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St.Slaughter  作者: 陸海空人
3/4

encounter

だいぶ間あけちゃったな。

できれば週一、最低でも月一で投稿したいものだ。

「……よし、だいたいこんなものか」

 必要なもの以外は特に置かれていない少し殺風景な部屋の中で、恭子は学校の宿題と予習をおおかた終えると満足げにそうつぶやく。

 一時間ほど机に向かって集中していたため、体はもうガチガチだ。恭子は両手をあげて大きく伸びをする。

 先ほどまではかなり落ち込んだ気分ではあったのだが、なにか別のことをやればそれもどうやら紛れるものであるらしい。

そんなことを思いながら、恭子は音楽プレイヤーを操作してお気に入りの『ジョン・メイヤー』の曲を再生させ、部屋を出た。

 三大ギタリストの一人によって奏でられるアコースティックギターの美しい音色と歌声とが見事にマッチした曲を聴きながら、恭子は鼻歌交じりに階段を下りていく。

 

 家に帰ったとき、まだ恭子の父親はおらず、誰もいなかった。

 普通ならばもうとっくに家に帰っているところなので首をかしげたのだが、ちょうどそのときを見計らったかのように『仕事で帰宅が遅れる』とのメールがあった。

 このメールがやってきたときは大抵、当日中には帰らない。つまりすぐに夕食をつくる必要もなくなったのだ。これ幸いとばかりに恭子はまず自分の課題を行うことに集中した。

 そして課題も今は終わったためか、さっきとは打って変わって恭子は清々しい気分になっていた。

 ちなみにそのメールに混じって瑛士からのSOSメールも届いたが、目に留まったその瞬間に恭子は無視することに決め込んでいる。

 台所に入ると冷蔵庫からお茶を取り出してコップに注ぎ、恭子はそれを一気に飲み干す。勉強ばかりをしていてカラカラに渇いていた喉が潤うとまた少し元気が出て、もうひとふんばりしようという気分になってきたので、恭子は料理に取り掛かる。

(さっきはだいぶ頭を使って疲れたからな……やはり簡単なもので済ませてしまいたい気持ちもある。とりあえず今ある材料で何ができるか少し考えてみるか……)

 自分がどれを食べるのかをひとまず考え、すぐに決断すると恭子は壁にかかっていたエプロンを取ってそれに着替える。

「よし……っと、ん?」

 そのとき音楽プレイヤーをしまおうとして恭子はポケットの中に手を入れたのだが、何かに触れた感覚があった。

 感触からして金属のようだが、いったいなんなのか気になって取り出してみると、帰路の道中に拾った、アクセサリーだった。

「……あー……」

 無意識のうちに持って帰ってきてしまったらしい。いったいどうしたものか。

 つくりはとても簡単なもので、それほど価値はないように見える。落とした人物ももしかしたらもう探すこともせずに放っているかもしれない。が、勝手に私物化するというのもなんだか気が引けてしまうものだ。

「なんでこんなものを持って帰ってしまったのか……はぁ」

 まぁ、あまり考えすぎる必要はないのかもしれない。父親はもちろん、こんなものを自分で使おうとも思わないし、もう捨ててしまおうか……


 と、そんなことを思っていたとき、

 カシャン、と。外から物音が聞こえてきた。

「?」

 まるで鍵のしまった門を開けようとしたときに鳴る音のようだった。

 誰か来たのだろうかと最初は思ったが、どうにも怪しい。父親なら鍵を持っているはずだ。ほかの人がやってきたのならば普通ならインターホンを鳴らすのに、どうして玄関を開けようとするのか。

 不審者でもやってきたかと怪訝に思いながら、恭子はエプロンを脱いで玄関に向かう。

「……」

 なんとなく物音をたてないように動いてのぞき穴から外を確認してみたが、どこにも人らしき影は見当たらなかった。

 念のためにチェーンをかけながら玄関を開ける。

 そっと隙間から外の様子を見る恭子。しかし、やはりそこには誰もいないようだった。

(なんだ? 誰かのイタズラか?)

