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◆兎々

 幼いころの記憶をリセットしてもらえるなら、僕はいくらでもこの胸をひらこう。

 あかね色の空。……空?

 違う。

 夕陽に染まる女の後ろ姿だ。頼りなげな細身を薄いコートに包んでいる。

 春だろうか? それとも秋だったろうか?

 女のその手には荷物と呼べるものはなく、ただ、美貌ひとつを財産として去っていく。

 少しは咎める気持ちがあるのだろうか。ふと、足を止めて振りかえる。


 ――窓辺に佇む息子ぼくを。


 夕陽がキラキラと眩しくて、僕はうまく女の顔をみることができない。

 微笑んでいるのか、泣いているのか、それとも無表情なのか。どちらにせよ、僕には何の慰めにもならず関係もないことだ。

 なぜ、こんな女がひかりで輝くのだろう。

 夫よりも息子よりも、べつの男を選んだこの裏切り女が。

 記憶の中の夕陽はずっと色褪せず、むしろ年々色濃く烈しくなっていく。

 燃えるのだ。

 僕のなかの〝憎しみ〟という炎が――……


 巨大隕石なら良かった。硝子みたいに無機質なこの惑星ほしを、一瞬にして破壊するほどの。

 高速回転する落下物――プラチナの炎塊――は、花びらみたいな半透明の残像をまき散らして〝ミモザの丘〟に衝突した。

 視覚と聴覚の均衡が危うい。

 それは不思議な無声映画を眺める気分だった。音がない。

 本来なら大地の砕ける衝突音があるはずだ。

 初めての衝撃的な映像と音響を予期していた僕は、拍子ぬけを通り越して茫然とみていた。静かに黄色い野花が舞い上がり、秘めやかに夜のとばりを彩るのを。

 遠くの町の花火を思い出した。

 窓辺から遠目に映るそれが、今みている光景によく似ている。

 無音のせいで、遠近感まで狂っていた。

 季節外れの花火の雫たちが、僕にはやけに別世界の賑わいにみえる。

 〝ミモザの丘〟のいただきに降り注ぐそれは、幸せそうな黄色に光っていたけど儚かった。

 光なんて希望でも歓喜でも祝福でもない。

 綺麗なものは儚く消えるのだ。

 星屑糖のように。


 ツンツン、と、薄汚れた袖を引かれた。

 初めて我に返った僕は、紅玉のつぶらな瞳が好奇心の光を宿しているのに気がついた。

「うさぎ」

 紅玉はそう短く言って窓の向こう、〝ミモザの丘〟を指差した。

「兎?」

 思わず訊き返した僕をみて、紅玉はコクコクと頷いた。

「うさぎ、落ちた」

「え?」

「うさぎ、拾って」

 まさか月から兎さんが落ちた?

