50話 烏合の衆の進軍と空で待ち受ける影
南部の渓谷からオロネスへと強行帰還を果たした俺は、休む間もなく戦争の準備に追われていた。
武器の調達、食料の備蓄、兵の編成。
すべての計画と手配をあらかた終え、自室のベッドに倒れ込んだ時には、すでに日付が変わろうとしていた。
「……疲れた。もう何もしたくない」
仰向けのまま、天井に向かって独り言をこぼす。
魔王になってからというもの、休まる暇がない。肉体的にも精神的にも。
肉体の方は……まあ、あっちの意味でも危ない。
それはそれとして、気づけば自分から泥沼の戦争に首を突っ込んでいる。
俺の心の中に残っている男の部分は責任を果たせと叫ぶが、それと同時に、誰かに甘えたい楽になりたいと悲鳴を上げてもいた。
「お疲れ様、私の可愛いミア」
不意に、視界の端からお姉さんが顔を覗き込んできた。
いつの間にか部屋に入っていたらしい。彼女は俺の横に腰を下ろすと、俺の頭をそっと持ち上げ、自分の太ももの上に乗せた。膝枕だ。
「……んっ」
「頑張ったわね。偉いわよ、ミア」
いつものような、いやらしい手つきではない。純粋な慈愛に満ちた、優しい撫で方。
銀糸のような俺の髪を指先で梳き、こわばった顔や目元を柔らかくマッサージしてくれる。
「……お姉さん」
「今日は悪戯しないわ。……ゆっくり休んでいいのよ」
甘く、耳に心地よい声。
お姉さんの匂いが鼻腔をくすぐり、極上の柔らかさが後頭部を包み込む。
俺は抵抗するのをやめ、目を閉じてその温もりに身を委ねた。
いろいろと思うところはある。この人は俺の体を勝手に改造し、快楽に弱くし、重すぎる愛で縛りつけようとしてくる。
だが……悔しいけれど、俺は今、この時間を心底心地よいと感じてしまっている。
薄目を開けて、見下ろしてくる顔を見上げる。
(……美人過ぎるのが悪いんだ)
俺は心の中で、自分への言い訳を並べた。
息を呑むほどの絶世の美女に、これほど甘やかされ、全肯定されれば、誰だって堕落する。
俺の心が弱いんじゃない。お姉さんの顔面偏差値と魔性がカンストしているのがいけないのだ。
そう責任転嫁しながら、俺は身を丸めてお姉さんのお腹に顔をすり寄せ、子猫のように喉を鳴らしてしまった。
「ふふ……可愛い」
お姉さんの優しい声を聞きながら、俺は泥のような眠りへと落ちていった。
◇◇◇
翌朝。頭を切り替え、俺たちは最終的な戦力の確認を行った。
「現在、問題なく動かせる戦力は……およそ千といったところですね」
カーミラが書類を見ながら報告する。
内訳はこうだ。
まず、難民や街の住人などから集まった種族ごちゃ混ぜの歩兵が四百。装備はバラバラで、連携も微妙な烏合の衆だ。
次に、アンデッド部隊が三百。スケルトンやゾンビなど、疲労を知らない兵士たち。
これに加え、お姉さんが荒野を飛び回って強引に集めてきた魔物たち。巨大なネズミが五十に、チーターっぽいネコ型の魔物が十。
そして、カーミラが西方諸国連盟に使者を出し、お金を出して紹介してもらった傭兵が三百人。
「数だけなら千近く揃いましたが……正面からの総力戦は避けるべきでしょう」
「ああ。練度が低すぎる。……それに、傭兵部隊の合流にはまだ時間がかかるんだろ?」
「はい。準備や移動を含め、到着まで一週間はかかるとのことです」
足並みが揃わない。
万全を期すなら、傭兵の到着を待ってから全軍で進発すべきだ。
だが、俺は首を横に振った。
「待てない。……渓谷から撤退する時、レジエが竜の姿で飛ぶのを敵に見られている」
強大な戦力である竜族の存在は……妹竜を配下にしたサキュバスのことはとっくに知られている。
ただ、今回参戦することまでは読めなかったはずだ。
ルーサー軍が本格的に対策を講じる前に、こちらから仕掛けて戦局を引っ掻き回す必要がある。
