Dope Memory
結局一か月近く経ったし、しかも短い。
なんということでしょう。
嗅いだだけで吐き気が込み上げてくるような匂いがあふれていた。
あたりは絵の具でぬりたくられたように赤い色で染め上げられ。
肉が裂け骨が砕ける音が静かに響く。
そのたびに俺の全身は俺の意思とは関係なしに震え、汗が滲んだ。
口の中はもう血まみれで、舌は味覚が麻痺してぬめった感触ばかり脳に伝えてくる。
何もかも、酷いありさまだ。
友達は一人もいなくなって。
いつか恩返ししようとしていた大人たちはただの血袋に成り下がって。
思い出がいっぱいだった校舎はボロボロに壊れて。
四方には、見たこともないような化け物の集団。
――俺の命は、そこで尽きかけていた。
いいことなんて一つもありゃあしない。何もかも、地獄というたった一つの言葉ですべて表現できた。
(……明日のことは誰にもわからないなんて言うけど……ここまでくりゃあもう詐欺だな……)
命の危機にいるというのに、俺は乾いた笑みを浮かべていた。
死んだ。
みんな、死んだ。
昨日まで怪我一つなかったヤツらが、あっという間に四肢を千切られ。
いつか大会で優勝することを夢見てた運動部の友達は、その夢を壊され。
親孝行がしたいと言っていたヤツは、その未来を奪われ。
俺は、もうすぐ自分の恋人と永遠の別れを迎えることとなる。
俺の胸の中で、優花は死にかけていた。胸には大きな穴が開いて、そこから鮮血があふれるように流れ出てくる。
止めたくても止まらない。もう彼女からは温もりがなくなりつつあった。
さっきまで聞こえていたかすかな吐息も今はなくなって。
彼女がもう動かなくなるんだと。人はいつか死ぬんだと、俺は思い知らされていた。
たった一日経っただけで、こんなことになるんだ。
悲観するよりも。もう、笑うしかなかった。
「あぁ……あは……はははは……」
優花を抱きかかえて、涙を流しながら俺は笑う。傍から見れば俺は狂っていただろう。
いや、狂ってしまいたかった。
自分の何もかもを壊して、何も考えることも感じることもなくなればいいとさえ思えてた。
狂って狂って、何もわからなくなって。そのまま、死にたい。
これから俺はきっと、そこいらに転がってる友達『だった』肉塊と同じように、肉と骨を引き裂かれて死ぬんだろう。
きっととても痛いんだろう。でもそれは構わない。むしろ当然の罰だと思った。
約束一つ守ることができなかった俺など、苦しみ悶えて死ねばいい。それでもまだ足りないと思えるくらいだ。
だけど、そうしたら優花と離れてしまう。
それが、何よりもつらい。
それだけは、堪えられない。
それだけは、味わいたくない。
だから狂ってしまいたい。
ただ何もわからなくなったまま、地獄へ堕ちて。そうして、消えてしまいたい。
……俺の末路なんて、そんなもので十分だと思った。
「はは……はははは……」
優花の身体を、壊れてしまうんじゃないかと思うくらい力強く抱きしめる。
最後の一瞬まで、彼女と一緒にいたい。
諦めて自ら命を絶つこともできる。だけど、約束だからそれはダメだ。
健やかなる時も、辞める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も、これを愛し、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くす。
助けることはできなかった。だけど、命ある限り俺は彼女を愛すると決めた。
俺は優花をずっとこうして愛で続ける。その約束だけは、守らなきゃならない。
そう。最後の一瞬まで。
「は……はは……あ……あぁ……く……うぁ……あぁぁ……ぁぁ……」
堪え切れず、涙を流す。
どうして、こうなってしまったんだろう。
昨日は、普通だった
昨日まで、何もなかったはずだったんだ。
友達は生きていた。
恩師は時に俺を叱ったり、時に俺を褒めたりしてくれた。
