42話 エルフの視点とサキュバスの無自覚な罪
私はエルザ。
西方諸国連盟に所属するエルフであり、外交官としてこのオロネスという都市に派遣された者だ。
「……手筈通りね。商団の到着は明日の昼頃になるわ」
宿の一室で、私は部下からの報告を受け、満足げに頷いた。
交渉成立の翌日には、交易のための商人を送り込む。これぞ連盟の外交官たるスピード感だ。
相手が新興の勢力であろうと、ビジネスの好機を逃すつもりはない。
まずは繋がりを得て、そこを取っ掛かりに同盟を目指していく。
「それにしても、驚きましたねエルザ様」
部下のエルフ──まだ若い女性官吏が、窓の外の活気ある街並みを見下ろして言った。
「このオロネスを支配していたのは、あのはぐれ竜族の兄妹だったのでしょう? それを倒して奪還するなんて」
「ええ。しかも、妹のほうは配下に従えているらしいわ。……信じがたい戦力よ」
私は顔をしかめる。
竜族。それは魔界において、別格の脅威を意味する。
彼らは長く生きれば生きるほど、ただ呼吸をしているだけで魔力も肉体も強靭になっていく生物だ。
大陸東部に巣食う竜の長老たちの中には、千歳を越える怪物もいると聞く。
「大陸北部を支配している先代魔王軍の残党も、今のところは東の竜族に対抗できていますが……」
「時間の問題でしょうね」
私はため息混じりに答えた。
「膠着状態が続いている時点で彼らに勝ち目はないわ。先代魔王という幻想に縋っているだけの集団じゃ、いつか限界が来る。数十年か、数百年かは知らないけれど……均衡が崩れた時、次は我ら西方諸国連盟が飲み込まれる番よ」
だからこそ我々は連帯し、少しでも利益となる新たな勢力を探していたのだ。
経済の発展こそが、最優先の目的。
いつか竜族に従うとしても、高度な自治を確保するために。
無下に扱うのは旨味がないと示すために。
「そういえば、副魔王だったイリスはどうしているんでしょう?」
「さあね。勇者に味方して先代を裏切った稀代の悪女……。死亡説もあれば、どこかで新しい傀儡を見繕っているという噂もあるけれど」
ありふれた噂話だ。
私は長く生きている。
先代魔王が勇者に討たれ、大陸が乱世となり、生き残るために大急ぎで西方諸国連盟が設立された歴史も、この目で見てきた。
連盟の一員としての自負がある。
こんな辺境の、ぽっと出の魔王になど、決して呑まれはしない。
そう、思っていたのだが──。
「……っ」
不意に、下腹部の奥が疼いた。
熱い。痒い。
脳裏に浮かぶのは、先日の謁見で目にした、あの銀髪のサキュバス──魔王ミアの姿だ。
(……なんなの、これは)
私は自身の不可解な反応に困惑していた。
性欲。それも、ただ抱きたいという生易しいものではない。
獣のような飢え。
あれが欲しい。食らいたい。組み伏せたい。
あの琥珀色の瞳を涙で濡らし、私の下で泣き叫ぶ顔が見たい。
(あり得ない……私は、男性が好きなはずなのに)
同性に対して、これほど暴力的で、粘着質な情欲を抱くなど初めての経験だった。
相手はサキュバスだ。精神汚染や魅了を警戒し、事前に用意していた最高位の対抗魔法も常に発動している。
なのに、渇きは収まるどころか、会話をするたびに膨れ上がっていく。
「……ねえ、あなたはどう思った? 魔王ミアのこと」
私はあえて平静を装い、部下に尋ねた。
部下はきょとんとした様子で首をかしげた。
「え? あー、可愛らしい方だと思いましたよ。見た目は可憐な美少女ですし。……でも、やっぱり魔王としての威圧感はありましたね」
それだけだ。
彼女の目には、狂おしいほどの欲望は宿っていない。
(……私にだけ効いている? いいえ、違うわ)
特定の相手にだけ作用する毒。
その条件を見つけることができず、ただ焦燥感だけが募る。
ああ、なんて腹立たしい。
◇◇◇
翌日。
私たちは視察と称して、魔王ミア自身の案内でオロネスの街を歩いていた。
まだ復興途中だからか、崩れた区画がそれなりに点在している。
「うむ。この区画はまだ瓦礫が残っているが、来月には整備される予定だ」
ミアは私の前を歩きながら、努めて威厳ある口調で説明してくる。
