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◆玻璃溶丸湯

 僕はあまり食への興味がない。ミモザサラダが嫌いという点において徹底しているだけだ。

 普段もそれほど食べない、食卓という場がまず苦痛だからだ。

 だけど、瑠璃子との食事には抵抗がなかった。

 確かに彼女は、母親とよく似た色気を孕んだ美人だ。でもそれだけ。

 無条件に信じる者に裏切られる恐怖を、瑠璃子という人妻――夫がいながら僕と関係をもつような女――に対して抱く必要はなかった。

 母親から与えられた打撃。

 おなじ痛みを、瑠璃子は決して僕に与えられない。

 初めから信じていないのだ僕は、瑠璃子のことを。

 例えば明日、彼女がほかの男と去ったとしても僕は傷つかないだろう。信じていなければ、〝裏切り〟という構図など成立しないのだ。


 散りゆく桜の細やかな刺繍。花びらに金糸の混ざった、高価そうなふすまだ。

 閉ざされた和室に、ほの甘いミルクが香っている。

「紅玉ちゃんと兎々くんには砂糖をちょっと入れたわよ」

 虚弱体質の瑠璃子の朝食は、胃腸にやさしいかゆと決まっている。

 茶粥、小豆粥、八宝粥、赤粥……これまで色んな粥を御馳走になった。そのどれもが美味しかった。

 今朝はミルク粥らしい、子供がいるからか。

 厚みのある座布団に座って、僕たち四人はハフハフと粥を食べていた。

 いや、紅玉だけは飲み物みたいに流しこんでいる。

 時おり「甘い」と呟いて、嬉しそうに椀をからにした。

「紅玉ちゃんもう食べたの? おかわりは?」

 瑠璃子が訊ねると、

「甘い?」

 瞳をくるんと丸くさせて訊きかえす。

 星屑糖で、紅玉はすっかり甘味の虜になってしまった。

「もちろん甘いわよ」

「する」

 即座におかわりを要求した紅玉の隣で、兎々までが「僕も!」と両手で椀を差し出した。

「あらあら嬉しいわね、しっかり食べなさい」

 ふたりの椀を持って、瑠璃子はどこか楽しげな足取りで台所へと立った。

 子供のいない瑠璃子は、今朝のこの団欒をいたく歓迎していた。それは意外な彼女の一面だった。

 初めてみた純粋な笑顔がある。

 いつもの陰のある瑠璃子とは違っていた。

 閉じていた椿がポッと花開いたような。それは慎ましい――かつての僕の母親そっくりの――明るさだった。

 旅にでた主人の帰りを待つだけ。

 独りきりの厳冬の暮らしは、僕みたいな気楽な間男が想うより寂しい現実なのかもしれない。


 後片付けは僕の役割だった。

 御馳走になるのだから当然だろう。長袖シャツを肘まで捲って泡まみれになる。

 鼻腔をくすぐる、洗剤特有の爽やかな柑橘の香り。

 食器がこうして綺麗になるように、心にもそれ専用の洗剤があればいいのにと思う。

 そうすれば怒りも憎しみも泡で流して、清らかな気持ちで明日を迎えられるのに。

 手指にキンとした痛みが突き抜ける。

 寒さに負けて湯を使うと皮膚が荒れるから、僕はいつも冷水しか使わない。男なら我慢だ。

「瑠璃子さんは優しいなぁ」

 気持ちの悪い台詞が聞こえた。

 思わず振り向くと、兎々がニヤけた顔をして座布団の上にコロンと転がっているのがみえた。

「ユイもこんな風だったらなぁ」

 実現しそうもない願望をうっとりと呟いている。

 教育係のユイを毛嫌いするような口ぶりだが、それでも兎々はやはり子供だった。

 本来あるべき場所へ帰りたいのだろう。ぼんやりと青灰色の瞳が遠くをみている。