それまでと変わらず夢を追いかけていた友達がいた。
自分を支えてくれる家族のことを幸せそうに語ってくるヤツがいた。
優花は笑っていた。
俺も彼女の傍に立って、今みたいに抱きしめていた。
今と違って彼女は温かくて。
早鐘を打つような鼓動がこっちにも伝わってきて。
緊張したような、でも安らいでいるような吐息が聞こえてきて。
幸せそう、だった。
……俺も……幸せだった……
「ちくしょう……ちくしょう……ッッ!」
悔しげに歯を噛みしめる俺。でも俺には抗う力も術もなかった。
ただ俺にできることは、ここで死の恐怖におびえることだけ。
そしてすべてを失った今。
生きる希望も、ありはしない。
俺の中で首をもたげていた怒りは静かに絶望に飲み込まれ……消えていく……
そうなる、はずだった。
『クソつまんねェなァ……』
不意にどこからか聞こえてきた、壊れたラジオから響いてきたような掠れた声。
ビクリと震えて俺は、いったい誰がしゃべっているのかとあたりを見回す。
『そうやってクソ惨めに死ぬのがお望みか? 持っていたもの全部奪われて、絶望してそれで終わりか?』
だけど誰もいない。ここには俺たちを殺しにかかってきた黒い化け物と、友達の死体しかない。
言葉を、ましてや声を出している生き物なんて存在しなかった。
『つまんねぇ。つまんねぇぞクソ人間が。もうちょい楽しませろよ、そうでなきゃこっちが面白くねぇんだ。チンケな悲劇なんざ観客は見たくもねぇ。価値もない劇の脚本なんざクソくらえだ』
だけど、そいつは俺に語り掛けてきた。
ここにいてここにいない誰かが、俺を挑発するように耳障りな声でしゃべってくる。
まるでラジオの波長を合わせるように声の掠れはなくなったり出てきたりを繰り返した。
『番狂わせが欲しいなぁ……それもほんのちょっとしたもんなんかじゃねぇ、クソみてぇにデカいヤツがいい! サイコーにとち狂ってサイテーなくらい場を引っ掻き回してくれねぇとなァ!? 物語のジャンルが変わっちまってもいいねぇ、サバイバルホラーから一方的な虐殺になる、なんてもんでもいい! とにかくそういうのが俺はお望みだ!』
それはまさしく狂気に満ち溢れていた。
嬉々とした様子でこちらにひっきりなしに言葉を放ち続けるそいつからは、もう正気というものを一切感じられなかった。
ただ、楽しんでいる。いや、楽しみにしている。
この場で繰り広げられている虐殺を、ではない。
これからの展開を。
すべてをぶち壊してしまいかねないような、そんな物語の進展を、だ。
「なァ。そんな芝居の主役になるつもりはねぇか?」
完全に、波長が合わさったように。声からはノイズが消え去った。
「キャスト募集中だ。オーディションに合格すりゃあ一発で決めてやるよ、人間」
」
******************
「…………」
悪夢から、彰は目を覚ました。
どうやら雑魚悪魔どもとの戦いの後、疲労で倒れてしまったらしい。
窓から光が入ってきていることから、すでに夜は明けてしまったようだ。
だいぶ長い時間を眠っていたため疲れは取れている。しかし、寝覚めは最悪だ。
それもそうだろう。あんなものを夢で見せられて、いい気分になどなれるはずがない。
「……ちっ」
苛立たしげに舌打ちすると、彰は
まずは五体の確認。もはやこれが覚醒したときの日課となっている。
手は動くし、どこも痛まない。
足も屈伸できる。もちろん違和感はない。
指を動かすとカチン、と鍔が鳴る音がした。どうやら刀は握ったまま眠っていたらしい。
最近の習慣でなってしまったとはいえ、他人の家で得物を持ったまま眠るというのがどこかおかしくて彰は薄く笑う。
とりあえず手足の無事と武器の行方を知ると、彰は上体を起こした。
起きてみるとそこは彰の知らない部屋の中だった。参考書と思われる本、趣味の小説などが本棚にはきちんと整頓されている。
この部屋の主の持ち物だと考えられるくまのぬいぐるみが数点、目覚まし時計と並んでベッドに配置されている。装飾の色合いなどから、部屋の持ち主が女性であることがうかがえた。
