第七章 犯人の要求
初めて犯人の要求を書いた手紙が都知事宛に届いた。
手紙には「古い紙幣で二十億円用意しろ」と書いてあった。
はたして都知事はこの要求を呑むのか?
犯人はこの大量の紙幣をどのようにして奪い取るのか?
[1]都民の動揺
毒入りのペットボトルがスーパーの棚に置かれ、「東京都の水道水」が全ての店舗から撤去されて以後、犯人の動きは止まった。
世間では「怪人21面相」が「次にどんな方法で水道に毒物を混入するのか。」「犯人は何を要求しているのか。」と言うことが話題の中心になっていた。
人の生活に水は欠かせないので、水道の水を利用はしていたが、皆恐る恐る使用していた。
そのうちに「自動販売機の飲み物には細工が出来ないので安全だ。」と言うものが出始めて、自動販売機の売り上げが増加して、その反動でスーパーやコンビニの売り上げが落ち込んだ。
また飲食店でも奇妙な現象が見られた。
先客の居る店では「この店は先客が水を飲んでいるので安心だ。」と考えた客が次々と入って来るが、先客の居ない店では「この店は安心出来ないな。」と敬遠されるのであった。
事務所で女性社員が入れてくれたお茶を飲む時でも、誰かが先に飲んだのを確認してから、口をつける者も現れる始末である。
中には自分の家で入れたお茶を、魔法瓶に入れて持ってくる社員もいた。
その時に使う水は、自動販売機で購入したものを使用していた。
人間の心理とは、こうした微妙な安心感で自分自身を納得させているものである。
スーパーやコンビ二では事件発生以後、防犯カメラの台数を増やしたり、そのテレビ画面を常時確認する係りを増員して対処していた。
その為に、万引き犯人の検挙数が増加するという効果が現れた。
お陰で、万引きに対応する警備員、店長、そして最寄りの交番の巡査などの仕事量は増加したのであった。
都内には多くの学校が有る。
ここには常に多くの人が集まる。
学校の関係者も、今回の事件の被害者と言える。
ここにも給水施設が有り、各校とも警戒を強め、昼間の授業中は門扉を閉め、訪問者に対してはインターホン等で対応した後に、学校の敷地内に入れていた。
更に夜間のパトロールを強化する為に、宿直の人員を増やして、交代で警備を行っていた。
この緊張状態がいつまで続くのかは、誰にも解らない。
生徒や学生の中に腹痛を訴えるものが出ると、大騒ぎになったりするので、症状を確認したり、生徒を静まらせたりしなければならない。
教職員にとっては、通常の業務に加えての仕事で有ったので、精神的に疲弊するものが出てきた。
各校からの混迷の解決方法の要望に対して都の教育委員会は、今回の事件の対応策や指導法を纏めて、各校に配布した。
その中には、青酸性毒物を服用した時の特徴や対処方法などが、こと細かく指示されていた。
この様に、都内の施設で人が多く集まる施設では、いずれも同じような混乱が起きていたのである。
[2]犯人からの要求
人々の動揺の続く最中の5日金曜日に、都知事宛に犯人からの要求を記した手紙が届いた。
手紙には「9日までに古い札で20億円用意しろ。用意出来たら10日の東京中央新聞の朝刊に、都の水道は安全だと広告を出せ。その後でまた連絡する。言う通りにせなんだら毒入れるで。『怪人21面相』」と書いてあった。
知事はこの事を直ちに警視庁に連絡させた。
庁内で会議をする前に、警視庁の意向を確認したかったのである。
連絡を受けた警視庁では幹部会議を開いたが、「金を用意するかどうかを決めるのは東京都だが、犯人を逮捕出来るのは金の引渡しの時しかない。」との結論を出し、その旨を知事に伝えた。
この警視庁からの返事を受けてから、知事は幹部会を開いた。
最初に知事室長の大野が「本日『怪人21面相』を名乗る犯人から20億円を要求する手紙が届きました。」と手紙の全文を読み上げた。
「この要求通りにするべきかどうかをご検討下さい。」と一同に告げて着席した。
続いて知事の合田が、椅子に座ったままで、「この金は都民から預かっている税金です。」
「我々の一存で使って良いものかどうかは、皆さんの中でも意見は異なってくると思います。」
「しかしながら、今都民は非常に混乱しています。」
「一刻も早く事件を解決して、平穏な日々を取り戻すのが我々の使命だと考えるのですが。」と一呼吸入れた後で、「警視庁からも、犯人を逮捕する一番の好機は、金の受け渡し時なので、出来れば犯人の要求通りにして欲しいとの意向を受けております。」
「その上で皆さんのご意見を伺いたいと思います。」と合田は締めくくった。
暫くの沈黙の後で、総務局長の小山田が「警察は必ず犯人を逮捕出来るのでしょうか?」
「万一失敗して金を取られた時、税金を無駄使いしたとして、都民から追及されるのでは有りませんか?」
「その時には誰かが責任を取らなければなりません。」と知事の方を向いて発言した。
知事は「警察は、警察庁と協議して万全の体制で臨むと約束してくれました。」
「万一犯人を取り逃して、金を取られた場合の全責任は、都の最高責任者である私に有ると考えています。」
「これ以上犠牲者を出す訳にはいきません。」
「最善を尽くせば、都民の多くは納得してくれるものと信じています。」と合田は意思の固い事を全出席者に表明した。
その後は反論するものも無く、この件については知事室内で全て対応するとの結論が出て会議は終わった。
直ちに東京都民銀行の頭取に要請して、遅くとも9日までに古い札で20億円を用意するように頼んだ。
知事室勤務の大場が、都民銀行との接触を命じられた。
20億円の札は紙だが、全て一万円札にしても重量は約200キロになる。
銀行で使われているジュラルミンのケースには3億円入る。
それを利用しても7ケースは必要だ。
犯人はなぜ、7ケースに収まる21億円にしなかったのだろう。
犯人はこの様に大量で重いものを、どのような方法で受け取るのか?
