13話 甘い悪夢と尻尾のレッスン
──夢を見ていた。
それは、とろけるように甘く、逃げ場のない夢だった。
「いい子ね、ミア……」
視界は白く霞んでいる。
俺は、柔らかいベッドに沈み込んでいた。
手足に力が入らない。指先一本動かせない。
ただ、全身を愛撫される快感だけが、鮮明に脳を揺らしていた。
「もう、頑張らなくていいのよ」
イリスお姉さんの声が、鼓膜ではなく脳に直接響く。
優しい手つきで髪を梳かれ、背中の翼の付け根を甘く揉みほぐされる。
抵抗しようという意思が、熱い吐息を吹きかけられるたびに溶けていく。
「男だった記憶なんて、重いだけでしょう? そんなもの捨てて、お姉ちゃんだけの可愛い妹におなりなさい」
ああ、そうかもしれない。
俺の思考は、急速に形を失いつつあった。
戦うのも、意地を張るのも疲れた。
この温かい腕の中で、ただ愛されるだけの存在になれたら、どれほど楽だろう。
「ん……ぁ……」
喉から、聞いたこともない甘い声が漏れる。
お姉さんは満足そうに微笑み、俺を抱きしめた。
鼻先を首筋に押し当てられ、深く匂いを嗅がれる。そして、唇が触れて生気を吸われていく。
ぞくりと背筋が震えた。
捕食されている。
けれど、それがたまらなく心地いい。
脳味噌が砂糖水に浸されているようだ。思考力が奪われ、ただ快楽だけを貪る肉塊に変えられていく。
「ここも、正直になってるわね」
お姉さんの手が、俺の下腹部──おへそのあたりを優しく撫でた。
そして、手のひらでゆっくりと、奥へ押し込むように圧をかける。
「────ッ!?」
突き抜けるような、甘い疼き。
子宮なんて器官は持っていなかったはずなのに、体の奥底が熱く脈打ち、何かが書き換えられるような感覚に襲われる。
「あ、ぅ……や、やめ……変になる……!」
「変になればいいのよ。……ほら、堕ちておいで」
抗えない。
男としての俺が、音を立てて崩れ落ちていく。
◇◇◇
「はっ……!?」
ガバッと跳ね起きた。
荒い息。全身をびっしょりと濡らす寝汗。
心臓が早鐘を打ち、シーツを握りしめた指が震えている。
「ゆ、夢……か……」
最悪な目覚めだった。
ただの悪夢じゃない。肉体的な感覚があまりにもリアルに残っている。
下腹部の疼きも、脳が痺れるような酩酊感も。
「おはよう、ミア」
不意に、すぐ横から声がした。
ギギギ、と首を回すと、ベッドにお姉さんが腰かけていた。
朝の光を背負い、ニコニコと極上の笑みを浮かべて。
「……なんで、いるんだ」
「寝顔を見ていたのよ。とても苦しそうで……そして気持ちよさそうな顔をしていたわ♡」
その言葉を聞いた瞬間、俺は戦慄し、直感した。
今の夢は、ただの夢じゃない。
「……まさか、あんたが見せたのか?」
「ええ」
悪びれもせず、お姉さんは肯定した。
「サキュバスは夢魔だもの。夢に入り込むなんて造作もないわ」
「なっ……!?」
「どうだった? 男としての自分が失われて、完全に堕ちていってしまう夢の味は」
お姉さんは楽しそうに俺の頬についた汗を指ですくい取ると、舌で舐める。
「言ったでしょう? 私を信じて飛びなさい、って」
「……あれは、飛行訓練の話だろ」
「同じことよ。寝ている時だって、気を抜いちゃだめ。隙を見せたら、いつでもあっち側に引きずり込んであげる」
俺は言葉を失う。
何度目かのドン引きだ。
この人は、俺が眠っている間の無防備な精神に侵入し、強制的に雌堕ちのシミュレーションをさせたのだ。
教育? 訓練?
