7話 鏡の中の虚像、皿の上の甘い罠
空が夜の暗闇に染まりかける頃、俺たちは屋敷へと帰り着いた。
重厚な扉の前で、案内役を務めたチーターのようなネコ型の魔物たちが、揃って地面に腹をつけて頭を垂れる。
彼らはもう、俺に対して牙を剥くことはない。
絶対的な王に対する恭順の姿勢だ。
「……ご苦労だったな。戻っていいぞ」
俺が声をかけると、彼らは安堵したように喉を鳴らし、闇夜の荒野へと散っていった。
その背中を見送りながら、俺はふと、自らの手を見つめる。
まだ、殴った時の感触が残っている。
血の匂いと、骨を砕く感触。
華奢で白く、傷ひとつない少女の手。
けれどこれは、確かに暴力を振るい、他者を屈服させるための凶器だった。
「ふふ、名残惜しい?」
背後から、イリスお姉さんが楽しげに声をかけてきた。
「いや……ただ、あいつらにも生活があるんだなと思って」
「そうね。でも、今日からはミアの駒よ。命じれば死ぬし、命じれば殺す。そういう契約だもの」
お姉さんは残酷な事実を、今夜の夕食の話でもするようにさらりと告げた。
そして、疲労で足元がふらついた俺の肩を自然な動作で抱き寄せる。
「さ、お家に入りましょう。泥だらけの体を綺麗にして、甘いものでも食べて……泥のように眠りなさい」
耳元でささやかれる甘い言葉。
それは労いであると同時に、外の世界は過酷だけど、私の檻の中は快適でしょう?という、逃れがたい誘惑でもあった。
◇◇◇
血と汗と砂埃で汚れた体を洗い流し、破れた服を新しいものに着替えて、夕食を済ませたあと、俺はようやく解放された。
自室の扉を閉めて鍵をかける。
カチャリ、という金属音が、ほんのわずかとはいえ安らぎをもたらしてくれる。
しかしながら、あの人の前では鍵など無意味な飾りでしかないことを、俺はもう悟り始めている。
「……はぁ」
重い溜息を吐き、ドレッサーの前に座り込む。
大きな鏡に湯上がりの少女が映っている。
湿り気の残る銀髪、上気した白い肌、琥珀色の瞳。
翼や尻尾もある。
どこをどう切り取っても、俺じゃない。
そっと手を持ち上げ、目の前で開いたり、閉じたりしてみた。
細く、華奢な指。
だが、この体はお姉さん……イリスによって極限まで調整されている。
可愛らしい見た目に反して、中身は高性能な殺戮兵器だ。
「……あー、うー」
小声で発声しながら、口を大きく開けてみる。
頬を引っ張り、眉を寄せ、笑ってみる。
鏡の中の少女は、俺の意思通りに動く。
当たり前だ。これが俺なのだから。
「……この姿で、止まっているんだよな」
十五歳前後。成長の余地を残したまま、永遠に完成しない肉体。
お姉さんの腕の中に収まるためだけに、時間を凍結された愛らしい人形。
その事実が、ずしりと重くのしかかる。
、
「……魔王、か」
生き残るためには、この可愛い顔で、敵を威圧し、血を浴びて君臨しなければならない。
そうでなければ、あのお姉さんのペットとして、男としての自我を塗りつぶされる末路が待っている。
「……皮肉なもんだな」
俺は鏡の中の自分に向かって、自嘲気味に微笑む。
物騒な事情さえなければ、ただ可愛いなと笑って過ごせただろうに。
こんな運命さえ背負っていなければ、この容姿を素直に喜べただろうに。
「……よし」
俺は鏡の中の少女と目を合わせ、口角を上げた。
弱音は終わりだ。やるしかない。
鏡の中の少女が、決意を秘めた瞳で俺を見つめ返した──その時だった。
コンコン。
軽いノックの音。
返事をする間もなかった。
ガチャリ。
かけたはずの鍵が、魔法か何かであっさりと解錠される。
ドアが開き、甘い香りと共にお姉さんが入ってきた。
手には、湯気を立てる紅茶と皿に乗ったタルトを持っている。
「……ッ!?」
俺は硬直した。
見られたか?