 首をかしげながら、恭子はそのまま扉を閉めようとする。

 そのとき。


 バギンッ!! と。

 恭子の目の前で、いきなり扉がはじけ飛ぶように開けられた。

「――――はい?」

 衝撃的な光景を目の当たりにして、恭子は目が点になる。

 唖然とした恭子の頬を外から流れてくる風がそっとなでるように通り抜けていくのが、夢のような出来事の中で妙にリアルに感じられた。

 続いて外の方で重く鈍い音が響く。暗くてよく見えないが、きっとチェーンごと引きちぎられた扉が投げ捨てられたのだろう……と、恭子は錯乱しながらもふとそんなことを考えた。

 恭子の目の前に、焦燥に駆られたその表情を屋内の明かりに照らされて、男は姿をあらわす。


 黒い髪。顔は凛々しく端正で、見るところ恭子とあまり年は変わらない東洋人の青年だ。

 185センチほどはあろうかと思われるその長身は、全身がまっ黒な服装で覆われている。黒いコート、黒いブーツ、手袋も黒で、もうじき夏を迎える今の季節には少々合わないものばかりだった。

 だが、それよりももっと目を引く特徴が一つある。

 その青年の――それは、親や家族からの遺伝なのかもしれないが――両目の色が、違っていた。

 彼の右目はダークブラウンの色をしているのに対し、左目はそれと相反して輝かんばかりの金色だ。

 いわゆるオッドアイと呼ばれる人、なのだろうが――右目はともかく、左目はどうだろうか? 金色の虹彩など聞いたことがない。グリーンやアンバー、ヘーゼルなどと比べてもその目はそれらより明るいし、色がまず違う。

 いや、というかそんなことはどうでもいいとして……いったいいきなり現れた目の前のこの青年はなんなんだ?

 今、扉にいったいなにをした?

 と、際限ない疑問の渦に恭子がとらわれている中、目の前に現れた青年は無言で堂々と家の中へと侵入していった。しかも土足で。

「…………えっ? あっ、おい!」

 しばらくの間茫然自失していた恭子だが、家主が目前にいるにも関わらずの暴挙に出た青年を見てハッとなり、慌てて腕を掴んで制止しようとした。


 ぐじゅり。


「え?」

 恭子の手に伝わってきた感触は、明らかに腕とは違うものだった。

 触れたそれに骨の固さはなく、まるでひき肉のように抵抗もなくそれは変形してしまう。

(なんだ? この感しょ――)

 と、頭の中で疑問符が一瞬浮かんだが、それは次の瞬間に吹き飛んだ。

 びちゃり、と生々しい音をたてて、青年の腕から大量の血が滴り落ちた、そのときに。

「ひっ!?」

 赤黒いその液体は、こぼれたその床の上をゆっくりと広がっていく。

 むせかえるほどの鉄くさい臭いが鼻をつく。ぬめりとした生温かい感触がして、恭子は自分の手を見てみる。

 彼女の掌にはおぞましいほどの量の血がこびりついていた。背中に冷水を流し込まれたような感覚がしたと思うと、吐き気が込み上げてくる。

「うっ……」

 しばらくの間、恭子は血で汚れた床を見続けたまま呆然としていたが、恭子はあることに気が付く。先ほどの青年が、いなくなっていたのだ。

 まさかと思い、恭子はすぐにリビングまで飛び込む。

 案の定、青年はリビングの中へと侵入しており、キッチンやテーブルの下やら、何かを探し回るかのように部屋のあちこちをまわっていた。

「おい貴様、勝手に何をしてくれている!」

 恭子がそう叫んでも、家探し(?)をしている青年はまったく聞こえていないかのように続行したままだ。

 黙々と行動しているが、そこにはどこか焦りの色が見えている気がする。

 のっぴきならないことで焦って周りが見えていないのか、それともただ単に無視しているだけなのかはわからないが、どっちにしろどこの誰ともわからない赤の他人に家の中をうろつかれていい気分はしない。