 団欒ついでに兎々の境遇――月から落ちた――を聞いた瑠璃子は、すこしの疑いも持たずに話を信じた。

 林檎色をした紅玉の髪を塗り櫛で梳いてやりながら、

「ねぇ翡翠、あなたの金貨ロケットで帰してあげたら?」

 精一杯の同情を寄せる眼差しで僕に言ってきた。

 高潔や上品を意味する梅。その赤い絵柄の目立つ櫛で、瑠璃子は紅玉を可愛がる。

 瑠璃子の手つきが気持ちいいらしい、紅玉はまぶたを半分だけ閉じて眠たげな顔をしている。

 食器洗いを終えた僕は、赤く染まった冷たい手指を擦り合わせた。

「やだよ」

 冷酷だけどこれが本音だ。金貨ロケットを仕上げるまでに、どれだけの年月がかかったか考えてほしい。

 月から落ちたのは兎々の不注意のせいで、僕には関係のないことだ。

「翡翠……」

 歌うように兎々が言った。

「帰してくれたら御礼するけど?」

「何だその上から目線」

 イラッとした僕は、すがめた目で兎々を見下ろした。

「睨まないでよぉ」

 怖いこわい、と言いながら兎々は座布団にくるまった。兎々オムレツだ。

 だしぬけに紅玉が「甘い?」と、兎々に訊いた。

「ん?」

 さすがに兎々も首を傾げる。

 僕もまた何のことかと考えて、気づいた。

 紅玉は〝兎々がくれる御礼というのは甘いものなのか〟と訊いているのだ。

「あぁ! きみが望むなら何でも」

 兎々もなかなか勘がいい、気づいて頷いた。

「甘いものがいいの?」

 紅玉はブンブンと頭を縦に振ると、

「甘い、甘い」

 嬉しそうに繰り返しながら、何かを両手ですくって口もとへ運ぶ仕草をした。

「星屑糖」

 僕がボソッと放った単語に、兎々がすかさず反応した。

「え? 星屑糖がいいの?」

 一年に一度しか降らない幻想のひかり。

 まさか、自由自在にそれを操るなんて兎々にも不可能だろう。

 僕はそう思ったけど、兎々の返答は意外にもアッサリしたものだった。

「いいよ、満月王に頼んで星屑糖を降らせるよ」

 帰してくれるならね、と、誇りやかな顔をして僕をみた。

 紅玉がツンツンと僕の袖を摘まんでくる。

 困った。

 困った、けど。

 あぁ、紅玉そんな悲しい瞳で僕をみないで。


「……わかった」


 僕はとことん紅玉に弱いのだ。

「さぁすが翡翠! いいとこあるね!」

 兎々がピョンッと飛び跳ねて僕の腕にしがみついてきた。

「おまえのためじゃないからな」

 紅玉のためだ。

 限りなく冷たい僕の言葉がこたえたのだろうか、いきなり兎々が「うぅ」と呻いた。

「痛い……」

 僕はゲンナリした。またあの〝耳が痛い〟というやつか。

「はいはい、分かったから離れろ」

 兎々のひたいを軽くグイと押しやると、あまりにも簡単にその小さな身体は転がり落ちた。

 座布団の上で丸くなる兎々。

 赤い顔をして兎耳をピクピクと痙攣させている。

「え?」

 瑠璃子が櫛を投げ出して「どうしたの?」と駆けてきた。

「耳が痛い」

 痛いよ痛いよと訴えながら、兎々はきつく瞑った目から涙の粒を零した。突然のことで、僕はどうしたらいいのか判らない。

 まさか演技とも思えない。

「月から落ちて来たのよね」

 瑠璃子の呟きに、紅玉がぽつんと反応した。

「割れた」

 瑠璃子の行動は早かった。無言でスッと立ち上がると、襖のむこうへ消えてまた戻ってきた。

 色褪せた、古めかしい木箱を畳の上でひらく。中には乾燥した謎の葉っぱや、鮮やかな赤色の薬丸らしき容器が詰まっていた。

