15話 一触即発の境界線と眼鏡をかけた秘書官
村の空気が、張り詰めた糸のように軋んでいた。
村の入り口にある柵の前。
そこには二つの集団が対峙していた。
片方は、農具を構え、顔を引きつらせた村人たち。
もう片方は、着の身着のまま逃げてきたであろう、薄汚れた数十人の集団──難民たちだ。
「すまんが、帰ってくれ」
村長が、しわがれた声で言う。その手は震えている。
「この村には、あんたらを養う余裕なんてどこにもありゃせん」
それは冷酷な拒絶ではなく、悲痛な叫びだった。
この辺境の村に、数十人の人間を養う備蓄はない。受け入れれば共倒れになる。
それは村人全員が理解している事実だった。
「ここを去れば、俺たちは野垂れ死ぬだけだ!」
難民の先頭に立つ男が怒鳴り返した。
使い古された革鎧を着た、元傭兵か兵士崩れのような男だ。
その目には、追い詰められた獣のような狂気と、生きることへの執着が宿っている。
背後にいる女や子どもたちは、疲れ果てて座り込み、心配そうな目でこちらの様子をうかがっていた。
「食い物をよこせとは言わねぇ。水と、休む場所だけでいい。それすら恵んでくれねぇなら……奪うしかねぇんだよ」
男が腰の剣に手をかけた。
それにつられて、背後にいる動ける男たちも、棍棒やナイフを構える。
村人たちも息を呑み、武器となる農具を構え直す。
どちらも悪くない。
ただ、生きるために必死なだけだ。
だからこそ、言葉での解決は不可能に思えた。
殺気が膨れ上がり、最初の一撃が放たれようとした──その瞬間。
ヒュオッ!
上空から風切り音が響き、砂埃が舞い上がった。
両者の間に、黒い影が舞い降りる。
「──そこまでだ」
砂煙が晴れると、そこには一人の少女が立っていた。
透き通るような銀髪に、琥珀色の瞳。
そして背中には、太陽の光を遮るように広げられた、禍々しくも美しい黒い翼。
魔王ミアこと、俺だ。
「ま、魔族……!?」
「空から……?」
難民たちがどよめき、あとずさる。
俺は心臓が早鐘を打つのを必死に抑え込みながら、できるだけ尊大に、顎を少し上げて彼らを見下ろした。
内心は冷や汗でびっしょりだ。
(着地、成功……! 足をくじかなくてよかった!)
普通に歩いて出ていくより、空から現れた方がハッタリが効くというお姉さんの演出プランだ。
割とぶっつけ本番なので、失敗するんじゃないかと不安だった。
「俺の領地で、勝手な争いは許さない」
俺は低く、よく通る声を作って宣言した。
サキュバスとしての魅了の魔力を、声に乗せるイメージで。
「なっ……なんだ、この女の子は……」
先頭の男が、剣を握ったまま硬直した。
警戒心はある。だが、それ以上に視線が俺に釘付けになっている。
恐怖と、抗いがたい美貌への陶酔。
サキュバスという種族が持つ、生物としての格の違いを見せつける。
すると、俺の背後からもう一人の人物が音もなく歩み出た。
地味な灰色のローブを纏い、顔には銀縁の眼鏡をかけた女性。
長い黒髪をきっちりと後ろで束ね、手には分厚い紙の帳簿を持っている。
変装しているイリスお姉さんだ。
「……お見知りおきを」
お姉さんは眼鏡の真ん中部分を中指で押し上げ、冷徹な事務員のような声で言った。
「こちらは、この地を統べる正統なる魔王、ミア様。私はその秘書官を務めております、イリスと申します」
完璧な敬語。
角も翼も尻尾も、フードやローブで完全に隠蔽している。
どこからどう見ても、仕事のできる人間族の女性だ。
あの災害級の怪物が、眼鏡秘書コスプレをしている。
事情を知っている俺からすれば、これほど恐ろしい光景はない。
「魔王……だと?」
難民の男が、疑念と縋るような色の混じった目を向けた。
「あんたがここを仕切ってるのか? なら頼む! 俺たちを助けてくれ! 故郷を追われて、行く当てがないんだ!」
男は剣を捨て、その場に膝をついた。
プライドよりも生存を選んだのだ。
「働ける者はいる! 金目の物は少ないが差し出す! だから……!」
俺は腕を組み、冷ややかな視線を維持したまま沈黙する。
ここで即答してはいけない。
魔王は安売りしない。
代わりに動いたのは、秘書官イリスだった。
「ふむ」
彼女は難民たちに近づくと、値踏みするように視線を走らせた。
怪我人、老人、子ども。そして痩せこけた男たち。
まるで市場の家畜を見るような、感情のない目。
「資産価値は低い。即戦力、ほぼ無し。……正直に申し上げまして、我が軍にとってはお荷物ですね」
お姉さんは帳簿にさらさらと何かを書き込みながら、淡々と切り捨てた。
「ぐっ……」
男が絶望に顔を歪めてうなだれる。
「我が主、魔王ミア様は慈悲深いお方ですが、無能な民を養うほどの道楽は持ち合わせておりません。お引き取りを」
きっぱりと告げる。
