白い聖者の黒い計略:教室を支配する必勝法
6年1組の教室は、春の埃っぽさと少しだけ尖った自意識の匂いがした。
班ごとに厚紙と折り紙が配布された。担任の千夏先生の指示に従って工作をする。完成したのはオセロの石と盤だった。
クラスメイトと交流を深めるために、休み時間や放課後を使って各自が全員とオセロで対戦するという活動が行われることになったのだ。
「オセロなんて運だろ? 誰がやっても同じだよ」
田島は余った折り紙で飛行機を作って、ふいっと飛ばした。すぐに墜落。隣の席の航が拾い上げた。
「オセロってルールは単純だけど、勝ち方はひとつじゃないんだ。あ、そうだ。いい本がある。明日、貸してあげるよ」
その時の田島は、航の親切を疑いもしなかった。
教室の壁に貼り出された、まだ真っ白な星取表。それが、自分たちのプライドや、隠していた本性を浮き彫りにする残酷なキャンバスになるとは、この時誰も気づいていなかった。
翌日の朝、田島が登校するとすぐ航に呼び出された。連れて行かれたのは人気のない階段だった。
「これ、約束の本。昨日の夜、本棚から探しておいたんだ」
差し出されたのは、少し角の擦れた新書だった。『オセロ・必勝の手筋』という無機質なタイトルが、かえって本気を感じさせた。
「わざわざ、ありがとう」
田島はそれを受け取り、パラパラとページをめくった。中には、複雑な盤面の図解がびっしりと並んでいる。
「これ、読めば勝てるようになるのか?」
「うん。みんなは『挟めば取れる』としか思ってないけど、実はオセロって『いかに石を取らないか』が大事なんだ。中割り、ウイング、X打ち……。定石を三つ覚えるだけで、このクラスの誰にも負けなくなるよ」
航の声は低く、周囲には聞こえないような配慮が感じられた。二人だけの秘密を共有しているような、その共犯者めいた響きに、田島は少しだけ優越感を覚えた。
「でも、こんなの教えてもらっていいのかよ。航のライバルが増えるだけだろ」
田島が少し皮肉っぽく笑うと、航は一瞬、困ったような、それでいてひどく穏やかな笑みを浮かべた。
「田島だから教えるんだよ。友達だろ、俺たち」
その言葉は、いかにも航らしい誠実さに溢れていた。続けて田島の肩にポンと手を置き、盤面の図を指差した。
「特にここ、角の取り方。わざと角を献上して、その後の展開で圧倒することもできる。相手は勝ってるつもりで、実は負けに向かって走ってる。面白いよね」
航の指先は、図の中の真っ黒な石をなぞっていた。
教室に戻る航の背中を追いかけながら、田島は渡されたばかりの武器を強く握りしめた。
翌週から始まったリーグ戦で連勝街道を爆進したのは田島と航だった。やはり定石の力は偉大だ。石を多く取ることしか考えていないクラスメイトたちに勝つのは簡単だった。中盤を終えて共に25勝0敗。優勝争いは二人に絞られていた。
この辺りでライバルを叩いておいた方がいいと意見が一致して、昼休みに直接対決をすることになった。クラスメイトの注目を集め、田島と航はギャラリーに囲まれながら石を打った。
航との戦いは一進一退が続いた。互いに相手の打ちたい手を消し合う玄人好みの戦いだった。優劣不明で終盤を迎える。黒と白の陣地が混ざり合っている。全てのマスが埋まってもどちらが勝ったのかはすぐにはわからなかった。
33対31。勝ったのは航だった。
「ほとんど勘だよ。運がよかった」
航は照れているようだった。一方、田島は悔しさを抑えきれずに天を仰いだ。
「最後に間違えなければ俺が勝ってたのに。うっかりミスで。うっかりさえなければ勝てたんだよ」
ギャラリーに聞いて欲しかった。特に女子に聞いて欲しかった。
星取表に黒丸を記入すると、田島は気を取り直して梨沙子の席に向かった。オセロの対戦を申し込む。確実に勝てる相手との試合を敢えて残しておいたのだ。
梨沙子は6年1組に在籍しているが、ほとんどの授業をあすなろ教室で受けている。知能が低く、特別な支援が必要なのだ。掛け算九九の二の段も怪しい梨沙子は、挟めない場所に石を置くこともしばしばあった。その度に田島は苛立った。