 いくら怪我人であるとはいえ、いきなりの無礼講は容赦しない。とにもかくにもお帰り願おう。

「おい、聞いてるのかおまえ!」

 無駄だとわかっていても、恭子は青年に声をかける。相変わらず無反応なままだと思ったが……

 その瞬間、青年はふらついて力なく跪いた。

「――っ」

「お、おい!?」

 慌てて恭子は青年に近づいた。

 荒い呼吸音が聞こえてくる。その音に合わせて青年の肩は上下に激しく動いていた。

 片手を床に置いて支えている体は、小刻みに震えている。

 しかも黒いコートにまぎれてよくわからなかったが、よく見ればあちこちが血まみれだ。明らかに無視できない重傷を負っていることがわかった。

 それでもなお、青年は立ち上がろうとした。

「おまえ怪我してるんだろ!? もう動くな、すぐ救急車呼んでやるからじっとしてろ!」

 さっきまで家の中をうろつかれていたことも忘れて、恭子は青年を制止させると、携帯電話をポケットから取り出す。

 だがそのとき。

 ビチャリ、と。血で湿った手が恭子の腕を掴んだ。

「ッ!?」

 驚愕した恭子が青年の方を見やると、彼は首を横に振っていた。

「……そんな……時間は……ねぇ……」

 ヒュー、ヒュー、と。次第におかしくなっていく呼吸を間において、青年はそう言った。

 いつ、目の前で倒れるかもわからないような状態であるにも関わらず、青年はボロボロの体に鞭打って立ち上がると、恭子の腕から手を放す。

 手をおいていた床と腕には、べっとりと赤い手形がついていた。

「ど……こだ……優、花……」

 かほそい声で、青年は誰かの名を呼ぶ。

 ――優花?

 人の名前か? と恭子の中で疑問が浮上したが、今はそんなことはどうでもいいと頭の隅に追いやる。

「もういい、とにかくおまえは休め。そのままだと死んでしまうぞ……ユウカ、だったか? 私が探してやるから」

 半ば懇願するかのように恭子は青年に言い聞かせる。

 こうでも言わない限り、目の前の青年は止まってくれそうにもない。それこそ死ぬまで動きまわりそうだ。

 だが青年はまた首を横に振った。あくまで自分で探すつもりらしい。

 もう無理やりにでも病院に引きずり込むべきかと、恭子がそんなことを考えていたそのとき。

 青年はふとテーブルの上を見て、信じられないものでも見つけたかのように目を丸くした。

「……ぁ?」

 青年につられて、いったい何事かと恭子もテーブルの方に目をやった。

 青年の視線の先にあったのは、恭子が帰宅途中で拾った、ブレスレットだった。

「……? これが、どうかしたのか?」

 恭子が手に取って見せてみると、青年は目を見開いて食い入るようにそれをじっと見つめた。

 まるで魂が抜けた抜け殻にでもなったかのように。青年はそのブレスレットだけを眺めている。

 恭子は何度か青年に声をかけたが、自分の世界に入り込んでいるようでこちらの声が聞こえていない。

 その様子を見た恭子は呆れてため息を吐くが、今のこの状態なら病院にまで運ぶことができるのではないかとふと思った。

 考えるが早いか、恭子は青年を置いて電話を取りに行こうとして、




 首に、日本刀の切っ先を向けられた。

「……へっ?」

 恭子は混乱せずにはいられなかった。

 いつの間にそんなことをしたんだとか、この青年は何も持っていなかったはずなのにどうして日本刀を持ってるんだとか、どうして自分が首元に凶器を突き付けられているんだとか、そんな考えで頭の中がごちゃごちゃになる。

 だが、恭子のそんな疑問は次に青年の目を見た瞬間にすべて吹き飛んだ。

 それはまるで、この世界の負のすべてが集まってできた塊のようなものだった。目は怒りと憎悪にまみれたまっ黒な感情であふれ殺意でギラつくそれは、ありとあらゆる不幸とまき散らし、災厄を呼びよせるようなものに恭子は見えた。

