だと思っていた。
「そういう場合もありましょう。その前に、ここでの一番の問題は、主犯が彼女であるかどうか分からないということでしょうか」
「いったい、何をやらかしたっていうんだ? それこそ、露骨な詐欺行為でも働いたのか?」
きつく言いながらも、彼の顔には好機を探るような前向きな色が認められた。これだって、彼にとっては巻き返していく好材料に違いなかったから、その反応は当然と言えばそのはずだった。
「詐欺行為をしているとは、現在の段階では断言できません。と言いますのも、実際のところ詐欺行為の被害について、まだ表面上、確認されていませんので。いまのところ個人の名誉、それが犯されようとしている――そんなところでしょうか?」
その被害を受けている個人とは、自分のことだ。しかし、ここではあくまで他人を装って、話していくことにしていた。
「問題は、その個人についてです。彼女との接点はまるでないのです。つまり、怨まれる筋はありえない、と。ここで浮上するのが、どうしてそのようなことをしなければいけなかったのかという疑問です。我々はその問題に戸惑っています。もしかしたら、今後、何らかの形でもって現金請求などがなされるという場合もあるのかもしれません。が、今のところ彼女からのアクションはありません」
彼は少しだけ思案の間を置いてから改まって言った。
「だったら、その個人の名誉毀損行為について、具体的には教えてもらえないの?」
「あなたは外務省に勤めるお方ですよ。しかも元領事局員の内でも重要なポストに就いていたお方。であるならば、守秘義務という言葉を痛いほどに理解しているはずでしょう。今回もそれに觝触するものだと考えて下さい」
「そう聞けば、胸が痛むものがある……せめて、おれの知り合いでないことを祈るばかりだよ。それにしてもまた同じようなことをやらかして騒ぎを起こそうとしているなんて、あの女はいったいどうなっているのか。それに、今回はお金などではないという……。ここまでくると、何を考えているのか分からんな」
彼は忌々しそうに言って眉根を寄せ上げた。額に手を当てるなり、沈思に入った。思い込みの激しい男なのか、思慮深い気配がどんどん深まっていった。
「そうそう、過去に履歴があることは分かっていた。守村元内閣官房副長官の不祥事事件。その当事者が彼女だったと分かったのは、自分の裁判がはじまってからのことだった。このおれが裁判について早期決着を決意したのは、実は、そうした材料もあってのことだったんだ。こいつは相手にするだけ泥沼でしかない、と」
「そういう風に切り捨てずに、いま考えなければいけない時がやってきたと自分は思うのです。錦谷さん、彼女はずばり何が目的だと思いますか。あなたには、いくつか押さえていることがあるのではないかと思うのですが」
「何もわからん。あいつは予想の読めない、破天荒女だ」
一度強く首を振って、彼は拒絶した。が、彼の口は開いたままでいた。
「――思うに、目立ちたがり屋なのだろう。わざと物事を大げさに言っては世間の注目を集めたいというような、そんなひねくれた欲を持っている。裏を返せば、孤独なんだよ。そういう風にすることでしか、自分を慰めることができない……そんな悲しい女なんだ、あいつは」
「あなたは、勤務先で彼女を囲ってやるぐらいに傍に置き、一緒に過ごしてきました。その時の彼女を思い出してみてください。本当に、孤独という言葉で片付けられるような、そんな単純な女性だったと言いきれますか?」
「そちらは、おれから何を聞き出そうとしているんだ?」
彼は眉間をきゅっと詰めて、月岡に迫った。
「あなたが彼女に対して感じていること、すべてですよ。あなた自身も掴めていない本当の部分……それが知りたいのです。孤独を慰めるためにあなたと付き合っていたのか、本物の恋愛で、裁判はその愛情の裏返しといった結果だったのか。それとも他に理由があるのか――」
「他に理由、というのは?」
「その問いは、なぜ、あなた方二人は破局したのですか、という質問に向きます。次第にこじれていった結果だったのか、はたまた一方的なまでの拒否がいきなり行われた結果だったのか、それで大きく事情が異なってきます」
