闇に拾われた夜
はじめまして。
読んでくださってありがとうございます!
初投稿なので、おかしいところはご容赦ください。
この作品は出会いの夜を描いた短編で、完結しています。
月もない、真っ暗な夜だった。
静謐な闇を破りながら、嵐のような複数の足音と怒声が響き渡る。
石造りの屋敷のうちのどこからともなく、パンパンと甲高い銃声すら聞こえていて、この館が襲撃を受けていることを否応なく認識させられる。
───ああ、オレはここまでの命か。
透太は、自らが奉公する娼館の台所の片隅で、ただ震えながら麦袋の陰に隠れていた。
電気のまだ通らない館は、居場所の特定を恐れて蝋燭すら消しているからなお暗い。襲撃者の正体も分からず、目の前の暗闇も恐ろしく、蹲ったまま袋の影から動けずにいた。
この春に十歳になったばかりだ。大陸に夢を見た両親と半年前に日本を離れたものの、その両親は悪いやつに騙されてほどなく他界した。
伝手もなく言葉も不自由な透太を、この娼館の主人は「日本人相手の商売だから」と奉公人として迎え入れてくれた。なのに自分はこの理不尽と思われる襲撃に立ち向かうこともなく、脅えながら隠れるしかない。
弱いものは、誰かを恨む資格すらない。生まれ落ちた時代の悪さと自分の不運を嘆くしかないのだ。
「ガキと女は殺すな、尚武の言いつけだ!」
台所のドアの向こうから、よく通る声が叫んでいる。
尚武? 日本人? ここいらの馬賊じゃないのか?
そう考えた刹那、台所のドアが蹴り破られた。走り込んでくる複数の足音がすぐ傍まで近付く。
蹲っていた顔を、透太が思わず起こした時だった。
眉間にゴトンと、硬く冷えた鉄の感触が触れる。
心臓は急激に脈動を始めたのに対し、腹の底は冷え渡っていくようだった。
「ガキか。おい、誰か南冥を呼んでこい!」
透太から視線を外さず、細身のブローニングの銃身をあてたままで男が叫ぶ。その声に呼応して、仲間らしき男が身を翻して駆け出した。
恐怖のあまり限界まで見開いた目に映る襲撃者は、まるで女のように美しい男だった。
仲間を呼びに行ったらしい男も、台所に残る他の男も、皆一様に黒布を頭に巻いている。それがこいつらの一軍の証明であるはずなのに、目の前の男は薄桃色の髪の毛をひとつにまとめ上げているだけだ。
暗闇の中でもはっきりと分かる薄桃色の長髪に、大きな瞳を縁取る長い睫毛が印象的な整った顔立ち。少女のように愛らしいのに、その視線は鋭く強い。
娼館の女たちが祀る弁天様がもし戦えるとしたら、こんな風なんだろうか。
「起来、离开」
弁天様は、美しい顔によく似合う少し高い声だった。
現地訛りの言葉で、立って廊下へ出るように促される。抵抗の意思などないことを証すために両手を頭の位置まで掲げてから、透太は命じられるまま立ち上がり、よろめきながら台所を出た。
その時、廊下の向こう側からまた誰かが走ってきた。振り向きざまに弁天様が拳銃を頭上へ振りかざす。
──なんて当てずっぽうな位置を。
そう透太が無意識に考えた瞬間には、走り寄ってきていたはずの男がもんどり打って仰向けに倒れていく。暗がりに慣れた夜目で盗み見れば、娼館に雇われていた用心棒の男だった。
「好打!」
周囲の仲間らしき男たちが、弁天様を口々に褒めそやす。ブローニングを振り下ろしながら撃ち抜いたことは一目瞭然だった。当の本人は賞賛などおかまいなく、抜き身のブローニングを冷静に透太に向け直した。
撃発の反動と走り寄る相手の速度とを見定め、あの高さに発砲したということか。スラリとした細身ながら、片手で拳銃の反動をいなしてしまう膂力があるうえに、恐ろしいほど正確に狙える腕前の持ち主らしい。