勉強机が窓の傍にあり、その上はまるで使われたことがないかと思うほど綺麗に掃除されていた。その横には音楽プレイヤーとともに多くの洋楽CDがセットで置かれている。
(ジョン・メイヤーにマルーン5……バックストリート・ボーイズにワン・ダイレクション……)
あちこちに目をやれば、どれもこれも彰が知っているアーティストばかりだ。まぁ有名どころが集まっているだけのかもしれないが。
「ここの主とは仲良くなれそうかねェ、あ~きらっ?」
と、そのときどこからか人の神経を逆なでするような猫なで声が聞こえてきた。
あのときから今まで、何度も聞いてきた声だったが、未だにその不快感は彰の中で消えることはなかった。
そして見た夢が夢だったために、いつにもまして彰は苛立つこととなる。
「……何の用だ、シヴァ」
そして彰は、自分の背後に現れた『そいつ』に問いかけた。
シヴァと呼ばれたそれは、彰と全く同じ姿をしていた。
同じ髪、同じ背丈、同じ顔。何もかもが鏡写しのようにそっくりで気味が悪いくらいだ。
唯一違う点は、左右の目の色が彰とは逆になっており、右目が金で、左目が茶色であることだ。
シヴァは彰の言葉を聞いてムッとしたように頬を膨らませる。
「いやぁ? 洋楽CD見てちょっと嬉しそうな顔してたらからどうしたのかな~って。それに何の用だもないでしょ彰。こっちの気にもなってよ、暇なんだから」
「お前の事情なんか知るか」
「ひっど。話相手がお前しかいないのにそんな扱われ方してたんじゃショックで死んじゃうよぉ~」
「そんなので死んでくれるのなら俺としてはとってもありがたい話なんだが」
「残念ながら死にませんな。うん」
クヒヒ、と口をこれでもかというくらいに広げて、シヴァは笑う。
顔が全く同じだけに、彰はいっそうそれを気味悪がった。
シヴァ。
こいつは、彰に憑りついている悪魔だ。
いや、憑りついているという言葉では正しくない。今の彰とシヴァは『融合』した存在だと言えばいいだろう。
もう彰とこいつの魂は固く結ばれており、一つのものと化しているのだから。
今彰の目の前に現れている『これ』はシヴァの意思が形を持ったものであり、現実に存在しているものではない。
よってこれは彰にしか見えないうえに、その声も彰にしか聞こえない。
つまりシヴァからしてみれば話し相手は必然的に彰しかおらず、そのためシヴァはひっきりなしに出現しては彰に絶えず話しかけてくるのだ。
それが彰は鬱陶しくてかなわない。
暇だから、という理由で寝ているときも何かをしているときも構わず、こちらに語り掛けて来ようとするのだからそれもそうだろう。
……力を貸してくれているのはありがたいが、そうでなかったのなら斬り殺しているところだ。
「何度も言ったはずだろうが、俺はおまえと話す気もおまえの言葉に耳を貸す気もないってな」
「ああ、俺だってできれば黙っておまえのこれからを見続けてたいもんさ。しっかし今のところ面白いことも何もないんだ、クソ退屈でしょうがねェ」
「……だったら最初から俺なんかと一緒にならなきゃよかったんだろうが」
「それじゃもっとつまんねェ。弱い悪魔とか人間をいたぶるのはもう飽きた。こういうもんのほうがまだ新鮮で楽しいしな」
「……楽しい、ねぇ」
急に冷めた表情に変わると、フヨフヨと浮遊するようにシヴァは部屋の中を動き回り、やがて勉強机の上にふわりと腰掛ける。
そう。
こいつは特に理由もなく俺との融合の話を持ち掛けてきた。
強いて言うなら『退屈』だったかららしい。が、どうにも彰には納得できなかった。
悪魔と人間の魂の融合は、はっきり言って悪魔側には何もメリットがないのだ。
人間側は、悪魔の超常的な力を使用できること、傷を受けても瞬時に再生できる強靭な肉体を得ることができるなど、様々なメリットがある。
だが、悪魔には何もない。