「……次第に、口論が多くなっていったというパターンだ。このことは、裁判でも証言したことだったはずだ」
彼は思い出すのが苦痛といった表情でなんとか言った。
「それは、彼女からけしかけた罠だったという風には思えませんね。実際、あなた方の関係は少しずつ亀裂が入っていたのだと思われます。ここで、次に取り上げたいのが、あなたが彼女に約束したことです。彼女を妻として迎える――そんなことを申し出たようですね」
またもや、彼の顔が紅潮した。それは恥を感じての反応という部分も多少はあったのだろうが、何より怒りが大部分を占めているのは間違いなかった。
「向こうの調子に乗せられて、勢いだけで言った言葉だよ、そんなものは!」
「本当のことを言っていただきたいのです。調べましたところ、当時あなたの実の家庭の方は冷え切っていました。別居も考えていたようですね。いえ、家庭内別居も同然だったんです。事実、裁判では不貞行為による慰謝金などは発生していません。あなたの元妻も訴える気はなかったのでしょう。そういった冷え切った家庭のさなか、現れた花笠。あなたは、彼女と本気で一緒になるつもりだったはずでしょう。でなければ、二ヶ月ものあいだ傍に置こうだなんて考えませんよ」
錦谷の目下がひくひく痙攣し始めた。觝触されたくない私的な領域に踏み込まれて、いよいよ許せないとなっているはずだ。月岡はまだ引く気はなかった。だから、努めて落ちついた構えで彼を見返していた。
「本当のことを言うと、彼女には根っこの部分に守っている男の影らしきものがあったのではないでしょうか? 自分はそのように思います。あなたは、少しずつそれに気付いてしまった。だからこそ、どんどん苛立ちが募っていった。それで、とうとう憎しみを抱えるに至ったのです」
錦谷の喉が、こくりと鳴った。
「面白いことを言う」
「実際、どうなのでしょうか?」
長い、見つめ合い。錦谷の目許に失笑が浮かんだ。
「さあ、どうなんだろうな。でたらめもいいところだと思うが」
「あなたはプライドの高いお方だ。だからこそ、彼女は許せない存在である以上、今後も一片たりとも肯定するつもりはない。つまり、自分に素直になることは難しい、と。そこを何とか耐え忍んでもらいたい。また別の犠牲者が出るのを、指をくわえて見ているというのですか?」
また彼は沈黙に暮れた。月岡はさらなる攻勢に出た。
「あなたが動けば、彼女の中身が明らかになります。洗いざらい、本当のことが世にさらされることとなります」
長い沈黙があった。
彼は苦悶の表情で、葛藤していた。何度か口を開きかけるも、言い止めるといったもどかしい所作が繰り返された。
「あいつには、心の砦がある」
ようやく言って、錦谷は一度、歯を食いしばった。
「本当に男がいるのかどうかは、分からない。だが、内側に守っているものがあるのは本当だろう。おれとしては、それが別の男だと思ってしまったが……本当のところはよくわからない。嫉妬だ。そう、嫉妬。破綻したのは、つまるところそれがきっかけだったんだ」
ようやく固く閉じられたままだった、彼の心が開かれた。彼自身、認識できていなかった本音の言葉……。それを吐き出すまでには、いくつものプライドの破棄があったはずだ。月岡は、彼に感謝の気持ちを持った。
「それだけ聞ければ充分です。話して下さって、ありがとうございます」
「実際、そういう影があいつにはあるのか?」
錦谷は勢いよく言った。まだ未練があるのだろうか。どうも感情的な顔をしているから、そういう事実も彼の中に幾分、あるのかもしれない。
「残念ですが、いまのところ確かな情報は掴めていません。謎が多くありすぎてどうも男の影がなければ、整合性がつかないということでしかないのです。あなたが先に述べたように、すべては孤独がなした業であると決めつければそれまでです。今回の場合、計画性が窺えますから、そうした説明だけでは明らかに足りません」
月岡は立ち上がった。その模様を、錦谷は座ったまま見ていた。