 その視線で恭子を射抜いたまま、青年は口を開く。

「……なんでだ」

「あ、は……え?」

 恭子は突然の青年の問いかけに戸惑う。

 なんでだ、などというのはこちらが聞きたいことなのに。

「……なんでお前がこのブレスレットもってやがる……!!」

「え、ええ? いや、その……それは……」

 有無を言わさぬその青年の気迫に押され、恭子はたじろいだ。

 だが、青年はそんな恭子の心情も何も意に介さず、より強い口調で恭子を問い詰める。

「誰からもらった!? いったいこれはどこで手に入れた!?」

「ひ、拾った、思わず拾ってしまったんだ!」

 思わず恭子は青年からの問いかけに答えてしまう。

 すると青年は目を白黒させ、ポカンと口を開けたまま呆然とした。

 だが次の瞬間に目つきは戻って鋭くなり、さっきよりももっと激しい怒りを宿す眼光を恭子に放ってきた。

「拾っただと……」

 恭子は、青年の憎悪のこもった言葉に戦慄する。

 その手に持つ刀はワナワナと震え、いつ恭子の喉を貫いてもおかしくなかった。

 それと同時に、大気も心なしか震え始めた気がした。

 いや、大気だけではない。

 テーブルが。

 コップが。

 花瓶が。

 食器が。

 テレビが。

 壁にかけたカレンダーが。

 まるで、青年の激昂に共鳴するかのように。そこにあるすべてが、振動し始めていた。

「テメェ……テメェが余計なことをしてくれたせいで……クソ……!!」

「お、おい、何が何だかよくわからんが、待て、話を――」

「Silence(黙れ)!!」

 今にも彼女をバッサリと斬り捨てそうな勢いの青年を制止しようとする恭子。だが彼女の声は、青年の怒声と彼女の目の前にまで突き出された刃によってかき消されてしまう。

 そして恭子が黙ったのをみると、青年は片手を出して口早に恭子に命令する。

「命が惜しかったらさっさとそいつを俺に返せ! 早く!」

 どうしたのだろうか。先ほどまでとは違って、その行動には焦りの色が見える。

 よっぽど大事なものなのだろうか。いったいどうしてこんなにまで必死になるのか、恭子にはわからなかった。

 しかし、ここはおとなしく言うことを聞いておかなければ本当に首と胴体が泣き別れになってしまいそうだ。

「わ、わかった、わかったから刀を収めてくれ!」

「ああ、刀も引っ込めてどっかに消えてやるからさっさと渡せ! モタモタしてるとヤツらが来るんだ、早く!」

 青年の凄まじい剣幕に押される恭子は反射的にブレスレットを差出し、青年はそれを受け取ると懐に入れて納刀する。

 ひとまず危機が去ったことに恭子は安堵した。

 だが。


 ――キャハハハハ……


「……え?」

 突然どこからか聞こえてきた、壊れた再生機器から出てきたようなすり切れた笑い声。

 まるで子供のように無邪気なものだった。しかしそれは子供の持つような微笑ましいものではなく、何かが狂ってしまっているような……身の凍るような悪寒が込み上げてくる何かをもった笑い声だった。

(なん、だ……今の……?)

 その瞬間、その場の空気が急激に重くなっていくような感覚を、恭子は感じた。

 錯覚とも思ったが、明らかに先ほどとは空気の質が変わっている。

 全身に小さな針が突き刺さったかのように、肌がピリピリと痛む。

 異質で強烈な臭気が部屋中に立ち込め、恭子は今にも吐きそうな気分になった。

 異変を感じ取ったのか、青年は窓に駆け寄って家の外の様子を見る。

Son of a(クソッタレ)……!!」

 青年は忌々しげにそうつぶやくと、今にも柄を握りつぶしてしまいかねないくらいに刀を握る手に力を込める。

 目は先ほど恭子に見せたものよりも明らかに殺意と怒気が濃くなり、それを見た恭子は先の笑い声とは違う意味で身が竦んだ。


 ――キャハハハハ……


 再び、笑い声が部屋の中で響いた。

 すると水道、花瓶、マグカップ、ありとあらゆる水のある場所から噴水のようにまっ黒な水が噴出する。

「!?」

 泥水よりも濁っていて、漆よりも深い黒で塗りつぶされた、水。

 それはあっという間に恭子たちのいる部屋の足場を黒く染め上げていき、やがては彼女らの足首ほどの高さにまでやってくる。

 下に何があるのか全くわからない程にまで黒く濁りきった地面は、まるで地獄への入口であるかのように恭子には感じられた。


 ――アハハハハハハ……


 三度目の、笑い声。

 狂気ともとれるほどの喜びを込めたその声とともに、『それ』はやってきた。

 黒い水がいくつも泡立ち、それはやがて等身大にまで膨れ上がる。すると水はゆっくりと何かの輪郭を作り始めた。

 最初こそ朧げなものだったが、やがてそれはくっきりと人間のそれに近いものを模っていった。

 それは、かなり細いなりをしてはいるが形こそ人間のようなものだった。

 だがその全身は先ほどの黒い水のように漆黒で包まれていた。

 顔の部分には目や鼻、耳のような器官らしきものは存在しないのっぺりとしたもので、かろうじて口と思しき裂け目が顔の下についているだけだった。

 現れた数体は――目のような器官がないにも関わらず――恭子たちを見ると、彼らを囲うようにして二人に歩み寄る。

 生まれて初めてする赤子のようにおぼつかない足取りだったが、この生き物からはそんな微笑ましさは一切感じられない。むしろその化け物のような形姿と表情もあって不気味さしか感じられなかった。