だが、その仕草がいちいち癇に障る──いや、欲を刺激する。
口調こそ男勝りな王を演じているが、ふとした瞬間に小首をかしげたり、上目遣いでこちらの反応をうかがったりする。
本人は無自覚なのだろう。
だが、その無防備な背中、揺れる銀髪、そしてサキュバス特有の淫靡な体臭が、私の理性をガリガリと削り取っていく。
(……気づいていないの? 自分が今、どれほど隙だらけで……誘っているのか)
苛立ちにも似た興奮を覚えながら、私はふと、横を歩く吸血鬼──カーミラに目を向けた。
彼女は澄ました顔でミアに付き従っている。
だが、私は見逃さなかった。
ミアのうなじを見る彼女の瞳に、私と同じ──いや、それ以上に昏い飢えが宿っていることを。
(……ああ、あなたもなのね)
奇妙な連帯感と、同族嫌悪。
この幼い魔王は、周囲の者たちを次々と発情させているのだ。
住人を見る限り、すれ違う程度なら効果はない。
けれど、側近としてミアに仕えている吸血鬼を見ると、関わりが多くなればなるほど狂わされる。
「……ところで、ミア殿」
私は昂る衝動を誤魔化すように、雑談を振った。
「元々はどちらのご出身ですか? これほどの魔力、無名のまま隠れ住んでいたとは思い難いのですが」
「え? あー……」
ミアは立ち止まり、困ったように眉を下げた。
「うーん……気づいた時には、この世界にいたというか……。自分でもよくわからないんだ」
「……はあ」
記憶喪失か、それとも出自を隠しているのか。
どちらにせよ、その曖昧な答えと、儚げな表情がまたサディスティックな欲求を煽る。
泣きながら媚びるような笑みを強制させたい。
逃げようともがく体を無理矢理に押さえ込みたい。
怒りの視線を向けさせ、それを快楽で上書きしたい。
なんとも厄介なことに……私は歪みつつある。
そんな自覚を覚えた時だった。
「っと……!」
石畳の段差に、ミアがつまずいた。
前方へ倒れそうになった彼女の体。
「危ない!」
私は反射的に手を伸ばし、彼女の腕を掴んで引き寄せた。
「……きゃっ」
軽い体が、私の胸に飛び込んでくる。
甘い匂いが鼻孔を直撃した。
柔らかい感触。温かい吐息。
私の腕の中で、無意識に人を誘惑する毒の塊が見上げている。
「す、すまない。助かった……」
「…………」
私は返事ができなかった。
掴んだ腕の細さ。今すぐにでもへし折って、自分のものにしてしまいたいという暴虐な衝動。
指先に力が入りすぎて、ミアが少し痛そうに顔を歪める。
「あ、あの……エルザ殿? さすがにちょっと痛いんだが……」
「し、失礼しました」
私はハッとして手を離した。
だが、離れる際、私の手が意図せず彼女の背後──敏感な尻尾の付け根あたりを擦ってしまった。
「ひゃぅんっ……!」
ミアの口から、可愛らしいというにはあまりにも淫らな声が漏れた。
ビクン、と体が跳ね、とろんとした瞳で私を見る。
頬が紅潮し、口元がだらしなく緩んでいる。
たった一度、手が触れただけでこの反応。
私はドン引きすると同時に、背筋がぞくりと震えた。
(なんて……ふしだらな生き物)
サキュバスとはいえ、ここまで開発されているのは普通ではない。
でも、誰に? どうやって?
想像するだけで、頭がどうにかなりそうだった。
◇◇◇
視察を終え、私は逃げるようにオロネスをあとにした。
帰りの馬車の中。
私は一人、シートに深く沈み込んでいた。
「……恐ろしい方ね」
ミア自身は、何も考えていないのだろう。
ただそこにいるだけで、無自覚に毒を撒き散らし、理性を狂わせる花。
だが、その無自覚という罪は、いつか彼女自身を滅ぼすかもしれない。
……あるいは、私のような者を破滅させるか。
「ふぅ……っ」
私は右手を見つめた。
ミアを支え、あの柔らかな体に触れた手。
鼻を近づけると、残り香がわずかに──しかし確かに脳髄を揺さぶる。
「……いけない子」
外交官としての誇りも、連盟の未来も、今はどうでもよかった。
私は熱に浮かされたように、もう片方の手を自身のスカートの中へと滑り込ませた。
馬車の揺れに合わせ、私の漏らす吐息だけが車内に響いていた。




