⑤
木の枝の上、木漏れ日の影の中、よく身体が馴染むように。
見つけた。
広くとった視界の中。今、手の届く範囲に入った。音を殺して翼を広げる。絶対に外せない。
狙うは一頭の山兎。横についた目で辺りを伺い、耳はどれほどの音を拾っているのだろうか。何かの異変に気付いたのか、後ろ脚で立ったところで、枝を、蹴る。
一瞬空に浮いて、そこから急降下。身体つきは元から風を切るのに適している。狙いがきちんと定まればほとんど逃げられない。
前足で押し付けるようにして兎を捕らえ、宙に上がる。そのまま手頃な木の枝に止まり、きっちり首を噛んで殺してやる。そのまま落とさないように気をつけながら、食べる。鮮血の匂いはもう気にならない。もう自分は恵まれていた頃の子どもじゃなかった。
――そこはまったく地獄だった。いや、地獄なんて知らない、けど、想像を絶していた。本当の意味で野に生きることがここまで辛いとは。
まず飛ぶことは楽しみではなくなった。
飛べないことは有り得ないことになった。
飛び方を忘れる度、私は飛び降りた。なぜ忘れるのだろう。何度思い出してみても、何日かに一度、忘れた。
飛び降りて、頭を打ち付ける、なんてことは無かった。寸前で、本当に寸前で、浮く。恐怖に押し潰されそうになって、足掻いて足掻いてやっと。少し慣れた、まだ怖い。
食べ物を確保するのはさらに至難だった。
1日に1度は空腹に見舞われた。まだ雛である。燃費がどうも悪い。動けば腹が減るのに、動かなければ食にありつけない、という悪循環。
飛ばなければ、鳥は獲れない。生きるために走ることをずっとしてきた彼らを、獲れない。
初めて生き物の命を手に掛けたときのことを思い出す。同時に恵まれていたことも。罪悪感を感じることが無くなった。生きるために、そんな余裕は無いのだ。野に生きる。初めてその一員になった、そういう気がする。
食べているうちに死臭を嗅ぎつけた獣たちが木の下に集まっている。あまり長居するといけない。ゆっくり食べている暇は無かった。ある程度食べて、胃袋を満たしたところで、残りは落としてやる。そうするとこの場では襲われなくて済む。
場所を移そうと翼を広げ構えたところで異変。急激な吐き気。
吐いちゃダメ。吐いちゃダメだ……。
食いしばったが耐え切れず吐き出した。胃の中にあるもの、今しがた食べたもの全部。
眩暈がして、木から落ちる。吐瀉物の上に墜落して、我に帰る。周りは飢えた獣たち。しかも運悪く統率の取れた群れらしい。
たちまち吠えたてられ、攻撃される。
唸り声、威嚇、怒声。
飛び立とうとしても飛び掛かられ、地に落とされる。普通傷のつかない竜の鱗も、執拗な攻撃に耐えられない時がある。栄養状態も悪いのだろう。
なんとかこちらも応戦しつつ、そして一頭を蹴散らした隙を見て、命からがら逃げ出す。
なんとか飛んで近くの湖に飛び込んだ。
噛み付くように水を飲んで、傷や汚れを泳いで洗う。
陸に上がって、草原に倒れ込む。息が上がっている。
できた傷がじわじわと痛む。一度相手の牙が鱗を抜けていた。そこから出血している。
こんなことが、けっこうある。最近は少なくなった方だ。
慣れたと思ってた。
私は苛立って首元を思いっきり掻いて悶絶する。地獄を見た。
首には、革のベルトらしきものが固く巻き付けられている。ベルトが触れている部分がいまも膿んだ傷のように痛んでいるのだが、害はそれだけではなく、私の竜たる部分を全て封じているらしい。
コレのおかげで、竜から何かに化けることができない。
何か意味のある言葉を発することができない。
火を吐くこともできない。
食事もままならなかった。四六時中不快感に襲われていて、特に喉を何かが通るときが酷い。
そして、星空に溶けるようなこともないだろう。
つまり、全くの獣と同じ。私は今まで竜の力に頼ることに慣れていた分、獣より劣る。ここらの獣は、初めは竜という強者に警戒していたものの、真に竜でなく、反撃されても恐ろしくないということがわかってから、やけに好戦的だ。
竜というのは美味いらしいな、とぼんやり思う。
飛ぶことが出来るのは本当に幸いだった。