「あ……ぁ?」

 まるで現実味のない光景だった。

 立て続けに起こるあり得ない現象。そして恭子の目の前に現れた謎の青年と、嘘濾紙い姿をした怪物。

 夢でも見ているんじゃないかと思ってしまうほどに、何もかもが恭子の知る普通の世界とかけ離れていた。


「アーッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」


 唐突に、化け物の一匹が狂ったように高笑いを始めた。

 ビクッ! と身体を震わせ、目を剥く恭子。


「アハ、アハ、アハハハハハハ、アーハハハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハ!!」

「キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハハハ!」


 すると他の化け物も同じように笑い声をあげる。

 閉じられていた口は一気に耳元まで裂け、ギラリと光る鋭い牙をむき出しにしていた。


 カタカタと、恭子の身体が震える。

 怖い。

 見る者すべてに恐怖を与えるあの怪物たちが。

 心身の温もりを奪いつくす笑声が。

 まるですべての幸福が消え去ってしまったかのような、この空間が。


 すべてが自らの命を脅かす敵になってしまったかのような恐怖が、彼女の身体を束縛した。

 心臓が狂ったように早鐘を打ち、手や足がどんどんと冷たくなってく。

 全身から嫌な汗が拭き出し、悪寒が走る。

 逃げ出したくても足が動かない。

 ただ恭子は、自らに近寄ってくる恐怖の権化を見ていることしかできなかった。


 そのとき。

「ボサッとするな……!」

 不意に、恭子の腕を掴みとる一つの手。

 ハッとして振り返れば、そこには青年がいた。

 次の瞬間化け物は跳躍し、鋭い爪をかかげて恭子と青年に襲い掛かった。

 細くか弱く見える肉体からはとても想像できないような瞬発力を発揮し、化け物は恭子たちとの距離を詰める。

 だがそれよりも青年は速く動き、恭子をとっさに抱きかかえると、横にはねて化け物のの攻撃を回避した。

 そのまま青年と恭子は窓から家の庭へと飛び出る。

「きゃあ!?」

 バリン! と派手な音をたてながら粉々に割れる窓ガラス。

 それに続くような形で化け物たちも外へと出ると、すぐに二人を中心にして円陣を組む。

 さっきまでのふらふらとした日本足立から化け物は一転して野生の獣のように四つん這いになって身構える。

 ふしゅるふしゅる、と息を荒げて青年を睨むその姿は、もはや人間ではなく獲物を狙う猛禽類を彷彿とさせた。

 青年は首を動かさず、目だけを動かして周囲を観察する。

 化け物はもちろん、家の外の方にも目をやると、家は透明な紫色の膜で覆われていた。

 それはまるで恭子の家と外界を遮断する壁のようで、それを見た青年はおもむろに舌打ちをした。

「ご丁寧に結界付きとはな……追跡者はどうにも大したことなさそうなんだが」

次に自身らを囲む化け物らを一瞥すると、忌々しそうに言葉を吐き捨てる。


「Do training it properly. Connect to the collar, foolish demons……(躾けくらいちゃんとしとけ。首輪くらいつけろよクソ悪魔どもが)」

 唐突に青年は英語で化け物たちへと話しかける。

 それは実に流暢で綺麗な発音であり、外国人のそれと全く遜色ないほど上手なものだった。

 だがそんな青年の言葉などまるで聞こえていない――もしくは聞いていない、理解できないのか――かのように、その化け物たちは邪悪な笑みを浮かべるだけだった。

 それを見た青年は、まるでゴミでも見るかのような冷めた目であたりを見渡し、やれやれといったように首を振った。

「笑うだけで英語も理解できない低能のクズか……力も大したことねぇくせに、怪我人相手ならこれで十分だとでも思ったのかよ……はっ」

 そう吐き捨てて、鼻で笑う青年。

明らかに相手を侮蔑する辛辣な言葉だが、言語を理解できない化け物には彼の言っていることなど知るはずもなく、ただただ薄気味悪い笑みを浮かべるだけだった。

「お、おい! なんでそんな余裕たっぷりでいるんだ、早く逃げないと! というか怪我!」

 やっと正気に戻った恭子だったが、青年が先ほどから相手を小馬鹿にしてばかりで何もしない様子を見て、慌てた様子で青年を呼びかける。

 さっきまで怪我でフラフラだったというのに、こんな過激な運動をして平気なはずもない。自身にも危機が迫っているというのに、今にもこの青年が倒れはしないかと恭子は気が気でならなかった。

 だが、そんな彼女の心配とは裏腹に青年は平気な様子でいる。むしろさっきよりも元気になっているのではないかと思うほどだ。

 青年はチラと恭子の方を見て面倒くさそうに顔をしかめた。

「結界があるから無理だ。それにお前を抱えたまま逃げるのも面倒くさい。ここで斬る」

 そう言い放った。


 ……いや、おい待て。こいつは今なんと言った?


