徒花
何処まで落ちていくのだろうか。
この長いトンネルを進んだ先には何があるのだろうか。
今私は落ちている。
落下している。
落ちていく。
不思議なものだ。
もう何も思い出すことができない。
「こうなったのも、あなたのせいよ」
「冗談はよしてくれ、君のせいだろう」
私は今落ちている。
でも、それはどうしてだったか。
思い出せない。
「あれ、わたし。なにをしていたのだっけ」
「君が知っているのだろう?私に聞かないでくれ」
「”わたし”って何?”私”って何?わたしはわたしなの?」
どうして落ちていたのだろう。
思い出せない。
記憶をたどる。
思い出せない。
「誰か教えてくれないか。私はなぜ落ちているのだ」
「知らないわ、あなたが教えて頂戴」
「きっと疲れているのだ、これは夢に違いない」
目をつむり、視覚をシャットダウンする。
音が聞こえる。
落ちていく音だ。
空気の音だ。
風の音だ。
私が、落ちていく音だ。
だがどうして私の思考は、一向に夢から覚めないのだ?
「ねえあなた、これが夢じゃないことくらい分かっているでしょう?ふざけていないでどうにかしなさいよ」
「ふざけてなんかないさ、これは夢なんだ。こんなことはありえない。君も私の夢ならば黙りたまえ、私はいま起きようとしているのだ」
「はあ、もうそれ108回目よ。いいかげんにしてちょうだい。あなたの盲言に付き合ってる余裕はないのよ」
落下の感覚。
もう慣れてしまった、日常の感覚。
あれ、日常ってなんだっけ。
落ちていく。
偶然か、必然か。
そうだ、あの日はドライブをしていたんだ。
それで、
それで、どうなったのだっけ?
「少しは落ち着いた?」
「ああ、少しばかり落ち着いた気もする」
「あなたはいつも曖昧ね。もうすこし頼りになればよいのだけど」
「うるさいな、君も文句ばかりで何もしないじゃないか」
「だったらこの状況をどうにかしてみなさいよ!」
「それはすまない」
永久とも思える時間。
落ちていた。
ただ落下していた。
落ちていく。
先の見えない、明るいトンネルを。
「どれくらいたっただろうか」
「もう18日目よ。どうして生きているのか不思議だわ。何か変なものでも食べたかしら。」
「そんなもので不死身になったっていうのかい?冗談じゃない。」
「あら、ナイフで刺したのをまだおこっているの?いいじゃない。死ななかったのだし。」
「いつまで続くんだこの穴は!どうしてこうなった!」
「知らないわよ!あなたが思い出しなさい!」
あれ、どうしてだったか。
そうだ、妻が死んだんだ。
あれ、妻が死んだんだっけ。
そうだ、妻が死んだんだ。
ああ、そうだった。
本当に?
どうにかなってしまいそうだ。
苦しい。
落ちるだけなのに、苦しい。
どうしてこんなに苦しいのだ。
ああ、そうか、妻が私の首を締めているのだ。
どうして?
「どうして首を締めるんだい?」
「何かあるかもしれないじゃない。あなたの口から何か出てくるかもしれないわ」
「苦しいからやめてくれないか?」
「冗談じゃない。私が殺されちゃうじゃない」
「どうせ不死身だろう?だったら変わらないさ」
「嫌よ、あなたが死んで」
「力が入らないんだ。空気をいただけないだろうか」
「あと18時間経ったらね」
「ああ…」
意識が薄れる。
明るい光を背に、妻が見える。
落ちていく。
落下していく。
落ちる。
私は落ちた。
そうだ、落ちてしまったのだ。
思い出してきた。
私はトンネルに落ちたのだ。
トンネルに落ちた?
一体どうして?
わからない。
わからない。
わからない。
どうして、妻はそんな顔をしているのだ。
「そんな顔しないでおくれ、美しい顔が台無しだよ」
「あら、お世辞かしら。あなたに向ける感情なんて、ほんの少ししかないわよ」
「かなしいね」
「独りよがりね。自分勝手はやめてほしいわ。さっさとここから出る方法を考えなさい」
「君、そればかりだね。わからないと言っているじゃないか」
「わからないなら考えなさい。あなたの悪い癖だわ。すぐに諦める」
「わからないことだらけなんだ。」
言葉が泡になって水面へ上がっていく。
私とは真逆に進んでゆく。
あれ、どうしてだ。
どうして私は落ちているのだ。
忘れてしまった。
何もかも、おもいだせない。
「私は誰だ」
「知らないわよ、あなたがかんがえなさい。そんなことより、私の体知らない?確かあなたの後ろ辺りを飛んでいたんだけど」
「それなら、あそこを飛んでいるじゃないか。君の左後ろだ」
「ああ、ほんとね。ありがとう」
どうしてこんなことをしているのだっけ。
どうしてこのトンネルから抜け出そうとしていたのだっけ。
段々思考がクリアになっていく。
そうだ、思い出せないんだ。
何も思い出せないんだ。
だからどうしようもないのだ。
でも、何を忘れたのだっけ。
そもそも、本当に忘れたのか?
「私は、私なのか?」
「しらないわ。わたしも知りたいわよ。」
「私の記憶は、本当に私のものだろうか」
「何をいっているのかわからないわ」
「…私もだ。何を言っているんだ」
段々日が沈んでいき、夕暮れの光がトンネルに差し込んでいた。
夜になると星が見える。
落ちていく。
このさきには何が待っているのだろうか。
自分が上を向いているのか、下を向いているのかもわからない。
ただ、落ちているのだけがわかる。
落ちていく。
落ちる。
落下している。
落下していく。
どうして?
