逃げてください
馬車を降りて、かれこれ1時間は歩いている。どれだけ広い屋敷なんだ?それとも、経路が分からないように、わざと遠回りをしているのか?
その間、セバスは必要な事以外口を開かなかった。しかし意外にも「階段です」「足元に注意してください」「疲れていませんか」と親切に対応してくれる。乱暴な事は全くされなかった。
いつまで歩くのかは分からないが、言う事を聞いていれば逃げ出すチャンスはありそうだ。例えそれが無理だとしても、もしかしたらここでは割と良い生活ができるのかもしれない。
どこに向かってるのか聞こうとした時、セバスに止まるよう指示された。
「袋を外してください」
目的地に着いたようだ。どんな所かは分からないが、きっと牢屋よりはマシだろう。恐る恐る頭に被せてある布袋を外した。
「ようこそ我が屋敷へ」
俺は自分の目を疑った。目の前には、なんと、ヒトツメが立っていた。隣には無表情のセバスがいる。
「お前はっ!!」
「ここまでの道のりで様々な事を考えたことでしょう。逃げるチャンスがあるかもしれない。奴隷にしては良い生活が送れるのかもしれない」
「……くっ」
自然と口角が上がり、引き攣った笑顔になる。絶望の表情はヒトツメに奪われてしまい、自ずと笑顔になってしまう。
「図星のようですね。さて……貴方はここで死にます」
「死ぬ……?」
何を言ってるんだ?
「貴方にチャンスは微塵も無いんですよ」
ヒトツメは後ろの鉄格子を開けた。
「中に入ってください」
執事のセバスにそう言われた。
鉄格子の奥は、体育館のようにだだっ広い部屋だ。床には何かの血が付着している。そして鼻が曲がるほどの異臭がする。ここはヤバイ。自然と後退りをしていた。
「ぐあっ!」
胸に激痛が走った。下がってはダメだ。早く中に入らないと!命令に従うのは癪だが、胸を押さえて鉄格子を潜った。
「さて……貴方には少々協力して頂きたいことがあります」
「どうせ碌でもないことだろ!」
「とんでもない!実はですね。私の可愛いペットの餌になってもらいます」
「餌!?」
「モンスターの死肉も良いんですが、そろそろ人間の味を覚えさせたいんですよ。生きた人間のねぇ」
ヒトツメが壁のレバーを上げたのと同時に、最奥の鉄格子が上がった。
何かがいる!それはゆっくりと姿を現した。
地響きと共に巨大なトカゲが顔を出した。
『グオオオオオオン!!』
「ド、ドラゴン!?」
「ちょっと違います。ファントムドラゴンのファンちゃんです」
「違わない!出してくれ!!早く!ここを開けてくれ!!」
鉄格子にしがみ付き懇願する。
「ヒャハハハ!その顔!想像以上です!ヒャハ!鍵は開いてますよ」
鉄格子は簡単に開いた。
「ただし……セバス!」
「はい。こちらには来ないでください」
「だそうです。ヒャハハハハ!」
「ふざけるな!!」
『グオオオオオオォォォン!!』
来た!マズイ!
「そこにある武器はご自由にお使いください」
壁に目をやると、剣、斧、ハンマー、槍、杖、弓その他にも様々な武器が設置されている。どれを使っても勝てないのは分かっている。しかし足掻いてやる。ヒトツメの思い通りにはならない。この中で俺にも使えそうなのは剣だ!
「くっ!外れないぞ!」
壁に設置された剣はピクリとも動かない。
「失礼しました。それは全て飾り物ですので外れません」
「嘘だろ……」
『グオォォン!!』
「ひっ!」
「ヒャハハハハハ!!嗚呼……良い!餌にするには勿体無い!その表情は最高の恐怖ですねぇ〜。ヒャハッ!」
ヒトツメは上体を仰け反り高らかに笑っている。そして指を鳴らした。
「頂きます!ロブ」
まただ。今度は恐怖の表情がヌルリと剥がれヒトツメに奪われた。
「1人から2つの表情を頂いたのは貴方が初めてですよ。絶望。恐怖。ヒャハッ!私はもうお腹いっぱいです。次はドラちゃんを満足させてくださいね」
この野郎……結局ヒトツメの思い通りになってしまった……もう……ダメだ……。
「おや?その顔。ここでその顔は頂けませんねぇ。逃げ回ってファンちゃんを満足させないと。セバス!」
笑顔が引き攣る。奪われた絶望か恐怖か……どちらにしても、あんなのを相手に出来るはずがない。
「逃げてください」
「ほら!聞きましたか?走って!早くしないとファンちゃんの餌になる前に死んじゃいますよ。ちなみにファンちゃんは1歳の雌です」
「だからなんだ!ぐあっ!!!」
奴隷の烙印が仄暗く光り、胸に激痛が走る。逃げろだって?もう立つ気力も無い。
倒れそうになるのを、壁の槍に手をかけて必死にこらえ……お?外れた。槍が外れたぞ。
「おや?セバス」
「申し訳ありません。整備の際、ロックを忘れたのかと」
「まあ、良いでしょう。彼の目に光が戻りました。あの光が消えるのをまた見れるのですから。最後まで楽しませてくれますねぇ〜!足掻く準備は出来ましたか?Are you ready?ヒャハハハハハハッ!」
「くそっ!」
ファントムドラゴンがドカドカと迫り来る。壁沿いに走って逃げるが距離は縮まる一方だ。運動不足がここでも足を引っ張る。逃げるのは無理だ。覚悟を決めて部屋の角で槍を構えた。
『グオオオオン!』
カバのように口を開け、地面を削りながら向かって来る。下顎から生える二本の長い牙が光る。俺を丸呑みにするつもりだ。だが、同時に口の中が丸見えだ。チャンス!そこに槍を投げ込んでやる。投てきをしようと槍を勢い良く引いた。
「しまった!」
槍は背後の壁に当たって地面に落ちた。最悪だ。ヒトツメの笑い声が聞こえる。
「終わった……」
ファントムドラゴンの巨大な顎は目前だ。笑顔が引き攣る。
『グォォォン!』
『ドォーン!』
激しい衝撃音と同時に砂煙が巻き上がった。
「……ん?」
生きてる……無傷だ……どうして……?
