2.バカみたい
「さみー……」
吐き出した煙が、ぼんやりと街灯に溶けて消えていく。3月だというのに、春の気配なんてどこにもない。ただ冷たい風が首元を撫でて、背中を小さく震わせた。
(……早く、犀川さん上がんねぇかな)
スマホを取り出して何となく画面を眺める。いつもなら意味もなくSNSをみたり、ショート動画で時間を潰すけど、今日はやけに指が止まる、なんだかそんな気分じゃなかった。そんな時、不意にピロン、と通知が鳴った。
画面には「西条穂花」の名前。大学の女子で1番仲が良い子だ。
(こんな時間に……?)
珍しいな思いながらメッセージを開くと、1枚の写真と短い文章。
『これ、ゆっきーの元カノじゃない?』
一瞬、側から見ても分かるくらい体が強張った。
胸の奥が、ズンと沈む感覚。見慣れたその顔。忘れるわけがない。ああ、間違いない。元カノ、朱莉だった。隣に写るのは、見たこともない高身長のイケメン。2人で笑って飲んでいた。なぜかそれはとても自然で、俺が横にいるより納得感があった。
指が少し震えながら、『あー、うん。これ朱莉だわ』とだけ返した。
深く、長く息を吐いて、電子タバコを口にくわえる。無意識に項垂れると、視界がぼやけて遠くなった。
効くな。これは、思ったよりずっと。
2年近く。いったい何をしてきたんだろう。自分でも呆れるくらい、あの人に尽くしてきたと思う。友達にも散々言われた。「お前、それただの都合のいいやつじゃね?」って。でも、それでよかった。本当に大好きだったから、なんでもしてあげたかった。
元々は、犀川さんとももっと連絡を取ってた。でも、朱莉が嫌がったから距離を置いた。何もかも、優先してた。
…まぁその結果がこれだけどな
無意識にもう一度、スマホの画面を見てしまう。写真の朱莉は、俺が知っている笑顔のままだった。こんな状況でも可愛いと思う自分に嫌気がさすが、懐かしいようで、もうまるで別人のようにも見えることに辛くなった。
(……もう、俺には向けられない顔なんだな)
寒さとは別のものが胸を締め付ける。喉の奥がじわっと熱くなって、目頭も熱くなる。ああ泣きそうだって自分でわかる。
(やべ……絶対、犀川さんに見られたら笑われるやつだわ)
必死にごまかすみたいに深呼吸して、穂花からの追いメッセージを見て、なるべく普通の言葉で返信する。ありがとうって、感謝だけは忘れずに。
スマホをポケットにしまうと、もう一度だけ夜空を見上げた。
「……はー、つら」
誰もいないはずなのに、つい口からこぼれる。
「俺の2年間、なんだったんだよ……」
乾いた声が、冷たい夜に吸い込まれていった。
「……俺より優先したいことができた、って……」
笑っちゃう。そんな言葉、最後にぶつけられて、まだ納得できるわけがない。
俺は、恋人が全てになるタイプの人間だ。自分のことなんて、どうでもいい。家庭環境のせいもあるだろうが、自分のために生きる意味がわからない。誰かのためじゃなきゃ頑張れない。
「……バカみたいだな、俺」
また一つ煙を吐いて、夜空を見つめる。街はまだざわついているけど、自分だけが取り残されてるみたいだった。
なんとか気持ちに折り合いをつけ涙が引っ込んだ。
「お待た〜って、なに一人で黄昏てんの」
不意に背後から声がして、ビクッと肩が跳ねた。振り返ると、犀川さんが制服の上にパーカーを羽織り、コンビニの裏口から出てきていた。
「……別に。普通にタバコ吸ってただけですけど」
できるだけ素っ気なく返す。さっきまで込み上げていた感情を悟られたくなくて、わざとぶっきらぼうな態度を取った。
「ふーん?」
犀川さんは俺をじっと見たまま、にやりとも微笑みもしないで近づいてきた。そのまま、何も言わずに隣に並ぶ。
「……寒いね」
さっきまでの騒がしさが嘘みたいに静かに、ぽつりとそう言った。犀川さんの煙草をくわえて、火をつける音だけが夜に響く。
俺も黙って空を見上げた。街灯がまぶしくて、星なんか一つも見えなかった。
「行くか」
少し間をおいて、犀川さんがそう言った。
「はい」
2人で歩き出す。夜道は酔っぱらいの声が遠く響くだけで、やっぱりどこか静かだった。何も話さず、足音だけが響く。
「さっきさ」
しばらくして、犀川さんがぽつりと口を開いた。
「なんか連絡きてたん?」
俺は一瞬ドキッとしたけど、誤魔化すのも無理だと思って、うつむいたまま「まぁ」とだけ答えた。
「…見ました?」
「なんにもー。でもまぁなんとなく」
「そっすか」
それきり、また沈黙が落ちた。
でも、不思議とそれが嫌じゃなかった。犀川さんは何も言わないけど、少し人より歩くのが早い俺に、隣で同じ歩幅で歩いてくれてる。その静かさと、知ってくれていることが今はちょっとだけありがたかった。
「…飲んで忘れな。」
犀川さんのアパートが見え始めたところで、犀川さんが小さな声でそう言った。
「そうします、笑」
顔を見ずに力無く笑う俺に、犀川さんはいつもより優しい笑顔を向けてくれていた。
その笑顔にまた少しだけ泣きそうになった。