こんな至近距離で狙われたなら、命はいくつあっても足りないだろう。拳銃のひとつも握ったことのない透太は、青ざめながらまた両手を掲げる。
「いたいた、華月! おまえ、また撃ったのかよ!」
威勢の良い声を張り上げながら、長身の男が廊下の奥から現れた。手にしている松明によって、周囲はやや見やすくなった。
「南冥」と周囲の男たちが反応する。先ほど仲間に呼びに行かせたのはこの男らしい。南冥は倒れている用心棒を跨いで弁天様に近づき、何やら文句を言い始めた。
「室内で撃つなって前から言ってんだろ。跳弾でうちの手下が死んだらどうしてくれんだよ」
「そんな間抜け、早く死んだ方がおまえのためにもなんだろ。殺す手間を省いてやってんだ、感謝してほしいくらいだっての」
華月の反論に、南冥は大きなため息をついた。
「……ったく、腕が悪けりゃ叩きだしてる」
「物わかりの悪い雇い主なんか、こっちから願い下げだ」
「ご主人様に言いつけんぜ? 躾がなってないって」
「あ? あいつは俺にクソ甘えから無駄だぞ」
先ほどの緊迫した命のやり取りはまるで嘘かのように、2人はケラケラと笑い始める。
見れば南冥は、肩に小銃を掛けていた。射程距離の短い室内の銃撃戦にはこちらの方が向かないだろうに、と他人事のように透太は考えていた。
「華月、そいつは?」
笑いをおさめた南冥と目が合って胸が跳ねた。
華月というのが、弁天様の名前なのだろう。口許を引き締めた華月も、こちらを薄く睨んできた。
「台所に隠れてた。奉公のガキだろ」
「[[rb:你叫什么名字? > なまえは]]」
「……いぬい、乾透太……」
「日本人かよ」
南冥はやや拍子抜けしたように肩を竦めた。その長身痩躯を折り曲げるように、透太の背の高さまで屈んで笑いかけてくる。
「坊主、ビビッたろ。俺は南冥。そんでこいつらは俺が雇ってる自警団だ。おまえが奉公人なら、事情は聞くが拘束はしない。ただし抵抗したら話は別。理解できるな、返事は?」
南冥の説明は、肯定以外の返答を許さない早さだった。
頷くほかはない。他にも同年代の奉公人がいるはずだが、一様に逃げてしまったらしい。逃亡先のあてすらない透太は、夜のせいだけでなく、目の前が真っ暗になる気がした。
南冥家といえばこの街の支配者だ。手広い商売によって街を豊かにする一方、剛腕の影響で黒い噂も絶えない。腕利きと言えば聞こえはいいが、実のところ地元のならずものを自警団として雇い入れていて、逆らえば五代先まで周辺での商売は難しい、とさえ囁かれている。その南冥のひとり息子が大層切れ者なのだと言う噂は、透太も知っていた。
つまり奉公先の娼館が南冥にとって目障りで、今日の襲撃に繋がっているらしい。助かったと思うべきなのか、もう大陸では生きていけないのか、その判断がつかない。
その時、かすかな呻き声が足元から聞こえた。先ほど撃ち抜かれたはずの用心棒にまだ息があったのだ。驚いた透太が、あっと小さく声を出したと同時に、ズドンと低い銃声が廊下に響いた。
「お前ら、油断しすぎだ」
苦々しげに言い放ち近づいてきたのは、闇夜でも目立つ銀の髪の毛を揺らす偉丈夫だった。
肉塊と化した用心棒に、更にもう一発容赦なく弾丸を撃つ。斜め掛けにされた弾帯が物々しく浮かび上がり、握られた大型モーゼルも小さく見えるほどの大きな体躯だった。映画スタアと言われても遜色ないほどの男前で精悍な顔立ちが、まっすぐこちらを見ていた。
「尚武! 無事だったか」
その姿を認めて、華月が嬉しげに声をあげて近寄った。
「誰に聞いてんだ。華月、撃ってすぐに背中向けてんじゃねえ。おまえの尻にもうひとつ穴が空くぞ」