それどころか、相手はすべての自由が奪われる。
人間側の意識を抹消し『支配』するならばまだしも、こちらの意識が残ったまま、しかも彰がこの肉体を支配している状態のまま放置しているのだ。
下手をすれば彰が死んだとき、シヴァもそのまま死ぬ。
それがわかっているはずなのに、こいつはその状況を笑いながら楽しんでいる。
いったい何が面白くてこんなことをやっているのか、彰にはさっぱりわからない。
ただわかるのは……こんな状況に陥っても笑っていられるこいつは、今まで出会ってきた悪魔の誰よりも狂っているということくらいだった。
「……気持ちが悪い」
「そいつはどーも」
未だにふよふよと空間を漂いながら部屋の部屋の中を物色する己の半身を見て、忌々しげにつぶやく彰。
それに対してシヴァは不気味にほほ笑むだけだった。
「で、彰。これからどうするわけ?」
ふと思い出したように、シヴァは彰に向き直って問いかける。
「……優花を探す」
「手がかりないのに?」
「また〝絆〟を辿る」
「それで今回は見当違いのとこに来たのに?」
シヴァのその言葉を受けると、彰は片眉をピクリとわずかに動かす。
その表情の変化を見抜いたのか、シヴァは嬉々とした様子で口を動かし続けた。
「それにしても残念だったなァ。まさか優花がブレスレッド落しちまってるとはね、おかげでこびりついた優花の気配を勘違いして追っちまってたわけだ。とんだ無駄足だったわけだにゃ~?」
――これだから、彰はこの悪魔が嫌いだ。
無視を決めこんでずっと反応もしないまま黙っていても、こいつはずっと話しかけてくる。
そして、彰の心を揺さぶる言葉を吹きかけ続けるのだ。
憤怒、焦燥、悲哀、憎悪。
あらゆる負の感情へと彰を誘いこむ、悪魔の姿がとある一軒家の部屋の中にあった。
「彰がこうしている間にも、優花は悪魔に怯えて逃げ惑う。彰が悪魔を斬るときに、優花は悪魔に殺されかける。難儀なもんだな、姫様役のキャストも。一緒にいてくれるはずの、自分を守ってくれる騎士は不在。このままいけばもれなく悪魔の餌箱行きだな、クヒヒヒヒ」
彰の頭上に浮き、彼を見下しながら歌うようにシヴァは言葉を放つ。
それを見上げる彰はわずかに口角をあげるが、その目は全く笑っていなかった。
「……日ごろからウザったいとは思っていたが、今日はまた一段と目障りだな。もう言いたいことは全部終わりか? 消えろ」
「ほらほら彰、そんなこと言ってる暇こそないんだぞ? 一秒だってもったいない。さっさと優花を探して走れ走れー♪ じゃなきゃ――」
ザンッ!! と。
シヴァの姿があったその場所の空気が、彰の刀によって斬り裂かれる。
本来ならばその一撃は、彼の首と胴体を泣き別れさせるはずだったが、もうそこにシヴァはいなかった。
「――また後悔するぞ~。何もかも失った、あの日みたいに」
その言葉を残して、シヴァは消え去った。彰の胸の奥に、己の半身への憎悪だけを残して。
もう気配はない。声も聞こえない。
彰はまた、一人になった。
「……言われなてともわかってる。そのくらい」
理解している。
そんなことは言われなくとも、彰はわかっている。
しかし、事は予想以上に複雑になってしまっていた。
まだ彰は、シヴァの悪魔としての力を十全に扱うことができていない。そのせいで彰は優花と優花の装飾品の気配を取り違え、今回のような面倒事を引き起こしてしまった。
気配は追える。しかし今回のように、優花があちこちに自分のものを落としたまま悪魔から逃げ回っているとしたら、彼女を見つけるのは非常に困難なこととなってしまう。
こんなところをうろうろしている時間などない。腹立たしいが、これについてはシヴァの言う通りだ。
これからいったいどうするべきか、彰が考えあぐねいていたそのとき、
ガチャリ、と。
「……あ、もう起きたのか」
部屋の主、朝倉 恭子が扉を開けてやってきた。
もうちょい、執筆スピードあげたい。
まだ主要人物がほとんど出てないしなぁ……