45話 記憶の追体験と重すぎる愛の枷
ふと、意識が浮遊した。ふわふわと落ち着かない。
これは夢だ。
誰かの記憶を、追体験している。
視界の位置が高い。
そして、胸の奥には常に凍えるような孤独と、それを塗りつぶすほどの野心が渦巻いている。
(……お姉さん、なのか?)
場面は、途切れ途切れに再生される。
『報告します。南方の反乱分子は鎮圧しました』
『うむ』
玉座らしきものに座るのは、フードを目深に被った巨躯の男──先代魔王だ。
顔は見えない。
だが、その周囲にはヴァルゴなど比較にならないほどの威圧感を持つ竜族や、歴戦の魔族たちが跪いて、絶対の忠誠を捧げている。
ただ者ではない。
その近くで、副魔王となったお姉さんは淡々と業務をこなしていた。
『兵站の確保について、下級兵士の魔族より陳情が来ています。却下でよろしいですね?』
『任せる』
『では、こちらの作戦案は?』
『……採用だ』
魔王は短く頷くか、首を振るだけ。
それに従い、計画を修正し、指示を飛ばす。
優秀な中間管理職。周囲からは畏怖と尊敬を集めている。
だが、俺は気づく。
(……笑っていない)
お姉さんは、誰にも心を開いていなかった。
仲間たちと談笑していても、その瞳の奥は冷え切っている。一定の壁を作り、誰も内側に入れようとしない。
場面が変わる。自室で一人きりの夜。
『……寂しい』
膝を抱え、ぽつりと漏らす。
『誰も信用できない。誰も私を見ていない。見ているのは副魔王という肩書きと、力だけ』
強大な力を持つがゆえの孤独。
今さら誰かに甘えることなどできない。そんなことをすれば、隙を見せた瞬間に寝首をかかれる。
さらに場面が変わる。
制圧した都市の奴隷市場。
お姉さんは、檻から解放されていく奴隷たちを眺めていた。
彼らは涙を流して感謝し、魔王軍に忠誠を誓う。
『……忠実なだけで弱い者なんて、意味がないわ』
お姉さんは苦笑していた。欲しいのは駒ではない。
『ああ……欲しい。私を殺せるほどの実力があって、その上で私に愛を捧げてくれる者が』
その首に手をかけ、それでもなお抱きしめてくれるような、矛盾した存在。
魔王は強大だが、愛を捧げる対象ではないらしい。
戦場、会議、粛清。
日常の延長のような場面が続く。
しかし、ある場面で俺の思考は停止した。
(ここは……)
見覚えのある一室。
まだ豪華な屋敷になる前の段階か、荒野にぽつんと建っている半分廃墟のような建物。
その中のベッドに──俺がいた。
いや、より正確には魂が入る前の空っぽの器として、銀髪のサキュバスの肉体が眠っていた。
『……ふふ。今日も可愛いわね』
お姉さんは慈愛に満ちた様子で、お湯を含ませたタオルで少女の体を丁寧に拭いていた。
腕を持ち上げ、脚を曲げたり伸ばしたりし、関節が固まらないようにマッサージをする。
まるで介護だ。
あるいは、世界で一番大切な人形を愛でるような手つき。
『早く起きて。……早く、私のものになって』
額にキスを落とし、耳元でささやく。
『私に壊されないでね? ……私の愛に、耐えてね?』
その言葉は、祈りにも似た呪いだった。
そして、最後の場面。
燃え盛る戦場。勇者一行に情報を流し、魔王を追い詰めたクライマックスと言える部分。
お姉さんも戦闘に参加していたらしい。怪我のせいか体中が血で染まっている。
『……裏切ったか、イリス』
追い詰められた魔王は、静かに視線を動かした。
怒りも、憎しみもない。感情が欠落しているかのような、虚無的な瞳。
(……あれ?)
俺は違和感を覚えた。
お姉さんは以前、先代のことを暑苦しいとか言っていなかったか?
