橋の上で
男の足音を聞いた。
まだ日も昇っていないような真っ暗な時間に外を出歩くのは酔っぱらいか狂人かのどちらかだろう。だが、この男は残念ながらそのどちらでもない。
霧の立ち込める街、その街の中心を流れる一本の川。その上に掛る古めかしい石造りの橋の上で男は生気の失せた顔を川の水面に向けていた。その様子はまるで今にも橋の上から身を投げてしまいそうである。そんな感じがしてしまうのも無理は無い、何しろこの橋は身投げの名所だ。この石橋の上で立ち止まるのは自殺志願者か、道に迷った余所者かのどちらかなのだ。
もちろんこの男は前者である。人生を苦にして自ら命を断とうとしている不憫な男だ。
男は名をミヒャエル・ゾーリンゲンという。無論、実名ではない。筆名、つまりはペンネームである。しかし、このミヒャエル・ゾーリンゲンという名を知っている者はこの街はおろか国中を探したとしても一人としていないだろう。何しろ彼は全く無名の売れない小説家なのだから。
数え切れないほど賞に応募しては落選通知を突き付けられてきた。自費出版の話を持ちかけられたが手元に残ったのは大量の在庫、返本、そして借金の山。もう絶望だ。
小説は売れない上に生活は苦しい。ここまで来たらあとは病死するか自殺するかのどちらか、か。まあ、よくある話だ。
まあ、そういったわけでミヒャエル・ゾーリンゲンは欄干に足をかけて、数十年の人生に自ら幕を下ろそうとしたのだった。
「おいおい、何をしてるんだ。こんな暗い中で」
しかし、懐中灯の光がパアッと橋の上を照らして、誰かの声がゾーリンゲンを呼び止めた。
「見ればわかるでしょう、今から僕は飛び降りるんですよ」
欄干越しにゾーリンゲンは誰かも知らぬ者に言い放った。
「ほお、そりゃまた何でだい?」
「何だっていいでしょう。僕はもう辛いんだ。小説は売れない、毎日借金取りがやって来る。もう生きていても辛いだけだ」
「ふうん。だけど、死んでも碌なこたあないぜ」
「うるさいな。じゃあ、僕はこれからどうすりゃいいんだよ。一生売れないまま、借金取りに怯えながら生きろっていうのか? そんなの芸術家にとっちゃ死んだも同然じゃないか!」
「まあ、落ち着きな。よくある話じゃないか、売れない作家が死後認められるってのはな」
「何だよ、僕が死んでから認められるとでも言いたいのか? ふざけるな、そんな証拠何処にもないじゃないか。それに世間に認められてもそれが死んだ後となっちゃ虚しいだけだ!」
「早合点しなさんな。俺が言いたいのはそういうことじゃない。死後に認められる作家もな、あと少しだけ、そうほんの少し長生きできてりゃ生きてるうちに称賛を手に入れれたかもしれねえんだぜ。勿体ねえ話だよな」
「そんなの詭弁さ。結果論だ。このまま僕が生き続けていても成功する保証なんて何処にもない!」
「まあ、確かにお前さんが売れるかどうかは俺にもわからんさ。何かお前の書いたものを見てみない限りはな」
「そこまで言うなら見てみろよ! ほら、つい先日落選して突き返された原稿だ!」
ゾーリンゲンはポケットからくしゃくしゃになった原稿用紙の束をその男の前につき出した。男はその原稿をぺりぺりとめくり懐中灯で照らしながら一枚一枚じっくりと目を通した。
「面白いじゃないか」
男は読み終わると原稿用紙の束を奇麗に折りたたんでゾーリンゲンに感想を告げた。
「へっ、慰めはよしてくれ」
「いや、これは素人目に見ても相当面白い作品だぜ。これを落とすなんざ、審査員どもも随分と見る目がないと見える」
男はそう言うと、ポケットから札を数枚取り出してゾーリンゲンに差し出した。
「な、なんだい。この金は」
「俺の知り合いに腕の良い編集屋がいるんだ。そいつにこれを紹介してやるよ。そいつは結構顔が広いからな、有名な作家二、三人に推挙して貰えりゃ賞なんてすぐ手に入るさ。こいつは原稿料みたいなもんさ。どうせ碌なもん食ってないんだろ? 死ぬのなんか止めてそれで何か美味いもんでも喰えばいい」
男はゾーリンゲンのポケットに金を無理矢理ねじ込んで名前も告げずにそのまま何処かに行ってしまった。懐中灯の明かりはどんどん橋から遠ざかっていき、橋の上はまた夜闇の暗さの中に包まれていった。
日が昇ったとき、橋の上にはゾーリンゲンの姿は無かった。もちろん彼の水死体が上がったと言う話も聞いていない。
聞いたところでは、明け方のパン屋で買ったライ麦パンを泣きながら頬張る彼の姿を見た人がいるそうだ。
*
半年後、ミヒャヘル・ゾーリンゲンの名が国中に広がることになる。文壇の大御所、ヨハン・エンデが彼の作品を「近年稀に見る名著」と大絶賛したためである。出版社の印刷機はミヒャエル・ゾーリンゲンの文章を刷るために稼働し続け、店頭に並んだぶ厚いカバーの小説はすぐに店頭から姿を消していった。まるで国中にミヒャエル・ゾーリンゲンという名の熱病が流行ってしまったかのようだった。
しかし、この名声がミヒャエル・ゾーリンゲンの耳に届くことは無かった。というのも彼はもうこの世にいないからだ。ちょうどひと月前にあの橋から身を投げて死んでしまったそうだ。よほど生活苦に堪えられなかったのか、それとも芸術家としての自分に憤ってしまったのか。遺書は無いため、その理由を知る術は無い。もう少し長く生きていれば、彼もあれほど望んでいた名声を手に出来たというのに。何とも虚しい話である。