顔を上げると、ファントムドラゴンの牙が壁に刺さっている。身動きが取れないようだ。助かった。口を開閉するが、角にいる俺には紙一重で届かない。命拾いをした。足元の槍を拾い、口の中に投げる。
「これでも喰らえ!」
しかし、手から離れた槍は、真上に飛んで行った。
「しまった!」
ヒトツメの高笑いが聞こえる。
しかし、手をすっぽ抜けた槍が落下した先は、ファントムドラゴンの右目だった。
『グォォォォォォン!!!』
槍は右目に突き刺さった。
「ファンちゃん!!」
今しかない!牙の隙間から抜け出し、ファントムドラゴンが出てきた部屋に向かって走った。しかし鉄格子が閉まり始めた。振り向くと、ヒトツメとセバスがこちらを見て何かを叫んでいる。だが、ファントムドラゴンの悲鳴がうるさくて聞こえない。命令は聞こえなければ従う必要がないみたいだ。僥倖!逃げろという命令がまだ生きてる。
目の前で鉄格子が閉まってしまった。そして閉められた鉄格子は分厚く太い。ファントムドラゴンを閉じ込める為の強固な鉄格子だ。だがそれも僥倖!間隔が広くて隙間から入ることができた。
「ハァハァ。どこかに出口は無いか!」
足元には何かの骨が転がっている。頭蓋骨の形は異形。人間じゃないみたいだ。
ふと、頬を緩い風が撫でた。
「風……あれは!」
穴が2箇所開いている。通風口だろうか。どちらも大きさは問題ない。匍匐前進で進めそうだ。
「外に繋がってるはずだ!」
それに賭けるしかない。どっちの風穴に行くべきか。やはり風が来る方が確実に地上と繋がっているはず!だがもし出口が強固な鉄格子等で塞がれていたらアウトだ。
「どうする……」
思案していると、重厚な音を立て背後の鉄格子が上がった。嫌な予感がする。中を覗くと、右目に槍が刺さったままの怒り狂うファントムドラゴンが向かって来ている。壁から抜け出したみたいだ。グダグダ考えてる暇はない。何が何でも生きて脱出してやる!
「一か八か、風穴を行くしかない!」
『グオオオオオ……オオン』
一瞬音が途切れた。ファントムドラゴンにノイズが走る。
「これは……見た事がある。まさか!」
『ミツケタ』
背後から声がした。
「この声は魔王ヴァイラス!」
振り向くと風穴の前に漆黒の球が浮いている。女神アンジュが吸い込まれたブラックホールのような球だ!
「こうなったらもう一つの穴に……」
体の向きを変えた途端、ブラックホールが目の前に瞬間移動した。
これじゃあ身動きが取れない。どちらの風穴にも入れない。
「どうして!?ここまで来たのに!!」
そもそも俺は見つからないんじゃなかったのか?女神に、ヴァイラスの目から逃れるスキルを貰って……。
「そうか。この手枷が、そのスキルも封じているのか……そんな……」
涙が頬を伝う。ヒトツメが見たら歓喜していただろう。自分がどんな顔をしているのかが分かる。
でもどうすることもできない。目の前には魔王ヴァイラス。後ろからファントムドラゴン。完全に詰みだ。ここまで来て……。
『グオオ……オオ……オォォン!!』
ノイズ混じりのファントムドラゴンに食われる寸前で、俺の体は球体に吸い込まれた。ファントムドラゴンは再び壁に喰らい付いた。