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12話 恐怖と安心による依存と無自覚な誘惑

 「……はぁ。足が痛い」


 屋敷の廊下を歩きながら、俺はつい愚痴をこぼした。

 魔王になってからというもの、移動といえば徒歩だ。乗り物なんてない。

 荒野を歩き、村を歩き、屋敷の中を歩く。

 サキュバスの体は頑丈だが、精神的な疲労は肉体にくる。

 すると、前を歩いていたイリスお姉さんが振り返り、俺の背中──正確には畳んでいる翼を見つめた。


 「あら。それなら、飛んでみればいいじゃない?」

 「……飛ぶ?」

 「ええ。立派な翼があるんだもの。それは飾りじゃないのよ?」


 言われてみればそうだ。

 俺の背中には、あまり大きくないがコウモリのような黒い翼がある。

 これまで服の下で窮屈な思いをさせていたが、本来は空を飛ぶための器官だ。


 「飛べるなら、移動は楽になるな……」

 「でしょう? じゃあ、特訓しましょうか♡」


 お姉さんは嬉々として俺の手を引き、屋上へと連れて行った。

 屋上は、地上から十メートルほどの高さがあった。

 落ちれば即死とはいかないまでも、骨折では済まないだろう。

 風が強く吹きつけ、銀髪が乱れる。


 「まずは翼を広げてみて」


 言われるまま、背中に意識を集中する。


 バサリ。


 黒い被膜が風を受けて大きく広がった。


 「うん、いい形。手入れが行き届いているわね」


 お姉さんが背後に回り込み、翼の骨組みを指でなぞる。


 「ひゃうっ!?」


 俺は変な声を上げて身をよじった。

 背筋に電流が走るような、強烈な痺れ。


 「ちょ、そこ触るな! 風呂の時も言っただろ!」

 「だめよ。翼で飛ぶには十分な魔力がないといけないから、こうして刺激を与えて魔力の通りを良くしないと」


 お姉さんはもっともらしい理屈を並べるが、手つきはどう見ても愛撫だ。

 付け根を揉み、被膜を指先で弾き、骨に沿って撫で上げる。


 「く、うぅ……! やめ……力が抜ける……っ!」

 「我慢しなさい。ここが硬いと、風を掴めないわよ?」


 耳元でささやかれながら、敏感な翼を弄られる。

 恥ずかしい。悔しい。

 なのに、体が熱くなっていく。

 これが指導だと言われたら、拒絶できないのがこの関係の卑怯なところだ。


 「……よし。通りが良くなったわね」


 お姉さんが手を離すと、翼がじんわりと熱を持ち、魔力が循環しているのがはっきりとわかった。

 感覚が鋭敏になっている。風の流れすら、皮膚感覚として捉えられる。


 「翼に魔力をまとわせて、風を叩くイメージよ。……できる?」

 「やってみるけど……コツとかないのか?」

 「あるわ」


 お姉さんは、俺の肩を掴み、屋上の縁へと誘導した。

 足元の先は、何もない空間だ。


 「私を信じて、飛びなさい」

 「は?」


 質問を返す間もなかった。

 いきなり背中を強く押された。


 「え、あ──ッ!?」


 体が宙に投げ出される。

 重力が内臓を引っ張り上げる感覚。

 視界が回転し、地面が急速に迫ってくる。


 (落ちる! 死ぬ!!)