さて、時は少し流れる。世間の異常なまでのゾーリンゲン熱も少し冷めてきた頃だろうか、男の足音を聞いた。
まだ日も昇っていないような真っ暗な時間、例の石橋の上で一人の男が例の如く欄干を乗り越えて今にも冷たい川の水に身を投げいれようとしていた。
男の名はゲジヒト・ハインベルク。無論、実名ではない。所謂、筆名、つまりペンネームである。彼もまた小説が売れず、生活苦の中、死を決意してこの橋にやって来たのである。
しかし、冬の川は見るからに冷たそうで、ゲジヒトの足はカタカタと小刻みに震えていた。
「おいおい、何をしてるんだ。こんな暗い中で」
飛び込むのを躊躇していると、懐中灯の光がパアッと橋の上を照らして、誰かの声がゲジヒトを呼び止めた。
「み、見ればわかるだろう、今から僕は飛び降りるんだよ」
欄干越しにゲジヒトは誰かも知らぬ者に言い放った。
「ほお、そりゃまた何でだい?」
「何だっていいだろう。僕はもう辛いんだ。小説は売れない、金も尽きた。もうパンを買う金すら無い。もう死ぬしかないんだ」
「ふうん。だけど、死んでも碌なこたあないぜ」
「うるさいな。じゃあ、僕はこれからどうすりゃいいんだよ。一生売れないまま、飢えに怯えながら生きろっていうのか? そんなのもう死んだも同然じゃないか!」
「まあ、落ち着きな。お前さん、ゾーリンゲンって知ってるかい?」
「ゾーリンゲン? 今、売れに売れてるミヒャエル・ゾーリンゲンのことか?」
「ああ、そうだ、そのゾーリンゲンだ。半年ぐらい前だったか、あいつも今のお前みたいに飛び降りようとしててな。まあ、俺はそれを止めたさ。ほんの少しでも長生きしてりゃいつか売れるときが来る、ってな」
「だけど、ゾーリンゲンは売れる前に死んでしまったじゃないか」
「ああ、そうさ。あいつも馬鹿だよな、もう少し長く生きてりゃ世間の称賛を目にすることが出来たのにな」
「僕はゾーリンゲンとは違うさ。才能も無い、もう死ぬしかないんだ」
「まあ、待て。お前さんに才能があるかどうかは俺にはわからんさ。なにせまだお前さんの小説を読んだわけじゃないからな」
「じゃあこれでも読めよ! ついこないだ落選通知と一緒に返された原稿だ!」
ゲジヒトはポケットからくしゃくしゃになった原稿用紙の束をその男の前につき出した。男はその原稿をぺりぺりとめくり懐中灯で照らしながら一枚一枚じっくりと目を通した。
「面白いじゃないか」
男は読み終わると原稿用紙の束を奇麗に折りたたんでゲジヒトに感想を告げた。
「ほ、本当か?」
「ああ、これは素人目に見ても相当面白い作品だぜ。これを落とすなんざ、審査員どもも随分と見る目がないと見える」
男はそう言うと、ポケットから札を数枚取り出してゲジヒトに差し出した。
「な、なんだよ。この金は」
「俺の知り合いに腕の良い編集屋がいるんだ。そいつにこれを紹介してやるよ。そいつは結構顔が広いからな、有名な作家二、三人に推挙して貰えりゃ賞なんてすぐ手に入るさ。こいつは原稿料みたいなもんさ。どうせ碌なもん食ってないんだろ? 死ぬのなんか止めてそれで何か美味いもんでも喰えばいい」
男はゲジヒトのポケットに金を無理矢理ねじ込んで名前も告げずにそのまま何処かに行ってしまった。懐中灯の明かりはどんどん橋から遠ざかっていき、橋の上はまた夜闇の暗さの中に包まれていった。
日が昇ったとき、橋の上にはゲジヒトの姿は無かった。もちろん彼の水死体が上がったと言う話も聞いていない。
聞いたところでは、明け方のパン屋で買った黒パンを泣きながら頬張る彼の姿を見た人がいるそうだ。
*
それから数年の月日が経った。しかし、ゲジヒト・ハインベルクの名が文壇に上がることは無かった。噂では生活苦に堪えかねて、彼はとうとう橋から身を投げたそうだ。
『男の水死体上がる 投身自殺か』という記事が地方紙の片隅に載ったがこれがゲジヒト・ハインベルクのことかは確かめる術がない。その新聞紙はバサリと閉じられ、コーヒーの置かれた机の上に投げるようにして置かれた。
ふう、と新聞の前で溜め息を吐くのは例のあの男、橋の上で見たあの男である。
「アレはもうゴミになっちまったかな」
すっかり冷めてしまったコーヒーを啜りながら男は、机の引き出しを開けて一つの、原稿用紙の束を取りだした。その原稿には筆記体でGesicht Heinbergと綴られているように見えたが、男はその原稿用紙をビリビリと千切り出したのでそれが誰の書いたものなのかはもうわからない。そして、その破片はひらひらとゴミ箱の中に落ちていった。
「ゾーリンゲンの方はいい金になったんだがな。まあいい、また他を探せばいいことだ」
男はそう言うと、コートを羽織って部屋を出ていった。バタンとドアの閉まる音がする。
主のいなくなった部屋は何も語りはしない。ただ机の上に乱暴に置かれた新聞の一面には『ミヒャエル・ゾーリンゲンの幻の原稿見つかる 愛好家の間で数百万で取引』と書かれていた。