6話 最初の配下と支配のメソッド
荒野の風は乾いていて、喉が張りつくようだった。
朝にあった調整とやらで生気を吸われた体には、ただ歩くだけでも重労働だ。
とはいえ、足を止めるわけにもいかない。
後ろを歩くイリスお姉さんが、楽しそうに言ったからだ。
「ねえ、ミア。もし疲れて歩けないなら、おんぶしてあげるわよ?」
その言葉の裏には、そのままお家へ帰って一緒にベッドの上で過ごしましょう、という甘い誘惑が張りついている。
俺は首を横に振った。
「……大丈夫だ。これくらい、平気だ」
「そう? 無理しなくてもいいのに」
心からの残念そうな声。それが俺の背筋を凍らせる。
意地で歩き続けること数十分。お姉さんが足を止めた。
「いたわね」
視線の先には、岩陰に群れる魔物の姿があった。
しなやかな筋肉と斑点模様を持つ、チーターのようなネコ科の魔物。
鋭い爪と牙。数は十体以上。
昨日のオオカミ型よりも明らかに強そうで、速そうだ。
それに群れというのも厄介だ。
「……あれを、配下にするのか?」
「ええ。この辺りでは足が速くて優秀な子たちよ」
お姉さんは、俺の背中をトンと軽く押した。
「さあ、行ってらっしゃい♡」
「……は?」
「配下にするなら、王であるあなたが力を示さないと意味がないでしょう? まさか、お姉ちゃんに守ってもらうつもり?」
にっこりと微笑むその顔は、できないなら愛玩動物ルート決定ねと告げていた。
拒否権はない。
俺は覚悟を決めて、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……やってやるよ」
「今のミアなら素手で真正面から戦えるはずだから、頑張って」
本当かよと思いつつも、わざわざ嘘を言う意味はないので事実なのだろう。
深呼吸のあと、一歩踏み出す。
気配を察知した魔物たちが、一斉にこちらを向いた。
離れていてもわかる敵意。
以前の俺なら腰を抜かしていただろうが、今の俺は、姉を名乗る美女への恐怖の方が勝っている。
今さら引き下がれるはずがない。
「ギャウッ!!」
まず先頭の一体が飛びかかってくる。
だいぶ速い。
人間がいくら束になっても勝てなさそうに思える。
(見え……る!)
だが、前世とは違って俺はもう人間ではない。
サキュバスの動体視力が、その軌道を捉えた。
咄嗟に体を沈め、魔物の懐へ潜り込む。
魔法を使う余裕はない。本能のまま、拳を突き上げた。
ドゴッ!
華奢な拳が、魔物の腹にめり込む。
魔物は苦悶の声を上げて吹き飛んだ。
いける。この体、見た目からは想像できないほど馬鹿力だ。
それもこれも、魔力の回路が開通したからだろう。
昨日とは違う。まともに戦うことができる。
「次ッ!」
だが、敵は一体じゃない。
次々に襲いかかってくる爪と牙。
俺は必死に防ぎ、避け、殴り返す。
皮膚が裂け、痛みが走る。服が破れる。
それでも止まれない。
止まれば死ぬか、あるいは無力な妹として回収されるだけだ。
「はぁ、はぁ、オラァッ!」
なんとも泥臭い殴り合いだった。
華麗な魔法戦なんて夢のまた夢。
最後の一体を蹴り飛ばし、地面に這いつくばらせた時、俺は肩で息をしながら立ち尽くしていた。
「……か、勝った……」
魔物たちは全員、地面でうめいている。死んだやつはいない。
俺もぼろぼろだ。あちこちから血がにじんでいる。
その時、背後から拍手の音が聞こえた。
「素晴らしいわ、ミア! 合格よ♡」
お姉さんが駆け寄ってきて、傷だらけの俺を抱きしめるかと思いきや──通り過ぎた。
彼女は倒れている魔物たちの前に立ち、片手をかざす。
「痛かったわよねぇ。かわいそうに」
慈愛に満ちた声と共に、柔らかな光が降り注ぐ。
回復魔法だ。