「そこは違うって。置けるのは、こことかここ」
指で一例を示してあげるが、それは田島に都合がいい場所ばかりだった。もちろん梨沙子は気づいていない。航に負けた憂さ晴らしをするために、盤が半分ほど埋まったところで梨沙子の石を全滅させた。
「すげー! コールド勝ちじゃん。やっぱり田島は強いよ!」
観戦していた男子が大きな歓声をあげる。いい気分だった。
田島はその後も勝ち続け、34勝1敗で全員との対戦を終えた。一方、航は、まだいくつか試合を残している。その中には、将棋の県大会3位の男子や受験塾に通う秀才の女子との対戦がある。二人なら航に勝つ可能性がある。二人が共に勝てば田島の優勝が決まる。
航が盤に向かっている姿を見ると、田島は逃げるように教室を出た。勝負の行方を見守るのが怖かった。
5時間目が始まる直前、教室に戻った田島は絶望した。航は強敵二人にしっかりと勝っていた。残すは梨沙子との対局のみ。つまり、田島の優勝はなくなった。
ドッジボール、サッカー、陸上競技、水泳などスポーツでは航にかなわない。しかし、勉強では互角か少し上だと思っている。だからこそ、オセロでは勝ちたかった。優勝してクラスメイトの称賛を浴びている姿を航に見せつけてやりたかった。
放課後、航は梨沙子と盤を挟んだ。ギャラリーが集まる。田島は仲間からの誘いを断り、一人でさっさと帰宅した。航が優勝する瞬間など、死んでも見たくはなかった。
翌日の学級会。教卓には、千夏先生が自作したペットボトル製のトロフィーが置いてある。
「では、優勝者を発表します。成績34勝1敗。田島君。同じく、航君。二人が6年1組のオセロ名人です」
拍手の渦に包まれる。まさかの奇跡、航が梨沙子に負けたのだ。
「トロフィーはひとつしか作ってないの。二人で掲げてくれるかな」
航と並んでトロフィーに手を添え、高々と掲げた。
その瞬間、拍手の音は一段と大きくなった。だが、クラスメイトたちの視線の先が自分ではないことを、田島は肌で感じていた。実は、奇跡でも何でもなかった。
今朝、教室の隅で聞いた女子たちの囁きが、拍手の音に混じって田島の耳で繰り返される。
「航くん、うまく負けてあげたんだって」
「りーちゃんが喜んでるのを見た航くん、本当に嬉しそうだったよね。私たちもほっこりした」
航は何も語らない。照れることも、誇ることもなく、ただ穏やかに前を見据えている。その横顔には、勝利を誇示しようと躍起になっていた田島の浅ましさを、音もなく消し去ってしまうような圧倒的な静けさがあった。
視界の端で、一番前の席に座る梨沙子が、千切れんばかりに手を叩いている。彼女の無垢な笑顔が、田島には凶器に見えた。
梨沙子の石を全滅させた俺は、何なんだ……。
航が梨沙子に与えたのは勝つ喜びだった。一方、田島が梨沙子に与えたのは、自分の惨めさを埋めるための踏み台という役割だった。
「先生は、オセロ大会を開催して本当によかったと思っています。みんな、オセロを通していろいろ学んだと思います。先生もみんなからたくさんのことを教えられました」
千夏先生は涙ぐんでいた。田島は思わず目をそらした。ふと、隣の航が視界に入る。
航は相変わらず穏やかな、普段と変わらぬ顔をしていた。けれど、その視線の先にいたのは、ハンカチで目頭を押さえる千夏先生だ。
千夏先生が自分に向けた信頼と感動の眼差しを、航は一滴もこぼさないように、静かに、そして貪欲に受け止めているようだ。口角が、一瞬だけ、勝利を確信したように持ち上がったのを田島は見逃さなかった。
もしかすると、航にとって、オセロの勝ち負けなんてどうでもよかったのかもしれない。オセロ盤よりもっと大きな盤面で、教室の全員を利用して、千夏先生からの特別な愛情を手に入れたかっただけなのかもしれない。
航に貸してもらった本には、こんな必勝法は書いてなかった。手に持ったペットボトルのトロフィーが急に重たく感じる。航と二人で掲げているはずなのに、田島は、自分の手がもうどこにも届いていないような気がした。




