29話 堕ちた竜、飛べない翼
中庭の空気が、一瞬にして灼熱地獄へと変わった。
石畳が飴細工のように溶け、植え込みの木々が炭化して崩れ落ちる。
爆心地に立っていたのは、全長五メートルほどの赤き竜。
分厚い筋肉の塊のような胴体。太い首。そして、背中には一対の翼。
それは、ただ暴力を具現化したような凶悪な姿だった。
「グルルルァァァッ!!」
ヴァルゴだったものが咆哮する。
それだけで衝撃波が発生し、俺の体を吹き飛ばそうとする。
「くっ……でかいな!」
俺は距離を取りつつ、冷や汗を流した。
熱い。
離れていても、皮膚に熱さが伝わってくる。
作られたこの体は、熱にはそれなりの耐性があるはずだが、こいつの熱量は桁が違う。
「オラァッ!」
竜が前足を振り下ろす。
単純な叩きつけ。だが、その質量と速度は凶器だ。
ドォォン!!
回避した俺の横で、地面がクレーターのように陥没する。
あんなの、かすっただけでミンチだ。
「そこだ!」
俺は竜の腕を駆け上がり、比較的鱗が薄そうな関節部分を狙って剣を突き立てた。
ガギンッ!
硬い音がして、剣が弾かれる。
(硬ぇ……! 鋼鉄以上かよ!)
お姉さんが持たせてくれた、それなりに質のいい剣ですら、傷一つつけられない。
全身が赤い装甲板で覆われているようなものだ。
俺が舌打ちして離脱しようとすると、長い尻尾が鞭のようにしなって襲ってきた。
「っとぉ!?」
間一髪で飛んでかわす。
だが、尻尾の風圧だけで体が煽られ、バランスを崩しかける。
そこへ追撃の噛みつき。
巨大な顎が、空気を噛み砕く音がすぐ耳元で響いた。
(……まずいな。これじゃ防戦一方だ)
攻撃が通じない。
弱点である目や、喉元の逆鱗を狙おうとしても、向こうもそれを理解しているのか、腕や翼で器用にガードしてくる。
見た目は脳筋のくせに、戦闘の勘だけは鋭い。
「ギャハハハ! どうした羽虫! 逃げ回ってばかりか!」
竜の口から、割れた銅鑼のような声が響く。
姿が変わっても人の言葉は話せるらしい。
「見ろ、この力を! この鱗を! これこそが最強の種族、竜の姿だ!」
「……最強ねぇ」
俺は息を整えながら、皮肉っぽく返した。
「そんなに最強なら、お前はなんでこんな辺境の都市でイキってるんだ? そもそも竜族は、乱世なのに魔界と呼ばれるこの大陸を全部支配できてないし、それ以前は魔王の配下になってただろ」
図星を突かれたのか、ヴァルゴの動きが一瞬止まる。
そして、苛立たしげに地面を爪で削った。
「はんっ、あの忌々しい《先代》のことか? ……あれは例外だ。あんなバケモン、竜であっても勝てねぇよ」
意外にも、先代魔王の強さは認めているらしい。
そうなると気になるのは、お姉さんの裏切り込みとはいえ魔王をボコボコにして倒した勇者たちの強さだが、今はそれどころではない。
ヴァルゴは口の端から炎を漏らしながら、にやりと笑った。
「だからよぉ、俺様はあの副魔王様にゃあ感謝してるんだぜ? あいつが先代を裏切って消してくれたおかげで、目の上のたんこぶがいなくなったんだからなぁ!」
ヴァルゴは愉快そうに喉を鳴らす。
「先代さえいなくなれば、これからは俺様の天下よ! まずはここを拠点に、周辺の小魔王どもを喰らって従えて勢力を広げる。……手始めに、てめえの首を飾ってやるよ!」
俺は、こみ上げてくる笑いを抑えるのに必死だった。
(感謝、ね……)
滑稽すぎる。
こいつは知らないのだ。
自分が感謝しているその副魔王が、今まさにオロネスの城壁を突破し、アンデッドを率いて攻め込んできていることを。
そして、自分が殺そうとしている小娘が、その副魔王の最愛の妹(娘)であることを。
「……そうか。そいつは残念だったな」
「あぁ?」
「お前の天下なんて、来ないってことだよ」
俺は剣を構え直す。
笑ってばかりもいられない。状況は依然として不利だ。
ふと見ると、バルコニーにいたカーミラとレジエの姿が消えていた。
どうやら、この無差別な熱波と攻撃に巻き込まれるのを嫌って、館の内部へと場所を移したらしい。
(……完全に一対一か)
誰も頼れない。
お姉さんは外で暴れている。カーミラは別の場所。
この怪物を倒せるのは、俺一人だけ。
「燃え尽きろ!!」
ヴァルゴが大きく息を吸い込む。
ブレスの予備動作。
俺は翼を広げ、一気に上空へと逃げた。
ゴォォォォォッ!!
