◆花一華
たとえ兎々が、高貴なる身分の子供だとしても。
「いつまで都合のいい夢みてるんだ」
ここは月ではなく地球、わざわざ特別扱いしてやる義理はなかった。
僕らの関係性には何ひとつ変化なんてない。
「おまえに金貨ロケットはあげないよ」
微睡んだ兎々の、小ぶりな鼻をつまんだ時だった。
カタッ――……
カタカタッ――……
壁付けの飾り棚から乾いた音がした。下手くそな打楽器奏者の演奏みたいな不揃いのリズムだ。
僕はその耳慣れた音のほうへ、すぐに歩み寄った。
ノックでもなければ鼠でもない音。
壊れかけのタイプライターが、ひとりでに文字を打っているのだ。
歴史あるロワイヤル製。
艶々した青銅色のその道具は、骨董屋〝エマイユ〟でみつけた掘り出し物だった。
いや、この一文には嘘がある。
みつけて仕入れたのは〝エマイユ〟の主人、それを僕にくれたのは主人の妻――瑠璃子――だった。
僕はこのタイプライターを、人妻である瑠璃子から貢がれた。ふたりの秘密の通信手段として。
細いアームが印刷用紙を叩けば、現れるのは不思議な言葉の羅列たち。
〝ハナイチゲ ウサギノコク ホウロウノマ カワセミノクチバシ シタマツ〟
瑠璃子からの暗号――だと彼女は豪語する――だった。
相変わらずの稚拙ぶりだ。時間をかけて解読するような暗号ではない、僕はすぐに返事をした。
〝リョウカイ〟
賑々(にぎにぎ)しい中央公園には花時計がある。
急ぎの通勤者や学生たちは見向きもしないけど、時計など持たない僕には役立つモニュメントだった。
直径三メートルほどの巨大な文字盤を、びっしりと埋め尽くすのはアネモネの紅い花弁。それは朝陽の中でひときわ鮮やかに時間を主張している。
その割には正確でないのが惜しい。
二本の針は一時間遅れで六時を示していた。つまり実際には七時ということだ。
中央公園の正面には、修繕された煉瓦造りの駅舎が古い趣を残しつつ輝いている。
骨董屋〝エマイユ〟はその駅舎から外れた裏道、寂れた商店街の目立たない奥地にあった。
たまに珍しい高価な一品に出逢えれば幸運。
しかし大抵は傷モノか壊れかけの欠陥品。早い話がガラクタだ。
ほかに客がいるのを僕はみたことがない。
生計がこれで成り立っているのが不思議だけど、たぶん決まった顧客がいるのだろう。
何代にも渡って続く、伝統ある木造店舗。
古くも小綺麗なその建物の入り口から、僕はいつも瑠璃子の懐へと侵入する。
瑠璃子の懐――そんな妖しい気分になるのだ――人目を忍んだ〝エマイユ〟の建物そのものが、どこか異空間の印象を抱かせる。
引き戸のレールが軋みを立てた。それにつられて、嵌め込まれた水晶硝子がカタカタと震えた。
薄氷のようだ、きっと扱いを間違えると割れてしまう。
僕と瑠璃子の関係も。
瑠璃子の夫――〝エマイユ〟の主人――が、ここに姿をみせることは滅多になかった。一年のほぼ八割をガラクタ探しの旅に費やすからだ。
言葉のもつ印象とは不思議なもの。
ガラクタでも、骨董品だと言い換えれば上質な何かに聞こえる。
例えば沈没船から発見された古代ギリシャの遺物、女神アテナの装飾が描かれた陶器壺のような。
仰々しく骨董屋などと名乗るから客が敬遠するのだ。
そう指摘する僕に、店子の瑠璃子は「だからいいのよ」と涼しい顔をして返すのが常だった。
面倒なのだそうだ。このやる気のなさは見事としか言いようがない。
瑠璃子のおかげで〝エマイユ〟の商売はかなり緩かった。
値引きはもちろんのこと、時々おまけもつけてくれる始末。まるで庶民的な雑貨屋さながら。
僕はそんな〝エマイユ〟の気取らない、ぬくもりのある雰囲気がすきだった。
すこし湿り気を帯びた木の匂いも。嗅いだ瞬間、雨の日曜日みたいな心落ち着く気分になるから。
天井から黒い紐でぶら下がる、蛍電球がつくる灯りは夕暮れみたいに寂しくも暖かい。
それは煤けた木製の地球儀を、仄かな甘夏色に染める。
隣にはニスが剥がれ、艶を失くした小さな揺り椅子。
セット売りなのだろうか。ふたつの瞳に青玉を嵌め込まれた姫人形が、エレガントに座っている。
「素敵でしょう」
静寂にヒタリと浸透する、潤いのある声音だった。
「ソフィアよ。青玉にちなんでソフィア」
上がり框に、微笑みを浮かべた瑠璃子の姿があった。
