18話 血塗れの戴冠式と粘りつく視線
巨大な円筒状の怪物が、天を仰いで咆哮した。
鼓膜を破るような大きな音。
サンドワームの口腔にある何千もの牙が、互いに擦れ合ってギチギチと不快な音を立てている。
「……でかいな、畜生」
俺は震える手で、剣を握り直した。
難民の誰かが落としたものだ。
手入れはされているが、刃こぼれのある安物の直剣だ。
対して相手は、全長十メートルを超える荒野の暴君。
体格差などというレベルではない。蟻が象に挑むようなものだ。
「グルゥァァァァッ!!」
サンドワームが巨体をしならせ、鞭のように叩きつけてきた。
速い。
あの図体で、信じられない速度だ。
「っとぉ!」
俺は地面を蹴り、横へと飛んだ。
ドゴォォォォンッ!
一瞬前まで俺がいた場所に、クレーターができるほどの衝撃が走る。
舞い上がった砂礫が散弾のように頬を打ち、チリチリとした痛みを与えた。
(当たったら死ぬ。即死だ)
冷たい汗が背中を伝う。
恐怖で足がすくみそうになる。
逃げたい。今すぐ翼を広げて空へ逃げれば、俺だけは助かるかもしれない。
だが、背後には腰を抜かした難民たちがいる。
俺が逃げれば、彼らは餌だ。
『最後には、自分が男だったことすら忘れて、お姉ちゃんに甘えるだけの可愛い妹になるの』
脳裏に、あの甘く恐ろしい声が蘇る。
ここで逃げれば、俺は魔王としての資質なしと見なされる。
待っているのは、暖かい部屋と、柔らかいベッドと──永遠の飼育。
自我を去勢され、ただ愛されるだけの人形になる未来。
「……ふざけるな」
恐怖が、怒りに変わる。
あんな怪物に食われるのは嫌だが、あの姉に魂まで食われるのはもっと嫌だ。
生き残るためじゃない。
俺が俺でいるために、こいつを殺す。
「こっちだ、デカブツ!!」
俺は剣を掲げ、叫んだ。
サンドワームの注意が俺に向く。
目はないはずだが、殺意の焦点が俺に合ったのが肌でわかった。
ズズズッ……!
怪物が地中に潜る。
姿が見えなくなった恐怖に、難民たちが悲鳴を上げた。
だが、俺には聞こえていた。
地中を高速で移動する振動音が。
(下か……!)
俺は背中の翼を広げ、魔力を叩き込んだ。
風を掴んで体が宙に浮く。
その直後、俺の真下の地面が爆発した。
ガアアアアアッ!
大口を開けたサンドワームが、俺を飲み込もうと突き上げてくる。
空中に逃げていなければ、今頃あの回転する牙のミキサーの中でミンチになっていただろう。
だが、これはチャンスだ。
「オラァッ!」
俺は空中で身を捻り、すれ違いざまに剣を振るった。
狙うは、外皮の継ぎ目。
ガギンッ!
硬い音が響き、剣が弾かれた。
「くそ……硬ぇ!」
傷がまったくついていない。
遠目には柔らかそうに見えたが、実際は鋼鉄並みだ。
手首が痺れる衝撃に顔を歪めながら、俺はさらに高度を取る。
サンドワームは悔しげに空を噛み、再び地中へと潜っていった。
「ど、どうすれば……剣が通じねぇぞ!」
誰かの絶望的な叫びが聞こえる。
その通りだ。
俺の筋力はサキュバス、というかお姉さんの最高傑作補正で強化されているが、武器が貧弱すぎるし、相手が硬すぎる。
まともにやり合えば、いずれスタミナ切れで食われる。
(弱点……弱点はどこだ?)
空中でホバリングしながら、眼下の砂煙を睨む。
全身が装甲のような皮膚で覆われている。
唯一、柔らかそうな場所があるとすれば……。
(口の中、だよな)
あの何重にも重なった牙の奥。
だが、あそこを狙うということは、自分から喰われに行くようなものだ。
失敗すれば死。
リスクが高すぎる。
しかし、他に手はない。
ズザザザザ……!
音が変わった。
地中からの振動が、不規則になる。
どこから来る?
俺は神経を研ぎ澄ませた。
音、風の動き、砂の揺れ。
(……後ろ!)