きっと何かの引力に引き寄せられているのだ。
「何に引っ張られているのだろう」
「独り言?わたしもう寝たいから、静かにしてよね」
「ああ。すまない」
なんで引っ張られているのだ。
どうしてだろう。
でも、足がつかない恐ろしさを感じる。
何か恐ろしいものに近づいているのではないか。
はて、どうして落ちているのか。
私ももう一度目をつむり、眠る準備を始めた。
頭を下にしていると、脳に血が溜まって寝起きの気分はさいあくだ。
だから起きたら最悪の気分だ。
「起きなければいいじゃないか」
「ダメ」
「どうしてダメなんだい?」
「そんなの、自分でかんがえなさい」
「冷たいな。いつからそんな風になってしまったんだい?」
「うるさい。私は寝たいの。静かにして頂戴」
「こんなやり取り、何回目だっけ?」
「ええと、まだ10回目とかじゃない?」
「嘘だ、87回じゃなかった?」
「嘘じゃないよ」
わからないで頭がショートしそうだ。
私はめを瞑り、目を見開いた。
あれ、どうして君がここにいるんだ。
思い出せない。
君って誰だっけ。
名前は?
「あれ、?」
そこに君はいなくなっていた。
「どうして、何処に行ったんだ」
「いるわよ、ここに」
そこに君は居た。
どうしてかわからない。
「君、名前はなんだっけ?」
「知らないわよ。あなたが付けなさい。」
「あれ、最初から…?」
「どういう意味かわからないわ」
「ああ、ああ…」
落ちていく。
落ちていく。
何処までも、落ちていく。
どうして落ちていくのか。
わからない。
君が何者なのか。
そうだ、妻だったはずだ。
あれ、私に妻はいたのだっけ。
思い出せない。
落ちていく。
その繰り返し。
「朝よ」
「そうか」
「どうしたの?あなたがそんな顔をするなんて珍しい」
「少し…な」
「脳内の友達と喋るのはたのしい?」
「…!?今、なんて」
「いいえ、何でも」
ああ、もう何もわからない。
わからないが重複している。
停滞している。
渋滞している。
変わらない景色。
トンネルの灰色の壁と、橙色の蛍光灯。
思考を放棄ししたい。
もう何も考えたくない。
頭はとてもクリアだった。
「変なことを聞くが、君は私の幻覚なのか?」
「そんなわけないじゃない。何、いつから私が幻覚に見えているの?」
「いや、だよな。すまない、変なことを聞いて。」
「最初からに決まっているじゃない」
「私には君がわからないよ」
「冗談」
「…」
ああ、わからない。
君の名前を思い出したいのに。
「あれ、私は誰だっけ」
「……」
「なあ、何か知ってるなら教えてくれ!」
「……」
妻はもう反応しない。
頭がからっぽだからだ。
目も飛び出して、血液が首からドバドバと上に落ちている。
「君はいいよな、何も考えなくてよくて」
落ちたら私は何処へ行くのだろう。
トンネルを抜けたら、何処へ繋がっているのだろう。
空の光が差し込んでくる。
「あなたほどじゃないわ」
星が私の手に落ちた。
私は落ちている。
甘い匂いがする。
砂糖菓子のようだ。
「そうだ、君にプレゼントがあるんだ」
二人だけの時に渡そうと思っていた。
私は妻の手に、空気を手渡す。
「うん、よく似合っているよ」
そうか、そうだった。
あの日は妻との結婚記念日だった。
「…ッ」
痛い。
頭が、痛い。
落ちていく。
あの日、なにがあったんだっけ。
頭を抱えることすら、ままならない。
「ああ、ああ、ああ…」
もう言葉を返す人もいなかった。
落下して、落ちている。
ただ、落ちている。
「…きて」
妻はもう、目を覚まさなかった。
私は頬に手をおき、死体に口づけをする。
落ちていく。
「起きて」
今度ははっきり聞こえた。
入口の方から聞こえる。
私は落ちていた。
落ちていった。
落ちていく。
「起きて!」
あまりにも強く扉を叩くものだから、私は玄関へと向かった。
「はーい」
扉に手をかけ、戸は開かなかった。
鍵が閉まっていた。
鍵がないとあけられないようだ。
ドンドンドンドンと、激しく扉がノックされている。
「ちょっとまってくださいー」
私は落ちていく。
たしか、トンネルの底においていたはず。
「待ってあなた」
「どうしたんだい?」
「これを探しているのでしょう?」
「ああ、そう。それだ」
妻の手には幼い少女が握られていた。
私の大切なものだ。
「娘をわたしてくれるかい?」
「…しょうがないわね。今回限りよ」
妻は優しく微笑み、鍵を手放した。
私はあわててそれをキャッチする。
視界が歪み、空がねじれ、私は空に落ちていった。
扉がある。
まだノックの音が聞こえる。
振り返ると、そこには何もなかった。
「起きて!!!」
意識が持っていかれる。
轟音と共に、世界は崩れていく。
「パパ!!!」
娘の声が聞こえた。
真っ白な視界が、色で彩らえていく。
私は娘の手を握っていた。