「もう行くのか。まだ食い足りない気分だよ、こっちは。付き合ってくれたっていいだろうに?」
「情報を扱う仕事はですね、期限が課せられることから、常に一刻を争うんですよ。是非に、ご理解の程を。……と、最後に聞きたいんですが、彼女が逮捕されるようなことになったら、あなたはどうしますか?」
「そんなことは、聞くだけ野暮というものだろう。見守るしかないさ。もう別々の人生を歩んでいる。そもそも夫婦でも何でもないのだから、まったく関係ない。おれはおれの人生を歩んでいくまでのこと」
予定どおり、自分が巻き返していく好材料にするつもりだ。しかし、心の奥にまだ残っている未練に気付いた今、ある程度は遠慮するのかもしれない。
「それぐらいに割り切れていたのでしたら、また連絡できますね。ニュースが入れば、お伝えしますよ」
「そうか、その時は、よろしく頼む」
慌てて名刺を取りだした彼は、外交官らしい潔さに満ちていた。
7
本庁に帰るなり、中西キャップの所に顔を出した。新しいニュースが入っていた。それとは、花笠絢の家族構成と、現在の勤め先である。また、保阪の内偵からは新情報については得られることはなかったと伝えられた。
「こないだ、監察室の方へと行って、松原監察主任と話をしてきた。向こうは一応事情は分かったと伝えてきたが、こちらの欲求を呑むつもりはないようだ。例の写真の合成真偽鑑定についてあちら側で独自の鑑定を行ったようだが、そちらでは合成の事実なし、と出されたようだ」
その鑑定結果の報告書をコピーしたものが、中西の手によって用意され、机の上に置かれた。月岡はそっと取り上げ、目を通した。
彼の言うとおり、合成の事実なしという最終判断が書類の末尾につづられていた。様式は小野木が鑑定した内容と同じだ。同じ鑑定方式で見ていきながら、どうしてこうも異なる結果が得られるというのか。
書類を精査するに、画像について不自然な箇所が認められる、とは指摘されていた。が、その理由について画像ファイルそのものの取り扱いが、かなり粗雑だったためと判定し、それが合成の事実までをも否定する材料となったようだ。二つの見解の分かれ目は、最初のステップからして大いに異なっていた。
「これは、納得いきません。というより、どうして先に出していました、小野木隊員の鑑定が無視されたというのでしょう?」
「監察室は、組織内にあって独立機関だ。七年前に癒着事件が発覚してから、ますます庁内分離が進んだ。向こうは、こっちの面子などどうだっていいとでも思っているに違いない。先に提出した書類はこっちの都合で作成されたものだと睨まれたのだろうよ。これには、過去が関係している。ここ二三年、公安部からマル特扱認定による、懲戒処分が相次いでいる。彼らは我らのことを信用するのは危険だと思っているんだ」
公安不祥事。
それは、松原からも聞いていたことだ。根強い不信が監察室に存在していることが、ここにきて月岡の足枷になっているようだ。
「ともかく……不当ですよ、これは。小野木隊員にもこの鑑定結果を読んでもらわないことには納得できませんね」
「残念だが、分は向こうにある。お前にも知っているだろう? 監察室は公安畑の人間が多いということを。お前も今後どうなるかは分からん立場に追いやられてはいるが、公安部に身を置いている以上は、そこから意識を外してはならないのは言うまでもない。もしかしたら、いつの日か、そこを通っていくことだってあるのかもしれない。それを考えればいまは我慢するしかないんだ」
監察室の室員に公安出身者が多いのは事実だ。なかには、かつて月岡の上司だった男も含まれている。警察官を第三者視点で監視する機関。その任務は組織内において特殊を極めるだけに、当然、配属される人間も警視以上の精鋭が揃っている。幹部候補の通り道ともいわれているほどだ。中西の言っていることが穏当な選択であるのは、言うまでもなかった。
「それで、花笠のことなんだが、新情報について保阪の方から話は聞いているのか?」
中西は改まって言った。月岡は言下にうなずいた。
