19話 砂漠のメインディッシュ、蜜月のような洗浄
巨大なサンドワームの死骸を前に、俺が荒い息を整えていると、背後からパンパンと手を叩く音が響いた。
先ほどまで俺をねっとりと見つめていたイリスお姉さんが、瞬時に有能な秘書官の顔に戻って声を張り上げる。
「さあ、皆の者! 呆けている暇はありませんよ!」
変装用の眼鏡を光らせ、きびきびと指示を飛ばし始めた。
「サンドワームは捨てるところがありません。外皮はなめせば丈夫な革になり、テントや防具の補修に使えます。牙は加工すれば優れた槍や短剣になるでしょう。そして──」
「そして……?」
「この大量の肉は、本日のメインディッシュです」
お姉さんが、切断面から覗くピンク色の肉を指差して微笑んだ。
難民たちが一斉にざわつく。
「あれを……食うのか?」
「魔物の肉だぞ……毒とかないのか?」
彼らの顔には明らかな拒否反応があった。無理もない。見た目は巨大なミミズか芋虫のお化けだ。
正直言って生理的な嫌悪感がすごい。
だが、お姉さんは冷徹に告げた。
「嫌なら食べなくて結構です。ただし、代わりの食料はあまりありません。……この荒野で生きるとは、そういうことですよ?」
正論による暴力。数十人の胃袋を満たす量の食料を用意するのは、それだけで大変だ。
背に腹は代えられない。難民たちは覚悟を決め、刃物を持って巨大な死骸へと群がっていった。
◇◇◇
オアシスの近くで、少し遅めの昼食──というより、バーベキュー大会みたいなものが始まった。
解体されたサンドワームの肉が、焚き火の上でジュウジュウと音を立てて焼かれている。
辺りに漂うのは、意外なほど食欲をそそる香ばしい匂いだった。
「……うまい」
誰かがポツリと漏らした。
それを皮切りに、恐る恐る口に運んでいた難民たちの目が輝き始める。
「なんだこれ、うめぇぞ!」
「昔、港町でエビってのを食ったことあるんだが、それみてぇなプリプリした食感で、味は鶏肉に近い!」
「脂が甘い……力が湧いてくるようだ!」
サンドワームの肉は、荒野の過酷な環境を生き抜いてきた栄養の塊だ。
滋養強壮に効き、疲れた体に染み渡る極上のスタミナ食と言える
俺も一切れほど串に刺して食べてみたが、確かにうまい。
空腹と疲労で悲鳴を上げていた体が、歓喜するのがわかった。
「……魔王様」
肉を頬張っていたガンスが、脂で光る口元のまま、俺の前まで来て膝をついた。
やや不恰好だが、その目には涙が浮かんでいる。
「ありがとうございます……。こんなに腹一杯、肉を食ったのは何年ぶりか……」
「……そうか。ならよかった」
「俺たちは、あんたについていきます。あまり大きなことはできないかもしれないが……この命、あんたの盾くらいには使ってくれ」
ガンスの言葉に、他の者たちも一斉に頷く。
彼らの目に宿っているのは、もはやただの恐怖ではない。
圧倒的な強者への畏怖と、恵みをもたらす者への崇拝。
俺は魔王として、彼らの心を掴んだのだ。
「よかったですね、ミア様。忠実な配下が増えて」
隣で、お姉さんが上品に肉を切り分けながら微笑んだ。
俺の皿に、一番美味しい部位を乗せてくれる。
「まあな。勝ててよかった」
「ええ、本当によかった。……これでまた一歩、私の理想に近づいたわ」
その笑顔は完璧な秘書のそれだったが、言葉の端々に不穏な色が浮かんでいる。
周囲からの過剰な期待と、隣にいる怪物からのプレッシャー。
美味しい肉と共に、外堀が少しずつ埋められていく感覚があった。
◇◇◇
食事と事後処理が一段落したあと。
俺とお姉さんは、難民たちの護衛を配下の魔物たちに一任し、転移魔法で屋敷へと戻った。
誰の目もない、二人だけの閉鎖空間。
屋敷の玄関扉が閉まった、その瞬間だった。
「──ああ、たまらないわ」
お姉さんの雰囲気が一変した。
秘書官の仮面が剥がれ落ち、そこには欲望をむき出しにした捕食者の顔があった。
「お、お姉さん……?」
「動かないで、ミア」
背後から抱きすくめられる。
俺の服は、サンドワームの体液と返り血でどろどろに汚れている。