魔物たちの傷が、みるみる塞がっていく。
起き上がった魔物たちは、困惑し、そして恐怖と崇拝が入り混じった目でイリスを見上げた。
圧倒的な暴力でねじ伏せた存在と、その背後にいて、生殺与奪を握るさらに上位の存在。
野生の本能が、序列を理解した瞬間だった。
「……契約よ」
お姉さんは、俺には理解できない言語で低くささやいた。
魔物たちが一斉に頭を垂れ、腹を見せて服従のポーズを取る。
そして、その頭を俺に向けた。
「ほら、ミア。彼らはあなたのものよ」
お姉さんは満足げに振り返る。
俺はその光景を見て、ぞっとした。
徹底的に叩きのめして心を折り、その直後に優しく救いの手を差し伸べる。
恐怖と安らぎを同時に与えて、依存させる。
(……これ、俺にやってることと同じじゃねえか)
俺とお姉さんの関係の縮図が、そこにあった。
この人は、こうやってすべてを支配していくのだ。
「さあ、案内してもらいましょう。水辺へ」
お姉さんの命令で、俺たちは魔物の案内を受けて移動していく。
着いたのは、岩陰にある小さなオアシスだった。
だが、お姉さんは手書きの地図を取り出し、躊躇なくそこに×印をつけた。
「うーん、ここは使えないわね」
「なんでだ? 水はあるぞ」
「狭すぎるもの。これから住人を増やすことを考えると、魔物との取り合いになってしまうわ」
さらりと不穏な単語が出た。
「……住人って、どこから連れてくるんだ?」
「もちろん、他の地域から連れてくるのよ♡」
悪びれもせずに言った。
お姉さんは地図上の空白地帯を指でなぞる。
「基本方針は単純よ。こうして小さな水辺を奪って、拠点を繋げていくの。飛び石のようにね」
「水辺、水辺、水辺という風に?」
「そうそう。この荒野は、広くても使い物になる土地は限られてるから」
そして、指先が地図の端──人の住む領域へと滑る。
「最終的には、人のいる土地へ勢力を伸ばす。労働力、技術、文化……新生魔王軍に必要なものは、すべてそこに揃っているもの」
「……侵略戦争をする気か」
「いいえ、管理よ。ぐだぐだと愚かな争いをしている彼らを、私たちが導いてあげるの。私が動く前に統一できていれば、話は違っていたけれどね」
どこまでも傲慢な論理だった。
だが、この人の力と知能があれば、本当にやってのけるだろう。
お姉さんは地図から顔を上げ、俺の瞳を覗き込んだ。
「でもね、ミア。そのための戦いは、基本的にすべてあなたがやりなさい」
「……俺が?」
「ええ。私がやれば簡単だけど、それじゃあ誰もあなたを王とは認めない。舐められちゃうわ。それじゃ傀儡以前の話よ」
お姉さんの手が、俺の傷ついた頬に触れる。
回復魔法の温かい光が染み渡り、痛みが消えていく。
「力を示しなさい。恐怖と敬意を集めなさい。……そうすれば、あなたは私の人形じゃなく、立派なパートナーになれる。どちらも可愛い妹であることには変わらないけどね♡」
治癒した頬を、指先で愛おしそうになぞられる。
「期待しているわよ、魔王ちゃん」
それは激励であり、最後通牒だった。
成果を出せば王として扱う。傀儡の度合いがどれくらいになるかは……今後次第だ。
成果が出なければ人形にする。おそらく、口では言えないやばいことをしまくるかもしれない。
(くそ、不安ばかりが増えるな……)
俺は、足元にひれ伏す魔物たちを見下ろした。
彼らもまた、俺の力に怯え、お姉さんの力にすがっている。あるいはその逆か。
「……ああ、わかったよ」
やるしかない。そうする以外の道を選べるほど、俺はこの世界を知らない。
ぐっと握り拳を作った。
この荒野で、血と泥に塗れてでも足場を固める。
それが、姉として振る舞う美しい怪物から、俺という個を守る唯一の方法なのだから。