背後の死角。
俺は振り返ると同時に、翼を畳んで急降下した。
さっきまで俺がいた空間を、サンドワームの胴体が薙ぎ払っていく。
跳躍しての攻撃だ。
だが、こっちもただ回避しただけじゃない。
「逃げ回るだけだと思うなよ……!」
俺は着地と同時に駆け出した。
地面に落ちたサンドワームが、体勢を立て直そうと身をよじる。
その隙を突く。
俺は翼を羽ばたかせ、加速をつけて突っ込んだ。
「グルッ!?」
サンドワームが反応し、鎌首をもたげる。
迎え撃つように大口が開かれた。
酸っぱい腐臭と、血の匂いが漂ってくる。
恐怖で心臓が破裂しそうだ。
けれど、その恐怖こそが魔力の燃料になる。
「うおおおお!!」
俺は全身の魔力を、右腕と剣に集中させた。
詳しいやり方はわからない。だけど、なんとなくこうすればできるというイメージはあった。
お姉さんに開発された魔力回路が、悲鳴を上げるほど熱くなる。
剣が淡い光を帯び、ミシミシと軋んだ。
耐えてくれ。一撃だけでいい。
敵が俺を飲み込もうと顔を突き出す。
俺は速度を緩めず、真正面から飛び込んだ。
回転する牙が目の前に迫る。
死の入り口。その中心へ。
「死ねぇぇ!!」
俺は渾身の力で、剣を突き出した。
牙の回転に剣が弾かれそうになるのを、無理やりねじ込む。
肉を裂く感触。
ズブォッ!!
剣が根元まで、サンドワームの喉の奥へと突き刺さった。
「ギョエエエエエッ!!」
断末魔の絶叫。
怪物が激しくのたうち回る。
強烈な負荷がかかり、振り落とされそうになるが、俺は剣の柄にしがみついた。
ここで離せば、暴れる巨体に潰される。
そしてさらに魔力を流し込む。
内部から焼き尽くすイメージで。
「はぁぁぁぁっ!!」
ドサッ……!
やがて、巨体が力を失い、砂の上に崩れ落ちた。
砂煙が舞う中、静寂が訪れる。
「……はぁ……はぁ……」
俺はサンドワームの口から這い出し、砂の上に転がった。
全身、怪物の体液と返り血でべとべとだ。
剣は折れて使い物にならなくなっていたが、役目は果たした。
「た、倒した……のか?」
「魔王様が……たった一人で……」
難民たちが、信じられないものを見る目でこちらを見ている。
俺は震える足で立ち上がった。
全身が痛い。魔力を使いすぎて目眩がする。
だが、勝った。
守られるだけの存在じゃないと、証明したんだ。
達成感に浸りかけた、その時。
パチ、パチ、パチ。
どこからか乾いた拍手の音が響いた。
「素晴らしいですわ、ミア様」
空気が、変わった。
先ほどまでの命のやり取りとは違う、もっと濃密で、湿り気を帯びた気配。
俺がぎくりとして振り返ると、そこにはいつの間にかお姉さんが立っていた。
秘書官のローブを着て、眼鏡をかけている。
手には、俺が頼んでいた物資の入った袋が下げられており、近くには追加のチーターっぽい魔物が荷物を背負っている。
「お、お姉さん……」
「戻りました。……少し目を離した隙に、こんな大物を仕留めるなんて」
お姉さんは微笑んでいた。
難民たちの手前、あくまでも忠実な秘書としての仮面を被っている。
しかし、眼鏡の奥にある瞳は、笑っていなかった。
いや、笑ってはいるのだが、その質が違う。
(……なんなんだ、その目は)
褒めている。
確かに、俺の成長を喜んでいる色はある。
けれど、それ以上に──どろりとした暗い情欲が渦巻いているのが見えた。
傷つき、血に汚れ、荒い息を吐きながら勝利した俺の姿を、まるで極上のメインディッシュを見るかのように舐め回している。
『ああ、なんて美味しそうなの』
『血の匂いと、戦いの高揚感で火照った肌……』
『今すぐここで、その震える体を組み敷いて、勝利の味ごとしゃぶり尽くしてあげたい』
声には出していない。
だというのに、そんな心の声が聞こえてくるような、粘着質な視線だった。
「お怪我はありませんか? ……あら、こんなに汚れて」
お姉さんが近づき、ハンカチで俺の頬についた返り血を拭う。
その指先が、首筋をなぞるように這った。
ぞくり、と背筋が震える。
サンドワームと対峙した時とは別の、本能的な恐怖。
「あとで、綺麗にしましょうね。……念入りに、隅々まで」
耳元でのささやき。
それは労いではなく、このあとの“お楽しみ”への予告だった。
俺は勝利の余韻が一瞬で吹き飛ぶのを感じながら、引きつった笑みを浮かべることしかできなかった。
サンドワームを倒しても、俺の戦いは終わらない。
むしろ、この美しい怪物を刺激してしまった分、お風呂などで待ち受ける今夜の戦いの方が過酷になる予感がした。