そう言って、尚武が華月の腰を慣れた手つきでスルリと撫でる。息を呑んでやや身を固くした華月を見ながら、傍で聞いていた南冥がニヤニヤと笑う。
「おー華月、よかったな。もうひとつの穴もよろしく可愛がってもらえよ」
「羨ましいならそう言えよ、南冥。ま、おまえじゃ尚武を満足させられねえだろうけど」
尚武と呼ばれた男の肩に、華月が顎を乗せて艶やかに微笑む。「この色ぼけ」と華月を詰ってから、南冥は尚武に向かって首尾を尋ねた。
尚武は長靴の先で用心棒のモーゼルに軽く触れてから拾い上げ、弾倉を外しながら答えた。
「ここの主人と家族は殺った。あとは女と……そこのガキぐらいだな」
低く冷徹な声色は、廊下の静寂すらも制圧するようだった。華月も南冥も押し黙っている。透太は自分の命がいままさに値踏みされているのを肌で感じていた。
「尚武。奉公のガキは行く当てがないんなら、うちで使うつもりだ」
切れ長の目を鋭く細めて、南冥が付け加えた。奉公人は拘束しない、と言ったことに嘘はないのだろう。
命が助かる。なのに透太は、素直に喜ぶ気分になれなかった。
自警団とは名ばかりで、こいつらはならずもののひと殺しだ。その一味に入ることが、ひととして正しいとどうしても思えなかった。
娼館の主人は、確かに良い人とは言いがたかった。寝ているところを叩き起こされ、理不尽に怒鳴られたこともあった。だが少なくとも、透太は彼のおかげで生き延びてきた。粗末ではあっても食事と寝床と、雑用であっても仕事を与えられた。そして、主人には透太と同い年の娘もいた。その娘にまで、殺されるほどの非があるとは到底考えられない。
──もう喪うものは命以外にない。何も怖くない。だから、この外道たちにひとこと言ってやりたい。それが主人一家への恩に報いることになるとは思えないが、せめてもの餞になるのなら。
幼い正義感を、手のひらに強く握り締める。
透太はこの夜、初めてまともにくちを開いた。
「……ひと殺しの手下にはならない」
自分よりも大きな男たちに囲まれて、声が震えてしまう。
挫けるな、胸を張れ。例え死んだって、正しいことを選ぶために。
自分を叱咤して、透太はきっかりと尚武を睨みつけた。
「オレは、ここの主人に恩返しも出来てない。あんたたちが殺したからだ」
通り抜ける夜風の冷たさに、唇はわななく。
それが怯懦から来るものか、怒りから来るものかは分からなかった。
それでも、子どもにだって、簡単にひとを殺すことが道を外れた行いであることくらい分かる。お天道様が見ていない夜でも、その道理がひっくり返るわけはないのだ。
「クソガキ、立場分かってんのか」
華月が背に帯びていた刀に手を掛ける。弾薬が尽きたあと、白兵戦になれば使用するものだろう。腰を割って今にも抜きそうなその肩に、尚武が手を置いた。
「華月、やめろ。殺るのは簡単だ」
制された華月はちらりと透太をひと睨みして、手を刀から離す。それを見届けて、尚武が透太を静かな眼差しで見遣った。
「おい坊主。受けた恩義を返せなかったのは俺のせいじゃない。おまえが弱いから、隠れてるしかなかったんだろ」
その指摘は、胸を刺した。透太はぐっと息を呑む。
尚武は落ち着き払っている。真実を暴くその声は、闇に溶けてしまいそうなほどに低く強い。
「ひとを殺すのは確かに外道だ。だが隠れてても何も変わんねえだろ。他人をひとでなしだと説教する前に、自分の命くらい守れるようになれ。おまえはまだ生きてんだろ」
「命なんて惜しくない! 親も死んだし、行くあてもねえ。偉い奴と違って、オレはもういつ死んだって一緒なんだから、別に命なんていらねえ」
勢いだけで口答えしたせいだろうか。透太は、うすら寒い悪寒が背中に走るのを感じた。