違う、これは洗脳だ。
夢という逃げ場すら、この人の支配下であることを示すための。
「……悪趣味すぎる」
「ふふ、最高の褒め言葉ね」
お姉さんは立ち上がり、「朝食の準備ができているわ」と言い残して部屋を出て行った。
残された俺は、憔悴しきった体でベッドにうずくまった。
「……はぁ、はぁ……」
まだ、体の奥が熱い。
夢の中での快感が、毒のように体に残っている。
悔しいが、認めざるを得ない。
俺の精神防壁は、お姉さんの手練手管の前では紙切れ同然だ。
このままでは、いつか現実でもあの夢のようになる。
「……くそっ」
俺はシーツを強く握りしめた。
強くなりたい。
魔王として、戦士として、そして何より一人の個として。
あのお姉さんを跳ね除けられるくらい強くならなければ、俺は本当に、ただの愛玩動物になってしまう。
「……やってやる」
鏡に映る自分を睨みつける。
その瞳には、恐怖と共に、確かな決意の炎が宿っていた。
これは生存競争だ。
俺という存在を賭けた、長く過酷な戦いの。
◇◇◇
朝食のテーブルについても、俺の不機嫌は収まらなかった。
フォークでソーセージを突き刺し、目の前で涼しい顔をして紅茶を飲んでいるお姉さんを睨みつける。
「……味がしない」
「あら、美味しくなかった?」
「あんたのせいで、気が気じゃないんだよ」
俺が文句を言うと、お姉さんはカップを置き、諭すように言った。
「怒る気持ちはわかるわ。でもね、ミア。あれは必要な耐性訓練なのよ」
「耐性?」
「ええ。もし私以外のサキュバス、あるいはインキュバスに精神攻撃を仕掛けられたらどうするの? 夢の中で快楽漬けにされて、起きたら廃人……なんてことになりたくないでしょう?」
お姉さんの言葉は、腹立たしいことに正論だった。
当然、俺たち以外にもサキュバスはいるだろう。
もし敵対する魔王の一人が同じ手を使ってきたら、今の俺は無防備すぎる。
慣れておく必要があるというのは、理屈としては正しい。
「……それにしたって、あんな夢は……」
反論しようとした瞬間、下腹部の奥がぐずぐずと疼いた。
夢の中でお姉さんに押し込まれた、あの甘い圧迫感が蘇る。
俺は思わず言葉を切り、顔をしかめてお腹を押さえた。
体はまだ、あの夢の続きを求めているかのように熱を持っている。
「ふふ、まだ感覚が残っているのね。……可愛い」
お姉さんは嬉しそうに目を細める。
この人は、俺のためを思って言っているのか、単に俺を虐めて楽しんでいるのか、あるいはその両方か。
境界線が曖昧すぎる。
「……わかったよ。納得はしてやる」
俺はため息まじりに認めた。
生き残るためには、この程度の訓練は乗り越えなければならない。
すると、お姉さんは話題を変えるように、自身の尻尾をゆらりと動かした。
先端が器用に動き、テーブルの上の角砂糖をつまみ上げる。
「サキュバスとしての強みは、精神攻撃だけじゃないわ。この尻尾も、立派な武器であり、道具よ」
「……器用だな」
「例えば、こうして食事をしたり、武器を持ったりできれば、両手が塞がっている時でも、もう一つの手として使えるわ。いざという時の奇襲にもなる」
ぽいっ、と角砂糖を紅茶に投げ入れる。
なるほど、第三の手か。
戦闘中に尻尾からナイフでも飛び出せば、相手の虚をつけるかもしれない。
「やってみなさい」
「……こうか?」
俺は意識を腰の後ろへ集中させた。
尻尾をテーブルの上に乗せ、スプーンを持ち上げようとする。
ぷるぷると震える尻尾の先を、スプーンの柄に巻きつけようとするが。
カチャン。
無情にもスプーンは滑り落ち、皿にぶつかって音を立てた。
難しい。自分の体なのに、距離感が掴めない。
「くそ、もう一回……」
「力が入りすぎよ。もっとリラックスして」
お姉さんが立ち上がり、俺の椅子の後ろに回った。
「お手本を見せてあげる」
言うが早いか、お姉さんの尻尾が伸びてきて、俺の尻尾にそろりと絡みついた。
蛇が巻きつくような、なめらかな動き。
「ひゃっ……!?」
変な声が出た。
尻尾の表面はそれなりに敏感だ。
そこに、お姉さんの温かくて柔らかい尻尾が、擦りつけられるように密着している。
「ほら、こうやって……優しく包み込むように……」
「っ、んぅ……!」
お姉さんの尻尾が、俺の尻尾をリードするように動く。
だが、その摩擦が、刺激が、強すぎる。
まるで神経が直接触れ合っているような、濃密な接触。
背筋を駆け上がるぞわぞわとした感覚に、俺はスプーンを持つどころか、フォークを握る手からも力が抜けそうになる。
「力まないで。……私に委ねて?」
耳元でささやかれながら、尻尾を根本から先端までしごかれる。
熱い。
ただの技術指導のはずなのに、なんでこんなにいやらしいんだ。
「あ、ふ……お姉さん、そこ、やめ……」
「だめ。覚えるまで離さないわ」
お姉さんは楽しそうに、さらに強く絡めてくる。
俺は涙目になりながら、ガタガタと震える手でパンを握りしめた。
(サキュバスとしての勉強、やばすぎる……)
夢でも現実でも、結局この人の手のひらの上。
俺が一人前の魔王になる前に、性的な意味で開発され尽くすのが先なのか?
スプーンを拾うだけの訓練が、夜の行為のような熱を帯びていく中、俺は自分の未来を憂いて心の中で絶叫した。




