第六章 犯行声明
暫くの間は何事も無く、平穏な日々が続いた。
だが、ついに「怪人21面相」は目を覚まして動き始めた。
犯行予告通り、水道に毒物を混入したのである。
平穏な日は長くは続かなかったのである。
再び人々は、恐怖に怯える日々を迎えたのである。
[1]平穏な日々
その後、「怪人21面相」の動きは全く無かった。
人々は「やっぱり、あれは悪戯だったのだ。」と話し合い、自分を納得させていた。
直子と大場もその後何度か会って、その度に話題にした。
2月最後の日曜日に、直子と大場は渋谷のいつもの喫茶店の指定席に座って話し合っていた。
「もう二週間にもなるけど、何も起こらないわね。」
「やっぱり悪戯だったのかしら?」と直子はコーヒーを飲みながら話しかけた。
「でもまだ二週間しか経っていないとも言えるんじゃあないかな。」
「犯人が本当の『怪人21面相』だったら、今まで30年間も潜んでいたのだから、まだ安心は出来ないよ。」と大場は直子の言葉を否定するように答えた。
「父も最近はやっと落ち着いたみたいで、早く家に帰ってくるようになって、今日はお休みが取れたようよ。」
「それは良かった。」
「一度お父さんにお会いして、僕たちの事をお願いしたいと思っているんだけど、いつ頃が良いかな?」と大場は突然話題を変えた。
「それって結婚のこと?」と直子は不意打ちをくらったように尋ねた。
直子も大場と結婚したいと考え、大場がそのつもりでいる事は感じていたが、直接プロポーズをされた訳ではない。
「勿論そうだよ。」
「君さえ良かったら、そのつもりでいて欲しいんだ。」と大場は直子の目を見つめながら答えた。
直子は大場からの突然のプロポーズに、頭に血が上ってきて、顔が火照るのを感じて、俯きながら「私で良ければ。」と短く答えるのが精一杯だった。
こうして、ここに幸せな一組のカップルが誕生したのであった。
この瞬間、二人の頭の中から『怪人21面相』の事は消滅した。
二人だけの話題に没頭して、その後1時間ほど喫茶店で過ごしたのち、二人は渋谷駅で別れた。
直子は電車に乗っている間もまだ興奮が収まらず、頬の火照りを感じていた。
家に着いてからも、今日の事を直ぐに両親に話したかったのであるが、食卓での他の話題に吊られて話せずにいた。
だが母の洋子が「直子、大場さんとお付き合いを始めて、もう1年近くに成るでしょう。」ときっかけを作ってくれた。
待っていましたとばかりに直子は「今日ね、大場さんがプロポーズしてくれたの。」と答えて、「それで、一度家に来たいのだって。」と嬉しそうに今日の出来事を話し始めた。
直子が話している間、両親は黙って聞いていた。
直子が話し終えると洋子が「そう、良かったわね。」とひとこと言って目じりを押さえた。
それを見て、直子の目も潤んできた。
父の高志が「今度の休みに、大場君に家に来てもらうと良いよ。」とワザと冷静を装って答えた。
加藤家に幸せなひと時が流れた。
三人の頭の中から「怪人21面相」の事は消え去っていた。
[2]食中毒事件発生
3月最初の出勤日に異変は起こった。
新宿の高層ビル群から少し西に離れた所にある、築後30年は経っていると思われる古びたビルに入居している事務所から、119番通報が消防庁の指令所に入った。
時刻は午前8時59分であった。
このビルは6階建てで、各フロアーごとに違う会社の、支店又は営業所が入居している。
各社とも、10名前後の社員が勤めている。
第1報は、本社が富山県に有る「富山水産株式会社」の東京支店の女子社員からのものであった。
「もしもし、救急車をお願いします。」と慌てた様子で電話を掛けてきた。」
「はい、こちら119番です。どうされましたか?」と指令所の係員が落ち着いた様子で尋ねた。
「大勢の人が食べたものを吐いて、苦しんでいるのです。」
「今、そこで何かを食べたのですか?」