 そんな童話があるにはあるけど信じられない。

 〝ミモザの丘〟の頂から、微かな灰色の湯気……いや、煙がユラユラとくすぶっている。

 小さな隕石だろう。朝になれば、天体新聞の片隅に掲載される程度の出来事だ。

 そう思うのに僕は、甘えたな紅玉に弱いのだった。つよく袖を引いてくる、丸こい手を冷たく払えない。

「行きたいの?」

 訊ねると紅玉は、首がもげそうな勢いで激しく頷いた。

 そんなにか。

 つい噴き出した僕につられて、紅玉もヘラリと弛緩した笑みをみせた。

 〝馬鹿な子ほど可愛い〟のは真実だと思った。

「行ってみよう」

 それで紅玉が喜ぶなら、何処にでも連れ出してやろう。


 〝ミモザの丘〟というのは正式名称じゃない。そもそも本来の名前を僕は知らなかった。

 〝ミモザの丘〟と呼ばれるのは、きっとその色彩がミモザの樹を連想させるからだ。

 冬でも枯れない詰草クローバーの緑と、黄色い小花の群生。

 遠目にはミモザサラダにみえる。

 僕には幸せの象徴だ。昔、母親がよく作っていた得意料理だから。

 家族みんなに笑顔があったころ、朝の食卓には必ずミモザサラダがあった。

 料理だと言えるのかも怪しい簡単なサラダだけど、幼いころの僕はそれが大好きだった。

 瑞々しいレタスの上に、ゆで玉子の崩れた黄身がパラパラと掛かっている。幼かった僕には、黄色いその飾りは夢のある星屑であり魔法の粉だった。

 楽しい朝の明るい食卓。

 窓から陽射しが差し込むように、人生にも希望や歓喜が溢れている。どんな絶望も悲嘆も現実には存在しない、それは哀しい童話の中だけの作り話だと。

 無条件に僕は、幼い心でそう感じて信じていた。

 だけど違った。

 現実はもっと苦しくて、悲しくて、酸っぱいものだった。母親手製の、爽やかな檸檬風味のドレッシングみたいに。

 二度とミモザサラダなんて食べたくない。

 愛なんて一過性のもの。

 いつかは消える幻に過ぎない、もう子供ではない僕はそう信じている。

 憎いのだ。

 僕はこの惑星ほしのあらゆるものが憎い。母親という女も、それを許した父親も、身勝手なだけの人間も。


 ――なにも知らずに自転するこの惑星すらも。


 吐いた息がたちまち薄荷のシャーベットに変わる。

 ひゅう、としなる北風のむちが丘の草花をなぎ倒していく。

 羊毛のコートの襟を立てて頬を守りつつ、僕は、紅玉の手を引いて〝ミモザの丘〟を登っていく。

 霜の割れる音。

 一歩、また一歩を踏み締めるごとに、足元から花粉のように黄色い花びらが舞い上がった。

 季節外れの蜜蜂が飛んでいく。

 勇気と無謀は紙一重だ。その小さな生き物は北風に巻き込まれ、螺旋をくるくる描いてくさむらへと落ちた。

 滑らかな紺碧の硝子に囲まれた、この人工惑星には四季という概念があるにはある。

 だけど実際、それは滅茶苦茶に狂っていた。

 水のある惑星をうまく真似たとしても、所詮はただの偽物。真冬に花が咲いて蜜蜂が飛ぶのだ。

 美しい硝子の天蓋は、天使たちが絹の布で磨いている。

 そんな夢をみていた時もあった。

 子供じみた馬鹿馬鹿しい白昼夢だと思う。それが真実ほんとうなら、世界はもっと暖かな愛に満ちているはずだ。

 遥かな夜空で星が瞬いている、意思をもつ瞳のように。

 もしもあの星が神様の目なら、僕らの行為の意味も感情も瞬きの間に見透かされてしまうのだろう。

 もっとも、神様なんて信じないけど。

 不意に、くぐもった声がした。

 〝ミモザの丘〟の大きな陥没に、涙の形をした光の雫たちがさやかに降り注いでいた。

「助けて……」

 苦しげな声の主に敬意を表するかのように、いつしか北風は鞭を納めていた。

 凪いだ夜気がピシピシと凍る。

「誰かいるんでしょ」

 助けて、と、こんどは明瞭な声が聴こえた。少女なのか少年なのか、どちらにも取れる柔和な声音だった。

「うさぎ」

 一言そう呟いて、紅玉はキャッキャと嬉しそうな奇声を上げて丘の頂点へと駆けた。

 天然の踊り子だ。

 足元から弾むミモザ風の植物。

 静電気のせいだろう。膨れた赤いコートの裾に、黄色い花びらが吸い着いて列をなす。

 蜜色の月光の下、それは黄水晶シトリンに装飾された深紅のドレスにみえた。


 辿りついた目的地は、縮尺した火山の噴火口のようだった。派手な大陥没の中から、微かに焦げた土の匂いが漂ってくる。

 何かが蠢いてガサガサと土を掻く音。

 正直こわい。

 みたこともない、巨大な土竜もぐらでも飛び出すんじゃないのか。そんな気もした。

 だけど紅玉は強かった。躊躇なく穴を覗きこみ、肩まで片腕をズイと突っ込んだのだ。

「あぁ、ありがとう」

 感極まった礼が聴こえた数秒後、穴から出てきた紅玉の腕には小さな兎――の姿をした少年がしがみついていた。

「助かったぁ」

 少年はコロンと地面に飛び降りると、土まみれのブラウスと半ズボンを両手ではたいた。

「死ぬかと思ったぁ」

 むしろ無傷なのは何故なのか。

 訝しくみつめる僕の視線に気がついて、少年はキョトンとした顔で「ん?」と首を傾げた。

 少年特有の柔らかな輪郭。黒曜石の瞳が嵌まった小顔をサラサラの銀髪が包みこんで、頭からは、信じられないが白い兎の耳がふたつ生えている。

 思わず僕は、ふたつの耳を重ねて掴んだ。グッと持ち上げると、

「何するの!?」

 浮いた足をバタバタさせて少年は、「痛いじゃないか!」と抗議してきた。

 僕は慌てて手を放した。

 転がり落ちる兎、みたいな謎の生き物が面白いのか紅玉が笑いだす。

「ちょっとぉ!」

「あ、ごめん」

 本物なんだね、と、ふつうの感想を漏らした僕は少年を怒らせたようだった。

「この立派な耳は王家の象徴だよ!? きみ、もしかして僕のこと知らないの!?」

 当然だけど知らない。若干、おののきながら僕は「ごめん知らない」と頷いた。

 途端に逆立った兎の耳毛。

「僕は兎々(とと)! 満月王の末っ子!」

「……ごめん」

 僕はもう謝るしかない。

 そんな僕のせいで少年は自尊心を傷つけられたらしい。かたく両手を握り締めて悲痛な叫びを上げた。

「信じられない!!」

 信じられないのはこっちだ。


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