表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/39

7話 鏡の中の虚像、皿の上の甘い罠

 空が夜の暗闇に染まりかける頃、俺たちは屋敷へと帰り着いた。

 重厚な扉の前で、案内役を務めたチーターのようなネコ型の魔物たちが、揃って地面に腹をつけて頭を垂れる。

 彼らはもう、俺に対して牙を剥くことはない。

 絶対的な王に対する恭順の姿勢だ。


 「……ご苦労だったな。戻っていいぞ」


 俺が声をかけると、彼らは安堵したように喉を鳴らし、闇夜の荒野へと散っていった。

 その背中を見送りながら、俺はふと、自らの手を見つめる。

 まだ、殴った時の感触が残っている。

 血の匂いと、骨を砕く感触。

 華奢で白く、傷ひとつない少女の手。

 けれどこれは、確かに暴力を振るい、他者を屈服させるための凶器だった。


 「ふふ、名残惜しい?」


 背後から、イリスお姉さんが楽しげに声をかけてきた。


 「いや……ただ、あいつらにも生活があるんだなと思って」

 「そうね。でも、今日からはミアの駒よ。命じれば死ぬし、命じれば殺す。そういう契約だもの」


 お姉さんは残酷な事実を、今夜の夕食の話でもするようにさらりと告げた。

 そして、疲労で足元がふらついた俺の肩を自然な動作で抱き寄せる。


 「さ、お家に入りましょう。泥だらけの体を綺麗にして、甘いものでも食べて……泥のように眠りなさい」


 耳元でささやかれる甘い言葉。

 それは労いであると同時に、外の世界は過酷だけど、私の檻の中は快適でしょう?という、逃れがたい誘惑でもあった。


 ◇◇◇


 血と汗と砂埃で汚れた体を洗い流し、破れた服を新しいものに着替えて、夕食を済ませたあと、俺はようやく解放された。

 自室の扉を閉めて鍵をかける。

 カチャリ、という金属音が、ほんのわずかとはいえ安らぎをもたらしてくれる。

 しかしながら、あの人の前では鍵など無意味な飾りでしかないことを、俺はもう悟り始めている。


 「……はぁ」


 重い溜息を吐き、ドレッサーの前に座り込む。

 大きな鏡に湯上がりの少女が映っている。

 湿り気の残る銀髪、上気した白い肌、琥珀色の瞳。

 翼や尻尾もある。

 どこをどう切り取っても、俺じゃない。

 そっと手を持ち上げ、目の前で開いたり、閉じたりしてみた。

 細く、華奢な指。

 だが、この体はお姉さん……イリスによって極限まで調整されている。

 可愛らしい見た目に反して、中身は高性能な殺戮兵器だ。


 「……あー、うー」


 小声で発声しながら、口を大きく開けてみる。

 頬を引っ張り、眉を寄せ、笑ってみる。

 鏡の中の少女は、俺の意思通りに動く。

 当たり前だ。これが俺なのだから。


 「……この姿で、止まっているんだよな」


 十五歳前後。成長の余地を残したまま、永遠に完成しない肉体。

 お姉さんの腕の中に収まるためだけに、時間を凍結された愛らしい人形。

 その事実が、ずしりと重くのしかかる。

 「……魔王、か」


 生き残るためには、この可愛い顔で、敵を威圧し、血を浴びて君臨しなければならない。

 そうでなければ、あのお姉さんのペットとして、男としての自我を塗りつぶされる末路が待っている。


 「……皮肉なもんだな」


 俺は鏡の中の自分に向かって、自嘲気味に微笑む。

 物騒な事情さえなければ、ただ可愛いなと笑って過ごせただろうに。

 こんな運命さえ背負っていなければ、この容姿を素直に喜べただろうに。


 「……よし」


 俺は鏡の中の少女と目を合わせ、口角を上げた。

 弱音は終わりだ。やるしかない。

 鏡の中の少女が、決意を秘めた瞳で俺を見つめ返した──その時だった。


 コンコン。


 軽いノックの音。

 返事をする間もなかった。


 ガチャリ。


 かけたはずの鍵が、魔法か何かであっさりと解錠される。

 ドアが開き、甘い香りと共にお姉さんが入ってきた。

 手には、湯気を立てる紅茶と皿に乗ったタルトを持っている。


 「……ッ!?」


 俺は硬直した。

 見られたか?