その冷たさに、演技とわかっているはずの村人たちですら身震いしていた。
「そ、そんな……見捨てるのか!?」
「静粛に」
お姉さんの声が、鞭のように空気を打った。
眼鏡の奥の青い瞳が、怪しく光った気がした。
「ですが──」
一拍置き、口元に薄い笑みを浮かべた。
「使い道がないわけではありません」
お姉さんは指を鳴らした。
すると、岩陰から待機させていた魔物たち──巨大なネズミや、荷物をくくりつけられたチーターの魔物がぞろぞろと現れる。
難民たちは悲鳴を上げかけたが、魔物たちはおとなしくお姉さんの背後に整列した。
「現在、我が軍は未開の荒野を開拓中。……そこに放り込む労働力としてなら、拾って差し上げてもよろしいかと」
「か、開拓……?」
「ええ。住む家も、食べる物も、自分たちの手で作り出すのです。もちろん、初期投資として最低限の支援はいたしますが」
お姉さんは恭しく俺の方を振り返り、一礼した。
「いかがいたしましょうか、ミア様。彼らを開拓民として採用する案は」
……恐ろしい。
最初からそのつもりだったくせに、一度突き放して絶望させてから、唯一の蜘蛛の糸を垂らす。
これは俺がやられた手口と同じだ。
だが、今の俺は魔王だ。この茶番を完成させなければならない。
「……いいだろう」
俺は鷹揚に頷いた。
そして一歩踏み出し、難民たちを見下ろす。
「聞いたな? 多くの施しはしない。お客様扱いはしない」
声を張り上げる。
「だが、俺の領民になり、俺のために働くと言うなら──その命、俺が責任を持って管理してやる」
管理。
それは支配の言い換えであり、同時に絶対的な安全の保障でもある。
このまま野垂れ死ぬか、魔王の所有物として生きるか。
選択肢は一つしかなかった。
「……ありがてぇ……!」
先頭の男が、額を地面に擦り付けた。
「俺たちの命、魔王様に預けます。なんでもします」
それを皮切りに、後ろの難民たちも次々と平伏していく。
村人たちも、安堵と畏怖が入り混じった表情で、俺とお姉さんに頭を下げた。
「契約成立ね」
秘書官たるお姉さんが、眼鏡の位置を直しながら、満足げに帳簿を閉じた。
◇◇◇
事態を収拾し、難民たちへの指示出しを“秘書官”に一任したあと。
俺は、村の空き家として使われている小さな小屋に入った。
扉を閉め、鍵をかける。
外の喧騒が遠のいた瞬間、張り詰めていた糸が切れた。
「……っ、ふぅ……!」
膝から力が抜け、その場にしゃがみ込む。
両手を見ると、指先がわずかに震えていた。
(やった……やりきった……)
数十人の人生。
それを、俺の一存で引き受けてしまった。
今までは魔物を殴って従わせるだけだったが、相手は人間だ。生活があり、感情があり、未来がある。
失敗すれば、彼らは死ぬ。
その重圧が、遅れて胃にのしかかってくる。
「……怖かった……」
魔王らしく振る舞えただろうか。
足は震えていなかっただろうか。
一人で反省会をしていると、静かに扉が開いた。
鍵をかけたはずなのに、当然のように入ってくる人物は一人しかいない。
「お疲れ様、ミア」
そこには、眼鏡を外し、いつもの妖艶な笑みを浮かべたお姉さんがいた。
ローブを脱ぎ捨て、隠していた翼と尻尾をゆったりと伸ばしている。
秘書官イリスから、怪物な姉に戻った姿。
「……お姉さん」
俺が顔を上げると、お姉さんは優しく微笑み、しゃがみ込んで俺を抱きしめた。
甘い香りと、温かい体。
いつもなら警戒する密着だが、今はそれがどうしようもなく安心できた。
「よく頑張ったわね。堂々としていて、立派な魔王だったわよ」
「……足、震えてたかもしれない」
「ううん、気づかれてないわ。あの場にいた全員、あなたの美しさと威厳にひれ伏していたもの」
お姉さんは、俺の背中を一定のリズムでとんとんと叩く。
まるで怯える子どもをあやすように。
「大丈夫。責任なんて重く考えなくていいの」
耳元で、甘い毒のような言葉がささやかれる。
「ミアはただ、そこに自信を持っていればいい。面倒な計算も、汚い仕事も、全部秘書である私がやってあげる」
「……それじゃ、俺はただのお飾りだろ」
「いいえ。みんなの希望の星よ」
お姉さんは俺の体を離し、震えの止まった俺の手を両手で包み込んだ。
そこには、いつものような性的なからかいや、支配欲をむき出しにした捕食者の目はなかった。
ただ、純粋に慈しむような、深い愛情だけがある。
それが余計に、俺を依存の沼へと引きずり込む。
「だから安心して、お姉ちゃんに頼りなさい。……ね?」
「……うん」
俺は小さく頷いた。
この人がいれば、なんとかなる。
数十人の命を背負う恐怖も、この人の腕の中にいれば薄れていく。
それが、魔王としての成長を阻害する甘えだとわかっていても、今の俺にはその温もりを拒絶することができなかった。