自分の身の上が急に不憫に思えた。それはきっと、命なんて、と馬鹿にしたからに違いなかった。親に与えられ、娼館の主人に繋いでもらったこの命を。
勢いは尻すぼみになった。心細さに思わず俯いてしまう。
「顔上げろ」
尚武がぶっきらぼうに呟いた。
「命はひとつしかねえよ。偉い奴にも、くされ外道にもな。ひとつしかねえもんに上下があるわけないだろ。粗末にだけはすんじゃねえ」
そう言って尚武は、用心棒が持っていたモーゼルをひょいと透太に投げてきた。慌てて受け取れば、ずっしりとしたその重さに、思わず腰が引けそうになる。
手元のそれより遥かに重そうな大型のモーゼルを、尚武はいとも簡単そうに提げている。弾倉を外したとはいえ、透太など相手にならない。そう見抜かれていることは明白だ。
尚武は話は終わったとばかりに、振り返り背を向けて廊下を歩み出した。周囲の男たちも、ガヤガヤとその背に従って追いかけていく。襲撃は終わったらしく、どの背中にも安堵感が漂っていた。
松明の炎に浮かぶ尚武の背中を、透太は黙って見つめた。
殺すか殺されるかの修羅場を潜ってきたらしいその立派な体躯と、ひとでなしと詰るには凛々しく清廉な面差し。尚武には、命がけという言葉があまりにも馴染んでいる。
いらないと粗雑に扱いかけた己の命を、そんな男に助けてもらったのだ。
残っていた南冥が、透太の肩をぽん、と気安く叩いた。
「透太。おまえ、尚武や華月がどうして頭に黒布巻かないのか分かるか。あいつらはこんな稼業のくせに、的になる気なんだと。ふたりとも目立つからいいんだって、うちの自警団に来た時から言ってんだぜ」
南冥に促されるまま、視線をふたりに向ける。闇夜にも明るいそれぞれの髪色が、やたら眩しく見えるのが不思議だった。
ひとの道に外れると理解しながらもその生き方を変えるつもりはない覚悟の深さが、ふたりの輪郭をより際立たせていた。
「でも、あいつらは死なない。強いからな。おまえがちゃんと生き延びるって約束すんなら、おまえのことも死なない程度に強くしてやるよ」
そう優しげに呟いた南冥が「ほらこっちに来い」と踵を返しながら笑いかけてくれた。
殺るのは簡単だと、そう言った尚武の一抹の寂寥感を滲ませた表情を思い出す。
過去に何があったのか知る由もない。だが死ぬ理由を探すよりも、生きる理由を探すことのほうが難しいと、あの鋼のように強い男は考えているのかもしれなかった。
殺そうと思えば簡単に殺せたはずの自分に、あまつさえ己の命を守れと諭す。
それはひどく不器用で、優しい言葉だった。
噛み締めた唇が痛くて、じわりと涙が溢れそうになる。
親が死んだ時、泣かないと誓ったのに。
手首で乱暴に拭ってから南冥の背中について廊下を歩めば、からりと笑って華月が肩を組んできた。
「俺らのとこに来るか、透太。尚武にビビんねえで言い返すなんておまえ見込みあんじゃん」
先ほどまで尚武の腕やらに巻きついていたのを見ると、男同士だけど良い仲なのだろう。それなのに透太を迎え入れるつもりがあることに混乱し、顔をしかめて答えた。
「……勝手に決めんなよ」
「はは。おまえはさっき命なんかいらねえっつったろ。誰かがいらねえって捨てたもんを俺が拾って何が悪い。さあ決まりだな。なあいいだろ、尚武」
こいつはこいつで話を聞くつもりはないらしい。その振る舞いに慣れているのか、華月の大声に尚武はひとつ頷いただけだった。
「うちに飯と酒を用意してある! 帰るぞ!」
南冥のひと声で、地鳴りのような男たちの歓声があがる。華月に肩を押されて、透太も渋々従った。
それが尚武たちと透太の、出会いの一夜だった。