普通なら眉をひそめるような汚さだ。
けれどお姉さんは、汚れることなど気にも留めず、俺の首筋に顔を埋めた。
スゥーッ……。
深く、長く、俺の匂いを吸い込む音。
「鉄の匂い。生き血の匂い。……そして、私の可愛い妹ちゃんが、命を奪って勝ち取ってきた、勝利の香り」
「っ、くすぐったい……!」
「いい匂いよ。最高に興奮するわ」
お姉さんの手が、俺の服のボタンを乱暴に、けれど手慣れた手つきで外していく。
汚れた服が床に落ち、下着姿になる。
露わになった肌にも、血の飛沫がこびりついている。
お姉さんはその赤い染みを、指先ですくい取り、自分の舌で舐めた。
「ん……♡ 少ししょっぱいわね」
「なっ、汚いって!」
「汚くないわ。ミアのすべては、私にとっての御馳走だもの」
うっとりとした瞳。
戦いで高揚しているのか、それとも俺が血に濡れているシチュエーションが刺さったのか。
お姉さんの熱っぽい視線に射抜かれ、俺は蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。
「さあ、お風呂に行きましょう。……綺麗にしてあげる」
そのまま俺は、お姫様抱っこで浴室へと連行される。
湯気が立ち込める浴室。
いつもより少し熱めのお湯が、強張った筋肉をほぐしていく。
だが、精神は休まらない。
俺は浴槽の縁に座らされ、お姉さんに全身を洗われていた。
「腕を上げて?」
「……はい」
されるがままだ。
泡だらけのスポンジが、脇腹を滑る。
戦闘中にかすったのか、青あざになっている部分に差し掛かると、お姉さんの手が止まった。
「ここ、痛い?」
「っ、少し……」
「かわいそうに。痛いの痛いの、飛んでいけ……」
チュッ。
スポンジではなく、お姉さんの唇が、あざの上に落とされた。
「ひゃっ!?」
「ふふ、びくってした」
お姉さんは楽しそうに笑い、今度は指先で別の傷跡──小さな切り傷をなぞる。
「怖かった?」
「そりゃ、怖かったよ。死ぬかと思った」
「でも……ぞくぞくしたでしょう?」
耳元でささやかれ、心臓が跳ねる。
否定できない自分がいた。
死と隣り合わせの瞬間に感じた、脳が焼き切れるような高揚感。
魔力を放出した時の全能感。
「サキュバスはね、快楽と痛みによって気分が高まるの。戦いの興奮も、性の興奮も、根っこは同じなのよ」
お姉さんの手が、背中へと回る。
敏感な翼の付け根を、泡と一緒に揉みしだかれる。
「あんっ……! そこ、だめ……!」
「だめじゃないわ。ご褒美よ」
逃げ場はない。
お姉さんは俺を洗いながら、同時に俺の反応を楽しんでいる。
太ももの内側、首筋、耳の裏。
汚れを落とすという名目で、全身をくまなく愛撫されているのと変わらない。
「はぁ……っ、んぅ……」
俺は力なくお姉さんの肩に頭を預けた。
抗う気力も、魔力も残っていない。
ただ、熱いお湯と、お姉さんの手の感触に翻弄されるだけ。
(……俺、勝ったんだよな?)
ぼんやりとした頭で考える。
あの巨大な怪物を倒し、難民たちに認められ、魔王としての第一歩を踏み出した。
達成感があったはずだ。
誇らしさがあったはずだ。
「いい子ね、ミア。私の自慢の妹。……もっともっと強くなって、もっと私を喜ばせてちょうだい?」
お姉さんが俺の濡れた髪にキスをし、恍惚とした表情でささやく。
その言葉を聞いた瞬間、俺の心に冷たい風が吹いた。
(……ああ、そうか)
俺がどれだけ頑張っても。
どれだけ強くなって、魔王として振る舞っても。
結局のところ、この人にとってはよく芸のできたペットでしかないんじゃないか。
サンドワームを倒したことすら、お手やお座りが上手にできたと褒められているのと、何が違うというのか。
「……お姉、さん」
「なぁに?」
「……なんでも、ない」
俺は目を閉じた。
今はただ、この甘く、どこまでも深い泥沼のような愛に、身を委ねることしかできない。
自尊心が削り取られていく音が、浴室の反響音に紛れて聞こえた気がした。