誘拐犯のように人質は取っていないから、警察は犯人と思える人物を直ぐに逮捕出来る。
犯人は金を受け取ってから、どのようにして逃走しようと考えているのだろうか?
[3]加藤家の団欒
7日の午前11時50分頃、直子は東横線の新丸子駅で大場と待ち合わせをしていた。
この日は、大場が初めて加藤家を訪問する約束の日であった。
大場は、新丸子駅で直子と落ち合い、加藤家に向った。
加藤家は駅から徒歩10分ほどの住宅地の中にあった。
こじんまりとした家であったが、加藤家の親子4人が暮らすには充分な広さがあった。
家では母親の洋子が、今朝早くから昼食の準備をしていた。
父親の高志は8時頃に起床して、朝食を食べてから10時頃までは新聞を読み、その後テレビを見ていたが落ち着かず、立ったり座ったりして時間を潰していた。
この日は弟の正志も家にいて、一緒に昼食を採ることになっていた。
正志は11時頃に起きてきて、やっと12時前に寝巻きを脱いで服を着替えた。
12時頃に直子が大場を連れて家に帰ってきた。
ソファーを置いてある居間に案内して、「大場さんです。」と最初に父の高志と弟の正志に紹介した。
洋子は手早く全員分のお茶を入れて、ソファーの間のテーブルに並べてから大場に挨拶をした。
大場は緊張しながら、「大場健一です。宜しくお願いします。」と全員に挨拶した。
高志が、大場の緊張を解すように、「大したお持て成しは出来ませんので、気楽にしてください。」と声を掛けた。
10分ほどは高志と大場が世間話をして、その間に大場の緊張も解けてきたようであった。
直子は台所に行って、食堂のテーブルの上に食事の準備をしていた。
洋子が「食事の支度が出来ましたので、こちらへどうぞ。」と台所から声をかけた。
居間にいた男3人が台所に来て、昼食が始まった。
洋子が冷蔵庫からビール2本を取り出して、一本は高志の前に置き、もう一本は直子の前に置いた。
高志がそれを取り上げて、大場の方にビンを差し出して「まあ一杯どうぞ。」と促した。
大場がグラスを取り上げて「戴きます。」とビールを受けた。
直子は父のグラスにビールを注ぎ、自分はウーロン茶をグラスに注いだ。
正志はビールを、洋子はウーロン茶をそれぞれのグラスに注いだ。
高志が「宜しくお願いします。」とグラスを持ち上げた。
全員が「宜しくお願いします。」と言って、それぞれグラスに口を付けた。
食事のメニューは大皿に盛った海老ちり、八宝菜、パスタを入れた野菜サラダ、鶏のから揚げだった。
これらは直子からの情報で、大場の好みのメニューで有るのを聞いた洋子が、朝から準備した。
直子はサラダを作った。
直子は大皿から、大場と自分の為に二枚の小皿に海老ちりを取って、一枚を大場の前に置いた。
大場は「ありがとう。」と言いながら、「戴きます。」と海老の一匹を口に入れた。
洋子が「お口に合いますでしょうか?」と聞きながら、自分は八宝菜を小皿に入れて大場の前に置いた。
大場は「とても美味しいです。」と言ってビールを口に運んだ。
高志が大場の両親の事を質問したり、自分の仕事の説明をしながら食事を進めた。
この中で、当然例の事件の話が出てきた。
高志は今でも毎日、あちこちの施設の安全管理に走り廻っている。
大場は、犯人からの要求についての具体的な話は出来なかったが、それでも世間話として、高志の話し相手を勤めていた。
二時間ほど話をして、最後に大場は加藤家の人々に「直子さんと、結婚を前提としたお付き合いをさせてください。」と意を決して申し込んだ。
高志と洋子は「こちらこそ宜しくお願いします。」と声を揃えて答えた。
こうしてこの日の昼食会は和気あいあいの内に終わった。
直子は新丸子駅まで大場を送り、うきうきとして家に向った。