目の前の魔王は、あまりにも理知的で落ち着いている。
『裏切るのはいい。これまでにも大勢が裏切ってきたのに、お前の裏切りを想定していないこちらの落ち度だ。だが、あとの始末はつけられるのか?』
魔王は淡々と問いかける。
『できるわ。……手段を問わないならね』
その答えに対し、魔王はやれやれといった様子で顔をしかめた。
『……お前が裏切らなければ、世界征服は実現できるというのに。勇者たちと組んで敵対するとわかっていれば、もっと早くに消しておけばよかったな』
『ふふ。お褒めの言葉ありがとう、魔王様。でもね、手段を問わずに統一するのは最後の最後。まずは……可愛い妹と一緒に、のんびりさせてもらうわ』
魔王は何も言わず、肉体が霧散するように消えていった。
場面は屋敷に戻る。
どれくらいの月日が経ったのか。
ベッドの上の少女──俺の肉体が、かすかに震えた。
魂が定着し、覚醒しようとしている。
『……ああっ、やっと……やっと会える……!』
お姉さんは感極まったように少女を抱きしめた。
何百年も待ち続けた、孤独の終わり。
「ん……っ!?」
そして俺は、唐突に目を覚ました。
そこは、オロネスに用意された俺の部屋。
目の前には、夢の中と同じ慈愛に満ちた笑顔で、お姉さんが俺を覗き込んでいた。
「おはよう、ミア。……どうだった? 私の記憶は」
「お姉、さん……」
「言葉では伝えたくないこともあるの」
そのために、他人に夢を見せる魔法か何かを使ったのか。
短い間に次々と目の当たりにした、あまりにも鮮明すぎる過去。
「……いろいろ、あったんだな」
それしか言えなかった。
百年単位の孤独と、歪んだ願望。
それを知ってしまった今、彼女をただの変態と切り捨てることはできなかった。
俺は少し悩み、そしておずおずと手を伸ばして、お姉さんを抱きしめた。
「……っ、ミア?」
「その……いやらしいこと、少し控えてくれるならさ。……俺は、もっとお姉さんのことを知りたいし、大事にしたいと思うよ」
これは本心だ。
彼女の孤独を埋めるのが俺の役目なら、それに向き合いたい。第二の生をくれた恩もあるし。
そう伝えると、お姉さんは目を見開き、そして──どろりと瞳が濁った。
「……嬉しい」
至近距離で、視線が絡みつく。
「好き。……大好き。愛してるわ、ミア」
抱きしめ返す腕の力が、じわじわと強くなる。絶対に逃がさないという意思が感じられる。
「もし、私からあなたを奪おうとする者がいるなら……壊しておきたいと思うほどに」
「え……」
「もし、あなたを汚す者がいたら殺すわ。……そのあと、あなたを私が汚しなおして、全部上書きしてあげる」
耳元でささやかれる、殺意と愛欲の混合物。
重い愛と物騒な本性が、隠すことなく表に出てきていた。
(ひっ……!?)
俺は内心で悲鳴を上げ、冷や汗をダラダラと流した。
感動的な和解ムードだと思ったのに、いきなり地雷を踏み抜いた気分だ。
「あ、あの……じゃあ、レジエのことは……」
「ああ、あの駄犬?」
お姉さんは興味なさそうに言った。
「あなたの心はもう、あれには靡かないでしょう? それに……一線は越えてないものね」
すると、お姉さんの指が俺の股間に触れた。
「大事な膜は……まだ破れていない。……ふふ、いい子」
「っ……!」
直接的な単語は出していないが、何を指しているかは明白だった。
そこが無事だから、レジエは見逃されているし生かされているのだ。
お姉さんは、とびきりの笑顔で告げた。
「だーい好きなミア。……逃げないでね?」
純粋な笑顔の裏にある、逃げ場のない圧。
「逃げたら……手足を使い物にならなくすることもできるからね? ……そうすれば、ずっと私のお人形さんでいられるもの」
「…………」
「時々そうしたいなと思うことあるけど、我慢してるのよ?」
大好きなら脅すのやめてほしい。
つい喉まで出かかったが、口にすればお仕置きという名の快楽責めが始まりそうだったので、俺は必死に言葉を飲み込んだ。
気まずい。そして怖い。
この空気どうにかしないと。
俺は引きつった笑顔で、無理やり話題を変えた。
「そ、そういえばさ! 軍備の増強の話だけど!」
「あら、仕事の話?」
「う、うん! そろそろ、本格的に魔王軍を編成したいと思ってさ!」
俺は逃げるように、机の上の書類を掴んだ。中身は領地経営に関することで、カーミラが用意したものだ。
愛が重すぎる姉を持つと、魔界の征服よりも生存戦略の方が大変だなと思い知らされる朝だった。