鏡の前で、自分の顔を弄り回し、一人で悦に入って(いるように見える感じで)微笑んでいたところを。
羞恥心が沸き上がり、顔が一気に熱くなる。
弁解しようと口を開きかけたが、言葉が出ない。
だが、お姉さんの反応は予想外だった。
「…………」
いつものような、からかうようなニヤニヤ笑いではない。
まるで完成したばかりの芸術品を鑑定するかのような、静かで、真剣な眼差しで俺を見ていた。
「……いい顔になったわね、ミア」
その声には、冷徹な満足感が混ざっていた。
「え……?」
「怯えや迷いが消えて、芯が通った目。……覚悟を決めた女の子の顔は、一番美しいわ」
お姉さんはトレイをサイドテーブルに置くと、ゆっくりと俺に歩み寄る。
背後から肩に手を置き、鏡越しに視線を絡ませた。
「今日の戦いで、理解したでしょう? 自分がどう振る舞えば生き残れるのか。何をすれば私が喜ぶのか」
肯定の言葉。
だがそれは、俺の自我を認めたわけじゃない。
俺が、彼女の望む形に収まったことを喜んでいるのだ。
俺が戦う覚悟を決めたことすら、彼女にとっては手のひらの上の出来事に過ぎない。
「……生きるためだ。仕方ないだろ」
「ええ、それでいいの。賢い妹ちゃん」
お姉さんは俺の髪に口づけを落とすと、椅子を引いて俺を座らせた。
「さあ、ご褒美よ。今日は頑張ったものね」
切り分けられた焼き立てのタルト。
甘酸っぱいリンゴの香りが、鼻腔をくすぐる。
お姉さんはフォークで一口分を切り取ると、フーフーと息を吹きかけて冷まし、俺の口元へ差し出した。
「はい、あーん♡」
……また、これか。
自分の手で食べると言いたい。
だが、さっき覚悟を決めたと認められたばかりだ。
ここで無駄な意地を張って機嫌を損ねれば、その評価が覆るかもしれない。
それに、逆らえばどうなるか俺の体はもう学習し始めている。
俺は屈辱を飲み込み、小さく口を開いた。
「……あ、ん」
パクり。
サクサクの生地と、とろけるような果実の甘みが口いっぱいに広がる。
悔しいけれど絶品だった。
疲労した脳と体に、暴力的なまでの糖分が染み渡っていく。
「おいしい?」
「……うん。すごく」
「よかった♡」
お姉さんは世界で一番幸せそうに微笑んだ。
そしてまた、次の一口を差し出してくる。
「ほら、もっとお食べ。たくさん食べて、栄養をつけて……また明日も、私のために戦ってね?」
まるで、働き者の家畜を労うように。
あるいは、お気に入りの兵器をメンテナンスするように。
甘い言葉の中に混ざった所有権の主張に、俺は背筋が寒くなるのを感じながらも咀嚼を続けた。
最後の一口を飲み込むと、お姉さんは指先で俺の唇についた欠片を拭い、それを自身の舌で舐め取った。
「ごちそうさま。……それじゃあ、おやすみなさい。ミア」
お姉さんは満足げに立ち上がり、部屋を出て行った。
嵐が去ったような静けさが戻る。
部屋には濃厚な甘い香りが残されていた。
タルトの匂いか、それともお姉さんの残り香か。
「……ずるいよな」
俺はベッドに倒れ込み、天井を見上げた。
戦って、傷ついて、自分を奮い立たせて帰ってくれば、この甘い檻が待っている。
恐怖と安らぎ。
アメとムチ。
そのサイクルに、俺の心と体は少しずつ、確実に絡め取られている。
「……明日も早いんだ。寝ないと」
考えるのをやめるように、布団を頭まで被る。
甘い匂いは布団の中にまで染みついていて、俺を逃してはくれそうになかった。