僕は、彼女以外に着物が普段着の女を知らない。
初めは気圧された。和装の女なんて未知の生物だった、さすがに今はもう慣れたけど。
紺色に、淡い翠緑の風花文様が寒々しい。
しかし瑠璃子は背筋を伸ばし、女らしい小紋をじつに品よく着こなしていた。
いつも僕は驚かされる。
十八歳の僕より十も年上の瑠璃子。出逢った時にも目を奪われた。
背中に波打つ豊かな黒髪と、薄紅を差した唇のコントラスト。神秘的でもあり、官能的でもある鮮やかさ。
肌寒い頃合いの夜桜を想わせる、妖しい美だった。
張りのある白肌、若々しさに矛盾した妖艶さが日増しに色濃くなっていく。
高級なペルシャ猫みたいだ。
静けさを身にまとう彼女の佇まいに触れると、僕はなぜか決まって予感する。
――きっと瑠璃子は長生きしない。
それは不吉な予感だった。
だけど僕はどこか、心の奥底のもっと深い部分で瑠璃子の不幸を望んでもいた。瑠璃子の美貌はあの母親と同質の、罪深い色気を孕んでいるからだ。
ソフィアという無表情の人形の瞳には、当然だけど感情がなかった。
その澄んだ青さは凍える北の海。
照明のせいだろうか、冷たい双眸だけがギラギラとひかる。
もとの持ち主が誰かも分からない。素敵だという前にむしろ寒気がした。
紅玉とは違うのだ。
それはひたすら不気味な〝限りなく人間の姿に近いただの人形〟、動きもせず喋りもしない。
何のために、秘めたる力をもつ宝玉なんて嵌めるのか。
「気持ちが悪いよ」
呪われそうだと顔をしかめて言った僕に、瑠璃子は「やっぱり?」と肩を竦めてみせた。
「わたしも気持ちが悪いのよ」
これだ。
店子のくせに、瑠璃子には商品への愛着がない。さては僕を「素敵でしょう」と洗脳して売り払おうとしたな。
「瑠璃子」
そのテには乗らないよ、という意味をこめて視線をやると、
「それにしても翡翠、あなた相変わらず早いわね」
どこ吹く風である、瑠璃子は涼しい顔をして話を逸らした。
人差し指で、自分のこめかみをツンツンと突いて「さすがだわ」などと嘯いている。
暗号解読のことだ。僕はつい苦笑してしまう。
「相変わらずは瑠璃子のほうだろ」
あんな易しい言葉の羅列、そもそも暗号だと呼べるレベルなのかも怪しい。
〝花一華 兎の刻 琺瑯の間 翡翠の嘴 下待つ〟
花一華はアネモネの和名だ。
この町でアネモネが咲く場所といえば、中央公園の花時計しかない。
兎の刻とは午前六時、干支を用いた昔の時刻の表し方だ。
瑠璃子は〝ウサギノコク〟と打ってきたけど。
「正しくは〝ウノコク〟だよ瑠璃子」
「あら……」
僕はだんだん可笑しくなってきた。
花時計は一時間遅れている、それが兎の刻を示すなら実際には七時だ。
〝エマイユ〟は琺瑯のフランス語にあたり、カワセミは漢字で翡翠――僕と同じ名前――と表記される小鳥。
その嘴を下待つ、というのだからあれは瑠璃子から僕への恋文だった。
「午前七時に〝エマイユ〟で僕のキスを心待ちにする、そういう意味に読め
たけど?」
「参ったわ」
降参、と、瑠璃子はたおやかに微笑んだ。
「アネモネは美少年アドニスが流した血から生まれたのよ」
「回りくどい愛情表現だな」
ギリシャ神話の伝説を持ちだす、瑠璃子の思惑など知れている。
愛と美の女神アフロディーテに恋をされたアドニス。
たかが人間にうつつを抜かす彼女のことを怒った恋人、軍神アレースは狩りをしていたアドニスを殺してしまった。
瑠璃子の言うアドニスが僕のことなら、さしずめ彼女はアフロディーテというところか。
そしてアレースは彼女の夫になるのだろう。
――血から生まれる。
「僕との子が欲しい、なんて言わないでよ」
静かに牽制すると、瑠璃子はフゥと唇を尖らせた。
「言わない言わない、まったく朝から変な会話だわね」
朝食でもどう? と、訊かれた。
「ミモザサラダ以外なら」
「我儘な子ねぇ」
手のひらで唇を隠してクスクスと笑う。そうして静々と上がり框の奥へ去りがてら、ふと振り向いた。
「ところで、あの子たちは翡翠のお友達?」
置いて来たはずの紅玉と兎々が、僕のうしろで地球儀を観察していたのだ。
ふたりは仲睦まじく、小さな顔で地球儀を挟んで僕をみた。
「後をつけて来ちゃった」
ニヒヒと何かを企むような笑みを零されて、眩暈がした。
この悪ガキが!