 恐怖で思考が真っ白になった。

 だが、その極限状態で、生存本能が爆発した。

 魔力が勝手に噴き出し、翼へ流れ込む。


 バサッ


 翼が風を叩いた。

 強烈なブレーキがかかり、落下の勢いが殺される。


 「……う、いたっ……!?」


 ふわりと、俺の体は地面すれすれのところで奇跡的に浮遊していた。

 飛んだ。いや、浮いていると言うべきか。


 「と、飛べた……のか……?」


 安堵したのも束の間。

 バランスが取れず、風に煽られて体勢が崩れる。


 「わ、わわっ! 止まれない! どうやって降りるんだこれ!」


 制御不能なまま、きりもみ回転して地面へ激突する直前。

 ふわりと甘い香りがして、柔らかい衝撃に包まれた。


 「……はい、捕まえた♡」


 目を開けると、そこには優雅に空中に浮き、俺をお姫様抱っこするお姉さんがいた。

 余裕の笑み。

 最初からこうなるとわかっていた顔だ。


 「怖かった?」

 「……殺す気か!」

 「でも、飛べたでしょう? 恐怖は最高の原動力なのよ」


 お姉さんは俺を抱いたまま、ゆっくりと地面に降り立つ。

 心臓が早鐘を打っている。

 それは落下の恐怖のせいなのか、それとも、またしてもこの人に命を救われて握られたという事実への動悸なのか。


 「安心して。お姉ちゃんはいつだって、落ちてくるあなたを受け止めてあげるから」


 抱きしめる強さが増す。

 突き落としたのはお前だろ、という反論は喉の奥で消えた。

 恐怖の直後に与えられる絶対的な安心感。

 このマッチポンプに、俺の心は確実に摩耗し、飼いならされている。


 ◇◇◇


 飛行訓練という名の落下実験のあと、俺たちは屋敷の中に戻った。

 お姉さんは「次は室内でできる訓練にしましょう」と言い、俺を客間のソファに座らせた。


 「魅了の使い方はわかる?」

 「……まあ、なんとなく。ネズミの魔物の時だろ?」


 あの時、たまたま魅了的な何かが発動し、もふもふしたネズミたちは逃げずに甘えてきたわけだ。


 「ええ。あれは無意識だったわね。今度は意図的に使えるようになりましょう」


 お姉さんは向かいのソファに優雅に足を組んで座り、そっと手招きした。


 「私を練習台にしていいわ。……さあ、私をその気にさせてみて?」

 「……さすがに無理だろ」


 相手は数百年を生きてるだろうサキュバスだ。

 生まれたての俺が誘惑できるとは思えない。

 だが、やらないというわけにもいかない。


 「……す、好きだ、イリス」


 俺は精一杯のキメ顔を作り、甘い声を出そうと努力した。


 「……棒読みね」

 「ぐっ……」


 即答で切り捨てられた。

 めげずに次を試す。

 上目遣いで、服の裾を掴んでみる。


 「お姉ちゃん……一緒に、いて?」

 「あざといわね。計算が見え見えよ」


 厳しい。

 その後も、壁ドン(身長差で届かない)、顎クイ(手が震える)、ウィンク(引きつってる)など、前世の知識を総動員して挑んだが、お姉さんは涼しい顔でダメ出しを続けた。


 「はぁ……はぁ……もう、ネタ切れだ……」


 十数分後。

 俺は精根尽き果て、ソファにだらりと身を預けた。

 汗がにじみ、髪が頬に張り付く。

 少し喉が渇いた。

 無意識に指先で首元の汗を拭い、前髪をかき上げて、気だるげに息を吐く。


 「……もう、勘弁してくれよ……」


 潤んだ瞳で、恨めしそうにお姉さんを睨み上げたその瞬間。


 「ッ……」


 お姉さんの表情が凍りついた。

 余裕の笑みが消え、瞳孔が開く。

 青い瞳が、獲物を狙う獣の色に染まった。


 「え?」


 気づけば、俺はソファに押し倒されていた。

 覆いかぶさるお姉さんの顔が、近い。

 甘い匂いが爆発的に濃くなる。

 翼が大きく広がり、俺の視界を黒く塗りつぶした。


 「お、姉さん……?」


 尋常じゃない雰囲気だ。

 訓練のダメ出しが来ると思ったのに、お姉さんは荒い息をつき、俺の首筋に鼻先を押し付けてくる。


 「……今の、計算?」

 「は? なにが……」

 「汗ばんだ肌。無防備な首筋。そして、私を責めるような潤んだ瞳……」


 お姉さんの指が、俺の太ももを這い上がる。

 力が強い。逃げられない。


 「ぞくっとしたわ。……理性が焼き切れそうになるくらい」

 「ちょ、まっ、待て! 冗談だろ!?」

 「冗談に見える?」


 見えない。

 目がマジだ。

 喰われる。物理的にも、性的にも。

 俺が恐怖で身を硬くした、その時。


 「……ふぅ」


 お姉さんは大きく息を吐き、体を離した。

 憑き物が落ちたように、いつもの涼しい顔に戻る。

 だが、頬はほんのりと赤い。


 「危険だったわ。そのまま食べてしまうところだった」

 「…………」


 俺は引いた。心の底から引いた。ドン引きだ


 「合格よ、ミア。今の無自覚な色気こそが、あなたの最大の武器ね」

 「……そうかよ」


 お姉さんは訓練終了と言って立ち去ったが、その尻尾は興奮を隠しきれずにくねくねと揺れていた。

 俺はソファで身を起こし、冷や汗を拭った。


 (……今の、絶対にわざと誘惑に乗っかりにいっただろ)


 訓練という名目で、俺を襲う口実を探していただけにしか見えなかった。

 だが、俺の無自覚な仕草が、あの怪物を一瞬でも本気にさせたのは事実らしい。

 自分のポテンシャルが怖い。

 そして、それをギリギリで寸止めして楽しむお姉さんが、もっと怖い。


 「……俺の貞操、いつまでもつんだろうな」


 誰もいない客間にて、俺の呟きが虚しく響いた。

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