11話 死と隣り合わせの転移魔法、あるいは窒息するほどの密着
「さあ、褒めてちょうだい?」
村人たちの前で完璧な采配を振るったあと、イリスお姉さんは獲物を狙う目で迫ってきた。
その甘い声に、俺は一歩下がる。
「い、いや……さすがに村の中ではちょっと……」
辺りには村人がいる。
村長もいるし、ヤギを連れたおばさんも見ている。
ここでイチャイチャするのは、魔王の威厳的にアウトだろう。
だが、お姉さんは俺の言葉を聞くと、にやりと口角を吊り上げた。
「あらあら。ここではできないようなことをしてくれるなんて、期待しちゃうわ♡」
「そんなハードル上げるようなこと言ってない」
「それなら、一度屋敷に戻りましょうか。あそこなら誰にも邪魔されないもの」
お姉さんは上機嫌で提案した。
屋敷に戻る。
それはつまり、あの長く過酷な荒野をまた歩いて戻るということだ。
「……また、歩くのか。足が棒になりそうだ」
俺がげんなりしていると、お姉さんはさらりと言った。
「大丈夫よ。帰りは転移魔法を使うから」
「……あるなら最初から使ってくれ」
俺たちは村人に別れを告げると、村を出て少し歩いた。
その際、村長がほっとしていたが、俺は新しい魔王なので信用がないのだろう。仕方ない。
村から死角になる、岩陰の小さな水辺。
お姉さんはそこで立ち止まると、懐から手のひらサイズをした金属の円盤を取り出し、地面に置いた。
表面に幾何学的な模様が刻まれた、重厚な……おそらくは魔道具だ。
「……なにそれ?」
「転移魔法を安全に使うためのアンカーよ。魔道具の一つね」
お姉さんは円盤に魔力を流し込みながら説明する。
「そもそも転移魔法っていうのはね、転移先を強く、正確に想像できないと、どこに飛ぶかわからない不安定な代物なの」
「想像?」
「ええ。目に見える範囲なら安全に飛べるわ。でも、地平線の彼方へ飛ぶ場合……少しでもイメージがずれたら、運が良ければその辺の地上。運が悪ければ石の中や、壁の中にめり込むわね」
「…………」
俺はドン引きした。
「つまり、座標がずれたら埋まって死ぬってことか?」
「そうよ。昔はよく事故があったわね」
お姉さんは、今日の天気の話でもするように頷く。
どれくらい昔なんだ、という質問はあとが怖いのでやめておく。
「便利だけど、事故率がねえ」
「事故率って単語が怖すぎる……」
俺は内心ため息をついた。
いったいどれほどの魔術師が、壁の一部になって歴史から消えていったのか。
転移魔法、リスクが高すぎる。
「だから、このアンカーがあるの。ちなみにもう一つのアンカーが屋敷にも置いてあるわ。だから帰る分には事故は起きない」
「なるほど。……でもこれ、魔道具なんだろ? めちゃくちゃ高いんじゃないか?」
「ええ、これ一つ売れば城を建てられるでしょうね」
そんなものを地面に置いていいのか。
「盗まれたりは?」
「するわ♡」
「するのかよ」
「でもね、ただ盗まれるだけならまだいいの」
お姉さんは妖艶に目を細めた。
「もし、盗まれたことに気づかず転移したら……どうなると思う? 例えば、盗んだ相手がこれを石壁の中に埋めていたら」
意図的に事故を起こすことができてしまう。
それを想像して、俺は背筋が凍った。
転移した瞬間、石壁と融合して即死だ。
「……だから、設置できる場所は限られるのよ。常に信用できる存在が守っている場所でないと、怖くて使えないわ」
俺は納得した。
転移魔法があれば世界中どこへでも一瞬で行けると思っていたが、そんな甘い話ではなかった。
アンカーを守る戦力が必要不可欠なのだ。