「いいえ、ここでは何も食べていません。お茶を飲んだだけです。」
「あなたも飲んだのですか?」
「いいえ、私は飲んでいません。」
「何人の人が、苦しんでいますか?」
「6人が苦しんでいます。」
「解りました。そちらの住所を教えてください。」
「新宿区東中野3丁目×ー×、『東中野センタービル』の3階です。桜山キリスト教会の南です。」
「解りました。救急車を向わせますので、近くまで行きましたら手を上げて合図してください。」と応答して係員は電話を切った。
同じ頃、別の係員が同じビル内の別の会社からの電話を受けていた。
電話の内容は、同じ症状の病人が複数いるというものであった。
こうして、5分以内に同じビル内の6社全てから電話が掛かってきた。
直ちに近隣の消防署から数十台の救急車が出動したのである。
そして、消防庁から警視庁にもこの情報は連絡された。
警視庁からも十数台のパトカーを出動させた。
最初の救急車が現場に到着したのが、午前9時9分だったので、最初の電話が入ってから10分後には現場に着いた事になる。
ビルの前には、ここに入居している各社の社員と思われる人が18名立って、それぞれに話し合っていた。
中年の救急隊員が「大勢の人が嘔吐しているのですか?」と尋ねると、「私の所は6人です。」と年配の男が答えた。
それに続いて、銘々が「内は9人。」「私の所は5人。」と答えた。
6社の合計で38名が、嘔吐したり、頭痛、舌の痺れなどを訴えていると隊員に話した。
隊員が「何か異様な臭いはしませんでしたか?」と尋ねると、一人の女子社員が「そういえば、アーモンドのような匂いがしていたわ。」と答え、若い男性社員は「アンモニアのような匂いだったな。」と答えた。
ベテランらしいこの救急隊員は、「患者さん以外の人がビル内にいたら、直ぐに外に出るように伝えてください。但し皆さんは室内には入らないで、外から声を掛けてください。」と言って。
救急車の方に走っていった。
外に出ていた各社の社員の一人づつがビルに入っていって、3階以下の事務所の社員は階段を駆け上り、4階以上の社員はエレベーターで事務所に向った。
救急車に戻ったベテランの隊員は、無線で司令室に「青酸化合物による中毒の疑いが有ります。各車防毒マスクと中和剤の装備をお願いします。」と連絡した。
これに伴い、司令室は防毒マスクと中和剤を届ける手配をすると同時に、この事を警視庁に連絡した。
連絡を受けた警視庁では、直ちに捜査官と鑑識に出動命令を出し、現場の警備に更に20台のパトカーを出動させた。
この事件は直ちに警視総監にまで報告され, 更に都知事にも連絡されたのであった。
警視庁と東京都は直ちに広報車に依る広報活動を開始した。
主として、事件現場の近辺を中心に、「水道の水の使用をしないようにしてください。異様な匂いがするときには最寄の警察や都の水道局にご連絡下さい。」という内容をスピーカーで流しながら、パトロールを行った。
そして事件現場の付近一帯を、巡査と水道局の職員、保健所の職員が一軒づつ個別に尋ね歩いて、水道水の匂いを調べて歩いた。
午前中で付近一帯の検査が完了したが、他には異常は認められ無かった。
午後になって、水道水の使用許可が出てパトロールによる広報活動が行われた。
警察の調べで、今回の被害者は合計44名である事が解った。
いずれも致死量の10分の1以下の青酸化合物に依る中毒であり、全員が胃洗浄を受け、そのうち13名が入院したが2~3日で全員が退院できる程度の症状であった。
原因は、このビルの屋上の給水タンクに何者かが、青酸性の毒物を混入した事が解った。
このビルには屋外に非常階段が有り、屋上に登る事が出来る。
1回の階段入り口は通りから誰でも入る事が出来るが、屋上への入り口には鉄製のフェンスが有り、南京錠が掛けてある。
そして給水タンクの蓋にも南京錠が掛けられていたが、犯人はこの両方をヤスリようのもので切って、毒物を混入した事が解った。