息を整えて、空を見上げた。真っ新な夜だ。月が明るい、湖面に反射していて、冷たくも美しい。月が明る過ぎるのか、星があまり見えない。
そこから連想するのはたったひとり。考えないようした。考え過ぎるから。
落ち着いたら腹が減ってきた。また、獲り直しだ。
ふらふらと木々の間に入って行く。
『犬の真似』も上手くなったものだな、と皮肉る。どれくらいこんな日々が続いたのかは数えていないが、とても疲れていた。
腹が満たせるのならなんでもいい。腐りかけの死骸でも、毒のある生き物でも。竜はそう簡単には死んだりしないだろうから。
当てもなく彷徨いながら、ひとつの人工物を見つける。自然に溶けきれない、その四角い形。これは檻で、中には食べ物、切り落とされた動物の足、まだ新しい。逃げもしない、抵抗のしない食べ物だ。唾液が溢れ、目が釘付けになる。誘い込むように、大きく開いた入り口。――これは罠だ。
時折見かけることがあるそれ。時に中に獣が入っているのを見かける。今は開いている入り口が、獲物が入った途端に閉まるようになっているのだろう。そんなことは容易に想像できるし、あんなものに竜などかかるわけない。
しかしこの場から動けない。
食べ物を取ったら、出ればいい。
――私のどこかがそういった。
大丈夫、一瞬で終わる、もし閉じ込められても直ぐに壊せる、大丈夫、上手くいく。ほら見てあんなに美味しそう――
負けるものかと頭を振って、試しにその罠を前足で触る。脆そうな音がする。
これなら、これなら――壊せるんじゃないか?
そう思ったら最後、私の行動は早かった。
気が付いたら口にそのエサを咥えていた。
背後で入り口に蓋が下りる音がした。
こんなもの、壊してやれる。
安心感からか、その場でエサを食べてしまう。骨まで残さず。
さて出ようとして、頭から崩れ落ちた。力が抜ける、立ち上がれない。
毒餌だったのだ。全く気づかなかった。鼻が利かなかったのか、巧妙な罠か。
かかっていた獣は動かなかったのではなく、眠っていたんだ――私は目を開けていられずに、閉じた。
♦︎♢♦︎♢♦︎
目を覚ましたのは、丸太で作られた人家、ログハウスだった。
起き上がろうとして、四肢と、そして首のベルトの金具部分に鎖が付けられていることに気づいた。翼は広げられないように新たなベルトで身体に固定されていた。普通のベルトらしい。鎖の長さは、そのベルトに手が届かない程の短さ。
鎖は到底噛み切れるものではない。
檻も、輝く頑丈なものへ変わっていた。
「お目覚めかい? 竜の子」
声を振り仰げば狩人らしい人間が近くの椅子に腰掛けていた。
牙を剥いて威嚇すれば肩をすぼめて嗤う。
「ハハ、おれもね、竜を捕まえるなんて馬鹿な真似はしないのさ。まして雛なんて! オトナの仕返しが恐ろしいし、何より敵わない。危険すぎる」
彼はカウボーイハットを目深に被り、眼光は鋭い。皮のベストを着ていて、脚にぴったり張り付くズボンに長いブーツを履いていた。
線は細く、小柄だ。
「けれど、まず竜はあんな罠にはかからないしィ? よく見たらお前、呪具つけてるしィ? 大方人間から逃げてきたクチ?」
狩人はしゃがんで目線を合わせてきた。
気味の悪い瞳孔が人間でないことを表明していた。
匂いがやけに獣くさいのは、狩人だという理由だけではなさそうだった。
「おウチに帰してやりたいってのは、山々なんだけど……ネ?
あのさ。おれのとこは、親父の親父のそのまた親父の祖父の代からこのあたりでズゥット狩人やってんのね。
ここら珍しい生き物が多いから売るのよ。肉にしたり、毛皮を取ったり、人間のオモチャとしてあげたりする。
で、おれネズミなんだよネ。イッチバン最初のオジイチャンがたまたま竜を食ってェ、人間に化けれるようになったんだって! 凄いよなあ」
そう言って、彼は帽子を持ち上げて見せた。すると帽子に潰されていたらしい動物の耳が起き上がり、ひらひらと動いた。
「驚いた? 竜を食うと不思議な力が得られるんだよ。おれらみたいのは獣人と呼ばれてる」
ネズミの狩人は目を細めて嗤った。
ネズミの狩人の不穏な笑みに身の危険を感じて唸ると、彼は驚いたように目を丸めた。
「ンー、お前喋れないの? 竜は人の言葉も話すって聞いたのに。それとも呪具のせい?