「町中に設置する場合、よっぽど信用置ける者に任せでもしないと、転移は多用できないわけか」
「そういうこと。ミアは賢い子ね」
お姉さんは準備を終えると、俺に向かってにっこりと笑い、両腕を大きく広げた。
「さあ、準備完了よ」
「……なんで腕を広げてるんだ?」
「転移魔法は、基本的には術者一人にしか効果がないの。複数人で飛ぶなら、魔力を同調させるために密着が必要なのよ」
待ち構えている。
全身で“おいで”と言っている。
その笑顔の裏にある欲望が透けて見えた。
「……密着って、どれくらい?」
「当然、全力のぎゅーっ♡」
「……最悪だ」
また窒息コースか。
俺は踵を返そうとした。
「やっぱり歩いて帰る」
「だめ♡」
逃げられるはずがなかった。
お姉さんの腕が伸び、俺の体はあっという間に捕獲された。
「んぐっ!?」
「じっとしててね。危ないから」
豊満な肉体に顔を埋められ、万力のような抱擁で全身を拘束される。
柔らかいのに、逃げられない。
「んーっ! んーっ!!」
「屋敷へ」
俺の悲鳴は、世界が歪む浮遊感と共にかき消される。
視界が歪み、世界が裏返るような浮遊感は一瞬で収束した。
足裏に伝わるのは、荒野の硬い土ではない。
鼻をくすぐるのは、砂埃ではなく屋敷の香り。
「……着いた、のか?」
俺は恐る恐る目を開けた。
そこは見慣れた──と言ってもまだ数日だが、屋敷の中だった。
数秒前まで岩陰にいたのが嘘のようだ。
転移魔法の圧倒的な利便性に、改めて戦慄する。
だが、今はそれどころではなかった。
「……あの、お姉さん」
「ん? なぁに?」
「転移は終わったんだ。解放してくれ」
密着度が限界を超えている。
お姉さんの豊かな肉体が、俺の全身へこれでもかと押しつけられているのだ。
サキュバスの体温。甘い吐息。
心臓の音が重なるほどの距離。
俺が身じろぎすると、お姉さんは腕の力を緩めるどころか、さらに強く抱きすくめてきた。
「やだ♡」
「苦しいんだが」
「せっかくだもの。このまま、女の子が気持ちよくなれるところのお勉強をしましょう?」
それは冗談にしては、あまりにも艶めかしく、危険な響きを帯びていた。
「は……?」
「ミアはまだ、自分の体のことを知らなすぎるわ。どこが敏感で、どうされたら声が出ちゃうのか……お姉ちゃんが教えてあげる」
背筋に電流が走った。
本気だ。
この人は今、俺の男としての最後の防波堤を、物理的な快楽で決壊させようとしている。
「や、やめろ……! そういうのはいい!」
「ふふ、体は正直よ? 心臓、こんなにドキドキしてる」
「恐怖でだ! 離せ、離してくれ!」
俺は必死でもがいた。
なりふり構わず、爪を立てんばかりの勢いで抵抗する。
ここで流されたら終わる。何かが決定的に終わってしまう。
俺の悲痛な叫びが響き渡り──ふっ、と拘束が解けた。
「……あらあら。そんなに怖がらなくてもいいのに」
お姉さんは一歩下がり、軽く笑った。
「冗談よ。……可愛い反応が見たかっただけ」
解放された俺は、その場にへたり込み、荒い息を吐いた。
冗談? 嘘だ。
俺は見逃さなかった。お姉さんの背中の翼が興奮したようにパタパタと震え、尻尾の先がゆらゆらと妖しくくねっていたのを。
あれは、獲物を前にした捕食者の反応だった。
本気で拒絶しなければ、間違いなく実行していただろう。
「……完全に、遊ばれた……」
「さあ、転移のご褒美に私を褒めて? お姉ちゃんすごいって」
「……無理だ」
「あら?」
「精神的に、もう限界だ……」