おそらく犯人は前日の日曜日の人のいない時間帯に、犯行を行ったのではないかと推測された。
こうして「怪人21面相」の犯行は現実のものとなったのである。
[3]犯行声明
翌、3月2日、警視庁、都庁、マスコミ各社に「怪人21面相」を名乗る犯人から犯行声明が送られてきた。
その内容は「水道に毒入れたんはわしらや。水道の水飲んだら死ぬで。今回はチョッとだけ入れたった。
次はもっとようけ入れるで。入れるとこ何ぼでもあるけーの。」と5行に分けて印刷されていて、最後の行に「怪人21面相」と印刷されていた。
この報告を受けた、警視総監と都知事は直ちに面会し、対応策について協議したが最善策を見つける事が出来ない。
結局、広報車で「水道水の異常に気がついたら飲まずに、警察、もしくは都の水道局や保健所に連絡してください。」とパトロールに依る放送をして廻り、テレビや新聞でこの事を都民に周知させるとの結論を出したのみであった。
早速、マスコミ各社は事件の内容を報道し、都民に対しての注意を促した。
更に警察ならびに都の水道局職員、保健所職員を中心にして、受水施設や給水タンクの有るビルを訪ねて歩き、保安対策を立てるように要請した。
しかしながら、都内には数万棟のビルが有り、こちらは全て歩き廻るのにかなりの日数を必要とする。
廻り終える前に、再び犯行が行われる恐れもある。
しかしながら、これ以上の最善策は見つからない。
各職員は時間を惜しんで歩き回った。
犯行声明が送られてきたとの報告を受けた警視総監は、直ちに幹部会議を開き声明文の内容についての分析を各幹部に質した。
「文の中に『わしらや』と書いている所から、犯人は複数のグループに依る犯行だろうか?」と総監が質問すると、公安部長が「その可能性は高いと思われますが、今回の事件に関しては一人でも行う事は可能です。」と答えた。
さらに総監は「都内に給水設備の有るビルで、簡単に進入出来る所は何箇所位有るのだろう?」と独り言のように言って、警備部長の浅海の顔を見た。
浅海は「その数は全く掴めません。」、更に「犯人はこの方法以外の手を打ってくる事も考えられます。」と答えた。
総監が「他の方法とはどんな方法かね?」と尋ね返した。
「例えば、スーパーやコンビニで、『東京都の水道水』が売られています。」
「以前の、関西で起きた事件では食品会社の製品に毒物を混入しています。」
「ビルの警備を厳重にすれば、スーパーやコンビニの方が、毒物を混入し易いと考えられます。」
「事前に毒物を混入したペットボトルを、陳列棚に並べて置けばそれを買った人が被害者になる可能性が有ります。」
「兎に角、犯人は何をするか解りません。」
「我々は緻密にパトロールをして、不審人物を見つけるより他に方法は有りません。」と浅海は結論を述べた。
まさに警備部長の浅海が予想したように、二日後の4日に都内のスーパーの飲料水の陳列棚に、白い小さな紙に「この水、毒が入っとる。飲んだら死ぬで。『怪人21面相』」と印刷された「東京都の水道水」が置かれているのを買い物中の主婦が見つけて、レジの店員に渡した。
店員は直ぐに店長に連絡し、店長は電話で110番に通報すると共に本部にも連絡した。
通報を受けた警察は、直ちに係官をスーパーに急行させてペットボトルを受け取り、鑑識に廻した。
鑑識の検査に依り、中には致死量を超える青酸性の毒物が検出された。
ペットボトルや、それに張られていた紙からは何も手掛かりは無かった。
スーパーの防犯用のビデオカメラの映像も調べられたが、角度が悪く、それらしい人物の特定は出来なかった。
犯人はビデオカメラの位置も熟知していたようである。
この二回目の事件以後、都内のスーパーやコンビニから東京都の水道水のペットボトルは全て撤去された。
まさしく、三十数年前に起きた「怪人21面相」の事件の再現を思わせるものである。