4.最愛と再会
「おはようございます、奥様」
聞き慣れた声がした方向へ顔を向ける。
一度ノックをしただけで許可も無しに扉を開け、私と目が合うとその者は息を呑んだ。
驚いた拍子に持っていた洗面器の水が跳ね、彼女のエプロンを濡らす。
「まだ何も言っていないのだけれど?」
「も……申し訳ございません」
「公爵夫人の私に対して失礼ではない?」
頭を下げた彼女は、そうすることが屈辱であるかのように洗面器を抱き込んだまま肩を震わせる。
──そうだ。
生前の私は公爵家当主のカールハインツに顧みられていなかったから使用人たちから見下されていた。
つれない夫に必死に愛を乞う様は、さぞかし滑稽だっただろう。
「いいわ。それはそこに置いておいてちょうだい」
「畏まりました」
テーブルに置くと、侍女はそそくさと退室した。
「……冷たいわ」
洗面器に手を入れてみると、雪解け水のような冷たさを感じる。
こういうのは肌に良い適温で温めて持って来るはずなのだけれど。
私は洗面器を持ったまま部屋を出た。
歩く度廊下も私のガウンも濡らすが構わない。
「そこのあなた」
ビクッとして肩が震えた侍女が振り向いた瞬間、私は勢いよく水をぶちまけた。
「キャアアアア!」
「何事!? ……っ奥様!?」
辺りを掃除していたメイドや窓の点検をしていた使用人たちが悲鳴を聞きつけて集まって来る。
「これは……どういう……」
「あら、あなたは執事長の……確かクラークだったかしら」
初老の男性を捉え、笑みを浮かべる。
「この侍女が私の返事も無しに私室に入り、顔洗いの水を持って来たの。触ってみたらとても冷たかったから、頭を冷やしてもらおうと思って」
クラークの顔色が変わる。
使用人たちを総まとめしているのが彼だ。
下の者の不手際は上の責となる。
生前の私は夫に愛されていないことから悲劇に酔うだけで周りを気にも止めなかったけれど、熱が冷めてみれば舐められたものだった。
「申し訳ございません。すぐに適温でお持ちいたします」
クラークが恭しく頭を下げたところで玄関の辺りがざわついた。
──ああ、空が明るくなってようやくお帰りになられたのね。
「あなたたちの主がお帰りのようよ。私はいいからそちらに行ってはいかが?」
一瞥して部屋に戻る。
集まっていた使用人たちの顔色が心なしか青いわね。
今まで何も抵抗しなかった夫人が急に水をぶっかけたらご乱心したと思うかしら。
室内に戻り窓の外を見れば雪が積もっていた。
どうりで水も冷たかったわけだ。
「……そうだわ、ユリアーナ!」
冬の訪れを実感した途端にふるりと身体が震えた。
クローゼットを開け放ち暖かそうな羽織を探す。
けれどなぜか宝飾品がちぎれていたり、毛が抜けていたりした。
「全員まとめてクビにした方がいいかしらね」
とりあえず一番まともそうなガウンを羽織り、ユリアーナの部屋を目指す。
「ユリアーナ、起きている?」
記憶を辿り生前ユリアーナの部屋と聞いた扉を叩く。
何度か叩くと、カチャ……と音がした。
「おはようございます……」
「ユリアーナ……?」
中から小さな手で眠そうな目をこすりながら現れたのは、幼いユリアーナだった。
霊体となって見守っていた景色が走馬灯のように蘇る。
一番古い記憶はベッドの脇で私の骨張った手を握り締め、必死に励ましている姿だった。
それが一番古い記憶だなんて、どれだけこの子を見ていなかったのか。
「ユリアーナ……」
「お、お母さま?」
膝から崩折れ、あふれる涙を止められない。
生きている。
ユリアーナが、生きている。
まだ小さくて可能性を秘めた我が子が、生きていることが嬉しくて、時戻りをしたのだと実感させる。
「ユリアーナ……ごめん……ごめんなさい。
今まであなたを一人にしてしまっていたわ。でもこれからはそばにいさせてちょうだいね」
小さな子に許しを乞うように縋るように抱き締める。
おそらくこれが初めてだからだろう。
抱き締めた瞬間、ユリアーナは身体を強張らせた。
けれど、やがて背中に小さな手の温もりを感じた。
ただ添えられただけで、それだけで更に涙が溢れてくる。
小さな手は優しくぽんぽん、と背中で跳ねる。
ユリアーナからすれば急に朝起こされて、今まで見向きもしていなかった母親が抱き着いてきて泣いているのだ。
さぞかし困惑しているだろう。
それなのに優しく労ってくれるこの子をどうして放置してきたのだろうと情けなさに涙が出る。
「大丈夫ですか? お母さま」
「ええ。ええ。ありがとう。ごめんなさいね。急に来て驚いたでしょう?」
「いえ、大丈夫です」
ユリアーナはぎこちなく笑う。幼い子に気を遣わせてしまって、我がことながら本当に情けない。
「お母さま、どうされたのですか?」
「悪い夢を見たの。あなたが……罪もないあなたが、断罪されて……。だからあなたの無事を確認したかったの」
あなたが断罪されて処刑されて死んだ……なんて言っては困らせるだけだ。
夢ではなく、本当にあったこと、なんて荒唐無稽なこと信じられない。
「ユリアーナ、この先何があっても私があなたを守るわ」
「お母さま……?」
その為に、私は時を戻って生き返った。
夫の愛を乞うのは止める。
ユリアーナの……娘の幸せだけを考えて生きる。
私は娘に誓うように、守るように抱き締めた。
「こんなところにいたのか」
最愛の娘との再会を喜んだのも束の間。招かれざる声を聞いただけで胸がざわつく。
足音を聞いただけで切なくなる。
かつてはその存在を感じるだけで、喜びに満ち溢れていた。
私は立ち上がり、ユリアーナを守るようにして振り返る。
そこにはかつて愛した男が立っていた。