すぐ下を炎の波が通り過ぎていく。
中庭の池が一瞬で蒸発し、白い水蒸気が爆発した。
「あっぶね……!」
俺は空中で旋回し、様子をうかがう。
ヴァルゴは地上で首を振り、上空の俺を目で追っている。
そして苛立たしげに咆哮すると、器用なことに炎の弾丸を吐き出してくる。
「っと、ほっ!」
俺はひらひらと火球をかわしながら、ある違和感に気づいた。
(……こいつ、飛んでこないな)
背中にはでかくて立派な翼がある。
俺を追うなら、飛んで空中で戦えばいいはずだ。
なのに、地団駄を踏むように地上から火を吹くだけ。
時折、ジャンプして爪を振るってくるが、すぐに着地してしまう。
お姉さんの言葉が脳裏をよぎる。
『変身能力に欠陥があるか、持続時間が短い』
『落ちこぼれとして蔑視される』
(……なるほど。そういうことか)
確信した。
俺は高度を保ったまま、地上の赤い竜を見下ろして声をかけた。
「おい」
「あぁ!? 降りてきやがれ卑怯者!」
「お前さ……もしかして、空を飛べないのか?」
その言葉を口にした瞬間、ヴァルゴの動きがぴたりと止まった。
「翼はあるのに、飾りか? ああ、だから、はぐれなのか。……本当の竜になれなかったんだな」
図星だったのだろう。
ヴァルゴの全身から発せられる熱気が、怒りでさらに膨れ上がった。
鱗の隙間から、蒸気が噴き出す。
「てめえ……黙ってろォ……!!」
静かな、けれど底知れない殺意。
コンプレックスを刺激された獣の怒りは凄まじい。
「前に荒野で、空を飛んでる竜を見たことがあるけどさ」
俺はさらに畳み掛ける。
相手を怒らせ、冷静さを奪う。それが唯一の勝機だ。
「そいつに比べると、お前……小さいし、威圧感もないな。やっぱ未熟なんじゃないのか?」
「黙れェェェェッ!!」
ヴァルゴは激しい怒りを振りまきながら絶叫した。
上体を反らし、周囲の空気が歪むほど深く息を吸い込み始めた。
「塵も残さず消し飛ばしてやる!!」
最大火力のブレス。
全身の魔力を炎に変えて吐き出す、必殺の一撃。
だが、怒りに任せた大技は、予備動作も隙も大きい。
喉元が無防備に晒されている。
そこにあるのは、周囲の鱗とは逆向きに生えた、一枚の鱗──逆鱗。
(待っていたぞ、その隙を!)
俺は翼を畳み、自由落下に近い速度で急降下した。
「死ねェッ!!」
「くそ……出すのが早い……!」
ヴァルゴの口から、太陽のように輝く極太の熱線が放たれる。
真正面からの激突。
普通なら回避不可能だ。
けれども俺は空中で魔力を爆発させ、無理やり軌道を変えた。
「ぐっ……あづっ!?」
炎の奔流が俺の左半身をかすめる。
服が焼け、皮膚が炭化する臭いが鼻をつく。
激痛に意識が飛びそうになる。
だが、止まらない。
この痛みは、勝利への代償だ。
「うおぉぉっ!」
炎を抜け、懐に飛び込む。
目の前には、ブレスを吐ききって硬直しているヴァルゴの喉元。
俺は残った全魔力を、右手の剣に注ぎ込んだ。
剣身が青白く発光し、許容量を超えて悲鳴を上げる。
「貫けっ!!」
ズドッ!
渾身の突きが、逆鱗に吸い込まれた。
硬い。だが、魔力を帯びた切っ先は、無理やり鱗をこじ開け、その奥にある柔らかな肉へと侵入していく。
「ガァッ……!?」
「まだだ! 弾けろ!!」
俺は突き刺した剣に、さらに魔力を流し込んだ。
制御などしない。ただ暴発させるイメージで。
すると剣が耐えきれずに砕け散り、そのエネルギーがヴァルゴの体内で爆発した。
頑丈な鱗に守られていない、柔らかい内部からの破壊。
「グ、ガアアッ!?」
ヴァルゴが血を吐きながら、のたうち回る。
巨体がバランスを崩し、中庭の瓦礫の上に倒れ込んだ。
ズズズーン……と地響きが鳴り、砂煙が舞い上がる。
俺は反動で吹き飛ばされ、地面に転がった。
全身が痛い。特に火傷を負った左半身がひどい。
でも、目は逸らさない。
「……はぁ、はぁ……」
砂煙の中、巨大な竜のシルエットが縮んでいく。
変身を維持できなくなったのだろう。
やがて煙が晴れると、そこには人の姿に戻ったヴァルゴが倒れていた。
全裸で、全身傷だらけ。
喉元からは大量の血が流れている。
「かはっ……ご、ぼ……っ」
彼は血の泡を吹きながら、震える手で喉を押さえていた。
もはや立ち上がる力も残っていないようだ。
死んでいないのは、竜族としての生命力の高さなのか。
ガシャ、ガシャ、ガシャ……。
絶妙なタイミングで、館の正門側から足音が響いた。
現れたのは、武装したスケルトンの部隊だ。
お姉さんの指揮するアンデッドたちが、ついに中庭まで到達したのだ。
彼らは無言のままヴァルゴを取り囲み、錆びた剣や槍を突きつける。
「決着、だな」
俺はふらつく足で立ち上がり、敗北した元支配者を見下ろした。
ヴァルゴと視線が合う。
そこには、もはや傲慢さも戦意もなく、ただ信じられないという絶望だけがあった。
「……俺の勝ちだ」
短く告げる。
ヴァルゴは悔しげに顔を歪め、かすれた声で悪態をついた。
「くそ、が……」
その言葉を最後に、意識を失い、ぐらりと首を垂れた。
中庭に静寂が戻る。
俺は天を仰ぎ、長く息を吐いた。
勝った。勝ったぞ。
お姉さんの助けなしで、正面から強敵をねじ伏せたのだ。
全身の痛みと共に、強烈な達成感が湧き上がってくるのを感じながら、立つのがきつくなった俺はその場に膝をついた。