 瑠璃子はそれらを避けて、怪しげな薬包――透明な袋のなかに瑠璃色の粒つぶが幾つか包まれいる――をひとつ取り出した。

 心配そうに、汗ばんだ兎々のひたいを一撫でしてから台所へと立つ。そして、今度はなぜか湯呑みを持って戻ってきた。

 うずくまる兎々の身体を優しく起こし支えると、

「飲んで」

 湯呑みから、何かの薬らしき液体を少しずつ兎々に飲ませた。

玻璃溶丸湯はりようがんとうよ。三分後に出すわよ」


 ……出す?


 瑠璃子の言葉に僕は戦慄したけど、なるほど三分が経過する間に、兎々の顔つきが安堵に変わった。

「痛みは消えた?」

 瑠璃子の問いに、兎々が「うん」と頷いた。

「翡翠」

 瑠璃子が僕をみて、涼しい顔で命じた。

「この子の両脚を持って逆さまにして」

「は!?」

「早くして」

 瑠璃子は真剣だった。

 従わざるを得ない、いっさい有無を言わせぬ空気がそこにあった。

 僕はしぶしぶ――内心ちょっと怖がりつつ――兎々の真っ直ぐな両脚を掴んで持ち上げた。

 足首までの白い靴下、くるぶしの位置に金色の満月の刺繍がついている。王家の紋章か何かだろうか。

「うぅ、何するの」

 子供だから軽いものだ。

 僕によって、兎々はタロットカードの〝吊るされた男〟みたいになった。

 その兎々の後頭部に狙いを定めて。

「いくわよ」

 瑠璃子が勢いよく平手打ち一発。見事なスナップだった。

「うっ!?」

 上ずった呻きと一緒に、兎耳からポロッと何かが落下した。

「出たわ」

 僕はふたたび兎々を座布団に降ろした。

 さすがに気まずい。ハタからみたら幼児虐待じゃないか。

 瑠璃子は兎々の耳から出てきた物を、そっと摘まんで照明にかざした。

 おはじきが歪んだような形。それは汚点ひとつない、どこまでも透き徹った瑠璃色の硝子だった。

「玻璃溶丸湯で角が溶けたのね」

 兎々の耳を痛めた硝子の欠片は、月から落ちて地球をぶち破った瞬間に入り込んだのだろう。

「死ぬかと思ったぁ!」

 喉もと過ぎれば熱さ忘れる。

 さっきまでの苦悶はどこへやら、兎々は浮かれた好奇心を秘めた瞳でその硝子をみている。

 とんだお騒がせだ。

「地球って綺麗なのねぇ」

 青から蒼へ、蒼から碧へ、碧から瑠璃へ……

 照明のもと、目まぐるしく濃淡が変化していく硝子。それがまさか地球の破片なのだと、にわかに信じられない。

 瑠璃子の指先に摘まれたそれを、後ろから紅玉がじっと凝視している。

「たからもの」

 僕はハッとして昨夜のことを思い出した、紅玉がしてくれた気遣いを。


 ――翡翠、たからもの。ロケット、つくる。


 そう言って紅玉は、星の欠片をくれたのだった。

「瑠璃子おねがい」

 あくどい僕は、精一杯の〝年下男子〟を演じて瑠璃子の保護欲をくすぐる。

 瑠璃子が〝美少年〟だと称する自分の顔前で両手を合わせ、可愛くウィンクして強請ねだるのだ。

「紅玉にあげて」

 もちろんよ、と、瑠璃子はご機嫌に応えた。

「そういえば可愛い新商品があるのよ、プレゼントするわね」

 紅玉がキャッと歓喜の声を上げた。もらい受けた硝子を手のひらで転がして笑っている。

 なんて純粋な可愛さだろう。

 いとも簡単に男になびき、裏切るような多くの気安い女とは違うのだ。

 紅玉、きみの笑顔を守るためなら、僕はどんな悪人にでもなれる気がするよ。


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