精神的な余裕を失った俺が、がっくりとうなだれると、お姉さんは数秒ほど沈黙し──パン、と乾いた音を立てて手を叩く。
「はい、冗談はここまで」
顔を上げると、そこには先ほどまでの粘着質な情欲は綺麗さっぱり消え失せ、冷徹な参謀の顔をしたお姉さん、もといイリスが立っていた。
切り替えが早すぎる。
この落差こそが、彼女の底知れない怖さだ。
「執務室へ行きましょう。今後の方針を再確認する必要があるわ」
執務室の重厚な机の上に、屋敷を中心とした手描きの地図が広げられる。
お姉さんは羽根ペンを取り出し、地図の端にある荒野と草原の境目あたりに、新たな印を書き込んだ。
今日手に入れた村だ。
「結論から言うわね。しばらくは、人のいる土地での拡大はしないわ」
お姉さんの指が、村の周辺でぴたりと止まる。
俺はわずかに首をかしげた。
「勢いに乗って広げるんじゃないのか? 近くに他の村もあるかもしれないし」
「だめよ。目立ちすぎるもの」
その声は淡々としていた。
「人のいる土地は、情報が流れるのが早いの。行商人、旅人、あるいは逃げ出した元領主。噂は風よりも速く広まるわ」
「……まあ、そうだな」
「もし『強大な新魔王が現れ、破竹の勢いで侵略を開始した』なんて噂が広まれば、どうなると思う?」
「……旧魔王軍や、竜族が黙っていない?」
「ご名答。今の戦力で目をつけられたら、潰されるだけ」
お姉さんは、大陸全体が描かれた地図にある二大勢力を指差す。
俺たちはまだ、あまりにも脆弱だ。
イリスというジョーカーはいるが、他国の軍隊相手に正面から戦争ができるわけではない。
「だから、演じるのよ」
お姉さんは、悪戯っぽく、けれど冷ややかに笑った。
「田舎の弱小魔王を」
「……弱小魔王」
「そう。辺境の小さな村を一つ二つ、たまたま支配してるだけの、運がいいだけの小物。大勢力からすれば、わざわざ兵を割いてまで潰しに来る価値もない、取るに足らない存在」
なるほど。
無害を装うわけか。
「自称魔王が入れ替わった程度なら、連中は気にしない。その認識を利用して、時間を稼ぐの」
お姉さんの指が、地図の余白──荒野の方へ滑る。
「その間に、私たちは情報の届かないこの荒野で、着実に力を蓄える。魔物を配下にし、拠点を繋ぎ、誰にも気づかれないまま、背後から喉元に牙を突き立てられる距離まで近づく」
完璧な計画だった。
派手な方法ではない。
暗闇で爪を研ぐ、狡猾な策略家のやり方だ。
「……わかった。俺はどうすればいい?」
「ミアは引き続き、荒野の魔物たちを平らげてちょうだい。力による支配、対話による懐柔……やり方は任せるわ。あなたの経験値になるもの」
「……結局、現場仕事かよ」
俺がため息をつくと、お姉さんは楽しそうに付け加えた。
「もちろん、私も手伝うわよ? サポートくらいはね。それに──」
お姉さんは椅子から立ち上がり、俺の背後に回り込むと、耳元に唇を寄せた。
「二人きりのお勉強も、ね♡」
ぞくり、と背筋が震えた。
さっきの女の子の気持ちいいところ発言がフラッシュバックする。
「……お勉強って、魔王としての戦略とか、魔法の制御とか……そういうのだよな?」
「ええ、もちろん。あとはサキュバスとしての体の使い方、誘惑の作法、快楽の制御……学ぶことは山積みよ?」
「絶対、そっちの比率が高いだろ……!」
俺の抗議は、甘い笑い声にかき消された。
田舎の弱小魔王を演じる日々。
それは、外敵からの目をごまかすための潜伏期間であると同時に、この屋敷という密室で、俺がお姉さんに教育され続ける日々の始まりでもあった。