 鏡の前で、自分の顔を弄り回し、一人で悦に入って(いるように見える感じで)微笑んでいたところを。

 羞恥心が沸き上がり、顔が一気に熱くなる。

 弁解しようと口を開きかけたが、言葉が出ない。

 だが、お姉さんの反応は予想外だった。


 「…………」


 いつものような、からかうようなニヤニヤ笑いではない。

 まるで完成したばかりの芸術品を鑑定するかのような、静かで、真剣な眼差しで俺を見ていた。


 「……いい顔になったわね、ミア」


 その声には、冷徹な満足感が混ざっていた。


 「え……?」

 「怯えや迷いが消えて、芯が通った目。……覚悟を決めた女の子の顔は、一番美しいわ」


 お姉さんはトレイをサイドテーブルに置くと、ゆっくりと俺に歩み寄る。

 背後から肩に手を置き、鏡越しに視線を絡ませた。


 「今日の戦いで、理解したでしょう? 自分がどう振る舞えば生き残れるのか。何をすれば私が喜ぶのか」


 肯定の言葉。

 だがそれは、俺の自我を認めたわけじゃない。

 俺が、彼女の望む形に収まったことを喜んでいるのだ。

 俺が戦う覚悟を決めたことすら、彼女にとっては手のひらの上の出来事に過ぎない。


 「……生きるためだ。仕方ないだろ」

 「ええ、それでいいの。賢い妹ちゃん」


 お姉さんは俺の髪に口づけを落とすと、椅子を引いて俺を座らせた。


 「さあ、ご褒美よ。今日は頑張ったものね」


 切り分けられた焼き立てのタルト。

 甘酸っぱいリンゴの香りが、鼻腔をくすぐる。

 お姉さんはフォークで一口分を切り取ると、フーフーと息を吹きかけて冷まし、俺の口元へ差し出した。


 「はい、あーん♡」


 ……また、これか。

 自分の手で食べると言いたい。

 だが、さっき覚悟を決めたと認められたばかりだ。

 ここで無駄な意地を張って機嫌を損ねれば、その評価が覆るかもしれない。

 それに、逆らえばどうなるか俺の体はもう学習し始めている。

 俺は屈辱を飲み込み、小さく口を開いた。


 「……あ、ん」


 パクり。

 サクサクの生地と、とろけるような果実の甘みが口いっぱいに広がる。

 悔しいけれど絶品だった。

 疲労した脳と体に、暴力的なまでの糖分が染み渡っていく。


 「おいしい?」

 「……うん。すごく」

 「よかった♡」


 お姉さんは世界で一番幸せそうに微笑んだ。

 そしてまた、次の一口を差し出してくる。


 「ほら、もっとお食べ。たくさん食べて、栄養をつけて……また明日も、私のために戦ってね?」


 まるで、働き者の家畜を労うように。

 あるいは、お気に入りの兵器をメンテナンスするように。

 甘い言葉の中に混ざった所有権の主張に、俺は背筋が寒くなるのを感じながらも咀嚼を続けた。

 最後の一口を飲み込むと、お姉さんは指先で俺の唇についた欠片を拭い、それを自身の舌で舐め取った。


 「ごちそうさま。……それじゃあ、おやすみなさい。ミア」


 お姉さんは満足げに立ち上がり、部屋を出て行った。

 嵐が去ったような静けさが戻る。

 部屋には濃厚な甘い香りが残されていた。

 タルトの匂いか、それともお姉さんの残り香か。


 「……ずるいよな」


 俺はベッドに倒れ込み、天井を見上げた。

 戦って、傷ついて、自分を奮い立たせて帰ってくれば、この甘い檻が待っている。

 恐怖と安らぎ。

 アメとムチ。

 そのサイクルに、俺の心と体は少しずつ、確実に絡め取られている。


 「……明日も早いんだ。寝ないと」


 考えるのをやめるように、布団を頭まで被る。

 甘い匂いは布団の中にまで染みついていて、俺を逃してはくれそうになかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