「……は!? き、斬るって、おまえ……いたっ!?」

 恭子が素っ頓狂な声をあげ、何かを言おうとしたところで乱暴に振り落される恭子。

 優しさの欠片もない降ろされ方をされた彼女はもちろん盛大に尻餅をつくこととなる。

 そんな恭子のことなどまるで気にもかけず、青年は一歩前に出て化け物達を睨みつける。

「C’mon(来い)」

 ご丁寧に右手で挑発の動作もする始末だ。恭子が急いで止めようとしたところでもう遅い。

 何を言っても何の効果もなかった化け物達だが、青年のこの言葉――それとも動作か――に煽られたのか、一気に青年めがけて跳びかかる。

 青年はそれでも――怪我のせいなのか、それとも余裕の表れなのか――全く動かず、左手に納刀した刀を持ったままその場で仁王立ちしている。

 前方からの一匹の化け物が眼前にまで迫り、次の刹那の瞬間にはその爪で切り裂かれようかというところにまできた。

 斬られる。

 直感的にそう思った恭子は、今更間に合いもしないのに「危ないっ!」と叫ぶ。

 その時青年は一歩だけ右に動き、その兇刃から逃れる。すれ違いざまに柄頭で化け物の顎を殴った。

 そこから手首を少しだけ捻り、柄頭を中心に刀は時計回りに円を描く。鞘の先端が左から襲い掛かってきた仲間に当てられ、青年はそこで少し屈んた。

 するとそれらは反対方向から跳びかかった仲間と青年の頭上で激突し、塊となって空中を漂うこととなった。

 本来ならばただすれ違うだけで済んだのかもしれないが、青年の攻撃で軌道を変えられ激突することを回避できなかったのだろう。

 まるでその瞬間を狙いすましていたかのように、流れるような動作で青年は刀を持つ手を切り替え、柄に左手を置く。


「――Rest in peace(安らかに眠れ)」


 ザンッ!! と。

 その場で青年は独楽のように回転して抜刀し、それら全てを一刀のもとに斬り捨てた。


「……え?」

 一瞬の出来事。ただその一言に尽きた。

 恭子はいったい目の前で何が起こったのか把握しきれなかった。それほどまでに今の一連の所作は素早かったのだ。

 浮遊していた化け物は、青年の斬撃のもとに真っ二つにされたのちに地面に転がり、ただの肉塊と化す。一部のものに至っては着地したその途端に身体が分裂するものもいた。

 斬り裂かれた肉の断面からまっ黒な血が噴出し、庭は一気にその血の色で染め上げられる。

 青年はそれらを何とも思う素振りも見せずに、刀についた血を振り払って納刀する。


 そんな青年を、恭子は茫然として見つめていた

 この青年は何者だ? 突然風のように現れたかと思えば、恭子の身の周りで次々と怪奇現象が発生している。

 そして何より、あの悪魔のような化け物達を目前にしても全く動じず、一蹴してみせたその実力。

 本当に、何者なのだ?

「……惚けるな。次が来るぞ」

「……あ、ああすまん……って、へっ?」

 青年に呼びかけられて我に返る恭子だったが、続け様に言い放った青年の一言にまた凍り付くことになる。


 ……次?


 浮上した恭子の疑問の答えは、すぐに出現した。

 割れた窓から、まるでダムが決壊したかのように黒い水がこちらへと流れ込んできた。

 すぐに恭子たちの足元は水で満たされ、化け物の血を混じえて渦巻いていく。

 そこで再び、地獄が姿を現した。


「アハハハハハハハハハハハハハハハ!!」


 地獄からの使者が大量に生まれ、あっという間に恭子宅の庭を埋め尽くしていく。

 それを平然とした顔つきで青年は眺め、柄を握るとボソリとつぶやいた。



「humph, show your motivation, bullshit(ハンッ、やる気を見せてみろよ、屑どもが)」



 まだこの日の恭子の悪夢は、始まったばかりだった。


英語のスラングとか、自分で作った英文とか使ってみましたけど、もしおかしなところを見つけましたらご報告ください。

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