「うかがっています。何でも、栞というふたつ上の姉がいるようで。割合、近くに住んでいることを確認していますので、もしかしたら、彼女との接点も探っておいたほうが良いのかもしれません」
「それは、そっちに任せるとしよう。時間内に答えを出す。それを第一に考えたうえで、余裕があるなら接触してみればいい。それよりも、いまの絢のほうの勤め先は聞いているか?」
「保阪が作成しました報告書を確認しています。『ラ・マジェスター』だったと思います」
「そうだ、『ラ・マジェスター』だ。そこなんだが、実はお前が先に訪れている例の会社とつながりがあることが分かった」
「プリマヴェーラのことですか?」
中西はうむ、と唸るように言った。
「系列会社であることは間違いない。裏を取っているわけではないのだが、おそらくその会社にあてられた社長は、名前ばかりを借りたただの飾りだろう。実質的に経営権を握っているのは、先の会社の女だ」
温厚そうな、あの婦人が頭に浮かんだ。米光律子。またもや、彼女がここで現れることとなった。
「どうも、彼女は裏の顔を持っているようですね。これで二度目です」
「そいつが花笠を裏から操っているとか、そういうこともあるのかもしれんな。それは、前々からこっちでも疑っていたことだったんだ。そこでなんだが、プリマヴェーラが支援するスカイヒルズ・パートナーズのパーティーに潜入してもらえないか? 期日は、二日後だ。その日で捜査は四日目に入るから、ちょうどいい頃合いだろう」
まさか、中西がそんな工作を進めていただなんて、思ってもいなかった。
「キャップ、手配の方ありがとうございます。是非とも潜入させていただきたく思います。が、自分としましては、行動の焦点は米光ではありません。その分だと、おそらく『ラ・マジェスター』の花笠の方も会場の方に吸い上げられる可能性があります。ですから、その時は彼女の方にこそ、焦点を当てたいと思っています」
「なら、その通りにすればいいだろう。実はとある会員とコンタクトを取っていてな、その人物を通じた形で『ラ・マジェスター』の花笠をレシーバーとして呼んで欲しいと要請しておいたんだ。彼女が従業員の一人として列席する可能性は高いと思っていいだろう」
このあたりは、キャップの采配の見せ所だった。中西は遺憾なく発揮できている辺り、抜け目がない。
「お前も分かっての通り、花笠は単なる駒である可能性が高い。誰かが傍にいるはずなんだ。その人物こそ、今案件の首謀者のはずだ」
花笠をパーティーに参加させるよう仕向けたのはあくまで予備的なものに過ぎない。彼は米光を含めた第三者なる存在にこそ、睨みの目を向けている。最初に花笠の話題を切り出さなかったのは、そういった序列があったからだ。
「視察のほうは、確実に実施いたします。それで、今回はその協力者の肩書きで参加するということなのでしょうか?」
「我が公安部が抱える外部要員にそうしたクラブの会員権を持っている男が二名ほどいたんだ。彼らはそのパーティーに出席する意向はなかったが、割増料金を払って参加の意向にシフトしてもらった。つまり、だ。お前の他に、もう一人仲間が混じることになる。その仲間については事前には申告しないが、お前なら問題なくやっていけるはずだ」
その男とは別行動になるようだ。これだって、中西の采配によるものだ。だからこそ、自分は余計なことは考えなくてもいい。
「了解しました。二日後の作戦実行に当たって、滞りがないよう、いまから準備して参ります」
クラブは、会員費の高い格式の高いものだ。いまから、仕立ての良いものを揃え、そうした会に参加するに相応しい、洗練された身のこなしに慣れておかなければいけない。過去にそうした会に参加したことは何度かある。今回も、必要以上に警戒をしなければ難なくクリアできるだろう。
問題は、花笠に大きな動きがあるかどうかに尽きる。
彼女は、動くのだろうか。すでに公安部実働隊に住所を押さえられている状況にある。外堀が埋まった今、彼女が動きに出なければ、これまでの計画性はなんだったのかということになってくる。
動く――そのつもりで臨んだ方が、賢明だろう。
パーティー当日は、彼女との闘いになるはずだ。