「先行して動く。……俺とレジエが空から奇襲をかける。それに続く形で、休憩のいらないアンデッド部隊と足の早い魔物たちを進軍させる」
「傭兵の受け入れと後方支援は、わたくしがここに残って対応します。……では、アンデッドの指揮は?」
カーミラの問いに、お姉さんが優雅に扇子を広げた。いつの間に用意したんだ。
「私がやるわ。死体の行軍なんて地味な仕事だけど、可愛いミアのためなら泥も被ってあげる」
「ありがとう、お姉さん」
こうして、歩兵部隊を最後尾に残し、俺たちは出撃した。
◇◇◇
進軍を開始して一日後。
俺たちは、以前レジエと宿を借りた、あの小さな村に到着した。
「ひっ……!? し、侵略か!?」
アンデッドを引き連れた俺たちを見て、村人たちはパニックになりかけた。
だが、俺が「魔王ディフを支援するために来た」と告げると、警戒は解けないまでも、農具や槍を向けてくることはなくなった。
村で小休止を取り、俺はレジエやお姉さんと大雑把な作戦会議を開いた。
「狙いは、敵の竜族の釣り出しだ」
俺は地面に簡単な地図を描いた。
「俺たちが空から派手に攻撃を仕掛ければ、向こうは嫌でも自軍の竜族を出してくるはずだ。そうなれば、地上のルーサー軍は空からの援護を失う」
「空の脅威がなくなれば、地上は私たちが動きやすくなるわね」
お姉さんが頷く。
「ああ。外の包囲網が乱れれば、要塞の中で耐えているディフの軍も打って出られる。彼らの戦力を利用できれば、勝機はある」
問題は、ルーサーが雇った竜族がどれほど強いかだ。
こればかりは、実際に戦ってみないとわからない。
「いざとなれば、レジエに空の相手を任せて、俺も自力で空を飛んで地上へ火球を放つ」
「……わたしが全部、噛み殺す」
レジエが物騒なことを言いながら、俺の腕にすりすりと頭を擦りつけてきた。
さらに数日かけて南下し、俺たちは以前情報収集をした大きな街へと到着した。
街はすでに、これから起こるであろう戦争の噂で持ちきりだった。
『ここから西の新しい魔王が、軍を起こしたらしいぞ!』
『ルーサー軍に勝てるわけねぇ! 無謀だ!』
口々に適当なことを話す群衆。
だが、お姉さん率いる三百のアンデッド部隊が街の近くを無言で通り過ぎると、その圧倒的な不気味さと死の気配に、街は水を打ったように静まり返った。
死者を利用するというのは、魔界においてもある種の禁忌や畏怖の対象なのだ。
(まあ、どこの世界でも、死者を兵士として再利用することを喜ぶ者は少ないか)
そしてついに俺たちは、ディフが籠城する大渓谷の目前へと迫った。
俺は竜の姿になったレジエの背に乗り、上空へと舞い上がる。
眼下には、渓谷の要塞を包囲するルーサー軍の大量の陣幕が見える。
幸いなことに、包囲部隊の配置に大きな変化はなかった。対策される前に間に合ったのだ。
「行くぞ、レジエ! まずは挨拶代わりの一撃だ!」
「グルォォォッ!!」
レジエが咆哮を上げ、ルーサー軍の陣地へ向けて急降下を開始する。
だが、その直後だった。
「……っ! ミア、上にいる!」
レジエの切羽詰まった声と同時に、分厚い雲を突き破って、巨大な影が姿を現した。
緑色の鱗を持つ、巨大な竜。レジエより一回りほど大きい。
ルーサー軍の誇る空の脅威、敵の竜族が待ち構えていたのだ。
「ちっ……読んでたのか」
敵の竜が、大きく口を開け、灼熱の炎を吐き出してくる。
レジエは空中で器用に身を捻り、それを間一髪で回避した。
空での凄絶なドッグファイトが幕を開けた。
そして、俺たちが空で火花を散らしている間に、少し遅れて地上へと到着したお姉さん率いるアンデッド部隊と魔物たちが、ルーサー軍の背後から強襲を仕掛けた。
「さあ、お掃除の時間よ。……一匹残らず、骨の髄までしゃぶり尽くしなさい」
お姉さんの冷酷な号令と共に、地上でも激しい戦闘の火蓋が切って落とされたのだった。