まあいいや、楽しくお喋りしたいわけでもねぇし、ま要するにお前はいい金ヅルってワケ。
おれは別に竜なんて食べたくないしィ、肉はあんまり好きじゃないしィ、かと言って逃すわけにもいかないじゃん? おれが拾ったからおれのモン、だろ?」
いや、訳がわからない。
唸るのは止めるが、何かしてくるつもりなら、腕の一本は貰う覚悟だ。臨戦態勢は維持。
「でもなァ、人に売っても、人に飼われる竜は酷い。仕事柄、何度か会ったけど、気分が良いものではなかった。おれは一応、人間に片足突っ込んでる、ケド、獣だし、売る人間は選ぶことにしてんの」
そう言ってネズミの狩人は近くに立て掛けてあった猟銃を手に取った。
「コレ、雛の鱗なら使えると思うし、安心して眠んなよ。馴染みに売ってやるから、今度はきっと逃げ出さなくてもいいからネ」
なんとか逃げようともがくも、四肢にガッチリ付けられた金具はビクともしなかった。
「じゃ、オヤスミ」
ニッと人間の割に鋭利な歯を見せる笑み。
耳に痛い音がして、煙の臭い。そこで意識は途切れた。
♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎
たった一夜にして魔物の樹海の火山から遠く離れたひとつの街が壊滅した。
原因を知るものは誰も居らず、生き延びた者は瞳を彷徨わせ、ガタガタ震えながら、口を揃えてこう言った。「領主のせいだ」と。
聞くところによると、その土地の領主は珍しいものを集めていたのだという。そして最大の自慢が、一頭の竜だった。それは龍と竜とを無理に掛け合わせて作った、奇妙な竜だった。
竜を従わせることは難しく、その領主がどんな酷いことをしてきたのかは想像に難くない。
このように、領主はさまざまな悪徳を働いており、また国の重役であったため、多くの暗いところを抱えていた。
そしてある夜、それは起こった。
街人の誰も、何が起こったのか正確なことはなにも知らなかった。
あるものは神からの罰が降ったのだと言った。
またあるものは、戦争に向けた秘密兵器の誤作動ではないかと言い、秘密を知りすぎた領主の暗殺なのではと言った。
そして殆どの話に共通することは「夜が降ってきた」ということ。
領主の敷地は跡形もなく消し飛んでおり、黒々と焼け焦げた土地が広がっていた。ただ、多くの者が領主のコレクションであった生き物が野に帰って行くのを見ていた。二頭の竜が舞い上がって行ったことも。
詳細はまだなにもわかっていない――
拾った記事を読み上げれば、目の前のお方は愉快そうに微笑んだ。
「君は人の字が読めるんだね?」
「はい、よく読まされていましたから……」
「ふーん、そう。で、君はどうしてついて来るの? 親と帰れば?」
「彼らは、ぼくを子供だとは思ってませんから、行くところがなくて……いけませんか」
「そう、なら、好きにしたらいい。俺は気にしてない。でもその代わり俺の頼みは聞いてよ」
「……はい!」
ぼくは、このお方こそ神さまなのだと思う。そうであればいいと思う。神さまなんていないのだ、だから。このお方は夜の神さま。光がないところからでも、救って下さる。
「じゃあ、早速ひとつ頼みたいのだけど、髪を結ってくれる? 昨晩解けてしまったんだ」
「わッわかりました」
夜の神さまのお御髪はとても長くて、美しい。うんと暗い夜を溶かしたらこうなるだろうか。
三つ編みというものを頼まれたのでする。人間に教えられて、やったことがあって良かった。
両方の耳の上から長い髪を持ってきて、後ろで三つ編みにする。紐で結わえなくても、形を保つからと言われてその通りにする。
長い三つ編みが完成したのだけれど、手を離すと、三つの編み目を残してみんな解けてしまった。
「これでいいんだ」そう言って神様は優しく微笑む。
「前は……、誰がされてたんですか?」
「君みたいな、もの好きなちびがいてね」
それ以上何も言わないので、あまり聞かないほうがいい気がして、気になったけれど、なにも訊かずに置いた。
神さまが不意に手を伸ばして、ぼくの首をくすぐった。優しく撫でてくれた。醜いアザの残るぼくの首。
「では行こうか、君のことは何と呼べばいい?」
「お好きに!」
「なら、霞と呼ぼう」
かすみ。――かすみ!
ぼくは口のなかで反芻する。それが今日からぼくの呼び名。
神さまが与えてくれたたったひとつ、初めての『ぼくだけのもの』。